ピロートよりもまぶしい百貨店の照明の下。シャンパングラス風の容器に入った青色のゼリーが輝く。
青と紫のグラデーションが美しいゼリーの上には、青い氷琥珀が流氷のように乗せられている。
氷琥珀の乗ったゼリー……百貨店出店限定の商品『ドラフト・グラス』をメインに、店で人気の『ボイスマジック・ロッカー』『お好みプリン』そしてスペシャリテである『プラネタリウム』がショーケースの中に並ぶ。
開店の時間を迎えると、お客がどっと押し寄せてきた。あっという間に催事場が賑やかになり、やがてピロートの前にも、一人、二人と、足を止める客が増え始めた。
「上の氷のような砂糖菓子は、食べると一時的に体が冷えて、涼しくなります。下のゼリーはスプーンを入れると、色が変化します。近くにあるイートインコーナーで、すぐにお召し上がりいただけますよ」
「おもしろそう、買います!」
限定品である『ドラフト・グラス』は、見た目も魔法効果も涼やかなこともあって、飛ぶように売れていく。予想を上回る需要に、蒼衣は紗枝や他の従業員に応援を頼み、店と南武の往復を何度もすることになったくらいだ。
会期中、お店の常連さんたちも顔を出してくれた。
高校生の信子は、夏休みということもあって友だちをたくさん連れて遊びに来てくれた。相変わらず彼女たちは賑やかで、ちょうどよく他のお客への「呼び水」になってくれた。
ヨキ・コト・キクのおばあちゃんたちも「店に八っちゃんしかおらんでつまらん」とぼやきつつ、イートインコーナーで『ドラフト・グラス』を食べていった。
紗絵は休みの日に、夫の壮太と娘の梨々子を連れて、お客としてケーキを買ってくれた。
いつもシュークリームを買う常連の女性が「会社のみんなに差し入れする」と言って、大量に『ドラフト・グラス』を買ってくれた。
まるでクリスマスのときのような忙しさだが、蒼衣は不思議と辛さを感じることはなかった。お客が集中してしまったときも、自分が必要以上に慌てなければ、案外スムーズに接客できるということにも気づけた。
そして、百貨店で初めて出会うお客から、いろんな声が聞けた。
SNSで知ってはいたが、なかなかお店まで行けなかったひと。
人生で初めて魔法菓子を見て感激したひと。
魔法菓子は美味しくないというイメージに囚われていたのに、後から満面の笑みで「美味しいよ!」と伝えにきてくれたひと。
お店ではわからなかった、新しいお客の反応は、蒼衣にとって新鮮でうれしいものだった。
それは、目の前にパルフェのブースがあることなど、すっかり忘れてしまうほどで。
お祭り騒ぎのような六日間は、あっという間に過ぎていった。
最終日、ピロートのショーケースは空で終了を迎えた。
「よっしゃあ、廃棄ナシ!」
片付けのために駆けつけた八代と一緒に、思わずハイタッチする。てきぱきと片付けていると、咲希が現れた。手には、レシートのようなものを持っている。
「速報だから正確じゃないけど、ピロートさん、催事の中でもよく売れてる。ホント、お疲れ様でした」
「咲希もお疲れ様。本当にありがとう、催事に声をかけてくれて」
なんだかんだ言いながらも、咲希は蒼衣が参加を決めた後は、店の紹介文やレイアウト、お客さまの傾向など、さまざまな面でサポートしてくれたのだった。
それらも含めた感謝の言葉に、咲希はなぜか、戸惑ったような顔になった。
「……正直、兄さんがメインで接客するって聞いて、不安だった。クレームを覚悟してたくらい。でも、ふたを開けてみたら、お客様からの評判がとても良かった。私もブースの様子を見たけど、兄さんの様子や顔つき、前と違って憑きものが落ちたみたいで、その……」
口ごもる咲希の横で、八代が「なるほど」と、妙に納得した様子で手を叩いた。
「もしかして、初めてお兄ちゃんのことをカッコイイって思っちゃったわけ?」
八代の言葉に、咲希の顔が一気に紅潮した。
「そ、そういうのじゃなくて! ちゃんと仕事してるんだなって! お得意様がね、笑顔が素敵な店員さんが、とかいうのよ。おまけに、従業員の間でもピロートの手伝いをさせろっていう人が続出して。女性社員なんて、キャーキャーうるさいんだから。まさか、あの兄さんがあんな風に笑うんだって知らなかったっていうか、その――」
「いいんだ、僕だって驚いてる。君の知ってる僕は、大人のくせに引きこもりでなにもできない、情けない兄貴だっただろうから」
なにも言えなくなっている咲希を見て、蒼衣は微笑む。
「今度の休みには、実家に少しだけ顔出すよ」
逃げていても変わらないとわかった今、少しだけでも、家族と向き合うのも悪くない、と思えた。
自分が辛くないと思う範囲で、いろんなひとと縁を結んでいくのは、悪くないことだろうから。
「……無理、しないでいいから。お父さんもお母さんも相変わらずだし」
「珍しいね、咲希が優しいこと言うなんて」
にこり、と笑って見せる。咲希はわざとらしく顔を背けた。
「勘違いしないで、私はめんどくさくなるのが嫌なだけ。でも、帰ってくるなら、美味しいケーキ、お土産に持ってきなさいよ、兄さん」
いつも通りなのに、どこか前よりもやわらかい雰囲気の咲希が久しぶりにかわいく思えて、蒼衣は「いいよ」と気持ちよく答えた。
店に持ち帰るものをすべて車に乗せ、がらんとした催事場で最後の確認をした後のことだった。
向かいのパルフェに立つ、五村と目が合った。
「お疲れ様でした」
自然と労いの言葉が蒼衣から出てきた。五村の鋭い眼光も、今となっては怖く感じない。心は穏やかそのものだった。
「パルフェの新作、とても美味しかったです。講習会のときよりも、改良されたんですね。夏にぴったりのケーキでした」
休憩時間、蒼衣はパルフェのブースで夏の新作『タルトレット・ソレイユ』を買い求めていた。
「僕は、あなたのお菓子が好きです。たとえ僕が魔法菓子職人でも、それは一〇年前から変わりません。勉強させていただきました、ありがとうございます」
頭を下げる。この九年の間、心の奥底でくすぶり続けていた想いは、すべて言葉に込めた。
今は、認めてもらいたいという気持ちよりも、素直に好きだという気持ちを伝えたいと思った。
五村は蒼衣をまっすぐ見つめる。やがてフン、と鼻を鳴らし、口を開いた。
「……『プラネタリウム』の味だけは気に入った。少し手を加えればさらによくなるだろう。魔法菓子は好かんがな」
それだけ言うと、五村は蒼衣のそばを通り抜け、催事場を出て行った。
静寂が訪れ、蒼衣は、口元に手を当てた。
「――っ!」
あの人が自分のお菓子を口にしてくれた。しかも、つい先ほどなのか。伝わってくる感情が、蒼衣の中にあふれる。
複雑な感情の奥底に隠れていたのは、ただただ単純で素直な『美味しい』の気持ちだった。
魔法菓子を認めなくても、それは別にかまわない。だれだって気に入らない世界はあるだろう。相手の世界に、土足で踏み込みまねをしなければ、共存はできるはずだ。
五村の後ろ姿を見送る蒼衣の目に、うっすら涙がにじむ。
「蒼衣」
八代が蒼衣の隣に立った。よかったな、とささやかれ、蒼衣は無言でうなずいた。
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「よーし、今日も一日お疲れさん」
「お疲れ、八代」
残暑の残る九月の頭。いつも通りに営業を終えた『ピロート』の勝手口の外で、蒼衣と八代は一日の疲れを労り合った。
八月の百貨店催事の効果か、夏の売り上げは落ちることなく、上がっていくばかりだった。
「今日も遅くなっちゃってごめんね。なかなか仕込みが終わんなくて」
「いいんだよ、こっちも一周年祭ディスプレイの発注やら確認やらしなくちゃいけなかったしな。しっかし、もう来週か。なんだかあっという間だったな、一年間」
「いろんなことがあったね」
『魔法菓子店 ピロート』を開店させて、一年が経とうとしている。
さまざまなお客やトラブルとの出会いは、だれかを幸せにする一方で、自分の気持ちにきちんと『気づく』きっかけになった。
困っているひとを助けようと思っていた自分が、実は助けられていた。
心の奥底で隠していた、なにも持たない自分は『いらない人間』だという考えは、違うのだとわかった。
世界が違っても、ひとは一緒に共存できる。
本当は、若い頃にわかっていれば、もう少し『正しい』人間になれていたのかもしれない。でも、今こうして八代と店をやれたからこそ気づけたのだと、蒼衣は思いたかった。
空を見上げれば、長野には及ばないが、彩遊市の空にも星はいつも通り輝いている。
「八代、僕を店に誘ってくれて、ありがとう」
「唐突だな、おい」
くつくつと笑う八代を見て、蒼衣は自然と、ずっと隠していたことを言いたくなった。
「少し、僕の話を聞いてくれる?」
いいぜ、と八代はうなずいた。
「ここだけの話、このお店があれば……いや、《《八代だけがそばにいれば》》、僕はそれでいいと思ってたんだ。八代の役に立てれば、この世界で生きててもいいって思える気がして。でも、それじゃあダメだってことに気がついた。だれかのため『だけ』じゃ、生きていけない。自分が自分を信じてあげなくちゃ、生きていけないんだって。だれかを助けることだって、幸せにすることだってままならないんだ」
八代は蒼衣の話を黙って聞いている。こんな自分勝手な感情を隠していたことに、呆れているのだろうか。怖くもあったが、それが偽りない蒼衣の気持ちだった。
「僕は、これからも魔法菓子でいろんなひとを幸せにしていきたい。優しくありたい。でもその前に、僕自身が幸せになりたい。君とこの店で一緒に働くことが、僕の幸せなんだ。だから、その……」
蒼衣はポケットの中から、小さな袋を取り出す。そして、八代の手のひらにのせた。
「これからも、君のそばにいたい。いさせてください」
「蒼衣、これ――」
「金のミニフィナンシェ。当たりかどうかは、食べてみて」
八代は一個だけ包装されたミニフィナンシェの袋を開け、真ん中で割った。中身を見た八代の目が見開かれる。
片方のフィナンシェの中央に見えるのは、きらりと光る金色の粒。
「……これはプロポーズかなにかかね、パティシエくん」
プロポーズ、という予想外の単語に、蒼衣は自分の発した言葉を反芻する。自分としては素直に気持ちを伝えたつもりだったが、他の人にはそう受け取られることもあるのか――そこに至った結果、頭の中がパニックになった。
「あっ、いや、その、そういうつもりっていうか! 感謝というか! いつもありがとうって気持ちとか僕の勝手な決意っていうか! だからそういうのじゃなくてっ」
慌てる蒼衣を見て、八代は突然がしっと肩を組んだ。
「わあっ!?」
「ははは、おまえが幸せになれるんなら、いやでもそばにいてやらあ。そうすりゃ、俺も世界もみーんな幸せになるからな!」
ニッ、と歯を見せて八代が笑った。すると、いつの間にフィナンシェを口にしたのだろうか、蒼衣に感情が『伝わって』きた。
――『絶対に離さない』
強く、そしてまっすぐな八代の感情に、胸がいっぱいになる。
蒼衣も腕を八代の肩に回して、ぐっと力を込めた。
「おいしい魔法のお菓子で、自分もみんなも、幸せにしてみせる。『プラネタリウム』ももっとおいしくするよ。隠し味を考えてあるんだ。楽しみにしてて」
「その意気だ、パティシエくん。俺はいつでも試食は大歓迎だ!」
八代に向かって、蒼衣は満面の笑みを投げかけた。
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魔物は今でも蒼衣の心の中にいる。時折、ふんふんと鼻を鳴らしたり、心が落ち込んだときにはかぱりと口を開けようともする。
そんなときは、甘いお菓子を一口、魔物の口に投げ込めばいい。
そのために自分がいるのだと、蒼衣は心から思うのだった。
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蒼衣さんのおいしい魔法菓子 おわり
「ああ、もう、最悪」
愛知県の知多郡にある、とある海水浴場。
そこから少し離れたコンビニの店先。優香《ゆうか》は、飲み物を大量に入れた袋を手に、唸るような声でひとりごちた。
「なにが慰安イベントよ。騒ぎたい奴らだけが好き勝手してるだけじゃない」
優香は、会社の行事で海辺のバーベキューに訪れた一人だった。去年転職して入った会社だったが、こういう『イベント』が多く、人付き合いの得意でない優香にとっては、慰安よりは地獄といっても過言ではない。
不快だったのは、恋愛経験や、休日になにをしているのかしつこく尋ねられること。酔っぱらった一部の社員からは、腰や肩にべたべたと触れられ、はっきり言って気分のいいものではない。
なので、イベントがあるたびに全て無視し、冷たくあしらった。結果、比較的平和そうなグループの会話にすら入れなくなった。意図的に避けられているらしい。
