中に入って行くと、リビングから楽しそうな話し声が聞こえてくる。

 父親は会社。
 しかし中からはいないはずの男の声が聞こえてくる。


 ああ、彼が来ているのか。
 特に何かを感じる事もなく、無感情にそう思っただけで、柚子はリビングに入ることなく自分の部屋へと入っていった。


「柚子ー!」


 しばらくテスト勉強をしていると、リビングから母親の呼ぶ声が聞こえてきた。


「柚子、帰ってるんでしょう?晩ご飯作るの手伝ってちょうだい」


 仕方なく、柚子は本を閉じてリビングへ向かった。


 リビングに入れば、母親がグチグチと文句を言い始める。


「もう、柚子。帰ってるんだったら呼ばれる前に手伝いに来なさい」


 普段柚子には見向きもしないのに、こういう時だけは柚子の事を思い出して名前を呼ぶのだ。

 でも、この母親は普通に柚子の母親をしているつもりなのだ。
 自分に非があるとは微塵も思っていない。
 だから、最もらしいことを言って柚子を叱れるのだ。


 それに、柚子には手伝えと言うのに、すぐ近くにいる花梨には、手伝えなどとは言わない。
 その事に気付いているのかいないのか。
 もう、柚子は両親に己の心情を訴えることは諦めている。


 まあ、気付いていたとしても、彼の前で花梨を働かせるような事はできないだろうが。







 先程から蕩けるような表情で、花梨の話に耳を傾けている男の子。

 ハニーブロンドの髪に、金色の瞳。
 明らかに日本人ではない色合いと、人間離れした美しい容姿。

 狐月瑶太。
 花梨を花嫁に選んだ、妖狐のあやかし。

 あやかしの中では上位にある存在で、資産家でもある彼の家には、花嫁の家ということでいくらかの援助をもらっているらしい。

 それにより、花梨を学校に入学させるために作った借金も返済したとか。

 両親以上に花梨を溺愛している彼とは、何度か顔を合わせたことはあるものの、言葉を交わしたことはない。

 そもそも、柚子はこの家に寝に帰るぐらいだし、土日は祖父母の家に居座っている。

 顔を合わせたのはほんとに数えられるほど。
 顔を合わせたとしても、瑶太は花梨のことにしか意識がいっていないので、ほとんど目が合うこともない。
 ただ花梨の姉でしかない柚子のことなど眼中にないのだ。

 だが、花嫁とはそれだけあやかしにとって大事な存在らしい。
 他が見えなくなるほどに。


 柚子は思う。
 それほどまでに愛されるとはいったいどんな気持ちなのだろうか。

 何を置いても、全身全霊を掛けて愛される花嫁は幸せなのだろうか。


 花梨を見る限りでは、とても幸せそうだ。

 絶対に柚子には出せない、幸せいっぱいの笑顔。
 空気からして、愛されている事が分かる。

 






 羨ましくないと言ったら嘘になってしまう。

 両親からも、彼氏からも愛されている花梨。
 同じ家に生まれた姉妹なのに、どうしてこうも違うのか。

 祖父母は柚子の事を気に掛けてくれる。
 それはとてもありがたく、それがどれだけ柚子の救いになったことか。

 けれど思ってしまう。
 私を愛して……。
 私はここにいるんだよ。
 そう、両親に言えたらどれだけ楽だろうか。

 当然のように柚子を残して会話を成立させている、母と花梨と瑶太。
 まるでいない者として扱われるのは、何度期待するのは諦めたと自分に言い聞かせていたとしても辛いものがある。

