ある日の事、俺はカナメの部屋に行く事になった。
単純に遊びたいから、と言うのも有るには有るのだが、それ以上に最近不安な事があると言う。
美夏さんと婚約したから、マリッジブルーとか言うそんな物かと思って居たのだけれど、違うらしい。
カナメの部屋の前に行き、インターホンを鳴らすとカナメがドアから出てきた。
「あ、勤。いらっしゃい」
今日の格好は生成りの、シンプルなワンピースだ。うん、可愛い。
それはそれとして部屋の中に入る。
するとそこにはうっすらと煙のような物が漂っていて、ほのかに甘い香りもする。
「なんか良い匂いがするんだけど、お香かなんか焚いてる?」
「うん。
最近お香にハマってて、偶に焚いてるんだよね」
微笑んでそう言うカナメに促され、部屋に置いてある小さなテーブルの前に座ると、カナメがお茶の入ったボトルを持ってきた。
「余りおもてなしは出来ないけど、良いかな?」
「おう、お茶が出てくるだけでも上等上等」
お茶をテーブルに置いて、カナメも俺の目の前に座った。
それから、少し不安そうな顔をしてこんな事を言う。
「そう言えば、勤の実家のお寺、お祓いもしてくれるんだよね?」
「え?やってるけど、なんか有ったのか?」
「えっ……と、こう言うと引かれちゃうかもしれないけど……」
そう控えめにカナメが話し出す。
なんでも、お香を焚いている時、偶に不審な影が部屋の中に現れるのだという。
お香の煙が消えるとその影も姿を消すし、人為的な物だとは思えないらしい。
それで、もしかしたらなにか悪い物に憑かれているのでは無いかと、そう思って俺に相談したかったと。
「お化けなんて居る訳無いって思うけど、本当に何か居る気がするんだ。
……ごめん、でも、こんな話引いちゃうよね?」
そう不安そうにするカナメに、俺は意を決して、自分の仕事の話をする。
「俺、実は退魔師の仕事をしてるんだ。
だからお前のその話で引いたりなんかしないし、むしろこんな仕事をしてる俺の方が引かれるんじゃ無いかと思ってる」
俺も相当緊張しながらの告白だったのだが、カナメは安心したような顔をしてこう言った。
「そうなんだ。確かに言いづらい仕事だよね。
でも、そう言う仕事が必要なんだってのはわかるし」
「俺の話、信じてくれるのか?」
「勿論だよ。
だって今、勤だって僕の話を信じてくれたし、友達の事を疑うなんて出来ないよ」
その言葉に、今度は俺が安心した。
暫く二人で談笑していたのだけれど、そう言えばお香を焚いてる時に見える影の話だったな。
「そう言えば、どんなお香を焚いてる時に影が見えるんだ?」
「え? ちょっと待ってね」
俺の問いに、カナメは小さな引き出しを開けてがさがさと捜し物をしている。
そして出てきたのは、緑色の三角形をしたお香。
「この、蓮の花のお香なんだけど、これを焚いてる時に見えるんだ」
「なるほど。
あのさ、恐いかもしれないけど、ちょっと焚いてみてくれね?」
「う、うん」
カナメは小さな陶器製の香炉の中に、火を付けた蓮のお香を入れる。
香炉から立ち上る煙を見ている事暫く、何かの気配を感じた。
それをカナメも感じ取ったのか、俺の腕にしがみついて固まっている。
一体何者が居るのかと目を凝らしていると、薄い布で出来たローブのような物を纏った、パンチパーマの人影が。
「勤……なんか、居るよね?」
「ああ、確かに居る」
カナメはそう言って怯えているけれど、俺はその人影に見覚えが有った。
何処でかって?実家の仏壇でだよ。
その人影がカナメの方を向いて口を開いた。
「毎回毎回そんなに怖がられたら、私悲しい」
そうは言っても一般的な人から見たら怖い物だからね? と思いつつも口には出さない。
怖がって何も言えないで居るカナメの頭を撫でながら、こう言い聞かせる。
「大丈夫だって、あの方は仏様だよ」
「仏様?」
カナメが不思議そうに、改めて影の方を見る。
それでようやくカナメも、そう言えば修学旅行の時に見た事有るような気がする。と言って安心した様子だ。
恐る恐るカナメが、仏様に問いかける。
「あの、なんで仏様が僕の部屋に居るんですか?
もしかして、悪い事をしたから地獄に落とそうとか、そういうのですか?」
すると仏様は頭を横に振ってこう答える。
「ううん、そうじゃないの。
あのね、カナメちゃんこないだ婚約したよね?
それで、彼女さんとの仲を応援したいって言ってるのが居るから、紹介しようかなって思ったんだ」
なんか仏様フランク。
もっと重厚な話し方をする物だと思って居たので、気軽に話しかけてくる仏様に驚きを隠せないでいるうちに、仏様が紹介したいと言っている者を呼び出した。
「ククク……我を呼んだか」
仏様に呼び出されたその人影に、俺は思わず空のカップを投げつけてしまった。
それを見て仏様は少し驚いた顔をして俺に話しかけてきた。
「勤君、そんな邪険にしないで。
確かにこいつ堕天使だけど、悪い奴じゃ無いよ?」
俺達のそのやりとりに、カナメは目をぐるぐるさせている。
多分、何が起こっているのかわからなくなってきているのだろう。
そんな様子もさておいて、堕天使はコップを俺の方に投げてよこした後、カナメに視線を向けてこう言う。
「柏原カナメ。お前は同性同士で番いになるつもりなのだろう?
そうなったら父なる神と天使達はお前を取り込む事が出来なくなる。
せいぜい彼女と仲良くする事だな」
「ほら、堕天使ちゃんも応援してくれてるし、私もカナメちゃんと美夏ちゃんのこと応援してるよ。ガンバ!」
堕天使と仏様がつるんでるって、結構シュールな映像なんですけど。
俺が戸惑っていると、カナメもようやく状況を理解したのか、深々と頭を下げて仏様と堕天使に言葉を返す。
「ありがとうございます。
実は、結婚までの準備で不安な所がいっぱい有ったから、仏様や堕天使さんに応援して貰えてるってわかって少し勇気が出てきました」
堕天使の応援受け取っちゃうの? 堕天使がなんなのかわかってるよな?
