はらぺこドレスメーカー

 とある洋裁学校に通うとある青年。
柏原カナメは思い悩んでいた。
「どうしよう……
課題用の布買ったら食費が……」
 洋裁学校に入って一ヶ月、早速課題を作る事になったのだが、講師曰く『初めのうちは安い布よりも、ちゃんとした良い布を使いなさい』との事で、初めての制作課題は、手入れは少し難しいが縫いやすいと言う、少し高価なウール100%の布を指定されてしまったのだ。
 カナメは、実家から東京に出てきて、アパートで一人暮らしをしていてバイトをしていない。
入学して初めの内は、平日授業や講義の後、バイトをすればお金に困る事も無いだろうと思っていたのだが、学校のカリキュラムがかなりみっちりと詰まっているので、バイトを入れる余裕が無い。
 土日祝日だけでもバイトをすれば良い様な気はするが、平日一限から六限まで、土曜日も午前中授業を受けて、更に休日まで働く体力が無いのは自分が一番よく解っていた。
なので、生活は親からの仕送りだけでやりくりする事になる。
 更に、カナメの財布を逼迫する要因が他にもあった。
学校の学食の値段が高いのだ。
入学後初めての授業があった日に、早速学食で食事をしようとしたら、具の入っていない、量が少なめのかけうどんですら三百円以上の値が付いていた。
それがあまりにもショックで、その日は結局学校から徒歩五分の所に有る牛丼屋までとぼとぼと歩いて行って、昼食を済ませたと言う経緯がある。
 ただ、運の良い事にカナメは三兄弟の長男という立場からか、小学校中学年辺りから、共働きで家に居ないことがある両親の代わりに、頻繁に家での食事を作るのを任される事が有り、料理自体は苦手で無かった。
「……取り敢えず、布はもう確保したから、明日のお弁当の材料買ってこよう」
 このまま悩んでいてもどうにもならない。そう思ったカナメは一旦考えに区切りを付ける様に、淡い色の布を二種類、大きな通学用の鞄に詰めてから、財布を持って玄関から出て行った。

 近所にある回りやすい大きさのスーパーは、夜十時までの営業で、九時を過ぎた辺りからセールをやっていたり、見切り品の数が増えたりしているので重宝している。
 カナメが早速見に行ったのは、野菜コーナーの端にある、見切り品が置いてある棚。
「ふむ……」
 棚に置いてあるのは、少し傷のある半分に切られたゴーヤと、少し小さい赤ピーマンの詰め合わせ。それからパックに詰められて少ししなびたもやしと、両てのひら程有るブロッコリーだ。
それを一つ一つじっくりと見て、カナメは現在冷蔵庫の中に有る物を思い浮かべる。
 確か卵が二個程残っていたはず。
それに、シンクの下に安売りの時に買ったツナ缶が、他にも、いつもある程度まとめ買いしている鶏胸肉が一枚解凍してあるのと、冷凍庫には使いかけのベジタブルミックスが有るはずだ。
 頭に浮かんだ食材と、目の前の食材を見比べたカナメは、見切り品の野菜を全てカゴに入れたのだった。

 家に帰ってきてから、小さな台所で買ってきた野菜の処理をする。
まずはもやしだ。
もやしは細かく刻んで保存用の袋に入れ、冷凍庫へ。
次に赤ピーマン。
赤ピーマンは縦半分に切り、種とヘタを取り除き、一時的に小さな鍋の中へと避難させる。
それから、冷蔵庫に入っていた鶏胸肉をサイコロ状に刻み、フードプロセッサーで粗挽きに挽く。
ミンチになった鶏胸肉をボウルに移し、パン粉と凍ったままのベジタブルミックスを適当に放り込み、しっかりと手で混ぜ合わせた物を、赤ピーマンに詰めてまな板の上に並べていく。
 そこで一旦手が止まった。
「どうしよう、焼いてから冷凍した方が良いのかな?
このまま冷凍しちゃって良いのかな?」
 ハンドソープで手を洗いながら考え、焼いてから冷凍しようという結論に至る。
一口しか無いコンロの上に有る空になった鍋をどかし、小さなフッ素加工のフライパンを取り出す。
コンロに火を付け、フライパンが温まってきた所で、肉を詰めた赤ピーマンの肉側を下にしてフライパンに乗せる。
それから数分、表面が焼けるのを待ってから、シンクの下にあった料理酒を取り出しフライパンに注ぐ。
じゅわぁ…… という音を料理酒が立てるなり、赤ピーマンをひっくり返していく。
そうしたら後は蓋をして火が通るのを待つだけだ。
 その間にゴーヤを縦割りにし、中の種を取り出し、薄切りにする。
薄切りにしたゴーヤを洗ったボウルに移し、少し多めに塩を振って水分が出るまで揉む。
それから、出てきた水分をしっかりと絞り、油を切ったツナと混ぜ合わせる。
 ゴーヤとツナの和え物を保存容器に移し、また一旦ボウルを洗った後に、今度はブロッコリーに刃を入れる。
蕾の部分を一房ずつ切り分けた後、茎の部分の固い皮を切り落とし、中の柔らかい部分を取り出し、それも食べ易い大きさに切って、房と一緒にボウルに放り込む。
 そうこうしている間にも赤ピーマンの肉詰めが焼き上がり、あら熱を取る為に耐熱ガラスの大きなお皿の上に並べていく。
 赤ピーマンを台所と直結している奥の部屋の安全圏に避難させた後、フライパンをシンクに移す。
それから鍋を取り出して水を張り、ブイヨンのキューブとブロッコリー、それから備蓄食料として置いておいた方が良いと言われ、言われるがままに買い置きをしてあったパスタを短く折って鍋の中に放り込む。
これで本日買ってきた食材の処理は終了だ。
「うーん、トマトも割引のやつ買ってくれば良かったかなぁ」
 ブロッコリーとパスタの入った鍋をかき回しながら、カナメはお腹を鳴らしたのだった。

 翌朝、カナメはいつも通りに起きて早速朝食の準備を始める。
昨夜作ったゴーヤとツナの和え物を少し取り、溶いた卵と共に縁の深いフライパンで焼き、卵とじにする。
それと、乾燥わかめに乾燥椎茸を、軽くフライパンで茹でた物に少し味噌を入れて簡単な味噌汁を。
お米は昨晩炊飯器にタイマーをセットして炊いた物だ。
 食べ盛りの男性としては少なめに感じる朝食だが、これ以上沢山作るのは時間が掛かるし、この量で足りないと言う事も無いので特に不満は無い。
 朝食を食べ終わると、今度はお弁当の準備だ。
少し大きめな二段のお弁当箱の一段目にご飯を詰め込み、表面に薄く練り梅を塗る。
二段目には、保存容器に入れられているゴーヤとツナの和え物と、耐熱皿の上で並べて冷蔵庫に入れていた赤ピーマンの肉詰め、それと昨夜の夕食用に煮たブロッコリーの内何個か救出して置いた物を詰める。
 手早くお弁当の準備をしてから、朝食で使った食器を洗い、荷物を持って学校へと向かったのだった。

