FOOLという名のBAR-SAUDADE-

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

 街は黄昏から夜に変わろうとしている。T&Sのストリート・ライヴの歌が聞こえた。

♪ ひとりじゃない

 ♪♪ひとりじゃない ひとりはいや

   どんなにどんなに泣いたって癒せないもの
   失うことで何か気づいたと思う
    
 私はエンジェル、もちろん本名ではない。探偵よ、だからコード・ネームってとこね。私があまりにもキュートだから皆がそう呼ぶの。こんなにもキュートなのにアイドルではなく何故、探偵になったのか?

 ♪♪ いつしか僕等にとって大切なものが何かって忘れはじめてる
     君がここにいるうちにちゃんと届ければ
      今頃になって気づいてどうしてこうなんだろう
       

 何か失うことで大切なものに気づくのが人生、虚構の街でさまよう愚か者達に大切なものへと導く力になるために、この街の表も裏も全て見届けたいから。私ってキュートな上に、なんて、いい子なんでしょう?
 T&Sは、ボーカルまるここと、ダンサーのaMEのユニット。私よりちょっぴり若い二人はいつも輝いている。バラードな曲は、どこか切なく、ヒップホップな曲は若さが弾けている女の子という感じが私は大好きで応援している。
 T&Sのライヴが終わった頃には、陽も暮れて夜のネオンが輝き出した。
 ハード・ボイルドな探偵の一日の終わりにはやはりBarでしょう?
 小さなビルの地下を降りるとその店はある。ドアを開けるとカウベルが鳴る。ちょっとこもったような控えめの音が私は好き。
 カウンター席だけのBarで、店の奥にはアップライトのピアノが置いてある。今夜も黒いドレスを着たマリアがピアノを弾いていた。
 そしてカウンターの中にはこの店のママ、ユウコがいて
「エンジェルいらっしゃい」
 と私を迎えてくれた。
「お疲れさま、ママ。今日も適度な翳りを漂わせてハード・ボイルドないい女・・・」
「ハード・ボイルドはエンジェルからの最高の称号だったね、ありがと」
 いつもと変わらない店の風景を打ち壊すモノが今夜はカウンターの真ん中を陣とっていた。

「よう、エンジェル。今夜も可愛いぜぇ」
 と先客が顔をねじ曲げて私に愛想笑いを浮かべた。
「あら、岸村のダンナぁ、お久しぶり!」
 私も愛嬌たっぷりで微笑み返し。嫌味がない私のキュートな笑顔に岸村はタジタジで苦笑いを浮かべるしかない。
「エンジェルの口から岸村のダンナぁと呼ばれるとあまりにもアンマッチでピンと来ないが、それが妙にいいものだなぁ」
 と言って岸村は体をずらすような真似をする。独立したスツールだから、どいたことにはならないが、気持ちは理解したというように私は微笑んだ。
「ハード・ボイルドな世界では刑事は皆、ダンナぁと呼ばれるものよ」
「嬉しいじゃないか、俺もエンジェルの世界の住人だ」
 私は顔色ひとつ変えずに岸村の隣のスツールに腰掛ける。岸村の方がそわそわしているくらいだ。
「飲むか?俺の酒?」
 岸村のボトルはヘネシー。高価なブランデーだ。
 悪徳刑事・・・と呼ばれる岸村にはお似合いのボトルだ。

「ありがとう、でも私が最初に飲むものは決まっているの。だってそれがハード・ボイルドの定番でしょう?」
「なるほどなぁ、ハード・ボイルドか」
 ユウコが私の最初の一杯のための材料をカウンターに並べる。
 チェリー・ブランデー
 コアントロー
 レモンジュース
 グレナデンシロップ
 アンゴスチュラビターズ

 ユウコは鮮やか手つきで材料を入れシェイカーを振った。カクテルグラスに注がれる液体は、真っ赤なのに透明に澄んでいる。
「お待たせ。Angel Blood (エンジェル・ブラッド)だよ」
 とユウコがカウンターにそっと置く。

「へぇ、オリジナルかい?このカクテルは」
 と岸村は横から覗き込む。
「きっと、天使の血液はこんな風に赤く澄んでいるのだろうと思ってね」
 とユウコが微笑む。
「キュートな私にぴったりのカクテルだと思わない?ダンナぁ」
「けっ、よく言うぜぇ。でもなあ、そのダンナぁって間延びした呼ばれ方されると、言い返す気力も失せるぜ」
「ねぇダンナぁ、アイドルが可愛いと言われる条件のひとつを知っているかしら?」
 岸村は暗い目を漂わせて考えている。
「目よ」私は自分の瞳を指差して続ける。「白目と黒目の比率が一対二対一なの。黒目が大きな女の子はキュートなの、私を見れば分かると思うけど」
 私は可愛い鼻をツンと上げて岸村に微笑みかける。私の必殺技の仕草のひとつ。
 岸村は素直に、ウンウンウンと頷いた。
「ダンナぁ、私にメロメロじゃない?」
「ママ、俺はどうかしているのか?この自身過剰な女の前では何も言い返せない」
 と岸村はユウコに同意を求めるような視線を送る。
「誰だってエンジェルの純粋さが眩しくなって受け入れてしまうのさ。ここに来る愚か者達は・・・昔、失くした何かをエンジェルの笑顔に探してしまうのさ」
 とユウコは目を細めて私を見つめてくれた。
 意外にも岸村の暗い顔も少し柔らかくなる。
 私はAngel Bloodを二口で飲み干した。
「美味しい・・・ママはセリフ回しから、チャーミングな顔にアンバランスな悲し気な瞳、そして・・・全体に漂う気だるさ・・・が完璧なハード・ボイルドな女になっていて、私の理想の女」
「嬉しいねぇ・・・エンジェルのようなキュートな女の子から理想の女・・・って言われるなんて、どうだい、岸村の旦那」
「ママに旦那って言われると、しっくり来るなあ、ドスが効いていて」
 岸村はグラスを呷る。
「ドスが効いているは余計だよ」
 ユウコはカクテルグラスを下げていつものようにオレンジジュースをカクテルグラスに入れて私の前に出す。
「これも、何かのカクテルかい?」
 と岸村が私とグラスを見比べる。
「ダンナぁ、これは一〇〇%のオレンジジュースよ」
 と言って私は岸村のグラスと乾杯する。
「ジュース・・・だあ?」
 咄嗟にグラスを合わせて面食らった顔をする岸村にユウコも吹き出してしまった。
「エンジェルがエンジェルと呼ばれる所以さぁ、酒浸りのエンジェルじゃ幻滅しちゃうだろ、ダンナぁ」
 とユウコが“ダンナぁ”の部分は私の声色を真似して言った。
 岸村は苦笑しながら頭を振っている。

♪ ピアノの音
♪  Angel Eyes

「エンジェル・アイズ。昔、失くしてしまったものを想い出すにはちょうどいい曲だな」
 岸村はこの曲を知っているようだ。マリアのピアノは心を映すと言われている。悪徳刑事と呼ばれた岸村でさえ、そのピアノの音に引き込まれてしまった。
「この曲は、天使のような瞳をした恋人を失くしたって歌がついていたなあ。エンジェルの瞳・・・か」
 と私の瞳を覗き込む岸村の瞳が一瞬、悲しいくらい優しかった。
 岸村は慌てて視線を逸らした。

「誰がいつからエンジェルなんて呼び出したんだ?悪くはないがな」
 岸村は鼻を鳴らす。
「まっ。探偵の私としては “エンジェル ”はニックネームではなく・・・コード・ネームってとこね」
「ホントに探偵なんてやっているのか?あの元坊主の探偵事務所だろ?」
「そうよ、七尾探偵社のエース調査員よ」
「そんな、いかにもドラマに出て来る探偵みたいな、サングラスを胸に挿して」
「うちのボスは推理小説派気取りだけど、私はハード・ボイルド派で大きく思想は違うけど、うまくやっている方よ、でも・・・」
「でも…?」
「つまらないのよ、毎日、浮気調査ばかり、それだけ!ホントにもう、退屈なのよ」
「ふん、治安国家の日本は我々警察官が日夜治安維持に勤めているからな」
「あぁ・・・イヤ。うちのボスと同じこと言っている」
「ドラマみたいな探偵の活躍する場面なんて・・・」
「ダンナぁ、意外とお喋りね、それとも、キュートな私の前で饒舌になってしまったのかしら」
 岸村はまたしても面食らったって顔をした。
「まるで親子で漫才やっているようだよ」
 とユウコがさりげなく入り、空になった岸村のグラスを満たす。
「おいおいママ、親子ほどの年の差はないぜ。まっ、兄妹ってところで妥協するか」
「そんな苦虫を噛み潰したような顔しているから老け込むのよ、ダンナぁ」
 私の最後の“ダンナぁ”に必ず岸村は耳を向ける。
「けっ、余計なお世話だぜぇ。ところで浮気調査は儲かっているのか?」
「儲かっているんじゃないかしら。つまらないけれど・・・誰も、かしこも嘘で塗り固めた虚構の街の住人だから」
「虚構の街・・・か、うまいこと言うね、エンジェル」
 とユウコが言葉を挟んだ。
「うちのボスは喜んで走り回っているけど、この世の虚構を全て剥ぎ取って、素直になろ〜うって」
 と私はダラダラと右手を上げて見せた。
「素直なのはエンジェルだぜぇ」
 と岸村が笑う。
「ダンナぁ。少しずつ笑顔が人間らしくなってきたかも知れないわね。やっぱり、キュートな私の影響ね」
 岸村はフッと息をつくように笑った。
 納得したと言うことだろう。
「今日の浮気調査なんて最低よ、人間不信になりそうなお話」
 皆の視線が私に集まる。
 いつの間にかマリアのピアノも終わっている。
「今回は、妖艶なマダムの依頼なの・・・ねぇダンナぁ、その下品な笑いは何?」
「妖艶なマダムと言われちゃなぁ・・・つい、失礼した」
「えっ?なんでそんなに素直なんだい、旦那」
 とユウコがちゃかす。
「せっかくエンジェルが話しているんだ、いいじゃないかママ」
「ダンナぁが照れているよ。珍しいこともあるものだ、ホントにあなたは天使かもね」
 とユウコは私に耳打ちして、フッと笑みをこぼした。
「マダムはうちの事務所に来るなり、『夫に女がいるようなのです。その決定的証拠を掴んで頂きたい』と言い放ったのよ」
「なんか怖そうだね」
 ユウコは震える真似をした。
「で、私は徹底的に旦那さんに貼りついて調査をしたの、コードネーム“エンジェル”大活躍ってわけ」
「ほう、よく見つからなかったな、エンジェル」
「ダンナぁ、そ、そのマジ顔は何?見つかるはずがないでしょうにぃ。私は探偵よ、プロフェッショナルな」
「ふん、で?掴んだのか?浮気の証拠を」
「そうよ!ラブホから出て来る二人の顔をバッチリ撮ってやったわよ」
「マダムは悲しんでいたかい?」
 とユウコが心配気な視線を向ける。
「いいえ、報告書を提出した時・・・ゾッとしたわ。マダムの微笑が怖いなんてものじゃなかったから」
「悲しいどころか、尻尾を掴んだって喜んでいたわけだな」
 と岸村はニヤリと笑う。
「旦那さんは婿養子だったのよ。かわいそうに」
「終わったなぁ・・・」
「ふふん、終わらないわ、悲劇は連鎖するのよ」
 と私はそこで上目使いにクールな笑みを忘れない。私の必殺技の仕草第二段。
「私はボスに完了報告をしたのよ、でもボスは、あのスキンヘッドを撫でながら言ったのよ。『まだまだですエンジェル。第二幕の始まりです・・・付いて来て下さい』とのたまったのよ」

♪ ピアノの音・・・
 懐かしいようなリズム。昔のロックかしらと私は思った。

「 Paint it, Black、黒く塗れ、という意味」
 とユウコが呟いた。ローリングストーンズの古い曲だそうだ。
「ボスは私には内緒で別の仕事を受けていたの・・・その調査の報告に出向き、その報告先の依頼人の顔を見て私は・・・口がぱっくり・・・開きそうになったから押さえたわ」
「指で唇を挟んだのかエンジェル?」
 と言って岸村は親指と人差し指で自分の唇を挟んだ。
「馬鹿じゃあないの!比喩よ!比喩的表現」
「エンジェル、岸村の旦那はからかっているだけよ」
「わ、分かっています、ママ。ちょっと、ムカついただけ」
「その依頼人はマダムの旦那だったってことかい?」
「旦那さんはマダムの浮気調査をボスに依頼していたのでは当たり前のお話。岸村のダンナぁ、それでオチがついたと思ったのかしら?」
 私は岸村の顔を覗き込み、瞳をくりっと見開く、どうよ、私の必殺技スリー。
「マダムには若い彼氏がいたのよ、イケメンな。旦那さんは勝ち誇った顔をしていたわ、婿養子だって慰謝料は取れるだって」
「しかし、怖い話しだなぁ・・・でもよ、探偵料は二重取り、坊主丸儲けだなぁ・・・」
 岸村はきっと、ボスのスキンヘッド頭を思い浮かべていると思う。

「でも、虚構の街はまだ眠らないわ」
 私は喉が渇いてオレンジジュースを飲み干した。
「ママ、エンジェルにお代わりを、俺の奢りだ」
 私は岸村の好意を素直に受ける。
「そして・・・旦那さんも不気味な笑みを残して、いざ出陣というわけ」
「どうなるのだろうね?」
 ユウコはお代わりを私の前に置きながら言った。
「綺麗に離婚するしかないだろうなぁ・・・旦那はかわいそうだがなぁ・・・失うだけで」
 岸村は同性の旦那に同情しているようだ。
「虚構の街・・・はもう少し、平等だった。それは哀しいけど・・・マダムの彼氏はマダムのお金が目当て・・・マダムが離婚したことを知って、逆に危険を感じた・・・」
「マダムも捨てられたって分けだ・・・マダムはプライドまでズタズタだな」
 岸村は吐き捨てるように言ってグラスを呷る。
「そう、嘘で塗り固めた虚構の街・・・」
「最後の結末は所長が裏を取ってきたのかい?」
「えぇ、そうよ。ママ」
「エンジェルにとことん見せたってことか、あの坊主探偵は、菩薩のような笑みを浮かべながら」
 岸村は憤慨しているようだ。
「旦那はエンジェルに大人の汚い部分を見せたくないと思っているんだよ。それでもエンジェルは探偵を続けるのかい?」
「もちろんよ、私はハード・ボイルドな探偵ですから」