思わずそうツッコみたくなったが、カナメが勇気を貰えたのなら、それはそれで良いかと納得する事にした。
その後、カナメからお香を詳しく見させてもらった所、この蓮の花のお香には霊的な物を可視化させる効果があるというのが解った。
まだお香の煙が立ち上っている中での確認だったので、仏様からのアドバイスもあったんだけど。
「カナメちゃんにこのお香買ってよ! って何度も念を送ったのに、なかなか買ってくれなかったんだよね。
でも最近ようやく買ってくれたから、こうやって顕れてエール送ろうと思ってたの」
「えっ? そうだったんですか?
気付かなくてすいませんでした」
「いやいや、カナメちゃんが謝る事無いよ。
念が通じる事自体結構稀だしさ」
仏様と普通に会話出来るカナメすごい。
俺はと言えば、家がお寺だと言う事で、仏様においそれと声を掛ける事は出来ない。
流石に畏れ多いよ。
でも、よく考えたら俺だって八百万の神様と普通に話してたりする訳で。
神様仏様でも、これだけフランクにされたら話しやすいのかな。
もしかしたらそれを見越してフランクに話しているのかもしれない。
そして暫く後、煙が消えた頃には、仏様も堕天使も姿を消した。
もしかしたらこのお香は何かに使えるかもしれないと、少しカナメに分けて貰ったのだった。
「お前、少し時間を借りて良いか?」
お昼時、食事を作るのが面倒でカップ麺をズルズル啜っていた所にそれは現れた。
突然の事なので思わず鼻からラーメンを噴き出しそうになったが、何とか飲み込んで姿を確認する。
すると目の前に、悠希さんに憑いているあの霊が立っていた。
「俺は今日暇なんで構わないけど、あなたは悠希さんの事を置いておいて良いんですか?」
「いや、余り良くないんだが」
取りあえずラーメンを食べ終わるまで待って貰い、小さなテーブルの上を片付けてその前に座って貰う。
一体何の用があるのかと訊くと、こう返ってきた。
「実はとある者からお前が霊体を可視化する事の出来る香を持っていると聞いてな。
その話だ」
「なんでまた?」
俺がまたそう訊ねると、彼が言うにはこう言う事らしい。
かつて自分が思いを寄せていた人物の生まれ変わりである悠希と、直接話がしたいのだそうだ。
なるほど、思いを寄せていた人の生まれ変わりが悠希さんなのか。
それならスキンシップ過剰にもなるよな。
しかし、何故この人は天に帰り生まれ変わる事が出来ないで居るのだろう。
更にそう問いかけると、彼は涙目になってこう答えた。
「俺は、愛する人をこの手に掛けたんだ。
それで牢獄に入れられたのだが、その当時魔女裁判が盛んで、そのどさくさで俺は魔女の疑いを掛けられ水の底に沈められた。
それ故、俺は天に帰る事は勿論、生まれ変わる事も出来ないんだ」
「魔女裁判ですか……」
中世ヨーロッパでは、各地で魔女裁判が流行った時期があると聞いた事が有る。
彼はその時代の流れに飲まれ、今まで彷徨い続ける事になってしまったのか。
ふと、俺はずっと訊いていない事が有った事を思い出す。
「あの、ところでお名前はなんと言うのでしょうか?」
俺の問いに、彼は近くに転がっている水入りペットボトルをちらりと見てからこう答えた。
「俺の名前はソンメルソ。
ああ、本当に名前通りの最期だったよ」
「はぁ」
名前通りというのはどういう事なのだろうか。
そう疑問に思ったけれど、ふと思い出したのはカナメに借りたヴェネツィアンビーズの本。
その本の中に、『ソンメルソ』と呼ばれるビーズが有ったはず。
名前の由来は何だったかな等と暫く考えて、思い出した。
『水に沈めた』
それがソンメルソと言う言葉の意味だ。
一体どういう意図で両親がその名を付けたのかは解らないが、皮肉な話だ。
名前を聞いた所で、今度は他の事を訊ねる。
何故愛する人を手に掛けたのかという事だ。
「その事か。
今は詳しく言えないが、俺はあいつを自分の物に出来ないと思ったんだ。
それでも、どうしても諦められなくて、少しずつ毒入れた紅茶を飲ませて殺した」
「そうなんですか」
ソンメルソさんの話を聞いて頭に浮かんだのは、カナメのことだった。
もしかしたら、カナメにもっと友達が多くて独り占め出来る時間が少なかったら、俺もカナメの事を殺して自分だけの物にしようとしたのでは無いか。そう思った。
でも、寿命以外で死んだカナメの姿なんて見たくは無い。
だから俺はこう言った。
「ソンメルソさんは、愛する人を殺した事に、後悔は無いんですか?」
この言葉に、ソンメルソさんは両手を握りしめて、声を震わせて答える。
「……もうずっと、身を裂かれる程の後悔をしている。
俺に毒を盛られていると知ったあいつ、どんな反応をしたと思う?」
「え?
やっぱり恨まれたりしたんじゃ無いんですか?」
俺だったら毒を盛られたら恨むよ。そう思ってさらっと返したら、ソンメルソさんが今にも泣きそうな声で言う。
「あいつ、毒を盛って殺そうとした俺を許してくれたんだ。
『今まで気付かなくてごめんね。辛かったね』って……」
そして、ついには泣き出してしまった。
これは、酷く後悔しているんだろう。
いっその事、殺した相手から恨まれていたのなら、ここまで後悔はしなかったのかもしれない。
ソンメルソさんの思い人は、とても優しく、慈愛に満ちていて、そしてそれが喩えようも無い程の残酷さになっていたのだ。
それから暫く、俺とソンメルソさんは雑談をしていた。
ソンメルソさんの思い人と悠希さんに、どんな共通点が有るのかという話等だ。
「宿主……ああ、悠希と言った方が良いか。
悠希はアクセサリーを作るのが好きだろう?
