店に出ると、女子高生のグループがショーケースの前で歓声を上げていた。若い女の子特有のにぎやかさに目を丸くしていると、その中の一人が手を挙げ、弾んだ声で「蒼衣さん!」と呼んだ。
声の主は、信子だった。
「鈴木さん! いらっしゃいませ」
「約束通り、友だち連れてきちゃいました」
グループから離れ、蒼衣に駆け寄ってきた信子は、晴れやかな顔をしていた。
「あのあと、みなみ……仲たがいした友だちに、今までのことを謝りました。そしたら、友だちもなんで私を避けたのか、ちゃんと本音で話してくれました。友だちは、私のことを大切にしようとしてた。でも、大切にするっていうのは、なんでも言うことを聞くことじゃなくて。友だち自身もイヤな気持ちだし、私のためにならないし、って気づいて、離れようとしたって。なんか、蒼衣さんの友だちと似たようなことを言ってくれました」
信子は、八代の接客トークを聞いている中の一人――優しげな笑みを浮かべる少女――を見て、目を細めた。
「でも、理由も話さずに避けてごめんって、逆に友だちから謝られました。で、ちゃんと本音でお互いの気持ちを話そう、ってことになって、あのカップケーキを食べながら、一晩中おしゃべりしたんです。食べたら本当に顔にゾンビのメークが現れて! 二人で面白がってたら、いつのまにか、仲直りできてました」
「そうなんだ。それはとてもよかった」
「私、友だちのこと、もっと好きになれました。私も彼女のこと、大切にしたいって思えたんです。蒼衣さんと、蒼衣さんのおいしいお菓子のおかげです。ありがとうございます」
改まって頭を下げる信子に、蒼衣は思わず首を横に振った。
「そんな、大げさだよ。鈴木さんが、きちんと相手に気持ちを伝えることができたから、今の鈴木さんがあるんだよ」
信子はきちんと関係を再構築できた。それは、ほかの誰でもない、信子自身の行動によるものだ。自分の功績ではない。蒼衣はそう伝えたかった。しかし信子は、小さく首を振った。
「でも、きっかけをくれたのは蒼衣さんです。あのとき、蒼衣さんが私の話を聞いてくれなかったら、私はずっと、自分の中の嫉妬に気づけなかった。友だちの優しさにも気づけなかった。だから、本当に、出会えてよかったって思ってます。だから今日、みんなを連れてここに来ました。約束を守るために」
信子の真っすぐな視線に、蒼衣の胸が熱くなる。自分が差し出した手は間違っていなかったのだと思うと、今まで感じていた自己嫌悪と不安がどこか遠くに行ってしまうように感じた。
「鈴木さん……」
「そうだ、これ見てください。カップケーキを食べたときの写真です」
信子はスマホを取り出し、蒼衣に画面を見せた。ゾンビメークで笑う、信子とあの少女のツーショット写真だった。楽しそうな雰囲気に、蒼衣のほおが緩む。
「いい写真だねえ」
「ありがとうございます」
信子と笑いあっていると、突然、蒼衣の横から声がした。
「いい写真じゃん。これ、インスタとかツイッターに上げたの?」
二人が横を向くと、そこには八代と、信子の連れてきた女子高生たちがいた。
「あ、いえ、蒼衣さんが試作品だって言ってたので、上げてないです」
「じゃあ上げちゃって上げちゃって! もうハロウィンの宣伝したいしさ。よかったらうちの店のハッシュタグ使ってよ」
気さくな八代の言葉に、信子は写真に写っている少女に了解をとると、すぐにスマホを操作しはじめた。上げました、という信子が言うと、皆が一斉にスマホをのぞき込む。蒼衣はスマホを持っていないので、その様子を手持ち無沙汰で眺めていた。
「ありがと。俺も店のアカウントでチェックしてみるね」
満足そうに言う八代だったが、次の瞬間、口に手を当ててなにかを思案し始めた。そしてふらっと厨房に入った八代は、試食用の『変装カップケーキ』を二つ持って戻ってきた。
「オーナー、なにしてるの?」
八代は不思議がる蒼衣をお構いなしに、カップケーキの一つを口にしたあと、もう一方を無造作な様子で蒼衣に差し出した。
「え? 食べろ? なんで?」
「いいから、いいから」
にやにやと笑いを浮かべる八代から、蒼衣に感情が伝わってきた。「いたずら」的なことをしてやろう、という浮かれたものだ。一瞬、戸惑う。しかし、お客が目の前にいる今、八代が店のオーナーとしての立場を逸脱するようなことはしないだろうと判断した蒼衣は、その誘いに乗った。
口にすれば、かぼちゃを練り込んだ生地と、中身に仕込んだ変化リンゴと、着色シナモンのジャムの風味が広がる。うまい具合にできあがったな、と心中で自画自賛しつつ蒼衣がカップケーキを食べると、少しだけ顔が熱くなった。魔力の効果が出たのだ。
「あっ、ガイコツと吸血鬼!」
わっ、と女子高生たちから歓声が上がる。八代の顔を見れば、そこには白塗りの顔で歯が浮き上がった、ガイコツのようなメークが施されていた。ということは、自分のメークは吸血鬼か。
八代は、今にもカタカタと歯を鳴らしそうな笑顔を浮かべている。
「ちょっとごめんよ」
八代はそう言うと、蒼衣のコック帽を素早く取った。束ねた髪が肩に落ちた瞬間、女子高生たちから黄色い声が上がる。
「わっ、ちょっ、オーナー!?」
「うわ、やっぱり美形。信子の言う通りじゃん」
「アラサーには見えないよ~」
なにやらヒソヒソと話す声が聞こえるが、それを気にする間もなく、今度は蒼衣の体が八代のほうに引き寄せられた。
「ひえっ!?」
さらに女子高生たちから甲高い声が聞こえた気がしたが、がっしりと肩を組まれたほうの驚きが強かった。
「な、なにすんの!」
「自撮り」
「じどり?」
八代の言葉が理解できたのは、目線の斜め上に掲げられたスマホの画面を見てからだった。顔を寄せるガイコツと吸血鬼。どんな組み合わせだよと思っていると、カシャ、と写真を撮られた音がした。
「撮ったどー!」
したり顔の八代から離れると、蒼衣は抗議の意味を含めて彼をにらんだ。せめて説明しろやこのお祭り男め、という気持ちを込めたつもりだった(しかし、八代には毛ほども届いていないだろう、ということを蒼衣は知っている)。
「東オーナー!」
「そんなににらむなって。これ、カップケーキの宣伝で使う写真だから。どんな効果が出てるのか、実際に見たほうが気になるだろ」
だからって男二人で撮る意味はないんじゃないかとは思いつつ、あらためて写真を見る。威厳も怖さも感じられない、呆けた顔の吸血鬼と、ちゃっかり笑顔の愛嬌たっぷりのガイコツ。さすがに宣材写真として華やかさに欠けるのではないかと思うのだが、撮った本人は満足そうだった。
写真を女子高生たちに見せにいこうとする八代を横目に、蒼衣は少し距離を取った。こんなもので、きちんと宣伝になるのだろうか。気づかれないような小さなため息をつく。しかし、蒼衣の耳に入ってきたのは、おおむね好意的な言葉だった。
「すごく面白い! ガイコツのオーナーさんかわいい~。パティシエさんめっちゃカッコいいし!」
「カップケーキもかわいいから、これも写真上げてください~」
「はーい、どっちも店のSNSに上げました~。みんな、反応や投稿よろしくね!」
はーい、と元気の良い女子高生の返事が聞こえてきた。写真やケーキを見ながら盛り上がる彼女たちは楽しそうだ。そうこうしているうちに、彼女たちは喫茶用のケーキを選び始めていた。
(……みんなが楽しそうなら、いいのかな)
そう思うと、突然の写真も楽しいことに思えてきた。蒼衣の口元にふっと笑みがこぼれる。
「おーい、パティシエくん手伝ってくれ。喫茶四名様」
「はい、ただいま参りますよ」
八代の呼ぶ声に、蒼衣は笑顔のままで答えた。
***
「おつかれさん。なあ蒼衣、見てくれよ。反応がこんなにたくさん! バズってんな~」
閉店後の片付けを終えた蒼衣が身支度をしていると、八代が興奮した面持ちで声をかけてきた。八代の持つスマホにはSNSらしきページが表示されている。そこには例の写真があった。八代の言うところの数字を見ると、万単位になっている。
「えっと、この数字はたしか……」
「単純に言えば、これだけの人たちが、俺たちの写真を見てくれたってことになる」
「ひええええっ」
インターネットの文化に疎くても、数字で示されればどんなにすごいことかは蒼衣にも分かる。途方もなさに驚く蒼衣とは反対に、八代はどこかしみじみとした表情をしていた。
「どうしたの?」
「鈴木って女の子、あれがこの前の女子高生ちゃんなんだろ」
「ああ、うん。仲直りできたらしいよ」
「よかったな、蒼衣」
「そうだね」
あの後、彼女たちは喫茶スペースでケーキを食べながら楽しく過ごしていた。蒼衣が近くに行ったとき伝わってきた感情は温かく、居心地の良いものだった。
「やっぱり、友だちっていいよなって、あの子たち見てて思ったわ。でさ、おまえとも、あのとき仲たがいしたままじゃなくてよかったなって、思ったワケよ」
「なんだよ、唐突に」
スマホをもてあそぶ八代は、少し照れくさそうな様子で言葉を続けた。
「高校のときの、知り合ったばっかりの頃の話。確かに、おまえの嫉妬はめんどくさかったよ。でも、おまえは本当に優しい奴だし、あんなことになったのは理由があるはずだって思って、いろいろ考えた。んで、とことん話した。そうだったよな」
八代の言葉にうなずくと同時に、今でも鮮明に覚えているのは自分だけではなかったことを、うれしく思った。自分の嫉妬で仲がこじれた。それでも八代は、蒼衣のもやもやした気持ちの正体を言い当てて、言語化してくれた。そして、見捨てなかった。
「……うん。あのとき八代が僕の話を聞いてくれて、見捨てなかったから、僕は今、ここにいる。だから、本当に感謝したいのは僕のほうだよ。ありがとう、八代。ぼくの友だちでいてくれて」
そのときだった。襲い来る嫉妬という魔物をなだめる方法が、蒼衣の中に浮かぶ。
「僕は、君のことがずっと好きだよ。これからも、大切にしたい」
友情というには少し度が過ぎているが、恋というほど甘くはない。だけど表すとしたら、この言葉しかなかった。嫉妬を乗り越えるのは『好き』というプラスの気持ちだ。
やはり、と言うべきか。八代は目を丸くし、困った様子で頭をかいた。
「……おまえ、ようそんなこと、しらふで言えんな……。っていうか、既婚者にそんなこというなよ。俺、ヨッシーと離婚する気ないから」
ふんぞり返る八代が面白くて、蒼衣はふき出した。そういうところが好きだなあ、とあらためて思う。
「なに言ってんだよ。僕だって離婚なんかしてほしくないよ。今の八代だからこそ僕は好きだって」
「だぁーっ、そう何度も言うな! 恥ずかしいだろ! 口説いてんのかよ!」
「そういうつもりはないんだけどなあ」
「くっそ、この天然タラシ優男! 危険だ、おまえは危険だ! こいつから逃げるために俺は帰る! 家族のもとへ!」
半ば笑いながら店を出ようとする八代を、蒼衣は微笑を浮かべて見つめる。
「はいはい、そうしてくださいな」
ずっと君とこうしていられればいいね。と、心の中で思いながら、蒼衣も店を出るために歩きだした。
黄金色に焼けたミニフィナンシェが、ころんとばんじゅうの中で転がる。
ピロートのカウンター内にあるテーブルの前。使い捨てのビニール手袋をした八代は、手早くミニフィナンシェを袋に詰めていく。既定の重さのフィナンシェを入れた後、シリカゲルと魔力保持剤の袋を入れ、手早く真空パックの機械へかける。最後に店のロゴシールと、原材料などを記したシールを貼れば、商品のできあがりだ。
「今日もいい色してんなあ。それに、香りも」
