「さぁ、おあがり」
狸の前にふたつのうつわを置く。小桜の言葉もろくに聞かない様子で、狸は餌に食いついた。がつがつと猫缶の中身を食べていく。
小桜は、ほっとした。
食べた。
たたきの前。家に入るための段差に腰かけて小桜はそれを見守った。野良猫に餌をやっていたときと同じように、だ。
ちらっと「これも給餌になるだろうか」と思ったけれど、今回だけの特別だと思うことにした。これほど弱っていたのだ。一回餌をやるのも駄目などと、それは非情すぎるだろう。
餌を食べ、時折水を飲み、狸は五分ほどでぺろりとすべて平らげてしまった。
ふぅ、と満足のため息が聞こえてきそうだった。
「美味しかったかい」
もう言葉が理解されているものだと半ば確信していたので、小桜は尋ねた。
まぁ狸が「はい」などと言うはずがないので、ただ、くりっとしたその目で小桜を見上げただけだった。
けれどその目は確かに「美味しかった」と言っていた。
小桜は、ふっと笑ってしまう。立ち上がった。
触られるのではないか、と警戒してか。狸の体がちょっとこわばるのを感じたけれど、小桜は驚かせないように、そっと玄関の戸に手をかけた。からら、と開ける。
「さ、住まいへおかえり。もう鳥なんぞに襲われるんじゃないよ」
もう一度、狸は小桜を見た。くりっとした瞳がなにを言いたいのか、小桜にはわからない。
向こうにはこちらの言いたいことがわかっているようなのに、こちらからはわからないのが少し申し訳なくなった。
しかしとりあえず、こちらの言いたいことは通じたようだ。狸はそろそろと玄関を抜けた。
くるっと一回だけ振り返って、そして。
たたっと地面を蹴って、行ってしまった。その足取りは、ぶつかってきそうになったときや、小桜のあとについてきたときとは比べ物にならないほどしっかりしていた。
その後ろ姿を見ながら、小桜は、ほうっと息を吐き出していた。
不思議な生き物だった、と思った。
感じたように、狸……に近いのだろうけれど、ただの野生の狸ではないような気がした。
鳥に追われていたり、ぎょろりとしていつつも愛嬌のある、おまけに意志ありげな瞳で見つめてきたり。おまけに言葉がわかるかのような様子すら見せていた。
いや、狸じゃないならなんだって言うのさ。
小桜は胸の中で言って、ちょっと首を振った。
とりあえず、狸を助けることは出来たのだ。少し回復したようだったから、すぐに命にかかわるようなことはないはず。
もう会うこともないかもしれないが、それでいいだろう。野生動物なのだったら、会わないほうが良いのだろうし。
からりと玄関を閉めて、狸の残したうつわを取り上げる。
そこで、おや、と思った。
うつわの中に、なにか入っている。餌の入っていたほうに、だ。
それはなにか、紙のようなものだった。けれどずいぶん古い紙らしい。黄ばんでいてぼろぼろであったし、和紙であることくらいしかわからない。
おまけに、こんなものはさっきあっただろうかと小桜が手を伸ばし、指先が触れた瞬間、その古い紙のようなものは、ほろほろと崩れてしまったのだから。
それは数日後のことだった。秋深まる折、小桜が庭の柿の木の様子を見ようと縁側に出た、昼下がり。
柿の木には夏の終わりから実ができて、順調に膨らんで色づいていったところだった。
渋柿だから食べられない。けれど、干しておけば甘い干し柿になるのだ。
良い頃合いまで熟れたらタイミングを逃さないように摘んでしまわないといけない。
そうでないと鳥についばまれてしまう。そうなったらもう干し柿になりやしない。
この柿に関しては、毎年、鳥との勝負ともいえるのだった。
その毎日のことだったのだが、今日はなにか妙なものがいた。
妙なもの、どころではない。柿の木に腰かけて、ぷらぷらと足が揺れているそれは、少年だったのだから。
