ここで曲がるんじゃなかったかな――
人混みを避ける最短の迂回ルートとして、たまたま見つけた左手側の曲がり角だった。目指す方向に続いているだろうと見当をつけてとっさに曲がってみたのだが、入り込んだのは思ったより寂しげな路地だったのだ。おまけに五メートルほど先の緩い右カーブを過ぎると、幹線道路からの明るみも途絶えた。急に人いきれの消えた見知らぬ道で、眼前に現れた暗闇は歩を進めるのをためらう程には威圧感がある。一瞬、躊躇はした。けれど、引き返すだけの決定的な理由とまではならず、そのまま先を急ぐことにした。この界隈の地理にそれほど詳しいわけではないが、周辺の大きな通りの位置関係はわかっていて、むしろ前方五十メートル程先には小さくだが街灯が見えていたから。
でもすぐに後悔することになった。街灯が近付くにつれ徐々に、灯りのぼんやりした輪の中に照らされた、何か得体の知れないものの存在を認識せざるを得なくなったのだ。
僕はどうやらそこに見えてはいけないものを見てしまっているらしい。街灯の下には、真っ黒な人影が居るのだ。
数分前。
イベント会場でのバイトが終わり、祭りの縁日で賑わう公園に近付くと、ざわめきに乗って浮ついた空気も流れてくる。夏至が近い六月とはいえ、もうこの時間はすっかり日が落ちて夜である。僕は縁日に来たわけではなく、この公園の向こう側にある小さなギターショップに用があった。翌日のイベントに使うフォークギターの修理がギリギリ間に合った、と連絡が入ったので、急遽引き取りに行くことになったのである。もう閉店の時間は過ぎているが、「しばらくは店内で作業しているから」という気遣いをもらったので急いで向かっている途中だった。
駅前から続く四丁目通りを南下した突き当りの、T字路の向こう側が公園の入口になっていた。いつもは方向を変えずにT字路を渡って、そのまま真っすぐ公園の中を突っ切るのだが、今日は一目見てそれが困難なことがわかった。入口の周囲には既に人が溢れて渋滞している。予想はしていたが、通り抜けるどころか入り込むのも難しそうである。これは迂回するしかない。ギターショップは公園の反対側のやや右方向なので、T字路を右に折れてみることにした。ところが、道路は間もなく緩く右に折れていて、やや逆戻りする方向に向かっていた。青色看板のある次の大きな通りまでもまだ遠い。これは失敗かなと思い始めた時、公園の端を過ぎたあたりで脇道らしきものが目に入ったのである。行けそうだと感じた。これは渡りに船、と喜んだのだが。
ああ、やっぱり曲がるんじゃなかった。
月も見えない暗闇にポツンと灯る灯りの下の黒い影。あまりにそれらしすぎる光景に、呼吸が止まり、全身の毛穴が一斉に開く音が聞こえた気がした。瞬間、踏み出しかけた足が止まる。静かに、ゆっくりと。これ、僕には見えちゃいけないはずだろ? 生まれてから一度だってそんなものは見たことも感じたこともないし、霊感なんてないはずなのに。僕はどうすることもできず固まったままでいた、その間も街灯の下の人影から目を逸らすことができない。
ところが、衝撃が徐々に収まるにつれ、どうやらそれが思ったような「恐いモノ」とは少し違っているような気がし始めた。
変――なのである。
その人影はどうやら黒いマントのような物を羽織り、つばの広い帽子を被った男(?)の後ろ姿のようだった。およそ街中の路上でそうそう出会う類の外観とも思えないが、少なくともこの世の物というか、おそらくは「人間」だった。普通に足が付いて――足?
