もう故郷をはなれて10年目になろうとしている。高校を卒業し、
「俺、ぜってー役者になるからな」
と友達に言い残して、勢いよく電車に乗り込んでから、流れる月日の早いこと早いこと…。もはや、上京した理由さえ忘れることがある。俺は、寅さんみたいな国民的スターを目指して家を飛び出したんだった。当時決まっていた、地元の就職をわざわざ断ってまで。
 今俺は、いつも通りバイトに向かおうとしている。もう27歳だ。この間、地元の友達が結婚したって連絡が来た。ものすごい嬉しそうに。
「タケオ、俺結婚したぜ」
 知らねーよおまえが結婚しようがしまいが。そう言ってやりたかったが、ぐっと呑み込んで、
「おめでとう、やったな」
 と言った。本当は、他人の幸せなど祝ってる余裕はないのだが。
 結婚式の誘いは、さすがにオーディションを言い訳にして断った。まあ、その日はバイトしか予定がなかったので、行けたんだけど。ていうか俺、バイトばっかやってるな、最近。
 
 俺の本業はもちろん役者のつもりだ。まあ、食えてないから本業といえるのかは微妙だが。役者活動もやってはいる。オーディションとか、劇団での公演とか。映画にも出たことがある。通行人の役で…。セリフはなかったさ。いいことと言えば、芸能人に会えたのと、あとロケ弁が美味かったくらい。
 そんな俺だから、もちろん役者の稼ぎなどないに等しい。バイトしてなんとか食いつないでるというわけだ。
 バイトも、何個職をかえたか数知れず。20代前半は今考えると、まさに顔から火が出るほど恥ずかしいのだけど、やたらと血気盛んでよく喧嘩したものだ。いろんなバイト先の人たちと。1日でやめたこともあったな。
 あの頃は本当、全てがみじめで金もなくて、よくアパートの電気とか水道を止められて、真っ暗の部屋の中で1人、布団をかぶって夜が来るのを待った。なんて哀れなんだろうと、思ったものだ。
 
 25くらいになって、ようやくバイトを辞めなくなった。今のところは、もう3年くらい続いている。それまでの俺にしたら、快挙だ。というのも、もちろん電気とかを止められるようなミジメな思いは、さすがに二度としたくないってのが大きかった。と同時に職場での出会いが、当時廃人のような生活をしていた俺を再び蘇らせ、バイトを続ける大きな要因となった。
 その人はスギウラさん、32歳。俺の5コ上だ。もう、15年くらいお笑い芸人をやっているが、俺と同じく、食えてはいない。やっぱり、バイトして食いつないでるというわけ。
「売れねーなー、売れてーなー」
 がスギウラさんの口癖だ。いっつもバイト前とかバイトの休憩中に、一生懸命ネタを考えてる。そして周りの反応がいいとニコッと笑って、「これは使えるかもなぁ」と、つぶやく。逆にイマイチの反応だと「これは使えん」と却下にして、周りの反応から使えるネタとボツネタの判断をすることがよくある。なぜなら
「自己満足のために芸をやるのは素人」
 という持論が、スギウラさんにはあり、つまり
「お客さんが笑ってナンボだろ」
 ということだそうだ。だから、人の反応はとても大事にしている。周りの意見など気にすることなく、自分が面白いと思うことだけを追求するのが真のプロでは?という人もいるが、スギウラさんに言わせるとそれは「きれいごと」らしい。ちなみに、スギウラさんがもっとも尊敬する芸能人は「タモリ」。ちょっと純度100パーセントの芸人とは違うが、あのスタンスがカッコイイとのこと。まぁ、ちょっと分かるけど。この、スギウラさんとの出会いが、俺の人生に強い影響を与えることになった。

 午後7時。けたたましい目覚しの音がなる。この時間に起きるのは、いつもの通りだ。窓の外は既に暗い。もう、この夜型の生活にもすっかり慣れてしまった。25歳の時、求人広告で近所のラーメン屋が、夜8時〜早朝5時という時間帯で募集をかけていた。深夜なら時間も有効活用できるし、時給もいいし。そう思った俺は早速店に電話をかけ、その日のうちに面接に向かった。そして、店長がいきなりこう言った。
「明日から来れますか?」
「ハイ?…はい!」
 あまりの急な展開にビックリしてしまった。店が「急募」ということもあり、面接に行ったその足で、俺は合格し、収入源を得た。その日から夜型生活はスタートし、もう3年くらいになる。
 出勤時間の1時間前に起きるのも、すっかり習慣になった。この時間に起きるとテレビはもうゴールデンタイムだ。たまたまやってたくだらないバラエティ番組をかけて、まだ少しばかりねぼけまなこのまま、歯を磨いたりうんこしたりして、のんびりと出勤の準備を進める。テレビでは何処かで見たことのある芸人か誰かが、はしゃいでいた。俺はテレビのヴォリュームを絞った。いや、そりゃ分かるよ、あんたたちだって懸命に仕事してることくらい。けど、これから長〜い夜勤が待ってるから。少し静かにしてくれよ。特に理由はないがテレビに向かって悪態をついた。
 俺は週5回、バイトしている。深夜枠でわりと時給もいいから、とりあえず今は生活には困らない。たとえば劇団で公演があって、長期(ひと月とか)の休みをもらう時は、結構切り詰めた生活になるけど、それもまあしょうがない。

 ちなみにスギウラさんも週5でバイトを入れてる。もちろん、ライブとかお笑いの活動がある時は休む。ところで、俺とスギウラさんは週に3回、一緒に働く。スギウラさんと同じシフトだと、休憩中や客がいないときにいろんな話ができて楽しい。お互いの活動の話や女の話、時には、売れなかったらどうするかみたいな、ネガティヴな話も。でも忙しいときはそれなりに楽しい。もう、店のほとんどの業務をまかしてもらってるから、やりがいもある。
だから、役者という本業をたまに忘れてしまう。バイトが楽しくてイキイキしている自分に対して、
「俺はラーメン屋をやるために上京したんじゃねーだろ」
 と自問自答するのだ。
そんな時スギウラさんに相談すると、
「今出来ることを精一杯やるしかないのだよ。たとえばさ、このラーメン屋のバイトがタケオの役者の道に繋がらないとも限らない」
 と、まぁとりあえずは頑張れって意味だそうだ。
 んなわけで俺は、とりあえずラーメン屋のバイトを頑張ってやっている。今日はスギウラさんはいないけど、店にはいろんな個性ある面々がいて、退屈はしない。

 ちなみに、店には俺を入れて6人のスタッフがいる。まず、上田さん。正確な年齢は知らないけど、見た目は60歳近い。店の最年長だ。元々は銀行マンで、結構なエリートだったそうだが、50過ぎでリストラに遭い、今は家族を養うためにラーメン屋で働いている。銀行マンだったという話は人から聞いただけで、上田さんはそんな自慢など一切しない、謙虚な人だ。そんな上田さん、とてもいい人なのだが、若干酒癖が悪くて一緒に飲みに行くと、ちょっとオネエ言葉になる。まぁ、絡み酒よりは全然いいが60近いおっさんのオネエ言葉には、少したじろいでしまう。
「もう一軒行きましょうよ〜ん」
 などと言われると、次の日少し気まずくなる。まぁ、本人はまったく覚えてないようだが。ちなみに上田さんは正社員だ。
 それから、キョウくん。バイトでありながら、週に5〜6回は必ずいるツワモノ。日本人の父と中国人の母をもつ、ハーフだ。頭がよくて勉強家、休憩中にはいっつも何かしらの勉強をしている。日本の国立大学に入り、将来は世界を飛び回るビジネスマンになりたいそうだ。俺とは人種が違うし、話も合わなそうだが、ハーフだからなのかキョウくんの持つ性格そのものなのか、とても面白い。また、キョウくんには場を和ませる力というのが備わっている。たとえば店が忙しくてちょっとピリピリしてる時とか、キョウくんが「まあまあ」と言ってその場を穏やかにする。周りも、キョウくんが言うからいっかぁ、という感じになって、ピリピリムードは解決する。ちなみにキョウくんの場を和ませる力に俺らは何度も助けられてきて、そのうちに「キョウくんのまあまあ力」と呼ばれるようになった。若干20歳だ。にも関わらずなんというか、オーラがある。キョウ君と、あと上田さんと、それから後ほど紹介するが、うちの店長の坪田さんは主に日勤だ。
 店は、午前11時にはじまる。日勤の人たちは、店がはじまる時間帯から、夜勤の人と代わる8時くらいまでいる。夜勤の人間は、時々長期の休みをもらうことがあるので、店長の坪田さんや、社員の上田さんが代わりに入ってくれる。ありがたいことだ。

 店を仕切る、店長の坪田さんを紹介しようと思う。もう、40過ぎになるが、30代まではミュージシャンをやっていた人である。30を過ぎたころに、付き合っていた彼女から妊娠したとの報告を受け、目指していたミュージシャンの道をきっぱり辞め、当時一番好きで足繁く通っていたラーメン屋の店主に懇願して修行させてもらい、2年で自分の店を開いたそうだ。だから、俺とかスギウラさんとかが休みをもらうのを快く承諾してくれるのも、坪田さんが俺らの気持ちを理解してくれるからなのだ。
 
 あともう一人、店にはメンバーがいる。オオハシという奴で、俺と同じ年の27歳。夜勤で、週に3回くらい出てくる。このオオハシは、風呂なしトイレ共同のおんぼろアパートに住んでいる。この男は金がある程度貯まると、長期(ひと月〜ふた月)の休みを取って旅に出かける。オオハシいわく、30過ぎくらいまでは思いっきり旅がしたいそうだ。奴の住むおんぼろアパートは、冬場は隙間風が入ったりして死ぬほど寒いそうだ。だから旅を続けられるのもさすがに30くらいまでだと考えてるらしい。ちなみにオオハシは寅さんの大ファンで、旅に行く前には必ず店に立ち寄って、
「俺はこの柴又には2度と帰ってこないからな、あばよ!」(寅さんがよく言うセリフ。ちなみにここは柴又ではない)と言って去って行くのだが、休みが終わると「おはようございまーす」と、店へのみやげもの片手に、陽気に戻ってくる。変な男だ。

 以上が店の面々だ。スギウラさんにせよどのメンバーにせよ、みんな個性があって面白い。いっそこのままラーメン屋にしゅ…いかんいかん、俺の本業は、役者だった。

 さっきも言ったが役者といっても劇団の公演が大半を占める。あとはオーディションや映画の端役くらいで、当然稼ぎにはならない。スギウラさんもよくお笑いのライブに出ている。と言ってももちろん単独ではなく、総勢10組とか15組くらいの芸人が出演するようなライブに出る。こんな大勢の芸人が出るような舞台には正直何の期待もしてなかった。ところがスギウラさんと仲良くなって、彼のライブに足を運ぶようになると「なんでこいつらが食えてねーの?」と思うくらい面白い芸人が結構いた。あいつらは、どのあたりにいるんだろう。もう一歩のところまで来てるんだろうか?なんてことを思ったりしながら、スギウラさんが出演する日は、予定がなければなるべく行くようにしている。まぁ、スギウラさん(コンビで漫才とかコントとかをしている)は受けたり受けなかったりだが。少なくとも、スギウラさんたちがライブで一番笑いを取ってるところは、見たことがない。
 
 何度か、スギウラさんの家に行ったことがある。シンプルな部屋だ。4畳半で、何冊ものネタ帳が積み重ねられている。そしてそこには、部屋中に数え切れないほどの本が置いてある。小説から、ノンフィクション物まで。学者か、と突っ込みたくなるほどに。
「いや、本を読むのはさ、大好きだけど、書くのが苦手なんだよね。だって、高校の時の国語の成績、10段階で2だもんよ」
 2って、頭の悪かった俺より低い。だって俺、高3の国語の成績、確か4だったぞ。
「だから、たくさん本を読んで、国語力をつけてお笑いに活かしていきたいって思ってるのだよ」
 ふーん。スギウラさん本当は作家になりたかったのかもしれないな。文章で自分を表現したいって思った時もあったのかもな。表紙に自分の名前が載ったらなんて思った時もあったのかな。スギウラさんの部屋にある無数の本を眺めながら、俺はボンヤリとそんなことを思った。
 
 スギウラさんとはよく飲みにも行った。まぁ、店が閉まるのが早朝5時とか5時半で、その時間に空いてる飲み屋もほとんどないから、俺たちはいつも同じ店に入った。
 その店は、午前5時から昼くらいまでやってて、主に仕事終わりのタクシー運転手とかキャバ嬢とか、俺らみたいな深夜営業組を相手にしている。店の主人は、70近いおっさんで、よく運転手のグチに耳を傾けている。コの字型のカウンターで、8席ほどしかないが、酒も料理も安くて美味く、店は朝という時間帯にも関わらず、繁盛している。俺らはだいたい、店の奥のカウンターに座り、2〜3時間飲んでから帰る。時々オオハシを連れて行き、あいつの酒が止まらなくなると、5時間くらいいることもある。
 勘定は、必ずスギウラさんが払ってくれる。
「今日は俺が出しますよ」
 と言っても、スギウラさんは、
「じゃあ千円だけね」とか「小銭だけ」と言って、俺とかオオハシにはほとんど出させない。まったく、自分だってそんなに金があるわけじゃないのに。芸人の間で後輩には絶対金を出させないとか、暗黙の了解みたいのは、俺とオオハシには分からないけど、とりあえず俺たちはスギウラさんのことを「寅さん」と言わずにはいられなかった。金がなくても奢ろうとするその心意気こそ、まさに寅さんだった。俺もオオハシも寅さんファンなのでスギウラさんの男気にはいつも痺れている。
 
 今日はスギウラさんが休みの日で、俺とオオハシが、夜の担当だ。
夜は大体平日は2人、週末は3人でまわすのが基本だ。オオハシは、日本はもちろん、世界のいろんな国々を旅している。金の許す範囲で。そういうオオハシの、旅の話を聞くのは本当に楽しい。たとえば、
「あれ、鳥取だったかなあ。夏の暑い日の夜寝ようと思って公園のベンチで目をつむったんだよね。そしたらさあ、なんとなく気配がして目を開けたら、目の前におっさんがいんのよ。『ななな…なんすか?』って俺、すげえ動揺して聞いたのよ。そしたらそのおっさん、『わりい、タバコ1本くんない?』って、すげえ笑顔で聞いてくんの。なんか俺も一緒になって笑顔になってさ、しまいにゃ二人で一緒に吸ってんの。あんときのタバコの味忘れらんねえなあ」
 こんなエピソード、オオハシの旅の話のほんの一部に過ぎない。オオハシはたしかに貧しくて、普通の人には決して真似できないような人生を送っている。しかしこいつが旅先でいろんな人と出会い、また経験したことは、俺らじゃ絶対に出来ないことでもある。
「一番最近で、どこ旅したんだっけ?」
 俺がそう尋ねると、オオハシはすかさず「タイ」と答えた。そうかあ。じゃあ今日はオオハシにタイの旅の話を聞かせてもらおう。店が暇なときに、いっぱい。
 ところが今日はそうはいかなかった。「珍客」が多かったからだ。

