「え?! 俺? な、なんで俺が?!」
彼女は少しのあいだ俺を見つめてから小さくため息をついた。
「違うよね、やっぱり」
落とした肩はあきらかに残念そうだ。俺が幽霊だった方がよかったというのか。
「違うけど……どうして?」
見返してきた顔にはあきらめが浮かんでいた。
「ううん、いいの。もしかしたらって思っただけ。引き留めちゃってごめんね。ありがとう」
「あ、待って!」
気付いたら呼び止めていた。人見知りの俺にはめったにないことだ。
ほんの少し後悔が湧いてくる。でも、今を逃したらもう二度と話しかける勇気が出ないことは分かっている。だから、このチャンスを逃しちゃいけない。
「あの、俺も」
緊張で声が引っかかる。仕切り直してもう一度。
「俺もさ、実は、幽霊じゃないかって思ってたんだ。きのうからずっと」
「え? わたしのことを?」
彼女はいかにも驚いた顔。「うん」と答えた俺に「まさか、違うよ」と首を横に振った。
だよな、と思いつつ、彼女の姿を再確認。確かに、こんなに生き生きした幽霊なんて、きっといない。万が一、幽霊だったとしたら、リアルすぎて逆に怖い――なんて考えていたら、目が合った。
「ふっ」
「くっ」
笑いを漏らした彼女につられ、俺も思わず可笑しくなる。
「やだな」
「お互いになんて」
「なんで?」
「変だよね」
くすくす笑いに言葉が混じると一気に気持ちが軽くなる。
「俺、幽霊っぽかった?」
初対面の相手にこんなふうに訊けたのは、一緒に笑ったからだと思う。それと、彼女のストレートな行動――追いかけてきて問い質すという――が、潔くて信用できると俺に強く感じさせた。それまでの自分のまわりくどい行動に呆れて、その勢いで、いつもの「遠慮」という壁を一気に飛び越してしまったらしい。
「うん。すごく」
まだくすくす笑いながら彼女が答えた。
「静かだったでしょ? 誰もいないと思ってたところに、振り向いたらガラスに顔が浮かんで見えたんだもん。本当にびっくりした」
「……そうか。それはそうだよね」
想像してみると、確かに怖い。俺だったら悲鳴をあげていただろう。
「わたしも幽霊っぽかったかなあ?」
「ああ、それは……」
あの瞬間を思い出してみる。そう言えば、最初の時点では幽霊だとは思っていなかった。そう思ったのは。
「なんか……消えたと思ったから」
「消えた? わたしが?」
「うん。急にいなくなったと思って……、音がしたよね? そのあと。たぶん見間違いだと思うけど、はは」
そう。俺の見間違いだったに違いない。薄暗かったし、きっと怖がりのせいで思い込んでしまったのだ。
「あれ? もしかして、見てなかったのかな?」
「何を?」
「転んだところ」
「転んだ?」
うなずく彼女をまじまじと見つめる。
「そっちに行こうとしたときに、持ってた箒にひっかかって転んじゃってね」
「ああ、あの箒」
「そう。バランス崩したと思ったらあっという間」
じゃあ、あのときに聞こえた音は――。
「机とか椅子にいろんなところぶつけて、ものすごく痛かったの。肘とかね」
顔をしかめて彼女が右肘をさする。
「激痛で声も出なくて、しばらくうずくまったまま動けなかったよ。おでこもちょっと青あざできてて。左手も痛いんだけど、どこに当たったのか分からないの」
確かに机のあいだで転んだら、いろいろなところをぶつけそうだ。
「それは……助けに行かなくてごめん。大変だったね。すごく大きな音がしたよ、バチン! て」
「あ、それは箒が倒れた音だと思う。転びながら乗っかった感じになったから、それで手がはずれて――」
「床に」
「そう。パーン! って。今も耳に残ってる」
なるほど。あの長い柄が床にたたきつけられた音だったのか。そして、痛みで声も上げられないままうずくまっていた彼女……。
「もしかしたら箒を壊したんじゃないかと思って焦っちゃった。馬鹿力って言われるかも、とか、弁償しなくちゃいけないかも、とか、いろんなことが頭をよぎったよ。壊れてなくてほっとした」
その気持ちはよく分かる。
「でも、ひとりで掃除してたんだから、誰も責めないんじゃないかな? 掃除当番、みんないい加減なんだろ?」
「それはそうなんだけど……」
彼女は少しためらうように視線を逸らした。でもすぐに小さく笑い、目を上げた。
「実はね」
声のトーンを落とし、軽く乗り出す。
「わたし、幽霊を待ってたの。掃除のために残ってたんじゃないんだ」
挑戦的な微笑みを浮かべて彼女は言った。
その言葉をどう受け止めるべきか戸惑っている俺にもう一度にっこり微笑むと、彼女は身を翻して戻って行った。