『テンジクアオイ』が、ゼラニウムという花の和名だと隼が知ったのは、中学二年のとき。
当時の文通相手の名が「てんじく あおい」だったのがきっかけだ。
名前の漢字もやりとりの内容も、今となってはよく覚えてはいない。
ただ。
「花と同じ名前でキモいといじめられています」
走り書きの末尾が、若干にじんでいたのが印象的で。
三十四歳になった今でも、時折隼の脳裏に浮かぶのだった。
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冬の土曜日午後、昼食を終えた隼は暇を持て余していた。
十八時から、趣味仲間との飲み会がある。地方に散らばる仲間が集まるのは珍しい。
隼の趣味は、オリジナル小説を書くこと。集まる仲間はジャンルは違えど、皆小説書き。隼は同人誌頒布のオフライン活動が主だが、オンラインノベル、二次創作、中には、商業デビュー済みのプロもいる、多種多様な集まりだ。
SNSのタイムラインを眺めていると、仲間の名古屋観光の様子が流れてきた。それを見た隼は、今日彼らと顔を合わせることができるのか、不安になる。
今、春のイベントに向けた新刊を構想中だが、プロットすらできあがっていない。
もやもやとした感情を払拭するために、重いため息をつく。
仲間と出会ったのは十代の頃。頒布数や閲覧数が一桁の同士が繋がり、今の関係に到った。
月日は流れ、人気オンラインノベル作家、二次創作の壁サークル、商業デビューと、華々しい舞台に立つ仲間が増えてきた。
隼はいつまでたっても、ただのアマチュアのまま。
だが、交流が好きで、縁だけは保ってきた。仲間の作品の話をするのも、応援も、隼にとっては大切なことだ。
しかし。心のどこかで、手が遅く、目を引くアイディアが浮かばない自分と周りを比べてしまう。
再度、ため息をつきそうになったそのとき。RTで流れてきた、とある投稿が目に止まった。
『TLの皆……この魔法菓子のお店……ささやかで不思議な魔法が体験できます……私はここで……春の原稿のプロットが三本も浮かびました……おいしいのに良心的な値段でお財布にも安心です……』
「三本だって?」
驚いた隼は投稿を二度見する。調べれば店は存外近くにあった。
少しでも前に進みたい。せめて、仲間と会う前に。
隼は、飲み会の時間までそこで過ごそうと決めた。
魔法菓子。自然に存在する魔力含有食材を使う、不思議で見目麗しい現象「魔法効果」を楽しむ嗜好品である。取扱は首都圏の有名百貨店やホテルが多く、地方都市である愛知県彩遊市ではなかなか見かけない代物だ。
件の『魔法菓子店 ピロート』は、住宅街の中にあった。木目と青のパステルカラーが印象的なこぢんまりとした店構えは、普通のケーキ屋にしか見えない。
店内に足を踏み入れれば、お菓子屋特有の甘い香りが鼻をくすぐる。
ショートケーキ、ロールケーキ、チョコケーキといったラインナップは、一見すると普通のケーキとなんら変わらない。が、プライスカードには「星座が現れます」「声が変わります」「顔にメークが施されます」と魔法効果が書かれている。
気さくな雰囲気の男性店員に喫茶の利用だと告げると、限定メニューがあると言われたので、それを注文した。
席で待つ間、バッグから小説用のノートと、万年筆を出す。少しでも考えようと思ったが、まっさらなノートの上には、やはりというべきか、一ミリもペン先が走らない。
なにもない。つらい。楽しくない。
流行りのネタは興味がない。定期更新できるような勤勉さも、ましてや版権作品に入れ込む情熱もない。文章力や構成力はもとより、驚くような知識も。
仲間に置いて行かれるような感覚が怖い。成果を出せない自分が情けない。
いっそ、書くのを辞めようか。
『書けない』
焦りをただ一言に込めて書き殴る。すると、お待たせいたしました、と声がした。
「フォーチューン・フラワーとホットコーヒーでございます」
隼は慌てて机の上の私物を横に避ける。
「恐れ入ります」
柔らかく低い声音は、先ほどの男性店員とは違う。改めて声の主を見やると、コック服に帽子をかぶったパティシエだった。
一瞬、女性と思うような整った顔の優男だ。
皿とマグカップを丁寧な所作で置くパティシエは、穏やかな笑みを浮かべる。女性向けジャンルで活動する仲間が黄色い声を上げそうだ、と心中だけで感想を紡ぐ。
「お客さま、魔法菓子の説明はいかがいたしますか?」
「いえ、せっかくなので説明は聞かずに試してみたいです」
隼は食べ物も物語も、なるべくネタバレは避けたい性分だ。
すると、彼の顔に、期待と楽しげな表情が浮かぶのが見えた。イベント会場で新刊の話をする書き手に似ているそれに、勝手に親近感を抱いていると「ごゆっくりお過ごしください」と言い、彼は離れていった。
皿の上には、全体がクレープ生地で包まれ、頂点に淡いピンク色のクリームが絞られた丸いケーキ。サービスだろうか、シャーベット、小さな焼き菓子が乗っている。
フォークをケーキに近付けると、クレープ生地がふわり、ふわり、外側に開いた。
バラの花が開花する早回し動画のようで、隼の口から思わず「おお」と声が出る。
クレープの花の中から、イチゴで飾られた白いドーム状のムースが姿を現す。早速食べてみようとフォークを差し入れた瞬間、綺麗な赤と紫のグラデーションに色付いた。
驚きながらも、口に運ぶ。バラのような花の香りがするクリーミーなムースの中には、甘酸っぱいフランボワーズのジャム。
フランボワーズの酸味に、花の香りは良く合う。
一番下には焼きプリンのような柔らかく濃厚なタルトで、ムースとの相性は最高だ。
上のイチゴと共に食べれば、フレッシュ感がさらに甘さを引き立ててくれる。
夢中で食べ続け、気づけばあと一口だけになっていた。
惜しみつつも食べ終え、皿を見ると、ぼんやりとなにかが浮かび上がってくるのが見えた。
『貴方が楽しいと思うことを、信じて』
楽しいという言葉に、隼は思わず息を飲む。
顔を上げれば偶然にもパティシエの姿が見えた。これがなんなのか知りたくて、声をかける。彼はいやな顔をせずに説明をしてくれた。
「フォーチューン・フラワーは、食べ終わるとお皿におみくじメッセージがランダムに現れるようになっています」
「花みたいにクレープが開いたり、ムースの色が変わったり、面白かったです。もちろん、味も最高で。花の香りがしつこくないのが驚きです」
感想を伝えると、彼はありがとうございます、と照れくさそうに答えた。
花の香りも訊ねると、バラに似た香りの魔法ローズゼラニウムだという。色の変わる魔力はこれのおかげらしい。飲み物セットで九百円ならお得だろう。
「日々の暮らしの中、疲れたときや落ち込んでいるときに、少し元気になれる、ささやかな魔法菓子を目指しています。自分もお客さまも楽しいものを」
まだまだ模索中です、と謙遜するように付け加える。一軒の店を構えるプロでも模索中なのかと感心していると、ドアチャイムが鳴る。パティシエは接客のために、隼に一礼をして場を離れた。
一人になった隼は、再度皿を見る。
自分の楽しいことは、なんだろう。
同時に、ケーキの甘さが蘇る。不思議で面白いひととき。最後の一口が惜しいと心から思った、あの瞬間のわびしさ。
これを物語の中で描けたら。どんな世界観で、どんなキャラクターに、どんなドラマを味わってもらおうか。
胸が期待で膨らみ――はっとした。
隼は、脳内にある物語の、最初の読者になるのが好きだ。
たとえ、周りとやりかたが違っても辞めることはない。辞められない。
隼の手は自然と、傍らに置いたままのノートと万年筆に伸びていた。
会計を済ませるためにレジに向かうと、先ほどのパティシエがいた。代金を差し出した後、レジ操作をする彼のコック服に刺繍された文字が気になった。
『AOI TENJIKU』
あおい、てんじく。テンジク、アオイ。ゼラニウムの和名だ。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
おつりを受け取る際、彼はまさに花が咲くような、と形容したくなる笑みを浮かべた。
同性だが惹かれる表情。どこまでも凪いだ空のようなそれは、気持ちを癒やし、穏やかにしてくれる。
「また、来ます」
次はもっと、筆が進むかも。そう思いながら店を出た。
集合場所に向かう電車で、隼は思い出した。
パティシエと同じ名前の、あの文通相手は今、元気でいるだろうか。
受験を理由に文通の取りやめをしたので短い付き合いだった。優しく、生真面目で生きづらそうな相手だった気がする。
勝手な願いだが、幸せだといい。
自分の心が満たされていると、不思議と他人の幸せを願いたくなる。
仲間の商業デビューも、オンラインノベルの成功も、壁サークルの完売も。全てを心から祝福できるだろう、と思った。
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ノートに万年筆、青色のインク。少し癖のある文字。
あの筆跡、見覚えがある。
『魔法菓子店 ピロート』シェフパティシエの天竺蒼衣は、喫茶の後片付けをしながら、先ほどの男性客を思い出していた。
質の良さそうなノートと万年筆を目の前に、難しい顔だった。「書けない」という殴り書きは、悩みの発露に思えた。
蒼衣には、魔法菓子を食べたお客の感情が伝わってくるという、不思議な能力がある。彼が穏やかな気持ちで店を出たことは伝わってきたので、胸を撫で下ろす。
「思い出した」
いじめに遭った中学二年、学校や家族以外の誰かに話を聞いてほしくて、雑誌の文通コーナーに手紙を出したことがあったのだ。誠実なやり取りは、当時の心の支えになってくれた。
「恩返し、できてるといいなあ」
本人かどうかは神のみぞ知る。だが、本人でなくともいい。
おいしいお菓子で、自分もみんなも幸せにしたい。
それが天竺蒼衣という魔法菓子職人の願いであり、楽しさであり、幸せである。
◆文章系同人誌即売会「第8回Text-Revolutions」公式webアンソロジー掲載作品
「なあ蒼衣『う』のつくお菓子って知ってるか?」
六月の中頃。梅雨が始まりうっとうしい気候の最中である。雨が降ると、若干お客の足が遠のく。それは普通の菓子店だけでなく、この「魔法菓子店 ピロート」もまた同じである。
厨房に顔を出した八代の言葉を理解するのに、蒼衣はほんの数秒の時間を要した。
「……『う』?」
「そう。土用の丑の日の」
ああ、と蒼衣は来月のカレンダーを見やる。月末近くに「丑の日」の表記があるのが見えた。
「うちは鰻《うなぎ》は焼かない……ちょっと待って、あのパイは真似しちゃいけないでしょう」
とっさに浮かんだのは静岡県某所にある全国的に有名なお菓子メーカーの某パイだ。
パイ生地を丸めて薄く切り、表面に砂糖をまぶして焼いたいわゆる「パルミエ」的なお菓子に、某所名産と言われる鰻の粉を入れた土産菓子――「夜のお菓子」として有名なアレである。
「いや、アレはアレで美味いがお前に作れとは言わないよ。いやさ、土用の丑は一説によると、なにも鰻じゃなくて、頭に「う」の付く食べ物を食べればいいらしいんだよ。昨今の鰻に関する諸問題もあるし……」
そこから八代は鰻がそもそも絶滅危惧の存在であることや、仄暗いビジネスの話をかいつまんで語った。蒼衣も食品業界の端くれにいるので、昨今の鰻の売り方については、業種違いとはいえど懐疑的な感情を持ってはいる。
それは個人の思想なので一旦置いておくとして、ピロートで「土用の丑の日」とはこれ如何に、である。
経営面はすべて八代に任せてあるとはいえ、自身も店頭に立つ。だから、売り上げの数字が芳しくないのは知っている。
なんとなく、八代の言いたいことは見えてきた。
「要するに、流行りに乗っておこうってことですかね、敏腕店長さん?」
「察しがいいねえ、さすがうちのパティシエくん。ちょっとだけでもいいんで、限定ものに乗っかってみようかと。タピオカに乗り遅れた今、あえて鰻! あえて土用の丑の日!」
へっへっへ、とわざとらしくもみ手をする様子に蒼衣は苦笑する。売り上げの落ちる夏に、菓子屋があれこれ策を練って商売をしようとするのはごくごく自然な流れではあるが「丑の日」はさすがにこじつけが過ぎるのでは、とも思う。
「夏バテ防止にお菓子食べる人、いるのかなあ」
旬のものを使えばあるいは、とはいうものの「桃」「スイカ」「メロン」……なじみ深いものの名前を浮かべても「う」の字はない。
「良いアイディアだと思ったんだけどな」
うの付くもの~、と頭を抱えだした八代と蒼衣。そのとき、来客を告げるベルが鳴った。八代は店頭に戻ったが、蒼衣は一人「う」の付くものを考えていた。
「あおちゃん、悩みごとかね」