 午前中に行われていた一般教養の授業でヘトヘトになったカナメは、お弁当を持って学食へと向かう。
学食の中で周りを見渡しても、皆食堂のメニューを食べるか購買のパンやカップ麺を食べている。
複数人ずつのグループになって賑やかに食事をする学生が多い中、カナメは中庭に面した学食の明るい窓際の席で、一人黙々とお弁当を食べる。
 服飾実習の授業中、結構おしゃべりをしている生徒が居るのだが、何故か皆一人で食事をする、所謂ぼっち飯は嫌だよなと言っていたのを思い出す。
確かに、誰かと一緒に食事をするのも楽しいけれど、カナメ個人としては一人で食事をする事に何の抵抗もない。
「んむ……」
 一人でお弁当を食べ、自作のその味を吟味する。
和え物が少し塩辛かったとか、肉詰めはもう少し胡椒を振っても良かったかもしれないとか、そう言う事を考えながら食べている。
 高校の時は、お弁当は忙しい中母親が用意していてくれたので、味の試行錯誤を自力でする必要は無かったのだが、今は自炊だ。自力で不満のある味を改善していかなくてはならない。
 自作お弁当生活を始めてから付け始めた、お弁当日記。
その日のお弁当のメニューと味加減、改善法等を食べ終わってからすぐに書き込み、家に帰る道中、電車の中で読み返している。
今日もお弁当日記を付けている訳だが、ふと過去のメニューを見返して思う。
栄養のバランスが悪いかもしれない。
しかしそうは思っても、カナメは栄養学等と言うのは高校までの家庭科の授業で教わった程度にしか解らない。
「……まぁ、予算優先じゃ仕方ないかなぁ」
 そう呟きお弁当日記を閉じる。
お弁当箱も布でくるんで鞄に入れる。
 午後は服飾基礎実習だ。
型紙のチェックは既に済んでいて布の裁断に入れる状態なので、早めに実習室に行って裁断を済ませておこうと、カナメは学食から出て行った。
 突然だが、カナメは所謂オタクだ。
高校時代には漫研に所属し、同人誌即売会などのイベントに行っては同人誌の頒布にコスプレもしていた。
普通なら気持ち悪いと言って避けられてしまう様な人間ではあったが、高校に入ってすぐに出来た友人とずっと仲が良いのと、カナメ自身の見た目が標準以上と言う事も有り、特につまはじき物にされると言う事も無く高校時代を過ごした。
 そんな訳で、オタクであると言う事に全く引け目を感じていないカナメ。
高校を卒業する少し前から、同人誌系イベントに参加する頻度が少し増えた。
 行きたいイベントは月に一回か二回くらいのペースで有るのだが、それら全てに参加していると、課題の布を買えないどころか食費も危うくなる。
なので、全てに参加したいのは山々なのだが、二ヶ月に一回くらいの割合でサークル参加をしている。
 イベントに参加すると、いつも隣に配置されるサークルが一つある。
扱っている内容の関係で毎回隣になっている訳なのだが、人見知りしがちなカナメでも、毎回毎回隣に座られれば親しくもなる。
 イベントの後、他の参加者は団体になって打ち上げに行ったりするのだが、カナメとそのお隣さんは過去に打ち上げに参加して周りと全く話が合わなかったと言う経験があるので、カナメと二人で会場近場のレストランやラーメン屋で話に花を咲かせている。
 この日もイベントで、お隣さんと一緒にイベント会場近くのレストランでお茶をしていたのだが、ふとカナメが訊ねた。
「そう言えば美夏さん、イベント以外でも良くこの辺に来るって言ってたけど、この辺りに出やすい所に住んでるの?」
 アイスティーに刺さったストローをカラカラと回しながら興味ありそうな顔をするカナメに、お隣さんこと美夏はアイスティーのグラスを両手で包み、笑顔で答える。
「うん。ここまでは電車一本で出られるわよ」
「へぇ、そうなんだ。
僕もここまで電車一本で出られるんだよね」
 そんな話も織り交ぜつつ、今回と次回以降のイベントの話もしつつ、二人は少し名残惜しそうに会計をして店を出る。
店を出るとそのまますぐ近くにある駅の入り口へと入って行き、エスカレーターを降りて改札をくぐり、ホームに入り、電車に乗る。
電車に揺られながら、カナメは隣でつり革に掴まっている人におずおずと問いかける。
「あの…… 美夏さん?」
「何?」
「美夏さん、この電車で良いの?」
「えっ? カナメさんこそこの電車で良いの?」
「えっ? 僕の家はこっち方面なので……」
「あら奇遇。私もこっち方面なのよ」
「そうなんだ」
 よく考えたら美夏もあそこまで一本で出られる所と言っていたし、路線が同じなら途中まで同じ電車でも何らおかしくは無い。
そう思いながら二人で電車に乗り、同じ駅で降り、駅を出て同じ方面に歩き始める。
「あの…… 美夏さん?」
「何?」
「美夏さんの家、この辺なの?」
「えっ? カナメさんこそ家こっちの方なの?」
「えっ? 僕の家はこの近辺なので……」
「あら奇遇。私もこの近辺なのよ」
「そうなんだ」
 そうして歩く事暫く。バス通りを暫く歩き、そこから少し路地に入った所に有る、鉄筋コンクリート造りのエレベーターの付いていないアパート。ここにカナメが借りている部屋があるのだが……
「あの…… 美夏さん?」
「何?」
「美夏さんの家、ここなの?」
「えっ? カナメさんこそ家ここなの?」
「えっ? 僕の家はここの三階なので……」
「あら奇遇。私はここの四階なのよ」
「そ、そうなんだ」
 まさか同志が近所というレベルでは無く近所に住んでいる事に、カナメは驚きを隠せない。
 アパートの前で思わず戸惑っているカナメに、美夏がこんな提案を出した。
「ねぇ、折角近所に住んでるんだし、今日の晩ご飯は私のうちで食べていかない?
ご馳走するわよ」
「え? 良いの?」
「疲れてるからごはん用意するのも大変だろうし、だからといってヘタに外食するよりは安く付くでしょ。
もし気になるんだったら材料費を少し出してくれれば良いし」
 にこにこと笑っている美夏のその言葉に、カナメのお腹がきゅるると鳴く。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 お腹が鳴ったのが恥ずかしいのか、カナメはおなかを押さえ、少し顔を赤くしてそう答えた。

