「あぁ美味しい、ママに作ってもらうこのカクテル、月に一度の楽しみになっちゃった」

 この数ヶ月、月一ペースで来る女だった。
 多分、主婦で母親。でもまだ、女だと思う。
 子育ても一段落したという年頃だろう。
「アメリカン・レモネードというカクテルだよ。ワインが好きだと言っていたから」
「月にたった一度の客なのに、ママはちゃんと覚えていてくれるのね」
「定期的に来てくれたらそれが常連って言うんだよ」
「そうかぁ、私ね、この街で育ったの、結婚して今は違うけど・・・」
 ちょっと離れた街の名を言った。
 もう、電車では帰れない場所だ。
「今夜は実家に泊まるの。月に一度だけ、この街で、一人で暮らす父に逢いに来て、ご飯作ってあげて一緒に食べるだけ」
「親孝行だね、親父さん喜んでいるだろう?」
「うん、何気に楽しみにしてくれているみたい」
「そして、ここに飲みに来てくれるのだね、親父さんも連れて来ればいいのに」
「それが早寝なの。ご飯食べてから少し飲むとすぐに眠ってしまうの。でも・・・月に一度くらい、主婦と母親、忘れたいから。帰らないで一泊するの」
 彼女の微笑に引き込まれそうになった。

♪ ピアノの音

 マリアのピアノは心を映すという。
「あっこの曲、知っているわ」
「へぇ、あたしはJAZZならだいたい分かるのだけど、これは?」

 マリアは過去から流れて来たピアニスト。好きだった男の腹に刺さっていたナイフの刃を必死に引き抜こうとして、それ以来マリアの左手の薬指は動かない。一度はピアノを捨て流れるように彷徨ったマリアは気付くとこのバーのスツールであたしのカクテルに酔っていた。そしてなるべくしてなったという感じでここのピアニストになってしまった。

「Chiiちゃんと言う私のライバルのシンガーソングライターの曲、確か、Dear My Daddyって曲ね」
 と彼女はいたずらっぽく笑う。
「恋敵かい?そのChiiちゃんは?」
「当たり。どうして分かったの?ママ」
「あたしも女・・・だからさ」
「Chiiちゃんが大好きな人がいてね、いつもこの曲聴きなよ、あの曲聴きなよって薦めるから。薦められると、何かメッセージがあるんじゃないかって必死に聴いてしまう・・・まんまと」
 彼女はクスッと笑う。その瞬間、彼女は若返る。大人の女の余裕・・・その中に漂うような切なさが彼女を魅力的にしている。

