ただ旅にたいしてはやっぱり心残りがあるらしく、もう少し色んな場所を周りたかったと残念そうに語った。そして俺やスギウラさんとの別れも、寂しいと言った。
「この夜のバイトは本当に楽しかったからなあ。お前やスギウラさんと会えなくなるのはやっぱり、寂しいよ」
 そう言った後、オオハシはすぐに大好きな寅さんの真似をしておどけてみせた。すかさず俺も、寅さんになり切った。お互いに寂しい気持ちだったが、これ以上その気持ちをおおっぴらに出すのは恥ずかしかった。オオハシとこれで会えなくなる。しょうがないけど現実を受け止めるしかなかった。
「夏になったら必ず帰ってくるあのツバクロさえも、なにかを境にピッタリと帰ってこなくなることもあるんだぜ。あばよ!」
 去り際、オオハシは寅さんのセリフを真似た。そして間もなくヤツは帰って行った。別れの報告をしてから一週間も経たぬうちに。おそらく、親父さんの体調がそんなに良くないのだろう。さらばオオハシ、達者でな。もう会えることはないかもしれないけど、お前の幸せを願っている。こういうものなんだろうな。月並みだけど人には出会いと別れがある。そしてそれは大抵の場合、人間の力にはどうすることも出来ないんだよな。運命かなにかが左右するのかもしれない。まあ、よく分からないし分かりたくもないけど。

 オオハシが店を去り、坪田店長はすぐさま夜のスタッフに求人を出した。「急募」と入れて。新しく入ってくるのは、どんな人間だろう。とりあえずいいヤツで、なおかつ面白いといいな。この店は、本当に人に恵まれてきたからな。年上かな、年下かな。そんな風に俺は、新人が入るまで色々考えた。そして募集の広告を出してすぐ、新人スタッフが入ることになった。早い。多分坪田店長は俺の時と同じように、明日から来て欲しいと言ったのだろう。オオハシが辞めてまだ一週間足らずだ。まあ、そういうものだ。1人が辞め、新しい1人が加わる。それが、普通のことだ。

 そして新人がうちのラーメン屋に加わった。彼は19歳と店で一番の若手で、名を「モリタ」といった。モリタくんは初出勤の時、
「どうぞ宜しくお願いします!」
 と、少し緊張しながらそう言った。なんだか真面目そうだな。にしても、19歳とは随分若い。うちの劇団の若い連中くらいだな。彼らとは最近年齢のギャップを感じてるからな。俺はこのモリタくんと上手くやっていけるだろうか、少し不安だな。などという俺の不安は杞憂に終わった。モリタくんはとても面白いヤツだった。というか、いい意味で変わっていた。まずモノマネが上手かった。俺らが知ってる芸能人はもちろん、入って数日で俺やらスギウラさんといった、店の全員(昼番も)のしゃべり方を真似ていた。長いこと一緒にいればともかく、どうやって昼の人たちの特徴を掴んだかっていうと、
「昼と夜が勤務交代する夜8時前後に口癖なんかを盗み出す」
 のだそうだ。その時間は少しだけど昼出勤の人としゃべる。仕事の件などで。その短時間でモリタくんは昼間の人の特徴を調べた、という。そしてその特徴を掴んで披露するモノマネは、いつも似ていた。またモリタくんは店に来る客の真似もする。もちろんその客が帰ったあと、もしくは客に聞こえないようにやるが。
 いずれにせよモリタくんはしっかりとオオハシの穴を埋めるに相応しいほど、俺を楽しませ笑わせてくれた。当然ながらオオハシが脱けた寂しさは、俺の中で多少引きずった。オオハシがいないと、
「もうここにヤツはいないのか」
 なんてことを思ったりした。しかしモリタくんの人間性とかモノマネが少しずつながらオオハシの去った俺の寂しい気分をほぐしていった。店は問題なく人の移り変わりに成功し、俺はモリタくんの人柄の良さにほっと胸をなでおろした。このモノマネ上手のモリタくんは別にモノマネ芸人を目指しているわけではなかった。たんに趣味だという。モリタくんは、
「小説を書いてます。休みの日とかにパソコンの前でカタカタやってますよ」
 と言った。普段モノマネをして俺らを笑わせてる彼が自分の部屋で静かに読書をしたり小説を書いてる姿は想像が出来なかったが、
「普段のぼくは物静かなんですよ」
 などと言った。物静か?お前が?小説家を目指すよりもモノマネ芸人になった方がいーんじゃねえか。まあモリタくんの進路に俺が口出すつもりはないが、彼のモノマネは俺の思う限りプロ級だった。
 そんな小説家志望兼モノマネ上手のモリタくんが店に入ったことにより、夜の店には新しい風が吹き込まれた。本が好きなスギウラさんも、モリタくんと会話をよくしていた。
「〜の本いいよね」
「サイコーっすね。けど誰々の何々も…」
 など、盛り上がった話をしているのだが、あまり読書をしない俺にとっては、彼らの会話の内容がまるで分からなかった。坪田店長も新人のモリタくんが俺やスギウラさんとうまくやっていることに安心したようだ。