 一旦荷物を自分の部屋に置いてきたカナメは、早速美夏の部屋でもてなされていた。
料理が出来るまでこれでも飲んでてね。と透明なアクリルのコップで出された冷たいお茶は、紅茶の様な色では無く、柔らかな黄色をしている。
「なんだろう……
カモミールと、レモングラスと、あと……」
 カナメが穏やかな顔で香りを嗅ぎ、お茶に口を付けながら成分分析をしている間にも、台所からは油の跳ねる音と電子レンジの音が聞こえて来ている。
料理の音をBGMにお茶を飲んで待つ事暫く、美夏が二つの大皿に盛られたパスタとフォークを持って来て、テーブルに置いた。
「はーい。ペペロンチーノだよ」
「ペペロンチーノ?」
 美夏が持って来たペペロンチーノと呼ばれたパスタは、唐辛子が入っているのは解るが、何故かもったりとした乳成分を纏っている。
「ペペロンチーノって、もっと絶望的な物だと思ってたんだけど、これも美味しそうだなぁ」
「んふふ。うちのペペロンチーノはホワイトソース入れるんだよ」
 ホワイトソースが入った時点で絶望のパスタではない気はしたが、それはそれとして有り難く戴く事にする。
「いただきます」
 美夏に軽く頭を下げてから、カナメはパスタを食べ始める。
唐辛子でピリ辛にはなっている物の、ホワイトソースが優しく刺激を包み込んで、まろやかな味わいだ。
「ん…… どうかな?」
 黙々と食べているカナメを見て不安になったのか、美夏が少し心配そうな顔で訊ねてくる。
その声にはっとしたカナメは、口の中のパスタを飲み込んでから笑顔で答える。
「これすごく美味しい! 作り方知りたいな」
「本当? よかった。
ちなみに作り方は、普通のペペロンチーノにホワイトソース入れるだけよ」
「わぁ、想像以上に身も蓋もなかった」
 二人で話しながらパスタを食べ、料理は美夏が作ったからと言う事で、食器を洗うのはカナメがやった後、二人でまた暫く話しに花を咲かせていた。
その中でふと、カナメが不安そうな顔で美夏に訊ねた。
「ねぇ、美夏さん。女の子の一人暮らしなのに男の人を部屋に入れちゃって、良かったの?」
 少し視線を落としているカナメに、美夏は一口お茶を飲んでから答える。
「本当は良くないんだろうけど、カナメさんってあんまり男の人っぽく無いから大丈夫かなって思って」
 その言葉に、カナメは顔を真っ赤にして頬に手を当てる。
「あ。ご、ごめん。気に障っちゃった?」
 気まずそうな顔をする美夏に、カナメは頭を振って答えた。
「いや、気には障ってないんだけど、うん。大丈夫」
 自分の頬を手のひらで軽く叩いてから、言葉を続ける。
「それなら、今度僕の部屋においでよ。
今日のお礼に何かご馳走するから」
 その言葉に美夏は喜び、早速次の週末カナメの部屋で食事をするという約束をした。

 そして次の週末。
カナメは土曜日も午前中は授業があるので、美夏が部屋にやってくるのは夕食時だ。
昼食は学校でお弁当を食べ、学校帰りに夕食の材料を買って帰る。
 買って帰ったのは、レタス一個とと少し奮発した少量パックのルッコラを二袋、それに肉厚な赤と黄色のパプリカと。オレンジ。
部屋に着くなりレタス諸々を冷蔵庫に入れ、お米を一合測って炊飯器にかける。
お急ぎモードでセットした後、プラスチックのボウルに入れたホットケーキミックスに粉末のコンソメ出汁とパルメザンチーズを入れ、牛乳と水でなめらかになるまで溶く。
それを直径が小さめで縁の少し深いフライパンに流し込み、じっくりと焼いていく。
ホットケーキを三枚焼いた辺りで炊飯器が音楽を奏でたのでお米を耐熱ガラスの蓋付きボウルに移し、砂糖と牛乳を注いでかき混ぜ、あら熱を取らずに冷蔵庫へと入れる。
それから約十分、四枚目のホットケーキが焼けた辺りで美夏に電話をかけ、部屋に来る様に伝えた。

「いらっしゃい。サラダはこれから作るから少し待っててね」
 やってきた美夏を部屋の中に通し、カナメはレタスとルッコラ、薄切りのパプリカとカットしたオレンジに、オレンジの汁で作ったドレッシングをかけたものをガラスの大皿に乗せて持っていく。
 本日の夕飯は、コンソメ味のホットケーキにフルーツサラダ、デザートにライスミルクだ。
「カナメさん凄い。私も見習わなきゃなぁ」
 美夏の言葉に、カナメは照れてしまう。
こうして、カナメと美夏は、偶にお互いの家で料理を食べる様になっていった。
 学校の長い夏休み終了間際、カナメは高校時代の友人と会う約束をしていた。
高校卒業後、各々の進路に進学してから別々の学校になり、お互い授業などが忙しく会う機会が減っていたので、偶には二人で遊ぼうと誘われたのだ。
 その友人曰く、八月の間に二人で海に行ったり花火大会なんかどうかと思っていたらしいのだが、友人の実家がお寺な物なので、八月中はお盆などの色々な法要の手伝いで、なかなか予定が空けられなかったと言う。
 久しぶりに会う友人との待ち合わせは、カナメが良く学校帰りに寄る布屋がある繁華街。
カナメが久しぶりに会える嬉しさを抱え、時間を気にしながら待ち合わせに向かっている訳だが、待ち合わせの時間まであと二十分程有る。
少し待つ事になるだろうけれど、待ち合わせに遅れるよりは良いだろうと待ち合わせ場所を見回す。
すると、友人は既に待ち合わせ場所にいた。
「勤、久しぶり。待たせちゃった?」
「いや、俺も五分くらい前に来たばっかだよ」
 久しぶりに会えた喜びをお互い感じながら暫くその場で話し込んだ後、カナメが友人の勤にこう言った。
「ちょっと布屋さん見て良いかな?」
「ん? 構わないけど、課題用の布?」
「課題って言うか、あの……」
 布を見るだけなのに、何故か少し俯いてまごまごしているカナメの様子を見て、勤はなるほどと言った顔をする。
「あ、そうか。
OK、見に行こうぜ」
 今回カナメが布屋に見に行く布は、コスプレ衣装を作る為の物だ。
勤はカナメがコスプレをやっているのを知っているが、流石に見知らぬ人が沢山居るこの場で口に出して言うのは恥ずかしいのだろうと察する。
それから少し顔を赤くしたカナメが勤を先導して、布屋へと入って行った。

 布屋で一頻り材料を買ったカナメと、こんな大荷物を持って歩き回れるのだろうかと心配そうな勤は、昼食を食べる為に、布屋の近くに有るビルに入っているパスタ屋へと入った。
「へー、和風パスタなんだ。
カナメはこの店よく来るのか?」
「ううん、僕も初めて入るんだよね」
 照明が控えめな店内に通され席に着いた後、色々なパスタの写真が並ぶメニューをじっくりと眺め、カナメは取り敢えず一番安いパスタに決める。
「カナメ、決まった?」
「うん」
「じゃあ店員さん呼ぶぞ。
すいませーん」
 勤の呼び声でやってきた店員に注文をし、暫く雑談をしながら料理が運ばれてくるのを待つ。
「そう言えばお前って、学校でどんな服作ってるんだ? やっぱ男物?」
「え? 僕はレディースのクラスだよ。
レディースのクラスだと、課題の発表の時にモデルさんを誰かに頼むか、頼めなかったら自分で着るしか無いけど良いかって言われはしたけど、やっぱりレディースの服が作りたくて」
 カナメのその言葉に、勤は顔を赤くし、口をぱくぱくさせてからこう訊ねてきた。
「あのっ…… お前、モデルさんちゃんと頼めてるか?
もしかして自分で着て……」
「モデルさん頼める程コミュ力無いから自分で着てるよ。
それが何か?」
 さらりと返すカナメとは対照的に、勤は動揺しているのか両手で顔を覆っている。
その様子を見て、カナメはしょんぼりした声で呟く。
「やっぱり、女装してるのなんて、嫌かな?」
 それを聞いた勤は、頼りなさげにコップを握るカナメの手を両手で包んで、強い口調で言う。
「俺は嫌な訳じゃ無いんだけど、あの、なんてんだろ、お前が学校で変な扱いされてたりしないかが心配で……」
 しどろもどろなその言葉に、カナメは難しい顔をして返す。
「どうなんだろ。
あんまり学校の人と話さないし、でも危害を加えられてる感じはしないし、今のところ問題ないと思うんだよね」
「そっか、それなら良いんだ」
 勤が安心した所で料理が運ばれてきたので、二人は各々お箸を持っていただきますをする。
お箸で食べるパスタなんて便利で良いなぁ等と言う話をしながら、ふとカナメが、不思議そうな顔でマグカップに入った付属のスープに目をやった。
「あれ? お前チキンスープ苦手だっけ?」
 ちびちびと熱いスープを飲んでいる勤がそう訊ねると、カナメは不思議そうな顔をしてこう言う。
「ううん。そうじゃなくて、なんでパスタにスープが付いてくるんだろって思って」
「なんで?」
「確かフランス料理のコースでは、パスタはスープ扱いで……」
「そうなん? でも、多分このパスタはスープじゃ無くて麺扱いだと思うぞ」
「そっか、麺かぁ」
 勤の言葉に納得したカナメだが、すぐにまた難しい顔になってこんな事を言う。
「麺類って汁物着いてくる物だっけ?」
 細かい事を気にし始めてしまっているカナメだったが、勤が口先三寸で納得させ、恙無く昼食を済ませた。