昼、喫茶に訪れた常連のヨキ・コト・キクが、給仕に来た蒼衣の表情を見て言った。
「浮かない表情しとるぞ。あおちゃんは『ないーぶ』だからのー。どうせまた八っちゃんがなにかめんどくさいことでも言ったんじゃろ」
「まったくボンクラだがや。ほれ、髪でも切ったら気分もさっぱりと……」
小さな手をワキワキと動かし、蒼衣の髪を狙うキクに、蒼衣は「勘弁してください!」と悲鳴にも似た反応を返したあと、はあ、と小さくため息を吐いた。
「おばあさんたちにはバレバレなんですね」
心配させてごめんなさいと小さく頭を下げれば「あおちゃんがわかりやすすぎるんじゃ」と鋭い言葉が飛んできて、思わず肩をすくめる。
実は、と土用の丑のことを話すと「商売がめついのう、八ちゃんは」「鰻は専門のお店でおいしいのを食べるのがええ」「そもそもあのタレを食べとるようなもんじゃ」とどんどん話は逸れていく。
「それにしても『う』のお菓子か~」
三人も同じように「う」の言葉に頭を悩ませる様子を見せた後、コトが「『う』といえば」とヨキのほうに顔を向けた。
「この前は梅をありがとうよ。今年のもよい塩梅でしたわ。梅だけに」
「うんうん。色も香りもよかったでよ。おいしい梅干しになるだろうよ」
ヨキは商店街にある八百屋の元女将である。今は子どもに店を譲ってはいるものの、今でも顔見知りに野菜や果物を売ることもあるようだ。
「手仕込みの梅干し、いいですねえ」
「昔っから八っちゃんとこにもよーけ持っていっとるでよ」
蒼衣の母はそういったことをしない人だったし、祖父母とは疎遠であるため、ほんの少しの羨望が胸によぎった。学生時代、八代の実家で初めて「手作り梅干し」を食べたが、顔がきゅっと締まるような酸っぱさは新鮮だった。
「僕も食べたことあります。あれ、おばあちゃんたちの作った梅干しだったんですね」
おいしかったです、と言えば、三人の顔がニコニコと笑顔で染まる。
「あおちゃんも欲しいかね。去年のがあるでよ。一瓶でもなんぼでも持って行っていいぞ」
「アカンてコトさん、あおちゃん一人暮らしじゃろ。可愛らしい小さな箱にちょちょっと詰めてやりゃあいい」
「うちら三人のちょっとずつあげりゃあいいじゃろ」
和気藹々と話す三人に、本当に少しで良いので、と遠慮がちに言いながら、なるほど「う」めかあ、と思いをはせる。
「梅シロップもあるでよ。ほら。八っちゃんは酒がダメだから昔からシロップじゃ」
「シロップ……」
キクの言葉に、はっと蒼衣は気づいた。「そっか「う」……これだ」
一人で合点する蒼衣に、三人の老婆ははてと首をかしげた。
「ありがとう、皆さん! おかげで『土用の丑』ができそうです」
困っている自分を助けてくれるおばあさん達に感謝しつつ、蒼衣は足取りも軽く厨房へ戻った。
:::
「……マカロン?」
七月の中旬である。夏を感じさせる晴れの日の午後、蒼衣は八代に一つのマカロンを差し出した。
「新作ですかパティシエくん」
「前に言ってただろ『う』の付くお菓子」
「う……? いや、マカロンは『マ』だろ」
赤と緑のグラデーションが綺麗なマカロンの表面は思わず触りたくなるようなマットな質感。パリ式マカロンの特徴、周りを縁取るピエは小さなレースのように愛らしく仕上がっている。
マカロンは焼成前の生地状態と乾燥が命なので、湿気の多いこの季節に作るのは本来向いていないのだが、一口サイズで食べられるお菓子にしたかった為、ベストな気候の日を選んで作ったのだった。
「あの、今回は魔法効果を事前に言っておきたいんですが」
八代から魔法菓子の試食の際は「驚きを感じたいから極力魔法効果は伝えないでくれ」と言われているが、今回は少し不安だった。もちろん、体に影響が大きく出るようなものを作った覚えはないが、驚きが大きすぎるのでは……と不安を覚えたのだ。 しかし、八代は指を振り「待ちたまえパティシエくん」と自信たっぷりに言った。
「魔法効果は慣れっこだよ」
「いや、あの……」
「さあさあどんとこいだよパティシエくん」
自信満々の笑みでさあ、と手を差し出されれば、ぐだぐだと説明をするのも野暮だと思えてきた。観念して「どうぞ」と促す。八代がマカロンを手に取った。サク、とかじる小さな音が聞こえてくる。
「――?!?!?!」
すると、八代の目と口が一気に文字通り「顔から」消えた。
喩えるなら、顔をしかめたような……目をきゅっと瞑り、口元が引き締まるそれが、漫画やアニメのように極端になりすぎた結果、目と口が「消えた」ように見える。
八代からは、困惑・驚きが混ざった「とにかくパニック」なる気持ちが伝わってくる。
そばに居る蒼衣は「驚くよね、ごめんねえ」と小さく謝る。
んはっ! と八代が大きく息を吐くと当時に顔の表情は戻っていた。
その間、ほんの三秒である。
「前が、目が、見えねえ!! あとめちゃくちゃ酸っぱいんですけど!! あっでも後味甘くて美味い……でも酸っぱい!!」
「だから説明をと」
「なっ……いや……説明なしでって言ったのは俺だし……だがしかし……」
むう、と半ば納得のいかない顔ではある。だが怒ってはいないのが、東八代という男の美点である。
「驚くでしょ『酸い梅』の味は」
先月、おばあさんたちとの話からヒントを得てから、蒼衣は梅を食材にしてお菓子を作ろうと考えた。魔力含有食材狩人の夫を持つ師に相談したところ「良いものがある」と薦められたのが酸い梅である。
「酸っぱ過ぎて、顔の筋肉の収縮が過剰になるんだよ。すぐに効果が消えるようにしてあるけど……驚くよね」
ははは、と笑う。すると「パーティシエくーん」と八代がマカロン片手ににじり寄ってきた。
「君も驚きをシェアしたまえよ」
「はひ?」
考える間もなく、口にマカロンが突っ込まれる。反射的に噛むと、中心に仕込んだ赤い梅ジャムの刺激的な酸っぱさと、その周りに挟むようにしたまろやかな青梅シロップ入りバタークリームの味が広がる……が。
「――?!?!?!」
顔全体が急にラップでぎゅうぎゅう巻きにされたような感覚に襲われる。目も口もなくなってしまったような感じのあと、急に緩むものだから「ふはっ」と息が出る。
「前が見えない! 酸っぱい!」
マカロン生地のサクサク感を味わう余裕もないままに、ただただ涙目になった蒼衣を見て、八代がケラケラ笑うのが見えた。
その後「暑い夏にすっきりリセット! 「う」めの『ショック・マカロン』で夏を乗り切ろう」のPOPで売り出され(刺激が強いので、弱めの効果の「やさしいバージョン」も作った)仕事で疲れた社会人に大受けだったとかそうでないとか。
「……何度見ても、おまえの面とのギャップがありすぎるだろ、この部屋は」
呆れた声音でつぶやけば、目の前で背中を丸めて縮こまる我が店のシェフパティシエは「顔のことはともかく、ひどいのはわかってるんだけど」と小さな声でうめく。
お盆も過ぎ、初めての長期夏期休業(といっても、平日の五日間を休みにするだけだが)に入った「魔法菓子店 ピロート」。月初めに参加した百貨店出店のおかげで、猛暑と言われる中でも予想以上の売り上げをたたき出し、ほくほく顔のまま連休に突入する予定だったのだが。
百貨店出店に関する騒動ですっかり忘れていたのだ。この、菓子作りと人当たりの良さに長けた親友の欠点を。
「南武への出店でバタバタしてて、そのう」
「知ってるけど、だからってこの有様はひどすぎる。この一年で最高の状態だよ。悪い意味でな。冬からなんも変わっちゃいない」
「ひとの部屋をボジョレーの評価みたいに言わないでくれ、八代……」
がっくりと肩を落とす親友――蒼衣の肩を軽く叩く。
連休初日の朝。蒼衣はパジャマ代わりのよれたTシャツに、いまにも腰から落ちそうなスウェットのズボンという、いかにも休日の朝起きたての格好だ。
いつもならば一つにまとめた長髪も、あっちへこっちへとうねって曲がって、大惨事である。
これが、ごくごく一部じゃ『イケメンパティシエ』と言われる男の素顔だと言われても、納得するひとは少ないだろうなと内心、思う。もっとも、学生時代から内情を知る自分には、とうに見慣れた姿ではあるが。
「ま、そのために俺がこうやって手伝いに来たんだ。今日一日でとりあえず足場を作るぞ、足場を」
「目標は足場なんだ……」
まだ眠そうな目で己が部屋を見回す蒼衣は、はあ、と重たいため息をつく。ああ、本当に惜しい男だとつくづく思う。
俺たち二人の目の前に広がるのは、出しっ放しの衣装ケースに積み上がった服とタオルの山、散らばった本やパンフレット、DMの類、出し忘れたであろうゴミ袋と、袋に入りきらなかったであろう、原形をとどめていないなんかのゴミ。しきっぱなしでぐちゃぐちゃのせんべい布団に、季節ハズレの羽毛布団(分厚い)部屋の隅に転がる埃など。
だれが見ても苦笑を通り越して表情が固まる、いわゆる一人暮らしの「汚部屋」である。
そう。腕よし、顔よし、性格に若干の難あり――だが、お人好しなピロート自慢のシェフパティシエ・天竺蒼衣の欠点は、生きる上で必要な衣食住の内「衣」と「住」の能力が、壊滅的にないことだった。
「冬物はしまっとけって、春先に言っといただろうが。ほれ、このプラケースに入れとけ。ああっ、こんなぼろぼろの肌着、まだ使ってんのか」
「だってまだ着られるし、もったいないと思って。あと、肌触りが一番良くって」
「首んとこ破れてて、逆に着心地悪いだろうが。うわっ、高校のジャージまだ使ってんのか。待ってくれ、これ高校んとき着てたやつじゃないのか。ってまた破れてる! パンツ見えるぞ!」
「ジャージもそれも、一応パジャマのつもりで。破れてるから流石に外出着にはしてない……」
「きちんとしたパジャマ買えって何度も言ってるのに」
「だってパジャマって結構高い……」
「いや待て、おまえの買う専門書よりは安いだろうが」
「だったら本を買うほうが」
「だからそれが! 違うって! 言ってるじゃないか天竺蒼衣-!」
たまらずにうがーっ! と言葉にならぬうなり声を上げると、へっぴり腰でゴミをゴミ袋に入れている蒼衣が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
夏の猛暑日で蒸し暑い中、件の汚部屋――天竺蒼衣の部屋は、着々とゴミが消え、宣言した通りに足場ができつつあった。
蒼衣自身が「部屋の片付けをしたいんだけど、自分だけでは絶対に終わらないから、手伝ってほしい」と申し出たのはよしとしよう。よしとしたいのだが、いくらなんでも散らかりすぎていて、ついつい小言が多くなる。
それでも、いらないDMやチラシ、ペットボトルや食品の外袋など、わかりやすいゴミはすぐに片付いた。しかし、問題なのは積みに積まれた服の山だ。
漁れば漁るほど、ひどいものしか出てこない。衣替えという概念はなく、大概の服は洗濯の仕方が雑なのかヨレヨレで皺だらけな上、さっきのように破れたものまで平気で居座っているし、おまけに本人曰く現役らしい。
大半の服のラインナップが、十五年前から変わっていない事実には、見ないふりをしておこう。
苦い顔をしていると、蒼衣は取り繕うような表情でハハハ、と笑いをもらした。
「服ってよくわからないんだ。なんていうか、ほら、一日中コックコートだし、あんまり出かけないし。平日は店かコンビニか、たまーに材料の買い出しに行くかだけでしょう? そもそも、僕になにが似合うかもよくわかんないし」
あと、値段が高い。と付け加えて口をすぼませる。
「……部屋の隅にある製菓関係の専門書三冊くらいの値段で、ファストファッション店ならコーディネート一式を余裕で買えるって再度突っ込んでもいいかい、パティシエくん」
「そう言われるとますます、服を選ぶのがおっくうになるよ」
専門書を引き合いに出したのがミスだった。
この男、自分の興味関心のあること以外には、かなりの無頓着だ。彼の興味関心といえば、お菓子か、店か、客のことか、ともすれば自身の趣味――本や映画のDVDの収集――。
それに反比例するように関心が薄いのが、衣服と部屋の整理だった。休日の少ない職業な上に、一人暮らしで時間もマンパワーも足らないのは重々承知だが、それに輪をかけて本人にその気がないのだから、惨状はかくやと言わざるを得ない。
ギリギリ食に関しては、冬のある時期を除いてはきちんと三食食べるし、職業柄もあって、自分でまかなうことはできる。故に最低限の生命維持は出来るものの、生活環境の維持も人間活動の一環ではあると俺は思うのだが。
「……もうなにも言うまい」
ため息が出たが、無心になって手を動かせば、服の検分着々と終わりつつあった。取り急ぎ、分厚い冬服は(ほんの数ヶ月先だが)衣装ケースに入れておく。