ほの暗い灯りの下で、膝丈のマントの下に見えていたのは、ガニ股の素足と踵を履きつぶした白っぽいスニーカーだった。街灯の下の男は、電柱の陰に隠れて前方を伺っているようなのだ。こちらには全く気付いていない。更によく見ると、着ているのはマントではなく、トレンチコートのようだ。両手はずっとポケットに突っこんだまま肩をすぼめて、頻繁に体を左右に小刻みに揺らしていた。
挙動不審である。誰がどう見ても変だ。というより、これってもしかして――
その様子は同じ大学の工学部の、とある友人を連想させた。その彼が着ているのは白衣だが、彼は研究室が暑いからという理由で、よくパンツ一丁の上に直に羽織ってキャンパス内をうろついているのだ。そして、時々冗談で「ばぁっ!」と言って両手を広げて白衣の前をはだけさせ、容赦なく飛んでくる罵声を浴びて悦に入る、という妙な趣味を持っていた。もちろん対男友達限定の行為で、当人も心得た上での悪行ではある。間違っても敷地の外でやるなよ、と皆にも念を押されてはいるのだが。
その映像が頭の中で予知夢のように再生された。一瞬、まさかと思ったが、背格好が違うのでその彼ではない。ただ、眼前の黒い人影がこれからどういう動作をするのかは、確信を持って予測できた。こいつは世の女性の敵となる行為を企んでいる良からぬ輩、要するに変質者だ。そして、前方から獲物が来るのを今まさに待っているのである。
しかし――少し冷静になると、見れば見る程、その様子に次々と疑問が湧いて来た。
姿は電柱から完全にはみ出ているし、そんなに動いているし、絶対に気付かれるぞ。だいいち、後ろから誰かが来ることは全く想定していないのか? 実際に僕が来たし、まだ僕が居ることに全然気付く様子もないし。そういえば公園の入口の横に交番があった。今すぐ引き返して通報しておいた方がいいかな、いや、だいたいわざわざ交番のすぐ近くで、このような下劣な行為を企んでいる、というのもどうなんだろう、わざとなのか。
色々な思念が浮かんだが、とりあえず通報だけはしておこうと思った時、はるか前方から嬌声が聞こえた。年頃の女性達と思われる笑い声である。前方暗闇から、縁日の商品と思われるかすかな蛍光色の光とともに、段々こちらに近付いて来る。ああ、運悪く獲物が通りかかろうとしているのだ。黒い影もそれに気づいてまさに身構えている。
今から引き返しては間に合わない。見知らぬ他人とはいえ、女性を相手に卑劣な行為が展開されるのを黙って見逃していいのか。ここで僕の存在を知らしめれば、男は逃げ出す可能性が高いのではないか。つかの間逡巡する。そして――あ、いざとなったら踵を返して表通りまで走ればなんとかなるかな、という計算が頭をよぎった瞬間、僕はとっさに足を強く踏み出していた。
思ったより大きな靴音が鳴って驚く。自分にそんな社会的正義感みたいなものがあるとは思ってもいなかった。
冷静に考えると、暗い路地に潜む怪しい人物が、危険じゃない訳がないのだけれど、この時は完全に「恐い」イメージは消え去っていた。その滑稽とも見える姿に、むしろ、次々と湧いてくる細かい疑念を一つ一つ詳細に問い詰めてやりたいような衝動が勝っていた状態であったかもしれない。
背後からの突然の音に、びくっとして男が振り向いた。その顔は――ケムール人(僕にはそう見えた)のお面をかぶっていた。サイズがやや小さくて、顔の顎部分の輪郭が丸見えである。そのお面、何の意味があるんだ? 全く想定外の物を見た僕の足が、反射的に止まる。男は息を飲んだかに見えたが、次の瞬間、何を考えたか僕に向かって仁王立ちになった。え? そのポーズ、まさか。これは予想外の動きだった。攻撃対象は女性限定、とばかり思いこんでいた僕は混乱した。まさか女に見えたとか。いや、それはないぞ。
混乱する僕を前に、男はポケットに入れたままの両手を、そのまま勢いよく横に広げた。コートの前が全開になる。ええええっ? その物体を僕に晒してどうする! ――と思ったら、予想に反してコートの下は競泳に使うような黒っぽい短いパンツを履いていた。これは何とも、肩透かし。(何を期待したんだ、僕は!)
それも予想外だったが、更に、間隙をついて今度は僕に向かってきた。どうしてこっちへ来る!
男はおもむろにコートのポケットから両手を出した。その右手には、ナイフ――なのか? いや、海賊が持っているような、大きめの鍔がついた、とにかく危険な見た目の凶器が握られていた。そして間髪を置かず両手を僕に向かって振り下ろしてきたのだ。あっ、と思う間もなかった。僕は首をすくめてとっさに男の手首を掴んだが、ナイフの切っ先は僕の肩に到達した。目いっぱい体を緊張させる――と、
くひゃん、という軽くて鈍い音がした。「ん、んっ……?」
恐る恐る薄目を開けてみる。肩に、尖った物が当たっている感触はあったが、痛くはない。見ると、ナイフの刃が短くなっていた。バネ仕掛けで柄の中に格納される、そうか、これはオモチャだ!
