<男たちの戦場>
しんと暗い夜の底で、殺気を抑えたいくつもの影が蠢(うごめ)いている。
元は小さなレストランだったらしい、コンクリ造りの平屋建て。閉店してから十年以上経っているそうだが大人の事情ってやつで今だ取り壊されず、俺たち不良に窓をぶち破られたり、壁にスプレーで落書きをされたり、ゴミで汚されたりしながらも、なんとかまだこうして存在している。街の不良の間ではたまり場として有名だった。住宅街から少し離れているのでよほど騒がなければ警察を呼ばれることはないし、四方を囲んでいるコンクリの壁は大人たちからロクデナシ扱いされる俺らを、優しく包み込んでくれているようだった。
『ボンジュール』。俺たちはこの場所をそう呼んでいた。元はここで営業されていたレストランの名前。俺が知らないずっと昔、レストランとして幾人もの客たちに癒しの場を提供していたこの建物は、時代が移り変わった今でも不良たちの癒しの場であり続けている。しかし癒しのパラダイスはちょっとしたきっかけで、戦場に変わる。
破られた窓のひとつから音を立てないようにして中に入ると、既に十数人不良が人垣を作ってひしめいていた。これから喧嘩を始めようという緊張感のせいで誰も物を言わず、コンクリートの壁に閉ざされた空気は殺気で温まっている。何人かがこっちを振り返り、俺に気づいた栄太(えいた)と雄斗(ゆうと)が手招きする。歩き出すと、自動的に人が動いて道が作られる。俺はこいつらのリーダー、古い言葉で言えば番長だ。つまり我が東高の代表、この町を二分する二大勢力の片方の、いちばん偉い奴ということになる。
「……待たせたな」
東高の連中が作る人垣のいちばん前に出て言うと、ちょうど俺と向かい合う形になった到(いたる)がガムをくちゃくちゃさせつつ、唾を吐くような顔をして眉を持ち上げる。到の後ろには西高の奴らがずらっと並んでいる。人数は東高・西高どちらも七人、ちょうどいい勝負になりそうだ。俺が前に出るだけで西高の奴らの目にかあっと火が噴き上げる。しかし、睨み合いではこちらも負けていない。栄太も雄斗も、その他の奴らも、ついこの前中学を卒業したばかりの一年たちも、それぞれ自分がいちばん怖く見えると思われる顔を作って、ガムをくちゃくちゃやってる到を睨みつけていた。
「おっせーんだよ聖! 九時開始っつっただろうが、二十分も過ぎてんぞ」
「不良のくせに細けぇこと気にしてんじゃねぇよ、そんなんだからお前の頭、高二にしてつるっぱげなんだろうが」
「これはスキンヘッドだ、わざと剃ってんだよ」
到がぷっとガムを吐き出す。唾がここまで飛んできて、頬がちらっと濡れた気がする。俺の両側にいた栄太と雄斗が顔をしかめ、両者の殺気がにわかに高まる。危うく始まりそうになっている雰囲気だが今にも到たちに飛びかかっていきそうな栄太に落ち着け、と目配せをし、例のアレとささやく。興奮していた栄太がはっと落ち着きを取り戻し、ジーンズの後ろポケットに入れて八つに折りたたんでいたそれを俺に渡す。ゲタ箱に突っ込まれていたため、紙の端が少し汚れている。折りたたまれたものを開き、西高から送りつけられた「挑戦状」を読み上げる。
「挑戦状! もとじつを以って、我が西高生は東高の手からボソジュールを取り戻す! いつまでもボソジュールがお前らの天下だと思うな! 今夜九時、ボソジュールで待つ! ……ほー、やってくれんじゃん」
挑発するようにわざと口元をにやつかせ、ルーズリーフに書かれた「挑戦状」をひらひらさせると、西高サイドからヤジが飛んでくる。