破れてぼろぼろなものは、はっきり捨てろと通告した。「安眠するのも職人としての体調管理の一環」と店長権限で意見すると、小さく「ハイ」と返事が返ってきた。
残りの、かろうじて着られそうな服はほこりっぽい上に皺だらけなので、思い切って俺の家で洗濯しようと思った。なにせ我が家にあるのは、乾燥機付きの最新型だ。自慢じゃないが、白物家電には金をかけている。共稼ぎ夫婦にとって、家事は金をかけてでも軽減せねばならない。子どもがいるならなおさらだ。……若干過保護過ぎるが、蒼衣の家にある一人暮らし用の簡素なものでは限界というものがある。
提案すると「そこまでしてもらうのは悪い」と案の定首を横に振った。
「確かに、僕は服や部屋の管理はすごく苦手だから、こうやって手伝ってもらえるのはすごく助かる。少なくとも、八代にきっぱり「破れてるから着心地が悪い」って言ってもらえると、ああ普通はそうなんだよなあ、ってやっと思うことができるから。でも、本当は、こんなことは自分一人でできることのはずなんだ。だから、さすがにここまで面倒見てもらうのは申し訳ないよ」
「でもなあ」
「いいんだよ八代。君は僕の友人ではあるけど、子どもじゃあないだろ? ええと、こういうとき、どうすればいいんだろうなあ。アイロン、どこやっちゃったっけ」
苦笑する蒼衣を見て、彼の「生きづらさ」を改めて思う。
部屋の整理ができないのも、服に関心が薄く、他人から見たらどうでもいいところでこだわりがあるのも、おそらく生まれながらの特性だろう。
しかし、一旦世間に出てしまうと、それらはすべて「欠点」や「変わり者」と表現される。たとえあの手で世界一おいしい(と、俺は思っている)お菓子を作れるとしても、仕事場を出てしまえば、ただの「天竺蒼衣」という三十一歳の男性でしかない。
かつて勤めていた会社でも、こういった「変わり者」は少なからずいた。そして、特性が悪い方向に作用して、うまくやっていけない現状も、目の当たりにした。
なおかつ、そういうひとたちを助けるのは、非常に難しいことだというのも痛感していた――過去の自分のように。
正直なところ、俺には、蒼衣たちのような困りごとがあまりピンとこない。
時間に遅れる。口頭で言ったことが理解できない。片付けが苦手で、資料や書類を紛失する。正直なことを口に出し、得意先の人間を激怒させる……などなど。もう少し若い頃は「わがままだ」とすら思った。どうしてそんな簡単なことができないのか、と。
しかし、自分の身近で、最終的には自分を追い詰め、死にそうになった男――蒼衣がいたことや、職場で出会ったひとたちとの関わりで、俺の考えは変わった。
助けてくれ、こうすれば理解できるから工夫してくれ、と、一言言えばいいのに、と単純に思う。でも、蒼衣は助けてと言えなかった。親友だと慕ってくれていたはずの俺はおろか、身近であろう家族にすら。
後々、俺の思う「家族」の関係と、蒼衣の「家族」という関係の認識の違いが分かってからは、さもありなんと思うこともできたのだが。
だから、今こうして蒼衣が困りごとを自分から言えるだけでも十分に変わったと思う。今までよりも吹っ切れたのは、きっと夏前に起きた一連の出来事のおかげでもあるだろうが。
だれでも大なり小なり、苦手なことややれないことがあるだろう。それが他人から見れば些細なことでも、本人にとっては非常に深刻な「つまづき」だ。
しかしそれらは、視力を補強する眼鏡のような、なんらかの補助があれば歩けるようになるかもしれない。それが物だったり、考え方だったりするのは、ひとそれぞれだが。
そうすれば、少なくとも、身近に居る人間との軋轢を少なくすることができるはずだ。
アイロンなんてしばらく使ってないなあ、とぼやく蒼衣を見て、俺は一つため息をついた。と同時に、思いついたことがあった。
「なあ、タダでやるのがイヤなら、なんか対価があればいいんじゃないか」
「対価?」
「そうだな……アレを作ってくれたら、家にある自慢の最新式乾燥機付き洗濯機でおまえの服を洗って綺麗にしよう。おまけにアイロンもかける」
どうだ、と顔を寄せる。提案の唐突さに戸惑う蒼衣がほへえ、と気の抜けた声を出した。
「アレって、ええと?」
「高校時代によく作ってた、おまえの十八番があるだろうよ。秋に向けての試作だと思って一本」
もったいぶってヒントを出せば、蒼衣はああ、と手を叩く。
「そういえばアレ、開店するときはラインナップから外したね」
「アルコールがダメな俺が好き好んで食える、唯一の酒入りパウンドケーキなんだけどな。初年度は様子見したいからってやめたんだよなあ」
「あ、あれはお酒は……」
「アレは別なんだよ。ああ、うちのご自慢のシェフパティシエが作るアレが食べたいなー」
なにか言いたげな蒼衣の言葉を遮ってしまったが、ふざけてもう一回「食べたいなー」と繰り返せば、蒼衣は呆れたような、しかし面白がるような顔でクスクスと笑った。
若い頃はずいぶんと達観した笑い方をするヤツだなと物珍しかったが、三十路を越えた今では、それがすっかり板に付いている。
「ああ、君にそんなリクエストをされたら、答えないわけにはいかないね。じゃあ、お言葉に甘えて、あのケーキ一本で洗濯、お願いしていいかな」
「いいともー! アレが新作として食べられるなら、俺はなんでもやりますようパティシエくん」
もみ手もみ手でさらにおだてれば、蒼衣は「よしてよ」と苦笑する。謙遜しているが、大層うれしそうに頬を緩めることは知っている。実際、俺の言葉に嘘はないのだから、もっと派手に喜んでくれてもいいのだけど。
「じゃあさ……今度、服を選ぶのを手伝ってくれないかな。その、ファーストフードみたいな名前の店で」
「おっ、ついにおしゃれに目覚めたねイケメンパティシエくん。あと、ファーストフードじゃなくてファストファッション。店の名前じゃない」
俺の訂正に、蒼衣は「そうなんだ」と神妙にうなずいた。
もともとテレビもあまり見ない上に、いまだにガラケーを使い、もちろんインターネットなど学校くらいでしかロクに使ったことがない、今時珍しいアナクロな思想の蒼衣は、本当に流行に疎い。これも、興味関心があること以外への意識が薄いからだろうとは思うが、もともと俗世に染まれないタイプだったのだろう。
だからこそ、魔法菓子――魔力への適性があるのかもしれないと、彼の師がこぼしたことがある。
「あと、僕はイケメンじゃないって。まったく、だれがそんなこと言ってるのかな」
童顔なのに、と心底不思議そうな表情をする蒼衣を見て、俺は本日何度目かのため息をついた。
「待ってましたよパティシエくん!」
連休最終日の『魔法菓子店 ピロート』厨房内に俺の声が響く。
「おととい焼いたから、そろそろ味がなじんだかな」
清潔なコックコートに身を包んだ蒼衣は、冷蔵庫から棒状のものを取り出し、ぐるぐると巻かれたラップを取り去ると、パラフィン紙をはがした。すると、しっとりとした質感のパウンドケーキが現れた。
お湯で温めたナイフを差し入れ、スライスしたものを小皿に乗せると、真っ先に俺に差し出してくれた。
「どうぞ「りんごとキャラメルのパウンドケーキ」だよ」
「久々だなあ、この香り!」
小皿の上に乗せられたのは、プレーンのパウンドケーキよりも濃いキャラメル色した生地に、キャラメリゼしたリンゴがぎっしり詰まっているパウンドケーキ。
行儀は悪いのは承知だが、手でつかんで一口ほおばる。
バターの香る柔らかな生地の中に、時折シャクシャクとした食感が楽しいリンゴの果肉。キャラメルのほろ苦さと濃厚さ、リンゴのほのかな酸味と甘さが調和する中で、口の中を一瞬支配するのは……ラム酒に似た甘い香りだった。
「これな、これ! 主張し過ぎない洋酒の香り。リンゴの甘酸っぱさとキャラメルの味の濃厚さが好きなんだけど、そこにふんわりと乗っかる甘い酒の香りな~」
「久しぶりに作ったけど、この組み合わせは良いよねえ」
これは、蒼衣が高校時代に初めて俺にごちそうしてくれたお菓子だ。それまで特に甘い物への執着がなかった俺に、新しい世界を見せてくれた。
小さな焼き菓子一つの中に、甘いも酸味も苦みも同居している。おまけに、未成年だった当時の俺には、少し憧れだった酒の香り。成人してから、アルコール分解酵素が少ない体質だとわかったときは、飲み会よりも、こういったお菓子が十分に味わえないほうが、つらかった。
「サバランやウイスキーケーキ、一つまるごと食べられない。でも、こいつだけは別。焼いててアルコールが飛んでるからか? って思ったけど、他の店のはダメだったんだから訳がわからないんだ」
首をひねっていると、あのね、と遠慮がちな前置きの後、蒼衣は困ったような笑みを浮かべてこちらを見た。
「ごめん、八代。実はこのケーキ、ラム酒はほんの少しだけシロップに使ってるだけなんだ。……だから、八代が好きって言ってるのは、もしかしたらこれかもしれない」
そう言うと、蒼衣は材料棚から一つの袋を取り出した。透明な袋には、褐色の粒子状のものがつまっている。
「これは、カソナードっていうフランス産のブラウンシュガーだよ」
別の小皿に、袋から褐色の砂糖――カソナードを少しだけ出してくれた。粒の大きさは厨房で多く使われるグラニュー糖よりも大きく、荒い。
「なんか、砕いた黒糖みたいだな」
「鋭いねえ、八代は。カソナードは黒糖と似てるんだ。ちょっとだけ解説すると、カソナードや黒糖は含蜜糖っていって、いつも使ってるグラニュー糖や上白糖のような精製された砂糖とは違って、果糖やミネラルを多く含んでるから、味にコクや独特の風味があるんだ」
「じゃあまさか、あの酒みたいな風味って」
「そう。カソナードはラムやバニラ、はちみつみたいな風味がする。リンゴとは相性が良いから、キャラメリゼするときに少し加えているんだよ」
「なるほどな。って、おまえそれ高校のときになんで教えてくれなかったんだよ」
あの味を酒の味だと、十年近く思い込んでいたのか。勘違いにもほどがあるし、仮にも菓子屋を経営しているのに砂糖の知識がなかった俺もうかつだったが、なによりも詳細を黙っていた蒼衣に、珍しく軽い憤りが湧いた。
すると蒼衣から、本当にごめんよと切実な声が帰ってきた。三十路らしからぬしおらしさに、一瞬湧いた憤りがあっさり消し飛ぶ。
「今まで何度も説明しようとしたんだけど、その度に君がやたらめったら喜んじゃって、水を差すのも悪いなーって。いつか言おう言おうと思ってたんだけど、新作考えるのでいっぱいいっぱいですっかり……」
「おまえなあ」
「ごめんってば。これ、いくらでも食べていいから。材料は自前だから気にしないで。あと、言い忘れたけど魔法効果は――」
「みなまで言うな、パティシエくん」
頭頂部分がカッと熱くなる。約一年魔法菓子を食べ続けたおかげで、すぐにこれが魔法効果なことはわかった。
ポケットからスマホを出し、インカメを起動して己の頭を写す。
「おおー、真っ赤な髪の毛か」
俺の髪の毛は、燃えるような、と表現したくなるような赤色に変化していた。
「使ったカソナードには赤の魔法色素が含まれているから。ただ、顔にメークを施す「変装カップケーキ」と効果が似てるから二番煎じなのが申し訳ない」
ひらめきが足りないんだよなあ、と蒼衣はぼやく。
「もっと勉強したり、いろいろなものを見なくちゃ」
ともすれば思い詰めたようにつぶやくので、俺は思わず「まあまあ」と肩に手を置いた。
「久しぶりにあの味が食べられただけでも、俺は儲けもん。でも、うちのシェフパティシエの向上心に乗っかるのは悪くない。さあて、こいつをどう進化させたら面白いかな?」
期待を込めて笑ってやれば、蒼衣の顔に少しだけ泣きそうな感じの、安堵の表情が浮かぶ。ここ一年、店の中では――少なくとも、シェフパティシエの天竺蒼衣としては――滅多に見せなくなった素の顔に、懐かしさを覚える。
――生真面目で素直で、同時に愚かで生きづらそうで、付き合うのもまったくもって面倒だ。長い付き合いの自分でさえそう思うのだから、社会に出たとき、周りが扱いに困っただろうことはなんとなく予想できる。
だけど、とにかく見ていて飽きないし、なによりも、あいつの作るお菓子は昔から、俺にとって世界で一番美味いシロモノで。
だれかへの「労り」「優しさ」がたくさん詰まってる。こんなに純粋で甘くておいしいものを作れるヤツを、みすみすつぶしたくない。
せっかく見つけた面白い人間を、手放してたまるか。
それはきっと、妻の良子や娘の恵美に向ける愛情とはまた違った形のものだ。
「ありがとう、八代」
「いいってことよ。さあ、明日からまた仕事をバリバリするぜー! 秋からはお菓子屋の稼ぎ時だー!」
「確かに、そうだねえ。また一年、がんばらないとね」
陽気に振る舞えば、蒼衣はそれにつられて元気を出す。