しかも、イベントは社長の意向で全員参加が基本のため、病気にならないと欠席ができない。去年の冬くらいから仮病を使って休んでみたが、評価面談時にイベントへの不参加が『コミュニケーション能力の欠如』と指摘され、なんと評価が落ちた。馬鹿らしい、と本気で思ったが、仕事内容にやりがいがあり、蓄えも少ない。今すぐ転職は難しい状態である。
生真面目で、気の利かない性格のせいなのは自覚済みだ。どうすることもできないまま、一年が過ぎた。
今も社長じきじきに買い出しを命じられ、会場から少し離れたコンビニまで歩いてきたのだった。
「もー、あっつい」
重い足取りのまま、視界に広がる海を見る。青い空に白い雲、きらめく水面の美しさを素直に喜べないのが憎い。一人で訪れたならば、絶対に気持ちのいい景色なのに。
優香は一人旅が趣味だ。女の一人旅はいまだにオッサンにはウケが悪いどころか、いらぬ説教が付いてくる。だから休日の予定は訊かれたくない。
顔を背けると、海と反対にある広場がある。すると『夏のスイーツフェスティバル』なる看板が目についた。
かき氷やアイス、いかにもな屋台がずらりと並んでいる。老若男女、お客たちの賑やかさがまぶしい。煙草と炭と酒の臭さが漂う会社のバーベキューとは、世界が違った。
「寄り道、しよう」
重たい荷物を地面に投げつけて台無しにする前に、自分を甘やかそう。社長以下はビールがなくとも、死にはしないだろう。自分は会社の中では死んだも同然になるかもしれないが、もう限界だった。そう結論付け、優香が広場へ足を踏み入れた瞬間だった。
めまいと同時に平衡感覚がなくなり、目の前が一瞬真っ暗になる。倒れそうになった優香の背中を、だれかが受け止めた。
肩を叩かれながら大丈夫ですかと訊かれ、慌てて首を縦に振る。男性の声だった。立ち上がろうにも、上手く力が入らない。熱中症だろうか。
「だ、大丈夫です、少し休めば、平気です」
なんとか立ち上がると、受け止めてくれたであろう男性と目が合った。
女性と見間違うような整った顔立ちだが、声は男性だ。百五十センチの優香よりも頭一つ分大きい。
イベントのTシャツにジーンズを履いた姿は珍しくはなかったが、目を引いたのは、肩でゆるりと一つにまとめられた長い髪だった。
細めの体型、整った顔立ち、さらりと流れる長髪。少女漫画から抜け出したような甘いマスクに心配の色を浮かべる彼は、三十二歳の優香よりは確実に若いだろう。
ぼおっと彼を眺めていると、まためまいが訪れ、こめかみに手を当てる。
「熱中症、ですよね。よかったらうちのスペースで、少しだけ休んでいきませんか?」
男性は柔らかく微笑んだ。本当に死んでしまっては洒落にならない。優香は彼の言葉にこくりとうなずいた。
案内されたのは、屋台の裏手だった。優香はパイプ椅子に座るよう促される。
鼻先に漂うのは、甘くさわやかな香り。周りを見渡せば、色とりどりの果物と、水のボトルが並んでいる。
どんなお店なのだろうかと眺めていると、
「気つけにはなると思います。よかったらどうぞ」
プラスチックのコップに入った飲み物を差し出された。それは、青から紫、赤、黄のグラデーションがきれいなジュースだった。中には氷と一緒に、角切りにされたイチゴやブルーベリー、パイン、オレンジが入っていて、フチには薄い黄色の鉱石のようなものが一つ、差し込まれている。
「商品、なのでは?」
「お気になさらず。急にキャンセルされて、余ってしまって。それに、具合の悪いひとにお代を請求するようなまねはしませんよ」
遠慮しようにも、口の渇きが勝った。軽くお礼の言葉を述べた後、ストローに口を付け、軽く吸う。グラデーションがゆらりとゆらめいた。
甘さと冷たさが体にしみこむようだった。ほてった体と頭が冷えていき、わずかな酸味で活気が戻ってくる。
挿してあったロングスプーンで、フルーツもすくって食べる。角切りのはずのイチゴが口に入れた瞬間、とろりとした濃厚なソースに変わり、優香は目を白黒させた。
「あっ、な、なにこれ」
「申し訳ありません、説明を失念していました。うち、魔法菓子のお店なんです」
「魔法菓子!」
魔法菓子。食べれば魔力によって不思議な現象が起こる、高級嗜好品の一種だ。優香は結婚式か百貨店くらいでしか見たことがない。『自分へのご褒美』がコンビニスイーツで事足りるような優香から見れば、縁のないものだ。
「こんな高いものを――」
タダでもらってしまったと同時に、こんなところで売れるのかと、余計な心配が頭によぎる。
「うちは派手さはありませんが、少し不思議な体験を、お手軽な値段で提供するのがコンセプトのお店です」
穏やかに説明した男性は「では、もう一つ不思議を」と言い、フチの鉱石を指さした。
「ジュースに入れてみてください」
不思議に思いながら手に取る。表面は乾いていて、少しだけ弾力があった。
言われるままコップの中に入れた瞬間、泡がぷつぷつと現れ、ピカピカと小さな火花のようなものが起こった。炭酸ではなかったはずだし、なにより、飲み物の中で火花が起こるはずがない。
「大丈夫です、飲んでみてください」
戸惑う優香に、男性はにっこりと笑顔を作る。成人男性らしからぬ愛らしささえ感じるそれに、別の意味で戸惑いながらも、好奇心に動かされるままに口を付けた。
「……!?」
思わず目をしかめたくなるほどの酸味と、パチパチとはじける刺激。まるで、目の前にピカッ、と雷が落ちたようなと言いたくなるような。
「炭酸になった!?」
「これは、氷琥珀という寒天と砂糖の干菓子です。『サンダーレモン』で風味付けしています。普通に食べることもできますが、飲み物に入れると、刺激が若干和らいで、ついでに炭酸水にもなるのです」
「サンダーレモン?」
聞き慣れない名前に、優香は小首をかしげる。
「広島の瀬戸内で、レモンの木に雷が落ちまして。通常の広島レモンとしては出荷できないので、知り合いから魔法菓子の材料として譲り受けました」
瀬戸内、と聞いて、優香の脳裏に瀬戸内海の光景が広がった。学生時代、自由気ままに一人旅をするのが好きだった。瀬戸内海の美しい光景は忘れがたいものがある。
「瀬戸内、懐かしいです。気に入ってる場所の一つで。いろんな色が入り交じった、不思議な『青』なんです。黙って眺めるのが、気持ちよかった」
優香は感慨深げに語る。思い出が色あせていないのがうれしかった。すると、男性の髪の毛がほんのりと青に光った気がした。息を飲み、尋ねようと思ったときには、すでに光は失われていた。
幻覚かなにかか、と目をこする。片手に持ったジュース――サンダーレモン氷琥珀入り――を見て、そうか、魔法菓子の効果なのか、と思い直した。
「お話を聞いて、行ってみたくなりました」
「機会があれば、ぜひ」
ええ、と男性が答えると、店先からすみませーん、と声がする。どうやらお客のようだ。男性が振り返り「少々お待ちくださーい」と声をかけた。
これ以上世話になるのは、本当に迷惑になるだろう。優香は急いで立ち上がる。
「ごめんなさい、お仕事の邪魔をしました。もうすっかり元気です。ありがとうございます」
「残りはどうぞ持って行ってください。まだ外は暑いので、お気をつけて」
最後の最後まで気遣う優しさをうれしく思いながら、優香は店を後にした。
外に出れば、男性の言ったとおりのカンカン照りだった。しかし、もらったジュースのおかげで優香の症状は落ち着いたのか、それほどつらくはない。
優香は店先に赴き、看板をスマホで撮影した。店の名前を訊きそびれたからだ。
「魔法菓子店 ピロート、か」
近い将来、会社を辞められたら、お祝いに一人で訪れるのもいいだろう。重いだけだった買い出しの袋も、心なしか軽く感じた。
その後優香は、ふと手に取ったタウン誌で、助けてくれた男性……『魔法菓子店 ピロート』のシェフパティシエ・天竺蒼衣の顔と名前を見かけた。
そして、名前の横に書かれた『三十二歳』の表記に、
「同い年!?」
と叫び、しばしの間硬直するのだった。
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第七回Text-Revolutions webアンソロジー再録。
作中魔力含有食材「サンダーレモン」アイディア提供は歌峰由子さんより
幾度となく訪れた台風が落ち着き、すっかり気候は過ごしやすくなった九月の中頃。
愛知県名古屋市……の隣に位置する彩遊市にある『魔法菓子店 ピロート』にも、秋向けの商品がひときわ目立つようにディスプレイされている。
珍しい水晶栗を使った「クリスタル・モンブラン」に、その名もずばりな「紅葉ミルフィーユ」ハロウィンには欠かせない「変装カップケーキ」。いずれも通年商品ではあるが、月頭からの気候もあって、目に留めるお客が多い。
その横に、丸い黄色のタルトが並んでいる。他のケーキよりも一回り小さなそれは、つややかな表面の上に、真っ白なメレンゲが乗っている。値札には「新作!」の手書きポップが張ってあり、目にも鮮やかだ。
「十五夜に間に合って良かったなあ」
客側からショーケースを眺め、満足げにつぶやいたのは、店長の東八代だ。トレードマークの黒縁眼鏡の奧にある目は、新作のタルトを注視している。
その様子をカウンターの中から見ていたパティシエの天竺蒼衣は、きまりの悪い顔になる。
「本当にごめん。お店に出せるのがこんなぎりぎりになっちゃって」
蒼衣も件のタルトを見やる。「フルムーン・レモンタルト」と名付けたそれは、本当ならば九月の頭に店頭に出しているはずの商品だった。
そんな蒼衣を見た八代は「仕方ないさ」と明るく言う。
「試作を作ろうにも、今年の夏は各地で災害があって物流が混乱してたんだから。魔力含有食材だから、普通のやつじゃ代用できないし」
八代の言うとおり、地震や水害、台風など、自然災害が特に目立つ夏だった。その影響で、今回の新作に使う原材料がなかなか入荷してこない、というトラブルがあったのだ。魔力含有食材がないと「魔法菓子」にはならない。味もそうだが、魔法効果は普通の材料では再現不可能だからだ。
被災しつつも、どうにか使えるだけの材料を探し出してくれた生産者、連絡進捗などを取り次いでくれた卸業者など、さまざまな人の手を借りて、思いの外早く材料が入荷したのが今月頭だった。
件の生産者から、復旧作業が未だに続いていると聞く。そんな中、尽力してくれたことがうれしくも、申し訳なくあった。その上で「復旧してからもうちの商品を使ってくれれば」と言ってくれた生産者には、頭が下がる思いだった。
それはともかく。
どうにもならない天災の影響は確かにあったが、遅れたのはもう一つ原因があった。
「それは、そうなんだけど。レモンのフィリングと、月の欠片の調整がなかなか上手くいかなくて、それが時間のロスに」
仕入れに四苦八苦した『月の欠片』は、正確には、山の上で月の光をたっぷり浴びた木の皮だ。シロップやクリームなどの液体に皮のまま入れて香り付けに使ったりする。柑橘系と相性のいい、甘くもキリリとした、不思議な香気成分があるので、シナモンやバニラビーンズのようにスパイスとして使うのだが、最大の特徴は、その魔法効果だった。
「どうしても妥協したくなくて。ごめん、今度からはもう少し効率よくできるように、考えるから」
魔力含有食材の扱いは繊細だ。だからこそ、ほんの一ミリグラムでも味はもちろん、効果まで変わってしまう。それにこだわりすぎて、予定よりも時間を使ってしまったのだった。月の欠片はグラム単価が高く、ピロートの価格帯だと多くは使えない。しかし、不十分な量だとせっかくの魔法効果が現れない。ベースになるレモンフィリングとの相性も同時に考えなければならない。
確かに大事な点ではあるが、店に商品として並べる以上、試作に使える時間も限りがある。予定をオーバーしてしまったことについて、蒼衣はかなり後悔をしていた。
「うんうん、仕事の仕方は、次にまた工夫すりゃいい。おまえのそのこだわりは、よーくわかってるっつーの。おかげでおいしいお菓子ができたんだからさ!」
いつのまにかカウンターに戻ってきた八代に、強めに背中を叩かれる。
適切な反省を促し、必要以上の叱責をせず、肯定し、前向きにさせてくれる親友の言葉。ともすれば後ろ向きに考えてしまう蒼衣にとって、一番心地の良いものだった。だからこそ、今でもお菓子を作り続けることができている。
「ありがとう。お客さまの反応が楽しみだなあ」
「絶対楽しいぞこれ。いや~、売りがいがあるぞ~」
へっへっへ、と大げさにもみ手をする八代を見て、蒼衣は思わず苦笑する。同時に、あふれんばかりの自信と信頼を寄せてくれていることも感じて、胸がくすぐったくなるのもまた事実だった。
:::
九月の十五夜の夜、一九時も過ぎた頃の、東家のリビングダイニング。
ソファに座る蒼衣は、一人の少女を膝に乗せていた。
「あおちゃんあおちゃん、これ、なに?」
年の頃は四,五歳。八代によく似たくせっ毛のボブヘアは猫の毛のように柔らかく、時折蒼衣の鼻先をくすぐる。
彼女は八代の娘・東恵美。
恵美が指さすのは、居間のローテーブルに置かれた『フルムーン・レモンタルト』の皿だ。
「これは、レモンのタルトだよ」
「どんなまほーがあるの?」