「はい、刺さってませーん♪」
唐突にお面の下からの声――音質の悪い電車の車内アナウンスを早回しにしたような不思議な声だった。更に男はくるりと回転してぺこり、と頭を下げ、顔を傾けると
「どうも、すみませーん♪」と両掌を上に向けて肩をすくめた。
しばしの沈黙――そして
「ふ、ふっ……」
どういうわけか最初に腹筋が反応した。そして緊張が解けた次の瞬間、僕は男に向かって叫んでいた。
<<「ふざけるなーっ!」>>
男は弾かれたようにのけ反り、後ずさりをして、ゆっくりと尻餅をついた。発した声が、周囲に発散するのではなく、一点に集中して真っすぐに男の体を射抜き、まるで声の矢が命中したかのように。そんなはずはないけれど、発した本人にもそういう絵が見えた気がした。
え? 今の声は――
実は、僕の声も相当に特徴的なのである。常日頃から、声が変だと言われ続けている。ヘリウムガスを吸った声、テレビの匿名で音声を変えた声――事あるごとに散々言われる。誰かと知り合った最初の頃なんかは特に。よくもまあ、という感じの言ってくれようだが、それぞれの指摘が感心するほどに的確なことは自覚もあって、録音された自分の声などを聴くといたたまれなくて死にたくなる程である。誰でも、録音した自分の声に違和感がある、嫌いだ、という思いをある程度は持つと思うけれど、僕の場合、その感じ方がより激しいのかもしれない。
何より切実なのは、声が通らないことだった。普通に話しかけても聞き返されることがよくある。騒がしい場所だと、まずまともに聞き取ってもらえず、授業中の発言や食事の時の注文の時などは、いつも苦労するのだ。
何人かで会話をしている時、僕の話の途中で割り込まれると、もうその後は話を続けられない。逆に、割って入ることは難しく、発言権を取り戻せないのだ。そうなると黙っているか、話を振られるまで待つしかない。必然的にそういう場は苦手になり、多人数相手では声を気にするあまり、うまく話せないようになってしまった。一対一の時は良いのだけれど。
何とか聞き取ってもらうには無理に喉を閉めて絞り出すように「がなる」しかなく、これがますます変な声の深みに嵌まる悪循環になっているのだ。
小さい頃の声が異様に高かったことが、そもそもの始まりなのだと思う。当時は、超音波とか宇宙人とか言われていた。黙っていたくても、話さなければコミュニケーションが出来ないわけで、何かの風向きが変わる度に、そのことに触れられ、からかわれ続けていたのだ。
それが嫌で嫌でたまらなかったのだが、変声期を機に、低い声が出るようになった時はどれほど嬉しかったことか!
ただ、どういう訳かその代償に、というか――僕はなんとなくそう理解しているのだが――今のおかしな声質も固定されてしまったのである。それに、低い声とはいっても、あくまでそれ以前の自分の声に対して相対的に、ということで、同時期に周りの男子は更に低い声になったので、僕の声は「男としては高い」ことに変わりはなかった。それでも、以前は「女子と比べても高い」だったので、僕としてはある程度は男声の音域に近付けたことでも十分満足だったのだ。だから、それと引き換えに変な通らない声質も受け入れろ、ということなら、まあ、それは仕方のないことかなと思ったのである。
そんな事情もあって、騒がしさが必然となる人混み自体も大の苦手なのである。そういう場所で何か声を発しても、騒めきの壁に吸い込まれるように、僕の声は一切返ってこない。無響室の壁に声をぶつけているかのように、自分の体の中への響きだけが残る。その場にいながら、自分だけ隔離されてしまったような感覚になってしまうのだ。縁日の公園を迂回しようとしたのは、そういう潜在的理由もあってのことなのだが。
何だ、今のは――
僕は叫んだ体制のまま呆然としていた。たった今起きた出来事を理解しきれずに。謎の男に襲われたことではなく、その後に発した自分自身の声に衝撃を受けたのだった。