袋に入れる前のフィナンシェを指でつまんだ八代は、上機嫌ではちみつと焦がしバターの甘い香りを楽しんだ。焼き菓子の梱包は、オーナー兼販売員である彼の仕事である。
「あれ、これ、形が」
つまんだフィナンシェを見て、つぶやく。
全てを無造作に入れているわけではない。形のいびつなものがあれば、それは商品にはせずに試食に回すことになっている。テーブルの上に置いてある壺のふたを開け、中に入れようとして――その手を止めた。
「……今日はまだ、味見してない、なあ」
目を泳がせ、そっとガラス戸から厨房の様子をうかがう。シェフパティシエたる蒼衣は、ジェノワーズ生地の材料計量をしているようだ。計量は重要だとつねづね語る蒼衣は、至極真面目な顔つきで小麦粉をはかっている。八代に気づく様子はない。客の来店を知らせるベルも、鳴る気配はない。
八代は口の端をつり上げる。まるでいたずらを思いついた少年そのものだった。
「よし」
素早くしゃがみ込み、フィナンシェを半分だけかじった。
瞬間、焦がしバターのリッチな風味と、口の中が溶けそうなほど甘い蜂蜜の味が口いっぱいに広がる。表面のカリカリ感もたまらない。まさに『金の延べ棒』の異名通りの贅沢さに、頬がゆるむ。
指でつまめるほどの小さな小さなそれは、あっという間に口の中でなくなった。
しばらく味わったその後、残りを見つめた八代は、少し残念そうな表情になった。
「ハズレか」
このフィナンシェの商品名は『金のミニフィナンシェ』一定の確率で、フィナンシェの中に小さな金の粒があるという魔法菓子だ。姉妹品に『銀のミニマドレーヌ』がある。こちらはレモンの香りがさわやかなミニマドレーヌで、銀の粒が出てくる。
金銀の粒が出てこれば、それは『アタリ』だ。魔力で生成されるが、一定時間経っても消滅したりはしない。五~六個入って五百円という値段なこともあって、運試しで買っていく一品だ。
粒は焼成時、ランダムに生成されるため、焼き上がったものの中を割ってみなければわからない。魔力耐性がある蒼衣なら、触ればどこにあるかはわかるらしいが。
「ふっ、幸運の女神は俺以外のラッキーなお客様に振り向くだけさ」
負け惜しみのように残りのフィナンシェを口に放り込んだ瞬間だった。
「や~し~ろ~、またつまみ食いしたね」
「うわぁっ!」
突然の声に振り向けば、厨房のドアから蒼衣の顔がのぞき見える。彼は呆れた表情を浮かべていた。
「なんだ、蒼衣かよ。びっくりさせんな」
「カウンターの中で食べたのが失敗だったね。厨房とは近いんだから、食べたら一発でわかるよ。ふふふ、残念がってたってことは、ハズレだったんですねぇ、東オーナー?」
珍しく挑発的な物言いの蒼衣に、八代はぐぬぬ、とうなりを上げる。
蒼衣は、半径七五センチ以内で魔法菓子を食べた人間の感情を『感じる』ことのできる能力を持っている。
「なぁパティシエくんよ、これアタリ増やせねぇの?」
毎回ハズレばっかりで、とぼやくと「これまでにもつまみ食いしてたってことだね」と言われ、口を閉ざす。
「そりゃあ、使う魔法金粉や銀粉の量を多くすれば確率は上がるけど、そのぶん値段も倍になるよ? なにより、粉を増やすと味が変わっちゃっておいしくないから、僕はおすすめしないです。それに、確率が低いからこそ、運試しは楽しいと思うんだけどなぁ」
ね? と蒼衣はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。世渡りや生きかたは不器用だが、ことお菓子のことになると、蒼衣は案外したたかな態度になる。蒼衣にとっての魔法菓子は、彼のアイデンティティそのものだとすら感じることもある。それを知っている八代は、両手を挙げて『降参』のジェスチャーをした。
「はいはい、シェフパティシエ様の言うとおりでございます」
答えに満足したらしい蒼衣は「じゃ、戻るね。つまみ食いはほどほどに」と言い残して、厨房に戻ろうとした。しかし八代は、その肩を叩いて引き留める。
「なに、なにどうしたの」
「あのさ、この中にアタリってあるの? せめてそれ教えてくれよ」
試食用の壺を手に取り、蒼衣の目の前に差し出した。八代は今までに一度も金はおろか銀も当てたことがない。興味は存分にあった。
「え? この中に?」
うーん、と言いながら、蒼衣は壺に触れる。しばらく目を伏せたあと「ふうん」とか「あー」とあいまいな言葉をつぶやいた。
「あるのか?」
期待に目を輝かせて八代が尋ねる。すると蒼衣は目を細めて、意味ありげに笑う。
「秘密です」
それだけ言い残して、扉は閉められた。
「……あンの野郎!」
珍しくも蒼衣にしてやられた八代の恨み節が、店に響いた。
寒さも本格的になった、十二月十日の午後三時。冷たく乾燥した風が吹きすさぶ中『魔法菓子店 ピロート』の喫茶スペースに、三人の年配女性が来店した。大ぶりのアクセサリーに、柄物の服。手にはおしゃれな杖とカート。齢八十は超えていると思われる皺はあれど、顔にははつらつとした笑顔が浮かんでいる。
彼女たちは大きなクリスマスツリーの横を通り過ぎ、いつもの席に座る。三人は『今日のおすすめセット』を頼んだ。日替わりのケーキとドリンクが付いた、スタンダードなものだ。
「あおちゃん、今日のお茶はなにかの」
「わしゃほうじ茶がええなも」
「こりゃ、あおちゃん、いい加減髪の毛切りなされ。なんならワシが切ったろうか」
パティシエ――天竺蒼衣は、三人の質問に微笑を浮かべる。
「ヨキさん、今日はセカンドフラッシュのダージリンです。コトさん、ほうじ茶なら加賀の棒茶はいかがです? あと、キクさんのカットはご遠慮させて頂きます」
最後の「遠慮」に若干の力を込め、蒼衣はよどみなく質問に答えた。ヨキとコトは「それでええわい」と返事をする。しかしキクは、
「ありゃ、久しぶりにモードにおっしゃれ~にしたろうと思ったんじゃがの」
と、すっとぼけて答えた。とっさに蒼衣はコック帽に触れる。確かにキクの言うとおり、髪の毛は伸ばしっぱなしだ。魔法効果で伸びるのが早いのでこまめに切らねばと思ってはいるが、ひとに髪を触られるのは、どうも苦手だった。
「パンチパーマは勘弁してください。キクさんはいつものジンジャーエールでいいですか?」
「それでええ。あの辛くて強~いのがいいんじゃあ」
「かしこまりました」
いつものようにやりとりを終えると、蒼衣はカウンターに戻った。ドリンク類を作るためのスペースには八代がいる。彼は蒼衣のオーダーを聞くことなく、紅茶と加賀棒茶用のポット、冷えたジンジャーエールの瓶を用意していた。
「準備が早いね」
蒼衣もカウンター下から皿を出し、日替わりケーキであるチーズケーキをショーケースから取り出しはじめた。
「毎日同じだから、覚えちまった。しっかし、外は寒いってのに、ばーちゃんたちは相変わらず元気だなあ。あのちっさい体のどこにそんな元気があるんだよ」
「お元気なのはいいことだし、こうやって通ってくれる、いいお客様だよ。それに、八代は昔からお世話になってるんだから、もう少し敬意を持ったほうがいいんじゃないの」
あきれた様子の八代を諭すように言う。しかし、蒼衣の言葉は逆効果だったようで、八代は深いため息をついた。
「おまえ、キクばーさんにパンチパーマにされても同じこと言える? あのばーさんたち、どーでもいいことばっかり話しかけて、蒼衣の仕事を止めるからいけない」
彼女たちは、ピロートが開店したときからの常連客だ。商店街にある店のおかみさんたちで、ヨキは八百屋、コトは文房具、キクは美容院である。現在、三人とも店は子どもに譲っており、今は悠々自適な老後だと豪語している。
「見かねて俺が話に入ると『八っちゃんの話はもう飽きたからいらん、仕事せえ』なんて言いやがって。誰がケーキ作ると思ってんだ」
商店街で過ごした八代にとって、三人は祖母のような存在だ。三人は「八っちゃんのことは、自分の孫くらいよーく知ってる」とよく話してくるし、実のところ、八代も言うほど嫌ってはいない。
祖父母とは疎遠、近所との付き合いも希薄な核家族で育った蒼衣は、三人と八代の気安そうな関係性が少しうらやましかった。
「パンチパーマはいやだけどさ。三人ともずっと商売をやってたから、お話するのがお好きなんでしょう。それに僕、話しかけられやすいというか、まあ、都合のいい顔というか」
「だからいつも道を聞かれたり、宗教の勧誘にひっかかったりして時間を取られるんだろ」
八代の指摘が正しくて、蒼衣はウッとうめき声を出す。
「でも、人当たりがいいのは蒼衣の長所だと俺は思うよ。変なクレーマーにつけ込まれるのが玉にきずだけど。あと、客が多すぎるとパニックになるのも、短所だな」
八代の言うとおり、クレーム処理は蒼衣の苦手なことである。昔から、怒鳴られたそれだけでも萎縮してしまう。しかし、ありがたいことにピロートの客層は穏やかなひとが多く、今のところ目立つトラブルはない。そしてもう一つ、蒼衣は一度にたくさんのお客がくると、混乱してしまうという癖もあった。
「もうちょっと冷静になれればいいんだけど。どうしても、ひとが多くなるとどこからお声かけしていいのか、優先順位がわからなくなっちゃって」
「まあ、うちみたいな小さな店ならそこまで困らないとは思うから、あんまり気負うなよ。あ、お茶ができたから俺が持ってくわ。蒼衣は厨房入って仕込み続けてて。クリスマス前のお菓子屋はすっげー忙しいもんなの、ってばーちゃんたちには言っとくから」
「助かるよ」
八代の言葉に、蒼衣はありがたくうなずいた。かまってくれる三人の相手もしたいが、今の蒼衣は一年で一番忙しい。
クリスマス。それは、お菓子屋での一大イベント。ピロートにとっては、初めてのクリスマスである。
厨房に戻り、今日一日の作業予定の書かれたホワイトボードを確認する。
クリスマスケーキの土台となるジェノワーズ焼成、火イチゴのコンポート作業、ブッシュドノエルムースの仕込みに、組み合わせ作業。加えて、通常商品の仕込みもある。
ホワイトボードの横に張られた、クリスマスケーキの予約数は、けっして多くはない。しかし、ピロートのパティシエは蒼衣一人である。今年は初年度。蒼衣にも八代にも負担がかかりすぎない数で予約は締め切った。
それを見ながら、蒼衣はクリスマス時期の労働環境に考えを巡らせる。
パティシエというのは、見た目こそ華やかな世界だが、労働環境は『ホワイト』とはほど遠い世界だ。
クリスマスが近くなれば定休日も出勤するし、毎日残業は当たり前。極めつけは、クリスマスイブ前日だ。夜中、延々とクリームをナッペし、デコレーションし続ける。意識はもうろうとし、ほんの数十分の仮眠すら一瞬に思える。壊れやすいケーキの箱の山を崩した瞬間、生きた心地がしなかった経験も少なからずある。
そして、毎年どこかの店で、疲労や寝不足から、誰か一人は自動車事故を起こすのだ。
蒼衣は重いため息をつく。思い出しても自分が辛くなるだけだ。
クリスマスの時期には、いい思い出がない。そのせいか、食欲も落ちるし、疲れも取れにくい。
しかし今年からは違う。八代は蒼衣の不調の原因を知っている。キャパシティを理解し、予約の数も少なめにしてくれた。そして、クリスマス前後の三日間、通常商品を休止することを提案してくれた。
「自分たちが倒れないことが大事」
計画を立てるとき、八代は蒼衣に念を押した。売り上げや店も大事だったが、いの一番に働く人間を心配してくれたことがうれしかった。
蒼衣はそっと厨房のドアを開けて、イートインの様子をうかがった。
「なんじゃ八っちゃんかいな。あおちゃんはどうしたあおちゃんは」