俺が好きだった奴も、アクセサリーを作るのを生業としていたんだ」
「え? もしかして、前にロザリオの発注の話をしてる時にちらっと聞いた、『お前も昔は作ってたのにな』って、悠希さんの事じゃなかったんですか?」
「ああ、悠希はピンを曲げるのが出来ないらしくてな、あの時に言った『お前』というのは、悠希の前世の事だ。
あいつの母親は何故か頻繁にロザリオを壊していて、その度に色々と注文を付けられながら作っていたぞ」
「クリスチャンがそんなほいほいロザリオ壊しちゃって良いんですかね?」
「母親に聞いた所、お祈りの時に珠を手繰るのに力を入れすぎる事が多くて、それで壊れると言っていたな」
「なるほど。
熱心にお祈りをしていたんですね」
そんな話をしていると、ソンメルソさんがこんな事を言った。
「所で、お前はホトケと言う者に属している様だが」
「はい。お寺生まれなんで」
「この前ロザリオを作って貰っていたと言う事は、ホトケの籍から外れて我等の神の元へ来るつもりなのか?」
この問いに思わず気まずくなる。
別段クリスチャンになるつもりは無いんだよな。
少しビクビクしながら、俺はロザリオを作って貰った経緯を話す。
「実は、ソンメルソさんとの対話のきっかけになればなと思って作って貰ったんですよ」
「俺との対話?」
怪訝そうな顔をする彼を見て、やっぱり気安く持つなと言われるかもしれないと、気が気でない。
けれどもソンメルソさんはそうは言わなかった。
「何故俺と対話しようと思ったんだ?
もしや、悠希に良からぬ事をしようと思っているのでは無いだろうな?」
「あ、それは無いんで安心して下さい」
俺が悠希さんに良からぬ事をするつもりも、言い寄るつもりも無いと無いと説明したら、ソンメルソさんは落ち着いた様子。
何故対話しようと思ったのかについての回答はしていない気がするが、落ち着いてくれたのならそれで良い。
そういえば、出版社潰しの話をしないと。
そう思った矢先に、ソンメルソさんは一言、また会おう。と言って悠希さんの元へと帰ってしまった。
それから数日後、俺はカナメとパソコンで話をしていた。
結婚資金を貯めるのに余り外出は出来ないと言うカナメの意思を尊重して、無料通話の出来るボイスチャットで話しているのだ。
たわいも無い話をする中で、ふと心に過ぎった事をカナメに訊ねた。
「あのさ、もし俺がお前の事を殺そうとして毒を盛ったりしてたら、どうする?」
いきなりのその内容に、カナメは少し驚いた声を出したけれど、すぐにいつも通りの口調でこう返してきた。
「死ぬのは怖いけど、本当に勤が僕に毒を盛ってても怒れないし、恨めないな。
だって、ずっと友達で居てくれてるんだもん。
……それとも、本当は僕の事が嫌いなの?」
「いや、嫌いな訳無いだろ。
嫌いだったら、なぁ。色んな相談受けたりしないし」
「そっか、良かった」
きっと画面の向こうでは笑顔を浮かべているのだろう。
カナメのこの様子を感じ取って、やっぱり殺したら一生どころか死んだ後も後悔するなと、そう思った。
ソンメルソさんと話をしてから一ヶ月程経った頃だろうか、俺は悠希さんの部屋へお邪魔する事になった。
二人でゆっくり話をしようと言う事だったのだが、悠希さんの部屋に案内されて俺は驚いた。
悠希さんの部屋は、カナメと同じアパートの同じ階に有るのだ。
悠希さんは、そう言えば言ってなかったね。と笑っているが、あらかじめ言われていたら俺は悠希さんの部屋に入り浸ってちょくちょくカナメの所に行っていたかもしれない。
だから知らなくて良かった。
悠希さんの部屋に入り、暫く雑談をする。
悠希さんはハーブティーが好きらしく、偶にアロマオイルを室内香として焚く事もあるらしい。
この話の流れを逃す訳には行かない。
俺は咄嗟に鞄の中から香炉と蓮の花のお香を取り出してこう言った。
「そう言えば、こう言うお香なんてどうなんだ?
カナメが結構好きらしくて分けて貰ったんだけど」
「へぇ、カナメさん、お香が好きなんだ。
ちょっと棚の上を片付けて焚いてみようか」
そんな話をしていたら、窓辺に寝そべっていた鎌谷君が鼻に皺を寄せてこう言った。
「なに、焚くの?