♪  Paint It, Black

「この曲のように、何もかも真っ黒に塗り潰せたらいいのになぁ・・・白黒つけなくて済む」
 と言ってグラスを呷る岸村は悪徳刑事と呼ばれる男には見えなかった。

カシャ
 氷とグラスが触れる音・・・

 皆が酔いの中から浮上して来る。
 マリアのピアノは魔法のようだ。
「ねぇ。ダンナぁ・・・何故、悪徳刑事と呼ばれてまで・・・何を調べているの?」
 誰もが傷ものに触れないようにしていた問いだとは分かっていた。岸村は裏の世界と癒着してまで何かを調べている。探偵なんて稼業も表だけの世界じゃない。悪徳刑事と罵られる岸村の噂は私の耳にも聴こえている。
 岸村は答えるべきか考えあぐねていた。
 ユウコがボトルを並べた。
 カナディアン・ウィスキー
 ドライ・ベルモット
 カンパリ
 それぞれを同量ずつをミキシング・グラスでステアした。
 カクテルグラスにぴったり二杯。岸村と私の前に置く。
「オールド・パルというカクテルだよ」
「昔の仲間・・・という意味だったかな、ママ」
 と言って岸村は一息で飲み干した。
 私も一口飲む。
「仄かな苦味に微かな甘味・・・妙に悲しい味」
「俺はなぁ・・・エンジェル・・・友達(ダチ)を捜しているのだよ・・・人殺しになっちまったぁ友達をこの手であげるために俺は 警察官になったんだ・・・」
 岸村の瞳がまた暗い闇に変わった。
 私は掛ける言葉を持つほど大人じゃないことに気がついた。何も言わずオールド・パルを舐めるように飲んた。

♪ Paint It, Black

『この曲のように、何もかも真っ黒に塗り潰せたらいいのになぁ・・・白黒つけなくて済む』
 さっきの岸村の言葉が心に蘇る。

「エンジェル・・・この話しをしたのは初めてだよ。エンジェルの瞳が心にあるものを引き出してしまうようだ。今夜は少しだけ、人間に戻れた気がするよ」
 と言って岸村はスツールを降りた。
「エンジェルがエンジェルと呼ばれる所以だね」
 ユウコは岸村のいたカウンターの上を片付けながら言った。


「黒く塗り潰された街の嘘を、拭ってくれ、探偵さん」
 そう言った岸村に私は
「私に出来ることなの?」
 と聞いた。
 岸村はユウコに視線を向ける。
 そしてユウコは私に向かって頷いた。
 カウベルが鳴って、ドアの外に消える岸村の背中にマリアのピアノ。

♪ Angel Eyes

 失くした天使の瞳は岸村にはもう戻らないのだろうか・・・
 私はオールド・パルを静かに飲み干した。
「大人の味だと思ったわ、ママ」
「大人になったね、エンジェル」
 
♪ Angel Eyes

 止まってしまった時間を動かして前に進める日が来て欲しい。岸村にもこんな日がまた来て欲しいと思った。

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

「連チャンでまたここに来てしまったわ。私も愚か者達への仲間入りかしら」
 私がいつものように最初の一杯、Angel Bloodを飲み干した時、カウベルが鳴って登場したのは・・・
「What's New?」
 夏生は颯爽と手を上げて入って来た。
「エンジェル?久しぶりだね」
「って、ウインクされても引かないのはあなたのおどけた笑顔がとてもチャーミングだから。お久しぶり!ハード・ボイルドな道化師さん」
 夏生は私の左隣のスツールにかけた。
「僕は、道化師かい?」
「うん、ぴったりだね、夏生には。いつも回りを和ませてくれるから」
 と言ってユウコが夏生におしぼりを渡す。
 軽く息をつく夏生・・・何か変?
 私の二杯目はオレンジジュース、何かちょっと恥ずかしい。私は何気なくグラスを手で覆った。
「どうしたんだい?元気ないね、夏生」
 ユウコは夏生のウィスキーの水割りを用意しながら聞く。そして私に視線を向けた。
 私は微かに頷いた。さすがはユウコ、夏生の様子がいつもと違うことにすぐに気がついたようだ。
 一瞬の沈黙・・・
 救いのようにマリアのピアノ・・・

♪  What's New

 相変わらず、完璧な選曲だ。
「この曲の詩って凄く切ないんだよね?知っているかい?エンジェル」
「えっ?ごめんなさい。『ご機嫌いかが?』しか知らないです・・・」
 私はちょっと恥ずかしいという顔をした。
「別れた恋人達が再会して、『どうしていましたか?』で始まり、世間話をしてまた別れるのだけど、最後に想う言葉は、『まだあなたを愛している・・・』なんだよ」
 と言った夏生の笑顔は優しくて悲しい。

「あなたの笑顔が切ない。優しくて悲しいから、それを切ないって言うのだと想う」
 私は思ったことをそのまま言葉にしてしまった。心に浮かんだことをそのまま口にしてしまって戸惑う私っていじらしい。
「エンジェルはまるで詩人だね」
「お願い、ジョークにしないで・・・私、今日はちょっとセンチメンタル?」
 夏生に聴こえないように私はささやいた。しっかりユウコは気が付いて私に微笑みかけた。だけど夏生は全く気がつかない。

「転勤するんだよ、アメリカに」
 夏生はグラスを振って氷を鳴らす。
「夏生の会社、確か外資系でアメリカってことは栄転なんじゃなかったかい?」
 と言ってユウコがグラスを合わせる。
 私も慌ててグラスを上げる。
「ありがとう」
「そのブルーな顔は春香ちゃんにはまだ話してない・・・ってことかい?」
 とユウコが眉を寄せる。
「春香は今、恋人がいるから・・・」
「でも・・・二人は」
「そう、ママ、僕達は恋人になったことさえない・・・ただの幼なじみさ」
「でも・・・好きなんでしょう?春香さんを」
 私は慌てて口を塞いだ。「あぁ・・・なんてでしゃばりなの、私」
 私は自分の戸惑いに翻弄されていた。

「エンジェル?笑ってくれよ、大の大人が恥ずかしいよな」
 私は大きく首を振る。
「純粋なだけ・・・だよ」
 と私は呟いた。

♪  What's New

 ピアノにボリュームが付いているなら大きくして欲しい。

 そして・・・
 カウベルが鳴って春香が現れた。
「お待たせ、夏生。逢いたくて、待ちくたびれちゃったでしょう?」
 私が思わず唇を噛むほど、今夜も春香は綺麗だった。
「あら、エンジェル?久しぶり」
 私は会釈してグラスを掲げた。
「最近、毎日のように酔っ払って帰って来るらしいじゃないか?おふくろさんが心配していたぞ」
 と、夏生は春香のグラスを用意しながら言った。
「面倒くさいわね、幼なじみって。何でも筒抜けで・・・」
 春香は夏生が作った水割りを一口含んだ。
「美味しい、あなたが作る水割りはいつも美味しいわ」
 フッと笑みを返す夏生。
 唇を噛むしか出来ない私はふと視線を上げた。
 ユウコの視線とぶつかってしまった。ママの視線は私の心の中まで入ってきそう。
 きっと今の私の瞳は切なさの極み。切なさ全開の歌が聴きたいって突然想ってしまった。

「春香、俺の水割りは愛情って言うリキュールが入っているから特別なんだ」
「ねぇ、そんな歯が浮くようなことを言って恥ずかしいって感情ないの?」
 と春香は苦笑する。
「愛くるしいだろ?俺って」
「生き苦しいの!」
 と言いながらも楽しそうな春香。
 うつ向くだけの私・・・
 シェイカーの振られる音・・・で、ようやく顔を上げる私。
 ユウコがカクテルグラスに注ぐのはもちろん、

 Angel Blood

「綺麗な色ね、そのカクテル」
 春香が視線を向けた。
「Angel Blood・・・と言うカクテルよ」
 私はカクテルをかざす。自分の悲しい瞳を隠すように。
「エンジェル専用のカクテルかい?」
 と夏生。
「俺も欲しいなぁ・・・オリジナル・カクテル」
「厚かましいの!」
「えっ?愛くるしい?」
「だから、生き苦しいの!」
 二人の楽しそうな会話。
 私は唇を噛む代わりに、Angel Bloodを一息に飲み干す。
「なんていじらしいの、私!」
 なんで私、すぐに言葉にしちゃうの。そう、私は純粋だからよ。

♪  What's New

「彼氏とケンカでもして毎日、自棄酒あおっているのか?春香」
「彼氏じゃないの!前にも言ったでしょう」
「だってラヴラヴな写メ送って来ただろ?」
「会社の飲み会で勝手に撮られたから、夏生に見せて上げただけでしょう!」
「いつも食事に行っているだろ?」
「同僚達、皆でね!二人じゃないの!」
「デート相手じゃないの?」
「デートって。遊びに行ったらデートならね!じゃ、今、こうして夏生と一緒にいるのはデートじゃないの?」
「何か怒っているのか?」
「私が酔っ払って帰ることを夏生が知っているように、私にも夏生の情報は入って来るのよ!」
「まっ。幼なじみだからなぁ」
「そうよ!だから何でも知っているのよ!」
 春香はグラスを呷る。
「お代わりを作って夏生!」
 慌てて水割りを作る夏生の横顔を見て、夏生は鈍感なのだと気づいた。
 それは私にとっては、切なさのボルテージは高まるばかりってことだ。
 水割りを作って春香の前に置く夏生に一瞥をくれてグラスを呷る春香。
「美味しい!なんで夏生が作る水割りは美味しいの!」
「だからそれはさ・・・」
「私に惚れているからでしょう!」
「ああ・・・」
「反則!」
「何が?」
「さりげなく言い過ぎるの!」
「分け、わからん」

「肩を竦める夏生の間抜けさに胸がキュンとなる私って間違いなくキュートだと思わない?ママ」
 私は言葉にすることで自分らしさを取り戻そうとしているのか・・・

「私の同僚が単身でアメリカに転勤になって三年もしたら倍くらいに太って帰って来たわ!」
「なんだ?そりゃ」
「ハンバーガーのひとつとっても食べきれない量があるの!夏生のようなずぼらな人間が単身赴任したら成人病の固まりになって帰って来るだけなのよ!」
「えっ?なんでアメリカ赴任の話を知っているんだ?」
「知っているわよ、幼なじみなのだから。夏生のお母さんが心配して私に相談するのよ」
「そうだったのか?なんだ、知っていたか・・・」
 私とユウコも呆れて頭を振っている。
「それでだ、話を戻すと・・・え〜と・・・お前が酔っ払いになって俺にからむのは・・・」
「アメリカ赴任の話をいつまでたっても私に言わないから!」
「えっ?そうなん?なんで?」

「馬鹿じゃあないの!」
 と私と春香が同時に叫んだ。
 タジタジの夏生がチャーミングで私の切なさのボルテージはレッドゾーンに突入した。
「私が夏生の食生活の管理をしなきゃダメってことよ!」
 とうとう春香に言わせてしまった。
 夏生は呆然とたたずむだけ。
「それって・・・もしかして」
「春香さんは夏生が好きなの!馬鹿ね、ハード・ボイルドな道化師さん!」
 私は我慢出来ずに言ってしまった。
「エンジェル・・・あなたは・・・」
 春香の視線に私は目を合わせない。
 春香に気づかれた、私の夏生への淡い想い。
 私の切なさのボルテージはレッドゾーンを振り切った。
 夏生が振り返る。
 春香が来てから初めて私を見た。

「ずっといたのに、私のことなど見向きもしなかったのに、今更、私を見ないで。助けて!誰か・・・」
 私の心が叫んでいた。

♪ ピアノ。
 切ない旋律から始まり、ドーンと
 
♪  Silent Jealousy

 愛切なメロディを刻むロック・スピリッツが胸に響く

「あっこの曲、懐かしい、X Japanだ」
 と夏生。
「ありがとう、マリアさん」
 と春香が呟くのが聴こえた。
「行くわよ、道化師失格ね」
 と言って、春香は夏生の襟を後ろから掴んだ。
 ひょい と立ち上がる夏生。
 春香の優しさが痛い。
 私は唇を噛むだけ。春香はそれで分かってくれたはず。

♪ Silent Jealousy

 愛切なロック・スピリッツが胸に響く夜だ。
 カウベルが鳴って二人はドアの外に消えた。
 ユウコは、ドライジン、スロージン、フレッシュライムジュースそれぞれ20mlをシェイクした。それを氷を入れたロング・グラスに入れ、トニック・ウォーターでグラスアップ。

「LOST・・・」
 私は一口飲む。
 酸味の中に仄かな苦味と微かな甘味・・・
「なんてシャープな味。切なさの味覚。きっと、こんな味なんだ。ねぇ・・・ママ、ジェラシーって悲しくて苦しくて・・・悔しいね、でも・・・」
「でも?」
「でも・・・あの二人・・・いい!悲しいくらい絵になっているよ」
「エンジェル?大人になったね」

♪  Silent Jealousy

「今夜、涙をこらえると肩が震えるんだって、私・・・気がついたの」
 私は、“LOST・・・” を傾ける。
「効くぅ・・・まるでロック・スピリッツみたいなカクテル。これが、大人の味!って、わけね」

 すると、曲が戻った。

♪  What's New
 
 切ない恋心を心に秘めて、さり気ない会話が出来る大人な女になりたい。マリアはそんな女になりなさいと私にこの曲を弾いてくれているに違いない。マリアのピアノは心を映す。

   ♪♪それじゃあ、さよなら
    ♪♪あれこれ聞いてごめんなさい
     ♪♪もちろん、あなたは知るわけもないけど
      ♪♪私が今でもあなたを愛しているなんて

 ジャズが似合う女、私ってやっぱりハード・ボイルドな女。
 私は、Lostを飲み干した。

 カウベルが鳴った。
「誰かが来たわ。いけない!こんなセンチメンタルな私を見ないで!」

「よう、エンジェル…黄昏ている場合じゃないぜぇ」
「げっ、純爺…」
 ヒョコヒョコと歩いて私の隣のスツールに飛び乗るように純爺が腰掛けた。
「街中の愚か者が騒いでいるぜぇ」
「何があったんだい?」
 ユウコは怪訝な顔をする。
 純爺が飲むのはいつも泡盛だ。
“龍”ってボトル、が用意された。渋過ぎる純爺。