「八っちゃんの顔なんぞ見飽きたわい」
「八っちゃんよう、そのむさ苦しい頭をどうにかしたろうか。ほれ、丸坊主がええ。バリカンの腕は落ちとらん」
「あのねえ、ばあちゃん、クリスマス前で、蒼衣はめっちゃくっちゃ忙しいの。俺だってばあちゃんたちの顔見飽きたわ! 髪はこの前切ってきたばっかだぞ。キクばーちゃんが髪の毛いじりたいだけじゃねえか! とりあえずケーキ食え!」
なんだかんだ言いながらも楽しげな雰囲気に、蒼衣はくすりと笑いながら扉を閉めた。
「頑張らなくっちゃね」
自分を鼓舞するようにつぶやき、蒼衣はボウルを手にした。
それから数時間経った、夕方。困惑した顔の八代が厨房に顔を出した。
「蒼衣、今手ぇ空くか?」
「いいよ、どうしたの」
「いや、実はちょっと、お客さんが来ていて。一緒に話を聞いてくれないか」
八代には珍しく、歯にものが引っかかったような言いかただ。蒼衣は首をかしげながら、厨房を後にした。
喫茶スペースの一席に、六〇代くらいの男性が一人、座っていた。冬だというのに、額の汗をハンカチでぬぐい、どこか落ち着かない様子だった。蒼衣の姿をみとめた男性は吉岡と名乗り、一枚の名刺を差し出した。名刺には『わかば保育園 園長』という肩書きが記されていた。
「恵美が通っているところなんだ」
隣に座る八代がそっとささやいた。
吉岡は「お忙しい中恐縮です。少しご相談がありまして」と話し始めた。
「うちの園では、毎年クリスマスの食育行事として、年長組だけですが『魔法菓子』のクリスマスケーキを食べるということをやっております。私の知り合いのお菓子屋さんに毎年頼んでいたのですが、彼が昨日病気で入院してしまい、ケーキが用意できなくなってしまったのです。慌てて手配できるお店を探しているとき、在園児の保護者である東さんが魔法菓子店を営んでいると知りました。そこで、急遽こちらでお頼みできないかと……」
吉岡の前には、八代が出したであろうお茶と金のミニマドレーヌがある。食べたのだろう、蒼衣には『困った・焦り』といった吉岡の感情が伝わってくる。とりあえず、嘘をつかれている訳ではなさそうなことに安堵した。
しかし、内容が問題だった。クリスマス関係の依頼となると、時間とキャパシティの問題が大いにある。
蒼衣と八代は顔を見合わせる。八代の眉間には、これまた珍しくしわが寄ったままだ。
「園長先生、その行事は二十四日ですよね」
「えっ」
お客である吉岡の前だったが、蒼衣は動揺を隠せなかった。
確かに今年の二十四日は平日。保育園は普段通り登園する日である。
そして、八代が苦い顔のままである理由もやっとわかった。縁もゆかりもないところならともかく、娘である恵美はわかば保育園の年中組に通っている。これではさすがの八代もきっぱりと断れないだろう。その気持ちを思うと、蒼衣もいたたまれなくなった。
吉岡は八代の言葉に、申し訳なさそうにうなずいた。
「二十四日は、一年で一番お菓子屋さんが忙しい日だというのは、重々承知なのです。しかし、園の近くにあるお店はここしかないのです。実は、遠くのお店にダメ元で問い合わせましたが、宅配は受け付けておらず、配達も無理でした」
吉岡が言うとおり、魔法菓子の宅配は魔力保持や管理の問題から、多くの店が取り扱っていないのが常識だ。だから多くの店では従業員が配達という形を取ることが多いが、繁忙期にそれを受け付ける余裕のある店は、ないに等しい。
それはピロートも同じなのだが、幸か不幸か『わかば保育園』は店から徒歩十分での距離にある。車でなら五分もかからないだろう。
そこまで考えて、蒼衣の頭に疑問が浮かんだ。
「少し、お聞きしたいことがあります。ずっと頼んでいた知り合いのお店というのはどちらなんでしょうか。このあたりで魔法菓子を扱っている店は、うち以外に聞いたことがないものですから」
「名古屋市の『万寿《まんじゅ》』という和菓子屋さんです。お店では魔法菓子を出していないので、ご存じないと思います」
「万寿、ですか?」
蒼衣はその店の名に聞き覚えがあった。
「もしかして、その職人さんのお名前は、万寿勝《まんじゅまさる》さんというお名前ではありませんか?」
そうです、と吉岡が答えると、蒼衣は「そうか、先生が」ともらした。
「蒼衣、知り合いなのか?」
「知り合いとまではいかないんだけど、通っていた専門学校でお世話になったことがあるんだ」
蒼衣が製菓専門学校に通っていたのは、今から一二年前、十八歳のときだ。万寿は穏やかな性格で、どんな質問にも真摯に答えるひとだった。蒼衣は万寿の授業が一番好きだった。和やかな授業を思い出し、蒼衣は一瞬だが感慨に浸る。
「入院とのことですが、万寿先生の容態は、ご存じですか」
「息子さんからの伝聞ですが、大事はないそうです。ただ、脳梗塞とのことで、しばらくは仕事はできないと。……万寿さんは、優しく、仕事に誇りを持っているかたです。本当は入院を伸ばして、クリスマスケーキだけでも作らせてくれと言っていたらしいのですが、早く治療したほうがいいとお医者さんやご家族が説得されたそうです」
そこまで話して、吉岡は力なく目を伏せる。
「万寿さんは『楽しみにしていた子どもたちに申し訳ない』と何度も言っていたと聞いています。私は、彼の思いをなんとかしてあげたいし、園としても、子どもたちの期待に応えたいのです。どうか、どうかお願いします」
吉岡は頭を下げた。これには、蒼衣も八代も言葉が出ない。ほんの少しの沈黙の間、蒼衣は頭の中で考える。そして、一つの決断をした。
「八代、僕、このお話受けてみようと思うよ」
「本当ですか!?」
「蒼衣?」
八代は急いた様子で蒼衣の袖を引っ張り「少し二人で話したいので、少々お待ちいただけますか」と言葉だけは冷静に吉岡に申し出た。
吉岡が戸惑いながらもそれに頷くと、蒼衣は半ば引っ張られるように厨房に連れ込まれた。
「オーケーオーケー、冷静になろうぜパティシエくん。気の毒な話なのはわかるが、今のおまえにやれるだけの余裕があるのか、それは考えたか?」
八代の言葉はもっともだ。しかし、人間少しは頑張らないといけないときもあるのではないかと蒼衣は思うのだった。
「予約数を制限してくれたことや、当日販売するケーキも少なくしてくれたことで、だいぶ余裕のあるスケジュールだと思うよ」
「スケジュールもそうだが、俺はおまえの調子のことも心配してんの。いっつも冬にぶっ倒れそうになってるの、忘れたか?」
「心配してくれているのは知ってるし、すごくありがたいよ」
蒼衣はそう言いながら、ホワイトボードの横に張られた予定表を手に取った。行程がチェックシートのようになっているそれには『完了』のチェックが半分以上埋まっていた。
「見て。予定通り用意できてるし、この調子なら少し作業が増えても問題ないと思う。それに、他のお店と違って、ここではペース配分も休憩も自分の思うとおりにできてるでしょう? 僕にとっては一番楽なことなんだ」
「しかしだな」
「目の前に困ってる、助けてって言ってる人がいて、しかもそれが少なからずご縁のある人が関係してるって分かったら、僕はどうにかしたいなと思っちゃったんだ。だから頼むよ八代、この話、受けさせてくれないかな」
実のところ、八代の立場も考えてはいたのだが、本人がどう思っているか分からない以上、安易に説得の材料にしてはいけないと思った。それは昔の失敗を繰り返さないためでもあるし、蒼衣が師と仰ぐ人から「人の気持ちを勝手に推し量る前に、自分のしたいことや、気持ちをきちんと述べることが大事」と教えてもらったことも大きい。
八代は蒼衣の顔をじーっとのぞき込み、そして、観念したようにため息をついた。
「……おまえ、ほんと、お人好しだなあ」
「じゃあ」
「わかった。蒼衣の熱意ある口説き文句で俺も腹を決めたよ。俺も断りづらかったし、蒼衣がいいならこの話は受けよう。園長との交渉は俺がやる。で、蒼衣は、絶対に無理はしないこと。いいな?」
「ありがとう!」
そして席に戻った二人は、依頼を受けることを伝えた。吉岡は喜び、八代の出した妥協案――今ある材料と時間の中で作れるもの――を受け入れた。
保育園への魔法菓子は、トライフルに決めた。カップの下にジェノワーズのかけらとフルーツを入れ、カスタードとクリームを乗せて完成するデザートだ。
「トライフルは余りもので作る、簡単なデザートの一つ。イギリスではクリスマスによく食べられるらしいんだよね。飾りは、火イチゴコンポートと、洞窟金平糖。どっちもうちの通常商品で使ってるから、ストックもある。それに、この二つを近くに置くと、線香花火みたいな効果が出るんだ。もちろん、火イチゴだから熱くない」
園長が来店してから三日後の平日。蒼衣は早速手の空いた時間にクリスマストライフルの試作をした。プリン用の瓶に、ジェノワーズ、フルーツ、カスタード、ホイップクリームが入っていて、上には火イチゴのコンポートと金平糖がバランス良く飾ってある一品だ。
「いいじゃんいいじゃん。細かく切ってあるから、子どもがスプーンで食べやすい。それに、運搬するにも壊れにくい」
「試食、する?」
「しますします、しますとも!」
蒼衣の説明を一通り聞いた八代は、クリスマストライフルに目を輝かせる。
八代がスプーンで火イチゴに触れた瞬間、ろうそくに火が灯るかのように燃え上がった。とろけたイチゴソースが金平糖に触れ、線香花火のような小さな火花が現れた。
火イチゴコンポートは、店で出しているショートケーキに使っているイチゴのシロップ煮だ。フォークで触れると、ろうそくの火のように燃え、溶けるとイチゴ味の甘酸っぱいソースになる。魔法効果なので、熱くはならない。
洞窟金平糖は、その名の通り洞窟の中に自然発生する金平糖だ。長い時間をかけて凹凸のある粒になった天然の砂糖は、甘味料としても使われるほか、見た目の可愛さから飾りとしても多用される。
そして、今回のように異なる魔力含有食材同士の組み合わせで、新たな魔法効果を生み出すこともできるのだった。
「冬でも花火って感じだな。それもまたよし」
八代はソースとトライフルをすくい、口にした。一瞬で目尻が下がる。
「口ん中でいろんな味がするのがいいな。なんだか、うちのケーキを一度に食べてる気がする」
「ジェノワーズのほかにも、焼き菓子の端っこや、ロールケーキの端っこ、パイ生地のかけらとか、ケーキを作るときにどうしても出る半端なもので作ってあるんだよ。これなら、今から大がかりに仕込みをしなくても作れるから、大丈夫」
美味い美味いといいながら、八代はあっという間にトライフルの瓶を空っぽにしてしまった。ごちそうさま、と律儀に手を合わせる様を眺め、蒼衣はくすりと笑う。
「じゃあ、オーナーのお眼鏡にはかなったってことでいいかな?」
「そんなん聞かなくてもわかるだろうが、パティシエくん」
いたずらっ子のように笑う八代からは『美味しい』の気持ちが伝わってくる。
「では、わかば園向けクリスマスはこれで決まりでいいかな。計画立てとくね」
「おう、よろしく!」
気持ちのいい八代の返事が、厨房に響く。
お客の来店を告げるベルが鳴る。それを聞いた八代が厨房を出た。
その背中を見ながら、蒼衣は八代とならどんな難しいことでもできる気がすると思った。
それからは慌ただしく忙しい毎日が過ぎていった。休みである火曜日も短い時間ではあるが仕込みを続け、クリスマスに向けて万全の体制を整える。
店先にも、二十二日から四日間は喫茶を休止する張り紙をした。おばあさんたちは休止を残念がったが、すぐに気を取り直して、連日蒼衣にクリスマス商品の質問攻めをすることで楽しんでいるようだった。