「それはこれからのお楽しみ。今、パパが用意してるから待ってて」
「まほーのお菓子、楽しみー」
足をバタバタさせ、恵美は期待に目を輝かせる。その様子に、蒼衣も思わず柔らかな微笑を浮かべた。
蒼衣が八代の家に来るのは、珍しいことではない。八代はもちろん、妻である良子《よしこ》とも十八歳の頃からの付き合いで、昔から三人で連れ立ってどこかへ出かけたり、八代や蒼衣の部屋で飲み会をしたりするのは日常茶飯事だった。
それぞれが仕事で忙しくなり頻度は減ったものの、八代と良子が籍を入れ、恵美という子どもができ、こうして一軒家を構えても、関係は変わることはなかった。
八代たちに人生の節目節目が訪れる度、そういうことはそろそろ控えなくては――いくら気心の知れた友人でも、家族としての時間にのうのうと居座るのはいかがなものか――と思っていたのだが、いつの間にか友人というよりは、親戚のそれに近い存在として認識されていた。実際、恵美は蒼衣に体を簡単に預けるほど、なついてくれている。
今日も八代に「恵美に『フルムーン・レモンタルト』の効果を見せてやってくれ。明日は月一の水曜定休日なんだからついでに夕飯と晩酌にでも付き合え」と、火曜の定休日であったにも関わらず、夕方八代に訪問され、半ば強引に連れてこられたようなものだった。
誘った当人である八代は、カウンターキッチンで晩酌の用意をしている最中だ。すでに夕飯をごちそうになった蒼衣も手伝うと申し出たのだが、はしゃぐ恵美が蒼衣について回っていることもあって、なし崩し的に恵美のお相手をすることになった。
「パパー、早くー」
恵美の催促に、しかし蒼衣は少し困惑気味の表情になる。
「八代、良子さん帰ってこないけど、見せちゃっていいのかな」
「あー、今連絡入った。残業あって二十一時に帰るから、先に魔法菓子見せてあげてって」
キッチンの方向へ首だけ動かせば、スマートフォンの画面を操作する八代の姿が見える。
「大変だね」
「ま、ヨッシーはワーカホリックだから仕方ない」
良子は名古屋市内にある会社に勤める会社員だ。八代がワーカホリックと冗談めかして表現するが、忙しいときは会社に泊まってもいいくらいだという発言が本人の口から出てくるのだから、あながち冗談でもない。
だから時折、今日のように定時で上がってこられないことがある。
「恵美ちゃん、ママ、帰り遅いって」
きっと寂しいだろう、と蒼衣が声をかけるが「そっか~」と、案外間延びした反応だったので、拍子抜けする。
「ママ、お仕事好きだしね。ねー、パパー、まだー?」
ワーカホリックなのは重々承知のようだ。再度の催促に、八代から「へいへい、お待たせしました」と返事が返ってきた。
キッチンから持ってきたお盆をローテーブルに置いた八代は、懐中電灯を手にしていた。それを見た恵美は首をかしげる。普段は滅多に使うことのないそれが、なぜ父親の手にあるのかわからないのだろう。
「じゃあ、試してみるか」
八代は部屋の照明を消し、懐中電灯のスイッチを入れると、灯りを『フルムーン・レモンタルト』に向ける。
すると、レモンタルトの表面が鏡のように、光を反射した。光は、庭に通ずる大きなガラス戸の向こう側、満月に向かっていった。
「わああ! お月様に光が繋がった!」
恵美がいささか興奮した様子で、蒼衣の膝から飛び降りる。
これこそ「月の欠片」の魔法効果……月反射と言われるものだ。
「恵美ちゃん、お皿を持ってお部屋を歩いてごらん」
蒼衣の言葉を受けて、恵美は皿を持って部屋を歩いてみる。すると、どの場所にいても、光が射す方向は変わらない。
「どこにいても、お月さまのほうに光が行くね!」
「このケーキに当てた光はね、どこにいても必ず月のある方に光が反射するんだ。だから、カーテンを引いてみると……ほら」
蒼衣もソファから離れると、窓際に向かい、カーテンを引く。そこには月と同じ位置に光が当たっていた。
「曇っていてもお月見ができるようにね」
「すごーい」
蒼衣の説明にはしゃぐ恵美は、皿を持ったまま再度部屋を練り歩いた後、ようやくローテーブルにある豆椅子に座った。蒼衣も八代に促され、ソファに腰掛ける。
部屋が明るくなると、用意されていたフォークを握り、満面の笑みで宣言した。
「ケーキ、食べたい!」
「どうぞ、召し上がれ」
フォークを上手に差し込み、一口大の大きさに切り分けて口に運ぶ。口に入れて咀嚼していると、体を左右にリズミカルに揺らし始めた。
「お、い、し、いー! ちょっと酸っぱいけど、白いふわふわのクリームと食べるとおいしい! 下のクッキーも好き! あっ、あおちゃんの髪、光ってる!」
恵美は、ぼんやりと光る蒼衣の髪を指さした。店なら帽子で被われている髪は、今は普段着のためにあらわになっている。店以外で魔法菓子を食べることの多い恵美は、蒼衣のこの副作用を知っていた。
「恵美ちゃんのおいしいって気持ちが、僕に伝わってるんだよ」
恵美がえへへ、と笑い、またタルトを口にする。素直で賑やかなところは、本当に父親そっくりで、その様子に思わず口元がほころぶ。
「そりゃあ、なあ、蒼衣のお菓子は……?」
「せかいいちー!」
含みのある八代の問いかけに、恵美が元気よく答える。みるみるうちに、自分の体温が上がっていくのがわかった。
「待って待って、なにを教えてるの八代」
「いや、真実を教えたまででして。というか教えてないけど」
「君の口癖みたいになってるでしょそれ……というか、毎回毎回、恥ずかしいんだけど……」
図らずも赤面する顔に手を当てて、まぶしすぎる親子から目を背ける。
もちろん「教えた」などと本気で思ってはいない。蒼衣に伝わってくる恵美の感情は、本当に純粋なほど「おいしい」というものしかないからだ。心からそう思ってくれてるのを知っているからこそ、言葉にして伝えてくれるうれしさが増すのだ。
「いや、ほんと、これうまいよ? あんだけ試作を重ねただけはあるよな」
いつの間にか蒼衣の隣に座った八代は、実感を込めた声で言うと、手にした皿のタルトを食べた。うーん、とかううん、とか、謎の感嘆符を挟みながら食べる様は少し滑稽だが、そこがまた好ましく思える男なのだから不思議だ。
「だってさあ、ほぼレモンメインでフィリング作るって聞いてて、酸っぱすぎやしないか心配だったんだよ。でもほら、アレ、あのジャム」
「梨のジャム? メレンゲの下に塗った」
「そうそう。あのほんの少し塗った梨のジャムの甘さと風味がさ、マイルドにしてるんだよ」
ベースとなったフランス菓子「タルト・オ・シトロン」は、タルト生地にレモンフィリングだけの、シンプルなお菓子だ。蒼衣はそのままでも好みだが、ピロートはファミリー層向けのものが好まれるため、風味を調節する必要がある。
酸っぱすぎると子どもが食べられず、かといって懲りすぎると今度は店のカラーから外れてしまう……。そんなときに、旬である梨を使うことを思いついたのだった。
「喜んでもらえてうれしいよ、八代」
「あらやだ、わかってるくせにぃ、この色男め」
「うっ、からかわないで……照れるから……」
「あー、パパ、あおちゃんと仲良しでずるい!」
いつの間にかタルトを食べ終わった恵美が、蒼衣と八代の間に割って入ってきた。
「パパと蒼衣はずっと仲良しなのでいいんですー」
「えー、わたしもあおちゃんとお話するー」
「まあまあ、二人とも、良子さんのことも思い出してあげて……」
ぎゅうぎゅうと二人分の体重をかけられながら、苦し紛れに良子を引き合いに出す。
「もちろんヨッシーともお話します!」
「もちろんママともお話する!」
似たもの親子は発言のタイミングも一緒だった。当然と言わんばかりの真っ直ぐな目に、蒼衣は目を丸くする。
「……それは二人とも、欲張りじゃないかなあ」
一応咎めるように言ってはみたものの、たぶん、この親子にとってはそれが当たり前なのだから仕方ない。
好きなものには真っ直ぐで一途で、幸せだと思うためならなんだってするのが、この家族の形なんだろう。
それはきっと、これから帰ってくる良子もまた同じ。彼女もまた方向性は違えど、自分の幸せのために生きる、不器用だが真っ直ぐでいとおしい人間だ。
だからこそ、蒼衣は彼らに救われているし、浅ましくもそばにいたいと思ってしまうのだった。
「なあ、おまえコーヒーっていつから飲んでた?」
「コーヒー?」
まだまだ夏の陽気が残る九月の始め。ぽつぽつと客足が戻りつつあるが、まだまだ繁忙期には至らぬのんびりした午後の「魔法菓子店 ピロート」の店内。
店長の東八代の問いかけに、シェフパティシエである天竺蒼衣は小首をかしげる。ちょうど客が帰り、八代から商品の補充を頼まれたタイミングだった。
「なんでまた」
「いやさ、さっきのお客さんとちょっと雑談で。小さな子どもがいるからコーヒーや洋酒が入ったケーキは選べないですよね~って。洋酒はともかく、コーヒーとかはいつからあげてもいいか悩むですねとか、そういうの。まあウチのケーキ、ほぼ洋酒使ってないんで安心してくださいってオススメしまくったけどさ」
ピロートのターゲット層は、老若男女問わないファミリー層。故に、洋酒や刺激の強いハーブ類などは滅多に使わず、幼い子どもでも食べられるものがメインだ。
「コーヒーか。うちは中学生になってからって言われてたよ。まあ、僕はともかく、咲希は無視して小学生から友だちとスタバとか行ってたみたいだけど」
少年時代、生真面目にも親の言いつけやルールを守ることが「正義」だと思っていた蒼衣は、正しい(といっていいかわからないが)反抗期を過ごした妹の咲希を思いだし、苦笑を浮かべる。今となっては、自分の守っていた「正義」など、存外小さなことでしかないと思えるようになったが。それも二十歳を越えてからやっと身につけた感覚なのだから、つくづく自分が生きづらい人間なのだと改めて思う。
「俺は特に禁止されてなかったからさあ。でも、自分が親になると案外悩むもんでさ。今も、恵美にあげる飲み物で、コーヒー牛乳ならいいのかどうか、ヨッシーとたまに議論する」
「八代でもそんなことで悩むんだ」
悩む、という単語が似合わない男だと勝手に思っていた蒼衣は、うっかりそんなことを口にする。すると、八代はわかりやすく口をへの字に曲げた。
「おまえ、俺をなんだと思ってるんだよ」
「そういうところ、悩まないと思ってて」
「俺でもかわいい娘ちゃんのためなら悩みますよ、パティシエくん。まあそういうわけで、コーヒー味、あってもいいとは思うんだけど。そこんところが悩むよなあ」
そうだねえ、と蒼衣も同意する。しかし頭の中には、八代とは別の懸念も浮かんでいた。
コーヒー味のケーキといえば定番の『オペラ』だろう。ただ、店のスペシャリテ『プラネタリウム』がチョコレートメインのケーキとしてすでにある。蒼衣にとっては、その部分も悩みどころではあった。
品数を増やせばそれだけ作業工程も多くなる。一人で厨房を回す蒼衣にとっては、一品増やすだけでもそれなりの調整が必要になる。もう少し要領がよい職人なら可能かもしれないが、蒼衣は己のキャパシティをよく知っているつもりだった。たとえそれが、他の職人から見て小さなものであっても。
無理をしてすべてが回らなくなるほうが、店に迷惑をかける。
理想と現実に挟まれ、思考の海にどっぷりつかりそうになる寸前に、来客を知らせるベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
朗らかな八代の声につられて、蒼衣も条件反射で笑顔を作る。接客をするための心持ちに切り替えて、先ほどまでの思考は、とりあえず奧に引っ込めた。
その晩。仕事を終え、八代と別れた蒼衣は自室にいた。簡単に夕食を済ませ、片付けもそこそこにして、本が詰め込まれたカラーボックスをあさり始める。
若い頃から集めたレシピ本や資料をひっくり返し、探しているのはオペラやコーヒーの項目である。
昼間、確かに一品目増えることへの懸念はした。しかし、ピロートは開店して一年経っている。定番となったケーキの味を守りながらも、目新しい物が好きな中部地方で生き残るには、やはり新商品の開発も進めなくてはいけない。
訪れてくれるお客に、おいしく楽しい魔法菓子を食べてもらうために。そして、自分が一番自分らしく居られる場所を守るために。周りを幸せにするためには、自分が幸せになること――三十路も過ぎてやっと気づいた、簡単で難しいことを続けるために。
目を皿にして本をめくる蒼衣に、これだ、と思う材料が飛び込んでくる。頭の中に、つぎつぎとイメージが湧いてくる。
今まであった、お客からのリクエスト。
老若男女食べられる、ピロートに合う物。
子どもでも食べられるもの。
目新しくおもしろいもの……。
蒼衣はレシピノートを開くと、一心不乱に脳内のイメージを紙上に描き始めた。
それから約三週間後の十月一日。すっかりハロウィンの装飾に彩られた閉店後の店内で、蒼衣は厨房と店内をつなぐドアから顔を出した。
「八代、一段落付きそう? 新作を試食してみて――」
「待ってましたー!」