「渋い、ボトル!それよりもさっきのセリフ・・・街中の愚か者が騒いでいるって!?純爺、なんてハード・ボイルドな展開なの!」
 純爺は私を見てニヤリと笑う。
 純爺は古本屋をやっている。でも、それは表向き、純爺は、なんと!ハード・ボイルドには欠かせない、“情報屋”なのだ。
「エンジェル、もういいのか?黄昏の乙女の演技は?」
「それを引き摺りながらもクールに生きるのがハード・ボイルドな女・・・なのよ」
「妙な野郎が街に紛れ込んで来たんだ」
 純爺は定番な演技で息を潜める。
 ユウコと私が耳を傾ける。
 マリアまでもがスツールに腰掛けた。
「マラエ・ランガを探しているんだ、マラエ・ランガのピアニストを知らないかと」
 ユウコもマリアにも緊張が走る。
「ママもマリアさんもどうしたの!これはただ事ではない!でも、私、分からない。ねぇ・・・マラエ・ランガって何?」
「太平洋に沈んだ伝説の楽園の名前だ、わしの古本屋に来い、エンジェル、詳しい本が揃っておるよ」
「純爺!この緊張感を台無しにしちゃう気なの?楽園伝説じゃハード・ボイルドにならないでしょうに!」

「この街にあった、マラエ・ランガなら・・・」
 ユウコがソロリと言葉を挟んだ。そして続ける。
「欲望という名の海に沈んだよ」
 と言った。

「ハード・ボイルドだわ、ママ。全身からハード・ボイルドなオーラが解き放っているわ!完璧な女」

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。
 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

「捜しているのはピアニスト・・・私、ということ?純爺」
 マリアは表情一つ変えないで純爺を見た。
 マリアの左手の薬指は動かないという。
 好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして素手で刃を握ってしまった女。それ以来、マリアの左手の薬指は動かない。肝が座っているのか?人生を投げているのか?さすが、この店に流れて来るだけのことはある女だと思う。ハード・ボイルドさではユウコに並ぶ。
「私が、マラエ・ランガと呼ばれていたこの店に流れついたことは業界では意外と知られた話よ」
「天才ピアニスト・・・と呼ばれたマリアだからね」
 ユウコが頷いた。
「しかし、マラエ・ランガと呼ばれたのは一〇数年も前じゃ、ということはその男の時間が一〇数年止まっているってことだ」
「そういうことだね、純爺・・・」
「店の名を変えたのはバーテンダーの冬木が抗争事件を起こして無期懲役に行ったからだったなぁ・・・ママよ」
「この辺一帯の地上げに泣かされて、もうおしまいだと考えた時、冬木は動いた。陣野の制止に耳を貸さずに」
「一人で殴り込んだ、陣野の敵対組織の出先機関である地上げ屋事務所にのう」
 陣野とは、この街を牛耳る昔気質の筋者、陣野組組長のことだろう。陣野は街の中心にあるタワービルの最上階に住んでいると言われるこの街の顔役だ。黒いシャツに黒いスーツ、黒地のネクタイに真っ赤なバラの花が一輪だけ。どこから誰が見ても筋者という格好をしている。
「漁夫の利を得ただけでさあ、冬木にやるべきことを横から掠られてしまった外道だと、陣野はこの街の顔役とまで呼ばれる男になっても、筋者だという自分の愚かさを忘れてはならないと全身黒づくめの服を来て人生を憂いでおるよ」
「愚か者さ、冬木も。だから・・・あたしは」
「Fool という名のBarと名前を変えて、愚か者を待っている分けじゃ」

 ハード・ボイルドな会話がさり気無く飛び交っている。
「なんてハード・ボイルドなの、この展開は」
 バーテンダーの冬木、噂は聞いたことがある。昔、ママに拾われた元筋者だったという男。ずっとこの店を、いいえ、ユウコを支え守って来た男。
「あたしはエンジェルが心配になって来たよ。余計な真似はしちゃダメだからね」
「ママ、大丈夫よ。私はコード・ネーム、エンジェルよ」
「キュートなだけでは、危ない橋は渡れんのじゃ、エンジェルよ」
「純爺の年齢でも、私がキュートなんだ?」
「わしの年齢は余計じゃい」
「エンジェルに危険はないかい?」
 ユウコの瞳を不安が走り、純爺に向いた。
「悪徳刑事岸村も坊主探偵も、もちろん陣野達も動いている・・・エンジェルには指一本、触れさすまいよ、ママ、誰もがエンジェルを大切に想っている」
 あまりにもさり気なく、私がいかに誰からも愛されているかという一言が流れてゆく。私がリアクションを入れる間もなく話は展開。
「それならいいけどね、で、純爺は何をしているのだい?」
「おいおいママ、わしは情報屋だから、ここで集まる情報を待っていればいいって寸法じゃ」
「年だしね、純爺・・・」
 純爺は苦笑してケータイを開いた。
「その年でケータイを使いこなすなんて凄いよ、純爺は」
「だからな、情報屋は最先端技術を取扱えなけりゃ商売にならん」
「なるほどね」
 ユウコが腕を組んで感心したという様に頷いた。私も同じように頷いた。決してユウコの真似をした分けではない。

 カウベルが鳴った。
 振り返る必要もない、騒がしい声で誰が来たのだか分かる。
 必ず二人セットでやって来る。
「疫病神みたいな顔をして純爺がいるってことはだ、噂は本当か?」
 と最初にダミ声で口火を切ったのは籔、優秀な大学病院の外科医だったが今ではこの街で“ヤブ医者”という看板を上げて闇医者をやっている。
「こんな闇医者や引退した殺し屋みたいな純爺よりも頼りになる私が来たからには安心しておくれママ」
 白衣を上着代わりに来ている籔とは違ってグレー系のスーツで紳士面したこの男は沢村正義、弁護士だが、変わり者だ。
 依頼人に“正義”がない限り、弁護を引き受けない。
 籔と沢村は幼なじみで親友だ。しかし、どちらもユウコにぞっこんでライバル心剥き出しでここに来る。必ず、二人でやって来てユウコを取り合い騒ぐ。たまに抜け駆けして一人で来ると借りて来た猫のように小さくなるという実は純情な二人。
「ママを狙う妙な野郎がうろついていると聞いて心配でよ」
 と籔が言えば
「籔は抗争があれば闇医者は儲かる、情報が欲しいだけだ、ママには私がついている」
 と沢村が身を乗り出し自分をアピールする。
 籔は元々大学病院で優秀な外科医だった。
 しかし、藪は患者の家族に同情し、助かる可能性がないにも関わらず手術を執刀した。患者は助からなかった。
 籔は告訴され医師免許剥奪の騒ぎまでなったが籔は強いて反論はしなかった。
 そこで全面的な弁護をして籔を守ったのが沢村正義だった。
 沢村は親友、籔のために鬼神の如く法定で熱弁を奮って籔を救った。
「そこに正義が見えたなら私は戦う」
 それが沢村正義と言う弁護士だ。
 二人の友情は堅い。
「ごめんなさい。ナイトのお二人さん。今回の事件は私を捜しているみたいなの」
 とマリアが声をかける。
「マリア、二人にはそんなこと言っても意味はない、ママの前で良い格好する口実があればいいだけなんじゃよ、この二人はのう」
「純爺・・・相変わらず、口が軽いなあ。そんなので情報屋が務まるのか?」
 と説教するのは“正義の味方弁護士”の方だ。

 ケータイのバイブ音。

「坊主探偵からのメールだ」
 皆の視線がケータイに集中する。
「慌てるな、今から読む。まず陣野のとこの若い衆三人が因縁をつけて襲ったが全員が簡単に捩じ伏せられたそうじゃ」
「ほう、まず三人の客が出来たと・・・闇医者繁盛しそうだぜぇ」
 と籔がニヤリと笑うと
「本性を現したな籔よ」
 と正義が素早くツッコミを入れた。
 全く息が合う二人だ。私の存在が希薄になるくらい濃い客達がここに集まっている。
「なんて濃いのここの空気というか、時間の密度」
「おっエンジェルいたのか?今日はやけに大人しいじゃないか?」
 藪がようやく私に気づいた。
「ははあ、エンジェル、ハード・ボイルドの匂いに胸をときめかせているのだろう?」
 すかさず正義の弁護士が私に顔を向けた。

 純爺のケータイが鳴った。
「今度は誰からだ?純爺・・・」
 と正義が睨む。
「おう、岸村の旦那、早いじゃあないか」
 また皆の視線が集まる中、純爺はケータイで通話を始めた。
「外国で傭兵だったと?それは手強いのう」
 純爺が電話を切った。
「岸村が警察組織のデータベースから調べて来た情報だ、間違いないだろう」
「傭兵上がりがなんのために・・・この店を知らないってことだから、地元人ではないってことだし・・・」
 弁護士の沢村が考えあぐねている。
「用心することに越したことはない」
 籔は柄にもなく心配気な声を出す。
「皆、無茶なことはしないでおくれよ」
「ママよう“しもべ”に餌をやるようなことを言っちまったな」
 みるみる、籔と沢村の顔がぎらついた。
「俺がついているぜ、ママ」
「私がついている、ママ」
「だから・・・聞いてないのかい?無茶しないでって」
「ママ、無駄じゃよ、ママのためなら無茶するために生きている様な連中じゃ」
 純爺がユウコの言葉を遮ったが、籔医者も正義の弁護士も全く他人の話は聞いてない。

♪  Layla
 ♪♪Layla, you've got me on my knees
   Layla, I'm begging, darling please
   Layla, darling won't you ease my worried mind

 さり気なくマリアのピアノ。クラプトンのレイラ。なんてシブい選曲。
 マリアのピアノは心を映す。
 いつだって本気で心配してくれる“しもべ達?”に囲まれているユウコがちょっと羨ましく思った。私もこんな女になりたい。

♪  Layla

「今夜は解散じゃな」
 と純爺が皆を見回しながら言ったが、誰も動こうとはしなかった。ハード・ボイルドの幕は上がったばかりって感じ。

 ユウコとマリアのガードは愚か者達に任せて私は店を出た。
 表にはなんと、黒塗りのベンツがいかにもって感じで止まっていた。
 運転席から陣野組の若頭、元木が降りて来て、後部ドアを開けた。全身黒で統一された服に身を包んだ男、陣野が降りて来た。もの凄い貫禄、圧倒的な威圧感、本物の筋者というオーラが放たれている。
「エンジェルだね?店には愚か者達が集まっているかな?」
「は、はい。エンジェルです。はい、店にはママの“しもべ達”が雁首揃えて待っているわ」
「ママの“しもべ”かぁ」
 陣野はフッと笑みをこぼした。微笑の中に優しさを感じた。ちょっと、渋いわ、このおじ様。
「元木、エンジェルを送ってやってくれ」
「はい、で社長は?あっいや、組長はどうするんで」
「あぁ、店にはママのしもべ達しかいないのならちょっと顔を出して来る、心配するな元木。自分の身体は自分で守れるさ」
「ちぃ、だから心配なんでさぁ」
 元木は陣野を一人にはさせないという勢いだ。
「陣野の親分さん、私は一人で大丈夫ですから。帰れます」
 と私が答えると陣野の鋭い視線が元木を射抜いた。
「わ、わかりましたよ。さぁエンジェル乗ってくれ。組長がお怒りだ」
 元木は肩を竦めてみせた。わりと面白い男なのかも知れない。ここは元木の言う通りにしないと後で元木がこっぴどく怒られそうだと思った。
 私が恐る恐るベンツの後部席に乗り込むと陣野はバーへ続く地下への階段を降り始めていた。
「組長、勝手に一人で街へ出ないで下さいよ。エンジェルを送ってすぐ戻りますから店に居て下さいよ」
 陣野が階段を降りながら軽く右手を振った。
 車が静かに発進した。
「元木さん、親分さんのことがホントに心配なんですね。それに親分さんは社長と呼ばれるのが嫌なんだ?何か分かる気がする」
「あの人は、ママのためなら命など簡単に捨てちまう、ママのしもべ達とエンジェルがさっき言っていたが、あの人もママのしもべさ」
「そうなの?」
 私は愛苦しい大きな瞳を更に大きく広げてしまった。
「いつだってあの店に飲みに行きたいのに、自分が行ってはカタギのお客さんに迷惑がかかると言って誰もいない閉店間際に行くんだ。店の看板が消えた瞬間、この前を通った時だけ飲むことが許されるって考えているのさ」
「なんて純情なの!親分さん」
「冬木が帰るまで、自分がママを守らないといけないと、いや、そう思いこもうとしているんだ」
「ホントは?」
「ホントは?組長がママを守りたいと想っているだけさ」
 元木がルームミラー越しにニヤリと笑いかけた。
「ママはこの街のヒロインね、やっぱり私の理想、ハード・ボイルドな女ね」
「ママの瞳があまりにも悲しいから、誰かが尋ねたそうだ、
『何がそんなに悲しいんだよ』
 ママが答えた。
『ふふん、女・・・だからさ』
 ってな。そんな女、誰だって惚れちまうだろう?エンジェル」
「女・・・だからさ・・・堪らないわ、そのセリフ。言ってみたい、私もそんなハード・ボイルドなセリフが似合う女になりたいわ」
 私はゾクゾクする想いに震えた。

