黒い革張りのソファーに降ろされ、隣に玲夜が座る。

 肩と肩が触れあうほどに近い。
 それとなく距離を取ろうとしたが、肩を引き寄せられて、先程より密着してしまい、顔が熱くなる。

 少しして、先程の年配の男性がやってきて、お茶とお茶菓子を持ってきたが、置いたらすぐに出て行ったので二人きり。

 何を話したらいいのだろうかと悩んでいると。


「柚子、さっきから持ってるそれはなんだ?」


 ずっと気になっていたのだろうか。柚子の持っている破れたワンピースを指差した。


「あ……これは……」


 柚子の顔が暗くなる。

 そして、ぽつりぽつりと、柚子は今日あったことだけではなく、これまでの自分の生い立ちから、家でどういう立場だったか、どんな思いだったかを話し出した。


 途中感情的になって自分でも何を言ってるか分からなくなる時もあったが、玲夜は決して急かすことなく根気よく話を聞いてくれたので、柚子は胸の思いを全て吐き出すことが出来た。


 話ながら、改めて自分の事を顧みて、本当に自分はあの家では必要とはされていなかったのだなと実感してしまった。

 家を飛び出した時も、両親は後を追ってくる事はなかった。
 それほどの価値を柚子に見いだせなかったのかもしれない。

 あの両親にとって、花梨が第一なのだ。
 それにより柚子に不利益が被っても特に問題ではなかった。


「私はどうしてあの家に生まれちゃったのかな」


 せめて祖父母のところへ生まれたかった。
 そんなことを言ったって仕方ないけどと、柚子は無理矢理笑った。


 玲夜は眉間に皺を寄せたが、すぐに優しい微笑みを浮かべて柚子の頭を撫でる。


「そのワンピースを預かっても良いか?」

「えっ……でも、これは……」


 破れてしまっても、大事な物であることには変わりない。


「大丈夫だ。悪いようにはしない」


 玲夜の言葉には説得力があり、渡してしまった。
 会ってまだ数時間なのに、柚子は玲夜に信頼感を持ってしまっている。
 玲夜の空気がそうさせるのか。
 でも、嫌な気持ちではない。


 玲夜は柚子からワンピースを受け取ると、少しの間部屋から出て行った。

 すぐに戻ってきたが、あくびをした柚子を見て苦笑する。


「もう遅い。今日は休んだほうがいいな」


 少しすると、呼んでもいないのに着物の女性がやってきて「お部屋のご用意が出来ました」と柚子を迎えに来た。


 タイミングが良すぎる。偶然か、鬼の能力だろうか。


「おやすみ、俺の柚子」

「おやすみなさい」




 女性に案内されたのはすぐ隣の部屋だった。

 まるで高級ホテルの一室のように綺麗に整えられた部屋を、興味津々に見回していると。


「失礼します」


 そう言って、突然女性が柚子の服を脱がしに掛かった。
 ぎょっとした柚子はすぐに女性から距離を取る。


「なな、何ですか?」

「着替えのお手伝いをと思いまして」

「自分でできるので大丈夫です!」

「そうですか?」


 酷く残念そうな女性の表情にほだされそうになったが、子供ではないのだから手伝いなど冗談ではない。


 渡された着替えは浴衣だった。

 まるで旅館に来たような気持ちで着替え終えると、女性はまだニコニコとしながら待っている。


「お洋服は洗濯しておきますね」

「ありがとうございます」

「とんでもございません。花嫁様のお手伝いが出来るなど、光栄なことですわ。争奪戦に勝ったかいがあります」

「争奪戦?」

「ふふふっ」


 女性は上品に笑うだけ。


「あの花嫁なんですよね、私?」

「勿論でございます。玲夜様がそうおっしゃいましたから」

「玲夜、さんというのどういう人何ですか?」

「玲夜様はこの鬼龍院のご子息であらせられます。鬼龍院のことはご存じですか?」

「それほどは……。すみません」

「構いませんよ。これからゆっくりと知っていけばよろしいのですから。
 あやかしの頂点に立つあやかしである鬼。その鬼にはいくつかの家がありますが、鬼龍院家はそれらを取りまとめる本家筋。玲夜様はその本家の時期ご当主になります」

「あなたも鬼なんですか?」

「はい。この家にいる者は皆、鬼のあやかしでございます。
 私は分家のそのまた分家に当たる者ですが、ちゃんと鬼でございますよ」


 ほらと言うように、手のひらを上に向けると、青い炎が手のひらの上に現れた。
 握り締めるとそれはすぐに消え去ったが、確かに人間ではないようだ。




 女性は洗濯物を持って出て行った。

 一人になってようやく一息吐けたような気がする。

 ベッドの上にばふんと飛び乗る。
 寝そべって、右へ左へ転がって、しばらくしてからようやく気がすんだ。

 今日は色んな事がありすぎて、家での大騒ぎが随分前のことのように思える。


「花嫁……」


 自分をそんな者に選ぶようなあやかしがいたということが驚きだ。

 まだ実感は湧かないが、あんなに美しい人に愛そうと言われて舞い上がらないわけがない。

 甘いご褒美を目の前に突きつけられているような気分だ。
 信じて良いのだろうか。

 柚子としては、信じたい。
 あの紅い瞳に嘘はなかったと。

 この時すでに、柚子は囚われていたのかもしれない。あの紅い瞳に。


 