じゃあ俺暫く散歩行ってくるわ。
お香とかの匂いは俺にはきつすぎるんでね」
「うん、行ってらっしゃい」
紫の風呂敷に煙草とライターを詰め込んだ鎌谷君が玄関から出て行く。
それを確認して、俺は棚を片付けている悠希さんにさりげなく訊く。
「そう言えば、悠希さんって幽霊とかそう言うの信じるタイプ?」
「う~ん、なんかこう言うの恥ずかしいんだけど、割と本気で居ると思ってるんだよね。
昔から匠が何も無い所に話しかけたりしている所を見てたりしてて、そこにお化けとかが居るのかなって思ってたんだ」
「そうなんだ」
そう話をしている内に棚の上が片付いたらしく、悠希さんがワクワクした顔で香炉を覗き込んでいる。
「可愛い香炉だね。これにお香入れるのかぁ」
いかにも楽しみと言った悠希さん。その気持ちに水を差すようで悪いのだけれど、お香に火を付ける前に確認しないといけない事がある。
「悠希さん、お化けって言うか、霊って怖い?」
「え? そうだなぁ、なんか怖い感じの見た目のは怖いけど、普通の人と代わらない見た目の霊だったら、怖くない……かも。
何でいきなりそんな事訊くの?」
悠希さんの問いに俺は答える。
悠希さんには前世で繋がりの有った霊が憑いていて、その霊が悠希さんと話をしたいと言っているという事、それと、このお香は霊を可視化する効果があると言う事を話した。
これを聞いて悠希さんは少し不安そうな顔をしたけれど、お香を焚いて欲しいと言う。
俺はライターを借りてお香に火を付け、香炉に入れる。
香炉の中からゆらゆらと立ち上る煙。
その煙が部屋に満ちると、人影が現れた。
「えっ……この人が僕に憑いてるって言う人?」
現れたのはソンメルソさん。
悠希の隣に座り、ぽつりぽつりと話をし始めた。
前に俺が聞いた話も混ざっている。
そんな中で、ソンメルソさんが悠希に訊ねた。
「悠希、お前は俺の事が怖くないか?」
その問いに、悠希さんは微笑んで答える。
「怖くないですよ。
でも、前世で僕とどんな関係だったのか知りたいです」
悠希さんの言葉に、ソンメルソさんの瞳がゆらりと揺れる。
「俺と悠希の前世は、友人だったんだ。
けれども、俺はお前の前世を殺してしまった」
それを聞いて悠希さんは、驚く様子も無く、殺す程憎い相手の生まれ変わりに憑いているなんて、何でですか? と訊き返している。
それに対してソンメルソさんはこう答えた。
その友人が愛おしくて、他の人に取られるのが嫌だった。取られるくらいなら殺して自分の物にしようと思ったと、そう語る。
「政略結婚かなにかで、離ればなれにされそうだったんですか?」
悠希の少し悲しげな瞳を見つめたまま、ソンメルソさんは一旦口を結んでから、重々しくこう答えた。
「そうじゃない。
俺が殺してでも自分の物にしたかった友人は、男だったんだ」
その言葉で、部屋に沈黙が降りた。
俺は勿論、悠希さんも身に覚えがあるし、ソンメルソさんはこれを口にした事で悠希に嫌われるのでは無いかと思っているのだろう。
暫く誰も何も言えないままでいる中、まず口を開いたのは悠希さんだった。
「辛かったでしょう。
ソンメルソさんはクリスチャンだから、同性愛は神様に認められていないし、ずっと一人で悩んでたんですね」
悠希さんの言葉に、ソンメルソさんは瞳を潤ませる。そんな彼の手を取って、悠希さんは優しく撫でる。
瞳に溜まった涙をぼろぼろと零しながら、ソンメルソさんは悠希さんの手を握る。
そんな二人を見ていて、俺はあの堕天使の言葉を思い出していた。
神の禁忌についてだ。
ソンメルソさんが冒した神の禁忌は二つ。
一つは殺人。
そしてもう一つは同性愛。
なるほど、俺も殺人こそしては居ない物の、高校の時からずっとカナメに心を惹かれていた。
ソンメルソさんの信じる神が禁じた同性愛を、俺は冒してしまっていたのだ。
本当はここでソンメルソさんに出版社潰しをするのをやめて欲しいという事を言わなくてはいけないのだろうが、そう言う雰囲気では無く口を出せない。
ふと、悠希さんがこう言った。
「ねぇ、ソンメルソさん。
僕、来世でまたソンメルソさんの友達になりたいな。
だから、ソンメルソさんも生まれ変われるように天に帰ってよ」
その言葉にソンメルソさんは泣きながら答える。
「お、俺は、魔女裁判で処刑されたから、天には帰れない。
神にも見放されて、だから、どうしたら良いかわからなくて……」
その姿を見て、西洋の神様も心が狭いなとついつい思ってしまった訳だが、くゆる煙を乱してもう一つ、見覚えの有る人影が現れた。
「もしもし? 私の出番です?」
「うわー! どちら様ですか?」
突然掛けられた声に悠希さんが驚いているので、俺が簡単に説明する。
「この方は仏様だよ。
もしかしたらソンメルソさんを助けようと思っていらしてくれたのかもしれない」
「ほ、仏様……ですか?」
悠希さんが戸惑っていると、仏様は前に会った時と変わらないテンションで話をする。
「うん、そう。仏ですよ。
なんかねぇ、ソンメルソ君みてたら段々可哀想になって来ちゃって。
仏的にも無用な殺生は禁忌なんだけど、ソンメルソ君の場合は事情が事情でしょ?
あっちの神さんも、もっちょい心が広ければこんな悲劇は起きなかったのかなって思って。
まぁ、向こうは向こうで結構厳しい戒律作らないとやってけなかったってのが有るから、それも仕方ないんだけどね」
気軽に話し続ける仏様に、ソンメルソさんが縋るような視線を向ける。
「俺の事を、救ってくれるんですか?」
その言葉に、仏様は顎に手を当てて首を傾げる。
「うん、私はそのつもり。
でもねぇ、ソンメルソ君、神から見放されてる割には天使達の監視がすっごいのよ。
その監視を振りほどかないと、ちょっとどうしようも無いのよね」
それから、俺の方を向いてこう言った。
「勤君。最近天使さん達のお勉強もしてたよね?