 たちが悪いのは、そんな母達にはそんなつもりが一切ない事だ。
 柚子の苦しみに気付きすらしない。

 それに唯一気付いてくれた祖父母だが、最近は体の調子も悪いという事も多く、あまり頼ることもしづらい。

 
 自分にも、花梨を選んだ瑶太のように、自分だけを愛してくれる人がどこかにいるのだろうか。

 そんな事を思ってすぐに、くだらないと切り捨てる。

 悲劇のヒロインぶったって、助けてくれる者などいないというのに。

 ああ、早く大人になりたいと、柚子は思う。

 そうすれば、すぐにこの家から出て自活するのに。
 未成年ではそれすらできない。



***


「これを私に?」
 

 それはバイト帰りに祖父母の家へ泊まりに来た日のことだった。

 ニコニコした表情の祖父母から手渡された紙袋。
 そこには、若い子の間で人気のブランドのロゴが入っていた。

 中を開けてみると、可愛らしいワンピースが入っていた。


「どうだ、柚子?」


 柚子の反応を期待に満ちた顔で待つ祖父と、そんな祖父の反応を楽しげに見る祖母。


「すっごく可愛い……」

「そうだろう、そうだろう」


 祖父はドヤ顔だ。


「どうしたの、これ?」


 柚子が問い掛けると、祖父は照れたように顔を赤くする。


「あー、いや、あれだ。ちょうど通りかかったら柚子に似合いそうだったんで買ってきたんだよ」


 そう言った途端、祖母が吹き出して笑った。


「違うわよ。この人ったら慣れないスマホで検索して、若い子に人気の洋服屋を探して、朝早くから店の前に並んで買ってきたのよ」

「お、おい!」


 ばらされて恥ずかしいのか、顔を真っ赤にする祖父。


「並んだの、お祖父ちゃん?」

「いや、まあ、その、もうすぐ柚子の誕生日だろう。それでだな……」


 ばつが悪そうに頭を掻く祖父は恥ずかしそうだが、柚子は心の中が温かくなった。


 両親はきっと柚子の誕生日など覚えていないだろう。
 花梨の誕生日は毎年盛大にするというのに。

 だから、祖父母が誕生日を覚えてくれた事。
 プレゼントを買うために朝から若者に混じって買い物をしてくれた事。
 きっと若い女性向けの店で買い物をするのは居心地が悪かっただろう。
 朝から並ぶのは大変だっただろう。
 けれど、柚子のためにそれをしてくれた。

 物をもらった事よりもそれが嬉しい。
 

「ありがとう。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん」


 柚子は久しぶりに幸せいっぱいの気持ちになった。





 その日は祖母がケーキやご馳走を用意してくれて、早めの誕生日パーティーを祖父母と祝い、土日は幸せな気持ちで過ごした。

 けれど、いつまでも長くは続かない。

 嫌でも、平日になれば家に帰らなければならなくなる。

 相変わらず、柚子を取り残して会話を弾ませる両親と花梨を、壁の外のことのように感じながら夕食を取る。

 その後、食器の後片づけをしていると、家のチャイムが鳴った。

 インターホンから聞こえてくるのは瑶太の声。


 花梨は嬉しそうにしながら玄関に走って行った。

 瑶太はこうして、暇を見つけては花梨に会いに来る。
 毎日学校で会っているのだからじゅうぶんだろうにと、柚子は思うのだが、それでは足りないらしい。
 あやかしの、花嫁への執着はそれだけ重い。
 本当は一緒に暮らしたいようだが、花梨がまだ未成年で学生ということで、その話は進んでいない。

 とっとと出て行ってくれれば、こちらも少しは過ごしやすくなるのに。
 そう思ってしまうのは、姉として最低なのかもしれないと柚子は自嘲するも、そう思わずにはいられなかった。


 すぐに戻ってきた花梨の横には瑶太がおり、二人の手はしっかりと握られている。


 二人の仲が良いのは両親達にとっては喜ばしいことだが、柚子はそんな二人を見るのが苦痛で仕方ない。

 愛されない自分を知らしめられているようで。







 さっさとこの場から離れるために、手早く食器を片付けると、花梨を中心に盛り上がる人達のいる場所を後にする。


 そして、いつもより時間を掛けてお風呂に入りながら、その間に瑶太が帰ってくれないかという希望が胸を占める。

 まあ、無理だろうが、お風呂場はこの家で柚子が逃げられる数少ない場所だ。

 ほっと一息吐く。


 自分はいったいいつまで、こうして家族から逃げ続けるのだろうか。
 祖父母もいい年齢。いつまでも助けてくれるわけではない。
 祖父母がいなくなってしまったら、本当に柚子は一人だ。
 それが、この上なく怖い。


 けれど、今からそんなことを考えていたって仕方がない。

 高校を卒業したら、どこか遠くの大学に進んで、家を出て一人で暮らそう。

 そうすれば、こんな風に疎外感に苦しみ、煩わされることもない。

 家とは縁を切るつもりで。


「ふう……」


 少し長湯しすぎたかもしれない。

 お風呂から出て、髪や体を乾かす。

 顔を合わせないようにリビングには行かず、そのまま自分の部屋へと向かうと、何故か少しだけ部屋のドアが開き、電気が付いていた。


 消し忘れたかと、特に不思議に思わず部屋に入ると、何故か部屋に花梨がいた。

 そしてその手には、先日祖父からもらった誕生日プレゼントのワンピースがあり、鏡の前でワンピースを体に合わせて見ている花梨。





 カッと頭に血が上る。


「何してるの!?」


 びくりと体を震わせて振り返った花梨は、柚子を見るとニコニコと笑う。


「なんだ、お姉ちゃんか。急に大きな声出すからびっくりするじゃない」


 そもそもここは柚子の部屋だ。
 それでも花梨は悪びれる様子はない。


「その服……」


 花梨が今持っているワンピースは、まだ紙袋から出さないまま置いていた。
 汚すのが怖かったので、次に祖父母と出かける時まで大事に取っておこうと紙袋にいれたままだった。
 それでも、もらった嬉しさから、飾るようにテーブルの上に置いていたのだが、どうやら勝手に中を見て取り出したようだ。