静かな場所ではあるが、確かに、ちゃんと通る声だった。今までこんな声を出せたことはない。でも――大声を発した手応えがまるでなかった。いつもなら一発で喉が潰れるはず。するっと、口の手前にある空気砲を鋭く発射したかのように、声はそこから出たのだった。何とも不思議な感触だった。
ただ、音程が高い。一般男性の音域ではない。もうちょっと音程が低ければ使えるのに。
やや暫くの静寂の後、浴衣姿の女子二人組がクスクスと笑いながら、ここに誰も見えていないかのように何事もなく通り過ぎて行く。
「新手のパフォーマンス――」「演劇の稽古――」やがて遠ざかる足音に混ざってそんな声がかすかに届いてきた。
演劇? ああ、そうか。これはまるで出来の悪い学園祭の劇の一場面のようだ。そんなふうに見られたことに逆に安心した。変に騒がれたり心配でもされたら面倒なことになる。そう、自分でもまだ何一つ理解ができていないのだ。だいたい、原因は――
我に返る。すっかり忘れていた。ここまで思い巡ってやっと、元凶と言うべき男の存在に意識が至った。
見ると、ケムール人男も尻餅をついたまま、天を仰いでいた。前身頃が半分はだけてパンツ一丁のあられなき姿。相当に間抜けである。この男、少なくとも「危険」という意味での恐い存在ではなさそうだ。むしろ違う意味での底知れぬ恐さというか、興味が湧いてきそうになる。
つかつかと歩み寄ると、尻餅をついたままの男が、気の抜けた車内アナウンスのような声を発した。
「こ、腰が抜けた――」と男は首を左右に伸ばしながら腰をさすっている。
「受けるどころか、怒鳴られるとは」
「受ける?」と僕は思わず聞き返す。どういうことだ。
「実証実験、というか、喜んでもらおうと」
釈明にならない釈明をした男はうなだれながら、続けて消え入るようにつぶやいた。
「絶対、面白いと思ったんだけどなぁ」
「……」
何だか、言っていることもよくわからないけれど、一つだけはっきりしている。全く、まったく(×100)面白くなかった! どこがどう面白いと考えて、この一連の行為に及んだのか! 最初の目撃以来、腹の底に積もりに積もっていた一連の「腑に落ちなさ」みたいなものと、不条理さが合わさったものが、怒りの感情になって込み上げてきた。
「だいたい――」
一般常識から見ても、色々外れ過ぎていた。百歩譲って、不条理さと紙一重の面白さを狙ったのだとしても、ことごとくが「アウト」側に逸脱し過ぎている。そんな思いが僕にしては珍しく声になった。
「その恰好は何だ? わざわざ交番の近くで痴漢? それに、そのナイフ、言い訳無用で捕まるぞ。言ってるセリフも意味が分からないし、あと、なぜよりによってケムール人? 誰が知っていると? そもそも狙いは何――」
自分でも驚くほど、思いつくまま、矢継ぎ早に言葉が紡がれていた。それにしても――あ、やっぱり声が出ている。先刻と同じ、ハイトーンの声だ。思い違いではなかったらしい。
気が付くと、男が体育座りでお面越しにじっとこちらを見ていた。
「まあ、いいか」
何をやっているんだ。僕は――そう、先を急いでいるのを思い出した。
「こうしちゃいられない」
まだこちらを見ているらしい男から視線を外して、前方の暗がりへ向けて再び歩き出す。少なくとも、この先が行き止まりではないことはわかった。どこでもいい、早くここを離れよう。不格好な笑いの神の成りそこないみたいな奴に足止めを食らってしまった。悪夢と鉢合わせした気分でもある。こういうのは即刻無かったことにしてしまうに限る!
ところが、背中から再び、電車のアナウンスが呼びかけてきた。
「待ってください!」
声の調子が哀願の色を帯びていた。その気はなかったけれど、足が止まった。
「何?」
「落とし物――」と言って、長方形の物を頭上で振っている。まだやっているのか。
「って、あ、これ、僕の財布だ」
そこだけ声が「素」だった。
石を投げつけたい衝動を抑えて、僕は今度こそ闇の中へ突き進んだ。一瞬でも気を惹かれた自分に腹が立つ。でも、今のが一番面白かったかな――あくまで相対的に、だけれど。
男は後ろでまだ何か叫んでるようだったが、無視を決め込む。二度と振り向くまい!