ちょっと例の子と協力して何とかしてくれない?」
「え? 例の子と言いますと?」
「あの堕天使ちゃん」
「えー……」
まぁ、あの堕天使、根は良い奴っぽいから協力しても良いけど……
こうして、仏様が例の堕天使を呼び出して、ソンメルソさんに掛けられている呪縛を、共に解く作業を始めた。
仏様に呼び出された堕天使は、薄笑いを浮かべながらソンメルソさんに術を掛ける。
「これで天使がかけている呪縛の糸が見えるはずだ。
さぁ、寺原勤。この呪縛を解くがいい」
そう言って堕天使がソンメルソさんに向けていた手を天に向けると、ソンメルソさんに絡みついている何本もの光の紐が見えた。
手で直接触ろうとすると、電気のような物が伝わってきて触っていられない。
これはロザリオを使って処理するしか無いな。
ロザリオを握り、光の紐が切れる様を強くイメージする。
すると、少しずつでは有るが、ぷつりぷつりと紐が切れて解けていく。
半分くらい解けた辺りだろうか、堕天使が呆れたようにこう言った。
「ロザリオなどと言うまどろっこしい物を使うとはな。
光の呪縛をたやすく断ち切れる漆黒の鋏を貸してやろうか?」
「そう言う便利グッズが有るんだったらもっと早く出してくんない?」
堕天使から早速なんちゃらの鋏を借り、サクサクと光の紐を切っていく。
光の紐を全部断ち切り、ようやくソンメルソさんが解放される。
ああ、これで仏様の救いを受けられるのだな。
しかし、そう安心したのもつかの間。部屋の周りから大きな霊圧を掛けられ始めたのだ。
「な、なんなんだこれ」
「勤さん、一体何が起こってるんですか?
なんか……息苦しい……」
そう言ってうずくまり、咳き込む悠希さん。
これは、霊圧に負けたな。
確かにこの霊圧は、一般人には耐えがたい物だろう。早く何とかしなくては。
そう思った瞬間、頭の後ろに何かがべしゃりとぶつかってきた。
一体何事…… と不思議に思いながら後頭部をさすると、手にクリームが付いてきた。
勿論、実体のあるクリームでは無い。霊的なクリームだ。
かつて紙の守出版で聞かされた、八百万の神と西洋の神の戦争の話が頭を過ぎっていく。
「わぁぁ、食べ物を粗末にしちゃダメよ!」
なんか仏様の頭にも三個程パイがぶつかっている。
これは、ソンメルソさんを解放した事に怒った天使達が、戦争という名のパイ投げをしかけてきたな?
「おい、堕天使!」
「何かな?」
「空気圧縮型水鉄砲を出せるか?
霊的な奴」
「勿論だとも。
ふふふ…… お前も天使達と全面抗戦するつもりだな?」
「俺は売られた喧嘩は買う主義なんでね。
相手が喩え天使だろうとなぁぁ!」
俺は堕天使に渡された水鉄砲の内圧を一気に上げ、姿を見せた天使の顔に一発お見舞いする。
堕天使曰く、俺の霊力が尽きない限り水鉄砲の中身は自動的に補填され続けるらしいので、発射する時のロスは内圧を高める時間くらいの物だ。
かくして、パイ対水鉄砲の、よく考えたら不毛極まりない争いが始まったのだった。
で、最終的にどうなったかというと。
「……申し訳ありませんでした……」
俺の持っている水鉄砲で、溺れる程顔面に水を叩き付けられた天使長が息も絶え絶えに転がっていた。
他の天使達も皆ずぶ濡れで、疲労の色を隠せていない。
え? 俺? クリームまみれだけど何か?
堕天使も仏様もクリームまみれな訳なのだが、クリームを落とす事すらせずに、仏様がぷんすかしている。
「もうっ、食べ物を粗末にしちゃダメよっ!」
「本当に申し訳ない……」
そんな感じで、転がっている天使長以下天使達が仏様にお説教をされている。
食べ物を大切にしなさいと言う内容の事を長々と話していたのだが、仏様がそれに続いてこう天使達に言った。
「それでね、ソンメルソ君はうちの籍に入って貰うから。
そっちではもう破門扱いだったんでしょ?
構わないよね?」
「し、しかし、禁忌を冒した人間を救うなどというのは……」
「だからね、そっちで禁忌になってる事でも、こっちでは禁忌じゃ無かったりするの。
そっちとしても地獄に落とす人数が多いと業績に悪影響出ちゃうでしょ?」
「はぁ…… まぁ」
「だったら、そっちで地獄に落とす予定だった子をこっちに回してくれれば業績も落ちないし、この子もこっちで救われる。
悪い取引じゃ無いでしょ?」
仏様の言葉に、天使達は完全に納得した訳ではなさそうだったが、これ以上水鉄砲を撃たれるのが嫌なのか、すごすごと帰って行った。
天使達が帰った事で悠希さんの体調も元に戻った様子で、お香をもう一個焚き、改めてソンメルソさんの今後について話をしていた。
ふと、悠希さんがおどおどした様子で俺に訊ねてくる。
「あの、勤さん、ちょっと良い?」
「ん? なに?」
「なんか皆クリームまみれなんだけど、僕が倒れてる間に何が有ったの?」
「あー……
ちょっと、ソンメルソさんを解放した事に怒った天使達とパイ投げを少々……
まぁ、霊的なクリームだから、放っておけばその内消えるよ」
「そうなの?」
パイ投げの話はそこそこにして。今はソンメルソさんが本当に仏様の籍に入るかどうかの話だ。
「やっぱり、東洋の異教ってなると抵抗有るかな?」
「で、でも、ホトケ様は俺の事を救おうとしてパイ投げにまで参加してくれた訳だし……」
そうは言ってもソンメルソさんは戸惑いを隠せない様子。
そこにつけ込むように、堕天使がこう言った。
「ならば地獄へ来るかい?