小桜は仰天した。子供が勝手に庭に入っておまけに柿の木などに座っていれば、当然であろうが。
「ど、どこの子だい」
柿泥棒など、小桜が子供の頃は定番も定番だったけれど、この令和の世の中でそんなことは非常識極まりないとよく知っている。
「いい柿だね。干せば甘くなるよ。今年は特別甘いだろう」
しかし少年は小桜の質問には答えなかった。ひとつもいだ柿を、手でもてあそんでいる。おまけにそんな、よくわからないことを言った。
柿が特別甘くなるなんて、どうしてわかるのか。
現代の少年、小学生くらいに見える、長そでシャツとハーフパンツ、焦げ茶の短い髪なんて外見のごく普通の男の子がそんなことを言うだろうか。
「そ、それは渋柿だから、食べたところで美味くなんてないよ。おかえし」
いや、悪戯っこなんだろう。柿の木くらい、やんちゃな子ならのぼるさ。近所では見たことのない子だけど……どこか、親戚なんかから遊びに来ているのかもしれないし。
自分に言い聞かせる。なんとか気を張って、小桜は手を差し出した。
けれど少年は柿を返してはくれなかった。ぽんぽんと手の上ではずませている。
「盗りやしないよ。この実はもう食べ頃だからもいでおいてあげたのさ」
しれっとそんなことを言い、少年は立ち上がった。そのとき、ふわっと風が揺れた。少年の髪を揺らす。
今日は風なんてなかったのに。
静かな小春日和だったのに。
おまけに今吹いた風は冷たいどころか、何故か春風のようにぬくもりを持っていたのだ。
「柿食えば、鐘が鳴るなりってね」
法隆寺。
ぼうっと、小桜は胸の中で呟いていた。
有名な俳句だ。今、そんなことは関係ないだろうに。
けれど関係なかったのだろうか。すぐにそれはわからなくなってしまった。
「さぁ、鐘が鳴るよ。五つ鐘が鳴ったら戻って来いよ」
ぶわっと。
今度は目の前になにかが散った。雪のような細かいものだ。
目に入る、と咄嗟に小桜は顔の前を手で覆っていた。
しかし手に触れたものは冷たい雪などではなかった。
ふわりとやわらかなそれは、花びら。花びらを渦巻かせる風も、ぬくい、ぬくい春の風。
ごーん……という、鈍い鐘の音は一体どこからしただろう。
花びらの舞う向こうだったことは違いない。
舞い散る花びらでちっとも見えやしなかったけれど。
花びらがやっとやんで、小桜はそっと目を開けた。
一体なんだったのだろう。
白い花びらも、春のようなあたたかい風も、そして柿の木にいた少年も。
とりあえず、確かめなければ。
小桜はそろそろと手を下ろす。
いや、下ろそうとした。
下ろそうとしたのに、その手は途中で止まってしまう。
ふわっと手首の下が揺れたのだ。
なにか、布の感触。そしてこの感覚は知っている。
着物を着たときの袖だ。
けれどおかしい、今は着物なんか着ていない。
そもそもずいぶん前から洋服しか着ていないのだ。着物を最後に着たのはなにか、娘と食事に行ったとかそういうときくらいだったかもしれない。
今日だって、地味なセーターとゆるっとしたズボンを身に着けていたのに。何故着物の感覚なんて。
しかし着物など些細なことだった。
目に入った、自分の手。今度は「おかしい」どころではなかった。
つるりとした、しなやかな手。
それは若い女性のものだったのだから。
七十も過ぎた小桜の手はもうしわが多く、こんな手であるものか。
いや、でも知らないわけではない。こういう手であった頃もあった。
それはもう……五十年、六十年……。そのくらい、前、に。
ぼうっとしながら、小桜は手を動かした。
思い通りに動いた。
本当に自分の手のようなのだ。
なにか、夢でも見てるんだろうか。
小桜は思って、次々に自分の身を確かめていった。
淡い黄色の着物を着ているらしいことがわかった。
この着物は知っている。昔、これを持っていた。今はもう、どこにあるとも知れないけれど。