 
「この服可愛いよね。これって今人気のブランドのでしょう。どうしたのこれ?」

「お祖父ちゃんからもらったの」

「えー、いいな、いいなぁ。お祖父ちゃんも私にも買ってくれれば良いのに。お姉ちゃんだけずるい」


 別に花梨は祖父からもらわなくとも、両親や瑶太から散々貢いでもらっているだろうに。
 お小遣い以外では滅多に買ってくれない柚子とは違って。 


「ねえ、これ貸して。今度瑶太とデートする時に着ていきたいから」


 何を勝手なことを言っているのか。
 柚子の中に怒りが湧いた。


「嫌よ。いいから返して」

「えー、いいじゃん、ちょっとぐらい。貸してよ」

「貸さない」


 断固とした姿勢を見せていると、花梨はムッとした表情をする。

 両親と瑶太が甘やかしたせいか、花梨は自分の思い通りにならないとすぐに機嫌を悪くする。

 それが分かっているから、大概のことは大目に見るが、それだけは駄目だ。
 それは祖父が柚子のために手に入れてくれた大事なプレゼント。
 他人の垢を付けたくない。




「いいでしょう。お姉ちゃんばっかりずるい。いつもお祖父ちゃん達はお姉ちゃんにばっかり物を買ってあげて。
 私にはほとんどプレゼントなんてしてくれたことないのに」


 それは両親が柚子にはしないから、祖父母が代わりに愛情を注いでくれてるだけだ。
 なのに、それを理解せず、両親と瑶太から散々甘やかされて、それでもなお足りないと要求するのか。
 柚子の苛立ちは募る。


「花梨はお父さん達や恋人からたくさんプレゼントされてるでしょう。
 服だって私のを借りなくたってたくさん持ってるじゃない」

「私はこれが着たいの」

「だったら、恋人におねだりしたら?上手でしょ、物をねだるの」

「何それ。私が物乞いみたいな言い方して」

「いいから、それを返して!」


 柚子は花梨の持つワンピースに手を伸ばし、引き寄せる。
 しかし、花梨も手放すまいと引っ張る。


「お姉ちゃんってば、私に嫉妬してるんでしょ。
 私が特別な存在だから。お父さん達も瑶太からも私は愛されてるけど、お姉ちゃんのことはそうでもないみたいだし。
 羨ましいから私に意地悪するんだ」


 花梨のその蔑むような顔に、柚子は言いようのないショックと怒りが込み上げてきた。
 図星だったからかもしれない。
 特別な花梨とそうではない自分が。
 そして、それを認められほど、まだ柚子は諦めきれていなかったのかもしれない。


「いいから返して!」


 思い切り引っ張る。

 すると、ビリッと布の破ける嫌な音が耳に響いた。






「あ……」


 互いに引っ張ったせいか、ワンピースは無残に破れてしまっていた。

 祖父からもらったワンピース。
 わざわざ朝から並んで買ってくれたのに、一度も袖を通す事なく破ってしまった。

 柚子は呆然とワンピースを握り締める。


「もう、お姉ちゃんが引っ張るから破れちゃったじゃない」


 もういらないとばかりに、ようやく花梨はワンピースから手を離した。


「お前達、部屋で何を騒いでいるんだ」


 騒いでいたせいか、リビングから父親が顔を出す。
 その後ろから母と瑶太までやってきていたが、柚子はそれどころではなかった。

 引き裂かれたワンピース。
 言葉にできない怒り。


 柚子は花梨に向かって大きく手を引き上げた。

 パンッと小気味よい音がする。
 柚子の手がじわじわと痛みを感じたが、そんなことはどうでも良かった。

 いままでこの家で理不尽なことはたくさんあったが、花梨に手を上げた事はなかった。
 けれど、今回の事はとても許せる範疇を超えていた。


 花梨は叩かれた頬を押さえ、涙ぐむ。
 すぐに父親が怒鳴り込んできた。


「柚子!お前花梨に何をしているんだ!?」


 大事な大事な花梨が叩かれて怒り心頭のようだが、父親を怖いとは思わなかった。
 それよりも怒りが越えた。


「花梨が私の大事なワンピースを破ったのよ」

「私は貸してって言っただけだもん。それなのに意地悪して貸してくれなかったのはお姉ちゃんの方じゃない」


 だいたいの状況を把握したらしい父親は、呆れるように溜息を吐いた。


「お前は姉だろう。ワンピースぐらい貸してあげなさい」

「叩かなくても良かったでしょう。花梨に傷が残ったらどうするの」


 分かっていた。こんな状況で両親が味方するのは花梨だろうと。
 けれど、実際に柚子の事情も聞かずに柚子を悪としてしまう両親には心底失望した。