 それから暫く、カナメが高級そうなデパートに普通に入っていって勤を挙動不審にさせたり等したが、話は尽きる事無く夕食の話になった。
「どうする? 晩飯も食ってく?」
「うーん、晩ご飯まで外で食べるとちょっと辛いから、家に帰って食べようと思うんだけど……
でも、勤も一人暮らしだったよね?
外で食べちゃった方が都合良い?」
「まぁ、確かに家帰って自分で準備ってなると面倒ではあるな」
 明らかに残念そうな顔をする勤に、カナメがぽんと手を打ってこう言う。
「じゃあうちに来て晩ご飯食べて行きなよ。
材料費を折半してくれるなら僕が作るよ」
 微笑んでそう言うカナメの手を、勤はぎこちなく握り、頼りない声で答える。
「是非に…… オナシャス……」
 その様子を見てカナメは、勤もきっとお金のやりくりが難しいのだろうなぁ。と思ったのだった。

 そしてカナメの家に着き、早速夕食の準備を始める。
台所は狭いので、勤は奥の部屋で麦茶を飲みながらぼんやりと料理が出来るのを待っていた。
 突然、台所からズドンと言う大きな音が聞こえ、勤は思わず台所の方を見てしまう。
「何? 何が起こったん?」
 おどおどしている勤に、カナメは潰れたレタスの芯を手で引っこ抜きながら答える。
「ああ、レタスを潰しただけだから気にしないで」
「お、おう」
 何故レタスを潰す必要が有るのだろう。そうは思ったがカナメがそれなりに料理が出来る事を知ってはいるので、料理の手順でそう言う指示でも有るのかもしれないと何となく納得する。
 そうこうしている間にも台所からは少し甘さの入った醤油とレモンの香りが漂ってくる。
じゅわじゅわと音を立てるフライパンをコンロの上に置いたまま、カナメは冷凍庫から凍ったおにぎりを取り出して勤に声をかける。
「ご飯どれくらい食べる?
おにぎり二個くらい食べちゃう?」
「そうだな、二個分くらい頼むわ」
 それを聞いたカナメは、包みを剥がしたおにぎり一個をお茶碗に、二個を少し大きめのお椀に入れて、電子レンジにかける。
電子レンジが頑張っている間に、今度はフライパンの相手だ。
フライパンの中で香ばしく蒸し上がった豚バラ肉とレタスを、耐熱ガラスの大きなお皿の上に盛る。
「取り敢えずおかずこれね」
 そう言って勤の目の前にそれを置くと、勤は甚く感激した様子。
「おお、すげぇ! 肉! 肉!」
「もう。
お肉だけじゃ無くてちゃんとレタスも食べるんだよ?」
 カナメはそうクスクスと笑って、また台所に立つ。
小鍋に水を張り、桜エビと切り干し大根を入れて火に掛ける。
お湯が沸騰したら味噌を溶く、お手軽味噌汁だ。
味噌汁が出来上がる頃には電子レンジも仕事を終えていて、食事の準備が出来上がる。
 小さなテーブルに料理を並べ、二人でいただきますをしてから食べていたら、勤がぽろりとこんな事を言った。
「料理まで上手いなんて、ほんと…… なんなん……?」
 その呟きを聞いたカナメは、普段勤がどんなものを食べているのだろうかと少しだけ心配になってしまったのだった。
 夏休みも終わり、このところ週末、カナメは美夏と一緒に過ごす事が多くなっていた。
何故かというと……
「ねぇ美夏、この衣装今日明日で作れるかな?」
「作れるかな? じゃない。作るの」
 次回参加するイベントで着るコスプレの衣装を、美夏と共同で作っているのだ。
 カナメは学校の専攻が服飾ではあるけれどまだ初心者で、型紙を引き、用意しないと衣装を作れない。
しかし、美夏は学校の専攻が……いや、学校に通っているかも定かでは無い、もしかしたら社会人なのかもしれないが…… 服飾という訳でも無いにもかかわらず、型紙無しで布を切り出して衣装を作れるというコスプレ玄人なのだ。
 次回イベントまであと一ヶ月。
授業が週に六日入っているカナメがコスプレ衣装に手を掛ける余裕があるのは土曜の午後と日曜だけだ。
 そんな状況で型紙から作っていては、イベントに間に合わない。
そんな訳で、美夏の衣装製作も手伝うという条件の下、美夏に布の裁断を一気に済ませて貰っているのだ。
 真っ先に表地になる布を裁断して貰い、カナメが一気にミシンで縫い上げアイロンをかける。
その間に美夏がツルツルとした裏地の裁断を済ませ、今度は二人がかりで裏地を柔らかな生成りのしつけ糸で縫っていく。
「ねぇ、カナメ」
「何?」
「コスプレ衣装なのに、裏地にきせ入れる必要あるのかな……」
「前にきせ入れずに作ったら、お母さんに怒られた事があって……」
「あ、ハイ」
 コスプレをする事自体に関しては怒られていないのかと美夏は思ったが、話に訊く限りカナメの家族は父親以外皆ゲームや漫画が好きな様だし、父親も好きな事は出来る内にやって置いた方が良いという方針らしいので、所謂『一般的な』家庭の様に煩くは言われないのだろう。
 暫く二人とも無言で縫っていたのだが、カナメが一旦針を針山に休ませ、アイロンのコードを延ばしている所に美夏がこう言った。
「ねぇ、もし私がカナメの事好きって言ったら、どうする?」
「え?
どうするって、僕も美夏の事好きだよ?」
「友達として? それとも、恋人?」
 突然の問いに、カナメは思わずアイロンのコードから手を離してしまい、シュルシュルカションッと勢いよく音を立ててアイロンのコードが巻き取られる。
震える手で再びコードを引っ張りだし、コンセントに刺しながら、小声で答えた。
「……美夏が良いなら、恋人で……」
 それを聞いた美夏は、肩を寄せてカナメに訊ねる。
「アイロン、スイッチ入れた?」
「……入れてない……」
 顔を真っ赤にしてアイロンを握っているカナメの事を、美夏が強く抱きしめた。