「ふうん、音楽が好きなんだね、彼は」
 然り気無く、言ったつもりだけど・・・彼女の視線とぶつかった。
「こんな年でね、私さ・・・恋、したのママ、おかしいでしょう?それとも、ふしだらかな?」
「初めて逢った時から感じていたよ、あんた・・・」
「あっ私、夢美です」
 夢美の顔がパッと輝く。恋する女の顔だった。
「だけどね、ママ。私達ね、顔も知らないし、声を聴いたこともないのよ」
 あたしは言葉が出ない。
「それは・・・あれかい?出会い系とかいうヤツかい?」
「うーん。ケータイの音楽サイトだけど・・・出会いが目的ではないの・・・好きな音楽を話すのが目的でやっていたのよ、私」
 夢美は照れているのだろう、アメリカン・レモネードをストローで撹拌している。
「あっ私、何をしているのだろう、せっかくのツートンカラーのカクテルが・・・少し眺めてから少しずつ混ぜようと思っていたのに」
 夢美は舌をペロッと出して笑った。
 アメリカン・レモネードは、レモンを絞って砂糖を少々、冷たい水でレモネードを作り、浮かべた氷に赤ワインリキュール アカダマをフロートするように浮かべた二層のロングカクテルだ。
 ストローを添えて下層から飲んでもいいし、上層のワインリキュール部分から飲んでもいい。
 でも、あたしは軽くステアして飲みたい。
「でも、ママ、これは混ぜた方が美味しい」
「あたしと同じ意見だね」
「色は・・・そうね、汚れた血かしら」
 ゾクっとする、女の目をして夢美が言った。
「真っ赤な血の色は綺麗って言うけど、ワイン色って妖しいから好き」
「その、夢美の妖しさに彼は惹き付けられたのかな?」
「妖しい?ホントにママ?何か嬉しいです。私はただのおばさんだと思っていたのに」
「恋は不思議なものだね、特に女には」
「私、ちょっと誘惑しちゃったかな?彼を。どうせ、顔も声も分からないなら・・・なんて思った時もあったから」
「夢美は何故、彼・・・として意識をしたんだい?」
「そうか、私達、逢ったこともないのに恋人にしていたね。私が彼に惹かれたのは、そうね・・・文章の誠実さかしら・・・行間にさえ優しさを感じたような気がしたの。そして彼に漂う淋しさ・・・かしら」
「淋しさ?ふうん。文章は読む方の気持ちも乗るからね、何かが重なったのだろう、お互いの気持ちが」
「うん、最近、良く話すのは…私達シンクロしているねって」
 夢美はアメリカン・レモネードを飲み干した。
「おかわりを作ろうか」
 うなずく夢美のグラスを濯ぐ。
 レモン半分を絞って角砂糖を一つ、氷を入れたグラスに冷たい水。浮かんだ氷に アカダマ をフロート、今度はグラス半分がワイン色になるくらい注いだ。
「わぁ、ワインがいっぱいだね、ありがとうママ」
「ワインが好きみたいだね、でも・・・うちには純粋なワインは置いてなくてね」
「ママのカクテルは美味しいよ。アカダマポートワイン・・・懐かしい。子供の頃、お父さんに分けてもらって飲んだよ」

 ピアノは
♪  Dear My Daddy

「この曲は、お父さんへの感謝の歌なの。娘が実家を出る時に、一枚の水彩画を書いて渡されて・・・その絵にはシューズが描かれているの」
 あたしが不思議な顔をしていると夢美は続けた。
「それは地に足をつけて生きなさいというメッセージだったんだって・・・」
「なるほど。深いね・・・」

「ママ、ちょっと失礼。この曲を教えてくれた彼からのメッセージをチェックするから」
 夢美はケータイを開いて何かをチェックしている。
「今日は出張だったみたいで帰るとこだって。私が実家に来ていることは昨夜、メッセージ入れたから知っているんだけど」
「でも・・・まさかBarで飲んでいるなんて夢にも思わないのだろうね」
「書いておこう、アメリカン・レモネードを飲んで酔っ払いで〜す」
「心配するだろう?」
「いじわるかな?でも・・・」
「でも…心配して欲しい・・・」
「うん、女って欲張りね・・・」
「甘えることが出来る人がいるなら幸せだよ」
「ママは?」
「あたしは夢美より、ずぅっと年上だよ・・・」
「だけど、ママだって・・・まだ女でしょう?」
 やはり、夢美は大人な女だと思った。

「あたしの男は帰れるあてなどない・・・無期懲役さ。例え、あたしの為でも・・・彼が犯した罪は許さない。この店でいつもギムレットを作ってくれたバーテンダー。愚か者だよ」
「でも・・・ママは待っているわけだ」
 夢美はまっすぐにあたしを見つめていた。
「それが、あたしの愛だ。それが、あたしの勇気・・・」
「愛を貫くのが勇気・・・深いわ、ママの言葉も」

 夢美のおごりで私は水割りを作った。
「ピアニストのマリアさんにも何か作って」
 マリアにはギムレット。プリマス・ジンとローズ社のライムジュースをカウンターに並べた。
 シェイカーではなく氷を入れたミキシング・グラスにジンとライムを同じ量、ハーフ&ハーフで注ぐ。
 バースプーンがミキシング・グラスの中央で綺麗に回転する。
 ミキシング・グラスにストレーナーで蓋をして氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに注いだ。
「マリアにはクラシック・ギムレット」