薄い一重の、桜が散った着物。下はえび茶の袴を穿いていた。足元は草履だ。
肩には髪が触れている。焦げ茶色の、つやつやとした髪の先が僅かに見えた。
じわじわと、小桜の頭にある可能性が浮かんできた。
なめらかな手を握って、開いて、あちこち触れてみて。
どれも現実そのものの感触がした。夢かもしれないが、それにしては感触が現実的すぎた。
最後におそるおそる、頬に手を当てた。
思った通り、こちらもつるりとしたなめらかな感触の肌が触れた。
それで小桜は完全に理解した。
十六、十七。
今の小桜の姿はそのくらいの『娘』なのだ。
着物を持っていた時期とも、肌や髪の具合からも、そのときの年頃だと一致する。
嬉しいよりなにより先に、戸惑った。
どうやら奇妙な夢かなにかに迷い込んでしまったようなのだ。
散った花びらと、あたたかな風にさらわれたよう。
実際そうなのかもしれない。
だって、目の前に広がる光景は、住み慣れた自宅の庭なんかではなかったのだから。
柿の木も少年も綺麗に消え失せている。
見えたのは寺。もうずいぶん長く見ていなかったけれど、知っている寺だ。
だって、よく訪ねてきた。
法隆寺、なんてほど大層なものではないし、ただの、地域にひとつはあるような名も売れていないような寺だったけれど。
そうだ、十六、十七の頃。よくここへ来ていたのだ。
それは散歩や遊びに来たのではなく、ある目的のために。
そこまで小桜が思ったとき。
低く、しかしあたたかみのある声がした。うしろから小桜を呼んだそ声。小桜はよく知っていた。
「さくらちゃん」
もうどのくらい長く呼ばれていないかわからぬその愛称を口にしながら、微笑を浮かべているそのひと。
着物の中にシャツを着て、下は袴を身に着け、すらりとした体躯を持った青年だった。
なつかしい、なつかしいその姿。
彼は目元を緩めて小桜に手を差し出した。
「さぁ、行こう。お参りが終わってしまうよ」
握ったその手のあたたかさに、小桜はこれが夢ではないことを嫌でも理解させられた。
だってとても懐かしい感触なのだ。
大きな手にすっぽり包まれることも、その優しい温度も。
この感触がとても好きだった。
「今日は少し遅かったんだね。もう一時の鐘が鳴ったよ」
『彼』は小桜を見遣って、少し笑った。
小桜はどきりとしてしまう。
知っているひと、どころではないし、自分にとってとても近しいひとだけれど、彼は小桜の胸を高鳴らせるにはじゅうぶんな理由を持っていた。
「そ、そうだね、……いえ、そう、ね」
普段使っているような言葉遣いで言いそうになってしまって、慌てて言いなおした。
そこで思い知る。
自分は変わった。言葉遣いすら娘の頃から変わっていたのだ。
「そう、ね。ちょっとお母さんに用を頼まれていたの」
しかし話し出してしまえば、すらすらと出てきた。
昔話していたようなことなのだ。忘れやしない。
思い出すことがもう滅多にないだけで、忘れやしない。
「ごめんなさい、お待たせしたかしら」
しかし遅かったと言われてしまったから、気分を悪くしただろうか。
小桜は、そろそろと彼を見た。
けれど彼は笑って首を振る。優しい笑みだった。
「いいや。少々待ったけれど、待つ時間なんて楽しいもんさ」
その笑みに安心して、小桜もはにかむように笑った。
「そう、……ね。そう言ってくださると嬉しいわ。ありがとう」
それでやりとりはひと段落し、彼は小桜の手を取り直してくれた。
二人は連れ立って歩いていったけれど、小桜には行き先がわかっていた。
さっき遠目に見た、お寺だ。今日はひとが割合多く、同じように寺を目指しているらしいひとや、反対に、用を済ませて帰って行くひとなどが行き交っている。
「なにか美味しいものでも食べたいね」
彼が言った。視線の先には常からある茶屋のほかにも、屋台が幾つか出ているようだ。
