「ただいまー」

 玄関を開けて、彩也子はその澱んだ空気に些かたじろいだ。相変わらずテレビの音が聞こえてくる。
 廊下に脱ぎ捨ててあった靴下を拾い上げる。その足のまま、彩也子はずかずかと諒一の横たわるソファを素通りし、窓を全開にした。途端、諒一が悲鳴を上げる。

「うわっ、寒っ! 閉めろよ彩也子!」

 その声は、彩也子の耳を素通りした。

(うん。外、こんなに気持ちいい)

「ちょっと今から掃除するから我慢して」
「……んだよ」

 こうしてよく見てみれば、部屋の中はいらないものばかりだった。
 読み終わった雑誌。飲み終わった缶コーラ。食べ終わったポテトチップス。転がるビニール袋。数年着ていない洋服。いつ買ったのか定かではない美容グッズ。埃を被った去年の手帳。誰かからお土産で貰った、どこかの島の人形、等々。ついでに先ほどの靴下もとりあえずその場に置いておいた。
 それらを前に、彩也子は考える。

(他に捨てるものあるかなー)

 ワンルームの彩也子の部屋を見渡す。
 ソファの上でゲームに興じる男に目が留まる。
 その男の靴下に目を戻す。よく見たら擦り切れて穴が空いている。
 もう一度男を見た。そして近くに寄ってみる。
 男はゲームに夢中だ。
 冷静な目で、努めて客観的に、その男を見下ろして、彩也子はごく自然に思った。

(うん。いらないな)

「出てって」

 思考と同時に、言葉が出ていた。

「んー」

 気のない返事。

「出てって」

 語気を強める。
 返事すらない。

 体が、勝手に動く。

「出てけよ」
 
 彩也子は、寝転がる男の首根っこを鷲掴みにしていた。
 顔を近づけ、一音一音、言い聞かせる。

「ここ私の部屋だから。掃除するの誰だと思ってるの。散らかすならせめて自分で片付けてくれない?」

 男は状況が理解できていないらしい。
 呆然とこちらを見上げるその――くすんだ顔色、肌荒れ、放置されたひげ。
 不意に怒りがこみ上げる。
 彩也子は咄嗟に、例の靴下をその顔に投げつけた。

「靴下ぐらい自分で洗えるだろうが、大人なら!」

 べろり、男の顔を汗で湿った靴下が覆う。
 男は弾かれたように立ち上がった。

「汚っ! お前なにすん」
「その汚えもん私に洗わせるつもりだったんでしょ」

 唖然としてぽっかりと開いたその口にすら、今の彩也子は苛立つ。

「出てって。早く。もう来ないで」
「……な、なんなんだよ急に」
「いいから!」

 肺に、息を溜める。
 全身全霊で、目の前の諒一を、睨みつけて。
 腹の底から叫んだ。

「私は、もう、あなたなんかいらない!」
「……っんだよ、さっきから! ヒスってんじゃねーよ!」

 諒一がゲーム機を投げ捨てた。堪忍袋の緒が切れたらしい。

「俺だってお前なんかいらねーよ!」

 意味わかんねーんだよ、などとぶつぶつ言いながら、諒一は玄関へ向かっていく。

「もう別れるからな! 後で泣きついたって知らねーか」

 がちゃん! と勢いよくドアを閉めた彩也子は、即効で鍵とチェーンをかけた。

(あー、合鍵回収するの忘れた……。鍵交換しとこ)

 管理会社に連絡する。多少懐は痛むが仕方ない。
 
 部屋に戻り、先ほど並べたいらないものたちを分別してゴミ袋へ捨てていく。今度は諒一が使っていた歯ブラシも追加された。
 その後は、死蔵されていた段ボールを引っ張り出して、消耗品ではない諒一の私物を詰め始める。干していた洗濯物の中に見つかった下着は、一瞬の迷いの末に『捨てるもの』として処理された。
 黙々と作業をしていた彩也子はふと顔を上げる。

「あ」

 ソファの背もたれに上着がかかったままだ。どうやら諒一は十二月の寒空の下、長袖一枚で放り出されてしまったらしい。まあ、携帯は持って行ったはずだ、死にはしない。この上着は諒一の私物たちと一緒に実家に送り返すことにした。

 上着を手に取って、広げる。
 ぱさり、音を立てて、裾が落ちる。
 諒一の匂いがした。

(……これ、昔から着てたな)

 不意に、記憶がよみがえる。
 白い息を吐いて、寒空の下で笑い合う自分たち。
 十二月のイルミネーションで彩られた夜道を、手をつないで歩く諒一と彩也子。

(――ばいばい)

 綺麗に畳んだその上着を、段ボールの隅に納めた。