Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵はどんな愚か者が紛れ込んで来るだろうか?

「ママ、今夜も綺麗な上に適度な翳りを漂わせて完璧。ハード・ボイルドないい女よ」
 と開口一番あたしを褒めてくれるのは探偵エンジェルだ。
「エンジェルにとっての最高の言葉、ハード・ボイルドの称号をありがとう」
 あたしはエンジェルにおしぼりを渡した。
 エンジェルはこの近くにある元坊主の探偵七尾が所長の七尾探偵社に勤める唯一の探偵所員だ。
 ハード・ボイルドな世界を夢見る少女だと思っていたがいつの間にか大学も卒業して探偵が本職になっている。
 エンジェルのためにカウンターに材料を並べる。
 チェリー・ブランデー
 コアントロー
 レモンジュース
 アンゴスチュラビターズ
 グラナデンシロップ
 そして、シェイカー

 カウベルが鳴った。
「待たせたな、エンジェル」
 入って来たのは、傭兵として鍛え上げられた屈強な身体に愛嬌のある顔をしたソルジャーだった。
 ソルジャーが太い唇をニヤリと曲げた。
「な、何ですって!ソルジャー。人聞きの悪いこと言わないで!」
 ソルジャーは気にせず、エンジェルの隣に平然と座った。
「待ち合わせだったのかい?」
 とあたしが言うとエンジェルは慌てて否定する。
「ママ、大きな勘違いよ。私がソルジャーと待ち合わせる意味が分からないわ」
 エンジェルは大きな目を更に大きく見開いて否定する。
「否定するとますます怪しまれるぜ。俺達、お似合いのカップルだと思うけどな」
「どの口が言っているの!?ソルジャー!」
「ドー」
 ソルジャーはドレミのドの音を出してエンジェルに顔を向けた。
 あたしは思わず噴き出してしまった。

「ママ、馬鹿はほっといて、いつものを下さい」
「はいよ」
 あたしはカウンターに並べた材料を氷を詰めたシェイカーに入れた。
シェイク。
 そしてカクテルグラスにエンジェル・ブラッドを注ぐ。真っ赤なのに透明に澄んだ色。天使の血液ならきっとこんな風に澄んでいるだろうとあたしがエンジェルの為に考えたカクテルだ。

「ほう、これが噂のエンジェル・ブラッドか?エンジェル専用のママのオリジナルだそうじゃないか?」
 エンジェルは嬉しそうに、そして自慢気に少し鼻を上げた。
「一口だけよ、ソルジャー」
 エンジェルがグラスを少しだけソルジャーの方に動かした。ちょっと意外だった。
 隣に腰掛けたソルジャーが言われた通り一口だけ口に含んだ。
「おう、爽やかな味だ」
「心が洗われたかしら?ソルジャー、天使の血液ならこんな風に真っ赤で、澄んでいると思わない?」
「そうだな。でもお前の血液なら一滴たりとも流させないがな」
 ソルジャーは不敵な笑みを浮かべた。
「ふうん、ソルジャー。私を口説いているわけ?無理もないけど。こんなキュートな女の子はアイドルくらいしか見たことがないと思うから」
 エンジェルは赤面ひとつせずに言ってのけた。
「アイドルの黒目の比率を知っているかしら?ソルジャー。一対二対一なの。そう、私と同じ。えっ?何故、アイドルにならなかったって?」
「いや、特には聞いてないけど」
「聞きなさいよ!探偵になるためよ。この世にある虚構を全て剥がすためにね」

 あたしはソルジャーのボトル、ワイルド・ターキーを用意した。ショット・グラスに注ぐ。
「普通ならその高慢ちきな態度に反感を抱くものだが、それを流してしまうものをお前は持っている」
 ソルジャーの目が優しくエンジェルを見つめる。
 エンジェルも少しは照れたのか、グラスを一息に空けた。
「美味しい。私のためのカクテル」
 エンジェルは満面の笑みを向けてくれた。
「エンジェルの純粋さが全てを許してしまうのさ。この街の愚か者達は皆がエンジェルの純真さに昔の自分を探すのさ」
「聴いたかしら、ソルジャー。ママのセリフはホント、ハード・ボイルド」
「ハード・ボイルドなら負けないぜ。喉を焼くバーボンで虚しさも飲み干すぜ」
 ソルジャーはバーボンを喉に放り込む様にしてグラスを空けてニヤリとエンジェルに笑って見せる。
「ハード・ボイルドなことをセリフで言ってしまってどうするのよ、ソルジャー。ト書きを読んでしまっている様なものじゃない」
 エンジェルはソルジャーを人差し指で小突きながら笑っている。
 本当は馬が合う二人なのだと思う。