***


 翌朝、寝ぼけ眼で起き上がった柚子は、一瞬ここがどこだか分からなかった。

 すぐに昨日のことを思い出して、飛び起きた。

 やはり昨日のことは夢ではなかったようだ。


 これからどうしたら良いかと部屋の中をうろうろとしていると、部屋の扉がノックされ、玲夜が入ってきた。


「おはよう、柚子」

「おはようございます」


 朝から眩しいほどの美しさ。
 綺麗すぎて怖さを感じるほど。
 表情豊かというより、クールであまり表情が表に出にくいからだろうか、余計にそう思う。
 けれど、時折見せる微笑みは破壊力抜群。

 思わずくらりとしてしまうほど、玲夜に見惚れてしまう。


「よく眠れたか?」

「はい。ありがとうございます」


 突然家に押しかけて、着替えや寝床まで用意してくれて、感謝しかない。


「着替えを持ってきた」


 そう言って渡されたのは、昨日着ていた服ではなく、見覚えのあるロゴの紙袋。

 祖父が買ってくれたワンピースを売っている、人気ブランドのあのロゴだ。
 中には服がいくつか入っている。


「あのこれ……」

「気に入らなかったか?」

「いえ、そうじゃなくて……」

「なら早く着替えて食事にしよう。外で待っている」


 さっさと出て行ってしまった玲夜。


「これ着ていいのかな?」


 けれど、渡されたということは着て良いという事なのだろう。
 いつの間に用意したのかは分からないが、他に服もないので着替えることにした。


 


 素早く着替えて、外で待つ玲夜の元へ行く。
 そのまま後について行くと、食事が用意された部屋に案内され、朝食とは思えない、まるで料亭のような食事を取った。


 一息吐いてお茶を飲みながら、これからどうしようかと考えていると、玲夜の元に昨日の年配の男性が紙袋を渡した。

 それをぼんやりと見ていた柚子の所へ、今度は玲夜がその紙袋を渡してくる。


「開けてみると良い」


 言われるまま中を開けてみると、そこには昨日玲夜に渡した、祖父からもらったワンピースが入っていた。
 しかも、引き裂かれていた所は綺麗に繕われ、見た目には分からないほど。


「これっ」


 玲夜を見れば、優しく微笑む顔が向けられていた。


「昨日急いで繕わせた。大事な物だったのだろう?」

「っ、はい。あり、がとっ……」


 鼻がツンとして、涙が浮かんでくる。

 祖父にどう謝ろうかと思っていたのに、ここまでしてくれて、あまりの嬉しさに思うように言葉が出ない。

 直されたワンピースをギュッと抱き締めてお礼を言った。

 玲夜は笑みを浮かべ、ワンピースごと柚子を抱き寄せた。


「お前のためならこれぐらい容易いことだ」

「鬼龍院さん……」

「玲夜と呼んでくれ。俺の唯一にはそう呼ばれたい」

「……玲夜、本当にありがとう」


 祖父母以外で、こんなに嬉しい気持ちにしてくれたのは玲夜が初めてだ。




 落ち着いたところで、ソファーに隣同士で座ると、玲夜が切り出した。


「柚子はこれからどうしたい?」

「どういうこと?」

「申し訳ないが、昨日の内に柚子の事を調べさせた」


 そう言われたが、特に驚きはなかった。
 鬼龍院であるなら、柚子一人の事を調べるなど容易いことだろう。


「昨日の柚子から聞いた話でも、あまり家族とうまくいっていないのだろう?」

「うん」

「柚子が望むのなら、あの家から出してやろう」

「えっ」

「嫌なのか?」

「嫌というか……」


 確かにいずれは出るつもりでいたが、今と言われると、戸惑いの方が大きい。


「あの家にいても、柚子に良い影響を与えるとは思えない」

「確かに、もうあの家には居づらいし、帰りづらいけど、あの家を出てどうやって生活していけば良いか分からない。
 まだ未成年で、親と縁を切り離せないし」

「ならば、祖父母と養子縁組するのはどうだ?」

「えっ、養子縁組?」


 思ってもみない提案に目を丸くする。


「昨日の内に柚子の祖父母とは連絡を取った。柚子が怪我をさせられたことや経緯を話したら激怒していたようでな、この事を提案してみたら非情に乗り気だった。むしろあの親から離せるなら賛成だと言っていた」