「ええ。春の和菓子なんかあるかしら」
「去年は桜餅が出ていたねぇ」
「あら! 今年もあるといいわ」
もうすっかり、昔の調子を思い出した。そんなことまで言えてしまう。
「さくらちゃんは桜餅が好きだもんな」
名前通りだ、と彼は、はは、と声を出して笑った。
からかうように言われてちょっと恥ずかしかったけれど、これすら懐かしくて胸が高鳴る。
そして小桜は思う。
これは夢とうつつの狭間のようなものなのかもしれないけれど、今、この瞬間は確かにある。
一体どうしてこれが起こったのかはわからないけれど、彼がここに居て、隣にいて、その手のあたたかさを感じられているのだ。
放り出して帰る道を探そうなどという気にはなれなかった。
……最期に取った彼の手は、もうすっかりつめたくなってしまっていたから。
そのときの痛み。
ちりっと小桜の胸を刺していった。
けれどその痛みを振り払う。
つめたい手より、あたたかい手に触れたときのほうがずっと、ずっと多いのだ。
そして今、まさにそれがある。
「まぁ先にお参りだよ。ああ、結構並んでるね」
寺の境内に入った。地面の感触が変わって、じゃりじゃりとした足音がした。
「転ばないように気を付けるんだよ」
小桜は草履だったからだろう。彼は支えるように、ぎゅっと手を握ってくれた。
転ぶ転ばぬより、もっと強く伝わるあたたかさとそして力強さが胸に染みた。
大切にして貰っている、と感じられたのだ。
そしてそれはなにより嬉しく、また、胸ときめくものであった。
やがてお参りの列にやってきて、一番うしろに並んだ。
列の進みはゆっくりであったが、寺社仏閣のお参りなんてそういうものだ。
なにもないときならすぐにできるけれど、なにか、催しがあるときは必ず。
そう、今日は催しがある日。
ここには彼とたまに出掛けてくるのだけど、今日は特別だ。
「いやぁ、桜も盛りだ」
並んでいるうちに、並木の桜のうつくしさを堪能することができた。
今は春らしいのだ。桜が咲き誇っているし、空気はあたたかく穏やかだ。
この年の春はなにがあったかしら。
小桜は考えたけれど、すぐに思い出すことができた。
彼がいて、連れ立ってこの寺の花祭りに来たのだ。
花祭りは毎年来ていたけれど、彼と来たのはこの一度きりだった。
花祭りの当日は来られなかったけれど、開催されているうちの一日にやってきた。
だからひとも満員というわけではないのだ。
「綺麗ねぇ」
同じように桜を見上げた小桜だったけれど、不意に寂しいような気持ちが胸をよぎった。
桜の季節。
これを潮に、しばらく彼と桜は見られなくなってしまったのだから。
このあとなにが起こったのか、小桜は知っていた。
現実通りの、自分が娘だった頃のことと同じであるなら。
「どうしたんだい。寂しそうな顔をして」
一瞬、顔が曇ったのを見られてしまったらしい。彼は心配そうに小桜の顔を覗き込んだ。
心配させてしまった。小桜はすぐに笑って見せる。
「いいえ。試験のお勉強は進んでいて?」
ああ、と彼は言った。
小桜の憂いの理由を知ったらしい。
「進んでいるさ。この調子なら合格だろう」
「まぁ、自信たっぷりでいらっしゃる」
寂しいやら、可笑しいやら。
小桜はくすくすと笑ってしまった。寂しいけれど、知っているではないか。
少しの別れのあとには再会が待っていることを。
でもそれを知っているのはここへ紛れ込んでしまった七十過ぎの小桜であり、この十代の少女の小桜は知らないことだ。
だからその、先の見えない不安は娘の頃の自分のものなのだろう。小桜はそのように感じた。
「合格したら……あ」
ちょうどそのとき、お参りの番がきた。
普段なら手を合わせるだけでおしまいなのだが、今日は花祭り。
お釈迦様の像に甘茶をかけるのだ。