♪ ピアノの音。
♪ 渇き

 絶望の中で必死にもがいて這い上がろうとした男が最後に作った曲。
 ソルジャーはこの曲の譜面をマリアに届けるために十数年降りに日本に帰って来た。それまでは海外で傭兵だった。
 この曲を作った柊という男はマリアが愛した幼馴染でソルジャーにとっては兄貴分だった。
 マリアの左手の薬指は動かない。柊の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてピアニストにとっては致命的な怪我を指に負った。
 柊は弟分のソルジャー達を逃がすために盾となって刺された。ソルジャーにこの曲の譜面を託して散って逝った。

「マリアさんにギムレットを。ママも好きなものを飲んでくれ」
 ソルジャーの奢りでマリアの為にギムレットを用意する。
 ミキシング・グラスにプリマス・ジンとローズのライムジュースをハーフ&ハーフで入れてステア。
 あたしが一番好きなクラシック・ギムレットだ。自分にはソルジャーのワイルド・ターキーをソーダで割らせてもらう。

「相変わらず、自分の分のギムレットは作らないのかい?ママ」
「あたしのためのギムレットは作らない」
「ママは冬木というバーテンダーが作ったギムレットしか飲まないの」
 と言ったエンジェルの頬が赤い。

「冬木というバーテンダーはママに拾われたやくざ者だって聞いたよ。この店を守るため、いや、ママを守るために単身、地上げ屋の事務所に殴り込んだって」
「愚か者さ。あたしは冬木の罪を許さない」
「だけど、待っているのだろう?帰れるあてなどない無期懲役の男を」

♪ 渇き

 心に沁み込む曲だ。それはきっと、あたしも愚か者だから。

「で、エンジェル、俺に仕事が舞い込むって話しは?」
 ソルジャーは何気なく話題を換えた。

「ねえ、ママ。ソルジャーは七尾探偵社の下請け調査員になったのよ」
「いや、それは違うだろう、調査の依頼を受けたらやってもいいけど、あくまでも本業が空いている時だからな。調査員は副業だ」
「本業?」
 エンジェルは目を見開いて驚く真似をした。
「ママ、俺はこの街に残ってボディ・ガード屋を始めることにしたぜ」
「もう、小説や映画じゃあるまいし、この日本でそんな稼業が成り立つと思っているわけ?ママ、注意してあげて」
 あたしが言葉に詰まっているとソルジャーはエンジェルに顔を向けて、
「ハード・ボイルドな探偵もこの日本には仕事はないぜ」
 と不敵な笑みを浮かべた。
「む、むかつく!その不敵な顔!」
 エンジェルは口を尖らせた。

 二人の会話を聞いているだけで楽しくなる。

「この街に残るのかい?ソルジャー」
 あたしはソルジャーのグラスにワイルド・ターキーを注ごうとすると
「ソーダ割りに変えて貰えるかいママ」

「この街・・・いや、この街の愚か者達を気にいってしまったのかもな」
 この街が、この店がまた一人、愚か者を引き込んでしまったようだ。

「あっそれでね、命がいくつあっても足りない男がこの街に紛れ込んで来たのよ」
 エンジェルはあたしとソルジャーを交互に見ながら言った。
「俺みたいな奴だな」
「そうよ、あなた以上に危険!だってママの絵を写真に撮って探しているのよ、ユウコという名前のママを」
 昨夜、藪達が話していた件だと思った。
「ホントにその絵はあたしなのかい?」
「間違いないわ。あの翳りはママよ」
「翳り・・・ね・・・」
「そりゃあ危ないぜ。ボディ・ガードが必要だぜ。そんな真似すりゃママのしもべ達が何をするか分からないからな」
「しもべって、誰だい?可笑しいねえ」
「しもべの筆頭は藪医者と正義の弁護士、それに純爺・・・」
 とソルジャーは指を折って数える。
「私ね、陣野組長は隠しているけど怪しいと思うのよ」
 エンジェルが口を挟む。
「ああ、なるほど。冬木の手前、口には出来ないだけだな。ありゃぁ。ママのしもべ。なるほど。裏しもべだな」
「それからね、藪先生がぼやいていたのよ。岸村のダンナぁが参戦して来たって。それって私とママを二股かけるってこと!?」
「いや、エンジェルって線はないだろ。あり得ない」
 ソルジャーはエンジェルの前で指を立てて振る。
「分かってないわねソルジャー。ダンナぁが私とここで飲んでいた時にね、私のあまりのキュートさにタジタジだったのよ。ねぇママ」
「ホントに?あのおっさんが」
「岸村の旦那は、エンジェルの純真さが眩しかったのさ」
 とあたしが言うとへらへらしていたソルジャーがふと真顔になった。
「私の瞳の比率はね・・・」
 横で騒ぐエンジェルをソルジャーが眩しそうに見ていた。
「一対二対一の比率で黒目が大きいわけ、それはね。アイドルの比率なの」