 その日はバイトもなく劇団の活動もないので、俺は買い物がてら久しぶりに自分の街をプラプラと散歩することにした。街を歩く時はいつもラフなジャージかスウェットに、サンダル履きだ。この間藍に会った時はちょっとオシャレにジャケットなどを着ていたが。俺の住む街は安い居酒屋とか八百屋や肉屋などがある。そして俺がいつも行ってる散髪屋がある。そしてどの店も全体的に古い。古いけど、どの店もそれぞれの色があり、味がある。そして俺はそういう店で買い物を済ませ、よく行くところがある。一つの小さな喫茶店だ。肉屋とか魚屋が並ぶ中で、そこは一軒、ポツンと佇んでいる。夕方など買い物に行った帰りに、俺はよくその喫茶店(カフェと格好良く言いたいが、いかにも喫茶店だ)に入り、コーヒーを飲みながら瞑想にふけったりする。店のマスターは意外にも若く、30代中盤くらいの夫婦がやってる。マサミチさんという旦那さんと、チハルさんという奥さん。俺はこの喫茶店で、静かにコーヒーを飲んで帰ることもあれば二人としゃべることもある。大抵、買い物を済ませた後に行く。そしてカウンターの奥が空いてればその席に座る。買い物袋はだいたい足元に置くが店が空いていれば隣の椅子に乗っける。カウンターの奥はもっとも落ち着くのでそこに座りたいが、俺の他にもその席を愛している常連客がいる。俺と同じくらいの年恰好の、ちょっと頭の良さそうなすかしたヤツだ。そしてそいつの服装はジャージやスウェット姿の俺と違い、いつもなんかこじゃれてる。今日、買い物を済ませた俺が店に入っていくと、いた、そいつが。一番奥に座って。(はあ)、俺は心の中でため息をついた。お気に入りの席が取られていたことを残念に思いつつもそいつから3席ほど距離を置いた真ん中へんに、俺は座った。
「ブレンドをお願いします」
 そう俺は注文した。喫茶店には色んな種類の豆があり、最初は色々と頼んでいたが、コーヒーの味の違いがよく分からず、最終的に店で1番安い「ブレンドコーヒー400円」にたどり着いたのだった。一方俺の席を奪った男は毎回「キリマンジャロ550円」を飲んでいた。まあ俺の席を奪ったって言っても、俺だけの店じゃないし。それにしてもキリマンジャロって、味の違い分かるのかな、アイツ。俺にはあまり分からないけどな。その男は店の夫婦ともよく話す。今日は俺もマサミチさんやチハルさんと話したかったのにな。俺はいつものブレンドコーヒーを飲み、店を出た。お金を払う時、チハルさんが小さな声で、
「いつもの奥のカウンター席が埋まっててごめんなさいね」
 と言ってくれた。いえいえ、むしろ気を遣わせちゃってすんません。また来ます。そう心の中で言って、俺は店を後にした。