 ※      ※      ※

 翌朝、私は昨夜からの高揚感を抱きながら退屈な探偵事務所に向かった。薄汚れた三階建てのビルの階段を使って昇る。エレベーターなんて文明の利器等このビルにはない。
「私の足が太くなったら労災を申請してやるから」
 私はぼやきながらも常にキュートな微笑は忘れない。
 三階まで昇り切った私は大きく深呼吸。肩で息をするような真似は決してしない。
 この階に七尾探偵社は二部屋も借りている。奥が事務所で、その手前の部屋は待合室になっている。レイモンド・チャンドラーの小説、孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所の模倣だ。ボスは英国紳士のシャーロック・ホームズ派のくせに、ハード・ボイルドの原点と言うべき、マーロウの事務所をモデルにするとはポリシーが全くない。肩を竦めたくなるところだが、私はまず出社すると待合室に入って隠しカメラのチェックを行う。
「ボス、おはよー」
 カメラに向かって、キュートな笑顔を見せるだけだけど。
 そして、隣の事務所に入ると、ボスこと七尾探偵社所長の七尾霊四朗がスリーピースに身を包み、菩薩の様な微笑を浮かべ、スキンヘッドの頭を撫でながら髪の擦り残しをチェックしていた。
「今日もキュートさが顕在ですね、エンジェル」
「ありがとーございまーす、ボスも相変わらず菩薩様のような凛々しさです」
 私達はいつもの朝の挨拶を済ませた。
「さて、エンジェル、今日は大忙しですよ。Foolという名のBarが絡んだ事件では街中の愚か者達が騒ぎ出しますからね」
「で、ボス。私は何を?」
 私はワクワクした気持ちを抑えきれずにいた。
「はい、エンジェルは全ての愚か者達の繋ぎ役になって頂きたい」
「ハード・ボイルドな展開を私がコントロールするわけね」
「えっ?そこまでは望んでは」
「お任せ下さい、ボス」
「いや、あの、エンジェル。危ない真似はさせないでとママに頼まれているので」
 ボスが横で何やら念仏を唱えているみたいだけど私の耳には入らない。

 ※       ※       ※

 私はマラエ・ランガを探す男にコード・ネームを付けた。元傭兵ということで、“ソルジャー”格好良すぎちゃったかな?でも、うちのボスは即、気に入って調査ファイルを作り、タイトルに“ソルジャー事件”と銘打っていた。
「そろそろ、愚か者の先行部隊、陣野組が因縁吹っ掛ける頃ですね」
 もうすぐ、夜の帳が降りる時間、ソルジャーがバー探しを始めるのを狙って、昨夜に引き続き陣野組がけしかける。でも昨夜は簡単に捩じ伏せられたから今回は若頭の元木までも出張るみたい。
「純爺からの電話です、エンジェル」
 ボスがケータイを開いた。
「えっ?逃げられた?純爺を含めて四人もいて?」
 ボスの言葉でガックリきそうなところだと思ったらそれは間違いよ。
「中々、手強い男ね、ソルジャー。次はこのエンジェルが相手よ」
 と私がほくそ笑んでいると、事務所のインターフォンが鳴った。
「これは急展開ですよ、エンジェル」
 と言って、ボスはカメラが写している画像を見入っている。画像には屈強なボディをした男が映っていた。
「渦中の男がやって来ましたよ。マラエ・ランガを探す男が」
「なんですって!彼がそうなの?ついてるわ、ボス」
「そうですね、エンジェル」
「はい、七尾探偵社です」
 私はインターフォンに向かって話した。上ずりそうなのを必死に押さえた。
「あっ、仕事を依頼したいんだ」
 男が答えた。
「隣の待合室でお待ち下さいませ」
 男は隣の待合室に入った。ボスがカメラを切り替える。
「エンジェル、無茶しないで下さいよ」
 ボスの心配など気にかけない。
「飛んで火に入る夏の虫、だわ!」
 私は思わず叫んでしまった。

 ※       ※       ※

 その日の夜、私はFoolという名のBarにいた。昨夜は深夜遅くようやく解散になったようだ。店にはユウコとマリアがカウンターの中で洗い物していて、愚か者は銃爺だけがいた。
「傭兵は店を探している。それなら店にいなければ安心だ。店を開ける時、誰かが付いていると言うことで話はまとまったんじゃよ、エンジェル」
「純爺・・・自分の古本屋、こんなに早く締めちゃっていいのかい?」
 ユウコはカウンターに泡盛 “龍” を用意しながら心配していた。
「情報屋で食っているんだ、古本屋は隠れ箕さ」

 昨夜はユウコとマリアは一緒にいた。傭兵はマリアが流れた店を探しているのだ。傭兵に悪意は感じられないが、本気で何か仕掛けるなら人知れずやるはずだからだ。マリアをひとりにするわけにはいかない。そして、二十四時間、交代で愚か者達が二人をガードしていたのは言うまでもない。ママのしもべ達の見せ場なのだから。

「エンジェル、あんまりウロウロしないでよ、心配だから」
 ユウコの心配顔に、私は微笑む。
「無茶はしないから大丈夫よ、ママ。それでね、コード・ネーム ソルジャーに昼間会ったの、話をしたわ」
「どういうことだい?」
 と言うとマリアも洗い物の手を止めた。
「七尾探偵社に依頼に来たのよ、昔、マラエ・ランガと呼ばれたBarを探してくれと、そこに流れたピアニストに会いたいと」
「会うわ、そのソルジャーに。純爺は、危険はないと感じているのでしょう?」
 マリアの視線が純爺に向いた。
「あぁ・・・悪意は感じない、しかし念のために愚か者達がガードするぜぇ」
「えぇ、お願いします」
「しかし、エンジェルよ。ソルジャーとは良いネーミングだなぁ」
「私って、センスいいでしょう?」
 私は可愛い鼻をツンと上げて見せた。そしてケータイを開いた。
「ボス!マリアさんが納得しました。ソルジャー誘導作戦に移行します!」
「誘導か、へたに連れて来ようとして暴れられたら面倒じゃからなぁ」
「そういうこと、ソルジャーにマラエ・ランガは、Fool という名のBarと名前を変えたとだけ伝えるわ」
「ソルジャーに自力でここに辿り着かせると言うことだな」
 後はここで待つだけ。退屈はしない、愚か者達が集合する。

 しかし、明日の夜は騒がしくなりそう。私はワクワクしていた。
「これが、ハード・ボイルドで良く言われる、血管をアドレナリンが駆け巡るって奴ね」


「ふざけた街だぜ、ここはよ。俺が何したって言うんだ?」

 俺はいきなり人相の悪い連中に取り囲まれた。夜の繁華街と言ってもまだ早い時間帯だ。筋者が出て来るには早い。
「それとも俺のJET LAGが見せるイリュージョンかよ」
 俺の取って置きのジョークに何の反応も示さない。最近のインテリやくざではないってことだ。
「JET LAGってのは時差ボケという意味だよ、わかるか?」
 全く反応無し。無教養な連中だ。
「この街のルールにそぐわないことを嗅ぎ回っているからだよ」
「俺が聞いているのはマラエ・ランガという店のピアニストを知らないかってことだけだぜ。なのに何故、お前等のような筋者が現れるってんだよ」
 ふざけた街だった。
 昨夜、適当に入ったスナックで「マラエ・ランガ」ってバーを知らないかと聞いて回っただけだった。それだけで人相の悪い連中に取り囲まれた。
「マラエ・ランガに何の用だ?」
「ちょっと、やぼ用でよ。どいてくんな」
 俺は少し斜に構えて気取って見せた。
 三人の筋者が一斉に身構えた。
「なんなの!お前等!やる気ならやってやるけど、俺、強いよ。殺しちゃうよ!」
 二人は大した奴ではない。しかし、正面の兄貴面した奴は手強そうだった。
 兄貴面が顎をしゃくった。二人がナイフを構え襲い掛かって来る。
 電光石火の早業っていうのはこういうことを言うのだろう。俺は二人のナイフを掻い潜り、あっと言う間にナイフを叩き落した。
 腕を押さえて蹲るチンピラの動きを目の隅にとらえながら、俺はショルダーに吊ったナイフケースからサバイバル・ナイフを取り出した。
 兄貴面の男も匕首を構えた。そして間髪をいれずにいきなり突っ込んで来た。俺はジョークの一つも飛ばせず、かわすのが精一杯だった。
「へへ、やるー」
「お前もな、素人じゃないな、お前、何者だ」
「へへっ俺かい?俺は飛騨洋平、飛んでる傭兵って覚えてくれよ」
「ふざけた小僧が。俺は陣野組若頭、元木だ」
 次の一撃で決まる。ぴりぴりした感覚。戦場を思い出す。こんな平和ボケした日本で俺が本気にならなくてならない状況がくるとは思ってもいなかった。
「待てよ、元木。話を聞いてからでも遅くはないだろう」
 俺の背後に音もなく人が現れた。俺の背中に冷や汗が流れた。全く気配を感じなかった。この俺がだ。後ろの男は只者ではない。
「若いの、そんなに緊張するなよ、ただの爺さ。元木もやめとけ、相打ち覚悟でやるなら別だがな」
 元木と呼ばれた男が匕首を下げた。
 俺はまだナイフを下げずに壁際に背中を向けた。
 ひょこひょこと爺さんが歩いて来る。
「わしは純爺じゃ。飛騨って言ったか、ナイフをしまえよ。話もできんて」
「そうだな・・・」
 俺は静かにナイフを下げた。これから話し合い?ドラマじゃないんだ。俺は間髪を入れずにダッシュした。純爺がひょいと体をかわした横を擦り抜けて俺は逃げた。こんなところで殺し合いをして警察に追われるのは馬鹿らしい。しかし、食えない爺さんだった。並みの爺さんではない。俺のタックルを予測していた。元木ってやくざも一癖のある奴だった。
「面白すぎるぜ、この街は」
 俺は顔に太い笑みを浮かべて夜の繁華街を疾走した。JET LAGな頭では危険な街だ。

 今夜はマラエ・ランガを探すのはやめて一度ホテルに戻ることにした。俺は人波に紛れて街を流れた。その方が安全だと考えた。
 この地方都市は十数年前に回りの四市が合併して政令都市となるために開発が一気に進んだ街だった。街の中心の駅には新幹線も停まり、成田への直行バスも出ている。駅前にはタワービルと呼ばれるビルが建ち、上層階は高級マンション、間にはホテルや企業が入り、下層階には専門店が入った複合ビルだ。その中のホテルに部屋を取ってある。もちろん高級だ。金ならある。俺は海外で傭兵だった。ただひたすら戦った。強くなるために、二度と友達を失くさないために。金など使う暇も作らなかった。
 タワービルに向かうメイン・ストリートの中で一つの看板に目が止まった。「七尾探偵社」俺は指を鳴らした。
「俺って冴えているかもしれないな」
 実際の七尾探偵社は、メイン・ストリートに面しているわけではなく、一本路地を入った場所にあった。看板だけ表通りに出してあっただけだった。どんな街にもある、ここだけ時間が止まっているかのような、取り残されたレトロな路地裏だった。
 俺は薄汚れた三階建てのビルの三階にある探偵社の窓にまだ灯りがあるのを確認した。
 エレベーターはなかった。階段を上り三階に上がった。七尾探偵社は二部屋を借りているようだ。
 階段から手前が「七尾探偵社待合室」と書かれていた。レイモンド・チャンドラーの小説に登場する孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所がそんな作りだったはずだ。俺は奥の事務所の方のインターフォンを押した。
「隣の部屋でお待ち下さい」
 可憐な女の声が答えた。
 俺は待合室に入った。ソファーとテーブルが置いてあるだけの部屋だった。
 少しすると缶コーヒーを持って女が入って来た。
「どうぞ」
 女は無造作に缶コーヒーをテーブルに置いて俺の正面に座った。皮ジャンに皮のズボンを履いていた。たまらなく可愛い顔と服装がアンバランスでそれがかえってこの女をチャーミングにしていた。普通、カップにコーヒーを入れて来るだろうと思ったが俺は歓迎されてないのかも知れない。この待合室には堂々と監視カメラが設置されてある。
「所長はもう少ししたら来ます。本当はすぐにでも来られるのだけど、もったいつけているのよ。安く見られないようにね」
 女は舌を出して笑った。
 俺も思わず笑い返してしまった。こういう女を相手にすると調子が狂う。
 女が言った通り、適度に待たせて男が入って来た。スリーピースにベレー帽、手にはパイプが握られていた。シャーロック・ホームズですと言い出しかねない男だ。
「お待たせしました。私が所長の七尾です」
 名刺を差し出した。菩薩のような微笑を顔に浮かべていて、声も細く、頭脳派探偵と言ったところだ。
「そして、彼女は私の助手で」
「コード・ネーム“エンジェル”です」
 女がでしゃばって名乗った。
 ふざけた探偵社だ。コード・ネームとマジ顔で言ってのけた。俺は帰ろうか迷いだした。
「まあ、こんな二人ですが仕事はきっちりやらせて頂きます。ご安心を」
 七尾は帰らすまいと身を乗り出してきた。エンジェルは横で大きく頷いている。
 俺は仕方なく話しだけはしてみる気になった。
「マラエ・ランガってバーを探している」
 俺は七尾の反応を見た。全く表情は動かない。
「そこに、十数年前、黒木と言うピアニストくずれの女が流れて来たはずでね。最終的にはその女に逢いたい」
 七尾は表情を全く変えずに俺の目を見ていた。
 横でエンジェルがメモを取っている振りをしていた。手は動いているがノートの上を交差しているだけだ。エンジェルは興味津津とした目で俺を見ていた。
「わかりました。やらせて頂きます。必要書類を作成願いますか」
「ちょっと待ってくれ、期限は三日だ。それ以上掛かるならこの仕事は依頼しないぜ」
 俺はこのふざけた探偵コンビがどうも信用出来なかった。無駄金は払いたくない。
「問題ありません。お金も後払いでいいですよ。それならいいでしょう?」
 この男は他人の腹の中が見えるのか。何もかも達観しているという自身に満ちた顔をする男だ。
「あんまり信用したくないが、後払いでいいなら頼むぜ」
「失礼ね、ボスはともかく、このエンジェルを捕まえて」
「まあまあ、いいではないですか。人間、素直が一番です」
 いきなりだった。七尾はベレー帽を脱いだ。綺麗に剃られた坊主頭が出てきた。
「いやあ、私はですね。昔、坊主だったのですよ。でもね、忍耐力がなくて坊主を首になってしまいました。人間、思うままに生きるのが大切ですよ」
 七尾は坊主頭を撫でながら菩薩の様な微笑を浮かべていた。エンジェルは笑いをこらえていた。
「あっそうそう、身分を証明するものはお持ちですか?」
 俺はやむを得ずパスポートを出した。エンジェルがひったくるように掴んで、コピーを頂きますと待合室を飛び出した。
「ふざけた街だぜ、ここは」
「虚構の街・・・と私は呼んでいます。いい響きだと思いませんか?」
「いいねえ」
 俺も不敵な笑みを返してやった。