そうして新しくお菓子を作ってくれるなら、俺はいくらでも笑えるからさ。
愛知県名古屋市……の隣に位置する地方都市、彩遊《さいゆう》市にある『魔法菓子店 ピロート』。
通年で流している店内BGMを、明るめのボサノヴァチャンネルから、鈴の音が賑やかなクリスマスソングチャンネルに変えると、店の空気が一気にクリスマスムードになる。
店内を改めて見渡す。昨日までハロウィンを盛り上げてくれていたカボチャとお化けは、サンタやトナカイといった、クリスマスに欠かせないキャラクターへ。オレンジと黒がメインの装飾は、赤と緑や金銀といったクリスマスカラーへとチェンジされる。
昨日の閉店後と今日の開店前の三十分を使い、店長の東八代と共に飾り付けを終えたシェフパティシエの天竺蒼衣は、ほう、とため息をついた。
「おお、まさにクリスマスって感じだな。昨日までハロウィンだったとは思えない」
お疲れさん、かぼちゃ頭くん。と、昨日まで飾っていたジャック・オー・ランタンの人形に話しかける八代を見て、蒼衣はくすりと笑う。
「そうだねえ」
何度目のクリスマス準備だろうと、この瞬間、蒼衣の気持ちは一層引き締まる。
クリスマス。それは、世界中の菓子屋が、年内で一番あわただしく、忙しい時期だ。
スケジュールは詰めに詰められ、作業と同時に管理も必要だ。十二月が近くなれば、残業は当たり前、休日も返上で働きづめになる。
蒼衣は過去、この時期に人生の転機を二度経験している。肉体的、精神的にも負担がかかる季節だが、去年は、共に店を経営する親友・八代や周囲のひとたちの協力で乗り切ることができた。
今年も、二十四日の売り子として、常連のおばあちゃんたちが来てくれる。もちろん八代も、店を盛り上げると同時に、蒼衣の負担を極力減らそうと努力してくれている。
自分を支えてくれているひとたちの努力に応えたいと、蒼衣は店内を見渡して再度思う。
「そうだ。予約のチラシ、レジの下に置き場所作っといた。何枚でも配ってくれ。できればおまえからオススメしてもらえるとありがたいんだけど、余裕ないときはチラシを入れるだけでもしてくれるとうれしい」
そうだね、と蒼衣はうなずく。
「新作もあるし、もっと知ってもらいたいよね」
去年と同じ、『キャンドル・ショートケーキ』と、『太陽オレンジのブッシュドノエル』の二種に、今年は数量限定の新作を加え、三種類の商品展開をすることが決まっている。
「そう、新作! 数は少ないけど、インパクトは充分だと思うんだよな、あれ」
浮き足だった様子で語る八代に、蒼衣はむずがゆい気持ちになる。と同時に、クリスマス商戦への緊張がほどけていくようだった。
「そうだといいんだけど」
新作は、他のケーキとはひと味違う。余計に手をかけた、いわゆる「スペシャリテ」である。
ただ、日本人が――ピロートのメイン客層であるファミリー層が受け入れてくれるものかどうか。
やはり、イチゴショートケーキが主流のクリスマスケーキの中、諸外国の伝統的なエッセンスを取り入れたものを売るのは挑戦的な行為である。それも、ハイソサエティなものを売りにしている店ならともかく、街のお菓子屋を自負するピロートでどんな反応になるのか。
蒼衣自身は日本で馴染みのあるショートケーキも嫌いではないが、他にもお菓子にはおいしいものがあると知ってほしい。店のケーキにも、少しではあるがフランス菓子のエッセンスを入れているのはそのためだ。
「もっと自信を持ちたまえパティシエくん。おまえのケーキは美味い! 毎回言ってるけど何回言ってもかまわないよ」
「おだてすぎだよ」
「おだててケーキ作ってくれるならナンボでも褒めますよ、俺は。ああ、アレの面白さを、おいしさを誰かに早く話したい!」
仕事するぞ~! と気合いを入れる八代を見ていると、蒼衣もまた前向きな気分になれるのであった。
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十二月二十四日、午前零時。夜中だというのにピロート店内に明かりが見える。
例にもれず、ピロートもクリスマス準備に大わらわである。
「あーおーいー、イチゴカット終わった」
「ありがとう八代。ミキサーの前に置いておいて」
煌々と明かりがついているのは、正確にはピロートの厨房内。賑やかなJ-POPをBGMに、コックコート姿の蒼衣は、回転台に乗せたホールケーキにクリームをナッペしながら、声をかけてきた八代へ簡潔に指示を出す。
八代はイチゴのスライスが大量に乗ったアルミトレーを置くと、スライス作業の為に使っていた包丁とまな板をシンクで手早く洗いはじめた。
はあ、と八代には珍しい疲労感のあるため息が聞こえる。
「俺、今日の夜で一生分のイチゴをスライスしたかも。ゴム手袋もしてたのに、なんかほんのり手先がフルーティー……あ、まだこんなこと言える元気あったんだなー……あー……」
手の動きはいつも通りだが、彼の口から出てくる言葉は、やはり覇気がない。ちらりと後方の八代を見やれば、目をしょぼしょぼとさせている。
さすがに限界かもしれない。そう思った蒼衣は、ナッペの手を止めて、八代のほうへ身体を向けた。
「ちょっと休んだほうがいいんじゃないかな、八代は。昨日も遅かったのに、完徹はさすがにマズイよ」
「でもさ、まだ飾り付け……」
「コーヒー飲んで、十五分でも寝てきたらいいよ。なんなら起こしに行くよ」
「それで頼むわ」
去年もそうだったが、基本的に生菓子であるケーキの製造は、前日が勝負になる。
ありがたいことに、予約数は去年を上回った。新作も予定数をすぐに越えてくれた。八代曰く、見た目と魔法効果が、やはりファミリー層に注目されたらしい。見本を載せたSNSの投稿も効果があったらしく、蒼衣もそんな話を何度か聞いた。
「おまえのケーキをみんな待ってるから、俺もがんばらないとな。じゃ、ちょっと休んでくるわ」
そう言い残すと、八代は喫茶スペースに入っていった。
蒼衣も眠気をかみ殺す。八代はあくまでも手伝いの立場であり、製造するのは蒼衣だけだ。
体も心もつらいが、乗り越えた先にだれかの幸せがあることを蒼衣は知っている。
「がんばれ、自分」
鼓舞するようにつぶやいた蒼衣は、またナッペ作業に戻った。
「お、飾り付け見本ができてる」
十五分後、厨房に戻ってきた八代が上ずった声を出した。
作業台の上には、クリスマスの飾りつけをされた『キャンドル・ショートケーキ』のホールと『太陽オレンジのブッシュドノエル』がそれぞれ一台ずつ乗せてある。
「早速だけど、この見本の通りに、そこに分けてある飾りを乗せていってほしい」
蒼衣が指さした場所には、火イチゴのコンフィチュール、キノコ型の砂糖菓子、ヒイラギ型のチョコ、トリュフ、カラフルなチョコレートマンディアンなどの飾りが乗ったトレーがある。
「オーケーオーケー、見本通りな」
「頼んだよ。八代なら安心だから」
「そうだな、俺がケーキに顔突っ込みそうになったら止めてくれ」
「同じセリフをそっくり返すよ」
すっかり調子の戻っている八代に安心しつつ、蒼衣も仕上げに取りかかる。
作業台を挟んだ八代の向かい側で、新作『スノーマン・ハウス』のパーツを並べはじめた。
四角や三角の形をした、香ばしいクッキーと、接着に使うアイシング。そしてミニマカロン、アイシングクッキー、チュイルやギモーヴなど、小さい焼き菓子やカラフルなコンフィズリーが並ぶ。
「しっかしパーツ多いな、スノーマン・ハウス。なんだっけ、そのお菓子の家の名前」
「ヘクセンハウス。直訳すると「魔女の家」ドイツではメジャーなクリスマスのお菓子だよ。一回やってみたかったんだ。一度は食べてみたいと思わないかい、お菓子の家は」
クッキーをアイシングで接着して、三角屋根の家を作りながら、蒼衣は解説した。
「確かに、グリム童話の「お菓子の家」は憧れだわな。小さなクッキーやマカロンがそこかしこにくっついてるのがイイ。ベルサブレも使ってるから、食べるときも楽しいだろうな。でも、最大の楽しみは、家の中に潜んでるアイツ……」
八代が笑みを浮かべながら冷凍庫をちらりと見る。中にぎっしりと詰まっている「アイツ」を思い出し、蒼衣もつられてほほえみを浮かべた。
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「……おつかれ、さまでした!」
「でした~……」
二十四日、午後七時半。最後のお客を見送り「閉店」の看板を出したピロートの店内。
喫茶スペースの机に突っ伏すのは、うなり声しか出ない蒼衣と八代の二人だった。
二十四日、クリスマスイブのお菓子屋はまさに戦場だった。明け方まで必死でケーキを組み立て、休憩もそこそこに開店。途切れることのないお客の相手と追加製造に、蒼衣も八代も、厨房と店を何度行き来したかわからない。
販売に関しては、やはりおばあさん達の力が偉大だった。手際の良さは、なんとなく去年よりも磨きがかかっているような気がしたくらいだ。
手伝ってくれたヨキ・コト・キクのおばあさんたちは、閉店までいようとするのをなだめて夕方に帰ってもらった。働き盛りの三十路二人よりもなぜかパワフルな三人だが、この寒さで突然倒れられても困る。
「……今年も疲れたなあ」
「うん……」
先ほどからお互い「疲れた」しか口から出てこなくなっている。
閉店後、ざっと売り上げを確認し、想定通りの数字になっていることに安堵した二人は、一気に緊張の糸が切れてしまったのだ。
蒼衣は疲労でぼおっとする頭を振って、目の前で倒れる八代の肩を叩いた。
「八代……今年は家帰るんだろ……支度しなくていいのか……」
去年は、八代の妻である良子《よしこ》と娘の恵美《えみ》は、良子の実家に行ってしまっていたため、なし崩し的に蒼衣の部屋に泊まっていったという顛末がある。
しかし、今年は少しでも家族といたほうがいいと、蒼衣が帰ることを薦めた。
八代にはかわいい盛りの娘がいる。さすがに二年連続でお父さんが居ないクリスマスイブというのは、恵美にとっても良子にとっても、嫌なことだろうと思ったのだ。
「ほら、君んとこ用の『スノーマン・ハウス』を用意してあるから。恵美ちゃんに見せるんだろ」
ああ、と顔を上げた八代が、のろのろと席を立つ。
「本当にお疲れさま、八代。明日の準備は、僕がしておくから。……良いクリスマスを」
ワイシャツの背中に声をかける。ほんの少しだけさみしさが胸をよぎるが、この職業に就いたときから、その幸せは手放している。
同じ職業でも、せめて自分の一番大切な親友の家族には、さみしい思いをさせたくない。
しかし八代は、立ったまま動こうとしない。どうしたの、と声をかけようと思ったそのとき、八代が振り向いた。そして、蒼衣の肩を軽く叩く。
「蒼衣、今からちょっと付き合え」
「は、い?」
言葉の意味が分からずぽかんとしていると、早く上着着ろって、と急かさせる。
「え、ちょっと、上着? でも、僕、明日の準備……」
「俺も一緒に戻ってきてやるから。とにかく、行くぞ」
肩を押されるまま席を立ち、あれよあれよと裏口までたどり着いてしまう。そのうちに蒼衣の上着を渡され、流れで手に取ってしまった。
「行くって、どこに?」
隣の八代を見れば、東家用に用意した『スノーマン・ハウス』の箱を持っている。
「どこって、俺の家だよ」
「久しぶり、蒼衣くん」
東家の玄関で出迎えてくれたのは、旧知の友人であり、八代の妻である良子だった。
ゆったりとした部屋着に、化粧を落としたすっぴんという出で立ち。百五十五センチと小さめの身長ながら、やや三白眼で無表情、きっちり切りそろえたストレートボブヘアが常の良子は、つっけんどんとした、一見近寄りがたい女性に見えるだろう。
「二人ともお疲れ様。簡単な食事しか残ってないけど、食べる?」
「食べるよヨッシー! ありがとう愛してる! 君が用意してくれるならバケットのかけらだろーとサーモンの切れっ端だろうと」
「さっさと中に入りなさい。寒いんだから」
「はーい!」
冷めた態度の良子と、完全に愛妻骨抜きモードになった八代のやりとりに蒼衣はいつもながら微苦笑を浮かべる。
「……あの、僕、突然来ちゃってよかったのかな?」
蒼衣は若干尻込みしながら尋ねる。
「今さらそんなこと言う間柄でもないでしょ。どうせ連れてくると思ってたから大丈夫よ。入って」
良子が顔を傾け、中に入れとジェスチャーをする。早く早くと八代も催促したので、蒼衣は流されるままに靴を脱ぎ始めた。
「じゃ、いくよ」
「あおちゃん、はやく!」
八代の娘・恵美の催促に、蒼衣はほほえみ一つを返し、『スノーマン・ハウス』へ触れる。すると、ヘクセンハウスの屋根に付けた色とりどりのマカロンが柔らかな光を帯び、赤と緑のドレンチェリーがピカピカと点滅しはじめる。薄暗い部屋の中が、一瞬で明るくなった。
