その電話がかかってきたのは、出社の準備をしている途中だった。

「――ああ、もしもし」

 上司のその声だけで、彩也子は悟った。
 なにか、取り返しのつかないことが起きた、と。
 スマートフォンの向こうが、やたら騒がしい。

「一昨日やってくれた得意先への請求書だけどさ。一桁入力し忘れてたみたいだよ」

 ひゅ、と、喉が勝手に息を吸い込んだ。冷汗が落ちる。
 真っ白な頭に、固く温度のない声が響く。

「今営業の子たちが相手先と話してるけど、この感じだとこの金額で納入することになりそうだね。――損失どのくらいかわかってるよね?」

 ――やってしまった。ついに。

(すみま、申し訳、もうし……)

 謝らなくては、いけないのはわかっているのに、唇が震えて、のどが絞まって、拍動に気をとられて、考えがまとまらなくて、声が出せない。
 
 電話の向こうで、誰かが誰かに怒鳴った。
 彩也子の上司は気にも留めずに淡々という。

「とりあえず、これが片付いたら君のことについても話し合うことにするから」

 連絡するまで、こなくていいよ。

 何か返すのも待たずに電話は切れる。
 つー、つー、という電子音だけが、鼓膜をむなしく震わす。
 耳から離した携帯電話を、彩也子は呆然と見つめていた。