定休日である二十一日の火曜日、蒼衣は厨房で仕込みの大詰めを行っていた。
ブッシュドノエルのピストレ――前もって作っておいたブッシュドノエルの冷凍ムース(中身は、太陽オレンジのコンポート、マスカルポーネムース、ビスキュイ、ビターチョコレートのムース)の表面に、霧吹きでコーティングのチョコレートを吹きかける作業のことだ――をしていた蒼衣に、八代が声をかけた。
「蒼衣、どのくらいで終わりそうだ?」
「あと三本ピストレしたら区切りがつくよ」
「それが終わったら昼飯行こうぜ。久しぶりにいつものところ」
普段の休憩は店番もあるために別々で取ることが多いが、店を閉めていても仕事をしている今日のような日は、一緒にご飯を取ることが多い。
「ああ“きんとうん”? いいよ」
ピストレが終わり、私服に着替えた蒼衣は、八代の運転する車で店まで向かった。住宅街を通り抜け、大きい道に出る。家電量販店や大型スーパーなど、新興の店がたちならぶ中にある『はやい・やすい・うまいの中華料理きんとうん』と書かれたレトロな看板のある店に入る。平日のお昼時ということもあって、地元で働く人たちで賑わっている。
「あら、八っちゃん久しぶり。蒼衣くんもいるじゃない」
ウォーターポット片手に八代に話しかけたのは、六十代くらいの女性だった。いらっしゃいませ! と快活に叫んだ彼女は、店の女将・西セン子だ。
「今日は定休日だけど仕込みがあってね。福利厚生ですよ、ふくりこーせー」
「こんな中華料理屋で福利厚生なんて安上がり過ぎよ。蒼衣くん大丈夫? ケチ店長にこき使われてない?」
「いえいえ、そんなことは」
ないです、と言う前に、セン子は突然蒼衣の顔をのぞき込むと、短く「やだっ」と叫んだ。
「蒼衣くん、綺麗な顔にクマができちゃってるじゃない! ちょっと八っちゃんどういうこと!?」
今度は八代にぐいぐいと近づく。蒼衣が慌てて「大丈夫だよ、セン子さん」と告げるが、セン子は聞く耳持たぬといった風情で八代をにらむ。しかし、まったく気にしていないようだ。
「この席にしようぜ~」
セン子の横をひょいとすり抜け、八代は空いていたボックス席に滑り込んだ。
「もう、八っちゃんたら!」
そう言いながらも、セン子はよく通る声で「二名様ご来店でーす!」と叫んだ。厨房にいるだろう料理人とホールの店員たちが「いらっしゃ~い!」と威勢良く返す。落ち着いた雰囲気とはほど遠い、明るく賑やかな雰囲気に、蒼衣は少しだけ肩をすくめて席に座った。
「うわあ、大盛りだ」
蒼衣の目の前に置かれたのは、大盛りの野菜炒め、こんもりと山盛りにされたご飯、焦げ目がついて美味しそうな餃子と唐揚げと春巻き、そして、あたたかな湯気の立ちのぼるコーンと卵のスープに、杏仁豆腐。
「セン子さん、いくらなんでも盛りすぎじゃね?」
「っていうか、僕、野菜炒めとご飯しか頼んでなかったんだけど」
「俺の台湾ラーメンには、なにもついてない。うっ、セン子さんひどい」
あのあと、セン子は嵐のように注文を取りにきて、嵐のように料理を置いていった。 手書きの伝票を見ると「蒼衣くんスペシャル(ハート)」と大きく書かれており、その下に小さく「タイワンラー」と雑に書かれている。それを見た八代と蒼衣は、苦笑する以外になかった。
「ま、とりあえず食べるか。いただきまーす」
「いただきます。八代、揚げ物とか食べていいよ、あと、野菜炒めも半分あげる。ご飯も半分あげるよ」
そう言いながら、蒼衣は野菜炒めと揚げ物の乗った皿を真ん中に置いた。
「この時期はあんまり、食べられないからさ。それに、目のクマも。やっぱり寝付きが悪くて、あんまり寝られないんだ」
セン子に遠慮して、小さな声で告げる。
それを聞いた八代は「やっぱりな」と言葉をこぼす。八代の顔には、労りと痛ましさが同時に浮かんでいる。蒼衣はまた小さな声で「ごめん」と言った。
冬になると、蒼衣は食事がおろそかになる。食べよう、という気にならないのだ。しかし仕事は忙しいので、体を動かすエネルギーのためには食べないといけない。だから、パンをほんのひとかけらだとか、コンビニのサラダを一つだけだとか、最悪、野菜ジュース一パックで食事を終えてしまうこともある。
そして睡眠も、頭の中に過去のいろいろが浮かんできて、寝るのが難しい。寝られたとしても、目覚めの悪い夢で目を覚ますことが多くなる。
ピロートの仕事量は蒼衣のキャパシティを基本としているため、倒れることはまずない、と本人は思っている。
しかし、聡い知人には見透かされているらしい。蒼衣の中には申し訳なく思う気持ちがあった。
「謝ることじゃない。気にすんな」
「ありがとう。さ、冷めないうちに食べよう」
「そうしよう、そうしよう。ああ、台湾ラーメン辛っ! 美味っ!」
ずるずるずる、と美味しそうにラーメンをすする八代を見ながら、蒼衣はくすりと笑う。
「セン子さんは気さくで明るくて、いい人なんだけどね。いつも心配させちゃうから、それが心苦しいや」
「あのお節介おばさんは本当に蒼衣がお気に入りだからな。バイトしてた俺よりも、たまに飯食いにきた蒼衣に優しいなんてさあ」
八代は高校から大学を卒業するまで、『きんとうん』でバイトをしていた。学生時代、蒼衣も八代に誘われて何度も来たことがある。つまり、三人は一〇年以上の付き合いになる。
「僕がここの野菜炒め美味しいって言ったら、それ以来ずっとこうしてサービスしてくれる。覚えててくれてるんだね」
もやしにニラに、鮮やかなにんじん、キクラゲ、ネギ、そして豚肉が少し。店自慢の鶏ガラスープと焦がし醤油で味付けされたシンプルな炒め物。口に運べば、しゃきしゃきとしたもやしの食感と、火を通しすぎない野菜の甘みが広がる。ちょっと濃いめの味付けが、疲れた体に染み渡るようだった。
「美味しいねえ」
「うむ」
ひさびさの味をかみしめている内に、蒼衣の脳裏に、昔の出来事が浮かんだ。
「そういえば、八代、この野菜炒めを作ってくれたことあったよね。お店の味そっくりでさ、びっくりした」
「あんときのことか。俺も覚えてる。だって、おまえが、」
そこまで言って、八代は口をつぐんだ。蒼衣も八代も意識的に避けている時期――八年前のことを口に出そうとしたからだった。
「あのとき、全然ご飯食べられなくて。でも、あれがきっかけで、またご飯食べられるようになったんだ。僕がダメになったとき、助けてくれるのはいつも八代だなって思って。昔っからそう。学生のときも、あのときも、お店をやろうって言ってくれたのも。そして今も。こうしてご飯食べられるところに連れてきてくれた。ありがとう。だから僕、クリスマスがんばるよ」
ピロートが迎える初めてのクリスマスなんだからさ、と蒼衣は努めて明るく言った。 自分が必要とされている。それはどんな食事よりも睡眠よりも、蒼衣にとって生きる力のようなものだった。
八代は蒼衣を見て、なにか言いたげな顔になる。しかしなにも言わないまま、ラーメンをすすった。
二十四日、午前三時。
蒼衣は店の外に出た。二時間ほどの仮眠から目が覚めたばかりだ。冷たい空気を頬に受け、ぼんやりとした目で空を見上げる。
一番ケーキの出る二十四日分は、前日から作らないと間に合わない。大きな店ならともかく、ピロートのような小さな店では、ストックを置いておく場所も設備も少ないからだ。こればかりは、いくら事前に準備をしていても避けられない、ケーキ屋の宿命だ。
空には冬の大三角形、オリオン座がよく見える。蒼衣にとっては印象深い冬の星だ。
結局自分は、今でもこの星の下で生きている。九年間に一度はあきらめた菓子職人の道。そして、八年前には死んでいてもおかしくなかったはずの自分。八代や、出会った師匠のおかげで、こうして魔法菓子職人として生きている。
「あの師匠も、流石にクリスマスはがんばってるかなあ」
めんどくさがりな自分の師匠を思い、苦笑する。お互い筆無精で連絡が途絶えがちになるので、落ち着いた季節に挨拶に行こう。
「さあ、僕は僕の仕事をしよう」
終わらせないといけない仕上げはたくさんある。蒼衣は一息つき、厨房に戻っていった。
二十四日、早朝。
「終わった」
実感のこもった蒼衣のつぶやきが、ピロートの店内に響いた。
暖房の切ってあるイートインスペースには、所狭しと置かれたケーキの箱。ショーケースにずらりと並べられたクリスマス専用のピースケーキ。普段は焼き菓子が並ぶ棚にも、予約分のケーキの箱が積まれている。そして、厨房の冷蔵庫にはわかば保育園用のトライフルが入っている。
蒼衣と八代は眺め、感嘆を漏らす。
「いや、終わりの始まりだ」
八代の顔には疲れと一緒に、自信のある表情が浮かんでいる。八代も蒼衣に付き合い、フルーツのカットや洗い物など、蒼衣が製造に専念できるようにサポートをしてくれていた。
「始まり、かぁ」
「今日を乗り越えれば、とりあえずなんとかなる! 蒼衣、がんばろうぜ」
蒼衣は力強さにつられるように、うなずいた。
ふたを開けてみれば、やはりクリスマスはクリスマス。開店して半年も経たないピロートでさえ、お客がつぎつぎとやってきた。開店一時間もすると、普段はめったに使われない向かい斜めの第二駐車場も満車になり、店内は混乱を極めた。
そこで、予約受け渡しは蒼衣、当日分販売を八代と分けて接客することにした。蒼衣の得意とする丁寧な接客は、この殺人的忙しさの前では足かせになる。蒼衣よりも思い切りがよく、マルチタスクな仕事が得意な八代は、難なく接客をこなしていった。
十四時過ぎ、奇跡的にお客が途切れた瞬間を見計らって、八代はわかば園にトライフルを配達するために店を抜けることになった。
「三十分で戻る。その間、店を頼む」
「わかった、車を任せてごめんよ」
本当は、客さばきのうまい八代が店頭に残るほうが効率がいいのだが、蒼衣は車の運転がどうしてもできないからだ。
「気にすんな、じゃ、行ってくる」
トライフルの入ったばんじゅうを乗せた車を見送り、蒼衣は急いで店に戻った。
店に戻った瞬間から、立て続けに客が飛び込んできた。ワクワクしながらケーキを見るお客の目の前で、蒼衣は心で悲鳴を上げる。その間にも、ドアからはベルが鳴りっぱなしだ。
それでもやるしかない、と自分に言い聞かせた。
わかば園についた八代は、ばんじゅうを乗せた台車をひっぱり園内に向かった。
「東さん、ありがとうございます!」
吉岡が待ってましたとばかりに八代を出迎える。その横で、早速職員が検食をし、その魔法効果に部屋にいた全員が驚いた。
「これは不思議だ! 火花が散ったぞ。東さん、これはいったいどういう理屈でこんな風になるのですか」
早く帰りたいが、説明だけはしておいたほうがいいだろう。
「それはですね、火イチゴと……」
手早く説明をしようとする八代を遮るように、吉岡がポン、と手を打った。
「そうだ! 東さん、これを子どもたちの前で説明してくださらんか。私たちの又聞きよりも、店員さんからの話のほうがこどもたちにもいい経験になるでしょう」
「え、ええっ」
いつの間にか八代の肩が、吉岡の両手でがっしりと捕まれている。
「ほんの少し、ほんの少しの時間でいいのです、子どもたちのために、ご協力願えませんでしょうか」
八代は迷った。本音を言えば、すぐにでも店に戻りたい。しかし、ビジネスの面では、園長のことを無下にするのも惜しいと考えていた。なにせ保育園は地域密着の施設である。『ピロート』のお菓子を子どもたちが気に入ってくれれば、将来のお客になる可能性は大いにある。
(……蒼衣よ、店の発展のために耐えてくれ!)