クリスマスのイルミネーション――魔法効果を纏った小さな家に、八代と恵美、良子がおお、と感嘆を漏らす。
家の中に招かれ、用意してあった軽食を食べた後。持参した『スノーマン・ハウス』を食べることになったのだ。
「試作したとき以来だなあ。いやはや、薄暗い中だと結構幻想的だ」
「さあ、お楽しみはこれからだよ」
蒼衣がヘクセンハウスをゆっくりと持ち上げる。するとそこには、イチゴで作ったサンタ帽をかぶった、雪だるまがいた。
人差し指で雪だるまの頭をつつく。すると、起き上がりこぼしのように体を揺らした雪だるまが、文字通り《《分裂》》した。
ぽこっ、ぽこっと音を立てて、雪だるまが増えていく。あっという間に、土台には複数の雪だるまがわらわらと動き回っていた。
「わあ、かわいい!」
恵美がジャンプしながらはしゃぐ様子を、大人三人が心底ほほえましいといった表情で眺める。
最初のお披露目を終え、八代が部屋の電気をつけた。
「へえ、ミニチュアハウスで遊んでるみたい。でも、なんで雪だるまが増えるの?」
良子の質問に、それはね、と蒼衣が応える。
「マルチプル・グレープのジュースで風味付けした入れたレアチーズムースだからだよ。周りは薄いぎゅうひで包んであるから、洋風大福って言っても差し支えないかも。直前まで凍らせてあったから、もう少し動き回るかなあ」
「マルチプル……増える、ねえ」
「こいつ、つかんでみようかな」
蒼衣の説明を横で聞いていた八代が、ちょこちょこと動き回っている雪だるまを指でつまむ。つままれた雪だるまはおとなしくなり、やがて動かなくなった。
「あの、食べごろになると、動きは止まるからそれからでもいいんだけど……」
「いや、エビの躍り食いみたいだな~と思って」
と八代がこぼすと、蒼衣は良子と思わず顔を見合わせた。
「ヤーくん、こういう感性の持ち主だけど、これでよくケーキ屋の店長やってられるわね。シェフパティシエとして、どうなのこれは」
「いやあ、はは、いいんじゃないかな。率直な意見って大事だよ……たぶん」
どうコメントしていいか分からず、戸惑った答えを出すと、良子はどこか呆れたような顔になった。
「そうやって、いつも蒼衣くんはヤーくんを甘やかすからいけない……」
「俺の自慢のシェフパティシエは優しいんですぅ」
「あなたは黙って雪だるまくんでも食べてれば?」
「パパー、一緒に食べよう!」
パパ一つちょうだい、と抱きつく恵美に、八代は「ほら優しく持つんだぞ」と雪だるまを渡す。
「いただきまーす」
二人同時に口に運ぶ。瞬間、親子の顔が喜びにほころび、蒼衣にも気持ちが伝わってくる。
「おいし~い! あっ、イチゴの味だった! あおちゃん、中のおいしいのなに?」
「コンフィチュール。簡単に言うとジャムだよ。四種類入れてみたんだ」
「パパはマンゴーだ。ほら、ヨッシーもあーん!」
雪だるまをひとつまみした八代が、満面の笑みで良子に迫る。しかし良子はぷいと顔をそらした。
「いや、自分で食べられるから」
「つれないなあ。いけずぅ」
八代を適当にあしらった良子も、動きの止まった雪だるまを手に取り、口に入れた。
ほんの少しだけ、ぴくりと眉が動くのが見える。伝わってくるのは「おいしい」の気持ちだ。
「これ、カシスだ。レアチーズのムースもほんのり白ブドウの風味がして、さっぱりしてる」
ありがとう、と返すと、良子は二個目の雪だるまを手に取った。
「ヨッシー、おいしいよなこれ。もう、とまらないやめられないって感じ? 小さいからいくらでも食べられるし、さっぱりしてるし」
「何個このかわいい雪だるまを口に投げ込んだの。あと、いつまでエビネタを引っ張るつもりなのこのオッサンは」
「ママ-、わたし三個も食べちゃった! ママは? ママは何個?」
「三個も食べたの? じゃあきちんと歯磨きしないとね。ママは今から二個目をもらうの」
「ねえねえ、どの子にするの?」
どれにする? と、ヘクセンハウスの周りの雪だるまを眺める東一家を、蒼衣は穏やかな心持ちで眺めている。
三人から伝わる「おいしくて楽しい」気持ち。美味しいものを、大好きな家族にも楽しんでほしいという願い。
あたたかく、愛おしく、素敵なものだ。
しかし、心のどこかで。
こんな理想的な家族の場所に、なぜ自分がいるのだろうか。蒼衣の体は、自然に後ずさる。
家族、という形を、蒼衣は八代ほど信じることができない。自分自身の人生で精一杯な自分が、他人の人生に寄り添い、生活を共にできるのだろうかと自問自答することが、近年密かに多くなった。
八代のそばにいたい、という願いは、決して家族になりたいというものではない。
恋人でもなく、家族でもなく『魔法菓子店 ピロート』という場所で、彼とバディでありたい、という意味合いが強い。
それが、蒼衣の求めていた場所であり、関係だ。
だが、それは時として、八代の「家族の時間」を奪うことにもなる。
三人を愛おしいと思うからこそ、こうして受け入れられることが、つらいと思う――あまりにも身勝手な感情が、蒼衣の中で渦巻く。
そのときだった。
「蒼衣くん、なにしてんの」
良子が、蒼衣の肩を軽く叩いた。
「あ、え、良子さん?」
「ぼーっとしてると、雪だるまがぼんくら店長とちびっ子に全部食べられちゃう」
「ああ、いや、僕は。それは、みんなのために用意したものだし」
だから僕はいいよ、という蒼衣の言葉に、良子が「違う」と短くかぶせてきた。
「みんな、の中には、貴方もいるの。あのねえ、これでも私と貴方、十三年の付き合いがあるの忘れた?」
「それは、その」
「貴方がただの夫の友人だったら、わざわざ食事なんて用意しない。どっかで食べてきてください、って言っちゃう。私、そんなにいい妻じゃないし。貴方は私の友人なの。一年で一番忙しい時期を乗り越えた友人を少しでもねぎらいたい、一緒にクリスマスを過ごしたいって思うの、いけないこと? だから勝手に拗ねないで」
良子とは、最初こそ友人の恋人、というポジションではあったが、八代とは違う冷静な視点と、敬遠されがちな見た目と反する面倒見の良さは、蒼衣にとって好ましい性格だった。故に、友人として親交を深めていった経緯がある。
良子から伝わってくる気持ちは、間違いなく、友人である蒼衣を心配するものだ。
蒼衣は、自分勝手な憐憫に浸っていたことを恥じた。
「……ごめん」
「わかればよろしい」
ほら、と手を引かれ、八代と恵美に近寄る。
「蒼衣、家のクッキーも美味しいな! バニラの甘い香りがめっちゃする!」
「おいしーい!」
二人の手元には。パキパキと割られたクッキーがあった。
ヘクセンハウスのクッキーには、バニラシュガーをふんだんに使っている。本来はスパイス入りのものが多いが、子どもでも食べやすいようにアレンジしたのだった。
「あら、二人ともしっかり歯磨きしてよ。あと、ヤーくんと蒼衣くんは、食べたらお風呂に入ってきたら?」
お店に戻るんでしょ、と良子は言う。
そう、クリスマスイブは終わったが、明日が本来のクリスマスである。予約分も当然用意しなければならないし、当日もケーキが出るだろう。
「ありがとう、良子さん」
「さすがヨッシー大好き! 愛してる!」
「……そこのぼんくら眼鏡はちょっとは黙ったらどうなの」
ストレートな八代の愛情表現を、良子はなかなか素直に受け取らない。蒼衣自身も、八代の直球な言葉を受け取るのは気恥ずかしく思うので、良子がつれない態度なのも理解できる。
少しくらい、良子の味方をしてもいいだろう。
「八代、口説き文句がワンパターンだってさ」
案の定、八代は目を丸くする。
「確かに、蒼衣くんの言う通り」
「あ、あ、蒼衣に言われるの、なんか悔しいんですけど! っていうかヨッシ―は俺の味方じゃないんですか!」
「私は自分の心に素直なだけ」
「パパもママもあおちゃんも、なかよしだねえ」
やがて夫婦漫才に発展しつつある二人を見て、蒼衣の口に自然と笑みが浮かぶ。
真っ直ぐで賑やかな親友も、冷静で世話焼きな友人も、ニコニコとそれを眺める幼子も。
確かに今、自分の目の前に――手の届く場所にあるのだと、蒼衣は思った。
名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった。
……正確には、人ではないのだけれども。
暗闇の中でも光る目に、機敏な動き。姿を消したと思っていたらいつの間にか足下にいて、じっと僕を見つめていたりするのだから不思議だ。
「やあ、今日も会ったね」
閑静な住宅街の中ぼんやりとした街灯の下、こちらを見据える双眸がある。
その人とは、黒い野良猫。
とあるきっかけで勤めた師匠の店を「武者修行をしてこい」と半ば追い出された僕は(もちろん、円満退職しているので問題はないし、師匠との関係も良好だ)東京の片隅にある魔法菓子店に勤め始めた。
勤務を始めて約一ヶ月経った頃、帰り道で見かけた猫さんに、つい話しかけてしまった。
おそらく、新しい店で働くこと、元々普通の洋菓子店で働けなくなった過去、おまけに、知り合いも皆無の知らない街――不安だらけの生活だったのが原因だと、今なら思う。
ほんの一言、二言。お腹が空いたよ、とか、今日は雨だね、とか。本当にささいな独り言から始まったのだが、今日は、どうも気分が沈んでいた。
「今日もまた、うまくやれなくてね」
優しく頼もしい師匠が、ゆっくりと時間をかけて教えてくれたのは、魔法菓子の製造技術と、この世界で生き抜くための処世術。
幸い、師匠の紹介という体もあってひどい扱いはされない。それでも、仕事の仕方や雰囲気が変われば、戸惑いは大きい。
おまけに、休日は寝ているか、少し元気があれば溜めた家事をするだけで時間が過ぎ、若干疲れていたのも原因かもしれない。
「……手際が悪い、って言われたのがちょっとひっかかっちゃって」
その後、作業スペースの位置や、使う道具に関して相談できたこと、他の職人の動線を再度確認して、自分がどう動けば良いのかを考える機会に恵まれたのは幸運だった。今の店のシェフはそういった対処が得意なひとらしく、頭ごなしに叱責されることはなかったのも、また幸いだったはずなのだが。
「情けない話だけど、指摘をもらってショックなのは悲しいんだ。そこは、自分でも『悲しい』って思って良いんだ、って、師匠は言っていた。でも、それはあくまで自分の中のことであって、他人にそれを押しつけてはいけないって。……君に聞かせるのも、本当は少しルール違反なのかもしれないけれど」
にゃあ、と猫さんはひと鳴きして、じっと僕を見る。
「……うん。明日は、少しでも変われるといいなって、思うよ」
――少しずつ慣れていけばいい、わからないことは何度でも聞いていい。相手に嫌がられてもそれは一瞬だから気にするな。指摘は辛いが、それは君を否定するものではないんだよ、蒼衣くん――。
脳内に師匠の言葉を思い出して、自分を奮い立たせる。
にゃ、と小さく猫さんが鳴いた。彼(彼女かもしれない)は、特になにか要求してくることはないし、僕も、とりわけ動物が好きなわけでもないので、ふれあったことはない。
しかし、鋭い眼光が自分を見つめてくるのが、どこか「見てくれている」気がして、実のところうれしい。あの目は不思議な魅力があるんだな、と思う。
「ありがとう、猫さん」
そう言うと、猫さんは背を向けて、建物の間にするりと入り込んだ。
「今夜もさびしくないよ」
その言葉が届かなくてもかまわなかった。情けない大人の自己満足なのはわかっている。それでも、このひとときが確実に自分の心を癒やしてくれているのは事実だった。
:::
猫の顔に型抜きしたブラックココアのサブレ生地に、つやつやのオレンジピールの砂糖漬けを目に見立てて。ホワイトチョコレートで耳・口・ひげを書けば、立派な猫の顔だ。
「仕上げはオレンジピールをたっぷり入れたバタークリームを挟んで……できあがり。『黒猫サンド』です」
「これはこれは、珍しく可愛らしいじゃないか、蒼衣にしては」
閉店後のピロート厨房内。今年のハロウィン新作を八代に差し出すと、少し予想外のコメントが飛んできて「珍しいかな」と聞き返す。
「フランス菓子に傾倒してるのは知ってるから、こういう露骨にかわいいのは作らないとばかり」
「いやだなあ『もうちょっと、ファンシーでかわいいヤツが欲しい。マカロンとかクッキーとかの感じで』って言ったの、君でしょう、東店長?」
「言ったけどさ、驚いちゃって。でもなぜ黒猫?」
「……黒猫さんには、いろいろと恩があるので」
かわいいヤツ、というリクエストを受けて、いろいろと資料を見ているときだった。動物モチーフのお菓子を見たとき、東京での修業時代、心細かった時期に見かけたあの猫さんを思い出したからだ。
