「なあ、おまえコーヒーっていつから飲んでた?」
「コーヒー?」
 まだまだ夏の陽気が残る九月の始め。ぽつぽつと客足が戻りつつあるが、まだまだ繁忙期には至らぬのんびりした午後の「魔法菓子店 ピロート」の店内。
 店長の東八代の問いかけに、シェフパティシエである天竺蒼衣は小首をかしげる。ちょうど客が帰り、八代から商品の補充を頼まれたタイミングだった。
「なんでまた」
「いやさ、さっきのお客さんとちょっと雑談で。小さな子どもがいるからコーヒーや洋酒が入ったケーキは選べないですよね~って。洋酒はともかく、コーヒーとかはいつからあげてもいいか悩むですねとか、そういうの。まあウチのケーキ、ほぼ洋酒使ってないんで安心してくださいってオススメしまくったけどさ」
 ピロートのターゲット層は、老若男女問わないファミリー層。故に、洋酒や刺激の強いハーブ類などは滅多に使わず、幼い子どもでも食べられるものがメインだ。
「コーヒーか。うちは中学生になってからって言われてたよ。まあ、僕はともかく、咲希は無視して小学生から友だちとスタバとか行ってたみたいだけど」
 少年時代、生真面目にも親の言いつけやルールを守ることが「正義」だと思っていた蒼衣は、正しい(といっていいかわからないが)反抗期を過ごした妹の咲希を思いだし、苦笑を浮かべる。今となっては、自分の守っていた「正義」など、存外小さなことでしかないと思えるようになったが。それも二十歳を越えてからやっと身につけた感覚なのだから、つくづく自分が生きづらい人間なのだと改めて思う。
「俺は特に禁止されてなかったからさあ。でも、自分が親になると案外悩むもんでさ。今も、恵美にあげる飲み物で、コーヒー牛乳ならいいのかどうか、ヨッシーとたまに議論する」
「八代でもそんなことで悩むんだ」
 悩む、という単語が似合わない男だと勝手に思っていた蒼衣は、うっかりそんなことを口にする。すると、八代はわかりやすく口をへの字に曲げた。
「おまえ、俺をなんだと思ってるんだよ」
「そういうところ、悩まないと思ってて」
「俺でもかわいい娘ちゃんのためなら悩みますよ、パティシエくん。まあそういうわけで、コーヒー味、あってもいいとは思うんだけど。そこんところが悩むよなあ」
 そうだねえ、と蒼衣も同意する。しかし頭の中には、八代とは別の懸念も浮かんでいた。
 コーヒー味のケーキといえば定番の『オペラ』だろう。ただ、店のスペシャリテ『プラネタリウム』がチョコレートメインのケーキとしてすでにある。蒼衣にとっては、その部分も悩みどころではあった。
 品数を増やせばそれだけ作業工程も多くなる。一人で厨房を回す蒼衣にとっては、一品増やすだけでもそれなりの調整が必要になる。もう少し要領がよい職人なら可能かもしれないが、蒼衣は己のキャパシティをよく知っているつもりだった。たとえそれが、他の職人から見て小さなものであっても。
 無理をしてすべてが回らなくなるほうが、店に迷惑をかける。
 理想と現実に挟まれ、思考の海にどっぷりつかりそうになる寸前に、来客を知らせるベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
 朗らかな八代の声につられて、蒼衣も条件反射で笑顔を作る。接客をするための心持ちに切り替えて、先ほどまでの思考は、とりあえず奧に引っ込めた。


 その晩。仕事を終え、八代と別れた蒼衣は自室にいた。簡単に夕食を済ませ、片付けもそこそこにして、本が詰め込まれたカラーボックスをあさり始める。
 若い頃から集めたレシピ本や資料をひっくり返し、探しているのはオペラやコーヒーの項目である。
 昼間、確かに一品目増えることへの懸念はした。しかし、ピロートは開店して一年経っている。定番となったケーキの味を守りながらも、目新しい物が好きな中部地方で生き残るには、やはり新商品の開発も進めなくてはいけない。