不良の人気スポットであるボンジュールは、その高い人気ゆえ長い間東高と西高の抗争の原因になっていた。どちらの高校にもそれぞれ縄張りがあり、町のゲーセンや喫茶店がしばしば「どちらのものか」で揉めるのと同じように。一年前、それまで三年間西高の縄張りだったボンジュールを喧嘩によって俺たち東高の手中に収めたもつかの間、今到たちは再びボンジュールをその手のものにしようと、迫ってきている。
殺気立つ西高の連中の中で到は一人超然としていて、余裕の笑みさえ浮かべていた。
「聖、お前やっぱバカだな。もとじつってなんだよ。本日だろうが、ほ・ん・じ・つ」
さすがの俺も嫌味ったらしいその言い方にカチンと来て、頭の中心温度が一気に五度ぐらい上がった。今度は東高サイドが到にヤジを飛ばす中、俺は笑って言ってやった。
「はっ、バカはお前だろ? ボソジュールって何だよ。ボンジュールだろ。お前、カタカナも書けねぇのか? ンとソの違いもわかんないんでちゅかぁ」
「なんだと」
到のスキンヘッドがトマトみたいに真っ赤になる。両者、一気にヒートアップ。嵐のように吹き荒れるヤジ、じりじり距離を詰める両者。指を鳴らすポキポキという音があっちからもこっちからも聞こえてくる。
夜の底で俺たちは燃え上がる。喧嘩が始まる直前の、この雰囲気が俺は大好きだ。熱く煮えたぎった血に突き動かされ、喉をいっぱいに開ける。
「野郎ども、かかれえっ!!」
俺と到はほぼ同時に叫んでいた。
<戦場に乗り込む女>
なつきから電話がかかってきたのは夕ご飯を食べ終わって、これからお風呂に入ろうって時だった。
「それ、ほんとにひーくんたちなの? 間違いない?」
『うん、さっき家の前通り過ぎてった自転車が打倒及川聖!! って叫んでたもん。どうせまた、西高生でしょ? あの学校、バカが多いから』
「それ言ったら、ひーくんたちも十分、おバカさんなんだけどね」
言いながらふーっ、大きなため息が出ちゃう。まったく、高校二年生にもなって喧嘩なんて、何やってるんだろう?
なつきは街外れの今は廃墟になっている元レストラン『ボンジュール』の近くに住んでいて、ボンジュールでひーくんたちと思われる不良が暴れてるのを見つけるたび、こうして電話をくれる。電波の向こうで椅子から立ち上がる音がして、カーテンを引く音が続いた。高台にあるなつきの家の二階からは、ボンジュールの建物が見下ろせる。
『中、なんか騒がしいなぁ。ここまで聞こえてくるし。建物の前にいっぱい自転車停まってるのも見えるもん』
「しょうがないなぁもう、ひーくんってば。わたし、止めてくる」
『大丈夫? 心(ここ)菜(な)一人で』
「大丈夫。あの人たち、見た目はちょっと怖いけど女の子には優しいもん」
『女の子ってか、美少女に優しいんだろうね。そりゃ、心菜みたいな可愛い子に喧嘩なんかやめてーって言われたら、やめちゃうわ』
電波のあちら側とこっち側でくすくす笑いながら、携帯を持ってないほうの手で支度をする。自転車の鍵、たぶん使わないだろうけれどお財布。きっとケガをしてるはずだから、ばんそうこうと救急セット。七月にしてはちょっと肌寒い日だから、Tシャツの上にパーカーを羽織る。電話を切るなり部屋を飛び出し、玄関で靴を履いているとお母さんが近づいてきた。
「こんな時間にどこ行くの、もう九時過ぎてるわよ」
「ひーくんが喧嘩してるっていうから、止めてくる」
「また? あの子も喧嘩さえしなければ、いい子なのにね」