いつの間にか、あの猫さんと会うことも少なくなって、店を離れる頃には存在すらすっかり忘れてしまっていたのだが。きっと、仕事への気負いがなくなってきたから、猫さんに癒やしを求めることも少なくなったのだろう。
「その話はまた聞かせてもらおう。まずは試食だ」
ああ、顔を食べるのはもったいない。そう言いながらも八代は遠慮なく猫の顔をかじる。
「ビターなココアとさわやかなオレンジの組みあわせ、良いよな。バタークリームも口ん中で上品に溶けるし、サブレ生地との相性もいい。噛めば噛むほどオレンジピールの香りが広がって、やっぱ美味い!」
言葉と同時に「おいしい……けど、もっと」という、さらになにかを求めるような気持ちが伝わってくる。
「八代、なんかひっかかってる?」
「俺はチョコとオレンジの組み合わせが好きだからいいんだけど、この味、チョコミントばりに好みが分かれるから、別の味もほしい……ニャー……!?」
語尾に付いた突然の猫の鳴き声に、発言した八代本人が驚きの表情を見せる。しかもこの猫の声は人間が真似する類の「ニャー」ではなく、本物の猫の声と聞き間違えるレベルのそれである。
「げっ、魔法効果、まさか……ニャ~」
「……『キャット・カカオニブ』を少量使いましたので……その……本物そっくりな猫の声が時折出るので……その……」
耐えられず、ふふっ、と僕の口から笑いが漏れる。
「……なんつうものを作ったんだ、ニャー」
仏頂面で「ニャー」と鳴く八代が面白くて「これ良子さんに教えてもいい?」と思わず聞いてしまった。八代が「蒼衣にしてやられた~くやしい、ニャー」とぼやくのが、また面白くて笑ってしまった。
「面白効果のため、じゃないんだけどね、実は」
八代を見送り、しかし素直に部屋に戻る気分にもなれなかった僕は、黒猫サンドを一つ手に、夜の住宅街をぼんやり歩いていた。
ここはあのときの東京じゃないから、あの猫さんがいるはずがないのだけれど。
「……ちょっと話ができたらいいな、って思っちゃっただけ」
これはあくまで鳴き声が再現できるだけで、聞いたところで猫の言葉は理解できない。
会話は相手の言葉を理解しなければならないから、よしんば話をしようとしても、コミュニケーションなど成立しない。
それでも。相手のわかる言葉で、なにかを伝えたい。
通りかかった公園のベンチで、一人座って『黒猫サンド』をかじる。ニャー、と猫の声が自分の口からでた。
静かで、優しい夜だった。
***
このお話は、
『天竺蒼衣のお話は
「名前も知らないその人に、ひと目で惹かれてしまった」で始まり「静かで優しい夜だった」で終わります。
#こんなお話いかがですか
https://shindanmaker.com/804548』
の診断メーカーより考えました。
2017-10-07
第三十七回#Twitter300字ss
お題:「酒」より改稿
※八代の「アルコール分解酵素が少ない」設定が固まる前(本編完結前)に書いたお話なので若干の矛盾がありますがご容赦ください
:::
「フルーティな吟醸香、甘いクリーム、リッチなブリオッシュ、超絶美味い!」
店長の東八代は、フォークを持ったまま身悶えた。
口の中でシロップがじゅわりと広がる。純米大吟醸酒サバラン『米寿』は、魔法菓子店ピロートの通が好む一品だ。
「世界が明るい! 今ならなんでもできる!」
「それ、酔ってるだけ。下戸なのに無理しないの」
酔った八代を横目に、パティシエの蒼衣は呆れた顔だ。
「八十八歳以上の人が食べれば神様の力が宿るかもしれないけど。八代には無理だよ」
「じゃあおれ、それまで生きるから、そんときに食わせてくれ」
「……僕も一緒に八十八歳まで生きろってこと?」
真面目に頷く八代を見て、蒼衣は心の底から嬉しそうな顔をした。
「トリック・オア・トリート! ハッピーハロウィーン!」
陽気な声が、俺の耳の鼓膜を震わせた。
夜、会社から出ると、目の前にある大きな広場でハロウィンのイベントをやっているのが見えた。カボチャのお化け――ジャック・オー・ランタンやお化けの飾りつけが賑やかな広場には、派手なメイクをした若者や、かわいらしい仮装をした子どもたちが溢れている。誰もが、日本でようやっと馴染み始めたこの祭りを楽しんでいるようだ。
しかし。家に帰ってもだれが待っているわけでもない、夜に誰かと約束をするわけでもない独り身の俺には、その様子が眩し過ぎる。秋の冷たい風を首に受け、思わずコートの裾をすぼめて通り過ぎようとした、そのときだった。
「大人も子どもも寄っといで、楽しい魔法菓子はいかがかなー!」
魔法菓子。その一言で足が止まる。
ハロウィン、魔法菓子、祭り。それらの単語が頭に浮かんだとき、ふと思い出す人がいた。
小学生のとき、十月にこの世を去ったクラスメートのことを。
広場の一角で、隣の市から出店したという魔法菓子店のブース内をちらりと覗く。ネクタイとYシャツにエプロンをかけた男性と、コック服の人物が、せわしくブースを行きかっている。
興味本位でのぞき込んだだけだったが、エプロンの男性が目ざとく俺の姿を見つけ、ニコニコと笑顔で近づいてきた。俺と同じ三十代らしい彼は、パッと見ではお菓子屋の店員には見えず、どこかの会社員にも見える。
「やあやあお兄さん、変装カップケーキはいかがです? 簡単に仮装ができちゃいますよ。今日はなんと無料! タダでプレゼント!」
「い、いや、俺は……」
「まあまあまあ、ぶっちゃけるとこれ、明日以降は売れないのわかってるんで! もらってってくださいな、色男のお兄さん~。おいしいおいしい、魔法のカップケーキですよ」
在庫処分かよ、と内心で突っ込みつつ、確かに季節ものは旬が過ぎれば売れないだろうなと納得する。男性が差し出したカップケーキを、半ば強制的に受け取らされると「ささっ、食べてみてくださいな」と勧められた。
思えばまだ晩飯を食べていない。鼻孔にお菓子の甘い香りがふわんと届き、食欲を誘う。気づけば、一口かぶりついていて――なんだ、これ。
滑らかなクリームの味は優しい甘さ、素朴な甘みのカボチャ味の生地と、中に入っていたシャキシャキのリンゴジャム(だと思う)の酸味が、控えめに言っても最高だった。なにかスパイスでも使っているのか、ただただ甘ったるいだけでないのがきっといいのだろう。普段、好んで甘いものは食べないが、断言できる。これは美味い。
「美味い」
「でしょう! おっ、お兄さんは黒猫でしたな。ヒゲと耳がなかなかに似合いますぜ」
「黒猫?」
なんのことだ? といぶかしげな顔をすると、男性はすっと鏡を差し出した。そこには、頭に黒い猫耳、鼻の頭にはピンク色の猫の鼻、頬には猫のヒゲをはやした、疲れた顔のおっさん……すなわち自分の顔が映っていた。
「うぉえっ?!」
なんじゃこりゃー! とどこぞの刑事張りの叫び声をあげる。なんだこれはと男性に詰め寄ろうとした瞬間、ブース上にある『魔法菓子店 ピロート』の文字が目に入る。そうだ、俺は魔法菓子の言葉に引かれてここに来たんだった。
「お客さま、大丈夫ですか? 私はこの店のシェフパティシエ、天竺と申します」
俺の後ろから慌てた様子で声をかけてきたのは、コック服の人物だった。
天竺と名乗った彼は、変わった風貌をしていた。穏やかだが低い声は、たしかに男性であったのだが、長い髪をひとまとめにし、肩にゆるりと流している。整った顔立ちは、一見すると女性にも見える。しかし、高さが百七十二センチの俺と同じ目線だし、よくよく見れば、きれいなだけではなく、男性的なものも感じる顔だった。
簡単に言えば「美形」の一言で済む。
「いや、これって確か、魔法効果、なんですよね? 大丈夫です、説明は聞いていたんですが、驚いてしまって」
自然界に存在する魔力を持つ食材を使って作られた、高級嗜好品。それが「魔法菓子」だ。食べればまさに魔法がかけられたような、不思議な現象が起きるのだ。今の俺の顔みたいに。
俺の言葉を聞くと、天竺は「さようでございましたか」と安心した顔を見せた。
「あの、お客さま、お酒は嗜まれますか? 少しですが、シードル……リンゴのお酒がありますので、どうぞ。ああ、こちらもサービスですからお代はいただきません。今日はお祭りですから」
スッと差し出された小さなプラスチックのコップを受け取る。酒には目がないので、内心儲けもんだと小躍りした。さわやかな酸味と炭酸、芳醇な香り、甘すぎないドライな味が口の中に広がる。
しばらくは、シードルの風味を味わいながら、物販スペースに並べられた品物を眺めることにした。
先ほど食べた「変装カップケーキ」に「金のミニフィナンシェ」と「銀のミニマドレーヌ」。アタリなら金や銀の粒が出ると書いてあって、思わず欲が出そうになる。かじれば鈴の音が出る「ベルサブレ」どんな音がするのかと興味がそそられる。
そして、新作と銘打たれた「ランタン・モンブラン」には酒が使われているとも書いてあり「おいしそうだなあ」と酒好きのそれが出てしまった。まさにお祭りにふさわしいバラエティの豊かさだ。
俺が小学生のころ、魔法菓子は憧れの存在だった。店も少なかったし、子どもにとっては(当たり前だが)特別なものだったからだ。俺も、誕生日に数えるほどしか食べたことがない。
この店は、そんな楽しさにあふれている。
『魔法菓子って知ってる? すっごく不思議で、楽しくて、美味しいんだって! 滅茶苦茶高くてお金持ちしか買えないんだよ。大人になったら、私、たくさん買うんだ』
あの子は、魔法菓子を食べたがっていた。
だけど、あの子は十月の最後、火事で死んだ。コンセントの埃かなにか――本当に、どんな家にも起こりうるような原因で――火事の前日、秋祭りで楽しく遊んだばかりだったのに。
こんなことを思い出すのも、多分、同僚に子持ちが多くなってきたとか、独り身をいじられることが多かったとか、本当にそういう些細なことが原因なんだろう。人恋しい、というものか。だから、余計にあの子のことを思い出したのかもしれない。
小学校の学校行事だった秋祭り。彼女と偶然、一緒に工作を作ることになった。学校の木から採れたどんぐりと枯れ葉を使って、紙皿に貼るという、今考えれば謎の飾り物だ。それでも当時の俺はまあまあ楽しいと思っていたし、同じテーブルでそれを作るあの子とも楽しく話をしていたはずだ。
なんでもないはずの行事が、悪い方向に思い出深くなってしまった。
俺の背中で、元気な小学生の声がする。振り返り、男女入り混じり、楽し気な雰囲気で去っていく背中をまじまじと見つめてしまった。
三十路も過ぎて、そんな感傷に浸る暇などないのは十分承知している。だが、一度思い出してしまったものをどうしたらいいのか、わからない。
……どうしてこんなに感傷的になっているのだろうか。シードルのせいだろうか。
どうしたらいいかわからない感情を持て余していると、先ほどの天竺なるパティシエが「本当は一杯だけなんですけど」と小声で言いながら、お酒のカップを差し出してきた。
「どこかお疲れのようなので。店長には内緒です」
天竺が言ってちらりと見やったのは、最初に声をかけてくれた眼鏡の男性だ。彼は相変わらず陽気に声をかけ、お祭りを盛り上げている。賑やかさのある場所に戻りたくなくて、差し出されたカップを手に取った。
「秋のお祭りと、その……魔法菓子には、あまりいい思い出がないんだ。貴方の前では申し訳ない話だが」
悲しい、と言う気持ちが止まらない。表の喧騒が遠ざかっていく。
「……昔、ちょうどこのくらいの季節に、クラスメートを亡くしたことを思い出したんです。まだ小学生で、魔法菓子に憧れていた、女の子でした」
これまで、他人に話したことはなかった。というよりは、今日の今日まで、こんなにはっきりとあの子のことを思い出すことはなかった。
俺は歳を取り、しかし、あの子は十歳でこの世を去った。彼女が生きるはずだった人生がなくなった、ということが、突然自分の中に重くのしかかる。ふがいなく泣きそうになったそのときだった。隣に居る彼が不意に口を開いた。
「ハロウィンが本来どんな行事であるのか、お客さまはご存知でしょうか」
知らないです、と答える。仮装をした子供が、近所の家にお菓子をねだりに行くもの、くらいの認識だ。
「所説ありますが、ハロウィンは日本でいうお盆のようなお祭りらしいです。先祖の霊に混じり魔女や物の怪の類が闊歩するので、それらから身を守るために仮装する……というお話もあります」
突然語られたハロウィンの豆知識に、俺は首をかしげる。
「お盆、ですか」
「はい。でも、ここは日本なので。この喧騒の中で、いろんなひとが、夏とは違う里帰りをしてるかもしれませんね。信じるか信じないかは、お客さまのご自由に、としか申し上げられませんが」
「……そういうのが、見えるんですか、あなたは」