カウンターの作業台前で座っていた八代は、蒼衣の言葉でがたん、と勢いよく席を立つ。いそいそと手に持っていたタブレットの画面をオフにし、あっという間に蒼衣の目の前に現れた。
「素早すぎるね」
「試食と聞いてすっとんできました」
「……オーナ-、出られないです」
ぴったりとドアにくっついた八代へ苦笑交じりに告げると、彼は照れ笑いの表情になりドアから離れた。
「こりゃ失礼。つい待ちきれなくて」
「大人げないなあ」
「こういうときくらい、少年の心を復活させても罰は当たらない」
ふんぞり返りそうな勢いの八代を表面だけはあきれ顔で、しかし内心その無邪気さを好ましく思いながら、蒼衣はドアを抜ける。そして、カウンターへ皿を置いた。
皿の上に乗っているのは、四角く、層が綺麗なケーキ。全体的に黒く、表面はつややかなグラサージュで、金箔がアクセントに散らされている。
「これは、オペラ?」
「うん。オペラなんだけど、とりあえず食べてみて」
八代はフォークを手に取り、一口含む。
「うまい……けど、オペラ? これを、オペラって言っていいのか?」
すぐに、八代から困惑した気持ちが伝わってくる。予想はしていたが、ここまで困られると、作った当人である蒼衣もどういう顔をしていいのかわからなくなってきた。
「コーヒーの味もするし、バタークリームは濃厚でうまい。ジョコンドは『プラネタリウム』のと同じだろ。というか、一番問題なのは、この層になってる黒いの……まさか、あんこ使ったのか?!」
「そう。和風オペラ……イメージは『シベリア』。前に、おばあちゃんたちが言ってて、うちには和風のものがないねって」
シベリア。戦前の日本で流行った、カステラに羊羹やあんこを挟んだ、洋菓子とも和菓子とも言えない日本独自の菓子のことだ。
「あと、ほら、ここら辺だと、小豆トーストとかあるじゃない。バターとあんこの組み合わせって意外においしいから」
小豆トーストは、名古屋を中心に中部地方の喫茶店モーニングで定番の商品だ。おまけに、蒼衣の実家がある街には、パイ生地にあんこを包んで焼き上げた和洋菓子で有名な店がある。シンプルだが味わいは濃厚で、後を引くおいしさだ。
「コーヒーは『チコリコーヒー』を使ってるから、カフェインは入っていないよ。苦みはあるけど、バターのような濃厚なクリームと合わせると、コーヒー牛乳みたいな味わいになる」
チコリコーヒーとは、植物のチコリの根っこを乾燥し、粉末にしたものだ。コーヒーのカフェインが気になる子どもにも食べてもらえるように、代用品を探したのだった。
「確かに、優しい感じの味だな。バタークリームってもっとしつこい味かと思ったんだけど、あんこと合うな」
「バタークリームは丁寧に作れば、濃厚でおいしいんだよ」
「はじめはあんこかよ! って驚いたけど、コーヒーのほろ苦さとバターのコクと甘さが意外に合うな。まあ、コーヒーに小豆入れるような地域だしな……あれ、これの魔法効果は? 特になんにも発動していないような……」
そうだねえ、と蒼衣は含みのある笑みを浮かべる。和風オペラ自体になにか変わったことが起きていないのは見た目でわかるし、八代自身も変化の自覚がないようだった。
「八代、手をパーに開いてみて。利き手とは逆のほう」
「手?」
蒼衣に言われるままに、八代は左手を開く。
「利き手の指で、開いた左の手の指を親指から小指まで円を描くようになでてみて」
「なでる……?」
半信半疑の顔になった八代は、それでも蒼衣の言うとおりに右手の指でなでる。すると、ポロロロン、と琴のような音が左手から響いた。
「うおおっ!? なんか音が! 手から!」
「オペラは、表面の金箔をオペラ座に飾られたアポロン像が持つ金の琴に見立てたから『オペラ』と名付けられたっていう説もあるし、せっかくだから音楽にちなんだ効果にしようと思って。ミュージカル・チコリを使ったんだ」
「体を楽器にしちまうのかよ。あ、慣れてきたらおもしろい」
だんだんと扱いに慣れてきたのか、八代は楽しげに自分の指で遊び始めた。ポロン、ポロロンと軽快な音は、そのまま八代の快活な性格を表しているようで心地が良い。
彼から感じる感情も、好奇心や楽しさにあふれている。しかし、彼個人の好みと、店に並ぶか並ばないかはまた別だ。
「……とまあ、こんな具合なんですが。どうですか、オーナー、店長としては」
居住まいを直して問えば、八代は一瞬にして真面目な顔つきになる。ふむ、とあごに手を当て思案し始めると、店内はしんと静まりかえった。
久しぶりの新商品提案に、蒼衣に緊張が走る。オープン前もこうしていろいろなケーキを作っては、あれはよいこれはダメと話し合ったことを思い出す。ダメだしも、八代からならすんなりと受け入れられる。それは彼が、蒼衣の作る魔法菓子を信じてくれているからだ。
「……おもしろい効果と、珍しいあんこのオペラか。また話題に事欠かないケーキができたなあ、蒼衣」
にっこりと微笑む八代の態度は、いつでも頼もしい。それでいて、黒縁眼鏡の奥で光る目はいつも力強く、鋭くもある。
「ただ、あんこの存在感というか、もう少し子ども向けによるのか、シベリアに近くするのか、そこを調整したほうがよさそうだ。なんでもやろうとして、ちょっと詰め込みすぎに感じる。魔法効果はこのままで。体に変化のある効果は慎重にならないといけないから、明日以降の俺の様子で決めてもいい」
「詰め込みすぎ、かあ」
「きっと蒼衣のことだから、どんなひとにもおいしいように、って思ったんだろ。ばーちゃんとかのお年寄りや、恵美みたいな小さい子にも。でも、商品ってのはコンセプトを詰め込みすぎると、それはだれのための商品なのか、わからなくなるときがあるんだ。そうすると、せっかく一つひとつの個性が素敵でも、相殺されてぼやけてしまう。そこは、俺と相談しながらやってこうぜ。なあ、パティシエくん」
こんなにおいしいお菓子なんだからさ、と八代は付け加える。
いろいろと詰め込みすぎようとしていることは、当の蒼衣にもわかっていた。しかし、どれもこれも、と欲張りたい気持ちのほうが勝っていたのが事実だ。そこにブレーキをかけてくれるのは、いつも八代という存在だ。
甘すぎるだけの蒼衣にはぴったりの、ほろ苦いコーヒーのような。
「うん。僕を助けてくれるかい、敏腕店長さん」
「おっ、おだてるねえ。ま、急いても事をし損じるってな。ゆっくり作っていこうや、ここはだれでもない、俺とおまえの店なんだからさ」
拳で蒼衣の肩を小突く。にかっ、と笑った顔はやっぱり少年みたいだった。
「そうだね」
自分には少し似合わないとは思いつつも――蒼衣も同じように拳を作り、八代のそれに軽くコツン、と当てた。
『テンジクアオイ』が、ゼラニウムという花の和名だと隼が知ったのは、中学二年のとき。
当時の文通相手の名が「てんじく あおい」だったのがきっかけだ。
名前の漢字もやりとりの内容も、今となってはよく覚えてはいない。
ただ。
「花と同じ名前でキモいといじめられています」
走り書きの末尾が、若干にじんでいたのが印象的で。
三十四歳になった今でも、時折隼の脳裏に浮かぶのだった。
:::
冬の土曜日午後、昼食を終えた隼は暇を持て余していた。
十八時から、趣味仲間との飲み会がある。地方に散らばる仲間が集まるのは珍しい。
隼の趣味は、オリジナル小説を書くこと。集まる仲間はジャンルは違えど、皆小説書き。隼は同人誌頒布のオフライン活動が主だが、オンラインノベル、二次創作、中には、商業デビュー済みのプロもいる、多種多様な集まりだ。
SNSのタイムラインを眺めていると、仲間の名古屋観光の様子が流れてきた。それを見た隼は、今日彼らと顔を合わせることができるのか、不安になる。
今、春のイベントに向けた新刊を構想中だが、プロットすらできあがっていない。
もやもやとした感情を払拭するために、重いため息をつく。
仲間と出会ったのは十代の頃。頒布数や閲覧数が一桁の同士が繋がり、今の関係に到った。
月日は流れ、人気オンラインノベル作家、二次創作の壁サークル、商業デビューと、華々しい舞台に立つ仲間が増えてきた。
隼はいつまでたっても、ただのアマチュアのまま。
だが、交流が好きで、縁だけは保ってきた。仲間の作品の話をするのも、応援も、隼にとっては大切なことだ。
しかし。心のどこかで、手が遅く、目を引くアイディアが浮かばない自分と周りを比べてしまう。
再度、ため息をつきそうになったそのとき。RTで流れてきた、とある投稿が目に止まった。
『TLの皆……この魔法菓子のお店……ささやかで不思議な魔法が体験できます……私はここで……春の原稿のプロットが三本も浮かびました……おいしいのに良心的な値段でお財布にも安心です……』
「三本だって?」
驚いた隼は投稿を二度見する。調べれば店は存外近くにあった。
少しでも前に進みたい。せめて、仲間と会う前に。
隼は、飲み会の時間までそこで過ごそうと決めた。
魔法菓子。自然に存在する魔力含有食材を使う、不思議で見目麗しい現象「魔法効果」を楽しむ嗜好品である。取扱は首都圏の有名百貨店やホテルが多く、地方都市である愛知県彩遊市ではなかなか見かけない代物だ。
件の『魔法菓子店 ピロート』は、住宅街の中にあった。木目と青のパステルカラーが印象的なこぢんまりとした店構えは、普通のケーキ屋にしか見えない。
店内に足を踏み入れれば、お菓子屋特有の甘い香りが鼻をくすぐる。
ショートケーキ、ロールケーキ、チョコケーキといったラインナップは、一見すると普通のケーキとなんら変わらない。が、プライスカードには「星座が現れます」「声が変わります」「顔にメークが施されます」と魔法効果が書かれている。
気さくな雰囲気の男性店員に喫茶の利用だと告げると、限定メニューがあると言われたので、それを注文した。
席で待つ間、バッグから小説用のノートと、万年筆を出す。少しでも考えようと思ったが、まっさらなノートの上には、やはりというべきか、一ミリもペン先が走らない。
なにもない。つらい。楽しくない。
流行りのネタは興味がない。定期更新できるような勤勉さも、ましてや版権作品に入れ込む情熱もない。文章力や構成力はもとより、驚くような知識も。
仲間に置いて行かれるような感覚が怖い。成果を出せない自分が情けない。
いっそ、書くのを辞めようか。
『書けない』
焦りをただ一言に込めて書き殴る。すると、お待たせいたしました、と声がした。
「フォーチューン・フラワーとホットコーヒーでございます」
隼は慌てて机の上の私物を横に避ける。
「恐れ入ります」
柔らかく低い声音は、先ほどの男性店員とは違う。改めて声の主を見やると、コック服に帽子をかぶったパティシエだった。
一瞬、女性と思うような整った顔の優男だ。
皿とマグカップを丁寧な所作で置くパティシエは、穏やかな笑みを浮かべる。女性向けジャンルで活動する仲間が黄色い声を上げそうだ、と心中だけで感想を紡ぐ。
「お客さま、魔法菓子の説明はいかがいたしますか?」
「いえ、せっかくなので説明は聞かずに試してみたいです」
隼は食べ物も物語も、なるべくネタバレは避けたい性分だ。
すると、彼の顔に、期待と楽しげな表情が浮かぶのが見えた。イベント会場で新刊の話をする書き手に似ているそれに、勝手に親近感を抱いていると「ごゆっくりお過ごしください」と言い、彼は離れていった。
皿の上には、全体がクレープ生地で包まれ、頂点に淡いピンク色のクリームが絞られた丸いケーキ。サービスだろうか、シャーベット、小さな焼き菓子が乗っている。
フォークをケーキに近付けると、クレープ生地がふわり、ふわり、外側に開いた。
バラの花が開花する早回し動画のようで、隼の口から思わず「おお」と声が出る。
クレープの花の中から、イチゴで飾られた白いドーム状のムースが姿を現す。早速食べてみようとフォークを差し入れた瞬間、綺麗な赤と紫のグラデーションに色付いた。
驚きながらも、口に運ぶ。バラのような花の香りがするクリーミーなムースの中には、甘酸っぱいフランボワーズのジャム。
フランボワーズの酸味に、花の香りは良く合う。
一番下には焼きプリンのような柔らかく濃厚なタルトで、ムースとの相性は最高だ。
上のイチゴと共に食べれば、フレッシュ感がさらに甘さを引き立ててくれる。
夢中で食べ続け、気づけばあと一口だけになっていた。
惜しみつつも食べ終え、皿を見ると、ぼんやりとなにかが浮かび上がってくるのが見えた。
『貴方が楽しいと思うことを、信じて』
楽しいという言葉に、隼は思わず息を飲む。
顔を上げれば偶然にもパティシエの姿が見えた。これがなんなのか知りたくて、声をかける。彼はいやな顔をせずに説明をしてくれた。
「フォーチューン・フラワーは、食べ終わるとお皿におみくじメッセージがランダムに現れるようになっています」
「花みたいにクレープが開いたり、ムースの色が変わったり、面白かったです。もちろん、味も最高で。花の香りがしつこくないのが驚きです」
感想を伝えると、彼はありがとうございます、と照れくさそうに答えた。
