喫茶スペースの一席に、六〇代くらいの男性が一人、座っていた。冬だというのに、額の汗をハンカチでぬぐい、どこか落ち着かない様子だった。蒼衣の姿をみとめた男性は吉岡と名乗り、一枚の名刺を差し出した。名刺には『わかば保育園 園長』という肩書きが記されていた。
「恵美が通っているところなんだ」
 隣に座る八代がそっとささやいた。
 吉岡は「お忙しい中恐縮です。少しご相談がありまして」と話し始めた。
「うちの園では、毎年クリスマスの食育行事として、年長組だけですが『魔法菓子』のクリスマスケーキを食べるということをやっております。私の知り合いのお菓子屋さんに毎年頼んでいたのですが、彼が昨日病気で入院してしまい、ケーキが用意できなくなってしまったのです。慌てて手配できるお店を探しているとき、在園児の保護者である東さんが魔法菓子店を営んでいると知りました。そこで、急遽こちらでお頼みできないかと……」
 吉岡の前には、八代が出したであろうお茶と金のミニマドレーヌがある。食べたのだろう、蒼衣には『困った・焦り』といった吉岡の感情が伝わってくる。とりあえず、嘘をつかれている訳ではなさそうなことに安堵した。
 しかし、内容が問題だった。クリスマス関係の依頼となると、時間とキャパシティの問題が大いにある。
 蒼衣と八代は顔を見合わせる。八代の眉間には、これまた珍しくしわが寄ったままだ。
「園長先生、その行事は二十四日ですよね」
「えっ」
 お客である吉岡の前だったが、蒼衣は動揺を隠せなかった。
 確かに今年の二十四日は平日。保育園は普段通り登園する日である。
 そして、八代が苦い顔のままである理由もやっとわかった。縁もゆかりもないところならともかく、娘である恵美はわかば保育園の年中組に通っている。これではさすがの八代もきっぱりと断れないだろう。その気持ちを思うと、蒼衣もいたたまれなくなった。
 吉岡は八代の言葉に、申し訳なさそうにうなずいた。
「二十四日は、一年で一番お菓子屋さんが忙しい日だというのは、重々承知なのです。しかし、園の近くにあるお店はここしかないのです。実は、遠くのお店にダメ元で問い合わせましたが、宅配は受け付けておらず、配達も無理でした」
 吉岡が言うとおり、魔法菓子の宅配は魔力保持や管理の問題から、多くの店が取り扱っていないのが常識だ。だから多くの店では従業員が配達という形を取ることが多いが、繁忙期にそれを受け付ける余裕のある店は、ないに等しい。
 それはピロートも同じなのだが、幸か不幸か『わかば保育園』は店から徒歩十分での距離にある。車でなら五分もかからないだろう。
 そこまで考えて、蒼衣の頭に疑問が浮かんだ。
「少し、お聞きしたいことがあります。ずっと頼んでいた知り合いのお店というのはどちらなんでしょうか。このあたりで魔法菓子を扱っている店は、うち以外に聞いたことがないものですから」
「名古屋市の『万寿《まんじゅ》』という和菓子屋さんです。お店では魔法菓子を出していないので、ご存じないと思います」
「万寿、ですか?」
 蒼衣はその店の名に聞き覚えがあった。
「もしかして、その職人さんのお名前は、万寿勝《まんじゅまさる》さんというお名前ではありませんか?」
 そうです、と吉岡が答えると、蒼衣は「そうか、先生が」ともらした。
「蒼衣、知り合いなのか?」
「知り合いとまではいかないんだけど、通っていた専門学校でお世話になったことがあるんだ」
 蒼衣が製菓専門学校に通っていたのは、今から一二年前、十八歳のときだ。万寿は穏やかな性格で、どんな質問にも真摯に答えるひとだった。蒼衣は万寿の授業が一番好きだった。和やかな授業を思い出し、蒼衣は一瞬だが感慨に浸る。 
「入院とのことですが、万寿先生の容態は、ご存じですか」
「息子さんからの伝聞ですが、大事はないそうです。ただ、脳梗塞とのことで、しばらくは仕事はできないと。……万寿さんは、優しく、仕事に誇りを持っているかたです。本当は入院を伸ばして、クリスマスケーキだけでも作らせてくれと言っていたらしいのですが、早く治療したほうがいいとお医者さんやご家族が説得されたそうです」
 そこまで話して、吉岡は力なく目を伏せる。
「万寿さんは『楽しみにしていた子どもたちに申し訳ない』と何度も言っていたと聞いています。私は、彼の思いをなんとかしてあげたいし、園としても、子どもたちの期待に応えたいのです。どうか、どうかお願いします」
 吉岡は頭を下げた。これには、蒼衣も八代も言葉が出ない。ほんの少しの沈黙の間、蒼衣は頭の中で考える。そして、一つの決断をした。
「八代、僕、このお話受けてみようと思うよ」
「本当ですか!?」
「蒼衣?」
 八代は急いた様子で蒼衣の袖を引っ張り「少し二人で話したいので、少々お待ちいただけますか」と言葉だけは冷静に吉岡に申し出た。
 吉岡が戸惑いながらもそれに頷くと、蒼衣は半ば引っ張られるように厨房に連れ込まれた。
「オーケーオーケー、冷静になろうぜパティシエくん。気の毒な話なのはわかるが、今のおまえにやれるだけの余裕があるのか、それは考えたか?」
 八代の言葉はもっともだ。しかし、人間少しは頑張らないといけないときもあるのではないかと蒼衣は思うのだった。