 訪れてくれるお客に、おいしく楽しい魔法菓子を食べてもらうために。そして、自分が一番自分らしく居られる場所を守るために。周りを幸せにするためには、自分が幸せになること――三十路も過ぎてやっと気づいた、簡単で難しいことを続けるために。
 目を皿にして本をめくる蒼衣に、これだ、と思う材料が飛び込んでくる。頭の中に、つぎつぎとイメージが湧いてくる。
 今まであった、お客からのリクエスト。
 老若男女食べられる、ピロートに合う物。
 子どもでも食べられるもの。
 目新しくおもしろいもの……。
 蒼衣はレシピノートを開くと、一心不乱に脳内のイメージを紙上に描き始めた。

 
 それから約三週間後の十月一日。すっかりハロウィンの装飾に彩られた閉店後の店内で、蒼衣は厨房と店内をつなぐドアから顔を出した。
「八代、一段落付きそう? 新作を試食してみて――」
「待ってましたー!」
 カウンターの作業台前で座っていた八代は、蒼衣の言葉でがたん、と勢いよく席を立つ。いそいそと手に持っていたタブレットの画面をオフにし、あっという間に蒼衣の目の前に現れた。
「素早すぎるね」
「試食と聞いてすっとんできました」
「……オーナ-、出られないです」
 ぴったりとドアにくっついた八代へ苦笑交じりに告げると、彼は照れ笑いの表情になりドアから離れた。
「こりゃ失礼。つい待ちきれなくて」
「大人げないなあ」
「こういうときくらい、少年の心を復活させても罰は当たらない」
 ふんぞり返りそうな勢いの八代を表面だけはあきれ顔で、しかし内心その無邪気さを好ましく思いながら、蒼衣はドアを抜ける。そして、カウンターへ皿を置いた。
 皿の上に乗っているのは、四角く、層が綺麗なケーキ。全体的に黒く、表面はつややかなグラサージュで、金箔がアクセントに散らされている。
「これは、オペラ?」
「うん。オペラなんだけど、とりあえず食べてみて」
 八代はフォークを手に取り、一口含む。
「うまい……けど、オペラ? これを、オペラって言っていいのか?」
 すぐに、八代から困惑した気持ちが伝わってくる。予想はしていたが、ここまで困られると、作った当人である蒼衣もどういう顔をしていいのかわからなくなってきた。
「コーヒーの味もするし、バタークリームは濃厚でうまい。ジョコンドは『プラネタリウム』のと同じだろ。というか、一番問題なのは、この層になってる黒いの……まさか、あんこ使ったのか?!」
「そう。和風オペラ……イメージは『シベリア』。前に、おばあちゃんたちが言ってて、うちには和風のものがないねって」
 シベリア。戦前の日本で流行った、カステラに羊羹やあんこを挟んだ、洋菓子とも和菓子とも言えない日本独自の菓子のことだ。
「あと、ほら、ここら辺だと、小豆トーストとかあるじゃない。バターとあんこの組み合わせって意外においしいから」
 小豆トーストは、名古屋を中心に中部地方の喫茶店モーニングで定番の商品だ。おまけに、蒼衣の実家がある街には、パイ生地にあんこを包んで焼き上げた和洋菓子で有名な店がある。シンプルだが味わいは濃厚で、後を引くおいしさだ。
「コーヒーは『チコリコーヒー』を使ってるから、カフェインは入っていないよ。苦みはあるけど、バターのような濃厚なクリームと合わせると、コーヒー牛乳みたいな味わいになる」
 チコリコーヒーとは、植物のチコリの根っこを乾燥し、粉末にしたものだ。コーヒーのカフェインが気になる子どもにも食べてもらえるように、代用品を探したのだった。
「確かに、優しい感じの味だな。バタークリームってもっとしつこい味かと思ったんだけど、あんこと合うな」
「バタークリームは丁寧に作れば、濃厚でおいしいんだよ」