 珍客とはいわゆる酔っ払ったサラリーマンや、やたらと絡んでくるにいちゃん、泥酔しきったスナックのママなど、まあつまり簡単に言うと「面倒臭い客」のことである。それら面倒な客をひっくるめて、珍客と俺らは呼んでいる。
「今日は珍客が多いな」
 俺はカウンターキッチンの中で、オオハシにぼそっとつぶやいた。店は、カウンター席が10と、奥に一つだけ4人掛けのテーブルがある。店が混んでる時や、集団の客は、テーブル席に座らせる。テーブルに座るのは主に3〜4人のサラリーマン風が多く、彼らをテーブルに通すと、大抵ラーメンを食う前にビールを飲む。大体、ジョッキで一人2〜3杯は注文するので、店も儲かるというわけだ。
今日はあいにく、テーブルは一度も使われなかった。代わりに、珍客の対応に忙しかった。俺やスギウラさんは、ある程度の珍客にはもう慣れたが、Aランクの珍客にはさすがにたじろいでしまう。Aランクの珍客とは、しつこいくらいに絡んでくるヤツや、カウンターに突っ伏したまま泥酔して死んだように眠ってるヤツとかで、いつも対処に困る。
 そんな時、Aランクの珍客の扱いがもっとも上手なのがオオハシだ。どんなにカウンターで爆睡して起きそうにない客もオオハシが、「お客さーん、ラーメン出来たよー。のびちゃうよー、俺、食っちゃうよー」
 そんなオドカシをかけると、それまで寝ていた客は急に起き出して、もくもくと麺をすすりだす。そして何事もなかったかのように帰っていく。客が無事帰ると、オオハシは俺の方を見て、一丁あがり、という感じで笑ってみせる。
 多分、オオハシは旅先でいろんな人と出会い、また接してきたのだろう。もちろん俺も、役者をやって来ていろんな出会いをしてきたし、また経験もしてきた。けど俺らが苦手とするAランクの珍客をオオハシがまるで普通の客が来たように対応しているのを見ると、俺は感心して脱帽せずにはいられない。

 早朝5時。店じまいも済んで帰り支度を始める。すると、一人の客が入ってきて、
「なんだあ。もうおしめえかあ」
 と言って、ちどり足で帰っていった。よくあることだ、早朝まで営業してると。着替えを済ませ、シャッターを閉める。空はもう、明るくなりはじめていた。夜から早朝まで働き、俺もオオハシもさすがに言葉少なになっていた。
「じゃあ、また今度な」
「おう、まったなー」
それぞれのアパートは、ラーメン屋を中心に別方向にある。俺らは自分の住む家に向けて自転車を漕いだ。

 けたたましいアラーム音、ではなく携帯の着信音で目を覚ました。
「ったくよお、今日はバイトも休みだし、役者の活動もないから遅くまで寝てようと思ったのにい」
 普通なら遅くまで寝てるというと、大体昼ごろをイメージするだろう。だが俺の場合、基本的に昼夜逆転してるから、夕方とか夜まで眠る。時計をみたら〈2時43分〉だった。
「チクショー、まだまだ寝れるじゃねーか」
そう思いながら、やむなく携帯を手にした俺の心は、驚きと喜びがわっと押し寄せて来て、電話を掴んだ。

〈祐介(地元)〉

 そう出ていた。間違いなくあの祐介からの電話だった。俺が役者になるって言って上京した時、東京の大学に行くという理由で、同じように故郷を出てきた祐介。ヤツとは小学校・中学校と一緒だった。頭のいい祐介は、地元で1番の進学校に行き、一方俺は、普通の高校に進んだ。
 祐介とは別々の高校に行ったが、高校に入ってからもその交流は途絶えることがなく、相変わらず付き合いは続いた。その祐介からの電話だった。俺がなぜ、祐介からの電話に驚きと喜びの感情が重なったかって言うと、それが5年振りのものだったからだ。祐介とは上京後も始めのころはよく遊んでいたが、歩む道の違いから必然的に疎遠になっていった。祐介は、東京の一流大学を出た後、大手の商社に勤め、今では結婚して子供もいる。

 俺と祐介が出会ったのは小学校1年生の時だ。俺らの地元はとてもイナカで、山々に囲まれた土地だった。俺は当時6歳で、地域に一つしかない小学校の入学式に出た後、たんぼ沿いの小さなドブ川の横を歩きながら帰路についていた。すると祐介が近づいてきて、唐突にこう言った。
「お前もウチに来て、一緒に昼飯食うか?」
 突然の誘いに最初は戸惑った俺だったが、
「いいね、いく!」
 と答えた。後で知ったのだが、祐介は入学式の時、俺の真後ろに立っていたらしい。
(こいつなんか面白そうだな。友だちになれそう)
 前にいる俺を見てそう思ったらしい。祐介は帰り道に話しかけるタイミングをうかがって俺を誘い、一緒に昼ごはんを食べた。以来、俺たちは友だちである。小1からだから、もう20年になる。幼馴染だ。
「もしもし」
「もしもし。久しぶりだな、タケオ」
「ああ。何年ぶりだ?もう5年くらいは会ってねーよな」
「元気かよ。相変わらず、売れない役者生活、やってんのか?」
「まあな。今は深夜でラーメン屋のバイトやってて結構時給もいいから食えてないってことはないけどな」
 そうだ、前に祐介に会った時は本当に金がなかったんだった。しかもバイトもしょっちゅう変えてたっけ。電気も、止められたっけ。
「タケオ、今の仕事どのくらいやってんだ?」
「今の仕事か?大体、3年くらい」
「そおかあ」
 祐介から、喜びとも安堵ともつかない感情が伝わってくるのを、俺は感じた。5年くらい前、俺が自堕落な生活を送ってた時、一方の祐介は会社に入って間もないくらいだった。小学校のころから仲がよくて、同じように遊んできたのに、どうしてこうも差がついたのかとやけになって、確か当時俺の方から疎遠になっていったんだよな。祐介はいつだって、俺のことを気にしてくれてる。口では「売れない役者」とか言いながらも。
「本当か!じゃあ、今は電気止められたりはしてねーんだな」
「してねーって」
「それを聞いて安心したよ。ああ、タケオの声、久しぶりに聞いたら飲みたくなったよ。近々飲まねーか?」
「いいねえ。約5年ぶりの再会といくか」
こうして俺らは、お互いの都合のいい日に会う約束をし、電話を切った。

 それから一週間ほど休みをもらった。劇団の公演やら、映画のオーディションが入っていたからだ。俺が所属する劇団は、いわゆる『大人計画』みたいなデカイ組織ではない。メンバー10人ちょっとの、小規模な劇団だ。3〜4年前に立ち上げ、それこそ当時は、
「『大人計画』みたいなでっかい劇団にしようぜ」
 と飲み屋などで熱く語っていたものだ。しかし現実はそう甘くはなく、公演の度のひどい空席や資金不足などで、立ち上げ当初8人いたメンバーも実家に帰るなどの理由で辞めていき、当初のメンバーは最年長のぐっさん(30)を筆頭に、27の俺が残った。だが俺は、去っていったメンバーを非難するつもりはない。彼らには彼らの事情というものがあって、それを俺らは素直に受け入れてきた。
 それ以降は張り紙やらネットやらで新規メンバーを募集した。募集をかけて入ってきたメンツはみんな20代前半で、少し年齢のギャップを感じてしまう。まあこんなからぶき屋根のように、今にも吹き飛んでしまいそうな劇団の門を叩いてくれただけでも、ありがたいと思っている。また、劇団員がいくら若かろうとも、バイトにいけばスギウラさんやオオハシがいて、彼らと一緒に働く安心感が、自分の拠り所になっていた。
 そして、公演とかで思いっきり声を出したり、演技をするのはやっぱり楽しい。だから俺は10年も売れないながらも続けてるんだと思う。しかし、よく練習後や公演の後に劇団のメンバーと飲みに行くんだけど、
「うちの劇団これからどんどん行くぜえ」
「おお!そのためには…」
 などと若い連中が熱い演劇論を交わしていると、ああ、俺にもあんな時代があったなあと思い、その会話に入っていくことは、もう出来ない。最年長のぐっさんに至ってはもはや飲み会にも参加しない。ぐっさんは同じ立ち上げメンバーの彼女と一緒に暮らしていて、劇団の活動が終わると真っ先に帰っていく。俺はとりあえず、飲み会には参加している。俺らも数年前までは熱い論議を朝方まで交わしてたくせに。だけど、12時を過ぎたあたりで、
「じゃ、俺はもう眠いからこの辺で」
 と言って、店を後にする。若い劇団員たちの、
「お疲れしたあ!」
 という声を背にしながら。もはや彼らについていく気力がない。もちろん勘定は最年長の俺がほとんど持つ。
どっと疲れが押し寄せる。
「飲み会に参加するのも、そろそろ潮時かな」
自分が歳取ってきたことを感じていた。いわゆる「若いノリ」にはもうついていけなかった。電車はまだあったが、俺は歩いて帰ることにした。飲み屋から家まで30分くらいかかるけど、昼と夜が逆転した生活を送っている俺は、全然眠くなかった。

 深夜歩いているといろんな面白いことに遭遇する。酔っ払いの集団や、彼氏とケンカして(もしくはふられて)やけ酒を飲み、「バカヤロー」という言葉を連呼するねえちゃん、千鳥足で歩いてるおっちゃん・・・。まあ大体が酔っ払ってるんだけど。あと、8割方奇声を発している。
「ふざけんなー」
 とか、
「フ××クー」
 とか、
「アイム、ハッピー」
などなど。まあ、どの言葉もこんな遅くに迷惑には違いないが。
 それからコンビニか深夜営業のスーパー帰りの人ともよくすれ違う。カップル、フリーターっぽい人、大学生(もしくは専門学校生)など、いろいろいるが、みんな袋を持っている。夜食の買い出しだろう。すれ違いざま時々その袋から、おでんなんかの匂いがプアーンとすると、自分が空腹なことに気づく。
「ああ飲みの時もっと食っときゃよかったな。人がいっぱいいる飲み会じゃ、あんま食えないよな」
 などとつぶやいて、歩いてる途中にコンビニを見つけたらすぐ入っておでんでも買うことに決めた。あとこれはよくあることなんだが、「ウォーキングハイ」みたいな症状になることだ。ウォーキングハイとは、俺が勝手につけた言葉で、まあ「ランナーズハイ」の散歩版だ。この状態になると、最初はトボトボ歩いてたのが、だんだんとテンションが上がって、歩くのに夢中になっている。汗をじんわりとかいてもマッタク気にならない。空腹のことも、全然気にならなくなる。よく、飲んだ帰りに歩きたくなって、気がつくとウォーキングハイになることがある。まあ、今はあのおでんの匂いで空腹になったから、見つけ次第コンビニに入ろうと思ってるけど。

 深夜のコンビニも注意してみると結構面白い。マンガ雑誌を読みふけってる人、エロ本コーナーで表紙をじっと眺めているおっさん、二つの弁当を手にとって必死に迷っている若者など、昼間よりも変わった客が来てんじゃないか。ウチの店も、夜間は変な客多いしな。とりあえず、俺は目的のおでんと、ホットコーヒーでも買おう。まだ寒い季節じゃないが、深夜に飲む熱いコーヒーはたまらなく美味しい。
 そんなこんなで、大体30〜40分かけて家に着いた。時刻は夜中1時ころ。いつもなら、ラーメン屋で働いてる時間。まだ全然眠くはない。あたりは当然真っ暗で、普通に働いてる人とかはもう寝てるだろうけど、これが俺の規則正しい生活というやつだ。夜空には、一個の星も見えなかった。変わりに、目の前に大きな電信柱があった。これが俺の地元なら満点の星空がのぞめたろうに。でも今そんなことを言ってもしょうがないので、さっさと家の中に入った。
 俺の部屋は1階のカドにある。カド部屋なので窓は部屋の両側にあって、さらに大きい。だが木造なので、音が響く。たまに深夜に大きな物音を立てると
「ドン!」
って上と横の両部屋から「うるせえ」という、圧力をかけられる。まあだいぶ慣れたが。いずれにせよ、夜遅く帰ってきた時はあまり大きな音は立てられない。
 自分の家のドアを静かに開け、静かにシャワーを浴びて静かに着替えなどを済ませた後、俺は久々に中学の卒業アルバムを見た。
「5年振りかあ」
 祐介とは中2の時に同じクラスだった。アルバムには祐介との写真が何枚もあった。当然だ。俺らはいつも、違うクラスの時も行動を共にし、さらには部活まで一緒だったんだから。そう、バスケ部だ。毎日走り回っていた。朝も、放課後も。
「村田先生、元気にしてっかな」
 村田先生とは、バスケ部の顧問の名前だ。厳しいが、とても心温かな方だった。当時俺らが入学した時確か40過ぎだったので、もう55くらいかな。初老じゃん。
 そう思いながらパラパラとアルバムをめくり、俺は「本来」の目的の人物を眺めていた。

「山本藍」

愛してるの愛ではなく藍染めの藍と書くそのコは、俺が中学校の3年間ずっと好きだった。彼女とは、高校は別だったが、高校の3年間も俺はずっと好きだった。なんか、「斉藤和義」の歌みたいだ。ちなみに、中学の時に3回、高校で2回告白したが、いずれもフラれた。いわゆる片想いで、「仲のいい友達」どまり。俺はその範疇を飛び超えれなかった。結局地元にいる間に恋が実ることはなかった。

 藍は高校卒業後、料理の専門学校に通うために、やはり上京した。その後、藍がパティシエになったのか、俺は知らない。なぜなら藍とは、上京してから一度も会っていないからだ。いずれにせよ、彼女とはものすごく会いたかった。俺の長いこと封印してた想いが、アルバムで顔を見たことによって、復活してしまった。
「藍も呼ばねえ?上京してから一度も会ってないし」
 俺は電話をし、なるべく平静をよそおい、祐介に言った。
「そんなこと言ってよ、おおかた卒業アルバムでも見たんだろ。で、藍を見たら会いたくてたまらなくなったんだろ」
 う、するどい。さすが長い付き合いのことだけある。
「いや、それもあるけどさ。実際藍が今どんな仕事してるか知りたいなーと思ってさ。ほら、俺らアイツと上京してから一回も会ってねーじゃん」
 俺は祐介のジャブをなんとかかわした。
「いいよ。ていうか俺も藍に久々に会いてえし。早速明日にでも連絡してみるよ」
 こういったフットワークの軽さが祐介のスゴイところだ。この身軽さは残念ながら、俺にはない。つい熟考してしまう。結果の成否に限らず。祐介は何事も物事の決断が早い。そのくらいじゃないと商社マンとしてやっていけないのかなあ。そう思いながらも、祐介のフットワークの軽さのおかげで久しぶりに藍と会えるかもしれないと思うと、胸が高鳴った。
 
 ところで、俺らの地元は以前にも述べた通りイナカにある。コンビニもファミレスもないような場所だったが、夏になると地域の祭りがあった。祭りと言っても岸和田だんじりとか、阿波踊りみたいなデカイものではなく、神社を使ってやる小規模のものだ。しかし祭りの日になると、小学生も中学生も高校生もみんなそわそわしたものだ。そしてあたりが暗くなって祭り囃子が聞こえてくると、
「祭りの始まり!」
 という感じで神社の階段を思いっきり駆け上がった記憶がある。いろんなお店や、普段は働いてるのに一生懸命踊っているおっちゃんたちなどが脳裏に焼き付いてる。けど、祭りで一番記憶に残ってるのはなんといっても中3だ。