花の香りも訊ねると、バラに似た香りの魔法ローズゼラニウムだという。色の変わる魔力はこれのおかげらしい。飲み物セットで九百円ならお得だろう。
「日々の暮らしの中、疲れたときや落ち込んでいるときに、少し元気になれる、ささやかな魔法菓子を目指しています。自分もお客さまも楽しいものを」
まだまだ模索中です、と謙遜するように付け加える。一軒の店を構えるプロでも模索中なのかと感心していると、ドアチャイムが鳴る。パティシエは接客のために、隼に一礼をして場を離れた。
一人になった隼は、再度皿を見る。
自分の楽しいことは、なんだろう。
同時に、ケーキの甘さが蘇る。不思議で面白いひととき。最後の一口が惜しいと心から思った、あの瞬間のわびしさ。
これを物語の中で描けたら。どんな世界観で、どんなキャラクターに、どんなドラマを味わってもらおうか。
胸が期待で膨らみ――はっとした。
隼は、脳内にある物語の、最初の読者になるのが好きだ。
たとえ、周りとやりかたが違っても辞めることはない。辞められない。
隼の手は自然と、傍らに置いたままのノートと万年筆に伸びていた。
会計を済ませるためにレジに向かうと、先ほどのパティシエがいた。代金を差し出した後、レジ操作をする彼のコック服に刺繍された文字が気になった。
『AOI TENJIKU』
あおい、てんじく。テンジク、アオイ。ゼラニウムの和名だ。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
おつりを受け取る際、彼はまさに花が咲くような、と形容したくなる笑みを浮かべた。
同性だが惹かれる表情。どこまでも凪いだ空のようなそれは、気持ちを癒やし、穏やかにしてくれる。
「また、来ます」
次はもっと、筆が進むかも。そう思いながら店を出た。
集合場所に向かう電車で、隼は思い出した。
パティシエと同じ名前の、あの文通相手は今、元気でいるだろうか。
受験を理由に文通の取りやめをしたので短い付き合いだった。優しく、生真面目で生きづらそうな相手だった気がする。
勝手な願いだが、幸せだといい。
自分の心が満たされていると、不思議と他人の幸せを願いたくなる。
仲間の商業デビューも、オンラインノベルの成功も、壁サークルの完売も。全てを心から祝福できるだろう、と思った。
:::
ノートに万年筆、青色のインク。少し癖のある文字。
あの筆跡、見覚えがある。
『魔法菓子店 ピロート』シェフパティシエの天竺蒼衣は、喫茶の後片付けをしながら、先ほどの男性客を思い出していた。
質の良さそうなノートと万年筆を目の前に、難しい顔だった。「書けない」という殴り書きは、悩みの発露に思えた。
蒼衣には、魔法菓子を食べたお客の感情が伝わってくるという、不思議な能力がある。彼が穏やかな気持ちで店を出たことは伝わってきたので、胸を撫で下ろす。
「思い出した」
いじめに遭った中学二年、学校や家族以外の誰かに話を聞いてほしくて、雑誌の文通コーナーに手紙を出したことがあったのだ。誠実なやり取りは、当時の心の支えになってくれた。
「恩返し、できてるといいなあ」
本人かどうかは神のみぞ知る。だが、本人でなくともいい。
おいしいお菓子で、自分もみんなも幸せにしたい。
それが天竺蒼衣という魔法菓子職人の願いであり、楽しさであり、幸せである。
◆文章系同人誌即売会「第8回Text-Revolutions」公式webアンソロジー掲載作品
「なあ蒼衣『う』のつくお菓子って知ってるか?」
六月の中頃。梅雨が始まりうっとうしい気候の最中である。雨が降ると、若干お客の足が遠のく。それは普通の菓子店だけでなく、この「魔法菓子店 ピロート」もまた同じである。
厨房に顔を出した八代の言葉を理解するのに、蒼衣はほんの数秒の時間を要した。
「……『う』?」
「そう。土用の丑の日の」
ああ、と蒼衣は来月のカレンダーを見やる。月末近くに「丑の日」の表記があるのが見えた。
「うちは鰻《うなぎ》は焼かない……ちょっと待って、あのパイは真似しちゃいけないでしょう」
とっさに浮かんだのは静岡県某所にある全国的に有名なお菓子メーカーの某パイだ。
パイ生地を丸めて薄く切り、表面に砂糖をまぶして焼いたいわゆる「パルミエ」的なお菓子に、某所名産と言われる鰻の粉を入れた土産菓子――「夜のお菓子」として有名なアレである。
「いや、アレはアレで美味いがお前に作れとは言わないよ。いやさ、土用の丑は一説によると、なにも鰻じゃなくて、頭に「う」の付く食べ物を食べればいいらしいんだよ。昨今の鰻に関する諸問題もあるし……」
そこから八代は鰻がそもそも絶滅危惧の存在であることや、仄暗いビジネスの話をかいつまんで語った。蒼衣も食品業界の端くれにいるので、昨今の鰻の売り方については、業種違いとはいえど懐疑的な感情を持ってはいる。
それは個人の思想なので一旦置いておくとして、ピロートで「土用の丑の日」とはこれ如何に、である。
経営面はすべて八代に任せてあるとはいえ、自身も店頭に立つ。だから、売り上げの数字が芳しくないのは知っている。
なんとなく、八代の言いたいことは見えてきた。
「要するに、流行りに乗っておこうってことですかね、敏腕店長さん?」
「察しがいいねえ、さすがうちのパティシエくん。ちょっとだけでもいいんで、限定ものに乗っかってみようかと。タピオカに乗り遅れた今、あえて鰻! あえて土用の丑の日!」
へっへっへ、とわざとらしくもみ手をする様子に蒼衣は苦笑する。売り上げの落ちる夏に、菓子屋があれこれ策を練って商売をしようとするのはごくごく自然な流れではあるが「丑の日」はさすがにこじつけが過ぎるのでは、とも思う。
「夏バテ防止にお菓子食べる人、いるのかなあ」
旬のものを使えばあるいは、とはいうものの「桃」「スイカ」「メロン」……なじみ深いものの名前を浮かべても「う」の字はない。
「良いアイディアだと思ったんだけどな」
うの付くもの~、と頭を抱えだした八代と蒼衣。そのとき、来客を告げるベルが鳴った。八代は店頭に戻ったが、蒼衣は一人「う」の付くものを考えていた。
「あおちゃん、悩みごとかね」
昼、喫茶に訪れた常連のヨキ・コト・キクが、給仕に来た蒼衣の表情を見て言った。
「浮かない表情しとるぞ。あおちゃんは『ないーぶ』だからのー。どうせまた八っちゃんがなにかめんどくさいことでも言ったんじゃろ」
「まったくボンクラだがや。ほれ、髪でも切ったら気分もさっぱりと……」
小さな手をワキワキと動かし、蒼衣の髪を狙うキクに、蒼衣は「勘弁してください!」と悲鳴にも似た反応を返したあと、はあ、と小さくため息を吐いた。
「おばあさんたちにはバレバレなんですね」
心配させてごめんなさいと小さく頭を下げれば「あおちゃんがわかりやすすぎるんじゃ」と鋭い言葉が飛んできて、思わず肩をすくめる。
実は、と土用の丑のことを話すと「商売がめついのう、八ちゃんは」「鰻は専門のお店でおいしいのを食べるのがええ」「そもそもあのタレを食べとるようなもんじゃ」とどんどん話は逸れていく。
「それにしても『う』のお菓子か~」
三人も同じように「う」の言葉に頭を悩ませる様子を見せた後、コトが「『う』といえば」とヨキのほうに顔を向けた。
「この前は梅をありがとうよ。今年のもよい塩梅でしたわ。梅だけに」
「うんうん。色も香りもよかったでよ。おいしい梅干しになるだろうよ」
ヨキは商店街にある八百屋の元女将である。今は子どもに店を譲ってはいるものの、今でも顔見知りに野菜や果物を売ることもあるようだ。
「手仕込みの梅干し、いいですねえ」
「昔っから八っちゃんとこにもよーけ持っていっとるでよ」
蒼衣の母はそういったことをしない人だったし、祖父母とは疎遠であるため、ほんの少しの羨望が胸によぎった。学生時代、八代の実家で初めて「手作り梅干し」を食べたが、顔がきゅっと締まるような酸っぱさは新鮮だった。
「僕も食べたことあります。あれ、おばあちゃんたちの作った梅干しだったんですね」
おいしかったです、と言えば、三人の顔がニコニコと笑顔で染まる。
「あおちゃんも欲しいかね。去年のがあるでよ。一瓶でもなんぼでも持って行っていいぞ」
「アカンてコトさん、あおちゃん一人暮らしじゃろ。可愛らしい小さな箱にちょちょっと詰めてやりゃあいい」
「うちら三人のちょっとずつあげりゃあいいじゃろ」
和気藹々と話す三人に、本当に少しで良いので、と遠慮がちに言いながら、なるほど「う」めかあ、と思いをはせる。
「梅シロップもあるでよ。ほら。八っちゃんは酒がダメだから昔からシロップじゃ」
「シロップ……」
キクの言葉に、はっと蒼衣は気づいた。「そっか「う」……これだ」
一人で合点する蒼衣に、三人の老婆ははてと首をかしげた。
「ありがとう、皆さん! おかげで『土用の丑』ができそうです」
困っている自分を助けてくれるおばあさん達に感謝しつつ、蒼衣は足取りも軽く厨房へ戻った。
:::
「……マカロン?」
七月の中旬である。夏を感じさせる晴れの日の午後、蒼衣は八代に一つのマカロンを差し出した。
「新作ですかパティシエくん」
「前に言ってただろ『う』の付くお菓子」
「う……? いや、マカロンは『マ』だろ」
赤と緑のグラデーションが綺麗なマカロンの表面は思わず触りたくなるようなマットな質感。パリ式マカロンの特徴、周りを縁取るピエは小さなレースのように愛らしく仕上がっている。
マカロンは焼成前の生地状態と乾燥が命なので、湿気の多いこの季節に作るのは本来向いていないのだが、一口サイズで食べられるお菓子にしたかった為、ベストな気候の日を選んで作ったのだった。
「あの、今回は魔法効果を事前に言っておきたいんですが」
八代から魔法菓子の試食の際は「驚きを感じたいから極力魔法効果は伝えないでくれ」と言われているが、今回は少し不安だった。もちろん、体に影響が大きく出るようなものを作った覚えはないが、驚きが大きすぎるのでは……と不安を覚えたのだ。 しかし、八代は指を振り「待ちたまえパティシエくん」と自信たっぷりに言った。
「魔法効果は慣れっこだよ」
「いや、あの……」
「さあさあどんとこいだよパティシエくん」
自信満々の笑みでさあ、と手を差し出されれば、ぐだぐだと説明をするのも野暮だと思えてきた。観念して「どうぞ」と促す。八代がマカロンを手に取った。サク、とかじる小さな音が聞こえてくる。
「――?!?!?!」
すると、八代の目と口が一気に文字通り「顔から」消えた。
喩えるなら、顔をしかめたような……目をきゅっと瞑り、口元が引き締まるそれが、漫画やアニメのように極端になりすぎた結果、目と口が「消えた」ように見える。
八代からは、困惑・驚きが混ざった「とにかくパニック」なる気持ちが伝わってくる。
そばに居る蒼衣は「驚くよね、ごめんねえ」と小さく謝る。
んはっ! と八代が大きく息を吐くと当時に顔の表情は戻っていた。
その間、ほんの三秒である。
「前が、目が、見えねえ!! あとめちゃくちゃ酸っぱいんですけど!! あっでも後味甘くて美味い……でも酸っぱい!!」
「だから説明をと」
「なっ……いや……説明なしでって言ったのは俺だし……だがしかし……」
むう、と半ば納得のいかない顔ではある。だが怒ってはいないのが、東八代という男の美点である。
「驚くでしょ『酸い梅』の味は」
先月、おばあさんたちとの話からヒントを得てから、蒼衣は梅を食材にしてお菓子を作ろうと考えた。魔力含有食材狩人の夫を持つ師に相談したところ「良いものがある」と薦められたのが酸い梅である。
「酸っぱ過ぎて、顔の筋肉の収縮が過剰になるんだよ。すぐに効果が消えるようにしてあるけど……驚くよね」
ははは、と笑う。すると「パーティシエくーん」と八代がマカロン片手ににじり寄ってきた。
「君も驚きをシェアしたまえよ」
「はひ?」
考える間もなく、口にマカロンが突っ込まれる。反射的に噛むと、中心に仕込んだ赤い梅ジャムの刺激的な酸っぱさと、その周りに挟むようにしたまろやかな青梅シロップ入りバタークリームの味が広がる……が。
「――?!?!?!」
顔全体が急にラップでぎゅうぎゅう巻きにされたような感覚に襲われる。目も口もなくなってしまったような感じのあと、急に緩むものだから「ふはっ」と息が出る。
「前が見えない! 酸っぱい!」
マカロン生地のサクサク感を味わう余裕もないままに、ただただ涙目になった蒼衣を見て、八代がケラケラ笑うのが見えた。
その後「暑い夏にすっきりリセット! 「う」めの『ショック・マカロン』で夏を乗り切ろう」のPOPで売り出され(刺激が強いので、弱めの効果の「やさしいバージョン」も作った)仕事で疲れた社会人に大受けだったとかそうでないとか。
「……何度見ても、おまえの面とのギャップがありすぎるだろ、この部屋は」
呆れた声音でつぶやけば、目の前で背中を丸めて縮こまる我が店のシェフパティシエは「顔のことはともかく、ひどいのはわかってるんだけど」と小さな声でうめく。