「ママは自分の分のギムレットは作らないんいだ、分かるわ」
「そう、冬木というバーテンダーが作ったギムレットしか飲まないと決めたのさ。あたしが一番好きな飲み物だから・・・」
「女・・・ね。悲しいくらいママは女だね」

 今夜のあたしは楽しんでいた。夢美との会話が妙にあたしを刺激する。
「楽しいねえ。夢美、あんたと話していると」
「お互い、大人ですもの、でも私はママから見ればヒヨッコね」
「新しい恋が出来るだけ、その分だけ夢美は若い。それがどのくらいの時間なのか分からないけどね」
「もう一人でいいって決めていた。母親だけやっていたらいいのだって決めていたのに。ふっと心の隙間に入って来たの、彼が」
 マリアの曲が変わった。

「♪♪Ah 夢をみた・・・君をだきしめようとしたけど君は・・・するり消えた♪♪・・・これは 「夢」という曲・・・彼がとても好きで、僕の君への想いだって教えてくれた」

♪ 夢

 夢美はほんのりと赤い顔をしてマリアのピアノに心を預けた。時々詩を口ずさんでいる。アルコールを飲むことなど、普段の生活ではほとんどないのだと思う。

「♪♪Ah 疲れた・・・その瞳の奥はいつも寂しそう・・・♪♪」
 夢美が口ずさむ。

カシャ
 と氷とグラスが触れる音・・・

 夢美の意識が浮上して来る。

「偶然を運命と考えるのは恋の始まりなのだって」

「うん、そうかもね。でも出会いは全てが偶然さ。その中から何をチョイスしたかではなくて、何故、彼を選んだのかに意味があるのだと思うよ」

「ふうん。いいこと言うわぁママは・・・私たちね、同い年だったの。あるアイドルの話をサイトの中でしていて彼がそのアイドルとタメ年なんだと言われた時、えっ私と同じ、よかった!って思って、そのまま返信したの。彼も喜んでいた。同じ時代を生きていたのだねって」

「同じ時代を生きていた・・・か」
「それが偶然の始まり。それから急に親しみが湧いてきて私達、音楽以外の話もサイトの中でたくさんしたわ。まるで少年、少女のようにケータイを片手に深夜まで」

「どんな風に運命が重なっていたのだい?」
「うん、人から見ればたわいないことだけど・・・この街がそう」
「夢美はこの街で育ったと言っていたね」
「彼はこの街を経由して高校に通っていたの・・・だから私達十数年前に擦れ違っていたかもねって。笑われそうな話を二人でしたわ。馬鹿みたいでしょう?」
 と言う夢美の瞳は綺麗だった。
「よく考えればね、私達が知り合ったのは好きな音楽が一緒だったから。それは同じ青春時代を生きていたからなの。でも私がそう言うと彼は、偶然は必然なのさ、と切り返す」
「でも夢美は彼がそう返すことを願っていたのだろう?」

 夢美の瞳は正直だ。見る見る嬉しさが広がる。

「ママは全て、お見通しね・・・そう、この街は夢の中の街・・・」
「二人の青春時代が交差した街なんだね・・・」

♪ 夢

「♪♪でもホントは分かっている・・・この胸を揺らし乱す理由・・・♪♪」

 マリアのピアノは何を誘うのだろうか・・・夢美が口ずさむ詩が自然に心に流れ込む。あたしもこの曲を知っている・・・そんな気がして来る。

「♪ばかよね 君になんか恋をして♪♪・・・運命だったら、私達・・・それぞれの生活なんて持ってないのにね・・・十数年前に出会っていたはずなのにね・・・」
 現実を見つめる夢美の瞳は悲しかった。
「毎日、サイトの中でおやすみを言う時、彼はこう言うの・・・『いつも君を想っているよ』これは夢じゃない。現実よね?ママ」
 現実だよと簡単に言っていいのかあたしには分からなかった。でも何かがその言葉だけは現実だと思いたかった。