 その夜、祐介と二人で祭りに行き、神社の階段を登りきった俺たちはまず、食べ物を物色した。店でフランクフルトを買い、それらを食べ、残った串をくわえながらプラプラと歩いていた。中学生とか高校生になると、盆踊りの輪に加わることはほとんどなくなる。大体は、大人や子供が額に汗して踊ってる。年頃になると踊るのがなんとなく気恥ずかしくなる。社会人くらいになると再び盆踊りの輪に加わる。盆踊りとは、なんとなくそういうものだ。
 俺らの世代が祭りに行って何をするかっていうと、同じ学校の、特に異性を見つけて何てこともない話題をずーっと話してたり、もしくは不良の先輩が来てると隠れながら歩いて、話しかけられることのないように注意をはらう。
 それで俺らは同じ学校の、特に女子を探してたというわけだ。もちろん、こわい先輩に遭遇してカツアゲでもされることのないよう気をつけながら。しばらく歩いてると、祐介が言った。
「あれ、ウチのガッコの女子じゃねえ?」
前の方を見ると、浴衣姿の同年代と思われる女子が5〜6人いて、楽しそうにおしゃべりしていた。確かに見覚えのある顔がいて、彼女らはウチの学校のコらに違いなかった。あの中に藍がいるかも。彼女は背が小さいので、大きなコたちに囲まれてればその姿はまだ見えない。期待を胸に膨らませつつ近づいて行った。
「いた」
俺は思わず心の中でそう呟いた。藍は水色の浴衣を着て、楽しそうにしゃべっていた。
「藍、いたな。しかも浴衣姿。ククク」
 さすが祐介。俺の心の中をしっかり見抜いてやがる。しかしこういう時に持ち前のフットワークの軽さを見せるのが祐介だ。すぐに女子たちのところへ駆けて行って会話の輪に加わった。俺は祐介に早く来いと言われ、少し遅れて行った。
「なんで女子たちはみんな浴衣で来てんのに、男子はそんな格好なのー」
 と笑われた。俺らはTシャツに短パンというラフな服装だった。するとすかさず祐介が応戦した。
「バッカだな。この格好だといつでも戦闘体制に入れるんだよ。たとえば不良の先輩と戦う時とか、迷子の子ども抱いて親を探す時とか、あと君らがもし体調悪くなったりでもしたら、おぶって家に連れて帰ることも出来るだろ?」
 相変わらず口からでまかせばっか言ってんな。友達の俺は、もちろんそんな風に見ていたが、女子たちは祐介に口で絶対勝てないことは知っていたので、黙るしかなかった。なぜなら祐介は学校でも1、2番に頭が良く、でまかせであろうと妙な説得力を持っていた。オマケに祐介は空気を作るのがとても上手い。その祐介に導かれるようにして、俺らの輪はすぐに盛り上がっていった。

 俺はというと、完全に見とれていた。藍に。まあ俺が藍のことを好きなのはみんな知っていた。なぜか先生たちまで。その日の藍は夜のせいか、浴衣のせいか、学校とは違って少し大人に見えた。最初は祐介も女子たちもほっといてくれたのだが、俺があんまり長いこと藍に見とれてたら、女子の一人が、
「タケオ、藍に見とれすぎー」
 ってからかわれてしまった。
 とにかく、その中3の祭りの藍の姿は、今もよく覚えている。もちろん、学校での藍も覚えてはいるが。 
 その藍に久しぶりに会えるかも。いかん、心臓がバクバクする。俺は胸の鼓動を抑えきれず、とりあえず部屋の中をのたうちまわった。それから、バクバクが収まって来たところで水を一杯飲み、深呼吸をした。
「まあ、まだ藍が来るってハッキリ決まってないし。とりあえずは役者とかラーメン屋のバイトを頑張ろう」
 俺はそう思い直すことにした。しかも明日はいつも昼間に出ているハーフのキョウ君が大事な試験だそうで休みをもらっていて、俺が久々に昼間の時間帯に出ることになった。
昼間の客層は夜とはだいぶ違う。昼間の客は、とにかく食事目的で来る。主に、12時台にわっと押し寄せる。スーツを着たサラリーマンやタオルを肩にかけたまんまの作業着の人、それから大学生や専門学生など。彼らはだいたい黙々と食事をして水を一杯飲んでスバヤク帰っていく。一番混む12時台は店にも行列ができる。だがなんといっても坪田店長や、最年長の上田さんという、二人の社員がいるので、俺はとにかく自分の仕事をこなしていればいい。どんどんとやってくる客、それに対し、次々とラーメンを作っていく俺ら。この時間帯は、まるで戦場のようだ。13時を過ぎるころには、客足も多少減って来る。俺らも少し余裕が出来、冷たい水などを飲む。
 このもっとも混む12時台が過ぎて13時台になると、仕事が長引いたらしく遅い昼食に来た客をさばく。そして14時台になると客足は完全に途絶える。そうするとようやく俺らが順番で休憩をとる。あとは晩御飯の時間の19時くらいまで店が混むことは滅多にない。

 ところで、飲食店で働くと、いわゆる「まかない」が食べられる。これは本当にありがたいことだ。店によっては、7ガケとかいうケチなところもあるが、うちは完全無料だ。しかも坪田店長は気前がよく、俺らがバイトしながら切り詰めてるのを知ってるので、一回の仕事で2食も食べさせてくれることもある。どういうことかというと、出勤してすぐ、
「腹減ってないか?じゃ、とりあえずラーメン食っとけよ」
 と言って、いきなり1食食べさせてくれる。そして仕事が終わってからまたもや、
「思いっきり働いて腹へったろ?」
 と言ってもう1食食べさせてくれるわけだ。なぜそこまでしてくれるかというと、もちろん坪田店長自身の気前の良さがなによりだが、その他の理由として、坪田店長の好きな言葉、
「腹が減ってはイクサもできぬ」
 が大いに関係している。よく俺がオーディションに行ったりスギウラさんがネタ見せなんかあったりすると坪田店長は、
「腹の減った状態でのぞむなよ!なんてったって『腹が減っては戦ができぬ』からな」
と言い、坪田店長は恰幅のいい腹をつきだす。

 前にも述べたが坪田店長は音楽をやっていたそうだ。下北沢とか高円寺とか、いろんなところでライブ活動をしていたが、結局芽が出ることはなかったらしい。そして、付き合っていた彼女に子どもができ、そのまま結婚して音楽の世界から一転してラーメン業界に足を踏み入れたわけだが、当時はどんな心境だったんだろうか。マッタク違う世界で、新しい人生を始めるということに不安や抵抗は無かったんだろうか。しかも今では人気ラーメン店を実際に立ち上げてるわけだから、相当な苦労だったに違いない。
「いやさ、とにかく家族を養って行かなきゃって必死だったから。もう、いつまでも売れない音楽やってる場合じゃなかったね」
 音楽をやってたころ、坪田店長は当然アルバイト暮らしだった。彼女もバイトをし、二人でギリギリの生活をしていたらしい。
「あのころはあのころで楽しかったんだけどね。カネは全然なかったけど。彼女と二人、4畳半のアパートで、よく安い酒を飲んでたっけ。今じゃ出来ないけど、若かったから」
 そう言って坪田店長は少し照れ笑いをした。
「まあどっちにしても、今タケオに彼女がいてそのコに子どもが出来たら、それこそ役者を辞めるんじゃないか」
 幸か不幸か、今の俺に彼女はいない。俺がもし、坪田店長の立場になったらどうするだろうか。やっぱり役者をやめて就職するんだろうか。夢とかそういうものを捨て、家族のために必死になって働けるだろうか。少なくとも、今の俺には守るべき家族というものがないから、そうなった時の気持ちは、想像出来ない。

 「藍、来たいってよ。良かったな」
 そう言って、祐介は俺に飛び上がらせるほどの知らせを報告して来た。
「ただ、予定を合わせるのが難しいからな。今週すぐに会いましょうって言っても、そう簡単には行かないだろうな。藍は基本平日休みって言ってた。お前は夜勤で昼間役者の仕事とか練習が入るんだろ。まあ、俺は出張とか休出が入んなきゃ、土、日が休みだけどね。とりあえず、藍にはわかる限りのスケジュールをメールするよう言っておいた。タケオ、お前も調整出来そうな日はメールで随時伝えて。じゃ、ヨロシク」
 そう言って祐介はすぐに電話を切った。なんかいきいきしてたな、あいつ。昔っからこういうの得意だったもんな。祐介の頭の回転の早さに改めて感服しながらも、藍との再会が確実になったことを、俺は心の底から喜んでいた。祐介とは5年振り、藍とは上京してから一度も会ってないから、多分10年振りくらいになる。

 元気かな。相変わらずカワイイ…だろうな。仕事はうまくいってるかな。地元には時々帰ってるのかな。最後に会ったの、いつだったっけ。なんせ高校が違ったから、中学の時みたいに毎日会えるわけじゃなかったもんな。そうだ、最後に藍に会ったのは俺が上京する前の夜、祐介と一緒に会いに行ったんだった、藍の家に。俺と藍は家の前で話をしたんだっけなあ。
「俺、明日地元を出るから」
「そっか、私も来週から料理の専門学校で東京行くんだよ」
「そうか。じゃ、お互い上京組ってわけだ」
「だね。時間があったら会いたいね」
「そうだな」
 5分か10分立ち話をしただけだったし、会話が特別に盛り上がったわけでもない。だけどその時間は俺にとってサイコーに幸せであり、1時間や2時間にも感じられた。それから上京後、結局会うことのないまま時は過ぎていった。頭の片隅に今も、藍の面影を残したまま。
 そんなわけで、祐介に当面のスケジュールと調整出来そうな日をすぐにメールした。あとは祐介からの返信を待つしかなかった。
「なるべく早くアイツらに会えるといいけどな」
 俺はそんな期待を抱いた。もちろん藍だけじゃなく5年会ってない祐介との再会も、とても楽しみだった。

 とはいえ3人が会うことになるとそう簡単に話が進むはずもなかった。そんなわけで俺は、普段の生活をこなした。昼間は役者業、夜はラーメン屋という感じで。
「今やれることを懸命にやる」
 というスギウラさんの言葉通り、たとえ稼げなくても、俺は役者なんだ。時々、心がポキっと折れそうになるが、俺のマッチ棒のような心を今、何よりも支えているのは、一緒に働くスギウラさんやオオハシの存在だろう。たとえばスギウラさんが頑張ってネタを作って行く。オオハシは糸の切れた凧のように旅へ行く。二人がこんなに頑張ってるんだから、俺も負けてられねえって思う。月並な言葉だけど、本当にそう感じる。まあ、一番の理由は演ずることが好きなんだろうが。だからこうして10年もの間、しがみついてるんだ。同世代の人間たちが結婚したりいい車に乗ってたりしてそりゃアセる。安定した職につこうと思ったことも何回も、何十回もある。けど結局は、
「分かっちゃいるけど辞められない」
 んだよな。あの歌なんていったっけ。ああ、確かスーダラ節だった。あの歌は確か酒がやめられない男の歌を唄ったはずだったけど。今の俺にピッタリじゃないか。いや、誰にだって身に覚えの一つや二つくらいあるんじゃなかろうか。麻雀がやめられない、タバコがやめられない、読書が止まらないなど。まあ、そんなこんなで俺は今に至る。毎日毎日、葛藤し続けながら。そしてスギウラさんがお笑いを頑張り続けている。あの人が諦めない限り、俺が先に逃げるわけにはいかないのだ。「ほっぺの引っ張り合い」のようなもので、スギウラさんが「やーめた」と言い出さない限り、続ける。なんだかものすごい意地の張り合いみたいになってるけど、いい刺激になってるから、問題ないのだ、結局。

 今日のバイトはまたもオオハシと一緒だった。ヤツはいろんなところを旅していて、バイト中に旅の話を何度聞いたことか、数え切れない。国内外本当に色々行っていて、毎回面白い話をしてくれる。笑える話だけじゃなく、時には泣ける話も。旅というものは、嬉しいことや楽しいことだけじゃないそうだ。悔しいことや、時には悲しい場面に出くわすことも多々あるらしい。それらすべてひっくるめて旅の魅力だそうだ。家族旅行ぐらいしか行ったことのなかった俺にはその魅力とやらの本質まではわからないが、アイツの話を聞いてると、俺もその場所に行ったような気持ちになることが出来た。
店がヒマになったので俺は早速ヤツに聞いた。
「なあ、今日も旅の話聞かせてくれよ」
 オオハシも自分の旅の話をするのが嫌いではなく、もちろん俺はそのことを熟知していて、いつも話を聞いてる。中には自分の旅をまるで特別なことのように話したがるヤツもいるが、オオハシはそんなことは一切せず、どんな体験もアッサリと語った。
「そうねえ、フィリピン人のジョーイの話、もうしたっけ?」
「いや、多分それまだだな」
「ジョーイに会ったことで人生観くつがえされたよ」
「じゃあ、そのジョーイという人の話を聞かせてくれ」
 ちなみにオオハシは国内の旅を、おおまかに「西」と「東」で記憶している。たとえば北海道だったら東の上の方、福岡なら西の旅、というふうに。それはそうだろう、いろんなところを行ってるヤツにとって、行った場所まで思い出すことは難しいはず。ちなみに海外の旅だと行った国は何十国もあるわけじゃないので、「ポルトガルの」とか「カンボジアに行った時の」と、出来事と国の記憶がごっちゃにならずに出るらしい。
 国内の旅の場所の記憶が曖昧なオオハシだが、出来事そのものの記憶は凄く良い。そして、今日はフィリピン人のジョーイの話を聞かせてくれるらしい。
「あれは、西の旅だったな。確か広島あたりだと思うんだが」
 広島?フィリピン人て言うからてっきりフィリピンへの旅だと思っていたら、広島で出会ったジョーイっていう日本に出稼ぎに来てた男の話らしい。まあなんにせよ、オオハシはジョーイの思い出を淡々と語り始めた。
「あれは2、3年前のことかな。俺は1ヶ月半くらいの休みをもらった。で、確か広島に行ったんだ。それでまあ一週間くらいの旅ならいいんだけど、1ヶ月とか2ヶ月になるときは、金もそんなにねえから短期で出来るバイトを旅先でやることが多いんだよね。それでその時はちょうど牡蠣漁のシーズンで、求人広告には牡蠣漁の募集がワンサカあったってわけ。どういうことをやるかっていうと、船に乗って網にかかった牡蠣をワッセワッセと引き上げて、その後、港に戻って仕分けをしていく。まあ簡単に言うとそんな感じだな。もちろん、難しい仕事はベテランの漁師がやってたけど、俺みたいな短期のバイトで入った人間はひたすら力仕事だったな。思いっきり網をひきあげたり仕分けられた牡蠣を運んだり…。結構しんどかったよ、朝は3時くらいに叩き起こされるし。といっても、金もないからすぐにバイト見つけなきゃならなかったし。まあ、最初は楽な仕事探したんだけどね、そん時は、あいにくなかったな」
 そう言ってオオハシは水を飲んだ。一気にいろいろしゃべったので喉が乾いたんだろう。だが俺は早く続きが聞きたくて、先を促した。なにより、まだフィリピン人のジョーイが登場してないじゃないか。
「まあ、今出るよ。そのジョーイは漁師じゃないけど古株のバイトで俺にいろいろと仕事を教えてくれたんだ。すっげえ力持ちで、腕なんか俺の2倍も3倍もあんの。でもジョーイは、最初は全然しゃべらなかったよ。俺も、とにかく自分の仕事を懸命にこなしてたし、なんせ分かんないことだらけだったからさ、最初の2日くらいはお互いマッタク無言だったな。でも3日目だったか忘れたけどジョーイがいきなりニコッと笑ってきたんだ。なんていうのかな、初めて俺に心を許した瞬間だったね。あの笑顔は日本人の大人には出せないんじゃないかな。よくわからんけど、そんな気がしたよ。それで、その後俺に聞いたんだ。
『ニホンノオンナ、ミンナキレイネ』
それがジョーイの第一声だったな。いきなりそんなこと聞くかって思ったけど、俺はすかさず、
『そのとーり、そのとーり』
と、なぜか政治家みたいに答えて、首をおもいっきり縦にふったよ。それ以来、俺たちは急速に親しくなった」