 喫茶店のドアを開けるとキレイな夕焼け空だった。ここの店を出ると夕暮れであることが多い。俺はその夕焼けが好きだ。決してオシャレではないが古くて温かい街並み、その街並みに空の色がマッチしていてそれが大好きである。初めてその美しさに触れた時、俺は感動して不覚にも涙ぐんだことを覚えている。今日もキレイな空だ。俺は買い物袋を両手に提げて歩き出した。喫茶店の通りから少し歩くと小さな、本当に小さな川が流れている。もちろん田舎にあるようなキレイなものではない。周りに草花は咲いてないし水も濁ってる。だがその川も好きだ。東京に出て来てからずっとこの街で暮らしてきた。上京したばかりのころ、なぜかいつもその小さな川に行き、流れる水をぼんやりと見ながらタバコを吸ったものだった。当時はどこに行ってもタバコが吸えたし買えたので、俺も普通の喫煙者だった。しかし近年過熱する禁煙ブームにより、というより、たんにタバコが高くなったのでやめるに至った。それだけの話だ。タバコを吸うよりもやめて他のことに金を費やそう、そう思っただけのこと。決して今も喫煙してる人のことを悪く言うつもりはない。ところが最近の傾向として「タバコ=悪」だと言うヤツが増えている。禁煙した途端「タバコは良くない」とか言ってる大人に遭遇する。そういう人間こそ、ついこの間まで中毒のようなスモーカーだったくせに。急に自分の意見を覆すんだ。まったくもって笑ってしまうね。

 まあ上京したてのころはよくそうやって川を見ながらタバコを吸ってた。だからこの街にも川にも、もうずっと住んでいる俺の生活臭のようなものが染み付いていて、必然的にこの街に対する「愛着」があった。だから買い物などに出る時、ジャージのようなリラックスした格好をして行くんだ。
 以前に俺が半年くらい失業していて家賃を滞納したことがあった。大家さんは心優しいおじいちゃんで、2、3ヶ月の滞納くらいならいつも待ってくれていた。ところが半年だ。おじいちゃんは本来なら大きな態度に出てもいいところを、俺の家のドアを静かにノックしてやってきた。
「いや、忙しいところ済まないねえ」
 全然忙しくないっすよ。失業中だし。いまもボケーッとしてました。本心はそうだが俺はか細い声で、
「ええ、まあ」
などと呟いた。外は雨が降っていたので、
「とりあえず中入りますか。お茶いれますよ」
 と俺は一応の礼儀を見せた。ところがおじいちゃんは俺の部屋に入るのを断ってこう言った。
「あの、非常に申し上げにくいんだけど、家賃がね、もう半年滞ってるんだよね。だから、全部とは言わないまでも、返してもらいたいなと思って」
 そう言うおじいちゃんは、まるでテストで悪い点数を取って親に叱られてる子供のように申し訳なさそうだった。そんなおじいちゃんを見て俺は、
「返します返します!明日というわけにはいかないけど、必ず返します」
 と宣言した。家賃を回収に来たおじいちゃんの申し訳なさそうな姿に少なからず良心が傷んだのも事実だが、半年の滞納はさすがにマズイと思い、できる限り給料のいいバイトをして家賃を無事に返済した。そして今も大好きなこの街に、このアパートに住み続けている。さらにバイトとはいえラーメン屋で安定した収入を得ているので、最近は滅多に家賃は滞納していない。今日も夕焼け空を見て、そして夜が来る。10月も終わりを迎えようとしている、そんな秋も深くなりかけたころのことであった。