お盆も過ぎ、初めての長期夏期休業(といっても、平日の五日間を休みにするだけだが)に入った「魔法菓子店 ピロート」。月初めに参加した百貨店出店のおかげで、猛暑と言われる中でも予想以上の売り上げをたたき出し、ほくほく顔のまま連休に突入する予定だったのだが。
百貨店出店に関する騒動ですっかり忘れていたのだ。この、菓子作りと人当たりの良さに長けた親友の欠点を。
「南武への出店でバタバタしてて、そのう」
「知ってるけど、だからってこの有様はひどすぎる。この一年で最高の状態だよ。悪い意味でな。冬からなんも変わっちゃいない」
「ひとの部屋をボジョレーの評価みたいに言わないでくれ、八代……」
がっくりと肩を落とす親友――蒼衣の肩を軽く叩く。
連休初日の朝。蒼衣はパジャマ代わりのよれたTシャツに、いまにも腰から落ちそうなスウェットのズボンという、いかにも休日の朝起きたての格好だ。
いつもならば一つにまとめた長髪も、あっちへこっちへとうねって曲がって、大惨事である。
これが、ごくごく一部じゃ『イケメンパティシエ』と言われる男の素顔だと言われても、納得するひとは少ないだろうなと内心、思う。もっとも、学生時代から内情を知る自分には、とうに見慣れた姿ではあるが。
「ま、そのために俺がこうやって手伝いに来たんだ。今日一日でとりあえず足場を作るぞ、足場を」
「目標は足場なんだ……」
まだ眠そうな目で己が部屋を見回す蒼衣は、はあ、と重たいため息をつく。ああ、本当に惜しい男だとつくづく思う。
俺たち二人の目の前に広がるのは、出しっ放しの衣装ケースに積み上がった服とタオルの山、散らばった本やパンフレット、DMの類、出し忘れたであろうゴミ袋と、袋に入りきらなかったであろう、原形をとどめていないなんかのゴミ。しきっぱなしでぐちゃぐちゃのせんべい布団に、季節ハズレの羽毛布団(分厚い)部屋の隅に転がる埃など。
だれが見ても苦笑を通り越して表情が固まる、いわゆる一人暮らしの「汚部屋」である。
そう。腕よし、顔よし、性格に若干の難あり――だが、お人好しなピロート自慢のシェフパティシエ・天竺蒼衣の欠点は、生きる上で必要な衣食住の内「衣」と「住」の能力が、壊滅的にないことだった。
「冬物はしまっとけって、春先に言っといただろうが。ほれ、このプラケースに入れとけ。ああっ、こんなぼろぼろの肌着、まだ使ってんのか」
「だってまだ着られるし、もったいないと思って。あと、肌触りが一番良くって」
「首んとこ破れてて、逆に着心地悪いだろうが。うわっ、高校のジャージまだ使ってんのか。待ってくれ、これ高校んとき着てたやつじゃないのか。ってまた破れてる! パンツ見えるぞ!」
「ジャージもそれも、一応パジャマのつもりで。破れてるから流石に外出着にはしてない……」
「きちんとしたパジャマ買えって何度も言ってるのに」
「だってパジャマって結構高い……」
「いや待て、おまえの買う専門書よりは安いだろうが」
「だったら本を買うほうが」
「だからそれが! 違うって! 言ってるじゃないか天竺蒼衣-!」
たまらずにうがーっ! と言葉にならぬうなり声を上げると、へっぴり腰でゴミをゴミ袋に入れている蒼衣が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
夏の猛暑日で蒸し暑い中、件の汚部屋――天竺蒼衣の部屋は、着々とゴミが消え、宣言した通りに足場ができつつあった。
蒼衣自身が「部屋の片付けをしたいんだけど、自分だけでは絶対に終わらないから、手伝ってほしい」と申し出たのはよしとしよう。よしとしたいのだが、いくらなんでも散らかりすぎていて、ついつい小言が多くなる。
それでも、いらないDMやチラシ、ペットボトルや食品の外袋など、わかりやすいゴミはすぐに片付いた。しかし、問題なのは積みに積まれた服の山だ。
漁れば漁るほど、ひどいものしか出てこない。衣替えという概念はなく、大概の服は洗濯の仕方が雑なのかヨレヨレで皺だらけな上、さっきのように破れたものまで平気で居座っているし、おまけに本人曰く現役らしい。
大半の服のラインナップが、十五年前から変わっていない事実には、見ないふりをしておこう。
苦い顔をしていると、蒼衣は取り繕うような表情でハハハ、と笑いをもらした。
「服ってよくわからないんだ。なんていうか、ほら、一日中コックコートだし、あんまり出かけないし。平日は店かコンビニか、たまーに材料の買い出しに行くかだけでしょう? そもそも、僕になにが似合うかもよくわかんないし」
あと、値段が高い。と付け加えて口をすぼませる。
「……部屋の隅にある製菓関係の専門書三冊くらいの値段で、ファストファッション店ならコーディネート一式を余裕で買えるって再度突っ込んでもいいかい、パティシエくん」
「そう言われるとますます、服を選ぶのがおっくうになるよ」
専門書を引き合いに出したのがミスだった。
この男、自分の興味関心のあること以外には、かなりの無頓着だ。彼の興味関心といえば、お菓子か、店か、客のことか、ともすれば自身の趣味――本や映画のDVDの収集――。
それに反比例するように関心が薄いのが、衣服と部屋の整理だった。休日の少ない職業な上に、一人暮らしで時間もマンパワーも足らないのは重々承知だが、それに輪をかけて本人にその気がないのだから、惨状はかくやと言わざるを得ない。
ギリギリ食に関しては、冬のある時期を除いてはきちんと三食食べるし、職業柄もあって、自分でまかなうことはできる。故に最低限の生命維持は出来るものの、生活環境の維持も人間活動の一環ではあると俺は思うのだが。
「……もうなにも言うまい」
ため息が出たが、無心になって手を動かせば、服の検分着々と終わりつつあった。取り急ぎ、分厚い冬服は(ほんの数ヶ月先だが)衣装ケースに入れておく。
破れてぼろぼろなものは、はっきり捨てろと通告した。「安眠するのも職人としての体調管理の一環」と店長権限で意見すると、小さく「ハイ」と返事が返ってきた。
残りの、かろうじて着られそうな服はほこりっぽい上に皺だらけなので、思い切って俺の家で洗濯しようと思った。なにせ我が家にあるのは、乾燥機付きの最新型だ。自慢じゃないが、白物家電には金をかけている。共稼ぎ夫婦にとって、家事は金をかけてでも軽減せねばならない。子どもがいるならなおさらだ。……若干過保護過ぎるが、蒼衣の家にある一人暮らし用の簡素なものでは限界というものがある。
提案すると「そこまでしてもらうのは悪い」と案の定首を横に振った。
「確かに、僕は服や部屋の管理はすごく苦手だから、こうやって手伝ってもらえるのはすごく助かる。少なくとも、八代にきっぱり「破れてるから着心地が悪い」って言ってもらえると、ああ普通はそうなんだよなあ、ってやっと思うことができるから。でも、本当は、こんなことは自分一人でできることのはずなんだ。だから、さすがにここまで面倒見てもらうのは申し訳ないよ」
「でもなあ」
「いいんだよ八代。君は僕の友人ではあるけど、子どもじゃあないだろ? ええと、こういうとき、どうすればいいんだろうなあ。アイロン、どこやっちゃったっけ」
苦笑する蒼衣を見て、彼の「生きづらさ」を改めて思う。
部屋の整理ができないのも、服に関心が薄く、他人から見たらどうでもいいところでこだわりがあるのも、おそらく生まれながらの特性だろう。
しかし、一旦世間に出てしまうと、それらはすべて「欠点」や「変わり者」と表現される。たとえあの手で世界一おいしい(と、俺は思っている)お菓子を作れるとしても、仕事場を出てしまえば、ただの「天竺蒼衣」という三十一歳の男性でしかない。
かつて勤めていた会社でも、こういった「変わり者」は少なからずいた。そして、特性が悪い方向に作用して、うまくやっていけない現状も、目の当たりにした。
なおかつ、そういうひとたちを助けるのは、非常に難しいことだというのも痛感していた――過去の自分のように。
正直なところ、俺には、蒼衣たちのような困りごとがあまりピンとこない。
時間に遅れる。口頭で言ったことが理解できない。片付けが苦手で、資料や書類を紛失する。正直なことを口に出し、得意先の人間を激怒させる……などなど。もう少し若い頃は「わがままだ」とすら思った。どうしてそんな簡単なことができないのか、と。
しかし、自分の身近で、最終的には自分を追い詰め、死にそうになった男――蒼衣がいたことや、職場で出会ったひとたちとの関わりで、俺の考えは変わった。
助けてくれ、こうすれば理解できるから工夫してくれ、と、一言言えばいいのに、と単純に思う。でも、蒼衣は助けてと言えなかった。親友だと慕ってくれていたはずの俺はおろか、身近であろう家族にすら。
後々、俺の思う「家族」の関係と、蒼衣の「家族」という関係の認識の違いが分かってからは、さもありなんと思うこともできたのだが。
だから、今こうして蒼衣が困りごとを自分から言えるだけでも十分に変わったと思う。今までよりも吹っ切れたのは、きっと夏前に起きた一連の出来事のおかげでもあるだろうが。
だれでも大なり小なり、苦手なことややれないことがあるだろう。それが他人から見れば些細なことでも、本人にとっては非常に深刻な「つまづき」だ。
しかしそれらは、視力を補強する眼鏡のような、なんらかの補助があれば歩けるようになるかもしれない。それが物だったり、考え方だったりするのは、ひとそれぞれだが。
そうすれば、少なくとも、身近に居る人間との軋轢を少なくすることができるはずだ。
アイロンなんてしばらく使ってないなあ、とぼやく蒼衣を見て、俺は一つため息をついた。と同時に、思いついたことがあった。
「なあ、タダでやるのがイヤなら、なんか対価があればいいんじゃないか」
「対価?」
「そうだな……アレを作ってくれたら、家にある自慢の最新式乾燥機付き洗濯機でおまえの服を洗って綺麗にしよう。おまけにアイロンもかける」
どうだ、と顔を寄せる。提案の唐突さに戸惑う蒼衣がほへえ、と気の抜けた声を出した。
「アレって、ええと?」
「高校時代によく作ってた、おまえの十八番があるだろうよ。秋に向けての試作だと思って一本」
もったいぶってヒントを出せば、蒼衣はああ、と手を叩く。
「そういえばアレ、開店するときはラインナップから外したね」
「アルコールがダメな俺が好き好んで食える、唯一の酒入りパウンドケーキなんだけどな。初年度は様子見したいからってやめたんだよなあ」
「あ、あれはお酒は……」
「アレは別なんだよ。ああ、うちのご自慢のシェフパティシエが作るアレが食べたいなー」
なにか言いたげな蒼衣の言葉を遮ってしまったが、ふざけてもう一回「食べたいなー」と繰り返せば、蒼衣は呆れたような、しかし面白がるような顔でクスクスと笑った。
若い頃はずいぶんと達観した笑い方をするヤツだなと物珍しかったが、三十路を越えた今では、それがすっかり板に付いている。
「ああ、君にそんなリクエストをされたら、答えないわけにはいかないね。じゃあ、お言葉に甘えて、あのケーキ一本で洗濯、お願いしていいかな」
「いいともー! アレが新作として食べられるなら、俺はなんでもやりますようパティシエくん」
もみ手もみ手でさらにおだてれば、蒼衣は「よしてよ」と苦笑する。謙遜しているが、大層うれしそうに頬を緩めることは知っている。実際、俺の言葉に嘘はないのだから、もっと派手に喜んでくれてもいいのだけど。
「じゃあさ……今度、服を選ぶのを手伝ってくれないかな。その、ファーストフードみたいな名前の店で」
「おっ、ついにおしゃれに目覚めたねイケメンパティシエくん。あと、ファーストフードじゃなくてファストファッション。店の名前じゃない」
俺の訂正に、蒼衣は「そうなんだ」と神妙にうなずいた。
もともとテレビもあまり見ない上に、いまだにガラケーを使い、もちろんインターネットなど学校くらいでしかロクに使ったことがない、今時珍しいアナクロな思想の蒼衣は、本当に流行に疎い。これも、興味関心があること以外への意識が薄いからだろうとは思うが、もともと俗世に染まれないタイプだったのだろう。
だからこそ、魔法菓子――魔力への適性があるのかもしれないと、彼の師がこぼしたことがある。
「あと、僕はイケメンじゃないって。まったく、だれがそんなこと言ってるのかな」
童顔なのに、と心底不思議そうな表情をする蒼衣を見て、俺は本日何度目かのため息をついた。
「待ってましたよパティシエくん!」
連休最終日の『魔法菓子店 ピロート』厨房内に俺の声が響く。
「おととい焼いたから、そろそろ味がなじんだかな」
清潔なコックコートに身を包んだ蒼衣は、冷蔵庫から棒状のものを取り出し、ぐるぐると巻かれたラップを取り去ると、パラフィン紙をはがした。すると、しっとりとした質感のパウンドケーキが現れた。
お湯で温めたナイフを差し入れ、スライスしたものを小皿に乗せると、真っ先に俺に差し出してくれた。
「どうぞ「りんごとキャラメルのパウンドケーキ」だよ」
「久々だなあ、この香り!」
小皿の上に乗せられたのは、プレーンのパウンドケーキよりも濃いキャラメル色した生地に、キャラメリゼしたリンゴがぎっしり詰まっているパウンドケーキ。