 翌朝、俺は街の探索に乗り出した。昨夜のようにやくざに絡まれてもいいように武器は身につけた。日本で拳銃まで持ち歩くわけにはいかない。俺はこの十年、海外で外人部隊に入って戦争をやってきた。平和ボケした日本では武器はサバイバル・ナイフだけで十分だろう。
 行く当てがなく、俺は昨夜の探偵の事務所に顔を出したくなった。どこか憎めないエンジェルの笑顔が頭に浮かんだ。
 事務所のあるビルが見えてきたところで男に呼び止められた。よれよれのコートを着た目付きの悪い男だった。
「岸村って者だ」
 警察手帳を突き出した。
「職務質問させてもらおうか」
「俺のどこが不審人物なんだよ、刑事さん」
「叩けば埃が出るって面しているじゃないか、若いの!」
 俺は肩を竦めてみせた。
 半分、無理矢理に車に乗せられた。岸村は少し車を走らせると俺のドアの方を塀際に寄せた。自分がいいと言うまで車から出さないってことだ。
「昨夜、八時頃、陣野組ともめただろう。何があった?」
「特に何も被害は受けてない。警察に用はないな」
「陣野組を甘く見るなよ、この街の裏社会を牛耳っているのが陣野組だ。陣野に目をつけられてはこの街じゃ肩で風切っては歩けないぜ」
「ほう、刑事にそこまで言わせるってのは、陣野って奴は本物だな」
「お前、何をやっている?純爺まで引っ張り出してよ?」
「昨夜のおかしな爺さんのことか?何者だ?あの爺さん」
「自称、殺し屋だよ。元だけどな」
 俺は納得した。俺に気配を悟られず近づいた純爺だ。殺し屋と言われても全く違和感がなかった。
 そしてそこまで話を知っている岸村はこの街の裏社会と繋がっているということになる。
「本当にふざけた街だぜ、ここはよ。バーを探すだけでやくざと殺し屋に襲われ、悪徳刑事には絡まれてよ。仕事を依頼した探偵は元坊主で、その助手はコード・ネームがエンジェルとくるしよ」
「ほう、七尾にも接触したのか、お前」
「お前、お前言わないで欲しいなあ。俺は、飛騨洋平って言う者だ。飛んでる傭兵さ。傭兵だってちゃんとした職業なんだからな。真っ当に扱えよ、刑事さん」
「ふん、たった一日でこの街の愚か者の筆頭達三組と接触していればなあ、まともと呼ばれないのだよ、ここじゃ」
 岸村はエンジンをかけた。もう、俺には興味を無くしたのだろうか。
「七尾探偵社でいいのかい?送り先は?取り敢えず、龍舞会の残党ではなさそうだからな。飛んでる傭兵さん」
 龍舞会、俺の体に緊張が走った。しかし、それを表に出すほど俺は素人ではない。
 友を殺した男がいた暴力団。今は陣野組に壊滅させられていた。
「ついたぜ、マラエ・ランガは時期に見つかるさ。お前が妙な真似をしない限りな」
「マラエ・ランガってなんなんだ?」
「欲望という海に沈んだ幻の楽園だってよ。太平洋だか大西洋だかにあったそうだぜ」
 岸村は俺を路上に降ろすと高笑いしながら走り去った。
 朝の路地はひっそりとしていた。俺は探偵社に向かいながら路地を物色していた。
“やぶ医者”という看板が上がっていた。小さな二階建てのビルだ。やはり、ふざけた街だ。こんな病院に誰が行くというのだ。二階は“古本5648”意味不明な名前だ。
 その隣のビルには、思わず噴出したくなる名前があった。
“正義の味方 沢村正義弁護士事務所”とはどんな奴がやっているのか見るだけでも価値がありそうだった。そして地下には“「FOOL」という名のBar”とあった。愚か者が集まりそうな店だ。
 そしてその前にあるのが七尾探偵社があるビルだった。三階に向かって階段に足をかけた。
「臭うな、お前。傭兵だってな」
 後ろから声がかかった。白衣を羽織っただけのいかにも柄が悪そうな男が立っていた。その男は俺の足から頭まで舐めまわした。
「何?いきなりなんだ、おっさん?なんで俺を知っているんだ、ふざけた街だぜ」
「おっさんじゃない!俺は藪ってもんだ。これでも外科医だ。言っておくがな、俺は人間の医者で、お前等のための獣医じゃないんだぞ!」
 俺が言い返そうとすると、対面のビルの階段を駆け降りて来る男がいた。
「きな臭い男とは君か!」
 渋い茶系のスーツを着ている男だった。
「ふざけるなよ、あんたら。俺、強いよ。殺しちゃうよ!」
「わしが相手じゃ、若造!昨夜は逃げおってからに」
 俺は藪の背後の二階に顔を向けた。
「純爺!だと?」
 なるほど、古本5648、こ、ろ、し、や、という語呂合わせか。
「いい加減にしろよ、俺はバーを探しているだけだ。行方知れずのピアニストを探しているだけだ」
「今、七尾がお前のことを調べている。安全と分かるまで少し待て」
 正義の弁護士が腕組をして俺を見下ろしていた。
「俺を調べているだと?あのくそ坊主が!俺の仕事はやらずに?お前ら皆、グルか!」
 そして、次に現れたのがエンジェルだった。
「ボスの調査が終わったようです。今晩、十時に戻るってことで取り敢えず解散。飛んでる、傭兵さん。あなたにも後で連絡するから」
「よし、解散だ」
 あっと言う間に誰もいなくなった。
「ハード・ボイルド的な展開よね?ソルジャー?」
「ソルジャー?って俺のことかい?」
「期待を裏切るような真似はしないでよね、ソルジャー、だって傭兵なのでしょう?だからソルジャーってわけよ。私、ワクワクしているのだから。あっボスから伝言、マラエ・ランガは、今は名前を変えているそうよ。さあ、他の愚か者達にも連絡するから、後で逢いましょうね、ソルジャー」
 俺はソルジャーと呼ばれて少し喜んでしまった。俺にぴったりのネーミングだ。

 それから夜まで、怖いくらい何も起きなかった。十時までの時間を潰して回った。今夜はいかがわしい連中は嘘のように現れなかった。
 エンジェルからの連絡で、十時に“正義の味方 沢村正義弁護士事務所”があったビルの地下にある “Foolという名のBar”に来るように言われた。まだ九時だったが俺は店に向かった。別にあいつらが現れる十時に合せる義理はない。敵陣に乗り込むのだから先に行く方がいい。
 ドアを開けるとカウベルが鳴った。
「ふざけた街だぜぇ」
 俺は思わず口にした。
 店の中にはこの街に来て不愉快な思いをさせられた連中が雁首揃えて待っていた。
 カウンターの中にちょっと翳りがあるが瞳がくりっとしたいい女がいた。この店のママだろう。店の奥にはアップライトのピアノがあった。長い髪の女の背中が愚か者達の合間に見えた。
「ようこそ、ソルジャー、約束の時間より早く来るに違いないと皆が言っていたから時間をサバよんでおいたの」
「ふざけやがって。探偵エンジェルなんて名前からふざけていやがるけどな」
「だって、私にぴったりのコード・ネームでしょう?ソルジャーだって私がキュートだと思ったくせに」
「た、確かに・・・それにソルジャーって中々良いネーミングだ・・・」
「でしょう?」
 エンジェルが得意気に顔を上げた。
 小生意気な女、と想ってもそれを許してしまう何かを兼ね備えた女だ。
「俺が渡した調査料の前金は返してくれるのだろうな?」
「セコい!そんなシルベスター・スタローンみたいな身体して」
「知っていて教えなかったのだから返金だろう。まっ、それは置いといて、だ。でね、ここにいるあんたらも同罪だ」
 俺は身構えながら店の中にいる愚か者達に視線を走らせた。
 悪徳刑事、岸村の視線とぶつかった。
「俺を覚えていてくれたか?若造」
「暗い目をして、職務質問だと言って、いきなり連行しようとした、本物か分からないが岸村と名乗った刑事。お前、俺が何をしたと言うんだよ、健全な市民な俺を」
「ソルジャー、お前は市税を払っているのか?」
「えっ?イヤ、その、俺はここの市民じゃないから、ずっと海外にいたから」
「嘘をついたか?記録する」
「ちょっと待てよ、おい!何を記録しているんだよ!おいおい!お前は何者だ!?」
 昼間、藪と並んでいた茶系のスーツを着た男だった。
「誰か、教えてやってくれないか?」
「何で、自分で名乗らない?」
「彼は正義がない限り仕事は受けない、沢村正義弁護士先生よ」
「あっそうなの、ありがとうエンジェル」
「素直ね、ソルジャー」
 とエンジェルが親指を立てる。
「人間、素直が一番です」
 と言って唇に菩薩のような笑みを浮かべた探偵。
「確か・・・七尾。何が素直だ、あんたが一番素直じゃあない」
「マラエ・ランガは名前を変えたと教えて差し上げたのに」
「回りくどいんだ、この場所教えてくれたら済む話じゃないか?」
「皆さんが集まるのに時間が必要だったのですよ」
「俺はもう、まともに口をききたくない」
 と俺は頭を振った。
「うちの若いのが世話になったなぁ」
 真っ赤なバラの刺繍のネクタイ以外、黒で統一した、何処からどう見ても筋者全開の男が凄んだ。
「ヤルのか?あんた、俺、強いよ!殺しちゃうよ!」
「陣野って者だ」
 殺気。
 俺も陣野も無意識に戦闘モードに入って行く。ピンと空気が張り詰めた。
「待て、待て、陣野もソルジャーも」
 緊迫感をブチ壊すようにヒョコヒョコと純爺が割り込む。
「わしは純爺じゃ、おちつけよ、二人共」
「陣野さんよ、あんたのとこの若い衆はなぁ、いきなり『この街に何のようだ』って殴り掛かってきたんだぞ!因縁を吹っ掛けるどころじゃあない。まるでテレビドラマだ」
 フッと笑って、陣野は静かに殺気を収めた。俺も息をつく。
「陣野さんよう。あんたとやり合うなら俺も本気で戦闘モードに入らなければやられる、そんな男だよ。あんた。それにあんたとこの若頭、元木って奴もな」
「純爺よ、邪魔しくさって、俺の商売上がったりだぜぇ」
 と言ったのは汚れた白衣を上着のように引っかけた藪だ。
「彼はヤブ医者の先生」
 とエンジェルが説明する。
「ヤブ医者って本人の前で言うなんてエンジェルもCuteな顔して酷い人だなぁ」
「いいんだよ、俺は“ヤブ医者”って看板上げている天才外科医で藪って者だ」
「天才には見えないけど・・・ね」
 と言ってエンジェルにウインクされて、俺は照れ笑いを浮かべた。悪い男ではないようだ。
「赤くなっているぜぇ、こいつぅ」
 と指差したのは籔医者だ。
「うるさい!ホントふざけた街だぜぇ!ここは」

 そこで、パンパンと手を叩く音がした。カウンターの中の女がスツールに俺を招いた。
「愚か者達の自己紹介は終わったね?ようこそ、ソルジャー。あたしはユウコ、この店のママだ」
「ユウコママかい?愛嬌のある笑顔を向けているが、どうにもならない悲しい目をしているじゃないか?いい女だぜ」
 愚か者達がザッとカウンターの前に立ち塞がる。
「ふふん、なるほど、あんたらママのしもべか!道理でここに辿り着くのに苦労したのか分かった気がするぜ」

♪ ピアノの音・・・

「In a sentimental mood、JAZZのスタンダード・ナンバーだよ」

 とユウコが教えてくれた。そして、エンジェルの横のドアに一番近いカウンターのスツールを勧めた。全てを掌握出来る席を勧めるとは戦うってことを良く承知した女だ。そして、敵じゃないという意味だろう。

 愚か者達が道を譲り、ピアニストを庇うようにピアノの前に並んだ。
「俺は無知でね、戦うことしか知らないんだ、音楽なんて分からない」
「これはマリアの男が好きだった曲でね・・・その男は」
「もう、いない・・・か?バーボンをくれ、ワイルド・ターキーで」

 ショット・グラスにワイルド・ターキーを注がれた。俺はアルコール度が五〇度を超えるバーボン・ウィスキーを一息で呷る。
「あたしだってピアノのことなんて分からない・・・ピアノが音を出していたらそれだけでピアニストだと思ってしまうよ」
 ユウコは空になったショット・グラスを満たしてくれた。
「専門家がマリアのピアノを聴いたらとるに足りないものだと言うのかも知れない・・・マリアは素手でナイフの刃を握ってしまった・・・あの曲が好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてね・・・それ以来、マリアの左手の薬指は動かない・・・堕ちてゆく女の言い分けだけかもしれない」
「そんなわけないさ。柊さんが惚れた女だ」
 ピアノの音が止まった。
「あなたは、柊の使いなのね?」
 振り向いたマリアに俺は息を飲む。
 絶世の美女マリア。でも、悲し過ぎる目をしているのはユウコと同じだと思った。
「柊さんは、あんたの腕の中で死ねたのだな?」
「そうよ、よく辿りつけたものだと検死官は言っていたわ」
「柊さんはもう、助からないと感じていたのだと思う。あなたの元に辿りつけるかも賭けだったはずだ」
「何をやっていたんだお前等は。その頃はまだ餓鬼だろ?」
 と聞いたのは藪だ。
「俺達は違法なモノを捌いていた外道な餓鬼だったよ」
「それがその街を牛耳る筋者にばれて奴らは俺達を取り込もうとした。でも俺達は拒否した。あとは追われるだけだ・・・逃げなきゃならなかった。俺達は高飛びする手筈を整えたが奴等に嗅ぎ付けられた。そして・・・俺達、舎弟を逃がす為に柊さんは盾になって刺された・・・」
 俺はショット・グラスを飲み干す。

「ある日、俺達のアパートでテレビを見ていた時にあなたのレコード販売ベストテン入りのニュースと全国を回るコンサート情報が放送された。柊さんは照れたような顔をして、
『あのピアニストは俺の幼馴染なんだ。立派になっちまったけど彼女は』
 眩しそうにテレビを見ていた。
『頼みがあるんだが』
『柊さん、改まってなんです?何でもやりますよ』
 柊さんは鞄の中から譜面を取り出した。
『これをいつか、あのピアニストに届けてくれ。今じゃだめだ。今、彼女は大事な時だ。これからもっと売れる。俺みたいなチンピラが近づくことは許されない。そうだな、一〇年後くらいかな・・・餓鬼の頃の約束で、どちらかがプロになったらお祝いに一曲、プレゼントしようと言っていたのさ。どちらが先にプロになるか競争だと言って・・・彼女は忘れてしまっているかも知れないけどな』
 俺は一応、保管しておくと言って預かった」

