「あれ、知らずに入ったの?」
 魔法菓子――自然に存在する、魔力を持った食材で作られる不思議なお菓子の総称。
 信子の中では、日常的に食べるというよりは、特別なイベント……誕生日や冠婚葬祭などで登場する、高級な食べ物というイメージだ。専門店の魔法菓子は、普通の洋菓子よりも値段の相場が高く、百貨店やホテル、東京や大阪の大都市に店を構えていることが多い。だから、地方都市の住宅街にあるとは思わなかったのだ。
「……」
 信子は財布の中身を思い出し、目の前にずらっと並んだケーキを再度眺める。間違いなく、全部の料金を払うことは難しいだろう。
(どうしよう、普通のお菓子屋さんだと思って、値段見てなかった……)
 瞬く間に血の気が引き、信子の顔が引きつった。
「あっ、大丈夫。うちの値段ね、普通のお菓子と同じくらいなんだ。ホテルとかで出るものよりも『おやつ』って感じに近いし。ねえ鈴木さん、せっかくこうしてうちに来てくれたわけだし、ちょうど紅茶もいい感じだし、よかったらそろそろ食べてみて?」
 引きつる信子を知ってか知らでか、蒼衣はほほ笑みを浮かべながらケーキを勧めてきた。
 話を聞いてくれた手前、勧められたら断ることはできない。それに、蒼衣というひとの笑顔は、不思議とひとを安心させる魅力があった。信子は、おそるおそる一番近くに置いてある皿を手に取った。
 皿の上には、黒くてつやつやとした、ドーム型のチョコレートケーキらしいものが乗っている。フォークで表面に触れると、ドームの上に星座の模様があらわれた。
「わっ!?」
 突然の出来事に、信子は驚いて声を上げる。
「大丈夫だよ。これは『プラネタリウム』っていうチョコレートケーキ。名前のまんまだけど、プラネタリウムを再現したケーキなんだ。本物の星のかけらを使ったグラサージュをかけてあるんだ。魔法菓子は、初めてだったかな?」
 蒼衣の問いに、信子は首を振る。
「いえ、幼稚園のとき、誕生日ケーキを魔法菓子にしてもらったことがあります。でも、それ以来食べることがなかったので、驚いてしまって」
 思い出した記憶は、ちょっと苦いものだった。後から生まれた弟や妹はそんなことをしなかったので、両親が怒るのも仕方ないと思っていた。
「確かあのときも、驚いてぐちゃぐちゃにしちゃって。親にすごく怒られました」
「あははは、確かに驚いちゃうよねぇ」
 中身は甘いチョコレートムースで、真ん中にほろ苦いキャラメルの味がするクリームと、刻んだナッツが入っていた。食べるとほんの少し、目の端にキラキラと星のようなものが見えるのも、不思議だった。
「おいしいです」
 さらに一口二口と、夢中で食べた。あっという間に無くなってしまい、それがとても残念に思えるほど、おいしかった。
「ありがとう。プラネタリウムのように、お菓子そのものが変化するものもあれば、ひとの体になにかしらの変化を与えるものもあるよ。軽めのものだと、これなんだけど」
 まだ食べられる? と差し出されたのは、音符模様のスポンジで作られたロールケーキ。中にはクリームがたっぷり入っていて、これもおいしそうだ。信子は「食べます!」と即答した。
 今度はしっとりとしたスポンジに、チーズのようなさわやかさのあるクリーム。中心の赤いソースはイチゴとはまた違う甘酸っぱさだ。
 これもおいしかった。しかし、どんな変化が出ているのかは、いまいち実感が湧かない。そう思った瞬間だった。
「これはどんな魔法が……えっ、えっ?」
 自分の声が甲高くなっている。まるでヘリウムガスを吸ったときのような声だった。
「それは『ボイスマジック・ロッカー』。一定時間、声が変わる魔力のある実のソースが入ってる。ああ、だいたい一時間から二時間くらいで効果はなくなるけど、居心地、悪そうだね」
 蒼衣の言葉に、信子は半笑いでうなずく。
「ごめんね。その紅茶を飲んでみて。それは魔力中和の効果のある魔法紅茶だよ」
 蒼衣の言うまま、信子はいつのまにか注がれていた紅茶に口をつけた。渋みの少ない味に、口の中がさっぱりする。飲み込み、声を出してみると、すっかり元通りになっていた。
 蒼衣は目を細め、穏やかなあの笑みを浮かべながら信子の様子を眺めていた。確かにきれいな顔立ちだが、なんだか妙に親しみを感じる人だなあ、と信子は思った。
 ふと、蒼衣の髪の毛がふわっとたなびき、青く発光した気がした。店のドアも窓も空いていないし、そもそも人間の髪の毛が光るなんてことはあるのだろうか? 不思議に思っていると、蒼衣が口を開いた。
「どうですか? 魔法菓子のお味は」
「すごい、本当に魔法がかかってるんですね。面白くて、おいしくて、楽しいです」
 本心から信子は答えると、蒼衣は花が咲くような笑顔を見せた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、作ってよかったなって、本当に思うんだ。……少しは気持ち、落ち着いたかな」