 そんな甘いひとときが有った物の、修羅場である現実は変わらない。
美夏がカナメから身体を離した後速やかにアイロンのスイッチを入れアイロンがけの準備をする。
その間に美夏が小物を作る準備をする。
裏地にアイロンを掛けたら、後は全てミシンで縫う作業だけなので、衣装自体の作業分担が出来ないのだ。
 作業を続ける事数時間、日付が変わる直前辺りに二人の作業が片付いた。
「ふへぇ…… 美夏、ありがとうね。
これからご飯作るからちょっと待っててね」
「あ、私も何か手伝おうか?」
「じゃあ冷凍庫からおにぎり出して、二人分暖めて置いて。
あと、冷凍庫の中のもやしと冷蔵庫のにんにくの芽取って」
「らじゃ」
 台所に立つカナメが、美夏からもやしとにんにくの芽を受け取り、そのまま流れる様にお茶碗を二つ渡す。
包みを剥がす音を聞きながら、カナメは細かく刻まれているもやしと食べ易い大きさに刻んだにんにくの芽をフライパンに入れ、めんつゆ、砂糖、ラー油を加えて炒める。
暫くするとめんつゆに混じった甘い香りが漂い始め、カナメと美夏のお腹が鳴り始めた。
 炒め終わったもやしとにんにくの芽を小皿に盛り、冷蔵庫から取り出して貰った鶏胸肉をフードプロセッサーで挽肉にし、パン粉と冷凍もやしと卵一個を混ぜ合わせ、それを耐熱ガラスの皿の上に敷き詰めてからパン粉を隙間無く振りかける。
 そうこうしている内にレンジが一仕事終え、美夏が中からご飯を取り出す。
するとカナメがそのまま肉の敷き詰められた耐熱皿をレンジに入れ、今度はオーブンにしてタイマーをセットする。
「オーブンメンチが出来るまで時間掛かるから、きんぴらもやしでご飯食べてようか」
「へー、もやしのきんぴらねぇ。
経済的だし美味しそうね」
 二人とも疲れでへろへろになりながらもいただきますをして、料理に手を付ける。
「もやし美味しい! これ凄くご飯に合うわね」
「そう? 良かった」
「でも、細かく刻んでない方が食べやすいかも」
「うん。それは僕も常々思ってる」
 昼食からおよそ十二時間が経過していた為か、二人とも勢いよくご飯ともやしのきんぴらを食べ終わってしまい、オーブンメンチが焼き上がるまでに妙な間が出来てしまった。
何も喋らないでいるのも気まずいので、カナメが美夏に、普段何をしているのかを訊ねた。
「美夏はどんな学校行ってるの?
それとも社会人?」
「え? 私?」
「うん。そう」
 作業中いつでも水分補給が出来る様に、大きなペットボトルに入れて置いた、真っ赤でほのかに酸っぱいお茶を二人分コップに注ぎながら答えを待っていると、キャップを閉めた所でこう返ってきた。
「陸軍で幹部やってるけど」
 思わずペットボトルがカナメの手から滑り落ちる。
「え? 陸軍? 陸軍? 幹部? え?」
 予想外の回答を聞いてしまい戸惑うカナメに、美夏が説明するにはこう言う事だった。
美夏の両親は父母共に軍属で、美夏も幼い頃から軍の学校に通っていたのだという。
高校までは休みが日曜しか無かったが、その日曜日に何をやっていても特に文句を言われる事は無かったので、中学生になった辺りからイベント参加を初めてコスプレもする様になったとの事。
「軍の学校って、凄く規律が厳しいイメージあるんだけど、そうでも無いの?」
「厳しいは厳しいわよ。寮の門限とか有ったしね。
でも、規律を守っている限りは何やっても構わない感じだったから、オタクの軍人って結構居るのよ」
「そうなんだ、知らなかった……」
「そこで頑張ったおかげで今は結構自由な時間取れてるし、良かったんじゃ無いかしら」
 美夏の説明にカナメは素直に納得するが、今度は他の心配もわいてきた。
「軍属って言う事は……危ない仕事も有るんだよね?」
「え? 先週中東に行ってきたけど?」
 レンジの奏でる電子音が響く。
カナメは黙って立ち上がり、鍋掴みを両手に填めてオーブンメンチをレンジから取り出してテーブルの上に置き、美夏に言った。
「……これからも、僕の作ったごはん食べてくれる?」
「作ってくれるなら」
「また何処か危ない所に行っても、ちゃんと帰ってきてね」
「勿論よ。日本国で、カナメがご飯作って待っていてくれるんだもの」
 疲れが溜まっているせいで余計に不安を煽られているのか、目に涙を溜めるカナメの頭を、美夏はそっと撫でた。

 その後数分程カナメがグスグス言っては居たが、焼きたての香ばしい香りを立てるオーブンメンチを目の前にして、腹減りの二人が何時までも耐えられるはずが無い。
すぐさま何事も無かったかの様にオーブンメンチをお茶碗に取り分け、各々ソースやケチャップ等テーブルの上に並べられた好きな調味料をかけて食べ始める。
「ねぇ、メンチに梅って合うの?」
 練り梅を薄くオーブンメンチに塗って食べているカナメに、美夏が不思議そうな顔をする。
「個人的には合うと思うんだけど、一般的にはどうなんだろう。
僕が単に梅が好きなだけの様な気もする」
「なるほど」
 カナメの言葉を聞いた美夏は、一旦お茶碗のオーブンメンチを平らげ、またオーブンメンチを取り分けてきて今度は練り梅を塗って囓ってみている。
「うん。梅も合うわね」
「僕が作るオーブンメンチは鶏肉だから、梅とも合うのかもしれないね」
 二人で和やかに食事をした後、もう疲れたから寝ようと言う事で、美夏は自分の部屋へと帰っていった。
 冬休みに入ってすぐの頃、勤からカナメにこんなお誘いが掛かった。
『お前が好きなゲームの演奏会があるから、一緒に行かね?』
 演奏会ともなると席を取るのにいくら掛かるか解らないと言って、始めは渋っていたカナメだが、勤が言うにはカナメの誕生日も近いから誕生日プレゼントにとの事らしい。
それなら、あのゲームの曲はオーケストラで聴いてみたいしと言う事で、カナメは勤と一緒に演奏会に行く事になった。

 演奏会当日の夕方、冷たい風が吹くコンサートホール最寄りの駅で待ち合わせをしていた二人。
今回も勤の方が早く待ち合わせ場所で待っていた。
「勤、お待たせ」
「いや、俺も着いたばっかだよ。
じゃあ行こうか」
 普段ならラフな格好をしている二人だが、流石に演奏会ともなるといつも通りの服装では不味いと思ったらしく、二人とも学校の入学式の時に用意したグレーのスーツに身を包んでいる。
 ワクワクしながらコンサートホールに辿り着くと、そこには既に長い列が作られていた。
その列に並んでいる人々を見て、カナメがきょとんとしている。
「あれ……?
なんかカジュアルな格好した人がいっぱい居るけど、そんなに格式張らなくても良かったのかな?」
「うん、俺もそう思った」
 少し戸惑いながらも、最後尾に居る係員に確認を取って列に並ぶ。
入場時間までまだ少し時間があるが、既にカナメはにこにこと機嫌を良くしている。
「おっ? お前そんなに演奏会楽しみ?」
 ここまで喜ばれると満更でも無い様で、勤もカナメに笑いかける。
するとカナメはこう答えた。
「演奏会も楽しみだけど、勤がわざわざ僕の事誘ってくれたのが嬉しくて」
「お、おう」
 素直な感謝の言葉に照れているのか、勤は顔を真っ赤にして明後日の方に視線を飛ばす。
 そうこうしている内にも列が動き出すが、この様な長蛇の列に慣れていない人が多い様で、移動するにつれて列が乱れ気味になり、カナメと勤の間に距離が出来てきてしまった。
どうしようと慌て始めたカナメの手を、誰かが掴んだ。
突然の事にカナメは身体を震わせたが、掴んでいる手が勤の物だとすぐに解って安心する。
「これじゃ会場内に入るまで手ぇ繋いでないとはぐれるな」
 そう言ってなんとかカナメの隣に辿り着いた勤の大きな手を、カナメがぎゅっと握り返す。
「ここではぐれちゃったら見付けられる気がしないから、離さないでね」
「わかってるって」
 口を尖らせて少し意地悪そうな顔をするカナメに、勤は照れた様な笑顔を返す。
そのまま会場の中に入るまで、二人は手を繋ぎ、肩を寄り添わせて進んだのだった。