地獄は良い所だよ。
完全週休二日制、定時退社厳守、初任給は手取りで二十三万、食堂ではランチの割引チケットも配っている。完璧な場所では無いかね?」
「うわー、地獄って想像以上にホワイト企業だった」
そんな堕天使の誘惑にも、ソンメルソさんは首を振る。
いや、むしろ堕天使の話を聞いて、俺が地獄に就職したいとか一瞬思ったよ。
ソンメルソさんは暫く悩む様子を見せた後、仏様にこう訊ねた。
「俺のした事は、ホトケ様から見たら禁忌にならないのですか?」
その言葉に、仏様はにこにこしながら答える。
「正直言うと、無益な殺生は禁忌になるの。でも、ソンメルソ君の場合は仕方ないかなって事でそこは大目に見てあげる。
あと、同性愛について何だけど、そっちは何の問題も無いの。
結構お坊さんとかだと男の人同士でなんちゃらとかしてるのが、昔は普通だったしね」
「ホトケ様、今後ともよろしくお願いします」
「ソンメルソさん、不純な動機で仏籍に入られちゃう仏様の気持ちも考えてな?」
仏様の言葉に、すんなり仏籍に入る事を決めてしまったソンメルソさんに思わずツッコむ。
すると、仏様はこんな事を言う。
「いいのいいの。宗教なんて、元々は何らかの欲が集まって出来た物なんだから。
誰だって救われたいし、その為には自分に合った宗教に入るのも悪くは無いよね。
信徒だって適材適所ってこと」
う、ううむ、仏様にこう言われてしまっては、仏教徒である俺は何も言えない。
地獄行きを拒まれてしまった堕天使はつまらなそうにしているが、悠希さんは笑顔で、ソンメルソさんにこう言う。
「それじゃあ、仏様の元で生まれ変わって、次会った時はまた友達になってね」
すると、ソンメルソさんが顔を赤くして、小声で呟く。
「あの……友人じゃ無くて、出来れば恋人……」
その言葉に、悠希さんはソンメルソさんの頭を撫でて優しくこう言った。
「うん。そうだね。
でも、まずは友達からじゃ無いと判断しにくいから、友達からが良いな。
それで、お互い好きになったら、恋人になろう」
ぼろぼろと涙を零すソンメルソさんに、仏様が声を掛ける。
「それじゃあソンメルソ君、早速成仏しようか。
成仏した後も転生するのに準備が要るし、善は急げよ」
何も言葉に出来ないまま、何度も頷くソンメルソさん。
仏様が俺達に手を振って、ソンメルソさんを連れて天へと昇っていく。
ああ、これで彼は救われたのだと、安心感に包まれた。
ソンメルソさんが成仏して一年程経った。
美言さんに依頼された仕事を片付けられたと報告した時は、非常に喜ばれたな。
今でも紙の守出版に偶に出入りしているのだが、こんな話を美言さんがしてきた。
「悠希さんの小説、本当に売れ行きが良くてビックリしています。
執筆スピードも結構早いから、色々なシリーズを書いて貰ってるんですよ」
「へぇ、そうなんですか」
「しかも、当社から出している小説は二次創作フリーなので、偶に同人誌なんかも送られてきますね。
流石に悠希さんに見せたらショックを受けそうな本もありますけど、問題なさそうなのは悠希さんにも見せてたりします」
そう、悠希さんは無事に小説家デビューを果たし、それなりに順調な日々を送っている様だ。
首からロザリオを下げた美言さんの話を暫く聞いた後、美言さんの上司の口げんかをBGMに紙の守出版編集部を後にする。
今日はこの後、カナメと美夏さんとの待ち合わせだ。
紙の守出版編集部から本屋街へと移動し、大通りに面した本屋の前で二人と落ち合う。
今日は俺の方が少し遅れて待ち合わせ場所に着いた。
今回なんで本屋街で待ち合わせをしていたのかというと、カナメが最近はまっている小説を買うために、大きい本屋に行きたいと言っていたからだ。
美夏さんは勿論、カナメもフリフリでこそ無いものの可愛らしい女の子の服を着ている。
はぁ、もう、可愛いなぁ……
でも、俺もだいぶ前にフラれてる訳だし、他の女の子探さなきゃな。
そう思って悠希さんや匠ちゃんに紹介はして貰うんだけど、やっぱりカナメの事が諦められなくて。
もういっその事、あの美しい思い出と一緒に、一生独身で居ても良いかなとも思う事もある。
「そう言えばカナメ、どんな小説買うつもりなんだ?」
「え?
あの、紙の守出版って言う所から出てる小説なんだけど、悠希さんが書いてるって言ってたやつ買おうと思って。
他のシリーズも買って読んでるんだけど、どれも面白いんだよ」
そう言って笑顔を見せるカナメに、美夏さんがこう言う。
「私が出張で居ない時、それ読んで寂しいの我慢してるんだよね」
「う、うん」
「なんだよ~。
寂しい時には頼ってくれないと俺が寂しい~」
カナメと美夏さんは、実はまだ結婚はしていない。
美夏さんは結構収入があるらしいのだが、カナメがほぼ収入が無いと言って過言では無い状態なので、結婚資金がなかなか貯まらないという。
カナメの親は、カナメの分の結婚資金は負担すると言っていたらしいのだけれど、毎月仕送りをして貰っているのだから、それ以上は貰えないと言って断ったのだそうだ。
だから、カナメは色々な生活費を切り詰めて、美夏さんと共同で作った銀行口座に毎月一定額を入れているそうだ。
不平等が無いように、美夏さんもカナメと同じ額を入れているそうで、カナメのペースに合わせているから目標金額までの道のりが長いという。
俺は正直、カナメと結婚するという美夏さんに嫉妬していた。
でも、カナメの幸せの事を考えたら二人を引き離す事なんて出来なくて、でも手助けをする程の気概は無くて、ただただ、三人揃って友人という関係を保っている。
本を見ながら、そろそろ貯金が貯まるねなんて、美夏さんと話すカナメ。
そうか、この二人、もうすぐ結婚するのか。
少しもの悲しさを感じながら、それを誤魔化すように本を手に取る。
ページを捲っても内容が頭に入ってこない。
ぺらぺらとページを捲る作業だけをしている俺に、カナメが話しかけてきた。
「そう言えば、勤は悠希さんからあの話聞いた?」
「え? 何の話?」
話しかけられた事に少し嬉しさを感じながら返事を返すと、こんな話をされた。
何でも、悠希さんが小説家デビューする際に紙の守出版編集部に行ったらしいのだが、その時にズラッと黒服の男達が取り囲んでいたらしい。
悠希さん曰く、出版社の人が雇ってる警備員の人かな? との事だったらしいのだが、実は俺はその話の内情を知っている。
その黒服の男達は、紙の守出版が雇った警備員では無いと言う事を美言さんから聞いている。
では一体何だったのか。
実は、あの黒服達は悠希さんの身を案じた聖史さんが、詐欺対策として付けた物なのだ。
美言さんが黒服の事情を知っていた訳では無く、悠希さんの除霊完了の報告を聖史さんにもしたのだが、それ以降偶に悠希さんの事を気にしている聖史さんから電話が掛かってくる事が有り、その中のある時に、聖史さん本人から聞いた。
美言さん本人としては、あの時は怖くて仕方なかったんですから。との事。
しかし、俺が紙の守出版に出入りしている事はカナメに言っていないので、へぇ、そんな事が有ったんだ。と言う反応を返さざるを得ない。
ふと、疑問に思った事をカナメに訊ねる。
「カナメって確か、一時期小説大賞に応募してたよな。今でも続けてるん?」
するとカナメは少し寂しそうに笑って言う。
「ううん、流石に毎回毎回大量に書くのは息が続かなくて。
今はもっぱらホームページで二次創作してる」
「うん、そっか。ちょっと残念だな」
俺がそう返すと、カナメは唇を尖らせ、笑って言う。
「なに?