「さあ、どうでしょう」
自然な様子で、人差し指を口に当てて小首をかしげる。成人男性らしからぬ仕草だが、妙に似合っている。仮装もしていないはずの彼が、急に魔法使いかなにかに見えてきて……魔法菓子を作る職人なのだから、なにかしら不思議な力を持っていてもおかしくないのでは? とまで思ってしまった。
「ただ、たまにだれかのことに想いを馳せることは、悪くないことだと……僭越ながら思います」
どこか不器用な笑みを浮かべ、天竺は言う。それは、泣き出しそうになった自分を肯定する優しい言葉に感じられた。
「……ありがとう」
先程の悲しさが薄れているのがわかった。そのとき目に入ったのは、オレンジ色のモンブランクリームにジャック・オー・ランタンの目と口がある「ランタン・モンブラン」だった。
「あの、すいません。これを一つください」
:::
家に戻った俺の手には、先程の魔法菓子店で買ったケーキがある。
帰宅後のルーチンを早々と終え、軽めに晩飯を済ませてしまうと、ケーキを皿に乗せた。
フォークを差し入れると、モンブランクリームが淡くオレンジ色に光る。まさに「ランタン」だ。せっかくなので部屋を暗くすると、より一層わかりやすくなった。
あたたかなオレンジ色の光。ケラケラと笑い出しそうなジャック・オー・ランタンの顔は、怖いながらも愛嬌がある。
一口大にすくって、口に入れる。コクのあるカボチャの甘さとお酒の香り、中身の柔らかな抹茶クリームのほろ苦さが合っている。中心部には粒あんが少し入っていて、アクセントになっている。
なるほど、和風のモンブラン。ランタンは提灯か。故郷のお盆に飾る提灯を思い出す。
ぼんやりと光を眺めていると、そのなかに人影が見えた。
「あっ……!」
あの子だった。こちらを見て、にこりと笑う。驚いて二度見すると、あの子の姿は消えていた。
:::
「ランタン・モンブラン、すごいなあ」
名古屋でのハロウィンイベントを終えた夜、急いで片付けを終えた八代が言う。
彼の手には、淡い光を放つ「ランタン・モンブラン」があった。
光を放つちょうちんカボチャに、みりんを合わせて甘さを引き出しモンブランクリームに。みりんはいわば「米のリキュール」である。濃厚で風味のあるそれは、カボチャの甘さと相性が良いのだ。普通のモンブランなら中身は真っ白なシャンティイが主流だが、抹茶の苦味と粒あんのアクセントをつけて和風に仕上げた一品だ。
「ランタンいらずな明るさだな。ほーれ、トリック・オア・トリート〜」
モンブランを蒼衣の顔に近づけ、からかう様子の八代に苦笑するしかない。
「いたずらしなくてもいつも勝手に食べてるだろ、君は」
「雰囲気を楽しみたまえよ。パティシエくんのいけずぅ」
「じゃあ、雰囲気出ることを教えてあげようか?」
「なんだよそれ」
「これの主な材料の『ちょうちんカボチャ』の魔法効果はぼんやり光ることなんだけど、一部の地域で語られてる伝承があってね」
「伝承?」
「稀にね……このカボチャの光を眺めていると、亡くなった人の顔が浮かぶんだ。だから、その地域ではお盆の時期に、収穫したてのちょうちんカボチャを使って、お迎えする習慣があるんだよ」
ちょうちんカボチャの産地と、魔法菓子職人の間で有名な伝承である。魔法効果ではなく、いわゆる怪談や超常現象といったもので、魔法菓子職人の力では、実現不可能だ。
「珍しいな、季節外れの怪談話なんかして」
「ちょっと、ね」
亡くしたひとを想ってくれた男性客を思い出したからだ。この伝承は彼に伝えなかったが、もしかしたら、という、なんともいえない予感があった。
「ハロウィンは日本でいえばお盆みたいなもんだからなあ、それもおもしろい話だな」
だね、とうなずく。
「魔法菓子職人にはできないことだけとね」
「できたらおまえ、ホントの魔法使いになっちまうな」
そうだね、と答えて、ピロートのハロウィンは終わりを迎えようとしていた。
「水着なんて持ってないのに」
断る言葉が逆効果だったと気づいたのは、ショッピングモールの衣料品売り場に連れて行かれた後だった。いつの間にかラッシュガードなる上着とシンプルな短パンのような水着が八代の手にある。
八月下旬の月曜日、夕方。僕と八代の店「魔法菓子店 ピロート」の開店を約二週間前に控えた日。今日予定されていた作業を早めに切り上げ、八代の運転する車で向かったのは、名古屋市の港近くにある大型商業施設付属のプールだった。
夜でもプールが開いてるのかと驚いたが、どうやら最近は「ナイトプール」なる夜の営業があるらしい。
「水着持ってないなら用意しないとな。もらったチケットが四人分なんだよ。しかも今月中。開店準備で忙しいからこそ、今日はあえて……遊ぶ! 息抜きだと思ってくれたまえ、パティシエくん」
八代は会社員時代から、仕事とプライベートの切り替えが上手い、と聞いてはいたが、実際に一緒に仕事をするとよくわかる。どうしてもだらだらと仕事をしたがる自分には新鮮な視点だ。でなければ、寝る間も惜しんでお菓子を作り続けかねないし、要らぬ心配をしすぎて無駄なことをしていると思う。
適度に休憩を促してくれたり、開店までに必要な分量ができたことを教えてくれたり。必要な手続きや書類のことを気にかけてくれたり。
開店準備が慌ただしいのに疲れがたまっていないのは、きっと彼のこうした配慮もある。
そういった理由もあって出かけることになったのだが、水着を持ってない僕の分を調達するために、プールに行く前に店に寄ったのだった。
「一番手頃なのを選んだから財布は心配するな」
「そういう問題じゃなくて。その、プールって感じじゃないでしょう、僕」
それでも行き渋ったのは、プールはもとより、自分自身が娯楽施設ではしゃげるような性格をしていないからだ。それに、誘うなら親戚か、もっと親しい友だち――恵美ちゃんの、保育園の知り合い――がいるだろう。そう言うと八代は、
「他所のお子さん一人預かるよりは、勝手知ったる成人男性の面倒見るほうがよっぽど楽だ。喉が渇いたら自分でお茶も飲めるし、飛び込むでもないし、走り回らないし」
と、それ以外の答えはありません、と言わんばかりの答えを返してきた。
……五歳児と比べられるのも情けない気がするが、提供主がそう言うならと、これ以上言い訳を並べるのは止めた。
どこを見ても人、人。人いきれとはまさにこのこと。
煌々と明かりに照らされるプールを見て、人の多さと賑やかさに息を呑んだ。
「僕はなにをすれば」
戸惑っていると、あおちゃんこっち! とかわいらしい水着を着た恵美ちゃんが僕の手を引いた。「付き合ってもらっていいか」と言う八代に快諾の返事をし、導かれるままに歩き出す。
慣れないサンダルのせいでおぼつかない足取りの男と、五歳の女の子の組み合わせは奇特に見えるのか、道行く人が若干訝しげな表情だ。いたたまれなさを感じながらも、恵美ちゃんが子供用プールに入ってしまえば、あとは似非監視員をすればいいだけだった。
子供用プールで手を付いた恵美ちゃんは、
「あおちゃん、見て、ワニさん泳ぎできた」
と、保育園で覚えた泳ぎを自慢してくれた。
すごいとほめれば、小さなワニ恵美ちゃんはニコニコ笑う。一緒にやろう、と促されたがやんわりとお断りする。このプールで大人が寝転ぶには邪魔だろう。あおちゃんはパパよりちょっとおっきいもんね、とあきらめてくれたものの、たぶん君のパパでもできないと思うよ、とは言えなかった。
人が少なくなったときを見計らい、手をつないでバタ足の練習をしたり、仰向けになってラッコのまねをしたり。特にラッコのまねはツボに入ったらしく、何度もせがまれた。正直、同じことのくりかえしなので、飽きてきてしまうのだが、預かった以上はいい加減なことはできないと、辛抱強く付き合っていた……つもりだったのだが。
少し、疲れたな。そう思って恵美ちゃんから目を離した一瞬だった。「きゃあ」という声が聞こえて、慌てて振り返る。
「今、この子、足が滑って転びそうになって。倒れてはないから大丈夫だと思うけど」
同い年くらいの男性が、恵美ちゃんの背を支えていた。すわ不審者か、と思ったが、言葉の意味と姿勢から、逆に助けてもらったのだと理解して、血の気が引く。
「すいません! 一瞬、目を離してしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ~。お嬢ちゃん、助けるためとはいえ、いきなり体を触ってごめんね」
では僕はこれでと男性は言い残し、自分の子どもらしい男の子の所へ行ってしまった。
「ごめんね恵美ちゃん、僕が見てなかったから。痛いところ、ない? 大丈夫?」
恵美ちゃんは転んでない、大丈夫と言うが、直接見ていない僕は気が気でない。しかし、いくら親しいとはいえ、女の子の体をそうジロジロ見られず戸惑っていると、八代が良子さんと共に現れた。焦る僕は「スライダーに乗ろうぜ」と誘ってくる彼を制し、先ほどの転倒のことを話した。
八代は良子さんと一緒に恵美ちゃんの体を確認したあと「大丈夫だと思う」と僕に言った。
「頭をぶつけてなけりゃ、そんなに心配しなくても。怪我もしてないし」
「でも、僕がいたのに……申し訳ない」
未だオロオロする僕の肩を八代が叩く。
「大丈夫だって。親だって四六時中監視できないから、気にすんな気にすんな」
スライダー行こうぜ~、といつもの調子の八代に、僕のほうが釈然としない気持ちを抱く。だけど、恵美ちゃんも普段どおりの様子なので、とりあえずは納得する方向で自分の気持ちをなだめた。
「でも八代、スライダーは身長が足らないんじゃ」
恵美ちゃんはまだ五歳。遊べない遊具があるのはよくあることなのでそこを気にしていたのだが、八代は「うんにゃ」と首を横に振る。
「乗るのはお前と俺」
「僕!?」
聞けば、恵美ちゃんは前々から良子さんと一緒に泡のプールで遊びたいと言っていたらしい。いつの間にかプールを出て良子さんと去って行く恵美ちゃんは「いってらっしゃーい」と僕に向かって手を振った。
「ハブられたかわいそうなパパに付き合ってくれよ、早く行こうぜー」
楽しげな八代に肩を組まれて、半ば引っ張られる形で連れて行かれた。
「……存外高いところから滑るんだね」
スライダーに乗るための階段を登り切ると、プール全体が見下ろせるくらいの高さだと気づいて、思わず足がすくむ。
「あれ、苦手だっけ」
「いや、その」
嫌だと突っぱねるほどではないが、普段しないことへの不安はすぐに抱く癖はある。どうなるかわからないことにはネガティブなイメージを持ちやすい。スライダーは「地上に戻る」というのは分かっていても、外から見るだけではわからないあの曲がったところや、ざあざあと大きな水の音、なによりも、地上から何メートル離れているのか考えたくないくらいに高いので、恐怖心が勝る。
だが、後ろに待っている人が居ることに気づいて、慌ててライフジャケットを着込む。大人二人は余裕で入れる大きな浮き輪(で、良いのだろうか)に乗ると、一気に滑っていった。勢いよく滑り落ち、曲がりくねるため、右に左に体が大きくゆれる。落ちていく感覚への恐怖と緊張で「ひぃ」とか「ああ~」という、逆に気の抜けた声が出る。
それに比べ、僕の向かい側に座る八代はギャーギャーと楽しそうな声を上げている。その余裕はどこから出てくるのか、彼の根性の太さを若干うらやましく思いつつも、それもすぐに曲がる衝撃で吹き飛んでしまった。
「うう……」
「ぐったりしてんなあ、蒼衣」
プールサイドにある休憩用テーブルにつっぷした僕に、八代が飲み物を差し出してくれた。しかし出てくるのは、ははは、と力ない笑いのみ。
結果、スライダーを滑り終えた僕は、軽い乗り物酔いを起こしてしまった。
「スライダー……予想以上にびっくりしちゃって。あんなに大きくて、勢いがあるんだねえ。こう、公園の滑り台のようなものかと」
「今年リニューアルしたらしいぞ。やあ、やあ、面白かった。こっそり蒼衣の反応も見てたんだけど顔が引きつってて美形が台無しだったのが申し訳ないけど面白くて」
「……楽しそうだねえ、八代」
「そりゃあ、あんなの小さな子どもがいたら乗れやしないからな」
もう一回乗ってもいい? と楽しそうに聞いてきたから、いたずら心が動いて「行くなら君一人で」と返した。すると八代は「ならやめとくわ」と少し残念そうな顔をした。その顔は、まるで初めて出会ったときの――高校生のときのそれに似ていて、途端に郷愁が襲った。
ごめんね、と詫びを言った後、あまりにも胸が一杯になった感情に、蓋ができなくなった。
「こんな遊びを、また君とできるとは思わなかった」
口元が綻び、嬉しさがつい滲む。……その直後に、いつこの関係が終わるのかと、恐怖が襲う。さっきのスライダーなんて比じゃないくらいの、先の見えない、曖昧模糊とした不安。
