昼休み。今度こそ、という意志を固めて教室を出た。

午前中の休み時間に5組の前まで行ってみた。戸が開いていてラッキーと思ったものの、そこで足を止めて教室をのぞいてみる決心がつかなかった。気軽に会いに行ける友人も5組にはいない。歩く速度を緩めてのぞいたくらいでは、何人もの生徒の中から一人を特定するなんて無理だった。

こういうとき、自分の弱気な性格にがっかりしてしまう。

小さいころから、俺は親からも先生からも「もっと積極的に」とさまざまな言葉で言われ、励まされてきた。「意見を言えるように」、「自分から声をかけて」、「やりたいことを伝えなさい」などなど。でも、18歳になった今でも自分の考えや希望を表に出すのは俺には難しく、友人同士でも余程親しくならない限り自由に振る舞えない。

けれど、今はそんなことは言っていられない。今後の学校生活のために、きのうの影が幽霊じゃないと確認することが必要だから。加賀から出た「呪い」という言葉が頭の中でだんだん大きくなってきているし。

――よし。

5組の前で足を止めた。と言っても廊下の反対側だけど。

目の前を生徒が行き来するものの、開いている戸口から中はそれなりに見える。一歩ずつ横に移動しながら中を確認していくと、机に集まってしゃべっているグループ、参考書を広げているヤツ、机に突っ伏して昼寝をしているヤツ――どの教室でも見られる景色。聞こえてくる声も、特に変わったところはない。

――分からない……。

もしかしたら座っているかも知れない。立ち上がったら分かるのかも。でなければ、手前の壁際にいるとか。教室の雰囲気がきのうとはまるっきり違うから、そのせいで分からないのだろうか?

そろそろ時間的に限界な気がする。今にも誰かが俺に気付いて、不審な顔をされそうだ。そんなことを気にしているから余計に分からないのか。

まさにそのとき、正面にいた女子が振り向いた。笑っていた顔が、俺に気付いて真顔に戻る。

――もう無理だ。

精一杯のさり気なさを装い、足早にその場を離れる。用意していた「トイレに行く」という言い訳を成立させなくちゃ。そして戻るときにもう一つの戸口からのぞいてみるのだ。――と、その“もう一つの戸口”から出てきた女子に目が吸い寄せられた。

「あれは」

思わずつぶやいていた。

スカートを揺らして歩いていく背筋の伸びた後ろ姿。肩の上で切られた髪はふんわりして、毛先がちょっとはねている。すれ違った女子と手を上げて軽くあいさつする横顔がちらりと見えた。

胸がドキドキしてきた。

引っ張られるように後を追う。いや、そうじゃない。俺と同じ方向に彼女が歩いているだけだ。目を離せないのは後ろ姿があの影に似ている気がするから。べつに後をつけているわけじゃなく……。

その後ろ姿は俺の目的地の隣に入っていった。そこで足を止めて待つかどうか迷ったまま俺も目的地に入り、手だけ洗ってすぐに出る。少し戻った場所で窓から外を見るふりをして、さっきの姿が現れるのを待った。

彼女で間違いない気がする。

間違いなければ、きのうの影は幽霊じゃなかったってことだ。あんなにはっきり見えたし、知り合いとあいさつしたってことは現役の高3だ。語り継がれてきた幽霊であるわけがない。

――いや、でも。

だとしたら、消えたことの説明がつかない。万が一、あの音が空耳だったとしても、その後、姿が見えなくなったのは確かなのだ。

待ち構えていた視界の隅に動きがあった。さり気なく、そっと、そちらに顔を向ける。

――ああ、間違いない。

その瞬間。

彼女が目を上げた。そして……目が合った。

思わず息を詰めていた。

俺たちの距離はきのうとちょうど同じくらい。その俺たちをつなぎ、それぞれの後ろにまっすぐに伸びる廊下。彼女の周りに薄暗い教室の景色が重なる。はっと動きを止めた影。その向こうには横長に切り取られた白い空。

まずい、と頭の中で叫んでいる俺を、彼女は目を瞠って見ていた。その視線を断ち切るように、ぐい、と体の向きを変える。鼓動がスピードを上げる。それに合わせて足も速まる。

――俺のこと……分かったかな。

きのうの相手だと気付いただろうか。あのときはもっと薄暗かったけれど。

目が合ったのは偶然だと思ってくれただろうか。それとも、彼女を待っていたことに気付いた? だとしたら、どう思われた? 怖い? 気持ち悪い? いや、それよりも、彼女はほんとうに普通の生徒? 消えたのに。あの音と――。

「あの」

声が聞こえたと同時に右腕に何かが触れた。

「ひいいいいいいい」

思わず声が出て、手を振り回してしまった。腰が砕けそうになり、危うく窓枠をつかんで体を支える。前から来た女子が廊下の反対側まで跳び退り、急ぎ足で通り過ぎる。ひどく派手な驚き方をした自分が情けなくて泣きたくなった。

飛び散ってしまった見栄を大急ぎでかき集める。悲鳴などなかったことにしてしまえと思うけれど、それは簡単ではない。恥ずかしさと警戒心でぎこちなく後ろを振り向くと。

「あの、ごめんなさい、びっくりさせて」

少しおろおろした様子で立っていたのは幽霊疑惑の本人だった。追って来たのだ。

「ああ……、いや、大丈夫」

そう答えたものの、俺の中では驚きが不安に変わっただけ。いったい何を言いに来たのか。

けれど、彼女はほっとした顔をした。とりあえず、そこに悪意はなさそうに見える。受け答えを間違えなければ責められずに終われるかも知れない。

少し落ち着いた俺の目に映るのは、着崩していない制服、静かな立ち姿、初対面にふさわしい距離と表情。穏やかそうなひとだ。

背は俺よりも10センチくらい小さいだろうか。そして、血色よし。足は廊下にしっかり着いている。透き通ってもいない。ということは、やっぱり幽霊ではない?

「あの、もしかしたら……、きのう、いなかったかな、と思って」
「……きのう?」

さっき目が合ったことではないらしい。それはほっとしたけれど、まだ安心はできない。きのうの何を確認したいのかはっきりするまでは。

「うん。きのうの放課後、廊下にいなかった? あの――」

そこで彼女は5組の方を振り向き、すぐに俺に視線を戻した。

「5組のところ。わたし、中にいて」
「あ、ああ……」

知らないってごまかしてしまおうか。でも、こんなふうに呼び止めてここまで言うってことは、彼女はほぼ確信しているのだろう。ということは、知らないとウソをついても、俺の不安はきっと消えない。それは困る。だったら正直に話して、何か妥協点を見つける方がいい。その方が安全だ。

「うん、通った。教室にいたの、見たよ」

心の中で「消えたところも」と付け加えた。

「やっぱり」

彼女は表情を引き締めてうなずいた。それから。

「ねえ? あなた……幽霊?」

大きな瞳にはふざけたきらめきなど一切なかった。