「いいから俺の言うことを聞け!」


つい最近聞いた覚えのある男性の声が、届いてくる。


「ですけど……」


弱々しく聞こえたのは柚葉の声だ。


「イヤだと言うなら強行手段にでるぞ!」


「それは、困ります」


「だったら決まりだろうが」


「そんな……」


理由は分からないが、柚葉は脅されているように聞こえる。


「他に方法はないのですか?」


「ふん、ならいっそ自殺でもしてもらうか」


あまりのセリフに来夢は声を上げそうになり口を手で塞ぐ。

(自殺してもらう!? ……自殺にみせかけて殺すって意味ですか!)

心臓がバクバクと音を奏で始める。

まさかこんな大変な事態になると思わなかった来夢は、とにかく息を殺すことに専念する。

ここにいることがバレたらタダでは済まないだろうから……。


だが、


「っ!?」


そんな時に限って、あの発作がやってくる。

(あ、洗い物がしたいです!)


あやかしなごりだ。

手がウズウズとムズムズの波に浸食され、頭が流れ出る水を強く求め始める。

いつのまにか指は口から離れ、洗えそうな物を探し床を探りはじめた。足は水道へ移動するため立ち上がろうと力を込め始める。

それらを必死に押さえ込もうとするが、


「あっ」


ガタン! 

イスに頭をぶつけてしまった。


「誰だ!」


男性が気づき、声を上げる。
表情は見えないが、完全に怒っているトーンだ。


「誰かいるのか!」


祈るように目を瞑ってなんとか気配を殺そうとするが、


「も、もうダメです」


限界だった。

来夢は勢いよく反転すると、


「水道はあっちです!」


自分に言い聞かせるため、小さく声を出す。
そして、高速の四足歩行を決行した。

はたから見れば──真顔でハイハイ。

人に見られたらかなり恥ずかしい姿ではあるが、そうも言っていられない。
幸い? なことにあやかしなごりのおかげで、体はいつも以上にキビキビ動いてくれるので位置がバレる前に机の下をスイスイと移動していく。


「どうかしたのですか?」


柚葉が一瞬、男性を止めてくれたのにも助けられた。


「声が聞こえた! 話を誰かに聞かれたんだ! ──そこか、待て!」


相手が気づいた頃には、来夢はドアの向こうへと体を滑り込ませていた。


「来夢ちゃん、すごくハイハイ上手だね」


蒼士が弁当片手に緊迫感のない顔でのぞき込んでくるが、それどころではない。


「水道に連れて行ってください!」


「水道?」


「はやく!」


本当は事情を説明したいところではあるが、いまは時間がおしかった。
それにこの場から早急に移動するのは同じことなので、


「急いでください!」


そのまま廊下の奥へと進み出す。


「ちょっと、待って! いくら褒められたからってハイハイで行くの?」


慌てて蒼士もついてくる。



その場に司がいないことに気づいたのは、しばらく経ってからだった。