 空になったグラスが黙って満たされた。

「そして、あの日、あの街にあなたがコンサートで来る日だった。俺は、柊さんにチケットをプレゼントした。柊さんは喜んでくれた。しかし、あの日の夕方、俺達は筋者に追われた。柊さんは盾となって俺達舎弟を庇った。
『逃げろ!』と言って柊さんは刺された。それでも必死になって俺達を逃がしてくれたんだ」

「そして・・・柊は私の元に来てくれた・・・」
「あぁ・・・俺達は皆、散った。俺は海外に高飛びするのに成功して傭兵になった・・・戦い続けたよ、もちろん正義の為になどじゃねえさ」
「過去を忘れる為には戦いの中に身を投じるしかなかったのだろう?ソルジャー」
「全てお見通しってことかい?ママ」
 俺が向けた笑みにユウコは頷いた。

「柊は私とは幼なじみだったの。一緒にピアノを習っていた・・・でも、柊のお父さんの仕事が傾いてしまって・・・ピアノなんてやっている場合じゃなくなってしまったの、柊は日に日に荒んで行った・・」
 マリアの瞳は悲しいままだ。過去を受け入れている。
「俺は、柊さんから預かったものがあるんだ」
「おっと、何かを取り出すならゆっくりだ、ソルジャー、まだ全てを信じたわけじゃない」
 と言う岸村の言葉に愚か者達が一斉に身構えた。
 俺はジャケットのポケットからゆっくりと封筒を取り出しカウンターの上に置いた。
 ユウコが中身を引っ張り出す。皆の視線が集まる。譜面だ。
「柊さんが残して俺に預けたものは一曲の譜面だ。もちろん俺に読めるはずがない」
 マリアが震える指で譜面を掴んだ。
「弾いてくれよ、これを託せるのは、あんたしかいない。だから、捜していたんだ・・・柊さんが死ぬ前に会いに行こうとしたピアニストの行く末を・・・」

「天才ピアニストと呼ばれていたマリアさんは怪我をして業界から消え、流れ流れてマラエ・ランガに流れついたと言う噂を頼りにここまで来たと言う分けですか・・・」
 と、坊主探偵が説明してくれた。

♪ ピアノの音・・・
 柊が最後に作った曲・・・
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

「哀しい旋律の中に、必死に足りないモノを求め、苦しみもがきながらもその先に希望を掴もうとしている・・・これは…“渇き”だね、この曲は、柊って男の“渇き”だ」
 と、ユウコが言った。
 誰も何も言わず、ピアニストの奏でる音に引き込まれて行く。

 マリアの頬を止めどなく涙が零れて逝く。初めて譜面を見て弾いているとは想えない。柊とマリアはこの曲を通じて一体になっている。

“渇き”

 それ以外のタイトルは思い浮かばない。
 愚か者達の“渇き”を癒してくれ。

♪ ピアノの音・・・は続く。

 マリアは声を上げずに泣いている。

「愛した男のために人生を棒に振った女・・・会えて良かった。柊さんの想いを運べたことが意味もなく嬉しいぜ」

「ソルジャー、あんたも愚か者の仲間入りってことだね」
「俺の奢りだ、ママ」
 ユウコがグラスを全員の分、用意する。
 ユウコがワイルド・ターキーを注ぐ。
 喉を焼くバーボンでは喉の渇きは癒されない。
「心の渇きを癒すのさ」
 愚か者の誰かが言った。
「俺はこの街が、この店が、いや多分この愚か者達が妙に気にいってしまったみたいだぜ」
 俺はグラスを掲げた。皆がそれにならう。
「ピアニストにも一杯奢りたい」
「ギムレットでいいかい?」
 ユウコはカウンターにプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。
 ミキシング・グラスに氷を詰めてジンとライムをハーフ&ハーフで注いだ。バースプーンでステア。ミキシング・グラスにストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注いだ。きっちり一杯だけ。
「クラシック・ギムレットだよ」
 ユウコはカウンターを出てピアノにギムレットを運んだ。
 マリアは一息でグラスを空けた。
「ようやく、俺もJET LAGが収まったようだよ」

 曲が変わった。ブルースだ。
 ギムレットのお礼のつもりなのか、俺にぴったりの選曲だと思った。



 Fool という名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

 Fool という名のBar
 と名を変えてどのくらいの時間が過ぎたのだろうか・・・
 この店を守る・・・いや、冬木はあたしを守るために戦い、無期懲役となった・・・
 その愚か者が帰れる日があるのかなど考えてもどうにもならない・・・とあたしは言い分けをしているが・・・
 Fool という名のBar
 と言う名が冬木を待っている証だとあたし自身が一番分かっている・・・

♪ ピアノの音・・・
♪  I'm A Fool To Want You

 マリアのピアノは心を映す。
 今夜は店を開ける前にカウンターのスツールに腰掛けて一杯だけ飲むつもりで水割りを用意した。
 ギムレットが飲みたい・・・
 一瞬、心が求めた。でも、あたし自身が飲むギムレットは作らない。あたしが飲むギムレットは冬木が作るモノだけと決めたから。
 冬木を失くしてあたしが禁じた唯一のことだ。
 マリアのピアノが心地よい・・・
 あたしは酔っているのか・・・

 カウンターの上・・・
 プリマス・ジンとローズ社のライムジュース・・・が並ぶ。
 ミキシング・グラスに氷を入れジンとライムをハーフ & ハーフ。バースプーンで手早くステア。ストレーナーを被せ、氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに中身を注ぐ。

「ママ、ギムレットです」
 冬木の指がギムレットを私の前に突き出す・・・

カシャ
 氷とグラスの触れる音・・・
 あたしの意識が覚醒へと浮上する。

♪  I'm A Fool To Want You

 会わない・・・会いに行けば冬木がやったことを認めてしまう。
 あたしは待つことにしたのだ。
 戻れるか分からない男を待っている・・・それがあたしの勇気だ・・・それが、あたしの想いだ。


 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が、愚か者を待つための店。

 そして・・・
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 今宵もまた、愚か者が紛れ込んで来るだろう・・・


 カウベルが鳴った・・・


「あぁ美味しい、ママに作ってもらうこのカクテル、月に一度の楽しみになっちゃった」

 この数ヶ月、月一ペースで来る女だった。
 多分、主婦で母親。でもまだ、女だと思う。
 子育ても一段落したという年頃だろう。
「アメリカン・レモネードというカクテルだよ。ワインが好きだと言っていたから」
「月にたった一度の客なのに、ママはちゃんと覚えていてくれるのね」
「定期的に来てくれたらそれが常連って言うんだよ」
「そうかぁ、私ね、この街で育ったの、結婚して今は違うけど・・・」
 ちょっと離れた街の名を言った。
 もう、電車では帰れない場所だ。
「今夜は実家に泊まるの。月に一度だけ、この街で、一人で暮らす父に逢いに来て、ご飯作ってあげて一緒に食べるだけ」
「親孝行だね、親父さん喜んでいるだろう?」
「うん、何気に楽しみにしてくれているみたい」
「そして、ここに飲みに来てくれるのだね、親父さんも連れて来ればいいのに」
「それが早寝なの。ご飯食べてから少し飲むとすぐに眠ってしまうの。でも・・・月に一度くらい、主婦と母親、忘れたいから。帰らないで一泊するの」
 彼女の微笑に引き込まれそうになった。

♪ ピアノの音

 マリアのピアノは心を映すという。
「あっこの曲、知っているわ」
「へぇ、あたしはJAZZならだいたい分かるのだけど、これは?」

 マリアは過去から流れて来たピアニスト。好きだった男の腹に刺さっていたナイフの刃を必死に引き抜こうとして、それ以来マリアの左手の薬指は動かない。一度はピアノを捨て流れるように彷徨ったマリアは気付くとこのバーのスツールであたしのカクテルに酔っていた。そしてなるべくしてなったという感じでここのピアニストになってしまった。

「Chiiちゃんと言う私のライバルのシンガーソングライターの曲、確か、Dear My Daddyって曲ね」
 と彼女はいたずらっぽく笑う。
「恋敵かい?そのChiiちゃんは?」
「当たり。どうして分かったの?ママ」
「あたしも女・・・だからさ」
「Chiiちゃんが大好きな人がいてね、いつもこの曲聴きなよ、あの曲聴きなよって薦めるから。薦められると、何かメッセージがあるんじゃないかって必死に聴いてしまう・・・まんまと」
 彼女はクスッと笑う。その瞬間、彼女は若返る。大人の女の余裕・・・その中に漂うような切なさが彼女を魅力的にしている。

「ふうん、音楽が好きなんだね、彼は」
 然り気無く、言ったつもりだけど・・・彼女の視線とぶつかった。
「こんな年でね、私さ・・・恋、したのママ、おかしいでしょう?それとも、ふしだらかな?」
「初めて逢った時から感じていたよ、あんた・・・」
「あっ私、夢美です」
 夢美の顔がパッと輝く。恋する女の顔だった。
「だけどね、ママ。私達ね、顔も知らないし、声を聴いたこともないのよ」
 あたしは言葉が出ない。
「それは・・・あれかい?出会い系とかいうヤツかい?」
「うーん。ケータイの音楽サイトだけど・・・出会いが目的ではないの・・・好きな音楽を話すのが目的でやっていたのよ、私」
 夢美は照れているのだろう、アメリカン・レモネードをストローで撹拌している。
「あっ私、何をしているのだろう、せっかくのツートンカラーのカクテルが・・・少し眺めてから少しずつ混ぜようと思っていたのに」
 夢美は舌をペロッと出して笑った。
 アメリカン・レモネードは、レモンを絞って砂糖を少々、冷たい水でレモネードを作り、浮かべた氷に赤ワインリキュール アカダマをフロートするように浮かべた二層のロングカクテルだ。
 ストローを添えて下層から飲んでもいいし、上層のワインリキュール部分から飲んでもいい。
 でも、あたしは軽くステアして飲みたい。
「でも、ママ、これは混ぜた方が美味しい」
「あたしと同じ意見だね」
「色は・・・そうね、汚れた血かしら」
 ゾクっとする、女の目をして夢美が言った。
「真っ赤な血の色は綺麗って言うけど、ワイン色って妖しいから好き」
「その、夢美の妖しさに彼は惹き付けられたのかな?」
「妖しい?ホントにママ?何か嬉しいです。私はただのおばさんだと思っていたのに」
「恋は不思議なものだね、特に女には」
「私、ちょっと誘惑しちゃったかな?彼を。どうせ、顔も声も分からないなら・・・なんて思った時もあったから」
「夢美は何故、彼・・・として意識をしたんだい?」
「そうか、私達、逢ったこともないのに恋人にしていたね。私が彼に惹かれたのは、そうね・・・文章の誠実さかしら・・・行間にさえ優しさを感じたような気がしたの。そして彼に漂う淋しさ・・・かしら」
「淋しさ?ふうん。文章は読む方の気持ちも乗るからね、何かが重なったのだろう、お互いの気持ちが」
「うん、最近、良く話すのは…私達シンクロしているねって」
 夢美はアメリカン・レモネードを飲み干した。
「おかわりを作ろうか」
 うなずく夢美のグラスを濯ぐ。
 レモン半分を絞って角砂糖を一つ、氷を入れたグラスに冷たい水。浮かんだ氷に アカダマ をフロート、今度はグラス半分がワイン色になるくらい注いだ。
「わぁ、ワインがいっぱいだね、ありがとうママ」
「ワインが好きみたいだね、でも・・・うちには純粋なワインは置いてなくてね」
「ママのカクテルは美味しいよ。アカダマポートワイン・・・懐かしい。子供の頃、お父さんに分けてもらって飲んだよ」

 ピアノは
♪  Dear My Daddy

「この曲は、お父さんへの感謝の歌なの。娘が実家を出る時に、一枚の水彩画を書いて渡されて・・・その絵にはシューズが描かれているの」
 あたしが不思議な顔をしていると夢美は続けた。
「それは地に足をつけて生きなさいというメッセージだったんだって・・・」
「なるほど。深いね・・・」

「ママ、ちょっと失礼。この曲を教えてくれた彼からのメッセージをチェックするから」
 夢美はケータイを開いて何かをチェックしている。
「今日は出張だったみたいで帰るとこだって。私が実家に来ていることは昨夜、メッセージ入れたから知っているんだけど」
「でも・・・まさかBarで飲んでいるなんて夢にも思わないのだろうね」
「書いておこう、アメリカン・レモネードを飲んで酔っ払いで〜す」
「心配するだろう?」
「いじわるかな?でも・・・」
「でも…心配して欲しい・・・」
「うん、女って欲張りね・・・」
「甘えることが出来る人がいるなら幸せだよ」
「ママは?」
「あたしは夢美より、ずぅっと年上だよ・・・」
「だけど、ママだって・・・まだ女でしょう?」
 やはり、夢美は大人な女だと思った。

「あたしの男は帰れるあてなどない・・・無期懲役さ。例え、あたしの為でも・・・彼が犯した罪は許さない。この店でいつもギムレットを作ってくれたバーテンダー。愚か者だよ」
「でも・・・ママは待っているわけだ」
 夢美はまっすぐにあたしを見つめていた。
「それが、あたしの愛だ。それが、あたしの勇気・・・」
「愛を貫くのが勇気・・・深いわ、ママの言葉も」

 夢美のおごりで私は水割りを作った。
「ピアニストのマリアさんにも何か作って」
 マリアにはギムレット。プリマス・ジンとローズ社のライムジュースをカウンターに並べた。
 シェイカーではなく氷を入れたミキシング・グラスにジンとライムを同じ量、ハーフ&ハーフで注ぐ。
 バースプーンがミキシング・グラスの中央で綺麗に回転する。
 ミキシング・グラスにストレーナーで蓋をして氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに注いだ。
「マリアにはクラシック・ギムレット」

「ママは自分の分のギムレットは作らないんいだ、分かるわ」
「そう、冬木というバーテンダーが作ったギムレットしか飲まないと決めたのさ。あたしが一番好きな飲み物だから・・・」
「女・・・ね。悲しいくらいママは女だね」