 その夜、藍から電話があった。祐介と3人で久しぶりに会ったあの日から3週間と少し経っていた。俺は藍から電話が来た喜びよりも、むしろ不安の方が勝っていた。つまり俺の「予感めいたもの」が脳裏をよぎり、急に心臓の鼓動が高鳴った。何か、ある。そう確信せずにはいられなかった。
「もしもし」
「タケオ君、元気?今、大丈夫かな」
 今月始め以来だからそんなでもないけど、藍の声はとても久しぶりに思えた。そしてやっぱり耳に心地よかった。俺らは他愛のない話を少しした。この間会ったことや地元のこと、など。そして俺の方から藍に聞いた。
「で、どーした。何か用事があって電話したんだろ?」
「うん、用事ってほどのことでもないんだけど。大丈夫、またかけるね」
 そう言って藍は電話を切った。俺がまだ電話に耳を当ててると「ツーツー」と寂しげな音が聞こえてきた。俺は軽くため息をして電話を切った。藍がどうして電話をかけてきたのか、と考えた。ただ俺の声が聞きたかったからという理由なら嬉しいのだがあの様子からして、残念ながらそれは考えにくかった。とにかくいずれ分かるであろう。そしてそれは、そんな先の話じゃないだろう。はっきりとしたことは言えないが、切り際に藍が言った「またかける」というのは、なにか伝えたいことがあるに違いない。それがどんな用件であるにせよ、俺は藍からの連絡を待つことにした。

 「旅行に行こう!紅葉とか温泉を満喫しよう!」
 そう坪田店長は嬉しそうに言った。11月の始めころ、一泊二日で行くとのことだった。新しく入ったモリタくんの歓迎会も兼ねてという口実も含まれてるらしいが、結局は旅行に行くことが99%を占めてるんだろうなと思った。スギウラさんの話だと坪田店長はテレビで紅葉の特集を見て、即今回の企画を決めたらしい。決断力の早さと実行力では祐介か坪田店長かというくらいだな。おそらく今回の旅行計画も瞬間的に決めたに違いない。いずれにせよ楽しみだ。場所は栃木の山の中だそうで店は丸二日休みにするとのこと。東京に来てしばらく緑豊かな景色から離れていた俺も、思いっきり自然を満喫しようと思った。それから間もなく、我が店は一泊二日の旅行に出発した。オオハシも来たかったろうなと、俺は故郷へ帰っていった友のことを思い出した。

 そして旅行当日、朝7時に出発した。夜勤組にはつらい時間だった。行きのバスで昼の組がビールなどを飲みながら既に盛り上がりを見せる中、俺やスギウラさん、モリタくんは爆睡していた。夢うつつにキョウくんがアカペラで熱唱していたのを覚えている。その声を聞きながら、
「キョウくん、めっちゃ頭いいはずなのに酔うと壊れるんだな」
 などと思った。そして俺は再び深い眠りについた。それからバスが目的地の旅館に到着した。俺は隣にいたスギウラさんに叩き起こされた。ちなみにスギウラさんは昼間の連中の加速度的に増していく盛り上がりに耐え切れず、1時間ほど前に目を覚ましたらしい。スギウラさんが目を覚ました時もキョウくんが熱唱していたという。どんだけ歌えば気が済むんだコヤツ。
 ところで俺らが泊まる旅館だが、一見すると寂れて見えた。外観はお世辞にも良いとは言えない、傾いてるんじゃないかとも思うほどだった。しかし中に入ってその心配は見事に覆された。キレイな内装にセンスを感じられる絵や置物、なにより旅館の人たちの態度が素晴らしかった。仲居さんを始めとする皆さんが笑顔でフレンドリーだった。だからといって決して親しすぎず一定の距離を保って俺らに接してくれた。そうした態度は本当に心地よく、坪田店長は店の主人という立場から旅館の人たちの接客態度の良さがとことん気に入ったらしく、
「後であの接客を教えてもらいに行こうかなあ」
 と言っている。実行力のある坪田店長ならやりかねないと思った。

 部屋は和室で、掃除がきちんとされていることが見受けられた。俺が子供のころ家族と友達家族で旅行に行ったことがあり、その時泊まった旅館は、確か結構有名なところだったのだが、態度は悪いしさらに俺らが通された部屋は汚かった。そこかしこが埃まみれで、俺らは重たい荷物を下に置くのも嫌になったほどである。それに比べて今日の旅館の部屋はまさにちりひとつ見当たらないくらい整っていた。そしてお茶と人数分の湯呑み茶碗、さらに饅頭やせんべいといったお茶受けがピシッとテーブルに並べられていた。何事にも当たり外れがある。もちろん宿にも。だがここは「大当たり」だった。また、俺らは6人と少人数なのでよくある会社の社員旅行みたいに宴会部屋、ということはなかった。夜組の3人が昼組の部屋に移動して1つの部屋に6人が集まった。なんともせせこましい感じがするが、なにせ少人数なのでわざわざ大部屋を貸し切りにする必要はない。よって、6畳間での宴会となったわけだ。