前のひとからひしゃくを受け取って、甘茶を汲んで、そろっとお釈迦様の頭の上からこぼしていく。
ぽたた、とお茶が像を伝って落ちた。
お釈迦様の生誕をお祝いするのにどうして甘茶なのか。それもどうしてかけるのか。
あまり小桜は詳しくなかった。
もう少し調べればよかった、と思うけれど、あとで彼に聞いてみようかと思った。
勉学に堪能な彼のことだ。きっと知っているのだろう。
隣で同じように甘茶をかける彼も穏やかな顔をしていた。
その優しい顔。まだ二十前の、若々しく精悍な顔。
ついじっと見入ってしまった。
「終わったかい」
小桜の視線に気付いたのだろう。彼はこちらを見た。
小桜は慌ててちょっと目を逸らした。確かにひしゃくの中はカラになっている。
けれど見てしまったのは、『終わったから戻りましょうと促す』ではなく、単に見入ってしまっただけだ。それが妙に恥ずかしい。
「え、ええ」
やっと言った。小桜の真意には気付いたのか気付かなかったのか。
彼はやはり笑って、「では行こう」とひしゃくを少し振って、水気を落とした。そして次のひとへそれを手渡す。
そのままお釈迦様の像の前を離れて、道へ出る。
特に大仕事をしたわけでもないのに、お参りが終わった安堵からか、ほうっと息が出た。
「やぁ、無事にできて良かった」
彼は満足げだった。小桜もちょっと微笑んでしまう。こういう顔が好きだった。
いや、好きだ。
彼は優し気な顔立ちをしているので、こういう顔をするともっとやわらかく見える。
しかし『好きだ』と現在の体の感情として思ってしまったせいで、また恥ずかしくなってしまった。心も娘に戻ってしまったようだ、と思う。
けれどそれは嫌な感覚ではなくて。
「おみくじでも引いていくかい」
ふと、彼が境内の奥を指差した。
小桜は、ぱっと顔を輝かせてしまった。
おみくじ。
お寺へのお参りの定番だ。初詣などでも引くけれど、普段引いたって楽しい。
「引きたいわ」
声も弾んでしまったからだろう。彼はまた可笑しそうに笑った。
「では行ってみよう」
がらがら、と大きな木の箱を鳴らす。
この長い木の箱、御神籤筒を振って、木の棒を出して、その棒に書いてある数字のおみくじが貰えるのだ。
「そんなに振ったって出るものは変わらないだろう」
彼にからかわれるように言われても、小桜はつい念入りに振ってしまった。
流石にこのときどんなおみくじが出たかまでは覚えていないのだから。
「わからないわ。少しでもいいものが出てほしいの」
「そりゃ誰しもそうだろうが」
くすくすと笑い、彼はちょっとだけ箱を振って、木の棒を出した。
小桜もそれに続くように、棒の出る口を下に向けて、からりと一本の棒を出す。
それには『十一』と書いてあった。
この数字だけではどんなものが貰えるかはわからないのだ。同じ番号の紙のおみくじを貰わないことには。
さて、それを引き替えて、やっと本当の運勢がわかる。
開こうと思ったけれど、先に彼の引いたもののほうが気になってしまった。
「なにが出たの?」
かさかさと紙を開けた、彼の手元をじっと見る。紙を完全に開けて、彼の顔が輝いた。
「大吉だ!」
「まぁ!」
小桜の声も弾んだ。
大吉なんて幸先がいい。彼の現状を考えれば、先行きが安泰どころではない。
「いやぁ、これはきっと試験も受かるな。それどころか、首席で受かるかもしれないな」
「まぁ。慢心しては駄目よ」
彼は途端に上機嫌になった。今度は小桜がからかうように言う。
「さくらちゃんはどうだい」
言われて、小桜もそろそろと紙を開く。
そこに見えたもの。小桜は笑っていいのかしょんぼりしていいのかわからなかった。
「末吉ね」
「おや」
吉の中でも一番下の運勢ではないか。悪くはないが、良くはないだろう。
彼も小桜の手元を覗き込んで、ちょっと眉を寄せた。
「悪かないじゃないか。吉のたぐいに違いはないだろう」