って、お母さんも呆(あき)れてる。ひーくんは何度もうちに来てるから、お母さんとも顔見知り。美人親子だとか二十代に見えるとか下手なお世辞を並べるひーくんを、お母さんは結構気に入ってくれてるみたい。不良だからって他の大人みたいに頭ごなしに否定しない、そこがうちのお母さんの素敵なところだ。
「しょうがないわね。明日も学校なんだし、あんまり遅くならないようにするのよ」
「はーい、行ってきます」
お母さんにちらっと手を振って、走り出した。うちのマンションはエレベーターがないから、一階まで一気に駆け下りる。自転車置き場に停めておいた愛車にまたがり、いざ発進! まったく、不良の彼氏ってほーんと、世話が焼けちゃうな。
ボンジュールは町外れの荒地みたいな一角にある。住宅地かなんかに開発しようとして不況の影響で中途半端に止まっちゃったって感じの、茶色い土がむき出しになって広がってる場所。近くを細い川が流れていて、岸にびっしり茂ってる葦が夜風に吹かれてザワザワささやくのが聞こえてくる。なつきが言ってたとおり、ボンジュールの前には自転車が何十台もずらりと停めてあって、街灯の光がステンレスのボディを銀色に光らせている。わたしも端っこに自転車を停めて、うらーとかおらーとかいう声が響き、殴ったり蹴ったりしてるような音が続く建物に近づいていった。もう慣れてるから、別に怖いとは思わない。
「みんなやめなさーい!!」
破れた窓のひとつから顔を出して叫ぶと、次の瞬間、殴り合ってもつれあってた影がぴたっと静止して、不良たちが一斉にわたしを見る。電気の通ってない建物の中、天井にいくつかぶら下げられた懐中電灯が、男の子たちのまだ幼さの残る顔を照らしていた。わたしはすぐ、人ごみの中で笹原(ささはら)くんともみ合った格好のまま、こっちを見てぎょっと目を広げているひーくんを見つけた。
ひーくんは可愛い顔をしている。小学校の頃に自転車で転んだ痕だっていうほっぺたの傷はちょっと怖いけれど、睫毛の長いくるくるしたつぶらな目も丸い形の鼻もピアスがあんまり似合わない口元も、子犬か小動物に見えてほんとに可愛い。背の低さをごまかすため、ブリーチを繰り返した金髪はワックスでツンツン逆立ててあって、ハリネズミの背中みたいになっている。
「ひーくん、これどういうことなの!? 喧嘩はダメって、わたし言ったじゃない! ひーくんだって約束するって言ってくれたよねぇ!?」
窓から中に入り、ひーくんに向かって歩きながら言う。数秒前まで喧嘩に夢中だった男の子たちが、慌てて道を開けてくれる。ひーくんの彼氏であるわたしは、ひーくんの仲間から見ればいわゆる「姐さん」ってポジションに当たるらしい。だからただの女の子でも決して乱暴には扱われず、一目置かれてるみたいだ。ひーくんはもみ合ってた西高のボスの笹原到くんからおずおずと体を離し、わたしをまっすぐ見れずに俯いた。丸い目が叱られた子どものように足元で彷徨(さまよ)っている。
「だって、しょうがねぇだろ……こいつが挑戦状送ってきたんだから」
ひーくんの指が笹原くんを指差し、笹原くんが「何だよ俺のせいかよ!」と声を上げた。
「ひーくん、ひとのせいにしちゃダメ。先にどっちがけしかけたかなんてどうでもいいの、喧嘩両成敗って言うでしょ」
「は、はい」
「で、原因は何なの? その挑戦状っていうの、見せてみてよ」
ひーくんは少し迷う顔をした後、ジーンズのお尻のポケットの中でくしゃくしゃになってた一枚のルーズリーフを取り出して、広げながらわたしに差し出した。