 曲が変わった。アップテンポな曲だ。
♪ 脱がせて純情
 
「昔、持っていた心を・・・愚か者達はエンジェルの中に探すのさ」
「純真さ・・・か。ああ、分かるような気がするよ、ママ」
 ソルジャーは静かにバーボン・ソーダを傾けた。
「大人だね。ソルジャー」
 あたしはソルジャーのグラスを新しいものに入れ替えた。
「ハード・ボイルドなだけさ、俺はよ」
 ソルジャーがグラスを掲げた。

「そうね、ソルジャー。確かにシルベスター・スタローンみたいなボディと戦闘能力を持っているあなたはハード・ボイルドだと思うわ」
 エンジェルの瞳が真っ直ぐにソルジャーを射抜いた。
「でも、だめ。あなたは無益な殺生を犯したから」
 エンジェルの瞳が曇った。
 そんなエンジェルの瞳から逃げるようにソルジャーは目を伏せた。
 ソルジャーは海外で傭兵として長く過ごした。過去は変えられない。

「でもね。罪は償えるわ、多分・・・」
 エンジェルがソルジャーの肩を叩く。
 ソルジャーは目を上げた。深い悲しみが見えたような気がした。

「ママ、オレンジジュース」
「はいよ。エンジェル」
 あたしはグラスにオレンジジュースを注いでからアンゴスチュラビターズを三ダッシュ入れて軽くステアした。

 エンジェルは一口飲んで微笑む。
「仄かな苦みがまるで人生のようね」
 エンジェルがソルジャーのグラスにカツンと合わせる。

「償なえるのか?」
「その気持ちが大事なの」
 エンジェルの微笑みに、ソルジャーが息をつくのが分かった。

♪脱がせて純情

「さて、行くか。明日一番で命がいくつあっても足りない奴にボディ・ガードを雇った方がいいと教えないとな」
 ソルジャーがスツールから降りる。
「待ちなさいよ、ソルジャー。か弱くCuteな私を送らないつもりなの!?」
 エンジェルが慌てて着いて行く。
「ハード・ボイルドな探偵らしくないなあ、エンジェル」
「馬鹿ね、ソルジャー。ハード・ボイルドの前にアイドル並みにキュートなの!」
 ソルジャーは肩をすくめてエンジェルのためにドアを開けた。

♪ 脱がせて純情
 
 急に静かになった店にマリアのピアノが流れる。

♪脱がせて純情

 エンジェルが言った言葉が心に残った。

『でもね。罪は償えるわ、多分・・・』

 この店を守るために、いや、あたしを守るために無期懲役となった男、冬木。
 あたしは冬木の罪を許さないと言って一度も面会には行かなかった。
 許してないのか・・・

「この店で待っている」
 マリアの声。ピアノの音だと思った。
「それがママの愛し方、ママの勇気だって言っていたじゃない?」

 あたしはマリアのためにクラシック・ギムレットを作った。
 無性に飲みたいと思った。でもあたしが飲むギムレットは冬木が作るギムレットだけと決めたのだ。

「ぶれない愛を貫くママだから、愚か者達を引き寄せるの」

 あたしはピアノにカクテルを運んだ。
 ピアノの音は途切れないまま、マリアはそれを一息に空けた。
 
♪ 脱がせて純情

 今夜は若い二人に見せつけられた純情が、鏡に映った自分に残る純情だと気がつかされた様に感じた夜だった。

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 そう、ここは愚か者を待つ、愚か者が作った、愚か者のための店。