 客が入って来たので、オオハシの話は一旦中断となった。深夜の客はラーメンだけでなく、餃子にビール、それからつまみをたんまりと注文する人が多くて、その辺は昼間より儲かるのだが長居することもある。オオハシの「ジョーイ話」の続きが推理小説のように気になっている俺としては、正直早く帰ってもらいたかった。結局何人かの客が来て、再び1時間後、店には誰もいなくなった。早速俺はさっきの話の続きを聞き出した。ヤツは続きを語り始めた。
「仕事は早朝3時半からでさ、朝が早いぶん午後の1時とか2時頃には終わるんだよね。それで昼飯はいつも船の上で新鮮な牡蠣を漁師さんがさばいてくれて醤油をかけて食ってたよ。サイコーに美味かったなあ」
 そう言われて俺も牡蠣が食いたくなった。しかし新鮮なモノを船の上で食うのと、居酒屋で食うカキフライじゃ雲泥の違いだろうな。そう思って、俺は新鮮な牡蠣へ思いを募らせた。
「ジョーイは収入の半分くらいをフィリピンの実家に送ってて、すごいなあって素直に感心したよ。で、話してるうちにわかったんだけど、あいつすっごいシャイでさ。初対面の人なんかと全然話せないんだよね。始めすごい無口な印象を受けてた俺も、ジョーイとしゃべり出してから仲良くなったしね。まあ、親しくなれば本当に陽気なおっさんっていう印象だったよ。けど、こういうと差別みたいな発言になっちゃうけどフィリピン人とかってなんとなくガサツなイメージが多分一般論だと思うんだよね。実際、俺もそうだったし。でもジョーイは結構繊細でさ、あと本当に優しいヤツだったな。ジョーイとはよく仕事が終わって夕方くらいからあてもなく散歩に出かけてたよ。それで定食屋とかラーメン屋に入って、夕飯食べて帰ってたな」
「そのジョーイとの一番の思い出とかってないの?」
「ジョーイとの思い出か。まあ、ありすぎるな。たとえば、ジョーイはそこまで日本語が堪能じゃなかったんだけど。意思の疎通は問題なかったな。それに、ジョーイが思い出せない日本語があったとしても、俺がカバーして会話は成立した。こんなふうに、
『ホラ、ナンダッケ、タイムノ』
『時計か!』
といった感じで。あとフィリピンの人は英語が使えて、ジョーイも『70パーセント、エイゴダイジョブ!』と言っていた。70パー、まあ大体話せるってことだろうな。そんなわけで俺らは、足りない部分をカバーして、互いの意思疎通をはかっていた。ジョーイとは本当よくしゃべったよ、仕事中も、仕事が終わってからも。ジョーイはさ、フィリピンの中でもかなりのイナカで育ったんだって。木によじ登って、木の実とか食える虫…まあ日本じゃ誰も食べてないかもしれないけど、そういうのを食って幼少期を過ごしてたらしい」

 オオハシはひと呼吸おいた。ジョーイか、そんなヤツとはぜひ仲良くなりたいな。俺も一応イナカ育ちだったから、フィリピンのイナカがどれほどのものか知りたかった。それからオオハシは残りの思い出話を、再度語り始めた。
「まあジョーイの話はキリがないほどあるけど、やっぱりこれかな。俺が帰る時になると、あいつは顔をクシャクシャにして泣いたよ。たった1ヶ月か2ヶ月の付き合いなのに、まるで親友と2度と会えなくなるかのように、悲しんでくれた。それでぶっとい腕で俺を抱きしめた。メチャメチャ痛かったけど、それより何より嬉しかったな。その腕で思い切り抱きしめられたもんだから、コッチ帰ってから1週間くらい筋肉痛になったけど、痛くなるとジョーイの事を思い出して寂しくなったな」
「それから連絡取ったりしてないのか?」
 俺はジョーイのその後が気になった。
「俺が帰って1、2ヶ月したころ手紙は来たけど、結局疎遠になっちゃったな。今頃どこで何してんのかな。相変わらず、牡蠣漁やってんのかな」
 そう言ってオオハシは店の裏口でタバコをくゆらせた。なぜだか俺も、ジョーイが今何しているのか、気になった。日本にいるのか、
それともフィリピンに帰ったのか。いずれにせよ、オオハシからこれだけジョーイの話を聞かされ、もはや他人とは思えなくなっていた。それから俺らは再び仕事をした。

 祐介からスケジュール確認のメールが欲しいと言われてからひと月ちょっとが経ち、ようやく3人のスケジュールを合わせる事に成功したとの報告があった。よくやったぞ祐介!仕事だって忙しかろうに、しかも家族もいるというのに。俺には到底、そんな真似は出来ん。さすが祐介、昔から頭がきれ、よく動く男だ。そう感心しつつも、俺は来週となった3人の再会を待ち遠しく思った。なにせ地元は5年前に中学時代の同窓会があったきり、帰っていない。そして祐介や藍とも長いこと会ってない。「故郷」というものが久しく俺からは消えていた。

 祐介や藍だけじゃなく、バスケ部で一緒に汗をかいたヤツらとか、俺の脳裏には久々に地元の光景が浮かんできた。アイツらはどうしているだろうか。向こうで就職した人間もいたし、上京してこっちでそのまま働いてるヤツもいるだろう。俺は、地元の仲間達とはすっかり疎遠になってしまったから、ヤツらがどうしているか、マッタク知らない。なにせ、一番仲のよかった祐介さえも5年振りなんだから。たまに地元を思い出し、あのなんとも言えぬ温もりに包まれたような安心感に帰りたくなる。
 だからといって、今の俺はあくまでも役者業とラーメン屋がある。それから目をそらしてはならない。
「今出来ることを懸命にやる」
 しかないんだ。もはやスギウラさんと俺は口グセのようにその言葉を言ってる。故郷に背を向け旅立った男なんて、寅さんの世界みたいでカッコイイじゃないか。こういうことをいうと俺以上、ていうか日本1の寅さん好きを自負するオオハシと、また揉めることになる。まあ、なにはともあれとにかく来週、祐介や藍と再会することになり、俺は期待で胸がふくらんだ。

 もう長いこと同じ生活をしているし、俺の街はオシャレタウンではないので、外見にさほどこだわらなくなった。髪はいつもの近所の散髪屋で切ってるし、服も3通りくらいしか着回しがない。しかもどれも楽なジャージとかスウェットとか、そんなものを着て出歩いている。だが、久々に祐介や、そして藍と会うとなるとそんなことは言ってられなかった。彼らも東京に長いこと住んでるんだし、俺一人がみすぼらしい格好をしていたら、なによりもせっかく久々に会う彼らに対して、失礼だと思った。そんなわけで俺は久しぶりにいつもの散髪屋ではなく、表参道にある美容室で髪を切った。店はすごいオシャレで、入るのにチョット躊躇した。勇気を出して中へ入ると、店員は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに営業スマイルに変わって俺を客として扱った。そこで髪を切り、洋服もチョットいいものを買った。高級ブランドの服なんて当然買えないけど、チョット奮発して、上下合わせて4万くらいするものを購入した。服にそんなお金を費やしたのは本当に久しぶりだった。どんな服を買ったかっていうと、濃紺のジャケットに普通のチノパン。あとジャケットの下に着るTシャツ。もう30近いし、大人っぽくいこう。

 家に帰って鏡で自分を見てみると、少し格好良くなった気がした。やっぱりいつもの散髪屋もいいけど、美容室で切るとただ普通に短くしただけなのに、なんとなく青山あたりを闊歩してそうな気持ちになった。なんでもいいが、俺のイメージの中でどうしてオシャレ=青山なのか。代官山だろうが銀座だろうがいいはずなのに。なんとなく、青山という名前がオシャレな人たちで溢れかえってるイメージにさせた。汗や脂まみれになってコロッケとか魚を売ってるおっちゃんなどは、間違いなくいないと思う。推測にすぎないけど。そして俺自身も、どう考えてもそっち側の人間だ。なぜなら、額に汗して毎日のようにラーメンを作ってるし、俺の街も古い商店街のある所だ。まあ俺は、基本的にそういう街並みの方が好きだが。だって落ち着くし。いつも行ってる散髪屋にしたって、漫画も好きなだけ読めるしヒゲも剃ってくれる。美容室で格好良く髪を切ってもらったが、ヒゲまでは剃ってくれない。そんなわけで俺は、ヒゲ剃りを使い、顔とか首の下をキレイにした。一週間もあればまた生えてくるけど、また剃って、ツルッツルな顔で彼らに会おう。

 翌日のバイトで、俺が髪を切ってヒゲを全剃りして来たので、早速スギウラさんにからかわれた。
「あれえ、タケオ珍しくオシャレじゃん。こりゃ近々デートだな」
 オオハシにも同じように言われた。夜のラーメン屋は一週間ずっと、こんな感じだった。
「まあタケオにもたまにはイイ話の1つや2つくらいないとな」
 スギウラさんやオオハシには確かにいつも浮いた話があった。そう、彼らは俺と違ってモテるし、特定の彼女もいた。俺の場合相手のことを好きになると、わかっていながらつい突っ走ってしまう。そうして相手のコに「重い」とか「もうすこし段階を踏んで」というふうに言われる。相手のことが好きになるとラッセル車よろしく、気持ちを伝えたくなってしまう。本当に、俺の悪い癖だ。ていうか、好きな時に段階なんか踏めるかよ。相手に言わせれば、たとえばとりあえずメールとか電話して、デートしてみて、お互いの気持ちが高まって来たらってことらしいんだけど、所詮ラッセル車の俺は、そんな段階全てふっ飛ばしたくなる。
 その辺スギウラさんやオオハシはうまい。気になるコがいると、4方8方から攻め、相手の出方をうかがいつつ、粘って粘って攻略するそうだ。もちろん二人とも、今は彼女がいるのでそんなことはしないが、二十歳前後くらいはそうやっていろんな女の子と遊んでいたらしい。チクショーめ。

 ともあれ俺、祐介、そして藍の3人が集まる日となった。10月に入ってすぐだった。その日は、幸いなことに雨が降る心配はなさそうだった。さっきテレビで夕方からの降水確率が0%であることを伝えていた。少し肌寒かったが、奮発して買ったジャケットが暖かく、また秋という季節にもちょうど良かった。そして、風も気持ちいい。もちろん、今朝ヒゲもしっかりと剃った。準備は万端。

 午後6時半、俺が待ち合わせの場所に立っていると、後ろから肩をポンっとたたかれた。振り返るまでもなく、藍であることはわかった。藍は、グレーの薄いセーターにデニムという格好だった。俺の顔を見ると、
「久しぶり。なんか、大人になったね」
 と言った。しばらくぶりに藍の声を聞いた。その声はとても耳に心地良かった。
「そうだな。10年くらい会ってないもんな。藍もだいぶ大人っぽくなったね。それに、まいいや。お店あっちだったよね」
 本当は相変わらずキレイだねって言おうとしたが、その言葉は喉の奥で止まった。それに、頭の中ですでに「キキ、キレイだな」とかみかみだったので、口に出して言ったらもっとかむことはほぼ間違いなかった。でも、久しぶりに見た藍はやっぱりすげえキレイで、可愛かった。俺はドキドキしていた。

 祐介は残業で少し遅れると、メールが来た。あいつ本当に残業なのか。それとも、俺に気を遣ってわざと少し遅れてくるのか。だとしたらその気遣い、いらんぞ。なぜなら俺は藍との久々の再会に、相当キンチョーしているからだ。もちろん平静を装ってはいるし、今はまだ祐介が予約したという「個室の焼き鳥店」に向かって歩いている段階だ。街の喧騒もあるし、2人が会話する必要はそこまでない。しかしその個室の焼き鳥店に通され、二人っきりで向かい合わせになったら、俺は下を向いたままになってしまうんじゃなかろうか。もしくは、運ばれて来るビールジョッキを持つ手が震えてしまうんじゃないだろうか。「乾杯〜」っていう声が裏返ったりはしないだろうか。そんなことを考えてるうちに、目的の店に着いた。そこは路地裏の静かな通りにある落ち着いた佇まいの店だった。石造りの階段を3段降り、引き戸を開けると、
「いらっしゃいませ」
と、落ち着いた声に古民家のような内装が目に入ってきた。
 俺は普段、こういうとこにはまず入らない。劇団員と飲む時もラーメン屋の連中と仕事終わりに一杯やる時も、居酒屋だろうがなんだろうが雰囲気などではなく「安くて美味い」ことを最優先条件としている。そうなると店の内装も、まあ大体が壁に値段の張り紙がしてある。「ポテトサラダ350円」という風に。そして店はカウンターと、所狭しと並べられたテーブルが置いてある。俺は、俺らは普段、そういうところで飲む。またそういうところの、雑多とした感じが好きだ。
 だが今日祐介が予約した古民家風個室焼き鳥店も、とても良かった。俺らは祐介の名前で予約を取ってあることを告げると、早速案内された。店に来るまでの俺の不安は、すっかり消え去っていた。なぜなら、店内のゆったりとした雰囲気に俺はすっかりと落ち着いてしまい、藍と個室で二人っきりになっても、もはやキンチョーすることはないと思った。いっつも俺らが飲んでるような店もいいけど、たまにはこういうところもいいなあ。それから、飲み物やお通しが運ばれてきた。
「失礼します。お飲み物と、それからお通しでございます」
 おお、めっちゃ丁寧じゃないか。俺らがいつも飲んでる場所だったら、
「へいおまち!」
 と言って、次の注文をしようと思って顔をあげたらもう店の人は背中を向けて他のテーブルに行ってるなんてこと、よくあるもんなあ。まあ再三言うが、俺はそういう店も好きっていうか馴染み深い。
 いずれにせよ、今日はこの店の雰囲気とか味を存分に楽しもう。ところで、
「祐介、残業で1時間近く遅れるって」
「そっか。じゃ、とりあえず先に始めちゃおっか」
「そうだな。1時間待ってもしょうがないし」
 俺が「乾杯」の音頭をとった。不安視していたように、声が上ずることはまったくなかった。俺は、すっかりキンチョーから解放されていた。もしかして、俺がめちゃめちゃキンチョーすることを予想したうえで祐介はこの店にしたのか。だとしたら相当に冴えてるなあ、と思いつつも、まさかそんなはずはないだろうと、すぐにその思いを打ち消した。そして、いつもより早めのピッチで、ビールを飲んだ。
「だけど本当に久しぶりだよね」
「おお、なんせ地元の時以来だもんな。お互い東京には出て来たけど、一回も会ってなかったしね。なにはともあれ、元気そうで良かったよ」
「私も、タケオ君が元気そうで良かったな」
 なんだか親戚の挨拶みたいになってしまい、二人共笑った。そして俺は、藍とこうして久々に会話をしていることに、少し感動していた。同時に、上京前夜、藍の家の前で立ち話をした光景が蘇って来た。「10年はひと昔」と聞いたことがあるが、まさに「ひと昔」だな。そして上京してから今まであっという間に過ぎて行った記憶が走馬灯のように蘇った。慣れない東京の生活、幾つも変えたバイト、止められた電気、それから、役者と、ラーメン屋。

 上京してから瞬間的に過ぎていった時間。藍はどんな風に生きて来たんだろう。藍にもいろいろなことがあったろう。でも、地元にいたころならまだしも、今の俺が自分から聞くのは違うと思った。故郷を離れてからの俺たちはお互いに別の道を生きてきた。それを無理やり聞き出すのは間違ってる。もし藍が自分から今の状況や過去にあったことなどを話したら、俺はそれを静かに聞こう。そして、心の中でギュッと抱きしめよう。それからあとは、もうすぐ来るであろう祐介に託す。話好きでまとめ上手の祐介に任せれば、どんな場でもなんとなく収められることを、俺は長い付き合いから分かっていた。
 祐介が来るまでの小一時間、俺たちは懐かしい思い出話をして楽しく過ごした。今の話とかをしてしまうと、踏み入れてはいけない領域に入ってしまう危険性があったので、当たり障りのない話をした。俺は今の藍のことを何も知らないから、藍が結婚していて子どももいるなんて話をされることを恐れていたのかもしれない。まあ、ずっと会ってないんだから、そんな話が出たとしてもおかしくはなかった。そして、もしそうであったら、俺は素直に祝福しなくちゃならない。そう、心から。