八代は心の中で親友に祈りを飛ばしつつ、吉岡の言葉に頷いた。
***
八代の戻ってこないピロートは、地獄絵図のようだった。
蒼衣は順番に接客をするよう努めているが、一人きりではやはり限界があった。ショーケースのピースも、当日販売分のホールもあっという間になくなっていくし、普段のケーキを買いに来たお客や、イートインのことを尋ねるお客にも頭を下げなければならなかった。それも、四方八方から声がかかるものだから、どのお客が先なのかの判断も蒼衣には難しかった。
おまけに、いくら仮眠を取っているとはいえ、昨日からずっと働きづめで疲労がたまっている蒼衣は、注文数を間違えたり、レジの打ち間違いなどのミスが増えてきてしまった。
予約のものですら、お客の控えと伝票の照合がスムーズにいかない。焦れば焦るほど、精度は落ちていく。
次第に、順番を待つお客から不満の声や、舌打ちが聞こえ始めた。
「客をこんなに待たせるならもういいわ」
そして、叩きつけるように吐き捨て、出て行くお客を見た瞬間、蒼衣はもうだめだと頭の中で思った。ほかのお客の視線が針のむしろのように感じる。
お客に喜んでもらうためのケーキ屋なのに、いらだたせてしまったことが悲しいし、店員のはずなのに上手に立ち回れない自分が心底情けなく感じた。
店全体がクリスマスの華やかな雰囲気とはほど遠い、とげとげしい空気になった、そのときだった。
「あおちゃん、盛況じゃの~」
「ここにいるひとたちみんなケーキを楽しみにしとるんじゃろうな。あおちゃんのケーキは美味しいからの」
「あおちゃん、助けにきたなも」
しゃがれた年配の女性の声が三つ、店内に響いた。
開け放たれたドアには、ヨキ、コト、キクの三人の姿があった。
「おばあちゃんたち……?」
蒼衣はとっさに「喫茶はやってないんです」と言ったが、三人は首を横に振った。しっかりとした足取りで店内を進んでいく姿に、周りのお客は思わず三人を避け、道を作った。
よく見ると、彼女たちは普段の服の上にエプロンや割烹着を着ている。
「あおちゃん、今日はワシらお客じゃなくて、ここの従業員にさせとくれ」
「一人であたふたしとるあーちゃんを見てたら、いてもたってもいられんでの」
「わしら、もともと商店街で店をやっとったのを忘れたか? 売るのは得意じゃ。それに、あおちゃんからクリスマス商品の話はたんと聞いたからの。案内もばっちりじゃ」
蒼衣の返事も待たず、ヨキとコトはするりとカウンターに入り込み、接客を始めてしまった。慌てて蒼衣が止めようとしたが、「ばっちりだ」と言っていた通り、二人はクリスマス商品のことを熟知していた。控え通りに商品を渡し、レジの操作も迷いがない。キクは売り場で予約客と当日客の案内をして、店内が混乱しないように誘導しはじめた。
結果、三人は先ほどの蒼衣よりもてきぱきとした態度でお客をさばき、店を回し始めてしまったのだ。
その姿に蒼衣が呆然としていると、厨房のドアが開いた。八代が戻ってきたのだ。
「すまねえ蒼衣、今戻ったってうおおおい!? ばーちゃんたちなんでここにー!?」
「わしら今日だけここの従業員じゃ」
「どうでもいいから早くあおちゃんにケーキ作ってもらえや」
「お駄賃はケーキセット無料券百枚でええぞ。ほれ八っちゃんもはよ働かんかい」
「どういうことー!?」
「おばあちゃんたちは僕を助けてくれたんだよ。このまま続けてもらおう!」
今ここで三人を追い出されては困ると思った蒼衣は、大人げなく悲鳴のような声を上げた。自分でも社会人としてはおかしいことを言っているような気がする。しかし、どう見ても仕事ができるのは三十歳の蒼衣ではなく、喜寿を越えた三人のお年寄りのほうだ。
「蒼衣まで!? しゃあねえ、とりあえずそこまで言うなら頼むわ、ばーちゃんたち! 蒼衣、おまえはケーキを作れるだけ作れ!」
「了解っ」
ここぞとばかりに蒼衣は調理室に駆け込んだ。
夕方になると、仕事帰りのひとたちがどっと訪れ、一番の混雑になった。蒼衣が追加で作った当日分のケーキも、飛ぶように売れていく。そんな忙しさにもかかわらず、三人のお年寄りはてきぱきと働き続けてくれた。
そして閉店時間が訪れた。最後の客を見送り、店を閉める。静かになった店内を見渡せば、朝にはケーキの箱でいっぱいだった喫茶スペースも、ショーケースも、綺麗さっぱりなくなっていた。
「おばあちゃんたち、遅くまでありがとうございました。とても助かりました」
蒼衣はヨキ、コト、キクの三人に頭を下げた。
「あおちゃんが助かったんならええなも。ああ、久しぶりに働いたわい」
「どうせわしら暇じゃしな。いつもお話を聞いてくれるお礼じゃ」
「こんなこともあろうかと、あおちゃんにクリスマスのこと聞いといてよかったの~」
和気藹々と話す三人に、蒼衣は疑問に感じていたことを尋ねた。
「あのう、ケーキの種類や値段はお話したことを覚えてるんですけど、なんで包装の仕方や、レジ操作をご存じだったんですか?」
「包装なんぞ、あおちゃんたちを見ていれば覚える。元八百屋の奥様を舐めるでないぞ」
「あおちゃんは知らなかったのかのう。ここのレジを調達したのはワシじゃ。ほれ、文房具屋だからな」
「ワシは毎年商店街の行事で人員整理の係だったからの。あんな混雑は慣れっこじゃ」
平然と言ってのける三人に、蒼衣は目を丸くする。そして、彼女たちが商店街の『おかみさん』だったことを改めて思い出した。
「突然現れたのはびっくりしたけど、助かったのは本当だ。ありがとう、ヨキさん、コトさん、キクさん」
八代が丁寧に頭を下げると、三人は顔を見合わせた。
「ありゃ、八っちゃんが珍しく真面目じゃ」
「やーっと大人になったかの」
「お駄賃はケーキセット無料券五百枚でええぞ、八っちゃん」
「俺はもう立派な大人だっつうの! あとキクばーちゃん、枚数増えてるぞ! ああもう、早く帰ればーさんども。暖かくして早く寝やがれ!」
八代の言葉に、三人はハイハイ、と軽く返事をして帰り支度を始めた。それを見た蒼衣は、冷蔵庫からトライフルの予備を三個取り出し、手早く紙袋に包んだ。
「ヨキさん、コトさん、キクさん。良かったら、持って帰ってください。今日はお疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。本当に、ありがとうございます」
それらを一つ一つ手渡すと、三人はしわだらけの顔に慈悲深い笑顔を浮かべ「あおちゃんもな」とだけ言った。
三人が帰った後、蒼衣と八代は喫茶スペースに座っていた。机には、蒼衣が転んでつぶし、店頭に出せなかったホールケーキと、歩いて五分のコンビニで買ってきたチキン、ブドウジュースの瓶が乗っている。
一応、クリスマスらしい雰囲気を演出しつつ、魔法菓子店ピロートの反省会が始まった。
「今日はお疲れ様でした!」
「でした!」
グラスに注がれたブドウジュースで乾杯をした。シャンパンにしなかったのは、八代が下戸であることも理由だが、明日は土曜日。今日ほどではないが、クリスマスケーキの需要があるからだ。
それでも、今日が終われば、ケーキ屋のクリスマスはほぼ終了に近い。蒼衣はグラスを仰いだ。
まずは八代が遅れたことを謝りつつ、園での子どもたちの様子を話した。どの子も魔法効果を楽しんでいたこと、また食べたいと言ってくれたことを聞いた蒼衣は、それだけで今日の疲れが吹き飛びそうになった。自分でも現金だとは思うが、やはりお客の生の声はうれしい。
その次は、純粋な数字の話が続く。あの三人が売り子に入ったことにより、当初予定していなかった追加分を作ることができ、売り上げは予定を上回ったらしい。
「おばあちゃんたちがいてくれて、本当に助かった。八代といい、おばあちゃんといい、僕はいろんなひとに助けられてる。でも、どうして助けてくれるのかな」
蒼衣がしみじみと言うと、八代は「実は逆かもしんないぞ」と返した。
「どうして?」
「ばーちゃんたちも、蒼衣にかまうことで人生謳歌してるのかもな。今こそおまえにベタベタして元気だけど、自分たちの店を譲った直後は元気がないときがあったんだ。自分の子どもとはいえ、商売のやりかたが昔と今と変わっちまって、口が出しづらいんだろ。そこにウチができて、目先が変わったっつうか、暇つぶしされてるというか」
八代の実家が軒を連ねる商店街は、世代交代の真っ最中である。一度は寂れてしまった商店街を活気づけようと、新しい世代――彼女たちの子どもや孫――ががんばっている。
しかし、長年商売をしてきた彼女たちにとって、人生の一部とも言えるそれを手放したときのむなしさやさみしさは、いかほどだっただろうか。今日、普段とは違ういきいきとした姿を見た蒼衣は、なぜ彼女たちが店を手伝ってくれたのか、その疑問が少しだけわかった気がした。
「まあ、単に遊ばれてるだけかもしれないけどな」
「どうなんだろうね」
真実は当人たちにしかわからない。
しかし、経緯がどうであれ、とりあえず今年は無事に終わった。それを締めとして、反省会は終了した。
外に出れば、十二月の冷たい風が変わらず吹いている。しんと静まり返る店の裏口前で、蒼衣と八代は立っていた。
「じゃあ、また明日」
そう言っていつものように手を振る八代を、蒼衣はぼんやりと見ていた。
クリスマスイブの夜、冷たい風の中、空にはオリオン座が輝く下で、八代が第二駐車場に向かっている。その足取りはふらふらとして、疲労がたまっているのが見てわかる。それはそうだろう。八代も昨日からロクな休息を取っていないのだ。
そう思った瞬間、蒼衣は衝動的に走り出した。名前を呼ぶ余裕もなく、腕をつかむ。うわっ、と八代が驚いた声を出す。
「蒼衣?」
「車は、やめておいたほうが、いい」
息を切らせながら、蒼衣はうつむき、絞り出すような声で言った。
「え?」
「八代、疲れてる、だろ。もし、事故にでも遭ったら。今日は僕のところに――」
泊まれよ、と言おうとして、蒼衣ははっとしたように顔を上げた。
「ごめん、お節介だった。家、帰らないといけないのにな。だって、良子さんも恵美ちゃんも、八代の……パパのことを待ってる」
思えばそこまでの悪天候でもない。八代の家までは車で十五分もあればつく。住宅街とはいえ、街灯はたくさんあり、比較的明るい道ばかりだ。しかも、八代は蒼衣よりも運転の経験が豊富だから、運転できる体調かどうかの自己判断もできているだろう。
なにより、クリスマスの夜に家族が待っているのだ。
九年前の蒼衣とは状況が違う。過去を思い出して勝手に不安になっているのは、自分だけだ。
腕を放そうとした瞬間、八代が「あ」となにか思い出したような声を上げた。
「忘れてた。今日は家に誰もいないや」
「……へ?」
「言うの忘れてたんだけど、ヨッシーと恵美、今日はヨッシー実家にクリスマスパーティでお泊まり。あっちのじいじとばあばが張り切ってるんだとよ。ってことで、誰もいない家に帰るのも寂しいので、蒼衣んところ泊まらせてくれや」
「えっ!?」