 そして晩飯も、やはりというか期待通りというか「当たり」だった。夜6時頃部屋に来た料理を見て、俺は思わずヨダレが出そうになった。
「地元の野菜や魚、そして肉を使ってるんですよ。うちの旅館は大体が地元で採れたものなんです」
 そのように料理を運んできた人は説明した。決して自慢する風でなく滑らかに自然に。そうやって運ばれてきたものはどれもこれもみな美味そうであった。新鮮そうな野菜や、皿に盛られたこれまた新鮮そうな刺身、そしてなんといっても肉、肉、肉。これらの料理は6人じゃ食い切れないだろう、ってほどの量だけあり、俺ら(特に若い連中)はそれを見るだけで興奮していた。最年長の上田さんや坪田店長は料理よりもとにかく酒だった。スギウラさんも料理よりも酒、とにかく酒、という姿勢であった。だから食べ物はあらかた俺、キョウくん、それから新人のモリタくんが食い尽くした。

 俺らはここぞとばかりに料理を食べたあと、3人とも満腹で死にそうだった。3人とも床に倒れこんだ。かたや年長者組はというと、まだペースを落とすことなく飲み続けているようだ。まったくもって信じられなかった。彼らの酒豪っぷりに。とりあえず横になった俺はそのまま眠った。
 目を覚ますと坪田店長と上田さんが大きなイビキをかいて寝ていた。俺が寝たあとも飲み続けていた彼らだが遂に息絶えたようだ。あれからどんだけ飲んだのだろう。俺らが食べ尽くしそのまま倒れこんだのが確か7時半くらいだったはずだ。眠る間際に薄れゆく意識の中で壁掛け時計を見て、その時の針の形を俺はボンヤリと記憶していた。で、今は11時を指している。ってことは俺は3時間以上寝ていたのか。食休みにしては随分と長い睡眠だ。しかしまあ、坪田店長や上田さんが息絶え寝てるのも当たり前だろう。この二人はバスに乗ってる時から飲んでたのだから。バスで爆睡してたスギウラさんはというと、まだ起きていた。真っ暗な部屋で一人、ちびちびとやっている。部屋の電気はみんなが眠っているので、おそらくスギウラさんが消したのだろう。しょうがない、すっかり目も覚めたのでスギウラさんに付き合うことにした。とりあえず俺はムクッと起き上がり声をかけた。
「どうしたんすか、こんな暗い中で」
「おおタケオ、起きたのか。いやみんな寝てるし、明るいと寝れないかと思って。それに静かに飲む酒もいいもんだぜ」
 なるほど。さっきまでどんちゃん騒ぎだったんだ。そのようにして静かに飲むのもまたいいだろうな。
「俺もすっかり目が覚めちゃったんで、加わってもいいっすか」
「もちろん」
 そう言ってスギウラさんは親指を立て、ニヒルに微笑んだ。完全に酔っ払ってる。スギウラさんが酔うと、少し格好つける癖があった。今夜もどうやらその様子だった。
「タケオ、窓から外見てみ。景色いいぜ」
 やはりスギウラさんは格好つけモードに入ってる。多分さっき一人で外の景色をながめて悦にひたっていたのだろう。まあそういや俺も窓の外を見てないことに気付き、言われるがままに窓の方へ向かった。そして意外にも、絶景だった。まず湖が見えた。それは、湖と呼ぶには小さいかもしれない。そう、池だ、とても大きな。その池が窓一面から見えた。そしてその池の水面はなぜかとても明るく輝いていた。俺は空を見上げて、すぐにその正体がなんなのか分かった。今夜は満月だった。そして月の光が水面を照らしていたのだ。とても明るく、キラキラと。夜、池、そして満月の光。それらの条件が重なり、景色をより美しく見せたのだろう。これが昼間だったらここまで感動しただろうか。
「スギウラさん、サイコーっすね」
「だろ。寝てるみんなにも見せたいよ」
「ところで今日、タバコ持ってきてます?」
 スギウラさんは数年前に喫煙をやめたが、酒の席とかに少しだけ吸う。1ミリとか3ミリとか、弱いものを。昔は結構なヘビースモーカーで、1日2箱とか普通に吸っていたらしい。
「あるぜ」
 そう言ってスギウラさんは不敵な笑みを浮かべた。今度はお前が窓の前で悦にひたる時だ、と言わんばかりに。そしてタバコを受け取ると、中に空気が入らないよう窓を少し開け俺は火をつけた。そして自分の世界に入った。さっきスギウラさんのことを格好つけモードに入ってるとバカにしておきながら、今度は自分が窓の外を見つめてひたってしまった。しかも久しぶりのタバコを吸いながらである。久しぶりだったが、美味かった。窓の外の夜景を見ながらという雰囲気もカナリ助長していた、恥ずかしながら。俺はタバコの煙が部屋に入らないよう注意しながら、窓の外に目をやりため息をひとつした。そしてもちろんというか当然のように、藍のことを考えた。藍にもこの景色を見せたいな、藍はまだ起きてるかな、この前の電話で伝えたかったことってなんだったのかな、というか藍の声が聞きたいな、電話したいな、などなど…キラキラ輝く水面に映る月の光に魅了されながらも、俺は藍のことばかり考えていた。そして気がつくと、4本目のタバコへ突入していた。随分長いこと窓辺にいたらしい。窓を開けていたので、うすら寒かった。
「タケオ、もういい加減こっち来いよ。十分だろ。こっち来て飲もうぜ」
 スギウラさんに促され、俺は十分楽しんだ窓辺を後にしてテーブルへと移った。