 今夜のあたしは楽しんでいた。夢美との会話が妙にあたしを刺激する。
「楽しいねえ。夢美、あんたと話していると」
「お互い、大人ですもの、でも私はママから見ればヒヨッコね」
「新しい恋が出来るだけ、その分だけ夢美は若い。それがどのくらいの時間なのか分からないけどね」
「もう一人でいいって決めていた。母親だけやっていたらいいのだって決めていたのに。ふっと心の隙間に入って来たの、彼が」
 マリアの曲が変わった。

「♪♪Ah 夢をみた・・・君をだきしめようとしたけど君は・・・するり消えた♪♪・・・これは 「夢」という曲・・・彼がとても好きで、僕の君への想いだって教えてくれた」

♪ 夢

 夢美はほんのりと赤い顔をしてマリアのピアノに心を預けた。時々詩を口ずさんでいる。アルコールを飲むことなど、普段の生活ではほとんどないのだと思う。

「♪♪Ah 疲れた・・・その瞳の奥はいつも寂しそう・・・♪♪」
 夢美が口ずさむ。

カシャ
 と氷とグラスが触れる音・・・

 夢美の意識が浮上して来る。

「偶然を運命と考えるのは恋の始まりなのだって」

「うん、そうかもね。でも出会いは全てが偶然さ。その中から何をチョイスしたかではなくて、何故、彼を選んだのかに意味があるのだと思うよ」

「ふうん。いいこと言うわぁママは・・・私たちね、同い年だったの。あるアイドルの話をサイトの中でしていて彼がそのアイドルとタメ年なんだと言われた時、えっ私と同じ、よかった!って思って、そのまま返信したの。彼も喜んでいた。同じ時代を生きていたのだねって」

「同じ時代を生きていた・・・か」
「それが偶然の始まり。それから急に親しみが湧いてきて私達、音楽以外の話もサイトの中でたくさんしたわ。まるで少年、少女のようにケータイを片手に深夜まで」

「どんな風に運命が重なっていたのだい?」
「うん、人から見ればたわいないことだけど・・・この街がそう」
「夢美はこの街で育ったと言っていたね」
「彼はこの街を経由して高校に通っていたの・・・だから私達十数年前に擦れ違っていたかもねって。笑われそうな話を二人でしたわ。馬鹿みたいでしょう?」
 と言う夢美の瞳は綺麗だった。
「よく考えればね、私達が知り合ったのは好きな音楽が一緒だったから。それは同じ青春時代を生きていたからなの。でも私がそう言うと彼は、偶然は必然なのさ、と切り返す」
「でも夢美は彼がそう返すことを願っていたのだろう?」

 夢美の瞳は正直だ。見る見る嬉しさが広がる。

「ママは全て、お見通しね・・・そう、この街は夢の中の街・・・」
「二人の青春時代が交差した街なんだね・・・」

♪ 夢

「♪♪でもホントは分かっている・・・この胸を揺らし乱す理由・・・♪♪」

 マリアのピアノは何を誘うのだろうか・・・夢美が口ずさむ詩が自然に心に流れ込む。あたしもこの曲を知っている・・・そんな気がして来る。

「♪ばかよね 君になんか恋をして♪♪・・・運命だったら、私達・・・それぞれの生活なんて持ってないのにね・・・十数年前に出会っていたはずなのにね・・・」
 現実を見つめる夢美の瞳は悲しかった。
「毎日、サイトの中でおやすみを言う時、彼はこう言うの・・・『いつも君を想っているよ』これは夢じゃない。現実よね?ママ」
 現実だよと簡単に言っていいのかあたしには分からなかった。でも何かがその言葉だけは現実だと思いたかった。

♪ 夢

「ある日、彼が言ったの・・・『君の声が聴きたい』って・・・」

♪ 夢

「・・・♪ たった一度でいいから・・・♪ その胸の中で・・・」

♪ 夢

「ある日、彼が言ったの・・・『君に会いたい』って・・・」

♪ 夢

「ねえ、ママ。ギムレットってカクテルは強いの?私にも作って」
 キンキンに冷やしたジンとコーディアル・ライムジュースをハーフ & ハーフでミキシング・グラスでステア。氷を入れたオールド・ファッションド・グラスに注ぐ。
 冬木が作ったギムレットの味があたしの心に広がる。
「クラシック・ギムレットだよ」
 夢美はグラスを傾けた。
「甘いけど、シャープ・・・覚醒する、そんなカクテル。あぁでも美味しい」
「昔の小説でフィリップ・マーロウという探偵がやわらかい甘さと鋭い強さが一緒になっていた・・・と言ったカクテルだよ」
 夢美はグラスを傾ける。
「私は、『私達、今、会ったらこのままではいられない。このままでは済まない』と書き込みした・・・」

♪ 夢

「私は、『妻を辞められても、母親は辞められない』と言ったの」

 夢美はグラスを呷る。
 カシャ
 と氷が響く。

♪ 夢

「・・・♪♪まさかね、こういう気持ち知りたくない・・・だめよ、君のこと考えるのは・・・♪♪」
 夢美の頬を走るように、涙。すぐに消えた。

「私のその返信を見た後、彼はこの曲、“夢”の詩を送ってくれたの・・・そして、最後の一行に『母親を辞められない君が愛しい』って」
「彼は、そんな夢美を全部、愛しいと言ったのだね」
「だから、決めたの。この恋を続けるって!切ないよね、きっと。これからもずっと」
「それが大人の恋さ。クラシック・ギムレットのように、甘さと強さがなければ続けられないよ、夢美」
「飲み干すわ!ギムレット」
 夢美は残りのグラスを一気に飲み干した。
「ママの強さが欲しい。バーテンダーを待つママの勇気が欲しい」

「あたしはここにいる。くじけそうになったらここにおいで。クラシック・ギムレットを飲ましてあげるよ。甘さと強さが一緒になったギムレットを作ってあげるよ」

 夢美はケータイを開いた。
「彼にメッセージを入れなきゃ、とっても心配しているみたい」
彼が心配していることが嬉しい。夢美の顔が輝く。ケータイを滑る指が軽やかな気がした。
「『これからタクシーで実家に帰るよ』って送信しました」
 ケータイを握りしめた夢美は今、恋する女だった。

「私がサイトに入ると、ほぼ同時に彼も入って来る・・・それさえも偶然ではなくシンクロしているのだって想いたくなる・・・おかしいよね」

♪ 夢

 ♪♪ たった一度でいいから・・・その胸の中で・・・♪♪

 夢の中の夢の街でしか会えない。切なくて、それでいて幸せな恋。

「いつも彼にChiiちゃんの曲を紹介されるから、私の方から最近薦める曲があるの。桑田佳佑の『愛しい人に捧ぐ歌』、そのまんまでしょう?この曲で私への想いをレビューにしてと頼んだの」

 夢美は勘定を済ませ、スツールから降りた。
「♪今度生まれ変わったら、一緒に街を歩こうよって・・・彼が答えた。でも、その前に私を見つけてもらわなきゃね」

 あたしは静かに頷いた。
 曲が変わった。

♪ ノスタルジア

「この曲も知っているわ・・・『ねぇ、連れ去ってよ、今』って私が言ったら彼はどんな顔をするかな?」

 カウベルが鳴ってドアの外に夢美が消えた。
 そこは現実の街か、それとも夢の街か?

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。


「ねぇ、ママ、二人で初めて一緒に撮った写真」
 と言って夢美がケータイを開いて写真を見せた。それは西日に映ったふたつのシルエットだった。

「一緒の写真を撮っても、しまって置くことも出来ない私達って切ないね。このシルエットだけが精一杯」
 一緒に写真に写ることが許されない二人。ふたつのシルエットはどこか切なくてもどかしい。寄り添うことが出来ない、重なり合わない二つのシルエットに揺れる隙間に目が行ってしまった。
「逢わない、逢うのが怖いと思っていたのにさ、逢ってしまったの」
 夢美はアメリカン・レモネードを静かに撹拌しながら言った。
 あたしは、『妻を辞められても、母親は辞められない』と言った夢美を思い出した。
 マリアのピアノは何か音を探しているように鍵盤の上を模索している。

♪ もう少し あと少し

 ZARDの曲だ。許されない恋人達の切ない想いを歌っていたはずだ。

「彼が不安に思っていたから思いきって逢おうと決めたの」
「それが、彼と初めて逢った時の理由なのだね」
「ただの暇潰しじゃないかって思われたことがあった。あの時も、逢う、逢わないのやり取りから軽いケンカをした後だった」
「『八月末までじゃなきゃ時間が作れない。あなたがそう言うなら、よし、逢おう』って時間的な都合を言い訳にしたわ」

カシャ
 氷が溶けてグラスに触れた。

「私達は顔も知らないまま、逢うことを決めたの。私、前日から、逢うまで何も喉を通らなかった。夜もよく眠れず、朝が近くなるにつれ、不安はどんどん大きくなっていったよ。後ろめたさとワクワク感とで。まだ陽が高い夏の日の夕方に彼の会社の近くの大きなスーパーの駐車場で逢う約束をしたの」
「昼間のスーパーなら夢美も少しは安心するかと考えてくれたのだろう」
「ウブな私を気遣う優しさかしら」
「ただ逢いたい一心さと、極力、夢美の心の負担を失くしたいという優しさなのだろう」
「ケータイで話しながら駐車場に入って行った。ケータイを耳にあてながら車を降りる彼を見つけた時、お互い『あっ』と笑ったの。あぁ ほんとにこの人はいたんだって思った」
「ふうん、初めて二人が空想からリアルになった瞬間だね」
「どんな人か想像つかないし、旦那さん以外の男性に逢いに行くなんて考えられなかった。逢っている間は何を話したかなんてよく覚えてないわ」
「逢いに来てくれたこと、夢美の気持ちは届いていたさ」

♪ もう少し あと少し

「バイバイしてからは、罪の意識と、又、逢いたい気持ちがぐるぐる回っていたわ。一時間ほど、一緒に歩いただけなのに・・・別れた後、泣きそうになったよ。何でかな?一人で居たくなくて、自宅にすぐ帰ったよ。誰でもいいから家族に逢いたかった。そうしないと、そうしないと・・・現実を棄ててしまいそうだったから。あれっ?今も 泣きそうだぞ」

 数十年前にこの街ですれ違っていたかも知れないと、青春時代の恋人を想わせるような二つのシルエット。その隙間を埋める一歩が踏み出せない二人。

「若かった頃、二人が交差したかも知れない街かい・・・」
「私は結婚するまでこの街に住んでいたわ。凄い昔の話なんだなぁ。嫌になるくらい年を取ってしまったわ」
 夢美がアメリカン・レモネードを飲み干した。
「“ミラノの恋 ”というカクテルを作ってあげるよ」
「楽しみ。それはママのオリジナルなの?」
 あたしは、ディサローノ・アマレット、レモンジュース、ソーダ水をカウンターに並べた。
 グラスに氷を詰めて、ディサローノ・アマレットを四五ml、レモンジュースを二〇mlを入れてソーダでグラスアップ。軽くステア。
 グラスは一杯だけ。夢美の前に差し出した。
 夢美は一口飲んで、ぱっと顔を綻ばせる。
「ミラノの恋・・・ロマンティックな名前ね、ママ」
 
「純愛伝説があるんだよ、このディサローノ・アマレットというリキュールにはね」
 
 一五二五年、ルネッサンス時代のイタリア、ミラノ北部のサローノ村にあるサンタマリア・デレ・グラツィエ教会の聖堂にキリスト降誕の壁画(フラスコ画)を書くためにベルナディノ・ルイーニという画家が赴いた。ルイーニはレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だと言われている。

 ミラノの北、サローノ町の聖堂で壁画を描く画家ルイーニ。壁画を描く間、ルイーニが滞在した民宿の女主人は、若く美しい未亡人だったそうだ。

『壁画は順調なご様子ですね』
『はい、今夜、聖母マリアを描いて完成です』
 
 精魂込めて壁画を描くルイーニ、それをそっと見つめる女主人。

 朝、聖母マリアの壁画の前で眠るルイーニ。

 そっと完成された壁画を見つめる女主人。

『あぁなんてことでしょう。なんて素敵なマリア』

 そこに描かれた聖母マリアは、女主人その人だった。

 ピアノの曲が変わった。

♪ ノスタルジア

 Chiiの曲だ。

「お礼にと彼女が贈ったリキュールが杏子の核を原料したディサローノ・アマレットだった。繊細な優しさに秘密の成分を混ぜて作った琥珀色のリキュール」

「うん、素敵な物語、言葉にならない」
 夢美がグラスを傾ける。
「ノスタルジア・・・この曲は許されない二人が凍てつく街で想い合う・・・画家ルィーニはどんな想いでミラノを去るのだろう?」
「女主人は、連れ去ってよと想ったのかしら・・・」

♪ ノスタルジア

「私達が知り合ったサイトには何十万人もいたのに出逢ってしまった。それは何故?それもこの街で青春時代を過ごしていたなんて初めは何も知らなかったのに。同学年だと知った時、心が引き寄せ合ったのを覚えているわ」
「そして、この街。この街を知っていたから」
「擦れ違っていたかも知れないねと言った彼の言葉に私は何かを感じた」
「そう、彼を、顔も知らない彼に逢ったかも知れない・・・きっとそれはノスタルジア・・・」
「通り過ぎた私達の青春時代・・・あの頃、出会っていたら、私達はどうなっていたのかしら」
 夢美はケータイを開いて二人のシルエットの写真を見た。
「この画像は、ロック出来るフォルダーをダウンロードして保存したわ」

♪ ノスタルジア

「 二つのシルエットの隙間を埋めるために一歩、踏み出すことは勇気だと思う?ママは」
「隙間を埋めてしまえば、歯止めがなくなるよ」
 とあたしが言うと、夢美が頷いた。

「堕ちて逝くだけ。きっと止まらない、私達・・・私ね、彼と逢ってから帰るといつも前に進めなかったことを後悔する・・・でも、進めない。今の家庭が不幸な分けではない、満足している分けでもない。でも進めない」


「ふたつのシルエットに色がつくことはないのかい?」
「シルエットに私達の顔が浮かんだら、背景が色褪せてゆくような気がするわ」
「現実が消えてしまうってことかい?」
「夢の街、私達は青春時代の夢の街にノスタルジーしているのかな?」

 現実の中ではふたつのシルエットには色はつかない。それは悲しいくらい純粋で、切なくて、そして若かった頃の幻のような儚さ。
「恋をしただけ・・・ではいけないかい?答えになってないかも知れないけど」

♪ ノスタルジア

「帰らなきゃ。『ねぇ、連れ去ってよ』 なんて言ったら彼は困るだけだもんね」
 夢美が悪戯っぽく微笑む。

 夢美はスツールを降りた。 
「おやすみ、夢の街で」

♪ ノスタルジア
 
 マリアのピアノは今宵も心を映す。

 人は遠い昔に失くしたものを求める、それをノスタルジアと呼ぶのだろうか?