「どーせ明日も早朝から仕事なんだし、好都合、好都合。あ、風呂に入らせてくれ。そういえば昨日から入ってないし」
くるりときびすを返して、八代はマンションへ戻り始めた。蒼衣は慌ててその後を追いかける。予想外の展開に、蒼衣は混乱していた。
「へ、部屋、散らかって」
「そんなの知ってる。昔っからだろ」
「布団とかどうすんの」
「引っ越しのとき、こっそり置いてった俺の布団がある」
「はあっ!? いつの間に!?」
引っ越し作業が面倒で、なにからなにまですべて八代にまかせていたのが原因だったのかと、蒼衣は今更ながら後悔した。
店のオープン前に引っ越してきたが、開店準備に忙しく、開店しても日々の仕事に追われる日々が続いたため、自室のことを気にかけていなかったのだ。たぶん、一度しか開けたことのない押し入れにあるのだろう。
「こんなこともあろうかと」
「僕の許可なく!?」
「おやおや親愛なる友人よ、このアパートの大家が誰だか忘れたのかい」
たどり着いたアパートのエントランスに書かれているプレート『アパートあずま』を指さし、八代は言った。
このアパートの大家は、蒼衣の目の前でニヤニヤと笑う親友、東八代である。八代はピロートの経営と同時に、不動産の管理もしているの。ここの他にも建物を持っているとかいないとか、という話をされたことを思い出した。
「……そういえば大家様でしたね、君は」
脱力した蒼衣がこぼすと、八代は「そうなんです」と妙に偉そうに返した。
「では、今晩お世話になりますぅ」
「はいはい」
ふざけながら階段を上っていく八代を、蒼衣も追いかける。蒼衣の部屋は最上階の三階にある。ドアまでたどり着き、蒼衣が鍵を開けている後ろで、八代が小さな声でひとりごちた。
「……蒼衣が止めてくれなかったら、家に帰れてたかどうか、わかんなかった。実はそれくらい疲れてるんだ。ありがと」
「昔、やらかしてるからね、僕は」
蒼衣は振り向かず、ぽつりとつぶやく。それに対して、八代も静かな声で「そうだったな」と返した。
「おまえが生きててくれてよかったよ。あのときも、あれからも」
九年前のこの日、蒼衣は仕事帰りに自動車事故を起こしている。物損だけで命に別状もなかったが、それ以来、蒼衣は車を運転できなくなった。
事故をきっかけに、蒼衣の人生は大きく変わった。あれからも、という八代の言葉に、蒼衣は薄い笑みを浮かべる。
見失ったり、逃げたり、挙げ句の果てには死のうとしても――蒼衣は結局こうしてお菓子を作っている。君のおかげだよ、八代。心の中だけでささやいておいた。
かちゃり、と鍵を開く音が響く。蒼衣は振り向き、八代を手招いた。
「さあ、今日は早く休まなくちゃね。お風呂先でいいよ」
「あれ、布団に入って『なあなあ、好きな子いる?』って話すんじゃねえの?」
「しません!」
「俺はヨッシーって子が好きって話をしようと思って」
「のろけはいいよ、早く寝ろ!」
すっかりいつもの調子に戻っていた八代に呆れながらも、蒼衣の口元には笑みが浮かんでいた。
「勝負だ!」
平日の夕方、突然飛び込んできたのは、男子高校生二人組だった。やんちゃそうな背の低い、刈り上げの少年と、反対におとなしそうな背の高い、眼鏡の少年だ。
「この店で勝敗が決まる、わかってるよな」
「ああ。ここが最後だ」
二人が同時にショーケースをのぞき込んだ。ケーキを選びに来たというよりは、なにかの戦いが始まりそうな雰囲気が漂っている。ケーキを出すために店に出ていた蒼衣は、八代と顔を見合わせた。
しばらくショーケースを物色していた彼らは、ほぼ同時に指を差す。
「これだ! プリン、ください! ここで食べていきます!」
「へえ。君たちのクラスでプリンの堅さ論争が起きたの? それで、彩遊市のケーキ屋を巡り巡って、そこのプリンが固めが多いのか、柔らかめが多いのか調べてるって?」
二人がなぜプリンにそこまでこだわっているのか。理由を尋ねると、彼らはそれはそれは熱く蒼衣に語ってくれたのだった。
発端は、くだらない雑談だったという。しかしそれが次第にエスカレートし、決着をつける雰囲気になってしまった。もともと、彼らが始めた話題だったらしい。責任を取るために、放課後や休みを利用してケーキ屋巡りを一ヶ月もしていることに、蒼衣は驚いた。
高校二年生ってそんなに暇だったっけ、と心の中だけで思う。
「そうなんスよ! 俺は絶対柔らかめ派なんですけどね。このお店でラストっス」
「今のところ、クラスの投票もお店でも引き分けなんです。あ、僕は固め派です」
向き合って喫茶の机に座った男子高校生――背の低いほうが佐藤、背の高いほうが鈴木だ――が語った。
「じゃあ、うちの店がどちらのプリンなのかで、勝負が決まっちゃうんだねえ」
そう言いながら、蒼衣はプリンをそれぞれ目の前に置く。すると、二人とも真剣な目でプリンを凝視し始めた。しばらくすると、まずは鈴木が口を開いた。
「僕の見立てでは、こういう小さな町のお菓子屋さんは、昔ながらの固めタイプが多いと思うんですよね」
「昔ながらのっていうけど、この店は新しいだろ。それに、これはおっしゃれ~な瓶に入ってる。だいたいそういうのは、流行の柔らかいもんが多いんだよ」
「見た目で判断してはいけませんね、佐藤くん」
「うるせえ、てめえも店の見た目で判断してんじゃねえかよ。難しいことはどーでもいい、プリンは柔らかいほうが美味いんだよ!」
「僕のは予想です。あと、プリンは固めが至高です。まあ、君のようなお子様の舌ではわからないでしょうが」
「うるせえ、さりげなく俺を馬鹿にすんなトーヘンボク! この頭でっかち!」
プリン一つでここまでののしり合えるのは不思議でもあるが、思い返せば高校時代は、こんなくだらないことでずっと話ができたこと。それを思い出した蒼衣は、しばしの感慨深さを感じた。
しかし、ここは夢と甘さを売るお菓子屋である。あまり険悪な雰囲気でお菓子を食べては欲しくない。
「まあまあ、とりあえず、食べてみてよ。そうじゃないと、決着つかないでしょう?」
あくまで穏やかな蒼衣の言葉に、二人とも我に返った。
「じゃあ、いざ実食!」
二人同時にスプーンがプリンをすくう。佐藤に至っては「うおおおお!」とまるでアニメか漫画の主人公のような雄叫びを上げている。ごく普通にプリンをすくった鈴木が「いちいちうるさい。もっと静かに食べてくれないか」と苦言を言うが、佐藤は「対決の雰囲気ってもんがあるだろ」とどこ吹く風のようだ。
やはり同時にプリンを口にする。ほどなくして、鈴木は瞬きをし、すぐに口元に笑みを浮かべた。勝利者の笑みだ。
「フフフ、佐藤くん、やはり僕の予想通りだったね。このしっかりとした食感、卵の強い風味がたまらないよ」
「くそっ……! 勝負あった、か……」
スプーンをくわえたまま、佐藤は大げさに嘆く。絶対柔らかいと思ったのに、とぼやきながら、机に力なく突っ伏した。
「ご愁傷様」
鈴木は、佐藤のオーバーリアクションを冷ややかな目で眺めるている。
近くでそれを眺めていた蒼衣には、二人の気持ちが伝わってくる。佐藤はまさに態度通りの『悔しい』気持ちだ。気持ちと行動に裏表のないタイプなのだなとわかると、あの口の悪さもかわいく思えてくる。
対して、鈴木はというと、なぜか『残念』という気持ちで、蒼衣はひそかに首をひねる。あれだけ固いプリンを支持し、佐藤を論破すべく語っていたのに、だ。
「まあ待ちたまえ、若人よ。まだ勝負は終わっちゃいないのさ」
ぽん、と佐藤の肩に八代の手が置かれた。え? と顔を上げた佐藤に、八代はニィ、と笑った。それが高校時代の彼とかぶって見えて、蒼衣は時が経ったことを実感する。
「ソースがついてるだろ。その小瓶。かけてみて食ってみろ」
二人は、プリンの隣に置かれている小瓶の存在に気がついたようで、あっという顔をした。そういえば蒼衣も、二人の話を聞くことに夢中で、魔法効果を説明していなかった。
小瓶には特製のカラメルソースが入っている。これこそが、プリンの魔法効果を決定づけるものだ。
二人は半信半疑で小瓶のソースをかけ、口に運ぶ。すると、二人の表情が変わった。
「ん、ん、んんーー!?」
「これはっ!」
二人がスプーンを持つ手を震わせる。
再度プリンをすくった鈴木のスプーンから、先ほどまでしっかりとした堅さだったプリンが、攪拌もしていないのにとろりとこぼれる。
「なんで……柔らかく……?」
信じられない、といった顔のままの鈴木をよそに、佐藤は歓喜の表情で二口目を食べていた。
「うめえ、うめえよう。この、とろーっとした感触! 甘さが口の中いっぱいに広がるぜ、このほろ苦いソースがまたなかなか合う! でもなんでいきなり柔らかくなったんだ?」
「このプリンの名前は『お好みプリン』プリン自体は昔ながらの固めのカスタードプリンなんだけど、ソースに『やわらか草』っていう花の蜜を使っているんだ」
「やわらかそう……?」
「魔力含有植物の一種でね。食材を柔らかくする作用があるんだよ」
「魔力? え、これ、魔法菓子!?」
「ごめんね、説明するタイミングをはずしちゃって」
魔法菓子だということがわかり、佐藤は「俺初めて食べた! すげえ!」と興奮した様子を見せた。鈴木も「僕も初めてだから、びっくりした」と言葉は冷静ながらも驚いているようだ。
「俺、プリンがあるかどうかしか気にしてなかった。じゃあさ、このプリン、結局これはどっちになるんだ?」
佐藤の疑問に、鈴木もはっとする。
「これは……引き分けだな」
フフ、と不適な笑みを浮かべて鈴木は言った。
「引き分けー!? なんだそれ!」
スプーンを持ったまま抗議する佐藤に対し、鈴木は冷静だった。
「そのまま食べて固く、ソースをかけると柔らかくなるなら、どちらにも分類できない。これは判定不可だ」
「ま、仕方ねえか。確かにこれはどっちだって言えねえ。そうだ、俺、トイレいってくるわ」
存外あっさりと納得した佐藤を見送り、鈴木はフッと息を吐く。
「勝負、つかなかったね」
蒼衣が話しかけると、鈴木は「本当は、僕はどうでもいいんですけど」と言った。
「あいつ、いつもあんな感じなんです。どうでもいいことだけには一所懸命で。もうすぐ高校三年なのに受験のことすら考えてない。まったく、時間は限られてるというのに。頭の中は自分の興味があることだけでいっぱいだ」
ため息交じりに話す鈴木の気持ちが、蒼衣に伝わる。呆れの中に入り交じるかすかな『安堵』はなんなのか、蒼衣にはわからない。
先ほどもそうだった。なぜ、彼が固いプリンだとわかったとき、落胆していたのか。
「それにしては、きちんと付き合ってあげてるように見えるけど」
試しに、尋ねてみた。すると鈴木は、プリンの瓶のふちをゆっくりなでながら、ぼそりと言った。
「こんなことできるのも、あと少しですから。うちは工業高校で、就職するやつ、大学行くやつ、バラバラなんです。僕は大学に行きたいけど、あいつは就職する気みたいで。今くらいは、馬鹿なことに付き合ってやろうって」
うつむいた鈴木から『さみしい』という気持ちが伝わってくる。