行儀は悪いのは承知だが、手でつかんで一口ほおばる。
バターの香る柔らかな生地の中に、時折シャクシャクとした食感が楽しいリンゴの果肉。キャラメルのほろ苦さと濃厚さ、リンゴのほのかな酸味と甘さが調和する中で、口の中を一瞬支配するのは……ラム酒に似た甘い香りだった。
「これな、これ! 主張し過ぎない洋酒の香り。リンゴの甘酸っぱさとキャラメルの味の濃厚さが好きなんだけど、そこにふんわりと乗っかる甘い酒の香りな~」
「久しぶりに作ったけど、この組み合わせは良いよねえ」
これは、蒼衣が高校時代に初めて俺にごちそうしてくれたお菓子だ。それまで特に甘い物への執着がなかった俺に、新しい世界を見せてくれた。
小さな焼き菓子一つの中に、甘いも酸味も苦みも同居している。おまけに、未成年だった当時の俺には、少し憧れだった酒の香り。成人してから、アルコール分解酵素が少ない体質だとわかったときは、飲み会よりも、こういったお菓子が十分に味わえないほうが、つらかった。
「サバランやウイスキーケーキ、一つまるごと食べられない。でも、こいつだけは別。焼いててアルコールが飛んでるからか? って思ったけど、他の店のはダメだったんだから訳がわからないんだ」
首をひねっていると、あのね、と遠慮がちな前置きの後、蒼衣は困ったような笑みを浮かべてこちらを見た。
「ごめん、八代。実はこのケーキ、ラム酒はほんの少しだけシロップに使ってるだけなんだ。……だから、八代が好きって言ってるのは、もしかしたらこれかもしれない」
そう言うと、蒼衣は材料棚から一つの袋を取り出した。透明な袋には、褐色の粒子状のものがつまっている。
「これは、カソナードっていうフランス産のブラウンシュガーだよ」
別の小皿に、袋から褐色の砂糖――カソナードを少しだけ出してくれた。粒の大きさは厨房で多く使われるグラニュー糖よりも大きく、荒い。
「なんか、砕いた黒糖みたいだな」
「鋭いねえ、八代は。カソナードは黒糖と似てるんだ。ちょっとだけ解説すると、カソナードや黒糖は含蜜糖っていって、いつも使ってるグラニュー糖や上白糖のような精製された砂糖とは違って、果糖やミネラルを多く含んでるから、味にコクや独特の風味があるんだ」
「じゃあまさか、あの酒みたいな風味って」
「そう。カソナードはラムやバニラ、はちみつみたいな風味がする。リンゴとは相性が良いから、キャラメリゼするときに少し加えているんだよ」
「なるほどな。って、おまえそれ高校のときになんで教えてくれなかったんだよ」
あの味を酒の味だと、十年近く思い込んでいたのか。勘違いにもほどがあるし、仮にも菓子屋を経営しているのに砂糖の知識がなかった俺もうかつだったが、なによりも詳細を黙っていた蒼衣に、珍しく軽い憤りが湧いた。
すると蒼衣から、本当にごめんよと切実な声が帰ってきた。三十路らしからぬしおらしさに、一瞬湧いた憤りがあっさり消し飛ぶ。
「今まで何度も説明しようとしたんだけど、その度に君がやたらめったら喜んじゃって、水を差すのも悪いなーって。いつか言おう言おうと思ってたんだけど、新作考えるのでいっぱいいっぱいですっかり……」
「おまえなあ」
「ごめんってば。これ、いくらでも食べていいから。材料は自前だから気にしないで。あと、言い忘れたけど魔法効果は――」
「みなまで言うな、パティシエくん」
頭頂部分がカッと熱くなる。約一年魔法菓子を食べ続けたおかげで、すぐにこれが魔法効果なことはわかった。
ポケットからスマホを出し、インカメを起動して己の頭を写す。
「おおー、真っ赤な髪の毛か」
俺の髪の毛は、燃えるような、と表現したくなるような赤色に変化していた。
「使ったカソナードには赤の魔法色素が含まれているから。ただ、顔にメークを施す「変装カップケーキ」と効果が似てるから二番煎じなのが申し訳ない」
ひらめきが足りないんだよなあ、と蒼衣はぼやく。
「もっと勉強したり、いろいろなものを見なくちゃ」
ともすれば思い詰めたようにつぶやくので、俺は思わず「まあまあ」と肩に手を置いた。
「久しぶりにあの味が食べられただけでも、俺は儲けもん。でも、うちのシェフパティシエの向上心に乗っかるのは悪くない。さあて、こいつをどう進化させたら面白いかな?」
期待を込めて笑ってやれば、蒼衣の顔に少しだけ泣きそうな感じの、安堵の表情が浮かぶ。ここ一年、店の中では――少なくとも、シェフパティシエの天竺蒼衣としては――滅多に見せなくなった素の顔に、懐かしさを覚える。
――生真面目で素直で、同時に愚かで生きづらそうで、付き合うのもまったくもって面倒だ。長い付き合いの自分でさえそう思うのだから、社会に出たとき、周りが扱いに困っただろうことはなんとなく予想できる。
だけど、とにかく見ていて飽きないし、なによりも、あいつの作るお菓子は昔から、俺にとって世界で一番美味いシロモノで。
だれかへの「労り」「優しさ」がたくさん詰まってる。こんなに純粋で甘くておいしいものを作れるヤツを、みすみすつぶしたくない。
せっかく見つけた面白い人間を、手放してたまるか。
それはきっと、妻の良子や娘の恵美に向ける愛情とはまた違った形のものだ。
「ありがとう、八代」
「いいってことよ。さあ、明日からまた仕事をバリバリするぜー! 秋からはお菓子屋の稼ぎ時だー!」
「確かに、そうだねえ。また一年、がんばらないとね」
陽気に振る舞えば、蒼衣はそれにつられて元気を出す。
そうして新しくお菓子を作ってくれるなら、俺はいくらでも笑えるからさ。
愛知県名古屋市……の隣に位置する地方都市、彩遊《さいゆう》市にある『魔法菓子店 ピロート』。
通年で流している店内BGMを、明るめのボサノヴァチャンネルから、鈴の音が賑やかなクリスマスソングチャンネルに変えると、店の空気が一気にクリスマスムードになる。
店内を改めて見渡す。昨日までハロウィンを盛り上げてくれていたカボチャとお化けは、サンタやトナカイといった、クリスマスに欠かせないキャラクターへ。オレンジと黒がメインの装飾は、赤と緑や金銀といったクリスマスカラーへとチェンジされる。
昨日の閉店後と今日の開店前の三十分を使い、店長の東八代と共に飾り付けを終えたシェフパティシエの天竺蒼衣は、ほう、とため息をついた。
「おお、まさにクリスマスって感じだな。昨日までハロウィンだったとは思えない」
お疲れさん、かぼちゃ頭くん。と、昨日まで飾っていたジャック・オー・ランタンの人形に話しかける八代を見て、蒼衣はくすりと笑う。
「そうだねえ」
何度目のクリスマス準備だろうと、この瞬間、蒼衣の気持ちは一層引き締まる。
クリスマス。それは、世界中の菓子屋が、年内で一番あわただしく、忙しい時期だ。
スケジュールは詰めに詰められ、作業と同時に管理も必要だ。十二月が近くなれば、残業は当たり前、休日も返上で働きづめになる。
蒼衣は過去、この時期に人生の転機を二度経験している。肉体的、精神的にも負担がかかる季節だが、去年は、共に店を経営する親友・八代や周囲のひとたちの協力で乗り切ることができた。
今年も、二十四日の売り子として、常連のおばあちゃんたちが来てくれる。もちろん八代も、店を盛り上げると同時に、蒼衣の負担を極力減らそうと努力してくれている。
自分を支えてくれているひとたちの努力に応えたいと、蒼衣は店内を見渡して再度思う。
「そうだ。予約のチラシ、レジの下に置き場所作っといた。何枚でも配ってくれ。できればおまえからオススメしてもらえるとありがたいんだけど、余裕ないときはチラシを入れるだけでもしてくれるとうれしい」
そうだね、と蒼衣はうなずく。
「新作もあるし、もっと知ってもらいたいよね」
去年と同じ、『キャンドル・ショートケーキ』と、『太陽オレンジのブッシュドノエル』の二種に、今年は数量限定の新作を加え、三種類の商品展開をすることが決まっている。
「そう、新作! 数は少ないけど、インパクトは充分だと思うんだよな、あれ」
浮き足だった様子で語る八代に、蒼衣はむずがゆい気持ちになる。と同時に、クリスマス商戦への緊張がほどけていくようだった。
「そうだといいんだけど」
新作は、他のケーキとはひと味違う。余計に手をかけた、いわゆる「スペシャリテ」である。
ただ、日本人が――ピロートのメイン客層であるファミリー層が受け入れてくれるものかどうか。
やはり、イチゴショートケーキが主流のクリスマスケーキの中、諸外国の伝統的なエッセンスを取り入れたものを売るのは挑戦的な行為である。それも、ハイソサエティなものを売りにしている店ならともかく、街のお菓子屋を自負するピロートでどんな反応になるのか。
蒼衣自身は日本で馴染みのあるショートケーキも嫌いではないが、他にもお菓子にはおいしいものがあると知ってほしい。店のケーキにも、少しではあるがフランス菓子のエッセンスを入れているのはそのためだ。
「もっと自信を持ちたまえパティシエくん。おまえのケーキは美味い! 毎回言ってるけど何回言ってもかまわないよ」
「おだてすぎだよ」
「おだててケーキ作ってくれるならナンボでも褒めますよ、俺は。ああ、アレの面白さを、おいしさを誰かに早く話したい!」
仕事するぞ~! と気合いを入れる八代を見ていると、蒼衣もまた前向きな気分になれるのであった。
::::
十二月二十四日、午前零時。夜中だというのにピロート店内に明かりが見える。
例にもれず、ピロートもクリスマス準備に大わらわである。
「あーおーいー、イチゴカット終わった」
「ありがとう八代。ミキサーの前に置いておいて」
煌々と明かりがついているのは、正確にはピロートの厨房内。賑やかなJ-POPをBGMに、コックコート姿の蒼衣は、回転台に乗せたホールケーキにクリームをナッペしながら、声をかけてきた八代へ簡潔に指示を出す。
八代はイチゴのスライスが大量に乗ったアルミトレーを置くと、スライス作業の為に使っていた包丁とまな板をシンクで手早く洗いはじめた。
はあ、と八代には珍しい疲労感のあるため息が聞こえる。
「俺、今日の夜で一生分のイチゴをスライスしたかも。ゴム手袋もしてたのに、なんかほんのり手先がフルーティー……あ、まだこんなこと言える元気あったんだなー……あー……」
手の動きはいつも通りだが、彼の口から出てくる言葉は、やはり覇気がない。ちらりと後方の八代を見やれば、目をしょぼしょぼとさせている。
さすがに限界かもしれない。そう思った蒼衣は、ナッペの手を止めて、八代のほうへ身体を向けた。
「ちょっと休んだほうがいいんじゃないかな、八代は。昨日も遅かったのに、完徹はさすがにマズイよ」
「でもさ、まだ飾り付け……」
「コーヒー飲んで、十五分でも寝てきたらいいよ。なんなら起こしに行くよ」
「それで頼むわ」
去年もそうだったが、基本的に生菓子であるケーキの製造は、前日が勝負になる。
ありがたいことに、予約数は去年を上回った。新作も予定数をすぐに越えてくれた。八代曰く、見た目と魔法効果が、やはりファミリー層に注目されたらしい。見本を載せたSNSの投稿も効果があったらしく、蒼衣もそんな話を何度か聞いた。
「おまえのケーキをみんな待ってるから、俺もがんばらないとな。じゃ、ちょっと休んでくるわ」
そう言い残すと、八代は喫茶スペースに入っていった。
蒼衣も眠気をかみ殺す。八代はあくまでも手伝いの立場であり、製造するのは蒼衣だけだ。
体も心もつらいが、乗り越えた先にだれかの幸せがあることを蒼衣は知っている。
「がんばれ、自分」
鼓舞するようにつぶやいた蒼衣は、またナッペ作業に戻った。
「お、飾り付け見本ができてる」
十五分後、厨房に戻ってきた八代が上ずった声を出した。
作業台の上には、クリスマスの飾りつけをされた『キャンドル・ショートケーキ』のホールと『太陽オレンジのブッシュドノエル』がそれぞれ一台ずつ乗せてある。
「早速だけど、この見本の通りに、そこに分けてある飾りを乗せていってほしい」
蒼衣が指さした場所には、火イチゴのコンフィチュール、キノコ型の砂糖菓子、ヒイラギ型のチョコ、トリュフ、カラフルなチョコレートマンディアンなどの飾りが乗ったトレーがある。
「オーケーオーケー、見本通りな」
「頼んだよ。八代なら安心だから」
「そうだな、俺がケーキに顔突っ込みそうになったら止めてくれ」
「同じセリフをそっくり返すよ」
すっかり調子の戻っている八代に安心しつつ、蒼衣も仕上げに取りかかる。
作業台を挟んだ八代の向かい側で、新作『スノーマン・ハウス』のパーツを並べはじめた。
四角や三角の形をした、香ばしいクッキーと、接着に使うアイシング。そしてミニマカロン、アイシングクッキー、チュイルやギモーヴなど、小さい焼き菓子やカラフルなコンフィズリーが並ぶ。
「しっかしパーツ多いな、スノーマン・ハウス。なんだっけ、そのお菓子の家の名前」
「ヘクセンハウス。直訳すると「魔女の家」ドイツではメジャーなクリスマスのお菓子だよ。一回やってみたかったんだ。一度は食べてみたいと思わないかい、お菓子の家は」
