「わたし、無理だろうなって思ってたんだ」
学校を出ると彼女が言った。いつものとおり並んで自転車を押して、やわらかく微笑んで。
「尾張くん、わたしに興味なさそうだったから」
「え? 興味ないって……どうして?」
初めて会った日から、興味がなかったことなどない。それどころかほかのひととは違う、特別な存在だった。なのに。
「わたしの名前、あんまり呼ばないし、幽霊以外のことは質問されなかったから」
「ああ……」
彼女の名前。
樫村華乃。
たしかに俺は、仕方がないとき以外は呼びかけなかった。ただ、それは彼女に興味がなかったからではなく、単に気恥ずかしかっただけなのだ。どうして名前――しかも苗字――を呼ぶことが恥ずかしいのかと訊かれても答えられないけれど。
そして、質問をしなかったのは俺があれこれ考え過ぎる性格のせいだ。思い付いたことを口に出す前に、相手がどう感じるのかを想像するのが習慣になっているから。自信のない俺の頭に浮かぶのは「迷惑かも」「図々しいかも」という不安ばかりで、最終的に、余計な質問はしないという結論に行き着く。考え過ぎだと言われても、考えないことが簡単にできるのならとっくの昔にやっている。
「ごめん」
俺のそんな性格が彼女を傷付けていた。彼女は傷付いたことなど否定するだろうけれど、気にしていたということは、やっぱり傷付いていたということだ。
「名前を呼ぶのが……照れくさいんだ。苗字なのに、変だよね?」
「照れくさい?」
彼女が目を丸くする。
「照れくさいって、普段は?」
「うーん……、あんまり女子とは話さないから……」
こんなことを言ったら、女子に避けられているヤツだと思われるかも。さっきの「願いが叶った」を「考え直す」って言われちゃったら嫌だな。
「そんなふうに感じなかったのに」
彼女が眉を寄せる。それはそうだろう。
「それが不思議なんだ。話をするのは平気なんだ……、樫村さんとは」
頑張って彼女の名前を付け加えると、彼女の表情がふわりと緩んだ。それだけで俺の中の不安が吹き払われる。安堵の吐息とともに、感じていたことが言葉になる。
「知り合ったばかりなのに当たり前みたいに話せるなんて不思議だった。安心して話せて、楽しくて」
そこで思い出した。
「面白いなあって思ったんだ、初めて話したあと」
「面白い?」
「幽霊を探しているってことも、それを俺に宣言したことも、そのときの表情も、すごくいいなあって思った」
今でもはっきりと思い浮かべることができる。
「うらやましいっていうか、憧れるっていうか……、風がさあっと胸の中を吹き抜けていったような気持ち良さで。一緒にやろうって言われたときにほとんど迷わなかったのは、そんな気分だったからなんだよね」
言葉を切って隣を見たら、彼女がにやにやしていた。
「なに?」
「ふふ、なんだかね、自分の変わり者っぽいところが気に入られたなんて笑えるなあ、と思って。でも、尾張くんはそれを見せてもいい相手だって直感したわたし、すごくない?」
「あはは、確かに」
そんなふうに考えると、まるで運命の出会いって感じだ。
「本当はね、幽霊探しに誘ったこと、少し不安だったんだ。もしも気が合わない相手だったら、せっかくのチャレンジが重荷になっちゃう可能性があるから」
そうだったのか。弱気なのは自分だけかと思っていた。
「でもね、月曜日に尾張くんの顔を見たら安心した。尾張くんって、一緒にいると力が抜ける……って言うか、どんな自分でいなくちゃいけないとか考えなくていいやって思えるんだよね」
「ああ、それで癒し系って」
「そう。それにね、わたしの話を否定したり分析したりしないで聞いてくれるでしょう? それが嬉しかった」
「聞くだけで?」
「うん」
勢いよくうなずいた。
「そういうひとって意外と少ないよ。みんな、『それくらい何でもないよ』とか『こうしたら?』とか……、もちろん親切で言ってくれてるのは分かるんだけど、そんなふうに言われると、もうそれ以上は話せなくなっちゃうこともあるんだよね」
「ああ、それは分かるな」
「ほら、それ」
「え?」
並んだ家の隙間を抜けてくる夕日がまぶしい。すぐ横で、少し濃い影になった彼女が微笑んでいる。
「尾張くんのいいところ。共感してくれるところ。わたしがどう感じたかを理解しようとしてくれる。だから本当の気持ちを話したくなる」
「ふ、ふうん」
「それに、虫が出たとき助けに来てくれたでしょう? 頼りになるし、やさしいよ」
「あれは……、みんな同じだと思うよ」
「そんなことない。笑ったりからかったりするひとだっているよ。尾張くんはそういうことはしないでしょ? 助けてほしいひとの気持ちを考えるから」
