花びらがやっとやんで、小桜はそっと目を開けた。
 一体なんだったのだろう。
 白い花びらも、春のようなあたたかい風も、そして柿の木にいた少年も。
 とりあえず、確かめなければ。
 小桜はそろそろと手を下ろす。
 いや、下ろそうとした。
 下ろそうとしたのに、その手は途中で止まってしまう。
 ふわっと手首の下が揺れたのだ。
 なにか、布の感触。そしてこの感覚は知っている。
 着物を着たときの袖だ。
 けれどおかしい、今は着物なんか着ていない。
 そもそもずいぶん前から洋服しか着ていないのだ。着物を最後に着たのはなにか、娘と食事に行ったとかそういうときくらいだったかもしれない。
 今日だって、地味なセーターとゆるっとしたズボンを身に着けていたのに。何故着物の感覚なんて。
 しかし着物など些細なことだった。
 目に入った、自分の手。今度は「おかしい」どころではなかった。
 つるりとした、しなやかな手。
 それは若い女性のものだったのだから。
 七十も過ぎた小桜の手はもうしわが多く、こんな手であるものか。
 いや、でも知らないわけではない。こういう手であった頃もあった。
 それはもう……五十年、六十年……。そのくらい、前、に。
 ぼうっとしながら、小桜は手を動かした。
 思い通りに動いた。
 本当に自分の手のようなのだ。
 なにか、夢でも見てるんだろうか。
 小桜は思って、次々に自分の身を確かめていった。
 淡い黄色の着物を着ているらしいことがわかった。
 この着物は知っている。昔、これを持っていた。今はもう、どこにあるとも知れないけれど。
 薄い一重の、桜が散った着物。下はえび茶の袴を穿いていた。足元は草履だ。
 肩には髪が触れている。焦げ茶色の、つやつやとした髪の先が僅かに見えた。
 じわじわと、小桜の頭にある可能性が浮かんできた。
 なめらかな手を握って、開いて、あちこち触れてみて。
 どれも現実そのものの感触がした。夢かもしれないが、それにしては感触が現実的すぎた。
 最後におそるおそる、頬に手を当てた。
 思った通り、こちらもつるりとしたなめらかな感触の肌が触れた。
 それで小桜は完全に理解した。
 十六、十七。
 今の小桜の姿はそのくらいの『娘』なのだ。
 着物を持っていた時期とも、肌や髪の具合からも、そのときの年頃だと一致する。
 嬉しいよりなにより先に、戸惑った。
 どうやら奇妙な夢かなにかに迷い込んでしまったようなのだ。
 散った花びらと、あたたかな風にさらわれたよう。
 実際そうなのかもしれない。
 だって、目の前に広がる光景は、住み慣れた自宅の庭なんかではなかったのだから。
 柿の木も少年も綺麗に消え失せている。
 見えたのは寺。もうずいぶん長く見ていなかったけれど、知っている寺だ。
 だって、よく訪ねてきた。
 法隆寺、なんてほど大層なものではないし、ただの、地域にひとつはあるような名も売れていないような寺だったけれど。
 そうだ、十六、十七の頃。よくここへ来ていたのだ。
 それは散歩や遊びに来たのではなく、ある目的のために。
 そこまで小桜が思ったとき。
  低く、しかしあたたかみのある声がした。うしろから小桜を呼んだそ声。小桜はよく知っていた。
「さくらちゃん」
 もうどのくらい長く呼ばれていないかわからぬその愛称を口にしながら、微笑を浮かべているそのひと。
 着物の中にシャツを着て、下は袴を身に着け、すらりとした体躯を持った青年だった。
 なつかしい、なつかしいその姿。
 彼は目元を緩めて小桜に手を差し出した。
「さぁ、行こう。お参りが終わってしまうよ」