「はじめはあんこかよ! って驚いたけど、コーヒーのほろ苦さとバターのコクと甘さが意外に合うな。まあ、コーヒーに小豆入れるような地域だしな……あれ、これの魔法効果は? 特になんにも発動していないような……」
 そうだねえ、と蒼衣は含みのある笑みを浮かべる。和風オペラ自体になにか変わったことが起きていないのは見た目でわかるし、八代自身も変化の自覚がないようだった。
「八代、手をパーに開いてみて。利き手とは逆のほう」
「手?」
 蒼衣に言われるままに、八代は左手を開く。
「利き手の指で、開いた左の手の指を親指から小指まで円を描くようになでてみて」
「なでる……?」
 半信半疑の顔になった八代は、それでも蒼衣の言うとおりに右手の指でなでる。すると、ポロロロン、と琴のような音が左手から響いた。
「うおおっ!? なんか音が! 手から!」
「オペラは、表面の金箔をオペラ座に飾られたアポロン像が持つ金の琴に見立てたから『オペラ』と名付けられたっていう説もあるし、せっかくだから音楽にちなんだ効果にしようと思って。ミュージカル・チコリを使ったんだ」
「体を楽器にしちまうのかよ。あ、慣れてきたらおもしろい」
 だんだんと扱いに慣れてきたのか、八代は楽しげに自分の指で遊び始めた。ポロン、ポロロンと軽快な音は、そのまま八代の快活な性格を表しているようで心地が良い。
 彼から感じる感情も、好奇心や楽しさにあふれている。しかし、彼個人の好みと、店に並ぶか並ばないかはまた別だ。
「……とまあ、こんな具合なんですが。どうですか、オーナー、店長としては」
 居住まいを直して問えば、八代は一瞬にして真面目な顔つきになる。ふむ、とあごに手を当て思案し始めると、店内はしんと静まりかえった。
 久しぶりの新商品提案に、蒼衣に緊張が走る。オープン前もこうしていろいろなケーキを作っては、あれはよいこれはダメと話し合ったことを思い出す。ダメだしも、八代からならすんなりと受け入れられる。それは彼が、蒼衣の作る魔法菓子を信じてくれているからだ。
「……おもしろい効果と、珍しいあんこのオペラか。また話題に事欠かないケーキができたなあ、蒼衣」
 にっこりと微笑む八代の態度は、いつでも頼もしい。それでいて、黒縁眼鏡の奥で光る目はいつも力強く、鋭くもある。
「ただ、あんこの存在感というか、もう少し子ども向けによるのか、シベリアに近くするのか、そこを調整したほうがよさそうだ。なんでもやろうとして、ちょっと詰め込みすぎに感じる。魔法効果はこのままで。体に変化のある効果は慎重にならないといけないから、明日以降の俺の様子で決めてもいい」
「詰め込みすぎ、かあ」
「きっと蒼衣のことだから、どんなひとにもおいしいように、って思ったんだろ。ばーちゃんとかのお年寄りや、恵美みたいな小さい子にも。でも、商品ってのはコンセプトを詰め込みすぎると、それはだれのための商品なのか、わからなくなるときがあるんだ。そうすると、せっかく一つひとつの個性が素敵でも、相殺されてぼやけてしまう。そこは、俺と相談しながらやってこうぜ。なあ、パティシエくん」
 こんなにおいしいお菓子なんだからさ、と八代は付け加える。
 いろいろと詰め込みすぎようとしていることは、当の蒼衣にもわかっていた。しかし、どれもこれも、と欲張りたい気持ちのほうが勝っていたのが事実だ。そこにブレーキをかけてくれるのは、いつも八代という存在だ。
 甘すぎるだけの蒼衣にはぴったりの、ほろ苦いコーヒーのような。
「うん。僕を助けてくれるかい、敏腕店長さん」
「おっ、おだてるねえ。ま、急いても事をし損じるってな。ゆっくり作っていこうや、ここはだれでもない、俺とおまえの店なんだからさ」
 拳で蒼衣の肩を小突く。にかっ、と笑った顔はやっぱり少年みたいだった。
「そうだね」
 自分には少し似合わないとは思いつつも――蒼衣も同じように拳を作り、八代のそれに軽くコツン、と当てた。