「あ……」
 そこでやっと、信子は自分の苛立ちや沈んだ気持ちが落ち着いていることに気がついた。しかし、根本的な解決には至っていないことを思い出し、すぐにうつむいた。
「ケーキは、本当においしかったんです。でも……」
「すっかり解決、って訳にはいかないよね」
 困ったような顔で蒼衣は「あのね」と言葉を続けた。
「実は、僕も鈴木さんの気持ちが少しだけ分かるよ。友だちとの仲たがいは、つらいよね」
「えっ、そうなんですか?」
 穏やかでけんかなんかしそうにないのに、と信子は思う。
「少し、僕の話をしてもいいかな」
 遠慮がちな蒼衣の言葉に、信子は頷いた。
「鈴木さんと同じくらいの歳のときかな。僕は人気者の友人にものすごく嫉妬した。いいやつだったからね。なんで僕と一緒にいてくれないんだろう、って。恋人の嫉妬かよ! って言われたけど、まるで恋みたいに熱に浮かされてた。僕をわかってくれるのはあいつしかいないってね」
 蒼衣はいったん紅茶で口を湿らせると、言葉を続けた。
「いやあ、すごかったよ。今だから言えるけどね。もう、ほんと、今思えば、なんて大人げない拗ねかたしたんだろうな、って思うんだけどねえ」
 蒼衣が笑う。蒼衣はたった十五年しか生きていない信子とは違う、大人のはずなのに。その姿はどこか年若い少年のようにも感じて、信子はますます彼に親近感を覚えた。
「それでね、彼は言ったんだ。『不機嫌で他人をコントロールしても、幸せにならないって。俺もイヤな気持ちだし、なにより蒼衣のためにならない。蒼衣が不幸になるだけだ。だから止めた方がいい』って。僕にはとても衝撃的だった。僕が不幸になるだけだ、って、彼は心配してくれたんだ。その言葉で、僕は救われた」
「すてきですね、その友だち」
(友だちを心配してくれるなんて、なんていい人なんだろう)
 信子は、蒼衣の語る友人の姿勢がすごいと思いながらも、うらやましさを感じた。
(私には、そんな友だち、もういないんだ)
 冷たい顔をしたみなみを思い出して、信子の鼻がつんとなった。
「確かに、友人はいいやつなんだ。でも僕の中には、まだ嫉妬っていう名前の魔物は棲んでいるんだよ。友情のことだけじゃない、魔法菓子の技術だとか、生き方だとか。生きていれば嫉妬はついて回るんだ。なんで僕は嫉妬なんかするんだろう? って何度も考えた。今でも答えを探してるけど……一つの可能性があってね」
「可能性、ですか?」
 嫉妬という名の魔物とはなんだろう。信子は、似たような経験をした蒼衣の話が気になった。
「ねえ鈴木さん、僕、兄と弟だったら、どっちだと思う?」
 唐突に質問を投げられた。蒼衣から受けた印象――穏やかな笑みと、安心感。選べと言われたら、即答できる。
「お兄さん、ですか?」
「やっぱり? そう見えるよね。正解、僕は長男だよ。甘え上手な妹が一人いる。鈴木さんは?」
「私も、弟と妹がいます」
「そうなんだね。長男長女あるあるでさ、よく「お姉ちゃんだからがまんしなさい」って言われなかった?」
「どう、ですかね。自然にがまんできてたというか、なんか、無言の圧力がある気がします」
 気づいたときには、自分はもう『姉』だった。最後に親へ抵抗できたのは、魔法菓子の誕生日ケーキに驚いて、ぐちゃぐちゃにした日かもしれない。
「わかるよ、その圧力。うちの妹は子供のころ、すごく癇癪持ちで甘えたがりで。だから両親も妹に手を焼かされてて、僕には厳しかった。一人目だったのも影響したのかもしれないけどね。で、妹も常にお兄ちゃん、お兄ちゃん、ってしつこいから、お兄ちゃんやめたいなって思うことがたくさんあった。僕もだれかに甘えたいよって」
「甘えたい……」
 そこで蒼衣は信子を見た。
 自分が魔法菓子のことで親に怒られたその後、弟と妹は魔法菓子を特に禁止されず買ってもらっていた。そういえば、ヘリウムガスのおもちゃも、弟と妹は遊んでいたが、信子には与えられなかった気がする。上手くできなくてかんしゃくを起こすからだ。
 それからというもの、信子は、常に親の前で『いい子のお姉ちゃん』をやっていなければいけない気がしていた。そうすれば親に褒めてもらえて、弟と妹にもお姉ちゃんと思ってもらえるからだ。親に捨てられることもない。そう考えていた。
「そう、そこで僕は両親に甘えたかったんだって気づいた。なんでも願いが叶う妹がうらやましくて仕方なかった。でも、両親の失望した顔……悪く言えば不機嫌な顔が見たくなくて、言い出せなかったんだ。僕が、両親の不機嫌にコントロールされてたんだよね。だから僕も、同じように育ってしまった……かもね、って。で、両親にも、もちろん妹にも甘えられない僕は、友だちに甘えて拗ねてみせることで、そのフラストレーションを解消しようとしましたとさ」