 ビールはほとんど残ってなかったので、俺は二日酔い覚悟でやむを得ずスギウラさんの飲んでいた日本酒を注いでもらった。壁にかかっている時計は午後11時50分くらいになっていた。そう考えると俺は窓辺に30分から40分もいたのか。随分長いこといたものだなあ。
「お前、景色を見ながら何をそんなに長いこといた?まあ聞かなくても分かるけどさ。どーせあのコのこと考えてたんだろ」
 スギウラさんは当然分かってると言わんばかりだ。お見通しっていうか分かりやすいのかな、俺。
「ええ、まあ」
 などと言って、俺は照れ笑いを見せながら曖昧に頷いた。それからスギウラさんはさらに酒を飲みつつ語り出した。新しく作っているネタやライブの話、いま自分がもっとも面白いと思う芸人の話などをし、それから俺の最近の役者としての活動のことも真剣に聞いてくれた。
「そうかあ。まあ芸人にせよ役者にせよホント厳しい世界だよな。自分が目指したことで食ってくってのは。そういやこの間のレスラーもそうだしな」
 そうだ、この間閉店直前に来たあのカベのようにでかいレスラーだって、確か警備員のバイトしてるって言ってたもんな。まあ、彼はそのバイトに合ってる気がするな。もちろん警備にもいろいろあるだろうけど。たとえば彼が夜のビルを警備してたら泥棒とかはビビって腰抜かすだろうな。そんな風に俺があの夜のことを思い出してたら、スギウラさんは再びしゃべり出した。
「お笑いの世界ってさ、売れてない人でも結構年齢層が高いんだよね。だって40過ぎても小さなライブハウスで活動してる人、大勢 ただ旅にたいしてはやっぱり心残りがあるらしく、もう少し色んな場所を周りたかったと残念そうに語った。そして俺やスギウラさんとの別れも、寂しいと言った。
「この夜のバイトは本当に楽しかったからなあ。お前やスギウラさんと会えなくなるのはやっぱり、寂しいよ」
 そう言った後、オオハシはすぐに大好きな寅さんの真似をしておどけてみせた。すかさず俺も、寅さんになり切った。お互いに寂しい気持ちだったが、これ以上その気持ちをおおっぴらに出すのは恥ずかしかった。オオハシとこれで会えなくなる。しょうがないけど現実を受け止めるしかなかった。
「夏になったら必ず帰ってくるあのツバクロさえも、なにかを境にピッタリと帰ってこなくなることもあるんだぜ。あばよ!」
 去り際、オオハシは寅さんのセリフを真似た。そして間もなくヤツは帰って行った。別れの報告をしてから一週間も経たぬうちに。おそらく、親父さんの体調がそんなに良くないのだろう。さらばオオハシ、達者でな。もう会えることはないかもしれないけど、お前の幸せを願っている。こういうものなんだろうな。月並みだけど人には出会いと別れがある。そしてそれは大抵の場合、人間の力にはどうすることも出来ないんだよな。運命かなにかが左右するのかもしれない。まあ、よく分からないし分かりたくもないけど。