 会場に入り、指定された席へと行くとそこは二階席だった。
本当は一階の席を取りたかったと勤は言っているのだが、一階席の方が値段が高いだろうし、音楽を聴くだけなら二階席でも何の問題も無いと、カナメは改めてお礼を言う。
 大人しく席に座り、プログラムムックを見る二人。
「うーん、やっぱ最近の作品の曲が多いなぁ」
「え? 古いやつの曲の方が好き?」
「最近のも好きだけど、古いやつのは思い出補正が掛かってて、改めてじっくり聴きたいなって言う感じ」
「あー、思い出補正な。
確かにあのピコピコ音がオーケストラになったらって思うと、じっくり聴きたいな」
 そんな思い出話をしている間にも、会場が暗くなり開演の時間がやってきた。
二人は舞台に向き直り、改めて演奏を聴く体制に入ったのだった。

 長い様で居て短く感じた演奏会も終わり、客席から出てきた二人。
どうだったかと勤が訊ねようとしたが、訊ねるまでも無くカナメは半ば放心状態で、演奏を楽しめたのだろうというのが見て解る。
 何はともあれ、演奏会の時間の関係で二人ともまだ夕食を食べていない。
「カナメ、晩飯どうする?」
 勤の問いかけに、カナメはほけっとした顔を向けて言う。
「えっと、今日は流石に晩ご飯作れる気がしないから、何処かで食べていきたいな」
「そっか。じゃあ何処か入れそうな所探すか」
 そうして、何が食べたいと言う話をしながら、二人は駅周辺の店を見て回った。

 結局二人が入ったのは、駅前の小さなカレー屋だった。
他にもラーメンや牛丼という案も出たのだが、カナメが一人暮らしをしているとなかなかカレーを作る機会が無いからと言うので、カレーを選んだ。
「カレーって一食分ずつ作るの難しいのか?」
「スパイスを自力で調合して作るんだったら難しくは無いんだろうけど、僕は市販のルーを使わないと作れないから、一食分ずつ作るのは難しいんだよね」
「なんか高度な事言ってる」
 カウンターに座り、そんな話をしている間にもカレーが運ばれてきて、二人でいただきますをする。
本当にカレーを食べるのが久しぶりらしく、上機嫌な顔をして頬張るするカナメを見て、勤は今日演奏会に誘って良かったとしみじみ思う。
 一生懸命カレーを食べるカナメを暫く眺めてから、勤もカレーを食べ始める。
昔からの事なのだが、勤よりもカナメの方が食べるスピードが速いので、勤がカレーを半分食べた頃には、もうカナメの前に置かれている皿は空になっている。
勤が食べ終わるまで、カナメは水を飲みながらぼーっとしていたが、カレーを食べ終えた勤が突然こんな事を訊いてきた。
「そう言えばお前、学校で他の友達とか出来たのか?
全然そんな話聞かないんだけど」
「学校の友達?
うーん、あんまり他の生徒と話さないからなぁ。
あ、でも、同じ学校の人じゃ無いけど彼女は出来たよ」
 その返しが予想外だったのか、一瞬勤の表情がこわばった。
「か、彼女? できたん?」
「うん」
 急に表情が暗くなっていく勤の様子を見て、カナメは何か悪い事を言ってしまったのだろうかと気が気でない。
「あの、僕なんか悪い事言っちゃったかな?」
 しょんぼりするカナメに、勤は慌ててこう返す。
「いやいや、俺がまだ恋人居た事ないから、お前にいきなり彼女が出来たって聞いてびっくりしてるだけだよ」
「え? 勤、恋人居た事ないの?」
 高校の時から勤が社交的だったのを知っているカナメは、勤の言葉に思わず驚いた。
今勤が通っている学校は共学な上、カナメと会う機会も少なくなっていたからてっきり恋人と過ごしている時間があると思っていたのだ。
「あー…… うん……
なんかフライングした感じで…… ごめん」
「いや、お前は何も悪い事してないし、謝る必要無いよ」
 カレー屋の中で沈んだ空気を暫く漂わせていた二人だが、気まずい雰囲気が嫌なのか、ふと勤がぎこちない笑みを浮かべて話題を変えた。
「そう言えば今日の演奏会どうだった?
俺はカナメと一緒に来られて楽しかったけど」
 その言葉に、カナメも笑顔になって返す。
「うん、僕も楽しかったよ。
あと、やっぱりなんか勤の元気な顔が見られて安心したし」
「お? 俺が元気だと嬉しい?」
「当たり前じゃん。友達だもん」
「そ、そうだな。友達だもんな」
 何故か顔を赤くしている勤の事を不思議そうに眺めていたカナメだが、素直にお互いが友達だと確認し合ったのが少し気恥ずかしいのだろうと納得する。
 カレーの皿が下げられた後も、二人は暫くカレー屋で取り留めのない話をして、年が明けたらまた会おうという約束を笑顔で交わして店を出た。
 冬休みが終わり、春休みも過ぎ、新年度が始まった。
一年時は順調に課題を片付けていて、講師からの評判も良かったカナメだが、二年時に入りどうしても理解の出来ない授業があった。
 それはマーケティング。つまりは市場調査等で、情報を集めなくてはいけない課題だ。
マーケティングを元に作らなくてはいけない資料が沢山有るのだが、どうしても、どうにもカナメには情報を集めると言うことが出来なかった。
 他の生徒は締め切りを守っては居なかったが、何とかそれぞれに市場調査をして課題を提出し、確実に課題を進めていた。
それなのに、一年時は真っ先に、締め切り前に課題を提出していたカナメが、一向に課題を提出できない。
日を追う毎に顔を青くして、講義を聴きながらノートを取る事しか出来ないカナメのことを、講師は不思議そうに見ていた。

 結局、マーケティングの課題を一回も提出することが出来ないまま、前期の授業が終わってしまった。
勿論、単位が取れている訳が無い。
『不可』の付いた成績表を見て、カナメは自宅のテーブルの前でうなだれる。
「どうしよう……
マーケティング、必修なのに……」
 じわりと視界が滲む。
今まで、出来ないと思ったことは沢山有ったし、勿論やっても出来ないことは有った。
けれども、自分が志した事で、本当にやっても出来なかった事と言うのはほぼ無いと言って良い程だったので、突然突きつけられた『不可』と言う現実に、耐えられなかった。
 暫く涙が流れるままにして居たら、右目が痛んだ。
そう言えば、マーケティングの授業が理解出来ないと思い始めた頃から、右目の視界が悪くなることが頻繁に有るし、突然痛む事もしばしば有る。
何はなくとも、今日から夏休みだ。マーケティングの単位に関して話が有るという事で、講師から呼び出しのかかっている日を外して、眼科に行かなくてはと、そう思った。