「そうだけど、やっぱりもっといいのが良かったわ」
ちょっと膨れてしまう。彼が最高の運勢を出しているのだから余計にだ。
拗ねたような言葉に彼は苦笑して、数秒後に自分の手元を見た。
「さくらちゃん、手を出して」
「なぁに?」
求められて、小桜は素直に手を出した。
その手に入れられたもの。かさりとした、やわらかな紙。
小桜は驚いてしまう。
だってそれは、彼の引いた……。
「替えてあげよう」
小桜の手に大吉のおみくじを握らせて、彼はにっこりと笑った。
小桜は目をしぱしぱとさせて、握らされたおみくじの紙と、その彼の顔を見比べてしまう。
「え、だ、駄目よ。折角の大吉……」
返そうと手を動かしたけれど、それを封じるように、そっと彼の手で包まれてしまった。
「俺はもう引いたから大吉の力が宿っているさ。だからさくらちゃんにこれをあげれば、それが移るってわけだ」
「……そんな理屈ってあるかしら」
言った言葉は、あまりの嬉しさにだ。
彼の優しさ。良いおみくじをくれて、分けてくれよう、などという優しさ。
胸の中がぽかぽかとしてきた。
この出来事を今まで忘れてしまっていたことがちょっと悔しくなった。こんなにあたたかな思い出だったのに。
「あるさ。大吉のおみくじは持っているといいって言うね。持っておいで」
「……わかったわ。ありがとう」
優しさは素直に受け取っておきましょう。
小桜は胸の中で言い、そっとふところにおみくじをしまった。落としてしまわぬように、しっかりと。
花祭りのおみくじなのだ。
おみくじの紙の上には、桜の花が描かれていた。
おみくじのあとは先程見た茶屋へ入った。桜餅が確かに取り扱われていて、小桜は嬉々としてそれを頼んだ。
彼は春の三食団子を頼んでいて、それも美味しそうであった。
それをつい見てしまって、「食べたいんだろう」なんてからかわれてしまった。
「食いしん坊のようなこと……」
ちょっと膨れた小桜だったが、食べたかったのは確か。彼も「悪い悪い」と言った。
けれどそのあと「俺は全部だと多いから、ひとつあげよう」と、二本あったうちのお団子のひとつをくれたのだ。
いちばん上に刺してある、桃色の団子。
また彼の言葉に甘えてしまうことになったけれど、嬉しくて。お団子が貰える以上に、自分に譲って良いと言ってくれるのが嬉しくて。
「ありがとう」と素直に取って、頬張った桃色団子はほんのり甘く、もちもちと優しい食感がした。
桜餅とお団子を頂いて、お茶も飲んで、一息ついて。
帰路につくことになった。どうやら気付かぬうちに随分長居をしてしまったようだ。空がうっすらと夕暮れに近付いている。
境内を歩きながら、物寂しいような気持ちを小桜は覚えた。
とても幸せな時間だったけれど、この夢か現か、その狭間のような時間はいつか終わるのだろう。
この『彼』といられるのもそう長い時間ではないに違いない。
小桜の寂しさを読み取ったように、彼は小桜を見下ろした。背が高いのだ。小桜より頭ひとつは高い。
そこから小桜の顔を見下ろし、そっと手を伸ばされた。あたたかな手が再び小桜の手を握ってくれる。
「夕方はどこか寂しいね」
ぽつりと言われた言葉。小桜は「そうね」としか言えなかった。
なにを言ったものかと思った。
きっと時間はあまりない。こうして会えた……いや、再会できた彼に。なにを言ったものか。
境内を抜けて、山門をくぐる。ここから家のあるほうへ戻るのだ。近くまで彼は送ってくれるはず。
それまでには。
「さくらちゃん」
不意に彼が足を止めた。小桜もつられて立ち止まる。
彼は上に視線を向けた。こちらも同じようにそちらを見上げて……小桜は「まぁ」と感嘆の声を零してしまった。
桜の立派な樹があった。夕方になり少し風が出てきたせいか、いくつかはらはらと花びらが落ちてくる。