「予約数を制限してくれたことや、当日販売するケーキも少なくしてくれたことで、だいぶ余裕のあるスケジュールだと思うよ」
「スケジュールもそうだが、俺はおまえの調子のことも心配してんの。いっつも冬にぶっ倒れそうになってるの、忘れたか?」
「心配してくれているのは知ってるし、すごくありがたいよ」
 蒼衣はそう言いながら、ホワイトボードの横に張られた予定表を手に取った。行程がチェックシートのようになっているそれには『完了』のチェックが半分以上埋まっていた。
「見て。予定通り用意できてるし、この調子なら少し作業が増えても問題ないと思う。それに、他のお店と違って、ここではペース配分も休憩も自分の思うとおりにできてるでしょう? 僕にとっては一番楽なことなんだ」
「しかしだな」
「目の前に困ってる、助けてって言ってる人がいて、しかもそれが少なからずご縁のある人が関係してるって分かったら、僕はどうにかしたいなと思っちゃったんだ。だから頼むよ八代、この話、受けさせてくれないかな」
 実のところ、八代の立場も考えてはいたのだが、本人がどう思っているか分からない以上、安易に説得の材料にしてはいけないと思った。それは昔の失敗を繰り返さないためでもあるし、蒼衣が師と仰ぐ人から「人の気持ちを勝手に推し量る前に、自分のしたいことや、気持ちをきちんと述べることが大事」と教えてもらったことも大きい。
 八代は蒼衣の顔をじーっとのぞき込み、そして、観念したようにため息をついた。
「……おまえ、ほんと、お人好しだなあ」
「じゃあ」
「わかった。蒼衣の熱意ある口説き文句で俺も腹を決めたよ。俺も断りづらかったし、蒼衣がいいならこの話は受けよう。園長との交渉は俺がやる。で、蒼衣は、絶対に無理はしないこと。いいな?」
「ありがとう!」
 

 そして席に戻った二人は、依頼を受けることを伝えた。吉岡は喜び、八代の出した妥協案――今ある材料と時間の中で作れるもの――を受け入れた。
 

 保育園への魔法菓子は、トライフルに決めた。カップの下にジェノワーズのかけらとフルーツを入れ、カスタードとクリームを乗せて完成するデザートだ。
「トライフルは余りもので作る、簡単なデザートの一つ。イギリスではクリスマスによく食べられるらしいんだよね。飾りは、火イチゴコンポートと、洞窟金平糖。どっちもうちの通常商品で使ってるから、ストックもある。それに、この二つを近くに置くと、線香花火みたいな効果が出るんだ。もちろん、火イチゴだから熱くない」
 園長が来店してから三日後の平日。蒼衣は早速手の空いた時間にクリスマストライフルの試作をした。プリン用の瓶に、ジェノワーズ、フルーツ、カスタード、ホイップクリームが入っていて、上には火イチゴのコンポートと金平糖がバランス良く飾ってある一品だ。
「いいじゃんいいじゃん。細かく切ってあるから、子どもがスプーンで食べやすい。それに、運搬するにも壊れにくい」
「試食、する?」
「しますします、しますとも!」
 蒼衣の説明を一通り聞いた八代は、クリスマストライフルに目を輝かせる。
 八代がスプーンで火イチゴに触れた瞬間、ろうそくに火が灯るかのように燃え上がった。とろけたイチゴソースが金平糖に触れ、線香花火のような小さな火花が現れた。
 火イチゴコンポートは、店で出しているショートケーキに使っているイチゴのシロップ煮だ。フォークで触れると、ろうそくの火のように燃え、溶けるとイチゴ味の甘酸っぱいソースになる。魔法効果なので、熱くはならない。
 洞窟金平糖は、その名の通り洞窟の中に自然発生する金平糖だ。長い時間をかけて凹凸のある粒になった天然の砂糖は、甘味料としても使われるほか、見た目の可愛さから飾りとしても多用される。
 そして、今回のように異なる魔力含有食材同士の組み合わせで、新たな魔法効果を生み出すこともできるのだった。 
「冬でも花火って感じだな。それもまたよし」
 八代はソースとトライフルをすくい、口にした。一瞬で目尻が下がる。
「口ん中でいろんな味がするのがいいな。なんだか、うちのケーキを一度に食べてる気がする」
「ジェノワーズのほかにも、焼き菓子の端っこや、ロールケーキの端っこ、パイ生地のかけらとか、ケーキを作るときにどうしても出る半端なもので作ってあるんだよ。これなら、今から大がかりに仕込みをしなくても作れるから、大丈夫」
 美味い美味いといいながら、八代はあっという間にトライフルの瓶を空っぽにしてしまった。ごちそうさま、と律儀に手を合わせる様を眺め、蒼衣はくすりと笑う。
「じゃあ、オーナーのお眼鏡にはかなったってことでいいかな?」
「そんなん聞かなくてもわかるだろうが、パティシエくん」
 いたずらっ子のように笑う八代からは『美味しい』の気持ちが伝わってくる。
「では、わかば園向けクリスマスはこれで決まりでいいかな。計画立てとくね」
「おう、よろしく!」
 気持ちのいい八代の返事が、厨房に響く。
 お客の来店を告げるベルが鳴る。それを聞いた八代が厨房を出た。
 その背中を見ながら、蒼衣は八代とならどんな難しいことでもできる気がすると思った。