 そして祐介がきた。
「いやー、遅くなって悪かったね。二人とも久しぶりだなー。特に藍なんて何年ぶりだ?もう10年くらいになるんじゃねーか。あ、すんませーん、ここにビール1つね」
 相変わらず騒々しい男だ。そして相変わらず場の雰囲気をパッと明るくする力を持っていた。俺と藍が二人でいた時も、酒も進んで十分に明るかったのだが、祐介が加わって部屋の明かりが3倍くらいになったような気がした。それはヤツと出会った頃から持つ才能みたいなものだった。俺や、他の人間が暗いわけじゃないのに、そこに祐介が加わると一気に場の雰囲気が変わるのがはっきりとわかる。そういう場面に何度も出くわしてきた。そんな能力を祐介は持っていた。
「意識したことはないし、俺にそんな場の雰囲気を変える力なんて持ってると、感じたこともない」
 高校のときに祐介に言ったら、こともなげにそう返された。つまり祐介は、この場を明るくしようとか意識的にやってるのではなく、「ど天然の明るさを持つ男」なのだ。
 その祐介がやってきて、間もなくビールが運ばれると、
「じゃあとりあえず再会を祝して、カンパイといきますか」
 俺と藍は2度目だったが、祐介に促されるままもう一度乾杯した。
「くー、やっぱ美味いねえ。あ、焼き鳥食べたか。ここの焼き鳥美味いよお。二人とも食べた?食べた?とりあえず俺腹減ってるから頼むわ」
 やっぱり相変わらず騒々しい男だ。俺はそう思いながら、祐介を笑って見ていた。まあ5年くらいじゃ変わらないか。もっとも祐介の場合、20年経ってもそのまんまだろうけど。藍を見たら、俺と同じように笑って祐介を眺めていた。多分藍も俺と同じようなことを考えているだろう。「変わってないなあ」って。
 祐介は猛スピードで、焼き鳥その他の料理を食べ、猛スピードで酒を飲んだ。3人の誰かから出た話で、「がっはっは」と声を大にして笑うことも忘れずに。つまりヤツは全力で食べたり飲んだりしながら、会話にもしっかりと参加した。酒を飲んだ後に出る「くー」とか「かー」とか言う声が、祐介も中年に差し掛かってる年齢なのかなと思ったりした。20歳くらいの時は二人でチェーン居酒屋行ってビール飲んでも「くー」みたいな、心底美味いぜ、という言葉っていうか音は出ることなく、
「うん、まあこの苦味が魅力だな…」
 なんて言って言葉を濁した。当時まだよく酒の本当の美味さなどまったく分かってなかった。まあ、30歳にもなってないのに、美味さが分かるのかって言うと微妙だけど、とりあえず当時、酒を飲むって行為そのものに満足していたころに比べると、明らかに飲む機会は増えたし、何よりも俺は飲んでほろ酔い気分になるのが好きだった。まあ俺の場合はほとんどがビール一辺倒だから泥酔することはそんなにないけど、たまに一緒に飲みに行った人が焼酎大好き人間で、その人がボトルを入れて延々と水割りでも飲もうものなら、俺は泥酔してさらに翌日の地獄の二日酔いを味わう羽目になる。
 二日酔いになると何が辛いって、まず頭が死ぬほど痛い。そしてぐらんぐらんする。それからもう一つ、身体中がだるくなる。そんなわけで俺はビールしか飲まない。出来る限り。
 そして祐介はスバヤク泥酔していった。ビール、焼酎、日本酒、ワインと立て続けに飲んで。もちろん焼き鳥やら何やらといった料理も口に入れていった。祐介は多種多様の酒を俺や藍の何倍もの速度で飲んでいった。そりゃ酔っ払うのも早いわけだ。一瞬、お前明日も仕事あるだろうにこんな飲んで大丈夫か、と思ったけどおそらく明日になればけろっとした顔をして行くだろう。5年ぶりに会う親友のたくましい姿を見て、そんなことを思った。それと同時に、翌日にはおそらくスーツをパリッと着て会社でバリバリ働いてる祐介を想像してみた。立派になったな。仕事か、それとも家族を持ったからなのか、祐介は明らかに強くなった。今のヤツは、知らない人から見たらただの酔っ払いに見えるだろう。だが、長い付き合いの俺にはよく分かった。祐介の、成長が。

 1軒目の焼き鳥屋さんは2時間の予約制だったので、俺らは比較的早い時間に店を出た。泥酔状態の祐介は千鳥足で歩きながら、
「まだ時間大丈夫だろ?もう一軒行こーぜ!」
 と早くも次の店を探しているようだった。俺は藍に聞いた、電車とか時間のことを。
「今日は終電までのつもりで最初から来たから、全然大丈夫だよー。あ、風気持ちいい」
 確かに心地良かった。俺と藍は泥酔状態にはなってないので、ほろ酔い気分で歩きながら夜風を楽しんだ。
「おい祐介、ところで2軒目はどうするよ」
「フツーのチェーン居酒屋でいいだろ」
 と、いうわけで全国的に展開している店に入った。こういうとこも、結構好きだ。
「いらっしゃいませー」
一軒目とは違い、活気のある声が俺らを迎え入れた。若者でワイワイガヤガヤしてるかと懸念されたが、ちゃんとした個室があったので安心してそこに案内してもらった。確かに、大きな座敷席では賑やかに宴会をしている大勢の若者がいた。さしずめ同窓会かなにかだろう。しかし個室にはちゃんと襖のような扉があり、それを閉めるとすっかり静かな空間になった。しかもさりげなくジャズがかかっていたりして、俺のイメージしていたチェーン居酒屋とはだいぶ違った。

 そんなことはおかまいなしに、祐介は店に来たんだから一刻も早く酒が飲みたそうな顔をしていた。そして間もなく店員がきて、3人分の注文をした。祐介は前の店でしこたま飲んだにも関わらず、日本酒を熱燗で一合頼んだ。どんだけ飲むんだ、コイツ。きっとまだまだ飲むんだろう。俺は例のごとくビールを、藍はカシスオレンジを頼んだ。
 飲み物が運ばれてきて、3人は改めて乾杯をした。
「ところでさあ、前の店では地元の思い出話を十分したわけじゃん。いろんな話出てきて、実際すげえ楽しかったし」
 と、祐介が切り出した。遂に、核心に迫る時が来たかな。祐介は続けた。
「2軒目に来たことだしさ、そろそろ現状とかを話さないか?それぞれのさ」
 ヒトのプライバシーに土足で上がり込み、しかもそれが全然悪い印象を与えない祐介でさえも、1軒目では気を遣ってたんだ。もちろん俺でなく、藍に。これが俺とのサシ飲みだったら、
「いよう、久しぶりだな。で、今なにやってんだ」
 と会って5秒くらいで、俺の現状を聞いたに違いない。その祐介がこれまでヤツなりに気を遣って来たんだろう。ところが泥酔状態になり、しかも2軒目ということもあって、もうどうでもよくなった結果、もっと立ち入った話がしたくなったんじゃないか。
そして祐介は、
「じゃあ俺から話すよ。俺は大学を卒業して今の会社にずっと勤めてる。それから結婚して子供がいるのは2人とも知ってるよな。このガキが2歳なんだけど、とにかくヤンチャでねー。元気すぎて時々心配になるよ」
 そう言って祐介は携帯の待ち受けにしている子どもの写真を俺らに見せた。そして今、家を買う計画を奥さんとしていることも話した。じゅ、順風満帆すぎるじゃねーか。もちろん仕事とか家庭での苦労もこれまでにあったんだろうけど、俺が東京に出て生きて来た時間と比べたら、それこそ雲泥の差だった。俺は、今の自分をどう話せばいいのか。そんなことを考えて頭が混乱した。
「へー、じゃあ祐介君は順調なのかあ」
 藍が返した。
「まあ、一応な」
 俺は地元の親友の活躍を喜びつつ、多少はショックも受けていた。そして少しだけ妬みもあったことは、認めざるを得ない。その思いを知ってか知らずか、藍が続けて話し始めた。
「私はね、東京に来て料理の専門に行ったことは、みんな知ってるよね」
 俺らは頷いた。藍は、中学の時から料理人になりたいと言っていた。
「それでね、その学校を卒業してからちょうど去年の今頃まで、ずっと同じ店で働いてたの。フランス料理のね、地域の人に愛されてる、そーいうお店」
「へえ、なんか良さそうな店だね。でも去年までってことはもうそこでは働いてないの?嫌なシェフがいたとか。ん、フランス料理の場合なんていうんだ、シェフか、コックか?」
「シェフだよ。ちなみにお菓子を作る人なんかはパティシエって言われてるよね。私が働いてたそのお店でも腕のいいパティシエがいたよ、なんでこんなにおいしいお菓子が作れるのかって思ったもん。あ、あとそこで働いてる人たちはみんないい人だったよ。そういうの大事だよね。小さなお店だったから10人もいなかったけど、みんな優しかったな。けど、そこのオーナーがもう結構な年齢で、去年お店をたたむことになったんだ。オーナーには息子さんが1人いるんだけど、その人はその人で会社勤めしてて、その会社辞められないって。だから…」
 そのあと藍はしゃべるのをやめ、少し自分の手元を見た。だから、店を閉めることに決めた。直接そう言ったわけではなかったが、藍がそう言おうとしたのは、十分伝わった。そして藍がその店を大事に思っていたことも、俺らにはよく分かった。その店を辞めるのは相当寂しかったんだろうな、俺は静かに聞くよ、そして藍の辛い思いを心の中で受け止めることにするよ。
「で、今はどうしてんだ。要するに、その店を辞めてからの1年」
 出た祐介。悪気なく人の世界にズケズケと踏み込んでくるヤツ。俺とは正反対なんだけど、なぜか昔っからウマが合うというか仲がいいんだよな。なんでだろ?考えたこともないし考えたところで明確な答えが出るわけでもないけど、まあ互いに持たない部分で惹かれあって繋がってるのかな。で、藍はというと、
「今は知り合いが紹介してくれた日本料理屋で働いてるよ。フランス料理とは全然ジャンルが変わっちゃったけど、もともとフランス料理そのものにこだわってたわけじゃなくて前のお店が魅力的だったから結果的にフランス料理をやることになったんだ。ていうか私、何年後になるか分からないけど、小料理屋さんをやりたいなと思ってるんだ。そのためには和食のことを勉強しておかないとね」
「小料理屋か、藍ならきっと和服の似合う美人女将になるよ」
 すかさず祐介がいいことを言った。チクショー、本当は俺もそういう気の利いた言葉が言いたかったのに。先を越された。俺は他にもっと気の利いた言葉を探してみたが思い浮かばなかったので、黙って祐介の言葉に頷いた。
「ありがとう、もしかなったらお店に来てね」
「絶対行く!」
 今度は俺が先陣を切って言った。簡単な言葉だったので咄嗟に出たが、藍がもし小料理屋を開いたあかつきには、真っ先に行こう。そして、ビールを思いっきり飲もう。待てよ、そもそも小料理屋にビールってあるのかな。ああいう店はやっぱり、日本酒かなあ。行ったことがないからわからないな。でも今夜で俺が「ビール党」だってことは十分伝わったはずだ。だから俺が行く時はビールを用意してもらって、ていうか俺が日本酒を飲めるようになっておこう。でカウンターの端に座って、藍が料理を作ったりお客さんと会話している様子を眺めて、時々こっちに来て、
「今日は来てくれてありがとう」
 とか言われたりして…なんて何年先か分からない出来事で妄想を膨らませ、ほろっと酔った心持ちを楽しんでいた。
 俺がそんなことを考えてると、
「タケオ、タケオったら。まったくぼけっとしちゃって。酔っ払ってるんじゃねーのか」
 祐介、お前にだけはその言葉、言われたくないよ。
「まあいいや、最後はお前の近況を聞こうじゃないの」
 なるほど、そういや俺だけまだだった。しかし、これだけしっかりと人生を歩んでいる二人のあとに、まだ何も掴めてない俺が話すのは結構プレッシャーだった。どうしよう、役者は全然売れてないしラーメン屋はバイトだし。しかし今やってることだから、俺はとにかくありのままの現状を二人に伝えようと思った。一度しか会わない相手ならばともかく、よく知ってる間柄だ。今更格好つけてもしょうがないし、というか、もともとそんなことの出来るキャラでもない。二人に比べて自分の人生が負けてる気がしたが、スギウラさんとの合言葉、
「今で出来ることをとにかくやる」
 が俺の心を後押しした。
「俺は、相変わらず役者をやってるよ。でも役者の方じゃ全然食えてないけどね。あと俺が入ってる小さな劇団には、それこそ夢だとか希望に満ち溢れて目がキラキラしてる二十歳くらいの連中が中心になってきたな。劇団を作った時はみんなが俺と同じくらいの歳だったんだけど、1人辞め2人辞め、今じゃ最年長の30歳の人についで2番目におっさんだよ」
 俺がおっさんと言ったので、二人とも軽く笑った。祐介も藍も俺の話に真剣に耳を傾けてくれてる。
「二十歳か、あのころってなぜかギラギラしてたよな。天下取ってやるぜー、みたいな感じで。取れるわけねえっつーの。で、次第に現実を知るっていうか、世間と折り合いをつけていくんだ。まあ、それがいいことか悪いことかわからんけど」
「とげとげしいものがとれて、みんな丸くなっていくよね」
 祐介の言葉に、藍が返した。確かに、劇団の若い連中が居酒屋で繰り広げてるような大激論には、到底参加する気になれない。意見の相違などで口喧嘩する彼らを見てると、よくもまあそんなエネルギーがあるものだなあと、なんとなく眺めている。
「で、ラーメン屋は順調なのか」
「順調。藍にはまだ話してないけど、役者の仕事だけじゃ当然生活出来ないから、夜はラーメン屋のバイトをやってる。週5回でね。いい店だよ、本当に。なにより、人がいい。普段は夜の8時から早朝5時くらいまで出てるんだけど、夜働いてる人たち、みんなすげえいい人。ただ芸人とか旅人とか、みんななんかやってる。だからラーメン屋を本業にしてる人はいないね。まあ俺もとりあえず役者だし。で、たまに昼番の人が休んだりするとそっちに回されることがあるかな。でも昼にはさ、店を立ち上げた人、つまり店主とかが働いてるんだけど、その店主もすげえいい人で、他の人もみんないい人。昼も夜もいい人たちで、だから人間関係には本当に恵まれたな。あ、あと仕事自体も面白いよ、やりがいあって」
「そーなんだあ。私もさっき言ったけど、人がいいって本当大事なことだよね。そんないいお店で働けて、このまま役者やめてラーメン屋さんで働いて行こうかなとか思ったりはしない?」
 藍に言われた。実際それは何度も思ったことだった。役者から身を引き、坪田店長の元で修行する…。そんな人生もありかなって。けどそんな時思い出すのは上京した目的だった。10年前、勢いにまかせて故郷を飛び出したのは、ラーメン屋を開業するためじゃなく、「寅さん」みたいな役者になりたかったからだ。だがその思いも今となっては風前の灯、もはや消えかかっていた。だから俺は藍の問いに対し、
「ラーメン屋になるっていう選択肢も考えたことはあったけどね。ていうか、今も時々考える。ただ俺はもう少し役者を頑張ってみるよ」
「そっかあ。うん、応援することしかできないけど、タケオ君がいい方向に行くと嬉しいな」
 そう言って、藍はじっと俺の目を見てくれた。ありがとう藍、俺は思わずそのつぶらな瞳に吸い込まれそうになったが、ぐっとこらえた。そして祐介はというと、泥酔してもはや半分眠っていた。おいおい、俺の話途中で寝るなよ。
「大丈夫?祐介君。明日も仕事でしょ」
「ダイジョブダイジョブ、祐介のことは心配しなくて。明日になればまたケロっとした顔して仕事してるだろうから」
「ふーん、強いんだね」
 藍が、祐介の酒の強さを言ったのか、それとも意思とかの精神面を言ったのかよく分からなかったけど、どちらにせよとりあえず頷いておいた。それからチラッと時計を見たら12時前になっていた。
「じゃあ今日はこのへんにしておくか。祐介もほとんど寝てるし」
 3人の終電時間まではもう少し余裕があったが、俺らは帰ることにした。泥酔してほぼ寝てる祐介を起こして。それから勘定は、祐介が2軒目はほとんど自分が飲んでたからヤツが全部払うと言ったが、それでは俺の立場がないので、自分も払うと言った。藍に千円だけ払ってもらい、残りを俺ら二人で割った。
 帰りは3人とも別方向だった。したがってそれぞれが違う電車に乗ることになる。店ではほとんど寝ていた祐介も、帰り道はしっかりとした足取りだった。やっぱ、つえーな。もう多分明日の仕事のことでも考えてるのかな。それとも、子供の寝顔かな。
「風が気持ちいいね」
 藍は先ほどにも同じことを言った。確かに、さっきといい今といい今日の夜風は最高だった。