な、何コレ……ボンジュールがボソジュールになってるし、文章も喧嘩の動機も小学生レベルじゃない!! このおもちゃは僕のものだー、いや僕のものだー、なんてやってるお子ちゃまと全然変わらないよ!? わたしは挑戦状をビリビリ引き裂いてやった。
「ああっ心菜何やってんだよ、そんなことしちゃって」
「こんなくだらない挑戦状は、破り捨てます!! そんなことで喧嘩なんて、何やってるの!? 誰かがケガしたり、おまわりさんを呼ばれたら大変なことになるんだよ!? 高校退学とかなったら、みんなのお母さんだって泣いちゃうよ!?」
ひーくんだけじゃなくて、ここにいるみんなに向かって言った。さっきまで殴り合ってた男の子たちが、そろってしーんと下を向いている。普段は強がってても、みんな基本的には素直ないい男の子たちだ。
「でもさ心菜、実際、問題なんだよ。ここをどっちの学校の奴が使うか」
「そんなの、週ごとに代わりばんこにしたらいいじゃない。一週間ごとに東、西って回していけばいいの。もし破った人がいたら、その時は二度とここを使えないってことでどう?」
「なんか、このおもちゃは交代で使いなさいって言われてる子どもみたいなんだけど」
「ひーくんたちがそんなレベルの喧嘩してるんでしょう!!」
ひーくんも誰も、言い返さない。うん、これでいいか。一応みんな、納得してるみたいだし。仕上げにひーくんの腕を引っ張り、隣でそっぽを向いている笹原くんの腕も引っ張る。
「ほら、仲直りのしるし! 握手して!!」
「えー嫌だよ、こいつの手ぇ握るなんざ、気持ち悪ィ」
「一瞬でいいから! わたしの目の前で握手して、二度と喧嘩はしないって誓って!!」
二人ともさんざん文句を言ったけど、結局互いの手をきゅっと握り合い、声を合わせて「もう二度と喧嘩はいたしません。これからはお互い仲良くしましょう」って、(棒読みだったけど)言ってくれた。よしっ、これで一件落着!!
「おい心菜、これで気が済んだか?」
「うんっもう満足! ひーくんも笹原くんも、ほんとにもう喧嘩しちゃダメだからね?」
「わかってるってば」
その時、少し遠くでウーと高い音がした。あれは消防車? ううん、それともパトカー……?
「やべっ、サツ来たぞ!!」
誰かが言った。
不良たちは文字通り蜘蛛(くも)の子を散らすように、一斉に逃げ出す。
わたしもひーくんに手を取られて、ほとんど引きずられるように走った。
<事件>
心菜と栄太と雄斗を連れて、ボンジュールからチャリで五分の公園へ逃げた。この公園は長い坂道の途中にあって、すべり台の上からはボンジュールの建物が見下ろせる。四角いコンクリート製の廃墟がパトカーの赤い光に照らされ、黒一色で塗りつぶされた夜の街にぽっかりと浮かんでいた。
「次っ! ひーくん!」
順番に傷の手当をしていた心菜がベンチから俺を呼び、俺はアルミ板の上をダンダンダン! と走ってすべり台を下りる。顔にばんそうこうを貼られたちょっと間抜けな顔の栄太と雄斗はブランコに腰掛けていた。
「いってー、しみる! ちょ、心菜、もっと優しくやってくれよ」
「男の子でしょ、これぐらい我慢して。嫌ならもう、喧嘩しない!」
「はいはい」
心菜に叱られてる俺を見て栄太と雄斗が声をひそめ、ぷっと笑う。横目で睨む(にらむ)と二人ともツンとすました、真面目な顔になった。
「みんなにメールしたけど、うちの高校の奴は全員無事だって。誰も捕まってない」
栄太が携帯をいじりながら言った。両耳を飾る計五コのピアスが公園の外灯の光を浴びて、テカテカしている。隣で雄斗がくるっと首をこっちに向ける。茶色でも金でもなく、ハイビスカスみたいな真っ赤に染めた髪は夜でもよく目立った。