 オオハシが店を去り、坪田店長はすぐさま夜のスタッフに求人を出した。「急募」と入れて。新しく入ってくるのは、どんな人間だろう。とりあえずいいヤツで、なおかつ面白いといいな。この店は、本当に人に恵まれてきたからな。年上かな、年下かな。そんな風に俺は、新人が入るまで色々考えた。そして募集の広告を出してすぐ、新人スタッフが入ることになった。早い。多分坪田店長は俺の時と同じように、明日から来て欲しいと言ったのだろう。オオハシが辞めてまだ一週間足らずだ。まあ、そういうものだ。1人が辞め、新しい1人が加わる。それが、普通のことだ。

 そして新人がうちのラーメン屋に加わった。彼は19歳と店で一番の若手で、名を「モリタ」といった。モリタくんは初出勤の時、
「どうぞ宜しくお願いします!」
 と、少し緊張しながらそう言った。なんだか真面目そうだな。にしても、19歳とは随分若い。うちの劇団の若い連中くらいだな。彼らとは最近年齢のギャップを感じてるからな。俺はこのモリタくんと上手くやっていけるだろうか、少し不安だな。などという俺の不安は杞憂に終わった。モリタくんはとても面白いヤツだった。というか、いい意味で変わっていた。まずモノマネが上手かった。俺らが知ってる芸能人はもちろん、入って数日で俺やらスギウラさんといった、店の全員(昼番も)のしゃべり方を真似ていた。長いこと一緒にいればともかく、どうやって昼の人たちの特徴を掴んだかっていうと、
「昼と夜が勤務交代する夜8時前後に口癖なんかを盗み出す」
 のだそうだ。その時間は少しだけど昼出勤の人としゃべる。仕事の件などで。その短時間でモリタくんは昼間の人の特徴を調べた、という。そしてその特徴を掴んで披露するモノマネは、いつも似ていた。またモリタくんは店に来る客の真似もする。もちろんその客が帰ったあと、もしくは客に聞こえないようにやるが。
 いずれにせよモリタくんはしっかりとオオハシの穴を埋めるに相応しいほど、俺を楽しませ笑わせてくれた。当然ながらオオハシが脱けた寂しさは、俺の中で多少引きずった。オオハシがいないと、
「もうここにヤツはいないのか」
 なんてことを思ったりした。しかしモリタくんの人間性とかモノマネが少しずつながらオオハシの去った俺の寂しい気分をほぐしていった。店は問題なく人の移り変わりに成功し、俺はモリタくんの人柄の良さにほっと胸をなでおろした。このモノマネ上手のモリタくんは別にモノマネ芸人を目指しているわけではなかった。たんに趣味だという。モリタくんは、
「小説を書いてます。休みの日とかにパソコンの前でカタカタやってますよ」
 と言った。普段モノマネをして俺らを笑わせてる彼が自分の部屋で静かに読書をしたり小説を書いてる姿は想像が出来なかったが、