あやかし退治の支度を整え、現場に向かうころには、すっかり陽は落ちていた。
 この時刻になると、あやかしたちは活発になる。百鬼夜行で町を練り歩き、人々に憑りついて、その心を食らい、汚すのだ。
 現代の人の世は、とかくストレスを溜める社会になっている。
 それらはあやかしたちに心を喰われた人々の、荒んだ心が生み出した社会でもある。

 かつてもっと人がしっかりとあやかしたちに向き合っていた時代ならば、祓い屋も多くいて、人の心は酷く乱れるような事もなかった。
 しかし、文明が発達すればするほど、あやかしたちをないがしろにして、祓い屋を軽んじるようになった。
 その結果、あやかしたちは闇の中で蠢き、人の心を食べるのが楽になった。
 少しでも人の世を、人間の心を救うために、豊かな安らぎを得るために、祓い屋たちはあやかしと戦っているのだ。

「ここね」

 そこは、廃ビルだった。
 もう利用されていない朽ち果てたビルは落書きまみれで、どこからかチンピラでも入り込んだだろう痕跡が見受けられる。
 床にはタバコの吸い殻だとか、空き缶が転がっていた。

 この廃ビルの中で、妖怪が不良たちの心を喰っているのだろう。妖しい気配がビンビン感じていた。
 空は『人祓い』と呼ばれる術を使用し、この辺に人が近寄らないようにする結界を張る。
 このビルの周辺から、無意識のうちに、人間は遠ざかるような術だ。

「さあ、準備できたわ。出てきなさい。妖怪!」

 お札を床に貼ると、そこから神々しい光が溢れ、ビル全体に広がりだす。
 すると、空間に滲み出てきた『邪』がその姿を現す。

「げげっ、バレちまった!」

 そう言って姿を現したのは、先日逃がした小物の妖怪だった。

「あんた! また性懲りもなく!」
「ちくしょう、祓い屋め! 返り討ちにしてくれる!」

 小物妖怪は、『餓鬼』と呼ばれる小鬼だ。
 子供くらいの身長で、額に小さなツノがある。腹はでっぷりと出ていて、空腹で死んでしまった子供の亡霊があやかしに変貌したものだ。

「あんたのせいで、私の日曜日が台無しになったのよ! きっちりお祓いさせてもらうわ!」

 餓鬼は勢いを付けて空に飛び掛かって来た。
 空は身をひるがえし、その攻撃を躱すと、右手を突き出す。その手には星家に代々伝わる神器である数珠が握られている。
 気合を込めて、餓鬼に向かって数珠を構え、浄化の呪文を口内で唱えた。
 すると、神聖なる力が数珠に宿り、輝きを放ちだし、小物妖怪の邪気をかき消していく。

「ぬわあっ! おのれ、祓い屋めぇ……」

 餓鬼はあやかしの中でも最も低俗なもので、あっという間に浄化されていく。
 これで、少しは世直しに貢献できたのだろうかと、空は一息ついた。

「ふう。一件落着……」
「クックック、見事だ。星家の娘」
「!」

 一陣の風が巻き起こり、空は目を開けていられずに、顔を腕で覆った。
 次の瞬間、空の前に身長の高い、黒い翼を持った男が立っていた。
 あやかしの首魁、大天狗である。

「またあんた……! 今度こそ、決着を付けるつもり?」

 空はすぐに身構えた。大天狗は先ほどの餓鬼なんかとはまるで比べ物にならない。一瞬の油断でこちらは敗北してしまうことだろう。
 妖しい笑みを浮かべ、大天狗は畏怖するほどの美しい顔立ちを空に向けていた。

「そのような細い腕で、我が責め苦に抵抗できるかな?」
 大天狗が大きく翼を広げた。
 威圧感が風となって、空にぶつかってくる。

「私の幸せな学校生活のためにも、あんたにいつまでも構ってられないのよ! 絶対に退治して見せる!」

 空は経典の巻物を懐から取り出す。それも神器の一つ、守護の経典だ。あやかしの攻撃から身を守る防壁を作り出すことができる。
 たちまち、大天狗の発した突風を弾き飛ばし、空は数珠を前に掲げた。

「食らいなさい!」
 そして神聖なる力を数珠に宿し、大天狗に攻撃をかける空。
 気合と共に床を蹴り、飛び掛かると、相手の顔目がけて拳を突き出した。

「フッ」
 が――、大天狗はその空の拳を片手で受け止め、嘲笑った。
 余裕たっぷりの目が、空を見下している。

「くっ……私の術が通用しない!」
「未熟だな、小娘……」

 どれだけ力を込めても、大天狗が掴んだ空の拳を解けない。
 そのまま大天狗は、空を拘束するように手首を抑え、壁際まで追い詰める。
 圧倒的な力の差を感じた空は、奥歯を噛みしめた。

「このっ、放してっ」
「このような力で、人を救えると思ったか?」
「あなたたちのような妖怪に、人の心を奪わせはしないわ」
「ほう? ならば、お前の愛する男を祟り殺すと言ったら、お前は私に何をしてくれるのかな?」
「な……っ?」

 大天狗は、空を壁に追い込んで、自由をうばったまま、低く囁く声で、空を脅して来た。
 愛する男……。

 空はその言葉に、もしや、と一瞬、狗巻天地の爽やかな笑顔を思い浮かべる。

「その顔……、やはり男がいるようだな?」
 ぐ、と手首を掴む大天狗の掌の力が増す。
「あなたには関係ない!」
 大天狗が、狗巻に何かしたらと思うと、空は怖くなった。
 絶対に、このあやかしと、狗巻を関わらせるわけにはいかない。