「綺麗ね」
目を細めていた。この寺はこうしてお参りをした数年後には取り壊されてしまった。
いや、正しくは建て直しとなったのだ。随分年季が入っていたから。寺の存在を後世まで維持するにはそのほうが良かったのだ。
そうだとしても寂しいものであったけれど。
「そうだな。春はやはり桜がなければ」
彼は言ったけれど、不意に小桜を見た。まっすぐに見据えてくる。
「しかし、俺にとってはこうして傍にいてくれる『さくら』のほうがよっぽど綺麗さ」
小桜を見て言われた言葉。随分甘く、だいぶくすぐったい言葉であったが、優しい彼はそういう言葉もためらわない……ためらわなかった。
彼のうつくしい『さくら』でいられたことを嬉しく、誇らしく思う。
私は最期までこのひとの『さくら』でいられただろうか。
小桜が今、思ったことは、おそらく本来の……七十を過ぎた、歳を取った小桜だったろう。
でも、今は。
小桜は笑った。
自分が今、どんな顔立ちをしているのかはわからない。娘だった頃と同じだろうが、鏡などは見ていないから確信はなかった。
けれど別のことは確信できる。
彼の好きでいてくれた、当時の『小桜』。そのままなのだろうと。
それは中身が七十過ぎの小桜であったって、本質は変わらないのだから。
「それは私だって同じよ」
だからためらわなかった。すっと、小桜は一歩踏み出した。
彼も悟ってくれたらしい。小桜の肩に手を伸ばしてくれる。
その腕に、当たり前のように小桜はおさまった。ふわっと、彼の香りが鼻孔をくすぐった。
心地良い体温も、うっすらと。
あたたかかった。今、ここに確かに存在してくれるひと。
その胸に頭を預けて、小桜はしばし目を閉じた。
寺の花祭り。このひとつきほどあとに、彼は小桜の元を去った。
大学の入学試験を受け、見事合格したのだ。それで東京へ行ってしまった。この田舎町には大学なんて上等な学校はなかったから。
出立の前に、「必ず戻ってくるよ」と約束してくれて。
それで実際戻ってきてくれた。二年が経ち、知識を増やし、もっと確かに大人になって、そして立派な教師となって。
そのあともうひとつした約束。それも叶えてくれた。
彼と無事に結ばれた。名実ともに隣にいる存在、伴侶。夫婦となったのだ。
しかしそのあと、もっともっと、何十年も先に待っていたのは、このいっときの別れのようではない。
永遠の別れ。今、彼が小桜の居る世界にいない、理由。
おかげで今は寂しい。独りになってしまったから。
でも、その寂しさがあったとしても、このひとに逢えてしあわせだった。
このひとの傍で生きることができたのだから。
小桜は顔を上げた。
なつかしい、彼の顔。このあとの一生をずっとずっと見ていた顔だ。愛しさが胸に溢れた。
もう一度、逢えた。独りになっていた小桜の寂しさ。
意識はしなくとも心の隅にずっとあったさみしさ。
それを愛しさで塗り替えてくれるような邂逅だった。
「私も貴方の傍で咲いていられて幸せだったわ」
小桜の言葉に彼は笑う。ほろりと花の零れるような笑み。
「待っていておくれ」
彼の言った言葉。それはこの世界のものだっただろうか。
もしかすると、何年、何十年あとの彼と交わすようなことだったかもしれない。
「また別の世界で逢える、その日まで」
ふわっと、そのときなにかが舞ってきた。
ああ、桜が散る。
小桜は悟った。
『さよなら』のときだ。この桜に連れられて自分は帰るのだろう。
「ああ、待っているよ」
口から出た言葉も、もう違っていた。彼にとってもなつかしいのかもしれない。どの小桜も。
ごーん、と鐘の鳴る音が聞こえてきた。先程よりもはっきりと。
五つ、鳴るのだろう。夕暮れ、陽が沈んで『帰る』時間。
身を包む桜の花びらがどんどん多くなっていく。
やがて視界のすべてが薄桃色の桜の花びらで覆い尽くされた。