本来なら、とうに切れてしまう縁だったはずだ。
部屋に引きこもっていたときに。あるいは、長野に行ったときに。あるいは、八代が結婚したときに。あるいは、子どもを授かったときに。
ライフステージが変われば、付き合う人間も変わる。就職や家庭を持つことはもっともたる例だ。それはつねづね良子さんが愚痴をこぼしていて(彼女には、僕にとっての八代のような存在の友人がいる)出産と育児の負担が大きい女性のほうが顕著なようだが、男性だってそれはある。
八代は、結婚して良子さんの「夫」になり、恵美ちゃんの「父」になってしまった。……しまった、と表現してしまう自分の浅慮も情けないが、実際、彼は端から見ていても立派な夫で父なのだから仕方がない。
キャリアウーマンの妻と共に家庭を回し、子どもの面倒もよく見る。イクメンというと本人は反論するので言わないが(彼曰く「イクメン」とか言う以前に俺は「父親」だから、育児するのは当然のこと、となんのことはない調子で言うのだ)亭主関白そのものだった自分の父親と比べると、雲泥の差がある。
その上で、彼は会社員という立場を捨てて、店を作った。まだ小学校にも上がっていない子どもを抱えて、よく良子さんがOKしたものだと思う。しかし彼女は「やーくんの決めたことだから」と涼しい顔で言う。
あまりにも、あまりにもできすぎた友人。それは、高校を卒業して同じ環境に居られなくなった頃から抱えている不安。
先に大人になっていく八代と、いつまでも自分のことすらままならない自分。
自分に出来ることは、おいしいと言ってもらえるお菓子を作ること。ただそれだけだ。
そんな人生を「店」という形で八代と共に過ごすことができることになって、尊く、幸せではあるのに。
そう、ひとたび離れてしまえば、いつもは奥底で眠る魔物が鼻を鳴らすのが聞こえてくる。
いつか「一緒」はなくなるぞ。お前とあいつの世界は違うぞ、と。
子どもを持つ親の苦労や気持ちを、子どもの居ないお前が分かるか、と。
現にさっきだって、安全に気を配れなかったじゃないか、と。
「……おいおい、そういう台詞は、あと四十年後くらいに言ってくれよ」
「四十年……って、七十代でスライダーは無理があるでしょう。そういう意味じゃなくて君はもう、僕とは違って――」
言葉を続けようとしたとき、良子さんと恵美ちゃんが向かってくるのが見えた。恵美ちゃんの足取りが重い。おそらく、もう眠いのだろう。時計を見れば、二十時を過ぎていて、今帰らないと明日に響く時間だった。
ご飯は、と聞くと、ここに来る前に屋台のご飯を食べたと良子さんが言う。眠い、と目を何度もこすり、眠気を訴える恵美ちゃんが、パパと呼ぶ。八代がすぐに席を立った。
「眠いよな。シャワーでいいから、髪の毛洗えるか? もう少しだ。パパが抱っこするからな」
手慣れた様子で恵美ちゃんを抱きかかえ、注意深く様子を観察する八代の横顔は、すっかり「父親」の顔が板に付いている。
今この瞬間、至らない自分と目の前の世界がぱっきり割れたような感覚が襲う。「ほうら、ごらん」と、僕の隣で魔物が囁く。
帰るよ、という良子さんの声で我に返る。すっかりぐずった恵美ちゃんを抱えた八代の後ろをついて行き、プールを去ることになった。
着替えと退場を大慌てで済ませ、ぐずり放題の恵美ちゃんをなんとかジュニアシートに乗せた後、車で帰路に向かった。
着替えさせるときに盛大に暴れた(と、良子さんが言っていた)恵美ちゃんと、その対応に疲れた良子さんは、後部座席でそれぞれ寝息を立て始めた。
車内で起きているのは、スライダーでの疲労もずいぶん和らぎ、すっかり普段通りに戻った助手席の僕と、運転担当の八代だけだ。
「二人とも、寝ちゃったみたいだから……ラジオ、ボリューム下げていいかな」
申し出ると、頼む、と言われたのでカーステレオの音量を小さくした。
「ありがとな。その代わり、俺が寝ないようになんか話してくれ」
「ええー」
「まだウチまで三十分あるだろ。助手席に乗った者の宿命だぞ。ドライバーの相手をしたまえ」
「安全第一でしょうが」
「居眠り運転よりマシだ」
急かされたので、まずは今日誘ってくれた礼を述べ、プールでの恵美ちゃんの様子を話した。
「お前に自慢したいってずーっと言ってたから、うれしかったろうなあ。ああでも、何度もラッコやったのはしんどかったよな、すまんかったわ」
我が事のようにはにかむ八代の顔は、やはり「父親」のもので。……それはきっと、僕がこの先、手にすることはおそらくないであろう「大人」の顔だ。
八代の顔を眺め続けるわけにもいかず、かといってなにを言えるわけでもなく、顔を背ける。窓から流れていく夜景を眺めていると「蒼衣」と名前を呼ばれた。
「俺はさ、俺がどうあろうと、たぶんお前と楽しくスライダー乗ろうぜって言うと思うぞ」
「……八代?」
「変わんないんだよ。大人になっても。結婚しても……子どもがいても」
あ、と声が出た。そう、八代は僕が密かに気にしていたことに、気がついていたのだ。
「そりゃあ、子どもがいるから行く場所も遊ぶ場所も変わっちまったのは事実だけども。でも、人の親になったからって、自分の友だちと遊ぶことができなくなる道理はないだろう。今日だって、恵美はヨッシーが見ててくれたし。逆に、お前が恵美と遊んでくれてたから、俺とヨッシーがスライダーでいちゃいちゃできたし」
「でも、家族の団らんを、邪魔してるんじゃ。それに、今日は恵美ちゃんを」
「そう思ってたら、最初から誘ってない。もうちょっと信じてくれよ、蒼衣。この年でひとの縁をつなぎ続けるのは、簡単なことじゃないんだから」
真剣な声音から一変し「おじさんも苦労してるのよ~?」と冗談めかした言葉が飛んできた。
「そう、だね……ごめん」
それぞれに人生があり、繋がる縁もあれば、離れてしまう縁もある。繋がり方が、自分の思っているものと違う相手もいる。世界が違ってしまうことを嘆くこともある。
僕にとっての、八代との出逢いや師匠、魔法菓子との出逢い。最初の店でのことと、五村シェフとの別れ。そして、新しい店のこと。
「僕は、怖いんだと思う。自分と違う、しっかりした君と一緒にいるのが」
そう。僕は、世界が違う……「同じ」でないのが、本当は不安なのだ。
他者と違うから、一緒にいられない。今のところ、特定のパートナーと関係を築くことも、家庭を作って子どもを育てることもしないし、他人の安全にも気を配れない。気分が落ち込んだとき、うまく切り替えできない……世間でいう「普通の大人」になれない自分は、いつか「世界」から忘れ去られる――子どもじみたその強迫概念は、やはり魔物の形をしていて、治める術を忘れている。
「蒼衣は、違うのが怖いのか」
「怖い、んだと思う。他人と自分が違う、っていうのはわかってるつもり……だったんだけど。違う、ってわかっちゃうと、疎外感があるというか。遠い存在に感じるというか。今日も恵美ちゃんを危ない目に合わせちゃって。それに気づけなくて。ごめん、ほんと、なんでこんな」
声が震える。情けない姿を見られるのはこの十年近くの間に二度や三度じゃないのだけれど、それでも本来なら、他人には見せない類の感情だろう。だから自分はだめなのだ、と自己嫌悪に陥いりそうになったときだった。「あのさ」と、八代の落ち着いた声が降ってきた。
「……他人と違う、ってのが、俺にとっては面白いことで。だからこそ離れがたい、っていう感情になる、みたいな……?」
「面白い?」
「面白い! 今日みたいにスライダー乗ってヒイヒイ言ってる蒼衣は面白いし、他人から聞く子どもの話は新鮮だし、こうやって話をするのも、なかなか趣があって面白い。あと、恵美のことはホントに気にするな。助けてもらってラッキーだったな、くらいに思っとけ。あんまり抱え込むなよ。そうやって責任追いすぎるのもしんどいぞ。子どもといりゃあ、金玉ヒュッってなるようなことたくさんあるんだし、そんなことでおまえをいちいち責めたりしないよ。むしろ、きちんと教えてくれてありがとな。恵美を大切に思ってるってこと、ちゃーんと伝わってる」
だからさ、と八代は朗らかに言う。
「俺とおまえは確かに違うけど、以上の理由から、俺がおまえから離れる気はないんだよな、残念ながら。観念したまえ、心の友よ。言ってしまえば、君とは公私共々、一蓮托生の運命なのだよ」
ふふん、と鼻を鳴らしそうな勢いでまくし立てられる。あっけにとられてしまい、返す言葉が見つからない自分を見て、八代は「なんだなんだ、俺なりのプロポーズだぞ」と冗談めかして追い打ちをかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って。君、なに言って!」
プロポーズ、運命、と言う言葉が頭の中をぐわんぐわんとかけめぐる。もちろん、本来の意味で使っている訳ではないのは、重々承知だ。それでも、自分に向けられた信頼のそれが気恥ずかしく、同時にうれしくてこそばゆい。
「なにって、店の借金がわんさか残ってるからなあ。まさに一蓮托生! 共に白髪が生えるまで! 凄腕パティシエくんがたくさんお菓子を売ってくれないとウチはつぶれてしまうし一家が路頭に迷う! かわいそうな俺の嫁と娘!」
「脅さないでくれ~、売れるかどうかも不安なんだぞ、僕は」
「自信持てよ、大丈夫だって。おまえのお菓子は世界一だから! まああれだよ、もろとも地獄へ行こうぜってことで」
「借金地獄ってこと?」
「そうとも言う!」
僕が発端のジメジメした雰囲気など一瞬で吹き飛ばす八代には、手も足も出ない。
ああもう、この際地獄だろうがなんだろうが構わない。君と一緒にいられるなら、どこにでも付き合うよ。
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「やー、今日も溶けそうな暑さだ。生ケーキの売り上げたるや悲惨で俺の心が溶けそうだ」
八代が、厨房と店内をつなぐドアに寄りかかりながらぼやく。
「上旬の売り上げが良すぎたんだよ」
苦笑しながら答えてあげると「来月の一周年で巻き返してやる」と早くも立ち直っていた。
八月も下旬、ピロートの初めての夏が終わりにさしかかっている。
百貨店出店の影響で一時的に店は賑わったものの、連日の暑さは外に出る気を失わせるのか、客足は少ない。
「げえっ、この暑さの中迎えに行かねばならないのか。オーブンの前にでも行って暑さに慣れておこうか……いやしんどいよなそれ……」
「暑いからやめたほうがいいよ」
あと数時間後に迫った恵美ちゃんのお迎えのことを思い出したのか、八代は再びげんなりした顔になった。
ケーキの温度管理もあるので店内は比較的涼しいのだけれど、それはそれで外との温度差が激しいので、八代の気持ちもわからないものではない。
かくいう僕も、金のミニフィナンシェの仕込みのためにオーブンの近くにいる。むわりとした熱気は冷房を効かせていてもどうにもならなくて、じんわり汗がにじむ。
「あ~、こうなると海かプールが恋しい……あ、今年もそういやもらってたっけ、チケット」
「チケット?」
繰り返すと、八代はなにかを思いついた表情になり「いいこと思いついた」と楽しげな様子になる。
「プールのな。そして今年も四人だ。どうだパティシエくん、来週月曜の夜の予定は?」
人付き合いの少ない自分に、予定なぞ滅多にない。
「空いてます、けど」
「じゃあ決まりだな。去年買った水着は……片付けた中にあったか……?」
「……ごめん、自信ない」
「来週までに見つけておくこと!」
上機嫌になった八代は「じゃあ来週月曜は少し早めに店閉めようぜ。なあに告知しておけば大丈夫だ」と、早速告知文をパソコンで作りだした。
去年みたいに、行くのを渋る気持ちはない。向けられた言葉を素直に受け取って、一緒にいられる時間を楽しめばいいってわかっているから。
「一蓮托生の運命、だからねえ」
小さな声でつぶやけば、八代が振り向く。
「なんか言ったか?」
「内緒だよ」
「なんだい水くさい」
「そのうちにね」
「俺に隠しごととは、やるなイケメンパティシエ。涼しい顔しやがって」
「イケメンは余計だよ」
この一年、いろいろあった。弱音も醜いところもまた見せてしまったけれど、それでも君は変わらずそばに居てくれる。
一年前からずっと君から受け取っていた気持ちを、やっと自分の言葉で返せそうだ。
――今日のフィナンシェ、おいしく焼けるといいな。
焦がしバターにバニラシュガー、蜂蜜に卵白、そして魔法の金粉を少し。とろりとしたフィナンシェ生地を絞り袋に入れて、シリコン型に流し込んでいく。
――彼に、きちんと気持ちを伝えるためにもね。
心の中だけで語りかけながら、生地の入った型をオーブンに入れ、蓋を閉めた。