「フォークソング同好会」――僕が所属している、大学のサークルである。
文字通りフォークソングが全盛期の頃に発足したが、そのブームが去った今日では、ハードロックに代表される、バンド形態での様々なジャンルの音楽がサークル内の主流となっていて、肝心のフォークソングの歌い手は極少数派である。その名称は名ばかり、看板に偽りありで、実態は「ちょっと重めの軽音楽同好会」といった感じなのであった。そうとは知らずに入った僕は、最初ちょっと戸惑ったのは確かである。正式な部ではなく公認サークルだが、総勢五十人は下らない規模の――幽霊会員や非常勤会員、助っ人など、身分の定かでないメンバーも多数の――大所帯であった。
人見知りでこんな声のくせに、こんな大所帯の音楽活動サークルなんかに入って、弾き語りをやっているのは自分でも不思議だ。高校時代の唯一の趣味だったフォークギターを続けたかったのが表立った動機ではあるのだが、もしかすると声についても、コンプレックスを逆手にとって克服できるのではないか、という希望的思い込みがなかったとは言えない。ただ、その点に関する限り現実の壁はしく、一年経った今でも克服の糸口さえつかめていない。
ずっと悩んでいたのは自分の歌声だった。傍から見ると、そんなこと気にならないよ、と思われるかもしれないようなことが、本人にとっては深刻な問題だったりするのである。本当は、もっと前から弾き語りをやりたかった。憧れていたのだ。元々フォークギターを始めたきっかけが「木洩れ日」だったから。
「木洩れ日」はあまり表立っては売れなかった、男性二人のフォークデュオのユニットである。フォークギターのイントロや伴奏が印象的な楽曲が多く、それで、まずフォークギターに興味を持った。中学三年の時だった。そして、少しギターが弾けるようになると、「木洩れ日」のようにフォークギターで弾き語りをやってみたい、と自然に思うようになったのだ。
でも、その歌こそがネックなのであった。当たり前だが歌は声を使う。そう、声だ。何かを始めようとするとたいていの場合、この問題に行き当たる。避けては通れない壁として僕の前に立ちはだかる。僕にとって、声とはそれほど根源的で宿命的な厄介事なのである。
それで高校時代は苦しんだ。学園祭とかの表舞台に出ようという、最初の一歩さえ踏み出すことができず、でもそのことを妄想しては一人でギターばかり弾いていた。勇気が出なかった。
「そんな声で歌えるの?」「コミックソングか?」弾き語りをやっている素振りを見せると、そんな言葉が即刻飛んで来たのだ。他意のないからかいだとしても、それは暴力的に刺さった。現状、撥ねつけることもできない実力のなさ、弱さに、歯噛みするしかなかった。せめて人並みの声で歌えたら――そのレベルのことが、果てしなく遠い高校時代だったのだ。
ただ、何もしていなかったわけではなく、実は密かに歌の練習はしていた。独学でボイストレーニングや、合唱部の友人に呼吸や発声を指導してもらったりもした。だから、単に「歌う」こと自体はできる。でも、基礎以前の、何か根本的な部分が違っている感覚がどうしてもぬぐえず、人前で歌う気にはなれなかった。イメージしているようには歌えないというか、自分の声で歌うということに、それを聴く側に立った自分が受け入れることが出来ない状態だったのだ。
このまま行動しなければ何も変わらないと思い、大学入学を機に、一歩を踏み出そうと決意したのであるが――
最初は「新入生自己紹会」という発表の場だった。新入会員全員が、銘々一曲ずつ演奏する。グループでもバンドでもソロでも形態は自由。そこで、僕は積年の秘めた野望を叶えるべく、思い切ってついに、憧れの弾き語りスタイルで歌ったのである。だが、これが散々な結果に終わってしまった。
学内のちょっとした広い講義室を借りての舞台だった。上級生や他の同級生会員たちが階段状の思い思いの席から見守る中で、舞台に立った瞬間、手足は震え、血は凍り、自爆して一瞬で退散したい気分に襲われ――自分じゃない何者かに体を支配されてしまった感じだった。それで特に、歌なんかはもう、歌ったかどうかすら定かではない壊滅的な出来栄えだった。思えば、それまで自分の部屋で一人きりでしか歌ったことがなかったのを、大人数の前で、初めてマイクに乗せて歌ったのだ。その、外に出た声、他人が聴いている自分の声を聴いて、改めて現実の残酷さを思い知らされたのだった。