 きっと心配させてしまっただろうなと、柚子は申し訳なくなった。










「どうする、柚子?」

「急に言われても混乱して。それに、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも年金暮らしで、一緒に暮らすには二人の負担になるだろうし」


 週末だけ泊まりに行くのとは訳が違う。
 あの家から出られるのなら大歓迎だが、祖父母の負担にはなりたくない。
 まだ学生の柚子には、バイトを頑張ったとしても限度がある。
 現実的な問題として、その選択を簡単には受け入れられない。


「祖父母の負担を考えてるのなら気にしなくて良い。
 祖父母と養子縁組をするだけで、柚子はここで暮らせば良い。
 金銭的な不自由をさせるつもりはない」

「はっ!?いやいや、他人の玲夜にそこまでしてもらうわけにはいかないから」


 すると、玲夜は眉をしかめ眼差しを鋭くさせた。
 その迫力に柚子はたじろぐ。
 どうも、玲夜の機嫌を損ねてしまったようだ。


「他人だと?言ったはずだ。お前は俺の花嫁。花嫁が苦しんでいて放置などできるはずがないだろう」

「でも……」

「でもじゃない。もういい。柚子が決心できないならこちらで話を進めておく」

「えっ、玲夜!」


 とっさに玲夜の腕を掴むと、その手の上から手を握られる。


「あやかしにとって花嫁は唯一無二の絶対の存在だ。悲しむ姿など見ていられない。今は黙って俺に頼れ。決して悪いようにはしない。
 それとも、俺が嫌か?」

「……その言い方はずるいと思う」


 すでに玲夜にほだされかけている柚子が、寂しそうに問うてくる玲夜の顔を見て、流されないわけがない。


「なら、決まりだ。柚子の家に行くぞ。話を付けに行く」

「えっ、もう?」


 即断即決。強引すぎる玲夜に、柚子は付いていくのがやっとだ。

 けれど、嫌な気はしない。
 これまで変えたくても変えられなかった自分を、玲夜が塗り替えていってくれるのが分かるから。



***


 帰ってきた柚子の家。
 帰ってきてしまったと言う方が正しいかもしれない。

 出来れば帰ってきたくはなかった。

 けれど……。

 隣に立つ玲夜を見上げる。
 ぽんぽんと、頭を撫でられる。それだけで元気づけられた気がした。


 一度深く深呼吸をして、玄関の扉を開けて入っていく。

 その後を玲夜、そして、鬼龍院専属という弁護士が付いてくる。
 この短い時間でどうやったのか、養子縁組に必要な書類を全て用意してしまった。
 後は両親と祖父母のサインだけ。

 そこはさすが鬼龍院というところか。


 リビングに近付くと、何やら言い争う声が聞こえてくる。
 玄関に靴があったから、きっと祖父母だろうと思ったが、リビングに入れば案の定、両親と祖父母が言い争っていた。


「お前達はそれでも柚子の親なのか!?」

「親父達には関係ないだろう」

「関係ないわけがあるか!柚子は俺の孫でもあるんだぞ!」

「あの子は花梨に手を上げたんですよ」

「それだけのことを花梨がしたんでしょう。それなのに柚子の話も聞かないで、あの子だけを悪者にして!」


 どこまでも花梨を優先する両親と、柚子の事も考えてくれている祖父母。
 その意見が噛み合うことはない。









 そこには両親と祖父母だけでなく、花梨と瑶太もいたが、花梨は不機嫌そうにし、瑶太は敵意に似た眼差しを祖父母に向けている。

 どうやら柚子を庇う祖父母が気に食わないようだ。


 すると、ようやく花梨が柚子の存在に気付いて「お姉ちゃん」と声を出した事で、他の者も柚子に気付いたようだ。


「ああ、柚子。怖かったわね。無事で良かった」


 そう言って抱き締めてくれるのは、母ではなく祖母。
 良かったと安堵の表情を見せるのは、父ではなく祖父。

 この時に、柚子の気持ちは固まった。


「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも心配掛けてごめんね」


 祖母が口を開こうとしたが、声を発する前に、先に花梨が言葉を発した。


「全くお姉ちゃんのせいで、いっつもお父さん達とお祖父ちゃん達って喧嘩ばっかり。
 いい加減にしてよね。当てつけみたいに家出するなんて、かまってちゃんなの?
 心配してほしいからって面倒掛けるの止めてよね」

「花梨!」


 祖父が怒鳴りつけるが、花梨が意見を変えることはない。
 それどころか、隣にいた瑶太が柚子に近付いてきて威圧する。


「花梨に手を上げたばかりか、花梨やその家族に迷惑掛けるなんて何様のつもりだ」


 その言いようにムカッときて言い返そうとしたが、それは続いてリビングに入ってきた玲夜によって先を越された。


「お前こそ俺の花嫁に対して何様のつもりだ」