 その日の夕食は、冷めた白いご飯がお茶碗一杯分と、梅干しだけ。
このところは料理をする気力も、食べる気力も殆ど湧かず、取り敢えず食べられれば良いと言った感じでご飯を炊き、梅干しを添えただけという食事が続いていた。
 週に一回、心配した美夏が夕食を作りに来てくれては居るのだが、折角作ってくれた手料理を食べても、美夏が帰った後に戻してしまうと言う状態が続いた。
こんな調子が続いていると言うことを、美夏は勿論、なかなか会えない勤にも話していない。
 いっそこのまま死んでしまえたら、楽なのかもしれない。
 一人で抱えているのは辛い事、けれども他の人からすれば取るに足らないで有ろう事をずっと一人で抱え込んで、冷たいご飯を飲み込んだ。

 その翌日、夏休みに入ったカナメはどうしているかと、夕方頃に美夏がカナメの部屋に訪れた。
「カナメ、ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、ちゃんと食べてるよ」
 やつれた顔にぎこちない笑みを浮かべ、そう答えると、美夏が冷蔵庫の中を見せて欲しいという。
何故そんな事をするのか疑問に思ったけれども、カナメは素直に冷蔵庫の中を見せる。
美夏が、レシピが沢山貼り付けられている冷蔵庫のドアを開くと、中はがらんどうで、申し訳程度に梅干しが置かれているだけだった。
「……カナメ、やっぱり食べて無いんじゃない」
 厳しさを含んだ声で美夏がそう言うと、カナメがしゃくり上げながら言った。
「ごっ、ごめん……
でも、なんかもう、ごはんなんか食べないで、このまま死んじゃったら良いのにって……」
 美夏の手の平がカナメの頬を打ち、言葉が途切れる。
それから、強くカナメを引き寄せた美夏の腕に抱かれ、耳元で語りかけてくる言葉に耳を傾けた。
「死ぬなんて気軽に言わないで。
あなたの命は日本国が、私達が守ってるの。
この国を守る軍が、あなたの家族が、友達が、私が、みんながあなたを守ってるの。
あなたの命は重いのよ」
 カナメは何も答えない。
「いつから、『死んだ方が良い』って思ってた?」
 抱きしめる力が強くなるのを感じながら、か細い声で答える。
「……授業が始まって、一ヶ月ちょっと経ったくらいから……」
「学校にはちゃんと行けてた?」
「……行こうと思っても、怖くて行けない事とか有った……」
「そっか」
 美夏が身体から片腕を外した後、携帯電話で何処かと話しているのを、残った片腕に抱かれながらぼんやりと聞いているカナメ。
「……はい、明後日の金曜日の午前で。はい……」
 話の流れから何かの予約を取っているというのはわかったが、何の予約かまではわからない。
 短い通話の後、美夏が優しい声でカナメに言う。
「金曜日、病院に行こう。
私も付いていくから」
 それを聞いて、カナメは少し驚いたような声を上げる。
「え? 病院って眼科?
偶に目が痛くなるの、話したっけ?」
 すると今度は美夏も驚いたような声を出す。
「え? 目が痛くなるの?
それだと眼科も行かなきゃいけないかな?
今電話したのは、心療内科」
 心療内科という言葉を聞いて、カナメはようやく自分が普通で無い状態なのだと言うことに気付く。
その事がショックな様に、でも何処か腑に落ちる様に感じられて、カナメは美夏に取り留めのない話をする。
その中で、美夏が作ってくれた料理も戻してしまっていたことも話した。
泣きながら何度も謝るその言葉を、美夏はカナメを抱きしめながらじっと聞いていた。

 翌日、心療内科に行く前に眼科に行っておこうと思ったカナメは、近所の眼科へと訪れた。
本を読みながら、長い時間人がひしめく狭い待合室に座り、ようやく受けた診察では、左目は勿論右目にも異常が無いと診断された。
異常が無いのなら、ただの気のせいなのだろうか。
不安は残るけれども、医者が問題ないと言うのなら大丈夫なのだろうと、処方された目薬だけを持って眼科を後にした。

 更にその翌日、カナメは美夏と一緒に、美夏が予約していた心療内科を訪れた。
細い路地を少し入った所に有る、こぢんまりとした三階建てのクリニック。
人の多い待合室で、どの様な症状があるのかの簡単な問診にチェックを入れていく。
チェックを入れるだけでもうんざりしてしまう様な数がある問いに答え受付に渡すと、二階の待合室へと案内された。
 そして待つこと暫く。
付き添いとおぼしき人と話している患者が何組か居る中、カナメも美夏も、ずっと無言だった。
ただじっと俯いているカナメの手を、そっと美夏が握っている。
そうしてようやくカナメの名前が呼ばれ、椅子から立ち上がり、診察室の扉に手を掛ける。
頼りない視線を投げかけながら、カナメが呟く。
「美夏も、一緒に来て」
 確かに、慣れない診療科目の診察となると不安だろう。美夏はそう思ったらしく、カナメの後について診察室へと入った。

 診察室の中で、カナメは美夏の助けを借りながら、自分の状況を医者に話した。
その時間が長かったのか、短かったのか、カナメにはわからない。
ただ、医者がカルテに何行も文字を書いているのを見ていた。
 途切れ途切れながらも話し終わった後、処方箋が入れられたカルテのファイルを渡され、診察室を出る。
それからまた暫く一階の待合室で待った後、何とか会計も済ませ。
すぐ近くにあるという薬局への道すがら、美夏がカナメの背中を軽く叩いて言った。
「何とかなるって」
 そう言われても何とかなるとはカナメには思えなかったが、美夏が応援してくれるのなら、少しずつでも前に進める気がした。
 夏休みの間、始めの内は週に一回、その後は二週間に一回病院に通い、処方された薬を指示通りに飲む生活をして居たカナメは、なんとか前と同じように食事が出来る様になり、だいぶ顔色も良くなった。
少し気になっていた右目の霞みと痛みも、心療内科での診断曰く、心因性の物だろうというと言う事だったのだが、薬を飲み始めてから余り気にならなくなった。
 しかし、それでも今後の学校生活に対する不安は消えなかった。
いっその事、このまま中退してしまうことも考えたが、自分で選び、家族や美夏や勤が応援してくれているこの道を諦めたくなかった。