もしかして、勝負がつきそうになって落胆したのは『馬鹿なこと』に付き合えなくなるからだろうか。だから、このプリンが柔らかくなるとわかったとき、安心したのかもしれない。佐藤という子の直情的な性格なら、ここで勝負は終わらないだろう。
冷静に見える鈴木の隠れた不安は、蒼衣にも覚えがある。思えば蒼衣も、八代と進路が別れたときは、一抹の不安を抱いたものだった。
「すみません、なんか、変な話して」
いいんだよ、と蒼衣が首をふる。
「たかがプリン、されどプリン」
そのとき、節をつけて歌うように八代が言った。
「八代?」
「少年、案ずるな。あれだけプリンひとつで言い合いできるんだったら、五年後もそうしてると俺は予言する」
「え?」
自信に満ちあふれた八代の態度に、鈴木は声を上げる。
「この、ふんわりぼや~っとしてるパティシエとは高校からの付き合いでさあ。俺らもプリンの固いのやわらかいので一晩中討論したことあるぞ」
ふんわり云々の部分に抗議したかったが、それよりも、討論をしたことがあったのかと蒼衣は慌てて記憶を探る。
「おまえが専門学生のときよくあったろ。持って帰ってきた実習のプリンやら有名店のプリンとかを食べあさって、あーだこーだぐだぐだ朝まで語ってさ」
八代の言葉で思い出した。専門学生時代は、実習で持ち帰ったケーキや、勉強のために買ったケーキをを八代と共に食べることはよくあることだった。
結局、お互いの学校が名古屋市内だったのをいいことに、蒼衣と八代の付き合いはさほど高校時代と変わらなかったのだ。その後一時期、蒼衣のほうから離れてしまったことはあれど、いろいろな出来事の末、こうして一緒に店をやっている。まさに八代言うところの腐れ縁である。高校時代に抱いた不安など、今思えばかわいいものだった。
「よく覚えてるねえ」
「まあ、腐れ縁だし」
鈴木はその話を、羨望の色が含まれた目で眺めていた。
すると、佐藤がトイレから戻ってきた。
「あれ、みんなでなんの話してたの? 俺だけハブ? ずるい!」
鈴木は先ほどの感情をすっと消し、無表情になる。
「お店のひとの話を聞いてただけだ、佐藤。ところでさ、プリン対決、これからどうすんの」
「これから? んー……」
席に座った佐藤は、ソースをたっぷりかけた柔らかいプリンを味わいながら、なにかを考えだした。やっぱこれめっちゃうめえ、と言う佐藤を視線から外し、鈴木はつぶやく。
「こんなこと、もう続けなくてもいいじゃん」
言葉だけは無関心を装っているが、その気持ちの中に『拗ねた』ものを感じた。おそらく言葉と気持ちは真逆だろう。
しかし蒼衣はわかっていた。佐藤の気持ちは、彼を裏切らないことを。
顔を佐藤から背けた鈴木と、蒼衣の目が合う。不安げな顔が、過去の自分と重なった。
「――大丈夫だから」
そう思うと、自然に言葉が口をついて出た。
安心させたいのは鈴木なのか、過去の自分なのか。ほんの少しだけそんなことを考えながら、蒼衣は薄く笑みを浮かべる。
「え? それは、どういう」
蒼衣の言葉の意味を鈴木が問う前に、佐藤が「鈴木よう」と声をかけた。
「勝負はまだついてねえよ。ってことで、来週は名古屋に遠出しようぜ」
「え? ……は?」
「っていうか、トイレで考えてたんだけど、勝負うんぬんよりも、誰かとこうやってケーキ食べに行くのが楽しいんだよな。ケーキにもいろいろ違いがあるわけじゃん? それをあーだこーだいうの楽しくない? だから今後はプリンだけではなく、ほかのものもやってこうぜ!」
勢いのある佐藤の様子に、鈴木はあっけにとられた顔をする。完全に混乱しているらしい。うれしいと思う気持ちと、呆れる気持ちとが入り交じっている。
「佐藤……おまえ、就活……」
「ああっ、それがあった! やっべ忘れてた! 頭の中からきれいさっぱり消えてた!」
それを聞いた鈴木は、盛大なため息をもらした。就活を忘れる高校生・佐藤に、蒼衣と八代は苦笑を浮かべる。
「本当に君は馬鹿だな。それに、高校生の財力でそんなに巡れるとでも?」
「就職すればもっと金が手に入る。そうしたらもっと店に行ける」
「ちょっと待て、おまえ就職してもこんなこと続けるつもりか!?」
「楽しいだろ。あ、そっか。鈴木は大学行くんだよな。いいぜ、社会人の俺様ががっぽがっぽ稼いでおごってやろうじゃないか」
「君におごられるなんて屈辱そのものだ」
「なんだとこのやろ! そーだ、おまえのにもソースどばどばかけてやる」
「あっ、こら、止めろ。ソースはかけずに味わいたまえ!」
気兼ねない言い合いに発展した二人を眺め、蒼衣と八代は肩をすくめた。
***
「あの」
支払いを終えた鈴木は、上品な革製の財布をもてあそびながら、少し声を潜めた。
「あなたがさっき“大丈夫だから”って言った意味、わかりました」
「そっか」
言葉少なく蒼衣は答える。
「不思議なところですね、ここは。お店も、お菓子も、そしてあなたも」
「魔法菓子店、だからねえ」
日常の中の、ほんのちょっとの非日常。すると、見えていなかったものが見えたり、感じられたりする瞬間がある。この店には、そんなことがあってもいいのではないか。
鈴木が佐藤を見やる。佐藤はショーケースの前で、八代の説明を楽しげに聞いている。
「俺、社会人になったら、ここのケーキ買い占めますぜ!」
「おうおう、どんと買え! 働け少年、稼げ少年!」
三十一歳と十七歳が意気投合しているのがおかしくて、蒼衣から苦笑がこぼれる。すると、隣にいる鈴木も同じように笑っていた。
「……柔らかいプリンも、美味しかったです」
「ありがとう。勉強に疲れたら、いつでもおいでね。二人でも、友だちを連れても、もちろん一人でも」
はい、と答える鈴木の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
わあい、僕の魔法菓子! 弾んだ子どもの声が『魔法菓子店ピロート』の店内に響く。
「僕ね、六歳になったから魔法菓子食べるの! だから、このケーキ僕のなの!」
満面の笑みでケーキの箱を抱える幼い子どもは、カウンターに立つ蒼衣と八代にうれしそうに言う。
ケーキの箱を大事に抱える子どもを眺めたのち、二人はほぼ同じタイミングで微笑みを向けた。
「お誕生日おめでとう。家族のみんなで、楽しんでね」
蒼衣は目を細め、穏やかな笑みを浮かべる。誕生日ケーキを渡すときの醍醐味は、お客のうれしそうな顔を見たときだ。
「初めての魔法菓子がうちのケーキでよかったな、ぼうず! ここのケーキは世界一おいしくて楽しいぞ!」
「ほんと?」
「ホントのホントだ、おっちゃんは嘘つかないぞ」
カウンターから出た八代は、子どもの前でしゃがんで肩をたたいた。歯を見せて笑う姿は、目の前の子どもと変わらない無邪気さであふれている。子ども慣れしている八代の姿を見た蒼衣は、さすが一児の父は違うな、と思わずにいられない。
「うわーい! お菓子屋のおじちゃんたち、ありがとう!」
こら、お兄さんたちでしょ、という母親の声などおかまいなしに喜ぶ子どもの様子は、微笑ましい。
ありがとー、と手を振って帰る後ろ姿を見送り、二人はカウンターの中に戻った。
「やっぱり誕生日ケーキっていいよな。特にデコレーションのホールケーキ! 特別感半端ないんだよな。子どもに魔法菓子を食べさせ始めるのも五、六歳の誕生日からって人が多いし、需要があってなによりなにより」
レジ横のホールケーキ予約ノートをめくり、お渡し完了のチェックを入れながら、八代は言った。
一般的に、魔法菓子は『ハレの日』に使われることが多い。ピロートの魔法菓子は、日常的に食べてもらえるカジュアルなものがメインだが、特別な日のケーキにも力を入れている。
可能な限りお客様の要望をヒアリングし、理想のケーキを作る、オーダーメイドのホールケーキ。それは、魔法菓子だからこそできることだった。
ショーケースの中には、今日お渡し予定のホールケーキが並んでいる。どれもお客様の要望をできる限り実現させた、大切なものばかりだ。
残っているのは、きれいなワックスペーパーで包まれ、中身の見えないケーキ。サイズが大・中・小と違うが、同じ種類のものだ。
蒼衣は八代の持つノートをのぞき込む。予約者の欄に並ぶ「間宮《まみや》紗枝《さえ》様」「間宮壮太様」「間宮梨々子様」の名前――三人とも同じ『バルーン・バースデー』を注文している――を見た蒼衣は、少し緊張した面持ちになった。
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どうしてこんな人と結婚してしまったんだろう。間宮紗枝の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
布団のそばに置かれた脱ぎっぱなしの服や、つけっぱなしの電気、そのたびに紗枝の頭を駆け巡り、そのたびにとげのある言葉が口をついて出る。
自分の服がなんで洗濯物かごに入れられないの、電気くらい消してよ。ほんと、ダメなひと! ひとしきりヒステリックに叫べば、露骨にイヤな顔をして無視を決め込む夫に、さらに怒りが増す。
休日、自分の機嫌のいいときに子供の相手をするだけで「いい父親」ぶった顔をする夫が憎たらしくてたまらなかった。
少し前まではここまでではなかった。一応恋愛結婚なのだし、それなりに仲良くやってきたはずだった。しかし、夫の仕事が忙しくなり、専業主婦だった紗枝もパートの仕事を始め、若干環境が変化したことも原因かもしれない。
さらに紗枝を怒らせたのは、十歳になる娘の誕生日になにをするか、すっかり考えていなかったことだった。ずいぶん前からケーキはどうしよう、プレゼントはなにがいいか、どんなご馳走を用意しようか。そう話を持ち掛けても、仕事が忙しいだの今日は疲れただのと言い訳ばかりで、話にならない。
確かに、生まれたばかりの頃より盛り上がらないのは、紗枝にもわかる。しかし、小学生の娘は、今でも誕生日を心待ちにしているのだ。
娘が生まれてからだんだんと少なくなっていった夫婦の会話が、完全に途切れたのは一週間前だった。母としての連絡事項は話しても、それ以外では口を利かなくなった。顔も見たくなくて、視線もそらしてしまう。それは、娘の誕生日一週間前になっても変わらなかった。
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なんであんなのと結婚してしまったんだろう。間宮壮太の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
疲れでうっかり放置してしまった服で小言を言われ、消し忘れた電気をこれ見よがしに消されたりしただけなのに、鬼の首を取ったように騒がれるのは、壮太にとってストレスそのものだった。
子供の前で喧嘩する姿を見せたくないので黙るが、それでさらに怒るのだから手に負えない。