まだ試したことがない、という状態が内包する「もしかしたら」の希望的側面――もしかしたら歌は行けるんじゃないか――だけにすがった根拠のない思い込みが、この時あっさりと打ち砕かれたのである。辛うじて完奏はできたものの、頭の中は真っ白で何一つ考えることが出来なかった。この時のことを思い出すと、今でも嫌な汗が出る。
ただ救いだったのは、この場での挫折感は僕だけではなく、程度の差はあれど、場慣れしていない新入り連中のほぼ全員が味わっていたことである。この会はそういう洗礼の儀式の意味合いもあり、もちろん観客の先輩達もかつては同じように通った道だったのである。
だからなのか、演奏を終えると、決してお情けではない感じの心のこもった盛大な拍手をもらえた。そのことは全く想定外で新鮮な感動だった。拙い歌でもちゃんと聴いてもらえたのである。この場の状況を差し引いても、上手い下手ではなく、そこに何が込められていたか、そのことはちゃんと伝わるというのだ。
確かに、この演奏会タイトルにまつわる話での「歌とか演奏は、何より雄弁な自己紹介になるから」という、同好会会長の言葉通りだった。不思議な事だが実際、これを機に、何だか周りの誰もが、一気に親しげに話しかけて来てくれるようになったのだ。演奏の出来映えはともかく、まだ多分に他人行儀だった新しい世界に、やっと受け入れてもらえた嬉しさがあった。同時に、歌とは恐いものだ、という実感も少々あったりしたけれど。
一方、歌の絶望的な惨状に比べて、フォークギターでの伴奏の方は、意外にもちゃんとできていたようだ。歌に気をとられてあまり自覚がなかったのが、おかげで無駄な力が入らず、その結果、ほぼいつもの練習通りの出来栄えだった気がしていた。それが幸いしたのか、歌との相対評価で実際より上手く聴こえたのか、ほどなくサークル内でギターの「仕事」の依頼がポチポチ来始めた。全く畑違いの、ヘビーメタル系バンドの助っ人サイドギターに駆り出されたこともあったりした。
深川先輩とも、この「新入生自己紹会」が縁だった。
僕がこの時歌ったのは、「木洩れ日」の曲だった。それも代表作とは言えないアルバムの、中でも目立たない曲調の地味な、でも僕自身にいつも寄り添ってくれるような、最もお気に入りの曲をコピーしたものだった。伴奏も、苦労して耳コピーでコードを拾った上で、アレンジを自分なりに変えてみた。コピーと言うよりはカバーに近い。誰も知らないはずの曲のアレンジを変えたって誰が気が付くのか、と言われる。でも、それくらいの思い入れがあるんだ! という意味を込めた、ささやかな主張のつもであった。言い換えると、ただの自己満足なのだけれど。
なのに、それに真っ先に喰いついてきたのが深川先輩だったのだ。
「今の、『木洩れ日』の『Coffee Breakのあとで』でしょう! 懐かしい、私、大好きだったの。それに、アレンジが斬新だったわ!」
「あっ、あ、はい、あの、、あの、、、うぐっ」
「えっ――ち、ちょっと、ねぇ大丈夫?」
深川先輩は、一学年上のお姉さんである。見た目も言動も派手寄りの女子が多いこのサークルの中ではあまり目立たない方なのだが、初めて見た時の、その柔らかい立ち振る舞いと物静かな姿が対照的で逆に印象深く、密かに憧れを抱いていた人だった。同時に、この場に所属していなければ僕には縁のないであろう世界の天上人であろうことも、瞬時に理解したのであるが。
そんな高根の花自らが、昔からの気の置けない友人であるかのような口調で、前触れもなく突然話しかけて来たのである。そのギャップと、いきなりパーソナルスペースの密接距離にまで飛び込んできた「近さ」に、あまつさえ白い灰になって全く無防備だった僕は真剣に心臓が止まりかけたのであった。
後に本人の語ったところによると、好きな物には見境なく一直線な傾向があるとのこと。自覚があって普段は自制を心掛けているのが、そんな物静かな印象になるのかも、との自己分析。つまり、僕の「演奏」がそんな自制が思わず外れてしまう程度には気に入ってもらえた結果である、ということらしい。
この時の出来事は「深川の瞬殺事件」としてサークル内ではちょっとした語り草になってしまった。以来、僕は深川先輩の忠実な「僕」の役回りとして周囲に認知されているようである。まあ、全然悪い気はしていないのだけれど。