俺のいいところだなんて、照れくさい。けど、ちょっと鼻歌でも歌いたいような気分だ。と言っても、浮かぶのは合唱大会で歌った歌くらいっていうのが情けない。
こんな話をしていると、俺たちは出会うべくして出会ったような気がしてくる。あと少しで終わる高校生活で……いや、もしも出会わなくても、いつか別な縁で出会ったかも知れない。こんなことを言ったら、また「ロマンティック」なんて言われてしまうだろうか。
「尾張くんと帰るようになってから、よく空を見るようになったんだ」
少し身を乗り出すようにして彼女が言った。にこにこして、楽しいのだとよく分かる。
「帰りだけじゃなくて、朝も、休み時間にも。寝る前に見ることもある。空って……大きくて綺麗だね」
「うん」
今の空を見上げる。今日は雲がないから、冴え冴えとした静かな夕暮れになりそうだ。
「空を見るのは中学生のころからの習慣なんだ。どんな空でも見上げると『ああ』って思うんだよ。雲も、月も、雷が光るところも好きなんだ。綺麗なだけじゃなくて、刻々と変わっていく、今しか見られないものを見てるっていう感覚とか」
「ああ、その感覚、今なら分かる」
彼女が空を見上げる表情はきっと俺と同じだ。
共感。気持ちを分かち合うこと。
彼女の気持ちに俺が寄り添い、俺の感動を彼女が一緒に味わう。その積み重ねがふたりの関係を強く、濃くする――。
「もう少し先に開けた場所があって、満月が綺麗に見えるんだ。あと2、3日だと思うんだけど」
「尾張くん、月の周期も調べてるの?」
「そこまで熱心じゃないよ。俺は見るだけ」
もちろん、天文学は面白そうだとは思うけれど。
「月は毎日見てると分かるんだよ。三日月のあとは少しずつ太りながら月の出が遅くなって、満月のときは夕方に東の低い位置にいる。地平線に近いと大きく見えるから、特別な感じがするよ。ほら、今日はあの辺に」
水色が深い青へと変わり始めた東の空で、まだ少し欠けている白い月が夜を待っている。彼女が「白い月もいいね」と微笑んだ。
「よかったら、一緒に見ようよ」
思い切って言ってみた。ぱっとこちらを向いた彼女と目が合った途端、急激に頬が熱くなった。
「え、えっと、その、満月。あ、でも、暗くなるのが早いからダメかな……?」
今日はいつもよりも早いけれど、この時期はあと30分もすれば日没だ。そしてあっという間に暗くなる。
でも、彼女は笑って平気だと言った。考えてみれば、部活があるときは帰りが暗くなってしまうことなど普通だった。満月が出るくらいの時間なら特に問題はないだろう。
「明日? あさって?」
尋ねられて「え? 土日だよ?」と答えたら、彼女は一瞬固まってから気の抜けた顔をした。
「わかった。土日はナシね。月曜日の帰り」
「ちょっと待った!」
今分かった。彼女は休日に会ってもいいと言ってくれたんだ。学校がない日に会ってもいいと。
「両方。どっちも」
「どっちも?」
「うん。決められない。いや、毎日会いたい」
「うわー、急に熱心に言われちゃった」
くすくす笑われて、思わず本心を口にしていた自分に驚く。冷めかけた頬の熱が一気に顔全体に広がった。
「じゃあ、あとで連絡してね。予定を決めよう」
そう言って立ち止まる彼女。いつの間にか、さよならの交差点だ。
「最初のデートがお月見だなんて、やっぱり尾張くんはロマンティックなことを思い付くよね」
笑顔で手を振り、彼女が自転車に乗って交差点を渡っていく。
――最初のデート。
その言葉が銅鑼のように胸を打つ。
俺が誘ったのだ。彼女を。デートに。
これは大変だ。何をすればいいんだろう。変なことをやらかさなければいいんだけど。
そうだ。彼女の名前を呼ぶ練習をしておこう。「樫村さん」って……いや、そうじゃない。
俺の中で定着しなかった彼女の苗字。だったらいっそ、別な呼び方を考えてもいいかも知れない。例えば……「華乃ちゃん」とか。
青になった信号がにやけ顔を引き締める助けになった。ペダルを踏む足に力を入れる。冷たい空気が上気した頬に心地よい。
――俺にもいいところがあった。
彼女が見付けてくれた。彼女が教えてくれた。俺が素敵だと思ったひとが。これってすごいことだ。
そして、俺は彼女の役に立つことができる。彼女を癒し、楽しませることができる。
なんて幸せなんだろう。
これからもっといろんなことを話そう。いろんなものを一緒に見よう。
一緒に幽霊を探したように、今しかできないこともたくさんしよう。ふたりだからできることも、たくさんやろう。
「ね、華乃ちゃん」
そっとつぶやいたら、頭の中の彼女が驚いた顔で振り向いた。それから、心から嬉しそうに笑った。
その笑顔に、今度は俺も抵抗できなかった。
-----------おわり