「また絶対会おうね」
「おう」
「もちろん」
 藍が言った約束に、2人とも短い言葉で返した。楽しかった時間が終わるのが、きっとみんな寂しくてたまらなかったのだろう。帰り道は、自然と言葉数が減った。
 藍が最初に、改札口を通って電車に乗った。藍は別れ際、小走りになりながら何度も何度も振り返って俺らに手を振った。俺はその姿を見てたまらなく愛おしく、そして切なくなった。東京に出てきてから俺は、スギウラさんやオオハシのようにモテたわけじゃなかったが、彼女がいたことも何度かあった。けどいつも頭の片隅には藍がいて片時でさえも忘れたことはなかった。少し重いけど、本当にそう思っていた。だからといって、上京してから俺が藍にコンタクトを取ろうと思ったことはなかった。ただの一度も。しかし今日久しぶりに会ってみて、まだ自分が藍のことを好きなんだと感じた。そう思わざるをえなかった。藍はあの頃と変わることなく、だけどあの頃よりもっとキレイになっていた。まあ簡単に言うと、顔から声まで、すべてが俺のど真ん中に入るんだ、藍は。もちろん性格も。何もかもが俺の中では最高かつ、理想。ただ俺は、去っていく藍の後ろ姿をボーゼンと眺めるしか、手立てはなかった。

 そんな俺の気持ちを見透かしたように、祐介が言った。
「まあこれでお別れってわけじゃないんだし。藍も言ってたろう、『また会おう』って。だから安心しろよタケオ。俺もまたこの3人で会いたいよ」
 そう言って祐介は自分の改札へ向かった。別れ際に祐介は俺の肩に軽くパンチをした。そして「またな」と一言だけ残して去っていった。男同士がバイバイするときは、だいたいこんなもんだ。互いになんとなく照れ臭くって、簡単な言葉を残して去っていく。外国人みたいに熱い抱擁をするなんて、まずあり得ない。たとえ心の中は熱くっても。今夜の祐介もそんな風にして、静かに帰っていった。

 俺は帰りの電車に乗った。車内は酔客が多かった。つり革に掴まってこっくりこっくりしているスーツ姿の人や椅子の端っこで完全に寝ているOLっぽい人など様々だ。彼らは自分が降りる駅になったら目を覚ますのだろうか。それとも終点までそのまんま寝てるんだろうか。それで駅員さんに起こされるのかな。まあ、ほぼ泥酔したことがない俺にとっては、終電まで眠ってるなんて失態は犯しっこないけど。
 俺はほろ酔い気分だった。そしてドアの端っこに立ち、外の景色を眺めた。夜12時ということもあって、外はだいぶ暗かった。それもそうだろう、こんな時間ともなれば普通の家は寝てるはずだ。俺はまだ明かりの点いてる家や遠くの方に見えるコンビニの光を見て、こんな遅くまでご苦労様などというわけの分からないねぎらいの気持ちを抱いた。そして、今日のことを思い出した。楽しかったな、本当。二人とも大人になってたけど、そのまんまのところはそのまんまだったな。特に祐介は小1の時に出会ってからほとんど変わってない気がした。でもそれは、祐介だって会社での顔とか家での顔とかがあるだろう。俺だって演技中の自分とラーメン屋の自分は全然違う。違って当たり前だ。しかし、なにより今日3人が集まって「地元の顔」に戻れたことがすごく嬉しい。
 そして祐介はまた会えると言っていたが、俺は今日のように集まれることはもうないんじゃないかと思っていた。なんとなくでしかないがそういう予感がした。さっき藍が改札を抜けた後、何度も振り返って俺らに手を振ってる姿を思い返した。多分、藍とはもう会えなくなるんじゃないか。俺はあの時の彼女を見て、そんな予感めいたものを感じた。そして俺は電車の外を見ながら、不覚にも目に涙を溜めてしまった。いかんいかん。俺は必死に、涙がこぼれ落ちないようにした。

 次の夜、バイトだった。俺は昨晩藍と別れてから、藍の顔ばかりが頭に浮かんだ。そしてそれは、バイト中も。俺は心ここにあらずという感じだった。当然のごとくスギウラさんに突っ込まれた。
「タケオどうしたんだよ、そんなにボケっとしちゃって。まあ言わなくてもわかるけどな」
 嬉しそうだ。なんせスギウラさんやオオハシには一週間ずっとからかわれて来たんだから。
「で、どうだったんだ」
「なんつーか、最高でした。さらに可愛くなってて、ぐっと大人っぽくなってて」
「んなこたあ聞いてねーんだよ。とりあえずあのラッセル車みたい突進は見せなかったか」
 スギウラさんは「やから」みたいな感じで、なにがなんでも聞き出してやるという姿勢を示した。
「はい、まあ」
「よし。そんで次の約束は取り付けたのか」
「いや、それはまだ。ていうかもう会えないかもしんないです。これは俺の完全な推測っすけど」
「なんで」
 スギウラさんの顔が急に不満気になった。この人はこういう話が大好きなのだ。そして、俺の恋の行方を本気で心配している。俺は昨晩の出来事や、帰り際に感じた「予感めいたもの」をかいつまんで話した。スギウラさんは顎をひと撫でして、少し考えた後に言った。
「要するに、タケオの予感ではもう会えないんじゃないかと」
 俺は頷いて「ええ」とか「まあ」とかとりあえず肯定の言葉を返した。スギウラさんは、
「じゃ、まだ全然会えるって。祐介クンに頼んで3人で会ってもいいし、お前から軽く『飯いこう』って言えばいいよ。だって地元の友達だろ」
 そういった後にスギウラさんは少し、遠い目をした。きっと地元の仲良かった友達の顔でも浮かんでるのだろう。もしくは楽しい思い出でも。スギウラさんはもう15年くらい故郷に帰ってないそうだ。15年。いくら俺でも数年前に帰ったし、15年地元に帰らないという感覚は想像もつかなかった。そういえば以前に一度だけ聞いたことがあるが、スギウラさんの実家は結構な金持ちらしい。親父さんはもともと建設業をやっていて、一代で社長になったそうだ。建設業の他にもスーパーのオーナーとか駐車場の管理とか、まあ色々やっていて、家は有名な大工さんに建てさせた3階建て。とにかく地域でも相当デカイ家だという。それで、親父さんはスギウラさんを2代目にさせたかった。ちなみにスギウラさんは長男で、妹と弟がいるらしい。で、15年ほど前、この人は東京に来ることに決めたそうだ。スギウラさんを二代目にしようと思っていた親父さんは、それこそ怒り狂ったらしい。

 スギウラさんが上京する前の夜、親父さんは帰ってこなかったそうだ。おおかた近所の飲み屋でやけ酒でも飲んでるか、友達の家でも泊まってるんだろうと思って、スギウラさん一家も寝床についた。そして翌朝、スギウラさんが東京へ経とうとしたら親父さんが仁王立ちして、
「東京行って、俺はよく分からんが『笑い』を好きなだけやってこい。ただし、中途半端な気持ちでやるなよ。とりあえず売れるか、全力でやって売れなかったら諦めて帰ってこい。それまでは、家の敷居をまたがせん」
 そういって親父さんは玄関から出て行ったそうだ。つまりスギウラさんは勘当同然で家を出て来たそうである。親父さんにとってみれば「笑い」を仕事にしてるのは「ビートたけし」くらいしか知らなく、まったく未知の世界だったそうだ。そこに息子が挑戦する、しかも約束されてる2代目社長という肩書きを蹴ってまで。その話を聞かされた時はパニック状態になったかもしれない。上京前夜、親父さんが家を出て行ってなにをしていたか、俺はもちろんスギウラさんもいまだに分からないそうだ。だが、きっと親父さんは一晩中考えていたのだろう。「笑い」について、そして東京へ出て行く息子について。そして、親父さんが出した答えが「玄関で一言かける」んだったんじゃなかろうか。
 まあとにかく、勘当同然で出てきたんだから、そう簡単には帰れないだろう。ちなみに俺が役者を目指して東京に行くって言った時、母親はおろか父親までもが口を揃えて、
「あ、そう。まあとりあえず行ってらっしゃい」
 と、まるで近所のスーパーへ買い物に送り出すような気楽さだった。まあ、その方がこっちも随分と気が楽だったけど。これが、
「まあ大変!私たちの子が東京へ行ってしまうのよ。オイオイオイ(号泣)これから私たちはどうすればいいの。オイオイオイ(号泣)ねえ、あなた。オイオイオイ(大号泣)」
 なんて感動的な家族だったら家を出るのも逆に苦労するだろう。アッサリしていたのは、本当に出やすかった。

 話がだいぶズレてしまったが、「藍」のことだ。スギウラさんは色々考えてくれたが、
「まあいずれにしても、もう一回会わないことには話が進まないよな。2人であれ3人であれ。だって彼氏がいるかも知らねーんだろ」
 そうなんだ。あれだけ長い時間を共有して地元の話や現状を語り合ったにもかかわらず、藍に彼氏がいるのかどうか一切聞かなかったんだ。祐介の家族の話は聞いたけど。俺は自分の詰めの甘さを恥じた。それから、おそるおそるスギウラさんに聞いた。
「やっぱり彼氏がいるといないとじゃ動き方変わって来ますかね」
「そりゃそーだよ。そのコに彼氏がいた場合、送るメール一つにしたってだいぶ気を遣うからな。しかも諦めることも視野に入れなきゃなんないだろ。まあそう悲観するなって。諦めるのはサイアクの場合だよ」
 そのサイアクの状況を俺は想定した。俺が感じた「予感」の正体はまさしく彼氏かもしれない。待てよ、俺らも27歳だ。藍が結婚してたっておかしくはない年齢だ。祐介だって結婚してるし、ていうか子供もいるし。まあ藍にその心配はないか。だって指輪してなかったから。そもそも和食の修行を始めたばかりの彼女が結婚など。いや待てよ、藍はいずれ小料理屋さんをやりたいと言ってたな。その小料理屋さんというのが、つまりは藍の旦那さん(いるとしたら)と二人で切り盛りしていこうというんじゃないか。そう考えると合点がいく。薬指に指輪をはめてないのも料理の修行をしているからなんじゃないか。ああ、やっぱり藍は結婚しているのかもな。俺は悪い妄想をどんどんと膨らませた。またしても自分の悪い癖である熟考が出てしまった。どうして祐介みたいにズバッズバッと素早く動けないのか。たんに頭の回転の速さの違いだろうか。まあ、それが必ずしも正解とは思わないけど、時々羨ましくなるのは事実だ。そして、熟考していく俺をスギウラさんが止めた。 
「タケオ、タケオ。お前また悪い妄想膨らませてただろ。顔に影がさしてたぞ」
 さすがにスギウラさんはお見通しだった。俺が悪いことを考え出すと、「顔が曇る」とか「顔に影がさす」らしい。要は気持ちが顔に出やすいタイプなのだ。10代とか20代はじめに比べればだいぶ直したつもりだったが、まだまだらしい。
俺はすかさず、
「そんなことないっすよ。ちょっと他のこと考えてただけです」
 そう言って否定した。この悪い妄想が、杞憂に終わればいいと思った。スギウラさんは俺を軽く励ました。本当に軽ーく。
 そして、入り口を見た。今日は、すごい雨が降っている。
「雨がすげーなあ。今日は、お客さんもあんま来ないだろうなあ」
 スギウラさんの言う通り、雨の日は客の入りが少ない。特にこんな激しい雨の日は、なおさら。店のドアはいつも半分くらい空けてある。だからこういう日はビシャビシャと、雨音が店内に聞こえて来る。ところでドシャブリの日には、いつも小学校の帰り道を思い出してしまう。

 俺はいつも祐介と一緒に帰ったものだ。雨でも傘をさしながら。ところがなにせ雨がすごい時に傘はほとんど役に立たず、二人は次第に肩から足からずぶ濡れになった。そして俺らは傘を閉じて、全身ビショビショになりながら帰った。その後、木を蹴飛ばして葉っぱから落ちてくる水滴を浴びたり、膝ほどもあるような水たまりに思いっきり飛び込んだりして、帰るころには身体中泥んこになって母親にこっぴどく叱られたりした。ただ、最初は奇声をあげて怒っていた母親も、雨が降る度にそんな様子だから、途中で白旗をあげ、怒らなくなった。別に母親への反抗心から泥だらけになってたわけじゃないが、ドシャブリになると自然とテンションが高くなってしまい、そうして俺らは傘を閉じ帰り道の水遊びに興じるのであった。ラーメン屋から見える激しい雨を見てると、そんな風に小学校時代の記憶が蘇ってくるのだった。雨の道を歩いていると、大人になった今でも水たまりを見て飛び込みたい衝動に駆られることがある。もちろんそんなことはしないが。まず穿いてるズボンが濡れることを考え、それから靴がビショビショになることを考える。そうなったら、相当に面倒だと想像する。大人となった現在では、そういう風に考える想像力であるとかここで水たまりに飛び込むのは完全におかしいヤツと見られるという理性のようなものが勝る。だが子ども時代は、
「そこに面白そうなものがある。じゃあやろう、後のことなど考えずに」
という風に動いてた気がする。本能にまかせて。まあ大人になっても理性のカケラもないヤツは、「よっぽどの天才」か「危険なヤツ」だけど。
「それにしてもヒマっすねえ」
こんな日に客はほとんど来ない。たまに1、2人来る程度だ。まあ忙しい時はそれこそてんてこまいになるし、こういうヒマな日もたまには悪くない。俺は店の庇の前まで行き、雨に濡れないようにしながら外を見た。時刻は夜12時を過ぎている。店は駅から少し離れた、大通りではないが一応主要な通り沿いにあった。駅前ではないのでうるさい酔っ払いもいない。だから大体、店の周辺は静かだ。こんな夜は特に。外は、激しい雨音だけが聞こえていた。こんな風に店がよっぽどヒマな時は閉店時間の5時よりも、少し早く店を閉めるようにしている。坪田店長からもそのように言われていたし、店を無駄に開けていても客が来るはずがないことは分かっていた。そんなわけで俺とスギウラさんは4時に閉店の準備を始めた。