クッキーをアイシングで接着して、三角屋根の家を作りながら、蒼衣は解説した。
「確かに、グリム童話の「お菓子の家」は憧れだわな。小さなクッキーやマカロンがそこかしこにくっついてるのがイイ。ベルサブレも使ってるから、食べるときも楽しいだろうな。でも、最大の楽しみは、家の中に潜んでるアイツ……」
八代が笑みを浮かべながら冷凍庫をちらりと見る。中にぎっしりと詰まっている「アイツ」を思い出し、蒼衣もつられてほほえみを浮かべた。
::::
「……おつかれ、さまでした!」
「でした~……」
二十四日、午後七時半。最後のお客を見送り「閉店」の看板を出したピロートの店内。
喫茶スペースの机に突っ伏すのは、うなり声しか出ない蒼衣と八代の二人だった。
二十四日、クリスマスイブのお菓子屋はまさに戦場だった。明け方まで必死でケーキを組み立て、休憩もそこそこに開店。途切れることのないお客の相手と追加製造に、蒼衣も八代も、厨房と店を何度行き来したかわからない。
販売に関しては、やはりおばあさん達の力が偉大だった。手際の良さは、なんとなく去年よりも磨きがかかっているような気がしたくらいだ。
手伝ってくれたヨキ・コト・キクのおばあさんたちは、閉店までいようとするのをなだめて夕方に帰ってもらった。働き盛りの三十路二人よりもなぜかパワフルな三人だが、この寒さで突然倒れられても困る。
「……今年も疲れたなあ」
「うん……」
先ほどからお互い「疲れた」しか口から出てこなくなっている。
閉店後、ざっと売り上げを確認し、想定通りの数字になっていることに安堵した二人は、一気に緊張の糸が切れてしまったのだ。
蒼衣は疲労でぼおっとする頭を振って、目の前で倒れる八代の肩を叩いた。
「八代……今年は家帰るんだろ……支度しなくていいのか……」
去年は、八代の妻である良子《よしこ》と娘の恵美《えみ》は、良子の実家に行ってしまっていたため、なし崩し的に蒼衣の部屋に泊まっていったという顛末がある。
しかし、今年は少しでも家族といたほうがいいと、蒼衣が帰ることを薦めた。
八代にはかわいい盛りの娘がいる。さすがに二年連続でお父さんが居ないクリスマスイブというのは、恵美にとっても良子にとっても、嫌なことだろうと思ったのだ。
「ほら、君んとこ用の『スノーマン・ハウス』を用意してあるから。恵美ちゃんに見せるんだろ」
ああ、と顔を上げた八代が、のろのろと席を立つ。
「本当にお疲れさま、八代。明日の準備は、僕がしておくから。……良いクリスマスを」
ワイシャツの背中に声をかける。ほんの少しだけさみしさが胸をよぎるが、この職業に就いたときから、その幸せは手放している。
同じ職業でも、せめて自分の一番大切な親友の家族には、さみしい思いをさせたくない。
しかし八代は、立ったまま動こうとしない。どうしたの、と声をかけようと思ったそのとき、八代が振り向いた。そして、蒼衣の肩を軽く叩く。
「蒼衣、今からちょっと付き合え」
「は、い?」
言葉の意味が分からずぽかんとしていると、早く上着着ろって、と急かさせる。
「え、ちょっと、上着? でも、僕、明日の準備……」
「俺も一緒に戻ってきてやるから。とにかく、行くぞ」
肩を押されるまま席を立ち、あれよあれよと裏口までたどり着いてしまう。そのうちに蒼衣の上着を渡され、流れで手に取ってしまった。
「行くって、どこに?」
隣の八代を見れば、東家用に用意した『スノーマン・ハウス』の箱を持っている。
「どこって、俺の家だよ」
「久しぶり、蒼衣くん」
東家の玄関で出迎えてくれたのは、旧知の友人であり、八代の妻である良子だった。
ゆったりとした部屋着に、化粧を落としたすっぴんという出で立ち。百五十五センチと小さめの身長ながら、やや三白眼で無表情、きっちり切りそろえたストレートボブヘアが常の良子は、つっけんどんとした、一見近寄りがたい女性に見えるだろう。
「二人ともお疲れ様。簡単な食事しか残ってないけど、食べる?」
「食べるよヨッシー! ありがとう愛してる! 君が用意してくれるならバケットのかけらだろーとサーモンの切れっ端だろうと」
「さっさと中に入りなさい。寒いんだから」
「はーい!」
冷めた態度の良子と、完全に愛妻骨抜きモードになった八代のやりとりに蒼衣はいつもながら微苦笑を浮かべる。
「……あの、僕、突然来ちゃってよかったのかな?」
蒼衣は若干尻込みしながら尋ねる。
「今さらそんなこと言う間柄でもないでしょ。どうせ連れてくると思ってたから大丈夫よ。入って」
良子が顔を傾け、中に入れとジェスチャーをする。早く早くと八代も催促したので、蒼衣は流されるままに靴を脱ぎ始めた。
「じゃ、いくよ」
「あおちゃん、はやく!」
八代の娘・恵美の催促に、蒼衣はほほえみ一つを返し、『スノーマン・ハウス』へ触れる。すると、ヘクセンハウスの屋根に付けた色とりどりのマカロンが柔らかな光を帯び、赤と緑のドレンチェリーがピカピカと点滅しはじめる。薄暗い部屋の中が、一瞬で明るくなった。
クリスマスのイルミネーション――魔法効果を纏った小さな家に、八代と恵美、良子がおお、と感嘆を漏らす。
家の中に招かれ、用意してあった軽食を食べた後。持参した『スノーマン・ハウス』を食べることになったのだ。
「試作したとき以来だなあ。いやはや、薄暗い中だと結構幻想的だ」
「さあ、お楽しみはこれからだよ」
蒼衣がヘクセンハウスをゆっくりと持ち上げる。するとそこには、イチゴで作ったサンタ帽をかぶった、雪だるまがいた。
人差し指で雪だるまの頭をつつく。すると、起き上がりこぼしのように体を揺らした雪だるまが、文字通り《《分裂》》した。
ぽこっ、ぽこっと音を立てて、雪だるまが増えていく。あっという間に、土台には複数の雪だるまがわらわらと動き回っていた。
「わあ、かわいい!」
恵美がジャンプしながらはしゃぐ様子を、大人三人が心底ほほえましいといった表情で眺める。
最初のお披露目を終え、八代が部屋の電気をつけた。
「へえ、ミニチュアハウスで遊んでるみたい。でも、なんで雪だるまが増えるの?」
良子の質問に、それはね、と蒼衣が応える。
「マルチプル・グレープのジュースで風味付けした入れたレアチーズムースだからだよ。周りは薄いぎゅうひで包んであるから、洋風大福って言っても差し支えないかも。直前まで凍らせてあったから、もう少し動き回るかなあ」
「マルチプル……増える、ねえ」
「こいつ、つかんでみようかな」
蒼衣の説明を横で聞いていた八代が、ちょこちょこと動き回っている雪だるまを指でつまむ。つままれた雪だるまはおとなしくなり、やがて動かなくなった。
「あの、食べごろになると、動きは止まるからそれからでもいいんだけど……」
「いや、エビの躍り食いみたいだな~と思って」
と八代がこぼすと、蒼衣は良子と思わず顔を見合わせた。
「ヤーくん、こういう感性の持ち主だけど、これでよくケーキ屋の店長やってられるわね。シェフパティシエとして、どうなのこれは」
「いやあ、はは、いいんじゃないかな。率直な意見って大事だよ……たぶん」
どうコメントしていいか分からず、戸惑った答えを出すと、良子はどこか呆れたような顔になった。
「そうやって、いつも蒼衣くんはヤーくんを甘やかすからいけない……」
「俺の自慢のシェフパティシエは優しいんですぅ」
「あなたは黙って雪だるまくんでも食べてれば?」
「パパー、一緒に食べよう!」
パパ一つちょうだい、と抱きつく恵美に、八代は「ほら優しく持つんだぞ」と雪だるまを渡す。
「いただきまーす」
二人同時に口に運ぶ。瞬間、親子の顔が喜びにほころび、蒼衣にも気持ちが伝わってくる。
「おいし~い! あっ、イチゴの味だった! あおちゃん、中のおいしいのなに?」
「コンフィチュール。簡単に言うとジャムだよ。四種類入れてみたんだ」
「パパはマンゴーだ。ほら、ヨッシーもあーん!」
雪だるまをひとつまみした八代が、満面の笑みで良子に迫る。しかし良子はぷいと顔をそらした。
「いや、自分で食べられるから」
「つれないなあ。いけずぅ」
八代を適当にあしらった良子も、動きの止まった雪だるまを手に取り、口に入れた。
ほんの少しだけ、ぴくりと眉が動くのが見える。伝わってくるのは「おいしい」の気持ちだ。
「これ、カシスだ。レアチーズのムースもほんのり白ブドウの風味がして、さっぱりしてる」
ありがとう、と返すと、良子は二個目の雪だるまを手に取った。
「ヨッシー、おいしいよなこれ。もう、とまらないやめられないって感じ? 小さいからいくらでも食べられるし、さっぱりしてるし」
「何個このかわいい雪だるまを口に投げ込んだの。あと、いつまでエビネタを引っ張るつもりなのこのオッサンは」
「ママ-、わたし三個も食べちゃった! ママは? ママは何個?」
「三個も食べたの? じゃあきちんと歯磨きしないとね。ママは今から二個目をもらうの」
「ねえねえ、どの子にするの?」
どれにする? と、ヘクセンハウスの周りの雪だるまを眺める東一家を、蒼衣は穏やかな心持ちで眺めている。
三人から伝わる「おいしくて楽しい」気持ち。美味しいものを、大好きな家族にも楽しんでほしいという願い。
あたたかく、愛おしく、素敵なものだ。
しかし、心のどこかで。
こんな理想的な家族の場所に、なぜ自分がいるのだろうか。蒼衣の体は、自然に後ずさる。
家族、という形を、蒼衣は八代ほど信じることができない。自分自身の人生で精一杯な自分が、他人の人生に寄り添い、生活を共にできるのだろうかと自問自答することが、近年密かに多くなった。
八代のそばにいたい、という願いは、決して家族になりたいというものではない。
恋人でもなく、家族でもなく『魔法菓子店 ピロート』という場所で、彼とバディでありたい、という意味合いが強い。
それが、蒼衣の求めていた場所であり、関係だ。
だが、それは時として、八代の「家族の時間」を奪うことにもなる。
三人を愛おしいと思うからこそ、こうして受け入れられることが、つらいと思う――あまりにも身勝手な感情が、蒼衣の中で渦巻く。
そのときだった。
「蒼衣くん、なにしてんの」
良子が、蒼衣の肩を軽く叩いた。
「あ、え、良子さん?」
「ぼーっとしてると、雪だるまがぼんくら店長とちびっ子に全部食べられちゃう」
「ああ、いや、僕は。それは、みんなのために用意したものだし」
だから僕はいいよ、という蒼衣の言葉に、良子が「違う」と短くかぶせてきた。
「みんな、の中には、貴方もいるの。あのねえ、これでも私と貴方、十三年の付き合いがあるの忘れた?」
「それは、その」
「貴方がただの夫の友人だったら、わざわざ食事なんて用意しない。どっかで食べてきてください、って言っちゃう。私、そんなにいい妻じゃないし。貴方は私の友人なの。一年で一番忙しい時期を乗り越えた友人を少しでもねぎらいたい、一緒にクリスマスを過ごしたいって思うの、いけないこと? だから勝手に拗ねないで」
良子とは、最初こそ友人の恋人、というポジションではあったが、八代とは違う冷静な視点と、敬遠されがちな見た目と反する面倒見の良さは、蒼衣にとって好ましい性格だった。故に、友人として親交を深めていった経緯がある。
良子から伝わってくる気持ちは、間違いなく、友人である蒼衣を心配するものだ。
蒼衣は、自分勝手な憐憫に浸っていたことを恥じた。
「……ごめん」
「わかればよろしい」
ほら、と手を引かれ、八代と恵美に近寄る。
「蒼衣、家のクッキーも美味しいな! バニラの甘い香りがめっちゃする!」
「おいしーい!」
二人の手元には。パキパキと割られたクッキーがあった。
ヘクセンハウスのクッキーには、バニラシュガーをふんだんに使っている。本来はスパイス入りのものが多いが、子どもでも食べやすいようにアレンジしたのだった。
「あら、二人ともしっかり歯磨きしてよ。あと、ヤーくんと蒼衣くんは、食べたらお風呂に入ってきたら?」
お店に戻るんでしょ、と良子は言う。
そう、クリスマスイブは終わったが、明日が本来のクリスマスである。予約分も当然用意しなければならないし、当日もケーキが出るだろう。
「ありがとう、良子さん」
「さすがヨッシー大好き! 愛してる!」
「……そこのぼんくら眼鏡はちょっとは黙ったらどうなの」
ストレートな八代の愛情表現を、良子はなかなか素直に受け取らない。蒼衣自身も、八代の直球な言葉を受け取るのは気恥ずかしく思うので、良子がつれない態度なのも理解できる。
少しくらい、良子の味方をしてもいいだろう。
「八代、口説き文句がワンパターンだってさ」
案の定、八代は目を丸くする。
「確かに、蒼衣くんの言う通り」
「あ、あ、蒼衣に言われるの、なんか悔しいんですけど! っていうかヨッシ―は俺の味方じゃないんですか!」
「私は自分の心に素直なだけ」
「パパもママもあおちゃんも、なかよしだねえ」
やがて夫婦漫才に発展しつつある二人を見て、蒼衣の口に自然と笑みが浮かぶ。
真っ直ぐで賑やかな親友も、冷静で世話焼きな友人も、ニコニコとそれを眺める幼子も。
確かに今、自分の目の前に――手の届く場所にあるのだと、蒼衣は思った。