春雨と桜花の初恋幻想曲

桜都がアトリエを出たときには、
すっかり外は暗くなっていた。

桜都はさっき描いた絵を大切に持って、
ダイニングにいる母のもとへ駆けた。
早く、母にその絵を見てほしかった。

けれど、ダイニングのドアを
開けようとしたところで止まった。

やっぱり、母に見せるのは
惜しいと思ったからだ。

桜都はダイニングには入らず、
その足で自分の部屋へと向かった。


桜都はその絵を自分の勉強机に置いて、
しばらく眺めていた。


きっとまた会えるよね、、。



そう思って、しばらくしたらまた
ダイニングへと向かった。
桜都はこうして、時雨とまた会える日を願った。

何日も、何ヶ月も、何年も。

けれど、会えることはなかった。


そのうち桜都は、時雨の存在を
思い出へと形を変えていった。

十歳の頃の、素敵な初恋として。




ときどき時雨を思い出して、
また会えるといいななんて思うことも
あったけれど、もう期待はしなかった。






期待しても会えないのは、

ただ虚しいだけだった。




清宮時雨はその朝、
いつもよりとびきり早く起きた。

窓の外はまだ暗くて、
小鳥のさえずりさえも聞こえてこなかった。

けれど、
すっかり目が覚めてしまったので、
二度寝はしなかった。

程よい緊張感があって、
今日は大丈夫だと思った。

それは時雨にとって最後の、
ピアノコンサートの朝だった。


時雨はパジャマのまま、
地下のピアノ室へ向かった。
重いドアを開けて部屋に入ると、
真ん中にはぽつんとグランドピアノがあった。

それはとても寂しそうだった。
けれどいつも時雨が弾いてやると、
それは元気になったような気がした。

「おはよう、いつもありがとう。」

鍵盤にそっと手を置いて、
時雨はピアノにそう言った。

***
時雨には美樹という、一つ上の幼馴染みがいた。物心つく前からずっと一緒にいたせいか、
家族も同然、いや、それ以上の存在だった。

美樹は時雨の初恋の人だった。

、、しかし、美樹は病気を患っていた。

『先天性心疾患』

生まれつきの心臓病だ。

時雨はそんな美樹を助けたくて、
医者になることを望んでいた。

しかし、両親はそれを許さなかった。

時雨の家族は音楽一家で、
父はプロのピアニスト、母は声楽家だった。
(母は時雨を生んだときに引退している。)

時雨はそんな両親から、
ピアニストになるための英才教育を
受けていたので、
幼い頃から時雨の将来は決まっていた。

だから時雨が医者になりたいと
言い出したとき、両親は時雨に猛反対をした。

けれど時雨の意思は変わらなかった。
両親は、時雨が本気で医者になりたがって
いること、ちゃんと分かっていた。

けれど医者になりたければ、
今とは比にならないほど
勉強をしなければならない。

それは、ピアノの練習時間が
削られてしまうということで、
ピアノをとるか、勉強をとるか、
簡単には決められない、
とても難しい問題であった。

もし医者を目指すことを許せば、
時雨は才能を捨てるも同然だった。

けれど時雨は諦めなかった。
ただ、早く美樹を助けたい一心で、
両親を説得し続けた。

そんなある日、時雨が医者になりたい
理由を話すと、両親はため息をついて
反対をやめた。

それは両親が、
時雨は美樹の為になるとなんでもする子だと
知っていたからだった。

医者を目指すことを許した両親だったが、
それにはいくつかの条件があった。

一、まずは中学受験に合格する。
二、次のピアノコンクールを最後にする。
(厳密に言えば入賞者のコンサート)
そして、
三、美樹には秘密にする。
ニ、の、次のコンクールを最後にする
(厳密に言えば入賞者のコンサート)
には、少々問題があった。

美樹は時雨の弾くピアノが大好きだった。

時雨がピアノを練習している間、
美樹は時雨のそばにちょこんと座って、
毎日静かに聴いていたし、
時雨のピアノコンクールは毎回必ず
見にきていた。

そんな美樹が、次のコンクールが最後と知ったらどれだけがっかりすることか、
時雨には想像が出来た。

もしそうなれば、

「なぜもうコンクールに出ないの?」

なんて聞かれてしまうし、
正直に、医者になりたくて中学受験の
勉強をしないといけないからと答えれば、

「なぜ医者になりたいの?」

と聞かれることは目に見えていた。

そんなとき、美樹の病気を治したいから
なんてとても言えやしない。

そんなこと言えば、
美樹は絶対反対するに決まっていた。

、、だからといって、
時雨にはそれ以外の理由は思いつかなかった。

だから美樹には最初から
何もかも秘密にした。
そんなことで話が進んで、
中学受験に集中するために、
これが最後のピアノコンクールとなった。

これが終わったら毎日、
美樹がいる間はピアノを弾いて、
美樹が帰ったら勉強をする生活になる。

そんな生活を想像した時雨は、
少しだけ寂しい気持ちになった。

幼い頃からずっと
ピアノとは離れたことはなかった時雨は、
今更になって名残惜しさが込み上げてきた。

それでも時雨の意思は揺らがなかった。
***

時雨がグレーのベストを着て
ネクタイをしめたとき、
ちょうど美樹が訪ねてきた。

「時雨っ。今日がんばってね!
私、客席から聴いてるから!!」

そう言って満面の笑みを浮かべた美樹を見て、
時雨は心がほっとした。

そして、時雨は美樹の肩にぽんっと
優しく手を乗せて、

「行ってくるよ。」

と言った後、その場を去っていった。