♪ 夢

「ある日、彼が言ったの・・・『君の声が聴きたい』って・・・」

♪ 夢

「・・・♪ たった一度でいいから・・・♪ その胸の中で・・・」

♪ 夢

「ある日、彼が言ったの・・・『君に会いたい』って・・・」

♪ 夢

「ねえ、ママ。ギムレットってカクテルは強いの?私にも作って」
 キンキンに冷やしたジンとコーディアル・ライムジュースをハーフ & ハーフでミキシング・グラスでステア。氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに注ぐ。
 冬木が作ったギムレットの味があたしの心に広がる。
「クラシック・ギムレットだよ」
 夢美はグラスを傾けた。
「甘いけど、シャープ・・・覚醒する、そんなカクテル。あぁでも美味しい」
「昔の小説でフィリップ・マーロウという探偵がやわらかい甘さと鋭い強さが一緒になっていた・・・と言ったカクテルだよ」
 夢美はグラスを傾ける。
「私は、『私達、今、会ったらこのままではいられない。このままでは済まない』と書き込みした・・・」

♪ 夢

「私は、『妻を辞められても、母親は辞められない』と言ったの」

 夢美はグラスを呷る。
 カシャ
 と氷が響く。

♪ 夢

「・・・♪♪まさかね、こういう気持ち知りたくない・・・だめよ、君のこと考えるのは・・・♪♪」
 夢美の頬を走るように、涙。すぐに消えた。

「私のその返信を見た後、彼はこの曲、“夢”の詩を送ってくれたの・・・そして、最後の一行に『母親を辞められない君が愛しい』って」
「彼は、そんな夢美を全部、愛しいと言ったのだね」
「だから、決めたの。この恋を続けるって!切ないよね、きっと。これからもずっと」
「それが大人の恋さ。クラシック・ギムレットのように、甘さと強さがなければ続けられないよ、夢美」
「飲み干すわ!ギムレット」
 夢美は残りのグラスを一気に飲み干した。
「ママの強さが欲しい。バーテンダーを待つママの勇気が欲しい」

「あたしはここにいる。くじけそうになったらここにおいで。クラシック・ギムレットを飲ましてあげるよ。甘さと強さが一緒になったギムレットを作ってあげるよ」

 夢美はケータイを開いた。
「彼にメッセージを入れなきゃ、とっても心配しているみたい」
彼が心配していることが嬉しい。夢美の顔が輝く。ケータイを滑る指が軽やかな気がした。
「『これからタクシーで実家に帰るよ』って送信しました」
 ケータイを握りしめた夢美は今、恋する女だった。

「私がサイトに入ると、ほぼ同時に彼も入って来る・・・それさえも偶然ではなくシンクロしているのだって想いたくなる・・・おかしいよね」

♪ 夢

 ♪♪ たった一度でいいから・・・その胸の中で・・・♪♪

 夢の中の夢の街でしか会えない。切なくて、それでいて幸せな恋。

「いつも彼にChiiちゃんの曲を紹介されるから、私の方から最近薦める曲があるの。桑田佳佑の『愛しい人に捧ぐ歌』、そのまんまでしょう?この曲で私への想いをレビューにしてと頼んだの」

 夢美は勘定を済ませ、スツールから降りた。
「♪今度生まれ変わったら、一緒に街を歩こうよって・・・彼が答えた。でも、その前に私を見つけてもらわなきゃね」

 あたしは静かに頷いた。
 曲が変わった。

♪ ノスタルジア

「この曲も知っているわ・・・『ねぇ、連れ去ってよ、今』って私が言ったら彼はどんな顔をするかな?」

 カウベルが鳴ってドアの外に夢美が消えた。
 そこは現実の街か、それとも夢の街か?

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。