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 あたしはユウコ。Barのカウンター越しに毎夜、様々な人生のワンカットシーンを見て来た。
 時にそのワンカットシーンをフィルムのように繋いで見ることがある。
 そこに浮かび上がる人生の悲哀、喜びにあたしが作ったカクテルが添えられた時・・・
 愚か者達の心が少しだけでも満たされたなら幸せだと思う。

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。
 今宵はどんな愚か者達がやって来るだろうか・・・

 ドアが開いてカウベルが鳴った。

 マリアが傘を畳みながら冬の気配を連れて入って来た。
「ママ、外は冷たい雨がしとしとと降っているわ」

「雨か、この地下のカウンターの中にいると天気の変化さえ気付かないことがあるね」
「着替えて来ます」
 と言って、マリアは店の奥に消えた。

 マリアは気がつくとこの店のピアニストになっていた。
 そして今ではこの店の酒のように、この店には必要不可欠な存在になっている。
 マリアのピアノは愚か者の心を映す。
 人の心が読めるのかと、ふと思ってしまうくらいぴったりの選曲が愚か者の心に入り込む。

 いつもと同じように黒いドレスに着替えたマリアが店の奥のピアノに向かう。
「こんな雨の夜は悲しくなるね、ママ」

 マリアの指がピアノの上に走り出す。

♪ ♪ ♪

 初めて聴く曲だった。
「私が好きなChiiの曲・・・雨のリグレット」

 なるほど、リグレットだと思う。
 哀愁が走る曲。
 どこかもどかしくて、切ない・・・リグレット、そう後悔に涙したくなる、こんな夜にぴったりの選曲だと思う。

カウベルが鳴った。
 入って来た今宵の愚か者は珍しい組合せだった。

「珍しいじゃないか。藪医者先生が岸村の旦那とつるんで来るなんて」
 藪医者とは嫌味を言っているのではなく、藪という苗字に“医者”を付けて、“藪医者”と看板を上げているからだ。
 実際はヤブどころではなく、天才外科医として名を知られた大学病院の医師だった。
 この街に流れて来てからは表の診療はほとんどやらず、闇医者だという噂だ。
 数年前、患者の家族の悲しみに耐えられず、助かる見込みのなどない患者のオペを強行し、患者を死なせてしまった。
 裁判沙汰になり、医師免許剥奪という騒ぎになり、それだけはさせないと弁護したのが藪医者の親友で沢村正義という弁護士だった。
 藪はいつも沢村と二人で必ずやって来てライバル心剥き出しで騒ぐ。
 ありがたいことにあたしを口説きに来るのだ。二人は親友であり、恋敵でもあるわけだ。

「抜け駆けかい?藪先生」
「ママ、男、藪はそんな真似はせぬ。正義には岸村の旦那と先に行っていると伝えた。今頃、奴はヤキモキしながら仕事を進めているだろうぜ」

 時々、一人で抜け駆けして来ることがあるが、どういう分けか借りて来た猫のように静かになってしまう二人だった。
 親友を裏切ることが出来ない男達なのだと思う。
 あたしは岸村のヘネシーをブランデー・グラスに注いで出した。
 藪にはプリマス・ジンをロックで出して半分に割ったライムを皿に並べて添える。藪はライムを絞りながらジンを飲む。
 ジンは昔、熱病の特効薬として開発された由緒正しき薬なのだと藪はうそぶく。

「見つけたのだよ、ママ。奴を偶然に」
 岸村がブランデーを呷りながら吐き出すように言った。
 岸村の暗い目が更に深い闇を見ているようだ。
 岸村は犯罪者になって逃亡している友達を捕まえるために刑事になった。悪徳刑事と蔑まれながら裏社会に癒着して情報を探していると噂されていた。

「この街に現れたのだよ。女と同棲しながら流れて来たのさ。あいつが、よりによって俺がいるこの街に」
 岸村の空になったグラスをあたしは黙って満たした。
「奴と繁華街のど真ん中で鉢合わせしてしまったのだ。奴も愕然とした顔を俺に向けた、と同時に奴は俺に向かって拳銃を構えた。街のど真ん中で発砲されるわけにはいかなかった。だから、俺はよ、ママ・・・ダチをこの手で俺の拳銃で撃っちまった」

 藪は苦虫を噛むような顔をしながらライムを自分のグラスに絞った。
「ジンが効くぜえ、こんな夜にはよ」
 藪は一息でグラスを空けた。
 あたしは藪のグラスにジンを注ぐ。
「岸村の旦那がよ、うちの診療所のドアを叩くのさ。ガンガンとよ。俺は闇医者だぜ、昼間はやってねえとドアを開けたんだよ」
 藪はもう一つのライムを絞ってグラスを揺らした。
「岸村が血だらけの男を担いで立っていやがった」
 藪はその時の状況を自分で味を調整したジン・ライムを飲みながら説明した。

 岸村は自分で撃った友達を降ろして

『助けてくれよ、先生よ。ダチなんだよ。こいつは俺のダチなんだよ』

 と友人の血で汚れた岸村は鬼気迫る顔をして藪に縋ったそうだ。

「どうにもならねえさ。もう、そいつは生きてなかったんだよ、ママ。岸村は遺体を担いで俺の所まで来たんだ」
「そうすることしか出来なかった。他に考えることが出来なかった」
 岸村の目は何も見えないように虚ろだった。
 周りの状況を的確に判断し刑事としての本能で友達を射殺した刑事、岸村の悲しみを何で裁けるのだろうか。

♪ 雨のリグレット

 マリアのピアノが現実に引き止めてくれる。
 雨の街で起きた偶然が引き起こしたリグレット

「ママ、何かカクテルを作ってくれないか?太宰ミキオ、それがあいつの名前だ。ミキオを送るために」
 と言う岸村の言葉を聞いて息を呑んだのはあたしだけではない。
 マリアのピアノも音が止んだ。

 いつも雪乃という同棲している女とこの店で静かに飲んでいたミキオ。あたしは酒棚から“太宰”というネームタグがついたウィスキーのボトルをカウンターに置いた。
 岸村の目がネームタグに吸い込まれた。
「ここに来ていたのか?あいつは・・・」
「ああ、そうだよ。彼女と一緒にね。過去があるとは思ったけどね。まさかミキオがお前が追っていた友達だったとは」

♪ Summertime

 ミキオの中の何かを眠らせようとするかのようにマリアはいつもこの曲を彼らに弾いた。

「サマータイムか・・・子守歌だったかな?確か」
 藪が目を閉じてピアノに耳を傾ける。

 あたしはミキオのボトルとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。

「オールド・パル。古い友達っていうカクテルだったかな、ママ」
「ミキオのボトルから作った」
 あたしは岸村の前にカクテルを置いた。
 岸村は静かに呷った。

「ああ、ほろ苦くて、かすかに甘くて・・・美味いよ、ママ。餓鬼の頃を想い出す。そんな気分にしてくれる」
 岸村はふう〜と息を吐いた。
 悪徳刑事と蔑まれながら犯罪者となった友達を追いかけ、何かに取りつかれたように裏社会を彷徨っていた男。

「ようやく、息がつけたかい?旦那」
 あたしはオールド・パルのグラスを下げた。
 岸村は目を閉じて頷いた。

♪ Summertime

 子守歌が今はミキオへの鎮魂歌のように心に入り込んで来る。
 雪乃はどうしただろうか?ミキオの優しさに反発して、気がつくと浮気をしてしまう女だった。
 雨の街。ミキオの魂を探しながら彷徨う、雪乃の姿が目に浮かんだ。

 曲が変わった。
♪ 雨のリグレット

『全部、黒く塗り潰せたらいいのにな。白黒つけなくて済む』
 と岸村が数週間前に言った言葉が蘇った。

 カウベルが鳴った。
 ドアが開くと外の雨音が響いた。
「遅くなってしまった。揃っているか愚か者達」
 雨に濡れたコートを脱ぎながら沢村正義が言った。

「けっ、愚か者は正義、お前だろうが。折角掴まえた金持ちの坊っちゃんの弁護の依頼を断ってしまったのだろうがぁ」
 と藪が顔をネジ曲げて振り返った。
「ふん。その小僧には正義など欠片もなかったからな。弁護など必要なあい!」
 沢村は藪の隣に腰掛けた。

 正義がなければ弁護を引き受けない弁護士。まるでお伽の国の弁護士のようだとあたしは思う。
 でも、そのキャッチフレーズが浸透すれば沢村が受けた弁護には正義があると世間に知られることになる。裁判が有利に働くことがあるのかどうかはあたしには分からない。
 弁護士というと普通は、沈着冷静で冷徹なイメージを抱くものだが、沢村正義はここで見ている限り、熱く正義を追いかける男だと思う。
 沢村が飲む酒はテキーラ・エラドゥーラ。

 ショット・グラスにテキーラを注いで、サングリータをチェイサーとして並べる。
 沢村はサングリータを口に含み、テキーラを喉に放り込む。
「効くう。ママが作るサングリータは最高だよ。覚醒する」

 サングリータはトマトジュースにオレンジ、ライムジュースを加え、ウスターソース、胡椒、塩、タバスコをよく混ぜて冷やしたものでテキーラと同じショット・グラスに入れて出すスパイシーなジュースだ。
 作り方は沢村本人に教えられた。作る時にはいつも五〇〇mlのペットボトル一本分くらいを作っておくようにしている。
 藪はライムをジンに自分で絞って入れるだけだから、手の込んだチェイサーを沢村の為に作ることに焼きもちを妬くかと思ったが違った。
 お互いに酒の飲み方には一切ケチをつけない暗黙のルールがある様で、それは徹底している。
 それは、藪や沢村だけではなく、他の愚か者達にも共通していた。
 自分の飲み方にこだわりを持っている連中だ。そしてそれを他人に強要しない。

「さて、本題だ。諸君」
 一息ついたところで沢村が言った。

「何かあったのか?先日のソルジャー事件じゃないが」
 それまで黙っていた岸村が沢村に視線を向けた。
 藪もグラスを置いた。
「ところでママは何処かで自分の肖像画を描かせたことがあるのか?」
「なんだって?あたしが?あるわけないだろう?」
 沢村の意外な質問にあたしは噴き出した。
「だろうなあ。絵を描いてもらう間、じっとしていられるタイプじゃないものな」
 と言った沢村の言葉に藪が大きく頷いている。
 岸村もフッと笑みをこぼした。
「なんだって?それはどういう意味だい?」
「まあまあ、ママ。ここは落ち着いて話を聞こうじゃないか」
 藪が大げさなジェスチャーであたしをなだめる。
「ママの肖像画らしき写真を持って街をうろつく奴が現れたようだ。エンジェルが騒いでいるよ。ハード・ボイルドの幕開けだとな」
 あたしは大きく肩をすくめてみせた。
「あたしに似た絵を持っていただけじゃないのかい?」
「その絵には名前がついていたのさ。ユウコって女を捜しているようだ。七尾探偵社に依頼があったそうだから」
 あたしはその写真を視たエンジェルの大きな瞳がきらりと光る瞬間が目に浮かんだ。

「じゃあ早速、俺が職質して来るぜ」
 岸村が身支度を始めた。
「ちょっと待ちなよ。その人が何かした分けじゃないのだから」
「何かしてからじゃ遅いだろう。ママには指一本触れさせねえよ」
「何だって!岸村」
 藪が立ち上がろうとした岸村を押さえつけた。
「聞き捨てならねえ。お前はいつからママに」
 藪の目が据わっていた。
「俺が追いかけていたダチの件は終わったからな」
「だからと言って今度はママを追いかけるというのは浅はかというものだろう」
 と沢村も岸村の前に立ちはだかった。
「また、あたしを取り合いしてくれているのかい?嬉しいねえ」
 愚か者達はあたしが無期懲役となった冬木を待っていることは承知している。帰れるあてなどない男を待つ。でもそれがあたしの愛し方だ。勇気だ。

「ぶれない愛を貫くママに惚れたのさ」
 と誰かが言ってくれた。
 そんなあたしを視て愚か者達は安心するのだろう。
 何処かの街の片隅で、はぐれてしまいそうな愚か者達にとって、あたしは道標のような存在なのだろうか。

「こんな夜中に職質もないか、今夜は飲むとしようか」
 岸村が腰を落ち着けた。
「正義よう、岸村は平気な顔で抜け駆けする奴だぜ」
「藪よ、これは私達にとって由々しき事態だ。最大の危機だ」
 と藪と沢村がこそこそと話し合っている。
「両先生よ、俺はあんた等と違って一人でもここに飲みに来るぜぇ。一人になると照れて大人しくなってしまう両先生とは違うぜ」
「き、岸村。お前って奴は・・・」
 藪と沢村は可愛く思えるくらい悔しそうな顔をする。

♪ 雨のリグレット

「ママ、オールド・パルを今度は俺のボトルで作ってくれ。この二人にも」
「ブランデーでかい?それじゃぁ、それは新しいカクテルだね。名前を考えておくれ旦那」
 あたしは岸村のヘネシーとドライ・ベルモットとカンパリを等分ずつミキシング・グラスの中に入れてステアした。
 グラスを三つ並べて注ぐ。
 藪と沢村は何も言わずグラスを受け取った。
 三人は同時にグラスを傾けた。
「名前は、リメンバーだ」
 岸村がニヤリと笑って言った。
 藪も沢村もあたしのことでは騒ぐくせに人が飲む酒には嫉妬もしなければ何もケチはつけない。愚か者の流儀は徹底していた。

♪ 雨のリグレット
   ♪♪雨がしとしと降る音を聴けば・・・リメンバー・・・♪♪

 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。