「なんか、俺らの近くで影山(かげやま)が暴れてたんだって。あのパトカー、俺らじゃなくて影山を追ってたらしい」
「で、影山は?」
「いやどうも、逃げちまったらしいですよ、ボス」
ふざけた調子で敬語を使い、ニッと欠けた前歯を見せる。俺は心菜が消毒している腕の痛みを我慢しながら、フンと「ボスらしく」頷いてみせた。
影山はこの街の不良の間では有名な男で、なんでも少年院に入ってたことがあるらしく、ほんとかどうかわからないが「俺は人を殺したことがある」みたいなことを言って回ってる。どうせハッタリだとは思うけど喧嘩の腕は確かなようで、影山にアバラを折られたとか前歯を持ってかれたなんて噂は絶えない。俺は直接当たったことはないが、なんとなく妙な雰囲気はあるし、ちょっとあなどれない男なのだ。
「ねーねー、誰なの? その影山って人」
「こっちの話だよ。心菜は関係ない」
「あっまた喧嘩の相談でしょ。ダメだからね」
「違うってば」
俺と心菜のやり取りをくすくす笑って見ていた栄太と雄斗が立ち上がり、公園の入り口に停めておいたチャリに向かって歩き出した。
「じゃ俺ら、もう帰るわ」
「あとは二人でドーゾ。おアツいカップルの邪魔はしませんよう」
「何言ってんだよお前ら!」
でかい声を出したら傷口を濡らす消毒液がツンと神経を刺激して、喉が一瞬固まった。
栄太と雄斗の自転車が坂道を下りていき、タイヤがアスファルトを滑る音も聞こえなくなった頃、俺の傷の手当も終わった。心菜がばんそうこうや消毒液をポーチの中に片付けながら、やれやれとため息をつく。
「まったく、ひーくんはどうしてもう、すぐ喧嘩なんかするかなぁ」
「しょうがねぇだろ。俺、東高のボスなんだから」
「ボスとか学校同士の喧嘩とか、そんなのやってるの今どきひーくんぐらいのもんだよ。もう、ほんっと子どもっぽい。ひーくんは楽しいのかもしれないけど、わたしは本気で心配してるんだからね?」
すねたような言い方。白い横顔にはうっすら涙が浮かび、長い睫毛の端っこを濡らしている。心菜は、可愛い。中学の時も高校生になった今も、学校でいちばん可愛かった。惚れてるからってのもあるけれど、そこを差し引いても心菜は実際、かなり人目を引く美少女だ。学校にファンクラブだってあるらしいし、俺と歩いていて芸能事務所のスカウトに声をかけられたこともある。
そんな心菜に悲しい顔をされると、俺は弱い。
「でも、それもあとちょっとの間だけだよ。秋になればボスは交代だ、今の一年の中からタイマンで選ぶんだけどさ。そうなったらもう、俺らは引退」
「そうなの!?」
「そうなの。うちは毎年きっちり、高二の秋に引き継ぎがあるんだよ。うち、一応進学校だから、その後は受験に集中しようってわけ。まるで部活みたいだろ」
そう言って笑うと心菜の両目からどっと涙の粒が噴き上げてきて、華奢(きゃしゃ)な体が俺に飛びついてきた。いきなり抱きつかれて、ちょっと驚いた。でも柔らかい感触と甘い体温が嬉しくて、俺は細い背中をそっと撫でてやる。
「ごめんな、いつも心配ばっかかけて」
「ほんとだよ。わたしだけじゃないよ? ひーくんのお父さんだってお母さんだって、どれだけ心配してるか」
「そうだよな……」
今日も家を出る時大喧嘩してしまった、オヤジとオフクロの顔を少し思い浮かべた。
