「っていうか、きつねちゃん、やっぱりさー、絶対、こんな時間にお客さんが来るわけないよー」
「く、来るかもしれないでしょ!」
「その『かもしれない』ってどのくらいの確率の話してる? 五十パーセントは超えてるとありがたいなー?」
「言い回しがむかつく! もう、子供は早く寝たらどう!?」
「あーあーあー、大人ってこれだからいやねえ!」
(……帰った方がいいかな……)

 室内からとめどなく声が漏れ聞こえてくる。場所は、ごくごくありふれた雑居ビルの二階。扉に『あやかし恋愛相談所』という手書きの紙が貼られている。彩也子はためらいがちにドアノブに手を伸ばすが、ついぞ開けることは敵わず、うなだれた。

 あれからどうにもあのビラのことが頭から離れなかった彩也子は、仕事帰りに地図の場所を訪れていた。

(就業時刻過ぎてから仕事持ってくるの、ほんとやめてほしいな……)

 積まれていく書類を何とか片付けて退社したはいいものの、あっという間に時刻は二十二時。流石に遅いとは思いつつも、とりあえず様子見だけ、と自分に言い聞かせて来た。
 会話から察するにこの時間でも客を受け入れてはいるようだが、こんなにも盛り上がっているとどうにもタイミングがつかめない。

(……邪魔しちゃうかな)

 扉を開ける勇気が出なくて、その場にぼうっと突っ立ったまま、時間が刻々と過ぎていく。

(……私、いつもこうだな)

 いつも、優柔不断でぐずぐず考えている。要領も悪い。自分の意見もろくにない。

(……こういうとこがイライラさせるんだろうな)

 会社のお局様が彩也子のミスばかり指摘するのも、同僚グループが彩也子にだけ挨拶を返してくれなくなったのも、諒一がしょっちゅう不機嫌になるのも。

 きっと悪いのは自分なのだ、と彩也子は思う。

(もっと私に勇気があったら。もっと私がしっかりしてたら。もっと空気が読めたら、こんなに人を不快にさせることなんて――)

 そこで、かさかさとビニール袋がぶつかり合う音に思考を遮られた。

「あれ? うちになにか用ですか?」

 背後から柔らかい女性の声。反射的に笑顔を作って振り返る。

「あ、いや、すいません! 大丈夫で――」

 その笑顔は、引きつった。

「――す!?」
「あ、まって、首忘れちゃった」

 目の前には、赤いコートを身にまとった胴体。つまり――タートルネックの先が、ぽっかりと空洞だった。
 それが、平然と突っ立っている。両手に缶ビールやスナック菓子でぱんぱんのコンビニ袋をぶら下げて。

「いけない、私ったら……ちょっと持っててくれる?」

 赤コートの胴体は唖然とする彩也子にレジ袋を押し付け、ふよふよと背後から飛んできた女の生首をナイスキャッチ。本来頭があるべき場所にそれを押し当てて固定した。

「あ……あ……え……」
「ごめんなさい、ちょっと郵便届け見に行ってたんですよー」

 色の白い丸顔をほころばせると、彼女は彩也子の目の前の扉を開けてみせる。気の抜けた声が中から彼女を歓迎した。

「あ、ろくちゃんおかえりー」
「きつねちゃんおめでとう、お客さんですよー」
「え、まじ? ほら言ったじゃんわらし!」
「きつねだって割と諦めてたじゃん」

 彩也子はぎゅ、と重量のあるレジ袋を握りしめる。

「どうしたんですか?」

 赤いコートの女性が、ゆったりと首をかしげる。
 ほんの数秒前まで首と胴体が泣き別れになっていたとは思えないような、優しげな微笑み。
 彩也子は意を決して一歩踏み込んだ。そっと会釈する。

「いらっしゃーい」
 
 気の抜けた声は、彩也子のことも同じように出迎える。

 顔を上げてすぐ目に入るのは、実に生活感のある和室。
 そして、部屋の中央のちゃぶ台で、頬杖をつく童女。
 座布団の上で胡坐をかいている、長い金髪の少女。
 
「あやかし恋愛相談所、受付中だよ」

 少女のつんと鋭い目が、存外優しく細められる。
 その頭頂部では、柔らかそうな毛に覆われた獣の耳が付きだしていた。