 閉店の準備を順調に進めていた時に、1人の客が入ってきた。その客は真っ赤なシャツを着て、傘も持たずにびしょ濡れだった。そしてその客の大きな特徴は、とんでもなく体がデカイということだった。ラーメンなど軽く2、3杯は食いそうだった。そしてそのびしょ濡れの、真っ赤なシャツの、とんでもなくデカイ客は俺たちを見るやいなや、
「まだ開いとるか。もう、閉店か?」
 と聞いてきた。通常だとこれだけ空いてる日には、1人とか2人とか客が来ても追い返すことがある。まあ大抵は、
「あれ、確か5時までじゃなかったっけえ」
 と呟きながら帰っていくが。ところが今日の客はラーメンが食いたくてたまらないっていう顔をしていた。身体中を雨に濡らしながら。スギウラさんはその客を通した。その迫力に気圧されたのか、びしょ濡れになってまで来た客にラーメンを食わしてやりたいと思ったかは分からなかったが、スギウラさんはその客をカウンターに座らせ、
「少々お待ちください」
 と言った。
 普通、閉店の準備を始めたら俺らは颯爽と椅子をカウンターに上げ、床の掃除などをするのだが客が1人入って来たことによって、俺らは手を止めた。そのびしょ濡れの客は1番奥に座り、カウンターでラーメンを作るスギウラさんを見ながら水を何杯も飲んだ。その視線はラーメン屋に来る客によくありがちな「素人のくせに評論家気取り」な感じでは全然なかった。つまりそういう客は大抵「どういうスープを使ってるんだ」とか「湯切りはちゃんとしているのか」などと、ろくに分かりもしないくせにじっと見てくる。そして食べる前に写真を一枚パシャリとやる。どうやらそういう客の多くはよくあるグルメサイトに自分なりの評論をするそうだ。ろくに分かりもしないくせに、大笑いだ。で、話を戻すがその客の視線は評論家気取りとはマッタク違った。ただ単に一刻も早くそのラーメンにがっつきたいという純粋な目でスギウラさんが調理する様子を眺めていた。よっぽど空腹なのだろう。その客は既に箸を掴み、臨戦態勢を整えていた。
 しかしその客が注文したラーメンは「普通盛り」だった。大丈夫か、普通盛りで。この人で普通盛りはまず足らないだろう。そうしてしばらくするとラーメンが完成した。ところが、スギウラさんが持ってる丼には普通盛りではなく、どう考えても特盛りはありそうなラーメンが入っていた。
「どうぞ」
 そう言ってスギウラさんは客の前に特盛りのラーメンを差し出した。しかもチャーシューも3、4枚入ってる。びしょ濡れの、真っ赤なシャツを着た客は一瞬戸惑った。自分の注文が間違いだったんじゃないかと。
「サービスです。気の済むまで、食べてください」
 スギウラさんは言った。もちろんいつもはそんなサービスなどしない。バイトだからといって俺らもこの店で一生懸命働いてる。もちろんプライドだってある。そしてなにより、坪田店長に迷惑のかかることはしたくない。だからいつもはそんなことはしなかった。だがスギウラさんは普通盛りを特盛りにした。まるで、とことん食えと言ってるかのごとく。
サービスという言葉を聞いて安心したのか、その人は、
「ありがとう。じゃあ、いただきます」
 と言って、目の前の丼に覆いかぶさるようにした。そして特盛りのラーメンを物凄いスピードで平らげた。それはもう、野獣という表現が相応しかった。
「ごちそうさま。本当に本当に美味かった。」
 と言ってその人は空腹が満たされ、ほっこりした顔をしていた。それから自分がレスラーであることや、本業のレスラーじゃまだまだ全然食えないので練習のない夜の時間帯に警備員のバイトをしていることを俺ら2人にどちらともなく語った。そしてその客は、
「よっこらしょ」
 と立ち上がり大きな体を土砂降りの雨に降られながら帰って行った。帰る時に俺らに握手を求めた。そのレスラーの手はとんでもなく大きく、そして彼の握力はものすごく強くて握手は死ぬほど痛かった。俺はその際、会ったことのないフィリピン人のジョーイを思い出した。 
 体のでかいびしょ濡れレスラーが帰り、俺とスギウラさんは間もなく店を閉めた。
「いやあ、しかし面白いお客さんでしたね」
「ホントだよ。手が痛くてたまらなかったよ。しかしあれだけ体がデカくてもレスラーとして食えないんだな。あれだな、よく分からないけどさらに上がいるんだろーな」
 本当だ。さっきの男のレスラーとしてのレベルは俺らにわかるわけもないけど、とりあえずレスリングじゃ食えないからバイトしてるって言ってたもんな。まあ役者にせよお笑いにせよそれだけで食うのは本当に難しいことだ。どんなジャンルにせよ、夢とか目的とかで食っていくってことの難しさは多少なりとも理解してるつもりだが、実際にそれを仕事にしているってのはそれはそれで厳しいのだろうな。プレッシャーとか売れ続けることの大変さとか。俺がさっきのレスラーになんとなく自分の心をダブらせたのと同じように、スギウラさんも多分、感情移入していたのだろう。そうして激しい雨の1日は終わった。最後にレスラーという珍しい客を迎えて。

 「実家に帰ることになったよ」
 翌日オオハシから突然そう言われた。ヤツによると、親父さんが倒れて、急遽帰ることになったそうだ。オオハシの実家はスギウラさんのように自営ではない。ヤツの親父さんは普通の会社員ということだ。
「じゃ、また戻って来るんだろ?」
 俺は聞いた。倒れたという親父さんのことも心配だったが、もしオオハシがこのまま帰って会えなくなるのは嫌だった。オオハシとは同じ年齢で気も合った。いわば、東京のよき友達である。
「いや、残念だけど店辞めて、完全に帰ることにした。向こうで就職するよ。いよいよ俺も身を落ち着けて働くかな。まあ30くらいまでは旅をしたかったんだけどね」
 オオハシの実家は90過ぎのおばあちゃんがいる。そして倒れた親父さんとお母さん、さらに地元で結婚して近くに住んでいる妹がいるらしい。そのおばあちゃん、そして親父さんを看病するため、オオハシは帰郷する決意をした。オオハシは実家に帰ることに対して、もう覚悟というか気持ちの整理が出来ているらしい。
 ただ旅にたいしてはやっぱり心残りがあるらしく、もう少し色んな場所を周りたかったと残念そうに語った。そして俺やスギウラさんとの別れも、寂しいと言った。
「この夜のバイトは本当に楽しかったからなあ。お前やスギウラさんと会えなくなるのはやっぱり、寂しいよ」
 そう言った後、オオハシはすぐに大好きな寅さんの真似をしておどけてみせた。すかさず俺も、寅さんになり切った。お互いに寂しい気持ちだったが、これ以上その気持ちをおおっぴらに出すのは恥ずかしかった。オオハシとこれで会えなくなる。しょうがないけど現実を受け止めるしかなかった。
「夏になったら必ず帰ってくるあのツバクロさえも、なにかを境にピッタリと帰ってこなくなることもあるんだぜ。あばよ!」
 去り際、オオハシは寅さんのセリフを真似た。そして間もなくヤツは帰って行った。別れの報告をしてから一週間も経たぬうちに。おそらく、親父さんの体調がそんなに良くないのだろう。さらばオオハシ、達者でな。もう会えることはないかもしれないけど、お前の幸せを願っている。こういうものなんだろうな。月並みだけど人には出会いと別れがある。そしてそれは大抵の場合、人間の力にはどうすることも出来ないんだよな。運命かなにかが左右するのかもしれない。まあ、よく分からないし分かりたくもないけど。

 オオハシが店を去り、坪田店長はすぐさま夜のスタッフに求人を出した。「急募」と入れて。新しく入ってくるのは、どんな人間だろう。とりあえずいいヤツで、なおかつ面白いといいな。この店は、本当に人に恵まれてきたからな。年上かな、年下かな。そんな風に俺は、新人が入るまで色々考えた。そして募集の広告を出してすぐ、新人スタッフが入ることになった。早い。多分坪田店長は俺の時と同じように、明日から来て欲しいと言ったのだろう。オオハシが辞めてまだ一週間足らずだ。まあ、そういうものだ。1人が辞め、新しい1人が加わる。それが、普通のことだ。

 そして新人がうちのラーメン屋に加わった。彼は19歳と店で一番の若手で、名を「モリタ」といった。モリタくんは初出勤の時、
「どうぞ宜しくお願いします!」
 と、少し緊張しながらそう言った。なんだか真面目そうだな。にしても、19歳とは随分若い。うちの劇団の若い連中くらいだな。彼らとは最近年齢のギャップを感じてるからな。俺はこのモリタくんと上手くやっていけるだろうか、少し不安だな。などという俺の不安は杞憂に終わった。モリタくんはとても面白いヤツだった。というか、いい意味で変わっていた。まずモノマネが上手かった。俺らが知ってる芸能人はもちろん、入って数日で俺やらスギウラさんといった、店の全員(昼番も)のしゃべり方を真似ていた。長いこと一緒にいればともかく、どうやって昼の人たちの特徴を掴んだかっていうと、
「昼と夜が勤務交代する夜8時前後に口癖なんかを盗み出す」
 のだそうだ。その時間は少しだけど昼出勤の人としゃべる。仕事の件などで。その短時間でモリタくんは昼間の人の特徴を調べた、という。そしてその特徴を掴んで披露するモノマネは、いつも似ていた。またモリタくんは店に来る客の真似もする。もちろんその客が帰ったあと、もしくは客に聞こえないようにやるが。
 いずれにせよモリタくんはしっかりとオオハシの穴を埋めるに相応しいほど、俺を楽しませ笑わせてくれた。当然ながらオオハシが脱けた寂しさは、俺の中で多少引きずった。オオハシがいないと、
「もうここにヤツはいないのか」
 なんてことを思ったりした。しかしモリタくんの人間性とかモノマネが少しずつながらオオハシの去った俺の寂しい気分をほぐしていった。店は問題なく人の移り変わりに成功し、俺はモリタくんの人柄の良さにほっと胸をなでおろした。このモノマネ上手のモリタくんは別にモノマネ芸人を目指しているわけではなかった。たんに趣味だという。モリタくんは、
「小説を書いてます。休みの日とかにパソコンの前でカタカタやってますよ」
 と言った。普段モノマネをして俺らを笑わせてる彼が自分の部屋で静かに読書をしたり小説を書いてる姿は想像が出来なかったが、
「普段のぼくは物静かなんですよ」
 などと言った。物静か?お前が?小説家を目指すよりもモノマネ芸人になった方がいーんじゃねえか。まあモリタくんの進路に俺が口出すつもりはないが、彼のモノマネは俺の思う限りプロ級だった。
 そんな小説家志望兼モノマネ上手のモリタくんが店に入ったことにより、夜の店には新しい風が吹き込まれた。本が好きなスギウラさんも、モリタくんと会話をよくしていた。
「〜の本いいよね」
「サイコーっすね。けど誰々の何々も…」
 など、盛り上がった話をしているのだが、あまり読書をしない俺にとっては、彼らの会話の内容がまるで分からなかった。坪田店長も新人のモリタくんが俺やスギウラさんとうまくやっていることに安心したようだ。

 その日はバイトもなく劇団の活動もないので、俺は買い物がてら久しぶりに自分の街をプラプラと散歩することにした。街を歩く時はいつもラフなジャージかスウェットに、サンダル履きだ。この間藍に会った時はちょっとオシャレにジャケットなどを着ていたが。俺の住む街は安い居酒屋とか八百屋や肉屋などがある。そして俺がいつも行ってる散髪屋がある。そしてどの店も全体的に古い。古いけど、どの店もそれぞれの色があり、味がある。そして俺はそういう店で買い物を済ませ、よく行くところがある。一つの小さな喫茶店だ。肉屋とか魚屋が並ぶ中で、そこは一軒、ポツンと佇んでいる。夕方など買い物に行った帰りに、俺はよくその喫茶店(カフェと格好良く言いたいが、いかにも喫茶店だ)に入り、コーヒーを飲みながら瞑想にふけったりする。店のマスターは意外にも若く、30代中盤くらいの夫婦がやってる。マサミチさんという旦那さんと、チハルさんという奥さん。俺はこの喫茶店で、静かにコーヒーを飲んで帰ることもあれば二人としゃべることもある。大抵、買い物を済ませた後に行く。そしてカウンターの奥が空いてればその席に座る。買い物袋はだいたい足元に置くが店が空いていれば隣の椅子に乗っける。カウンターの奥はもっとも落ち着くのでそこに座りたいが、俺の他にもその席を愛している常連客がいる。俺と同じくらいの年恰好の、ちょっと頭の良さそうなすかしたヤツだ。そしてそいつの服装はジャージやスウェット姿の俺と違い、いつもなんかこじゃれてる。今日、買い物を済ませた俺が店に入っていくと、いた、そいつが。一番奥に座って。(はあ)、俺は心の中でため息をついた。お気に入りの席が取られていたことを残念に思いつつもそいつから3席ほど距離を置いた真ん中へんに、俺は座った。
「ブレンドをお願いします」
 そう俺は注文した。喫茶店には色んな種類の豆があり、最初は色々と頼んでいたが、コーヒーの味の違いがよく分からず、最終的に店で1番安い「ブレンドコーヒー400円」にたどり着いたのだった。一方俺の席を奪った男は毎回「キリマンジャロ550円」を飲んでいた。まあ俺の席を奪ったって言っても、俺だけの店じゃないし。それにしてもキリマンジャロって、味の違い分かるのかな、アイツ。俺にはあまり分からないけどな。その男は店の夫婦ともよく話す。今日は俺もマサミチさんやチハルさんと話したかったのにな。俺はいつものブレンドコーヒーを飲み、店を出た。お金を払う時、チハルさんが小さな声で、
「いつもの奥のカウンター席が埋まっててごめんなさいね」
 と言ってくれた。いえいえ、むしろ気を遣わせちゃってすんません。また来ます。そう心の中で言って、俺は店を後にした。

 喫茶店のドアを開けるとキレイな夕焼け空だった。ここの店を出ると夕暮れであることが多い。俺はその夕焼けが好きだ。決してオシャレではないが古くて温かい街並み、その街並みに空の色がマッチしていてそれが大好きである。初めてその美しさに触れた時、俺は感動して不覚にも涙ぐんだことを覚えている。今日もキレイな空だ。俺は買い物袋を両手に提げて歩き出した。喫茶店の通りから少し歩くと小さな、本当に小さな川が流れている。もちろん田舎にあるようなキレイなものではない。周りに草花は咲いてないし水も濁ってる。だがその川も好きだ。東京に出て来てからずっとこの街で暮らしてきた。上京したばかりのころ、なぜかいつもその小さな川に行き、流れる水をぼんやりと見ながらタバコを吸ったものだった。当時はどこに行ってもタバコが吸えたし買えたので、俺も普通の喫煙者だった。しかし近年過熱する禁煙ブームにより、というより、たんにタバコが高くなったのでやめるに至った。それだけの話だ。タバコを吸うよりもやめて他のことに金を費やそう、そう思っただけのこと。決して今も喫煙してる人のことを悪く言うつもりはない。ところが最近の傾向として「タバコ=悪」だと言うヤツが増えている。禁煙した途端「タバコは良くない」とか言ってる大人に遭遇する。そういう人間こそ、ついこの間まで中毒のようなスモーカーだったくせに。急に自分の意見を覆すんだ。まったくもって笑ってしまうね。

 まあ上京したてのころはよくそうやって川を見ながらタバコを吸ってた。だからこの街にも川にも、もうずっと住んでいる俺の生活臭のようなものが染み付いていて、必然的にこの街に対する「愛着」があった。だから買い物などに出る時、ジャージのようなリラックスした格好をして行くんだ。
 以前に俺が半年くらい失業していて家賃を滞納したことがあった。大家さんは心優しいおじいちゃんで、2、3ヶ月の滞納くらいならいつも待ってくれていた。ところが半年だ。おじいちゃんは本来なら大きな態度に出てもいいところを、俺の家のドアを静かにノックしてやってきた。
「いや、忙しいところ済まないねえ」
 全然忙しくないっすよ。失業中だし。いまもボケーッとしてました。本心はそうだが俺はか細い声で、
「ええ、まあ」
などと呟いた。外は雨が降っていたので、
「とりあえず中入りますか。お茶いれますよ」
 と俺は一応の礼儀を見せた。ところがおじいちゃんは俺の部屋に入るのを断ってこう言った。
「あの、非常に申し上げにくいんだけど、家賃がね、もう半年滞ってるんだよね。だから、全部とは言わないまでも、返してもらいたいなと思って」
 そう言うおじいちゃんは、まるでテストで悪い点数を取って親に叱られてる子供のように申し訳なさそうだった。そんなおじいちゃんを見て俺は、
「返します返します!明日というわけにはいかないけど、必ず返します」
 と宣言した。家賃を回収に来たおじいちゃんの申し訳なさそうな姿に少なからず良心が傷んだのも事実だが、半年の滞納はさすがにマズイと思い、できる限り給料のいいバイトをして家賃を無事に返済した。そして今も大好きなこの街に、このアパートに住み続けている。さらにバイトとはいえラーメン屋で安定した収入を得ているので、最近は滅多に家賃は滞納していない。今日も夕焼け空を見て、そして夜が来る。10月も終わりを迎えようとしている、そんな秋も深くなりかけたころのことであった。