だからせめて、壮太は体の調子のよいときには娘の相手をして頑張っていた。しかし、嫌味たっぷりに「あなたは本当に調子のいいときだけ、いい父親やってるのね」と言われれば、やる気がそがれてしまうのだった。
ついに妻を怒らせたのは、十歳になる娘の誕生日のことだった。運悪く仕事の繁忙期と重なり、家で話をするのもおっくうだった。疲れて重たい頭で、妻の金切り声を聞くのはとても辛い。
正直なところ、生まれたときは子どもがいることが物珍しく、一通りの行事を張り切って行った。しかし、さすがに十歳ともなると、感慨が薄くなったのは否めない。
そして普段から少なかった夫婦の会話が、完全に途切れたのは一週間前だった。父としての連絡事項は話しても、それ以外では口を利かなくなった。顔も見たくなくて、視線もそらしてしまう。それは、娘の誕生日一週間前になっても変わらなかった。
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「ですからね、間宮さん。いい加減、こんなことで間違えないでください」
五十代の食品課係長は、紗枝のことを見ずに言い放つ。コツコツコツ、と事務机を叩く音が煩わしい。
勤務途中に係長に呼び出され、数日前に起こしたトラブルとミスについて説教されてから、すでに十五分が経っていた。
「申し訳ありません」
「もう入って半年ですよね? 普通はとっくにできることなんですよ、レジの打ち直しなんて。それでモタモタして、お客様を怒らせてクレームを増やすなんて。もういいです、仕事に戻ってください」
「はい」
クレームの発端であったレジの打ち直しは、めんどくさいクレームを付けたお客のもので、対応にとても苦労したものだったのに。事務室から出た紗枝は、口まで出かかった文句をすんでのところで飲み込んだ。
店に戻ると、同じ係の同僚たちがを無表情で紗枝を見て、そしてなにも言わずに仕事に戻った。
(他人のミスのフォローなんてどうでもいい、ってことね)
紗枝も同じように無表情で「ご迷惑かけました」と一言いうだけで、自分も仕事に戻る。
百貨店の食品売り場のパートを始めて半年。個人経営店とは違う、複雑な仕事の仕方に慣れてきた矢先のミスだった。始めは大きいお店で女性が多く、気楽かと思ったが、入ってみれば責任の押し付け合いとなれ合いの世界で、紗枝の神経はすり減っていった。
(みんな私のことなんて、どうでもいい。そうよね、そんなもんよ。だいたい、あの客に怒鳴られてるときだって、だれも助けてくれようとしなかった)
家でも職場でも、だれも助けてはくれない。大人としてはあまりにも子供じみた恨みを、紗枝は腹の中に閉じ込めることしかできなかった。
「お先に失礼します、お疲れさまでした」
型通りのあいさつを通りすがる従業員に言いながら、紗枝は従業員出入り口を出た。今日は娘の学校が六時間目まであり、家事などの雑務をしても、自由になる時間が少しある日だった。
(そうだ、梨々子の誕生日ケーキを選びに行こう)
紗枝はそう思い、スマホで近くのケーキ屋を調べ出した。職場にもケーキ屋はあるが、職場で居心地の悪さを感じている紗枝としては、プライベートで使いたいとは思えなかった。
誕生日ケーキ、子ども、などキーワードを入れて検索すれば、近くにあるケーキ屋が候補に挙がる。しかし、どこも一通り利用したばかりの店で、面白味が感じられない。そんな中一軒だけ、見たことのない店があった。
「魔法菓子店、ピロート?」
(そういえば、梨々子にはまだ魔法菓子を食べさせたこと、なかったわね)
魔法菓子のような高価な嗜好品は、庶民の自覚を持つ紗枝が買うことは稀だった。最後に食べたのは、友人の披露宴でのデザートだっただろうか。なんだかキラキラしていた印象がある。
店の数も普通のお菓子屋に比べれば少なく、こんな地方都市にあることすら、珍しい。
店名を検索して、口コミサイトを見る。四、五ヵ月前にできたお店らしいが、比較的好意的なコメントがついていた。品数は少なく、売り切れることもあるが、魔法菓子なのに安価でおいしい。店員さんが親切で、理想のケーキを作ってくれた、実はパティシエがとんでもなく優しいイケメンだ……などなど。職人がイケメン、は口コミとしていかがなものかとは思いつつも、優しくて親切ならば、行ってみてもよいだろう。
地図を見れば、商店街に近い住宅街の中にあり、自宅からもそこまで遠くはない。帰り道に寄っていけるとわかった紗枝は、足早に駐輪所へ向かった。
『魔法菓子店 ピロート』の看板が掲げられていたのは、単身者用アパートの一階部分だった。
パステルカラーの青と白、優しい木目で統一された親しみやすい外観に、入りにくそうな高級店を想像していた紗枝は安堵する。
ドアを開ければ、洋菓子屋特有の甘い香りが満ちていた。
内装も外装と同じ配色で、小さめのショーケースには、生菓子が五、六種類。横には、焼き菓子のディスプレイがあり、マドレーヌやパウンドケーキ、クッキーなどが綺麗にディスプレイされていた。
(ふうん、魔法菓子っていっても、見た目は普通のお菓子屋さんと変わんないのね)
もっと神秘的で、不思議な場所かと思っていた紗枝が雰囲気に拍子抜けしていると、「いらっしゃいませ」と、コック服を着た男性に声をかけられた。人の好さそうな笑顔に、店に入る前のささくれ立っていた気分が和らいだ。
それに、きれいに並んだケーキは色とりどりで、おいしそうだ。
ショーケースの商品説明には、魔法菓子らしい不思議な効果が書かれていた。いわく、ドーム型のチョコレートケーキには「星が浮かびます」音符の描かれたロールケーキは「声が変わります」カラフルなカップケーキは「変装できます」といった具合だ。
(本当かしら?)
魔法菓子のことをよく知らない紗枝は、思わず小首をかしげる。
「お客様、アレルギーや、魔力アレルギーがなければ、ご試食はいかがですか? 金のミニフィナンシェと銀のミニマドレーヌです。どちらがよろしいでしょうか」
いつの間にか、紗枝の隣にはパティシエらしき男性がいた。両手にそれぞれ、金の光を放つフィナンシェと、銀の光を放つマドレーヌが乗った皿を持っている。
「光ってる。これ、どんな魔法が?」
まじまじと見つめ、期待に胸を膨らませながら、紗枝はパティシエに尋ねた。
「たまに、中身から金や銀の粒が出てくることがあるんです。運試しのようなものですね」
紗枝は金のミニフィナンシェを一粒つまむと、半分に割った。中にはなにも入っていない。
「残念でしたね。マドレーヌならどうでしょう」
どちらか一つだけだと思っていたら、パティシエが手のひらにマドレーヌを載せてくれた。どうぞ、と促されたので、同じように割ってみる。
「ああ、これもダメ……ツイてないわ」
なにも入っていない断面を見て、紗枝は思わずぼやいた。せめて食べてしまおう、と口に入れれば、レモンの皮のさわやかな香りと甘さが口いっぱいに広がった。ふんわりとやわらかい生地の感触も優しく、おいしい、と素直な気持ちが口をついて出た。フィナンシェを食べると、こちらはマドレーヌよりも濃厚なバターの風味と、どこか甘く酔うようなバニラの香りがした。少しざらりとした生地のしっとりとした感触も、マドレーヌとは違う味わいだ。
スーパーで買う安い袋菓子とは違う『お菓子屋の焼き菓子』のおいしさに、紗枝の頬がゆるむ。
「どちらもおいしかったです。金や銀が出なくても、これはこれで満足です」
するとパティシエは目を細め、口元をほころばせた。ひとを安心させるあたたかな笑みと、几帳面に頭を下げる様子から、彼の真面目さが伝わってくる気がした。
「そういえば、お客様は熱心にショーケースをご覧になられていましたね。なにか、お探しの品物がありましたでしょうか」
「あの、子どもの誕生日ケーキをと思いまして」
パティシエの穏やかな声音に問われるまま、紗枝は詳しく事情を話した。十歳になる娘のために、初めての魔法菓子を用意したい。すると「過去お受けしたオリジナルケーキの写真がありますので、ご参考になれば」と写真ファイルを見せてくれた。華やかなケーキの横には、魔法効果の説明も書かれている。
花のケーキには『ナイフを入れると、ドラジェが花開きます』かわいらしい人形が飾られたケーキには『人形たちが動きます。音楽をかければ踊りを見せてくれます』
(いろいろなものがあるのねえ)
どれもこれも面白そうだと思ってみている中で、紗枝は一つのケーキに目を止めた。それは他の華やかなデコレーションとは違い、包装紙で全体を包まれていた。
『バルーン・バースデー』と名付けられたケーキだった。説明文には『飴細工の風船を割ると、食べられる小さな風船マシュマロが飛び出し、一定時間宙に浮かびます』
それを見た紗枝は、梨々子が小さいころ、風船で遊ぶのが好きだったことを思い出した。
(そう思うと、ずいぶん大きくなったのねえ)
風船とじゃれあって歓声を上げる梨々子の思い出がよみがえり、紗枝は感慨深げになる。
「これ、面白そうですね」
包装紙で中身が見えないのが、面白そうだった。びっくりして喜ぶだろう梨々子の顔が、紗枝の脳裏に浮かぶ。
(パパが忘れてる分、わたしがちゃんと祝ってあげなくちゃ。梨々子がかわいそうだわ)
夫婦の関係がこじれていても、子どもにはせめて『親』でありたい。
早速これを注文することを告げると、娘に魔力アレルギーがあるといけないとのことなので、娘の試食用にミニマドレーヌを一つもらった。もしアレルギーがあれば、魔法菓子ではない普通のケーキも作ることができるし、キャンセルもできるらしい。
注文を終えた後、パティシエは「お嬢さまへの初めての魔法菓子、心を込めて作らせていただきます。大切な思い出になるように」と笑顔で言ってくれた。その微笑みはテレビの中のイケメン俳優に劣らぬきれいさで、口コミサイトの書き込みを思い出し、年甲斐もなく胸が高鳴る。
「よ、よろしくお願いします」
商売文句だとはわかっていても、今の紗枝にはその言葉が心強く思えた。だれかが自分の願いの為に心を砕いてくれる。とても、うれしく感じたのだった。
帰り道、紗枝は接客してくれたパティシエを思い出す。あの笑顔は、どのお店でも見たことのない、魅力的なものだった。
(心からだれかの幸せを願ってるんだ。きっといいひとなんだろうな。私とは違って)
同じ接客業の自分と比べ、紗枝は自分の不甲斐なさに落ち込む。
(仕事熱心なんだわ)
仕事熱心、という言葉が浮かぶと、今度は毎日仕事に明け暮れる夫を思い出した。
(あの人が疲れてるのも、仕事が忙しいからなんだろうな)
結婚前からの付き合いだから、壮太の性格は知っているつもりだった。仕事に真面目すぎるのに、疲れや不満はなかなか言葉にできず、うまく自分の中で処理できない性格だと。
(私の前ではプライドが高くて、弱音が吐けない。ほんと、どうしようもない人)
壮太の扱いの難しさや、仕事に真面目になれない自分の気持ちがぐちゃぐちゃになって、紗枝はせっかく浮いた気持ちが沈んでしまったように思えた。