「その男の名を言えば、解放してやるぞ」
「絶対に、言わないっ」

 大天狗のぞくりとするほどの美顔が、空の顔に近づいてくる。

「自分の身体が、どうなってもいいのか……?」
「……っ」

 耳元で囁いた大天狗の吐息が首筋にかかり、空はびくんと震えた。
 狗巻とはまるで違うが、この大天狗の声もまた、低く落ち着いた、妖しい魅力がある。
 人間を誘惑する、あやかしの術法に違いないと、空はその誘惑に抵抗する。

「言わぬのならば、このまま手籠めにしてしまうぞ」
「ううっ……!」

 必死に抵抗をしているつもりだが、大天狗はびくともしない。
 たとえ我が身がどうなろうとも、あやかしの首魁に、狗巻のことを話すわけにはいかない。
 祓い屋として、女として、誇りが許さない。

「……お、おい。ほんとに触っちゃうぞ……」
 大天狗の手が、空の胸に近づこうとしていたが、大天狗はそこでスキを見せた。

「っ! 破っ!」

 その一瞬のスキを突き、空は大天狗の腹部目がけて、膝を打ち込んだ。
 しかし、大天狗はその動きに素早く適応し、空の手首から手を離すと、大きく後方に跳んだ。

「おっと……、足癖の悪い娘だ」
「逃げ足ばかり早いんだからっ」
「どうしても教えぬ気か、小娘」
「あなたなんかに教えるものですか」
「フン……。いい顔をする……。やはり……いい」
「……?」

 なぜか大天狗は、嬉しそうな顔をしているように見えた。
 眉をひそめた空は、油断している大天狗にもう一撃打ち込めないかと、スキを窺う。

「娘よ、必ずお前の心を頂くぞ」
「絶対に、あやかしなんかに私の心は食べさせないわ!」

 星家の祓い屋としての霊力は、あやかしにとって、危険なものであると同時に、最高のご馳走になるとも聞いたことがある。
 どうやら、この大天狗は、空の心を食らうつもりでいるのだろう。
 空は、そんなことは絶対にさせないと、叫んだ。

「また会おう、星家の娘!」
「ッ――」

 逃げられる……。そう思ったが、大天狗と自分との実力差は歴然だと分かった。
 このまま追いかけても、退治できない。
 今は深追いしないほうがいいと、空は足を踏みとどまる。

 大天狗は黒い羽を舞い散らし、旋風の中にかき消えていく。

「……大天狗……。なんて強いの」

 空はなんとか無事にこの場を切り抜けられたのをほっとしていた。
 胸がドキドキと煩く高鳴っている。

 大天狗に壁に押し付けられて、耳たぶにキスをされそうな位置で脅されたのが、ゾクゾクしてしまった。
 もし、あの瞬間のスキを見逃していたら、あの好色なあやかしに身を穢されていたかもしれない。
 こちらを誘惑するような声が、まだ、鼓膜に張り付いているようだ。

 気がつけば、空は頬を真っ赤にしていた。

「狗巻くん……」
 そして、そんな自分の顔をブンブンと振り、気持ちを向けている人の名前を口に出す。
 危なかった。
 もう少しで、大天狗に彼の名前を教えてしまいそうになった。

 そんなことをしたら、あのあやかしは、必ず狗巻を襲い、心を食らうはずだ。
 心を喰わられた人間は、夢や希望を失い、荒んでいく。
 爽やかで、優しい彼がそうなってしまうのは絶対に見たくない。

 なんとしても、大天狗を倒し、いつか……狗巻に告白してみたい。
 空は、そんな風に決意を固めた。

 大天狗に負けないように、強くなるのだ。
 あやかしの親玉を退治したその時こそ、彼に想いを伝えよう――。

 祓い屋の少女、空は人知れずにそんな誓いを立てた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 一方、狗巻もその上――廃ビルの屋上で、真っ赤になって、息を荒げていた。

「はぁはぁ……! やばかった……! も、もうちょっとで、襲うところだった……!」

 あと数センチというところで、空に触れてしまいそうだった。
 空への気持ちが熱情になって、油断するとつい、彼女を抱きたくなってしまう。
 だが、それでは意味がない。彼女の心を自分に向かせたいのだ。

「空の、気持ちをオレのものにしたい……」

 一体、彼女は誰が好きなのだろう。
 やはり、空は明らかに誰かに恋をしている。
 それが今回のことでハッキリと分かった。

 それが分かれば、呪い殺してやるつもりだ。
 だが、空は頑なにその名を言わない。

 言わないと、このまま襲うぞ、と口では言ったが、そんなつもりはなかった。
 本気で彼女に惚れているからだ。
 無理やり彼女の肉体がほしいのではない。
 あの愛らしい笑顔を、自然に自分に向けてほしいだけなのだ。

「くそ……。可愛い……空……。好きだ……」

 さっきも、キスしたいのを必死に我慢した。
 彼女の首筋の美しさに生唾を飲みそうになった。
 恥ずかしそうに頬を染めていた彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。

 大天狗は悶絶する。
 自分のこの恋心を抑えきれず、廃ビルの屋上で、黒い翼は無意味にバサバサさせていた。

「明日……、また学校で……会おうな、空」

 狗巻は、星の瞬く、夜空を見上げ、その名をそっと呟いた。
 その姿は大妖怪、大天狗とは思えない、センチメンタルな目をした恋に苦しむ男の顔だった。