 その夜、藍から電話があった。祐介と3人で久しぶりに会ったあの日から3週間と少し経っていた。俺は藍から電話が来た喜びよりも、むしろ不安の方が勝っていた。つまり俺の「予感めいたもの」が脳裏をよぎり、急に心臓の鼓動が高鳴った。何か、ある。そう確信せずにはいられなかった。
「もしもし」
「タケオ君、元気?今、大丈夫かな」
 今月始め以来だからそんなでもないけど、藍の声はとても久しぶりに思えた。そしてやっぱり耳に心地よかった。俺らは他愛のない話を少しした。この間会ったことや地元のこと、など。そして俺の方から藍に聞いた。
「で、どーした。何か用事があって電話したんだろ?」
「うん、用事ってほどのことでもないんだけど。大丈夫、またかけるね」
 そう言って藍は電話を切った。俺がまだ電話に耳を当ててると「ツーツー」と寂しげな音が聞こえてきた。俺は軽くため息をして電話を切った。藍がどうして電話をかけてきたのか、と考えた。ただ俺の声が聞きたかったからという理由なら嬉しいのだがあの様子からして、残念ながらそれは考えにくかった。とにかくいずれ分かるであろう。そしてそれは、そんな先の話じゃないだろう。はっきりとしたことは言えないが、切り際に藍が言った「またかける」というのは、なにか伝えたいことがあるに違いない。それがどんな用件であるにせよ、俺は藍からの連絡を待つことにした。

 「旅行に行こう!紅葉とか温泉を満喫しよう!」
 そう坪田店長は嬉しそうに言った。11月の始めころ、一泊二日で行くとのことだった。新しく入ったモリタくんの歓迎会も兼ねてという口実も含まれてるらしいが、結局は旅行に行くことが99%を占めてるんだろうなと思った。スギウラさんの話だと坪田店長はテレビで紅葉の特集を見て、即今回の企画を決めたらしい。決断力の早さと実行力では祐介か坪田店長かというくらいだな。おそらく今回の旅行計画も瞬間的に決めたに違いない。いずれにせよ楽しみだ。場所は栃木の山の中だそうで店は丸二日休みにするとのこと。東京に来てしばらく緑豊かな景色から離れていた俺も、思いっきり自然を満喫しようと思った。それから間もなく、我が店は一泊二日の旅行に出発した。オオハシも来たかったろうなと、俺は故郷へ帰っていった友のことを思い出した。

 そして旅行当日、朝7時に出発した。夜勤組にはつらい時間だった。行きのバスで昼の組がビールなどを飲みながら既に盛り上がりを見せる中、俺やスギウラさん、モリタくんは爆睡していた。夢うつつにキョウくんがアカペラで熱唱していたのを覚えている。その声を聞きながら、
「キョウくん、めっちゃ頭いいはずなのに酔うと壊れるんだな」
 などと思った。そして俺は再び深い眠りについた。それからバスが目的地の旅館に到着した。俺は隣にいたスギウラさんに叩き起こされた。ちなみにスギウラさんは昼間の連中の加速度的に増していく盛り上がりに耐え切れず、1時間ほど前に目を覚ましたらしい。スギウラさんが目を覚ました時もキョウくんが熱唱していたという。どんだけ歌えば気が済むんだコヤツ。
 ところで俺らが泊まる旅館だが、一見すると寂れて見えた。外観はお世辞にも良いとは言えない、傾いてるんじゃないかとも思うほどだった。しかし中に入ってその心配は見事に覆された。キレイな内装にセンスを感じられる絵や置物、なにより旅館の人たちの態度が素晴らしかった。仲居さんを始めとする皆さんが笑顔でフレンドリーだった。だからといって決して親しすぎず一定の距離を保って俺らに接してくれた。そうした態度は本当に心地よく、坪田店長は店の主人という立場から旅館の人たちの接客態度の良さがとことん気に入ったらしく、
「後であの接客を教えてもらいに行こうかなあ」
 と言っている。実行力のある坪田店長ならやりかねないと思った。

 部屋は和室で、掃除がきちんとされていることが見受けられた。俺が子供のころ家族と友達家族で旅行に行ったことがあり、その時泊まった旅館は、確か結構有名なところだったのだが、態度は悪いしさらに俺らが通された部屋は汚かった。そこかしこが埃まみれで、俺らは重たい荷物を下に置くのも嫌になったほどである。それに比べて今日の旅館の部屋はまさにちりひとつ見当たらないくらい整っていた。そしてお茶と人数分の湯呑み茶碗、さらに饅頭やせんべいといったお茶受けがピシッとテーブルに並べられていた。何事にも当たり外れがある。もちろん宿にも。だがここは「大当たり」だった。また、俺らは6人と少人数なのでよくある会社の社員旅行みたいに宴会部屋、ということはなかった。夜組の3人が昼組の部屋に移動して1つの部屋に6人が集まった。なんともせせこましい感じがするが、なにせ少人数なのでわざわざ大部屋を貸し切りにする必要はない。よって、6畳間での宴会となったわけだ。

 そして晩飯も、やはりというか期待通りというか「当たり」だった。夜6時頃部屋に来た料理を見て、俺は思わずヨダレが出そうになった。
「地元の野菜や魚、そして肉を使ってるんですよ。うちの旅館は大体が地元で採れたものなんです」
 そのように料理を運んできた人は説明した。決して自慢する風でなく滑らかに自然に。そうやって運ばれてきたものはどれもこれもみな美味そうであった。新鮮そうな野菜や、皿に盛られたこれまた新鮮そうな刺身、そしてなんといっても肉、肉、肉。これらの料理は6人じゃ食い切れないだろう、ってほどの量だけあり、俺ら(特に若い連中)はそれを見るだけで興奮していた。最年長の上田さんや坪田店長は料理よりもとにかく酒だった。スギウラさんも料理よりも酒、とにかく酒、という姿勢であった。だから食べ物はあらかた俺、キョウくん、それから新人のモリタくんが食い尽くした。

 俺らはここぞとばかりに料理を食べたあと、3人とも満腹で死にそうだった。3人とも床に倒れこんだ。かたや年長者組はというと、まだペースを落とすことなく飲み続けているようだ。まったくもって信じられなかった。彼らの酒豪っぷりに。とりあえず横になった俺はそのまま眠った。
 目を覚ますと坪田店長と上田さんが大きなイビキをかいて寝ていた。俺が寝たあとも飲み続けていた彼らだが遂に息絶えたようだ。あれからどんだけ飲んだのだろう。俺らが食べ尽くしそのまま倒れこんだのが確か7時半くらいだったはずだ。眠る間際に薄れゆく意識の中で壁掛け時計を見て、その時の針の形を俺はボンヤリと記憶していた。で、今は11時を指している。ってことは俺は3時間以上寝ていたのか。食休みにしては随分と長い睡眠だ。しかしまあ、坪田店長や上田さんが息絶え寝てるのも当たり前だろう。この二人はバスに乗ってる時から飲んでたのだから。バスで爆睡してたスギウラさんはというと、まだ起きていた。真っ暗な部屋で一人、ちびちびとやっている。部屋の電気はみんなが眠っているので、おそらくスギウラさんが消したのだろう。しょうがない、すっかり目も覚めたのでスギウラさんに付き合うことにした。とりあえず俺はムクッと起き上がり声をかけた。
「どうしたんすか、こんな暗い中で」
「おおタケオ、起きたのか。いやみんな寝てるし、明るいと寝れないかと思って。それに静かに飲む酒もいいもんだぜ」
 なるほど。さっきまでどんちゃん騒ぎだったんだ。そのようにして静かに飲むのもまたいいだろうな。
「俺もすっかり目が覚めちゃったんで、加わってもいいっすか」
「もちろん」
 そう言ってスギウラさんは親指を立て、ニヒルに微笑んだ。完全に酔っ払ってる。スギウラさんが酔うと、少し格好つける癖があった。今夜もどうやらその様子だった。
「タケオ、窓から外見てみ。景色いいぜ」
 やはりスギウラさんは格好つけモードに入ってる。多分さっき一人で外の景色をながめて悦にひたっていたのだろう。まあそういや俺も窓の外を見てないことに気付き、言われるがままに窓の方へ向かった。そして意外にも、絶景だった。まず湖が見えた。それは、湖と呼ぶには小さいかもしれない。そう、池だ、とても大きな。その池が窓一面から見えた。そしてその池の水面はなぜかとても明るく輝いていた。俺は空を見上げて、すぐにその正体がなんなのか分かった。今夜は満月だった。そして月の光が水面を照らしていたのだ。とても明るく、キラキラと。夜、池、そして満月の光。それらの条件が重なり、景色をより美しく見せたのだろう。これが昼間だったらここまで感動しただろうか。
「スギウラさん、サイコーっすね」
「だろ。寝てるみんなにも見せたいよ」
「ところで今日、タバコ持ってきてます?」
 スギウラさんは数年前に喫煙をやめたが、酒の席とかに少しだけ吸う。1ミリとか3ミリとか、弱いものを。昔は結構なヘビースモーカーで、1日2箱とか普通に吸っていたらしい。
「あるぜ」
 そう言ってスギウラさんは不敵な笑みを浮かべた。今度はお前が窓の前で悦にひたる時だ、と言わんばかりに。そしてタバコを受け取ると、中に空気が入らないよう窓を少し開け俺は火をつけた。そして自分の世界に入った。さっきスギウラさんのことを格好つけモードに入ってるとバカにしておきながら、今度は自分が窓の外を見つめてひたってしまった。しかも久しぶりのタバコを吸いながらである。久しぶりだったが、美味かった。窓の外の夜景を見ながらという雰囲気もカナリ助長していた、恥ずかしながら。俺はタバコの煙が部屋に入らないよう注意しながら、窓の外に目をやりため息をひとつした。そしてもちろんというか当然のように、藍のことを考えた。藍にもこの景色を見せたいな、藍はまだ起きてるかな、この前の電話で伝えたかったことってなんだったのかな、というか藍の声が聞きたいな、電話したいな、などなど…キラキラ輝く水面に映る月の光に魅了されながらも、俺は藍のことばかり考えていた。そして気がつくと、4本目のタバコへ突入していた。随分長いこと窓辺にいたらしい。窓を開けていたので、うすら寒かった。
「タケオ、もういい加減こっち来いよ。十分だろ。こっち来て飲もうぜ」
 スギウラさんに促され、俺は十分楽しんだ窓辺を後にしてテーブルへと移った。

 ビールはほとんど残ってなかったので、俺は二日酔い覚悟でやむを得ずスギウラさんの飲んでいた日本酒を注いでもらった。壁にかかっている時計は午後11時50分くらいになっていた。そう考えると俺は窓辺に30分から40分もいたのか。随分長いこといたものだなあ。
「お前、景色を見ながら何をそんなに長いこといた?まあ聞かなくても分かるけどさ。どーせあのコのこと考えてたんだろ」
 スギウラさんは当然分かってると言わんばかりだ。お見通しっていうか分かりやすいのかな、俺。
「ええ、まあ」
 などと言って、俺は照れ笑いを見せながら曖昧に頷いた。それからスギウラさんはさらに酒を飲みつつ語り出した。新しく作っているネタやライブの話、いま自分がもっとも面白いと思う芸人の話などをし、それから俺の最近の役者としての活動のことも真剣に聞いてくれた。
「そうかあ。まあ芸人にせよ役者にせよホント厳しい世界だよな。自分が目指したことで食ってくってのは。そういやこの間のレスラーもそうだしな」
 そうだ、この間閉店直前に来たあのカベのようにでかいレスラーだって、確か警備員のバイトしてるって言ってたもんな。まあ、彼はそのバイトに合ってる気がするな。もちろん警備にもいろいろあるだろうけど。たとえば彼が夜のビルを警備してたら泥棒とかはビビって腰抜かすだろうな。そんな風に俺があの夜のことを思い出してたら、スギウラさんは再びしゃべり出した。
「お笑いの世界ってさ、売れてない人でも結構年齢層が高いんだよね。だって40過ぎても小さなライブハウスで活動してる人、大勢 ただ旅にたいしてはやっぱり心残りがあるらしく、もう少し色んな場所を周りたかったと残念そうに語った。そして俺やスギウラさんとの別れも、寂しいと言った。
「この夜のバイトは本当に楽しかったからなあ。お前やスギウラさんと会えなくなるのはやっぱり、寂しいよ」
 そう言った後、オオハシはすぐに大好きな寅さんの真似をしておどけてみせた。すかさず俺も、寅さんになり切った。お互いに寂しい気持ちだったが、これ以上その気持ちをおおっぴらに出すのは恥ずかしかった。オオハシとこれで会えなくなる。しょうがないけど現実を受け止めるしかなかった。
「夏になったら必ず帰ってくるあのツバクロさえも、なにかを境にピッタリと帰ってこなくなることもあるんだぜ。あばよ!」
 去り際、オオハシは寅さんのセリフを真似た。そして間もなくヤツは帰って行った。別れの報告をしてから一週間も経たぬうちに。おそらく、親父さんの体調がそんなに良くないのだろう。さらばオオハシ、達者でな。もう会えることはないかもしれないけど、お前の幸せを願っている。こういうものなんだろうな。月並みだけど人には出会いと別れがある。そしてそれは大抵の場合、人間の力にはどうすることも出来ないんだよな。運命かなにかが左右するのかもしれない。まあ、よく分からないし分かりたくもないけど。

 オオハシが店を去り、坪田店長はすぐさま夜のスタッフに求人を出した。「急募」と入れて。新しく入ってくるのは、どんな人間だろう。とりあえずいいヤツで、なおかつ面白いといいな。この店は、本当に人に恵まれてきたからな。年上かな、年下かな。そんな風に俺は、新人が入るまで色々考えた。そして募集の広告を出してすぐ、新人スタッフが入ることになった。早い。多分坪田店長は俺の時と同じように、明日から来て欲しいと言ったのだろう。オオハシが辞めてまだ一週間足らずだ。まあ、そういうものだ。1人が辞め、新しい1人が加わる。それが、普通のことだ。

 そして新人がうちのラーメン屋に加わった。彼は19歳と店で一番の若手で、名を「モリタ」といった。モリタくんは初出勤の時、
「どうぞ宜しくお願いします!」
 と、少し緊張しながらそう言った。なんだか真面目そうだな。にしても、19歳とは随分若い。うちの劇団の若い連中くらいだな。彼らとは最近年齢のギャップを感じてるからな。俺はこのモリタくんと上手くやっていけるだろうか、少し不安だな。などという俺の不安は杞憂に終わった。モリタくんはとても面白いヤツだった。というか、いい意味で変わっていた。まずモノマネが上手かった。俺らが知ってる芸能人はもちろん、入って数日で俺やらスギウラさんといった、店の全員(昼番も)のしゃべり方を真似ていた。長いこと一緒にいればともかく、どうやって昼の人たちの特徴を掴んだかっていうと、
「昼と夜が勤務交代する夜8時前後に口癖なんかを盗み出す」
 のだそうだ。その時間は少しだけど昼出勤の人としゃべる。仕事の件などで。その短時間でモリタくんは昼間の人の特徴を調べた、という。そしてその特徴を掴んで披露するモノマネは、いつも似ていた。またモリタくんは店に来る客の真似もする。もちろんその客が帰ったあと、もしくは客に聞こえないようにやるが。
 いずれにせよモリタくんはしっかりとオオハシの穴を埋めるに相応しいほど、俺を楽しませ笑わせてくれた。当然ながらオオハシが脱けた寂しさは、俺の中で多少引きずった。オオハシがいないと、
「もうここにヤツはいないのか」
 なんてことを思ったりした。しかしモリタくんの人間性とかモノマネが少しずつながらオオハシの去った俺の寂しい気分をほぐしていった。店は問題なく人の移り変わりに成功し、俺はモリタくんの人柄の良さにほっと胸をなでおろした。このモノマネ上手のモリタくんは別にモノマネ芸人を目指しているわけではなかった。たんに趣味だという。モリタくんは、
「小説を書いてます。休みの日とかにパソコンの前でカタカタやってますよ」
 と言った。普段モノマネをして俺らを笑わせてる彼が自分の部屋で静かに読書をしたり小説を書いてる姿は想像が出来なかったが、


 

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