勤は僕に小説家デビューして欲しいの?」
だめだ、俺、カナメのこの表情に弱いんだよな。
少し顔が熱くなるのを感じながら、カナメに言う。
「だって、お前昔からずっと小説書いてるじゃ無いか。
それが実を結んだって良いと思うんだけどな」
「そう?
でも、今やってるホームページでも結構読んでくれてる人居るし、そう言う意味では実を結んでるんじゃ無いかな?」
「そうなん?
まぁ、お前が満足してれば良いか」
そんなたわいの無い話で笑い合う。
こんな些細なひとときが、高校の時からずっと積み上がって、沢山重なって。
何時だったか悠希さんが言ってたな。
『友達とか恋人とか、そんな言葉じゃ言い表せない強い絆なんじゃないかな』
俺とカナメは、友人や恋人を越える絆で繋がれているんだろうか。
もしそうだったとしたら良いななんて思いながらも、カナメに訊ねる事は出来ない。
俺がぼんやりと考え事をしている間にも、カナメはお目当ての本を抱えてレジに向かう。
ふと、美夏さんが俺に話しかけてきた。
「私ね、勤さんの事がうらやましいって思った事有るの」
「え? なんで?」
美夏さんの突然のその言葉に、思わず戸惑う。
「だって、カナメったらすぐに勤さんの話を出すのよ?
高校の時どうだったとか、この前会った時どうだったとか。
そんなに勤さんの事を見てるんだなって。
私ね、不安になってカナメに訊いた事があるの。
本当は勤さんの事が好きなんじゃ無いのって」
まさか美夏さんがこんな不安を抱えているなんて思わなかった。
だってカナメの奴、俺と会う時は美夏さんの話ばっかりするんだぞ?
意外に思いながらも、美夏さんにその時どんな答えが返ってきたのか、ドキドキしながら訊ねる。
「『それは無い』ってあっさり返されちゃった」
「あ、うん、やっぱり」
改めて恋心を完全否定されると、やはり気持ちが沈む。
そんな俺の様子に気付く事も無く、美夏さんは言葉を続ける。
「でもね、私も勤さんも、同じくらい大事な人だって、そう言ってた。
だから天秤に掛けさせないでって」
「……そっか、あいつらしいな」
暫く美夏さんとそんな話をしている内に、カナメは本の会計を済ませて戻ってくる。
「今日の用事はこれだけか?」
「目星付けてたのはこれだけだけど……」
「あ、私古本屋さん見たい」
「古本屋か、よっし、古本屋行こうぜ」
本当に、ああ本当に、こんな日が何時までも何時までも続きますように。
よし、今度この願掛けしに紙の守出版編集部行こう。
悠希さんが小説家デビューをして暫く経った頃、俺の元に美言さんから連絡が来た。
なんでも今度悠希さんのサイン会をやるらしく、その時にスタッフのアルバイトを頼みたいというのだ。
一瞬、八百万の神様達で何とかなるのではないかと思ったのだが、 一応人間に詳しいであろう俺もいてくれた方が良いとの事。
まぁ、確かに神様が人間のサイン会のスタッフやってるってのは異常事態だよな。
日程を訊くと、まだ予定が埋まっていない日だったし給料も出るので、素直にアルバイトをする事にした。
そして当日、本屋の一角で列整理をしているわけなのだが、実力があると言われているものの、 まだまだ駆け出しの小説家なわけで、驚くほど人が並んでいるという訳ではない。
最後尾札を持ったままお客さんの誘導をしていたら、周りを見渡しながら近づいてくる見覚えの有る顔が。
「あれ? 勤、こんな所で何してるの?」
「ああ、ちょっとアルバイトで列整理のスタッフやってるんだよ」
「そうなんだ。あ、最後尾はここ?」
「そうそう。時間かかると思うけど、気長に並んでてくれよ」
やってきたのはシンプルだけれど、少しおめかしをしているというのがわかるワンピースを着たカナメ。
前に見たフリフリの服もかわいかったけど、こう言うのも良いな……
それにしても、カナメは悠希さん宅のごく近所に住んでるのにわざわざサイン会に来るなんて。
きっと、公私混同は良くないと思って、直接行かずにサイン会があるの待ってたんだろうな。
本当はもっとカナメと話していたかったけど、他のお客さんも来ているし、 バイト中なのに余り話し込むのも良くない。
名残惜しさを感じながら列整理を続けた。
列整理を続ける事暫く。
びっくりするほど人は来てないと思ったけど、意外と絶え間なく来ている。人数としてはびっくりするほどになってきているのではないだろうか。
ふと、悠希さんが疲れていないかどうかが気になってそちらを見るのだけれど、ここからだと全く見えない。無理をしていなければ良いのだが。
少し不安を抱えながら列を見ていたら、突然声を掛けられた。
「寺原勤、何故お前がここにいる」
「え?」
いきなり俺をフルネームで呼ぶような知り合い? 一体誰だと想いながら振り返ると、 そこにはいつぞやの堕天使が立っていた。
「それはこっちの台詞だ。お前こそ何をしに来たんだ?