どうせ喧嘩しに行くんだろ、ってなじるように言うオフクロと、今にも俺につかみかからんばかりの勢いで「不良なんかに育てた覚えはない!!」って怒鳴るオヤジ。オヤジと殴り合いの喧嘩になるのもオフクロの小言もすっかり慣れちゃってたけど、ほんとに俺、だいぶ心配かけてんだろうな。いつ大ケガして帰ってこないか、問題起こして高校クビにならないか、気が気じゃないんだろうな。ウザいと思ったことも親なんていらねぇって思ったこともある。でもこんなロクデナシの不良でも見捨てないでいてくれる二人には、なんだかんだで感謝してるんだ。そんなこと、絶対に口に出せねぇけど。
「俺、これからは真面目になる。秋になって引退したら、もう不良は終わりだ。勉強もきちんとやって進路のことだって真剣に考えて、自分のやりたいこと見つける。心菜に心配かけないようにする」
「ほんと?」
「男に二言はねぇーよ」
ニッと笑うと心菜は泣き笑いみたいな顔になって、俺は指の腹で目の縁に溜まってる涙を拭ってやった後、つやつやした桜色の唇にキスを落とした。薬用リップクリームのとがった味がした。
まずは優しく、それから少し激しくキスをする。舌を伸ばしてやわらかい頬の内側を探ると、あふれた唾液が顎を伝う。心菜がちょっと苦しそうに息を漏らす。やべー止まんねー。キスだけじゃ我慢できなくなってきた!!
行くべきところに行こうとした俺の手を心菜は慌てて握って止め、そしていそいそと身体を離した。白かった顔が真っ赤に火照(ほて)っている。
「だっダメだよこんなところで! ひーくん、何考えてるの!?」
「こんなところじゃダメだったら、こんなところじゃなかったらいいのか?」
「どういうこと?」
「行くか? ホのつくところ」
心菜がもっと真っ赤になって、下を向いた。付き合ってもう二年近く経つのに、反応が相変わらず初々しい。こういうところがめちゃくちゃ、好きだったりする。
「だっダメ! 十八歳未満はそういうところ入っちゃいけないの! 知らないの!? だいたい、もう十時近いじゃない! 高校生はもう家に帰る時間だよ!?」
「ったく、心菜はほんっと真面目だよなぁ。不良と付き合ってる割には」
「ひーくんがこんなんだから、わたしがしっかりしなきゃなの!!」
ぱんぱん、とスカートの裾を払いながら立ち上がって、心菜がはっと息を止めた。視線が公園の入り口で静止している。
車止めを跨ぎ、並んで停めた俺らの自転車を避けるようにして公園に入ってくる人影。Tシャツにジーンズ、身体の大きさからするとたぶん男。公園の外灯に照らされ、何もないのっぺらぼうの顔が浮かび上がる。一瞬息が止まる。いや、のっぺらぼう、じゃない。銀行強盗がするような真っ黒い覆面を被っているんだ。
一歩一歩、おもむろにこっちへ近づいてくる男の右手には、金属バットらしき長いものが握られていた……
それを、獲物を捕らえる鬼のように大きく振りかざした。
「心菜!」
叫びながら、心菜の手を取って走り出した。同時にそいつも動いた。重そうな武器を持ってる割に、意外と素早い。ぶん、ぶんと金属バッドが空気を切る音が不穏に鼓膜を叩(たた)く。この公園は俺らの自転車が並んで停めてある入り口のほか、もうひとつ入り口がある。心菜を連れてそっちに向かって走ったが、男のほうが足が速い。
「ひーくん……!」
心菜が不安に満ちた声で俺の名前を呼んだ。
咄嗟に何か攻撃出来るものを探すと、空き缶やペットボトルが詰められたゴミ箱が目に入る。いったん心菜から手を離してゴミ箱を持ち上げ、中身ごと男に向かって投げた。俺の予想外の動きを読めなかった男はあっさりゴミ箱から飛び出した空き缶につまずき、ドサッ! と象か何かが倒れたみたいな音がした。