 夏休みに入ってすぐの頃、マーケティングの授業を受け持っている講師と、単位の取得について話合う機会が有った。
講師は、デザインや販売などのアパレル職に就くのなら、マーケティングの方法を今の内に学ばないと不利だと言っていた。
けれども、カナメはマーケティングはどうしても出来ない、理解出来ないと講師に説明した。
 カナメがこの学校に入ったのは、アパレル系の職に就きたいからでは無く、純粋に自分で服が作れる様になりたかった。ただそれだけの理由からだ。
就職に関しては、アパレル以外の職に就くつもりで居る。
その為に、必修で無い一般教養の単位も複数取っているし、ワープロソフトや表計算ソフトが使いこなせる様に、何とか独学で勉強もして居た。
 てっきりカナメがアパレル職に就くつもりで居ると思い込んでいる講師に、言葉をつっかえさせながら、その事を説明する。
緊張で声を震わせ、顔を真っ青にしながらも自分の意思を伝えたカナメを見て、講師は考える素振りを見せ、こう言った。
「実はね、柏原君みたいに、ちゃんと授業に出ててもマーケティングがどうしても出来ないって言う生徒、偶に居るんだよ。
こっちとしてもなるべく前途ある学生には単位をあげたいんだけど、提出物を何も出してないのに単位は出せないんだよね。
だから、そうだね。他の課題やって貰おうか」
 講師のその提案に、カナメの目がじわりと滲む。
カナメが出来る範囲のことで、最もマーケティングに近い事は何か。その事を二人でじっくりと話合って、夏休み中にその課題に取り組むと言うことで話が付いた。

 お盆も過ぎて暫くした頃、カナメは勤と会う約束をして居た。
前期の間にも何回か誘われはしていたのだが、誘いに乗るだけの気力が無かったので、勤に会うのは半年振りか、それより間が空いているくらいだ。
電気街の駅前で待ち合わせをしているのだが、今回は準備に手間取ってしまい、時間ギリギリに到着する。
すると、駅前では既に勤が立っていて、手を振っていた。
「よう、久しぶり」
「久しぶり。ごめんね、待たせちゃって」
「いや、時間通りに来ただけだろ?
気にすんなって」
 少し申し訳なさそうな顔をするカナメだが、勤にわしわしと頭を撫でられ、笑顔を浮かべる。
早速二人で駅から少し離れた所に有る本屋へと向かう。
狭めの間取りで居ながらも、エスカレーターが設置されている縦長の本屋。そのエスカレーターに乗りながら、勤がカナメに訊ねた。
「最近、調子どうだ?」
 カナメの二段上に立ち、背を向けたままの勤から掛けられた言葉に、申し訳なさそうに答える。
「病院で貰ってる薬飲んでるから、少しましになったかな。
でも、なんか夏休み終わってから学校行くの、ちょっと怖い」
「そっか」
 そのままエスカレーターを降りるまで二人とも何も言わず。
目的のフロアに着いてから、お互いどんな本を探しているのかの話に移る。
カナメはそのフロアで文庫本と新書を一冊ずつ買い、勤は下のフロアでハードカバーの本を一冊買い、そのまま降りていって本屋を出た。

 二人は買った本を持ったまま、また駅前へと向かい、ファーストフード店に入る。
カナメはチーズバーガーを一個と、アイスティー。
勤は、ハンバーガーと、チーズを載せて焼いたポテトと、サラダ、それからアイスコーヒー。
それぞれ食べ物を持ってカウンター席について食べ始める。
 食べながら、勤がカナメに訊ねた。学校に行くのに、何が不安なのかと。
カナメは口の中に入ったチーズバーガーを飲み込み、少し間を置いてから口を開く。
「夏休みの課題が、出来なくはないけど、上手く出来なくて。
何度やり直しても出来上がらない気がして、このままじゃ先生が折角チャンスをくれたのに、失望されそうで、正直言って逃げたい」
 それを聞いた勤は、溜息をついて複雑そうな顔をする。
「あのさ、お前高校の時、漫研の他の部員になんて言ってたか、覚えてるか?」
「え? 締め切り厳守…… ってのは常々言ってたけど」
 突然高校時代の話を出されて驚くカナメの頬を軽くつねり、勤が言葉を続ける。
「完璧を目指すよりまず終わらせろ。そう言ってただろ?
お前も、できなかないんだったら、まず終わらせろ。結果については、その後考えろ」
 その言葉に、高校の時の事を思い出して少し恥ずかしい気持ちになったのか、カナメの頬が赤くなる。
「そうだね。まず終わらせなきゃ」
「本当にどうしようも無くなって逃げるしか無くなったら、その時は逃げるのを手伝うから。
逃げたくないと少しでも思う内は逃げるな」
「うん…… ありがと」
 頬を染めたまま笑顔を浮かべたカナメの顔を見て、勤もなにやら照れた様な顔をして。
これを食べ終わったら次はどこを見に行こうかなどと言う話をしたのだった。

 そして長かった夏休みが終わり、カナメは何とか終わらせた課題を、マーケティングの講師に提出した。
この課題の出来で、本当に単位が貰えるのだろうか。精一杯やったつもりだけれども、完璧にはほど遠い。そう思っていた。
でも、ここで提出しなかったら、単位は確実に貰えない。
課題を渡した後、震える足で講師控え室から出る。
 可か不可か、それがわかるのは年が明けて、桜が咲く頃だ。

 その年度の他の授業はたまに休みはしたけれども概ね出席し、成績表が渡される日が来た。
上から順に、評価を確認していく。
視線がマーケティングの項に近づくにつれて、脂汗が滲み、右目が痛む。
 そして、マーケティングの項に書かれていた評価は、『可』では無かった。

 学校での用事が終わり、カナメはお昼ご飯も食べずにアパートへと帰り、この日のことを心配して、有休を取って家で待機していた美夏の元へとすぐさまに向かう。
呼び鈴を鳴らし、心配そうな美夏に迎えられ、気まずそうに単位の事を訊ねてきた美夏に成績表を見せた。
二人でマーケティングの項を視線で探す間、無言になる。
それから、評価を見付けた美夏がぽつりと呟いた。
「……『可』、じゃなかったんだ」
「うん。先生、どうしても『可』って付けたくなかったみたい」
 二人は成績表に落としていた視線を上げ、笑顔を交わす。
「僕、『合格』なんていう評価初めて見た」
「崖っぷち感凄いけど、単位貰えて良かったじゃ無い!」
 お世辞にも良い評価とは言いがたいが、何とか単位が取れた喜びに玄関先で抱き合い、二人はそのまま離れずに部屋まで移動する。
 それから、カナメを座布団の上に座らせた美夏が、お祝いだと言ってパンケーキを焼く準備を始めた。
粉を冷蔵庫から出した牛乳と卵で溶く音の後、撥ねる油の音が聞こえ、数分置きにフライパンを滑る音と、柔らかい物が重なる微かな音が聞こえる。
暫くして美夏が持って来たのは、陶器の大皿の上に、何段にも重ねられたパンケーキだった。

 二人で色とりどりのジャムを広げ、柔らかく香ばしいあつあつのパンケーキと、それに乗った華やかで甘い味を楽しむ。
その中で、三年時の課題の話になった。
 三年次は、一般教養の講義も少なく、実技は卒業制作だけだ。
卒業制作はウェディングドレスを作るのが通例とのことなので、カナメもウェディングドレスを作るのだろう。
 ふと、カナメが顔を赤くしておずおずとこう言った。
「卒制のウェディングドレス、美夏のサイズで作って良い?」
 それを聞いて、美夏も顔を真っ赤にする。
それから、声も出せずに頷いて、カナメの手を握る。
「着て貰える様になるまで凄くかかると思うけど、僕、頑張るから」
 去年のこの時期以来、ずっと無かった強い声。一生懸命なカナメに応える様に、そっと美夏が顔を寄せる。二人とも緊張した面持ちのまま、そっと瞼を閉じ、初めてのくちづけを交わした。