もし良からぬ事を考えているんだったら容赦はしないぞ」
睨み付けながらそう返すと、堕天使はなにやら紙袋を抱えてこう言った。
「ふふ……残念だったな。今日はサイン会に来ているだけだからお前に文句は言わせない」
「最後尾はこちらです」
よく見ると紙袋の中から可愛らしくラッピングされた包みが覗いていて、なるほど差し入れかと察しが付く。
普通にサイン会に並んでいる分には文句はないし、何か悪事を働こうとしても今日は美言さんやその上司がいる。 何とかなるだろう。
そして列整理を続けて暫く。また誰かが声を掛けてきた。
「お前……いつぞやの! 何故ここにいる!」
「え? あの……」
一体誰だ? と思い、相手の顔をよく見て色々思い返す事暫く、何とか思い出した。
何時だったかパイ投げ合戦をした天使長だ。
取り敢えず、険悪な雰囲気ではあるが相手は神聖なる天使だ、向こうから手を出してこない限り迂闊な事は出来ない。
「そちらこそ、何故この様な所へ?」
この問いに、天使長は一瞬言葉を詰まらせてから答えた。
「今日は……さ……サイン会に……」
「最後尾はこちらです」
「勘違いするな! 読書用、布教用、保存用と三冊ずつ買っているという事は無いからな!」
「お買い上げ誠にありがとうございます」
恙無く最後尾へと案内すると、天使長は部下なのか知り合いなのか、数人に声を掛け列に並ぶ。
天使長が声を掛けてるって事は、多分部下の天使達だよな。 あれだけ大騒ぎしたのになんだかんだでサイン会にいらっしゃってるとか、 図太いのか切り替えが早いのか、それともそこまでさせる悠希さんの小説が凄いのか。どれなのだろうか。
とにかく、大人しく並んでくださったのは良いけれど、 美言さんの上司と口げんかをしてパイ投げが始まらないよう、そっと仏様にお祈りをした。
その後、なにやら妙に日本語が上手い海外からのお客さんを何人も案内して。
サイン会の後の打ち上げも終わり、日払いの給料を貰いに紙の守出版編集部に行ったらこんな事を言われた。
「寺原さん、今日はありがとうございました。
おかげさまで海外から来た神達の案内もスムーズに済みましたよ」
美言さんのその言葉を聞いて、思わず顔から血の気が引く。
「あの、スイマセン、俺が確認した人外って、堕天使と天使長とその部下達だけなんですけど……」
「ああ、寺原さんは面識が有りませんものね。結構各国から来ていましたよ」
面識無いって、神様とは面識が無い方が普通なんですからね?
そうは思っても口には出せず。
手で顔を覆った俺の口から弱々しく出てきた言葉は。
「……パイ投げが始まらなくて良かったです……」
泣きたい気持ちを抑えつつ肩を落としていると、美言さんが突然思い出したようにこう言った。
「あ、そう言えば、寺原さんへの言付けと言う事で、我が社で預かっている物が有るんですよ。
ちょっとお持ちしますね」
「言付け? あの、一体どこの誰から何を?」
「最近規制が緩くなったとかで、天使さん達から本を預かっているんですよ」
天使から預かった本?一体何だろう。もしかして聖書の新しい日本語訳だろうか。
いや、聖書だったら規制が緩くなると言うのは関係ないだろう。では一体何か。
そう悩んでいるうちにも美言さんは応接間から出て、すぐに本を抱えて帰ってくる。
「是非、寺原さんに渡して欲しいとの事だったので、お預かりしておきました!」
渡されたのは、数冊の大きくて薄い本。
やばい。俺、こんな感じの良くない本をカナメの部屋で見た事有る。
恐る恐る表紙をよく見てみると、イラストになってはいるが微妙に見覚えの有る人物が二人。
可愛らしい表紙をそっと捲り、中身に目を通す俺に美言さんがこんな事を言う。
「最近あの子達のお父さんも、時勢を考慮して二次元で楽しむだけだったら同性愛も別に良いじゃないかと、 渋々納得してくれたらしいんですよね。
それで、早速こう言う本を作ったと私の所に報告が来たんですけれど」
「美言さん、俺とカナメって何時二次元に入りましたかね……」
「これは流石に見つかったら怒られるから内密に。って言われてます」
「あと、天使の方々に認識されてるのが怖いです……」
「地上を見守るのが仕事の子達でしたからね、色々見てると思いますよ」
ページを捲っていくと、次第にあられも無い姿のカナメのイラストが多くなってきて顔が熱くなる。
そして遂に耐えきれなくなって、俺は薄い本を閉じた。
すると美言さんは心配そうな顔をして問いかけてくる。
「あの、もし持って帰るのが嫌でしたら、当社で保管か、ご希望とあれば処分しますけれど……」
「いえっ、あの……有り難くいただきます……」
正直な事を言うと、この本に書かれているような事を想像した事が無いと言えば、嘘になる。
でも、改めて画像にして渡されると恥ずかしいもので。
そうだな、うん。これは一人で落ち着いてる時にじっくり楽しもう。
このまま持って帰るのは酷だろうと渡された紙袋に本を詰めていると、美言さんがこんな事を言った。
「寺原さんの分を無事お渡しできて良かったです。後は新橋先生の分を何時渡しましょう」
「え?」
ちょっと待って、悠希さん宛てにも来てるのかこれ。
思わず驚いて訊ねると、悠希さん宛てと、 後は渡すきっかけが無さそうだけれども他数人分の言付けを頼まれているという。
内容をざっくりと訊いてみると、全部カナメ絡みらしい。
カナメも大変だなと思いつつ、天使への恐怖を改めて感じたのだった。