呆気に取られてる心菜の手を取って公園の前の路地に出る。この坂道は降りればボンジュールのある荒地に続き、上れば急カーブが続くクネクネした山道だ。一日を通して人通りの少ない道で、十時近い今もしんとしている。助けを呼んだところで誰も来てくれないだろう。
「心菜、逃げろ! あいつはたぶん頭のおかしい通り魔だ! 逃げるしかない!」
「ひーくんは……」
「俺があいつを引き付ける! 心菜はこの坂下りて、橋場(はしば)ん家に逃げ込むんだ!! 二人別々の方向に行こう!!」
橋場なつき。心菜の中学時代からの親友で、ベリーショートがトレードマークのサバサバした男っぽい子。その子の家はこの坂道を下りる中にあったはずだ。ベストな選択をしたはずなのに、心菜はぎょっと目を見開いて恐ろしげな表情になる。
「そんな……嫌だよ、ひーくんと離れるなんて」
「俺は大丈夫だ、とにかく心菜の安全が絶対だから! 早く逃げろ!!」
「でも……」
「それしかねーんだよ!!」
公園の入り口にぬっと頭を突き出した覆面の顔を見つけ、俺は心菜を突き飛ばした。突き飛ばされた瞬間、心菜は真ん中から真っ二つに割れそうな顔をした。
「ほうら! おめーが狙ってるのは俺だろ!? こっち来いよ、お尻ぺんぺーん!!」
挑発して走り出すと、覆面男はまんまと俺を追いかけ、坂を上りだす。覆面男の遥か向こうに、一目散に坂を下りていく心菜の後ろ姿が見えた。正しいことをしたはずなのに、胸がギリリと痛んだ。あいつは今、きっと泣いている。さっさとこの通り魔をなんとかして、心菜の涙を止めてやらなきゃいけない……
坂を上りきったところにはオレンジ色の外灯でぼんやりと中を照らされたトンネルがあって、ここは心霊スポットとして有名だった。なんでも夜通ると女のすすり泣きが聞こえるとか、血まみれのゾンビに追いかけられるとか、下半身がないおかっぱの女の子がケタケタ笑いながらついてくるとかetc……。いかにも怪しげな雰囲気の場所で、幽霊だのオバケだのあまり信じてない俺でも、そして不良のボスでも、夜はあまり通りたくないところだったが、今はとりあえず通るしかない。トンネルに入った途端、足音が壁と天井に反響して大きくなる。
すぐにもうひとつの足音が聞こえてきた。坂の上へ引き付けたのは相手の速力が落ちることを期待したからだったのに、上り坂にも関わらず全然こいつはスピードを落とさない。予想以上の体力にチッと舌打ちした途端、俺は何かに足を取られてすっ転び、反射的についた両手のひらを思いっきりすりむいた。変色してぐちゃぐちゃになったダンボールが落ちていた。トラックの荷台か何かから転げ落ちたやつだろう。
急いで起き上がろうとするがその前に足音に追いつかれる。もう戦うしかない! 大丈夫、喧嘩ならこっちは専門家だ……振り下ろされたバットを反射的に交差させた手首で受けた。骨がはじけるような痛みが皮膚の下でふくれ上がった。すぐに来るもう一発を避け、ふらふらする身体でなんとか立ち上がる。柔道の要領で足を払うと覆面男は俺の不意の攻撃にすっ転び、そのまま落ちた上半身を押さえ込もうとするとやけくそのように振り回されたバットが肩に当たる。衝撃が背骨まで貫いて、今度は俺がアスファルトに崩れてしまう。
顔を上げた時、覆面男は既に立ち上がっていた。バットが振り上げられ、表情のない顔が俺を見下ろしている。
「ゆ○○○○○だ」
はっ? 今なんて言った? いやそれより俺も立ち上がらないと。バットを避けて立ち上がって、こいつのわき腹に二、三発お見舞いして、それから。
間に合わなかった。
ドゴッ、と重い音がして、それが俺の最期の感覚になった。