虫は無事に処分することができた。

細長い脚がたくさんある灰色の虫だった。廊下の隅にじっとしていたのを見つけて、持ち出したほうきでたたいたら動かなくなったので、ちりとりに乗せて窓から捨てた。最後まで怖がって近寄れなかった樫村さんだけど、捨てる前にちゃんと窓の下に誰もいないか確認したあたりはさすがにしっかり者だ。

「あんなに怖がったことなんてなかったんだけどな」

探索を早めに切り上げて自転車置き場に向かいながら、いかにも不本意だという顔で彼女は言った。

「しかも悲鳴を上げるなんて。ゴキブリだって退治できるのに」

不満を言う様子が少し子どもっぽくて、今までの印象とのギャップにこっそり笑ってしまう。彼女にもこんなところがあるなんて。

「女子更衣室にコガネムシが入ったときも、生徒会室にゴキブリが出たときも、トイレの蜘蛛の巣も、どうにかできたんだよ。なのに……」
「それみんな、ひとりきりだったの?」
「ううん、違うよ。ほかにもいたけど、みんな怖がって近付けなかったから」

なるほど。しっかり者の彼女はみんなに頼りにされてるってわけだ。怖がって騒ぐ女子たちの前で勇ましく虫に立ち向かう彼女の姿を思い浮かべるのは難しくない。でも。

「今日のはゴキブリよりもずっと大きかったし、脚がたくさんあるのはまた別だと思うな。それに、いきなり上から落ちてきたらびっくりするのも当然だよ」
「それはそうだけど、自分ができないからって他人にやらせるなんて」

彼女は言葉を切り、渋い顔をした。

「甘えが出ちゃったかな」

その言葉にドキッとした。そっと表情をうかがってみるけれど、特に意味のありそうな様子はない。

「……甘えって?」

何か聞けるかもしれない。そんな期待で心が騒ぐ。

「なんて言うか……、尾張くんにはちょっと気が緩む」

肩をすくめる彼女は、俺の口許が緩んだことには気付かない。

「ほかのひとには話さないこと話したり……、幽霊探すこともすぐに言っちゃったしね」
「あれはまあ……、最初が最初だったからね」
「ああ、そうだった。お互いに幽霊じゃないかと疑ってたなんて、笑っちゃうよね、ふふ」

そういえば、あの怖かった放課後から、今日でちょうど一週間だ。あのときの相手と毎日一緒に帰っているなんて、不思議なめぐりあわせだ。いや、運命の出会い――とか。

「尾張くんって、癒し系って言われない?」
「俺が? ないよ」
「そう? そういう雰囲気、あるけどな」

彼女にそう思われるのは嬉しい。それは、俺のそばでは彼女が居心地がいいと感じているということだから。しかも、彼女がそう感じるのは俺だけなのでは――。

「わたしね、基本的には何でも自分でやるの」

彼女がさわやかに言った。

「大人になっても困らないようにって、うちはそういう方針で育てられてるの。だから逆に、他人に頼むことが苦手っていうか……、自分でやっちゃう方が簡単で楽なの」

自分でやる方が簡単で楽、というのはわかる。俺の場合は人見知りが原因で。ものごとを他人に訊いたり頼んだりして早く済ませるよりも、時間がかかっても自力でどうにかする方が、俺にとっては楽だし、普通だ。

「頼まれると基本的に断らないから、みんなにしっかり者みたいに思われて、生徒会役員も引き受けることになっちゃった」
「でも、ちゃんとできるんだから、実力があるんだよ」
「そんなに特別じゃないよ。たぶん、その場になれば誰でもできると思うよ」

軽く言うけれど、俺にはそうは思えない。学校全体を仕切るには、それなりの手腕や人柄が要るはずだ。

自転車置き場には、3年生のスペースに残っているのはほんの数台。俺たち以外の居残り組は、図書館で勉強しているのを月曜日に見かけた。

「なんだかね」

自転車のかごにバッグを入れると、彼女は小さく息を吐いた。

「わたし、これからのことが不安なんだよね」
「これからのこと?」
「大学とか将来とか……ちゃんと自分で決めてやっていけるのか」

その言葉に驚いてしまった。俺ならともかく、彼女がそんなことを言うなんて。

彼女が自転車の鍵を開けようと下を向いたので、そのあいだに俺も自転車を取りに行く。こういうとき、何を言うべきかわからない自分が情けない。ほっとしたことに、彼女は俺の言葉など求めていないようで、隣に並ぶと続きを話してくれた。

「わたしね、自分はすごく恵まれてると思うんだ」

ゆっくり歩きながらの口調は静かで、恵まれていることへの満足感は伝わって来ない。どちらかというと、あきらめのような気持ちが感じられる。

「家は裕福じゃないけどお金に困ってるわけじゃないし、親は普通にいいひとたちだし、きょうだいは3人で仲は悪くない。勉強で困ったこともなかったし、学校の友達関係も平穏だった。ね? 恵まれてるでしょう?」
「あ、ああ……」

相槌を打ったものの、実は驚いていた。平穏であることを「恵まれている」と言ったことに。

それは彼女が平穏じゃない場所に目を向けているから出てくる言葉だ。俺がいつも気にしているよりも、もっとずっと広い世界を彼女は見ている。すぐ隣にいる彼女が、突然、遠くに行ってしまったように感じた。遠く……、でも、力強く。

「それに、今まで周りから頼まれたり、『向いてると思うよ』って言われたりしたことばっかりやってきた。つまりね、逆境に立ち向かったり、自分がどうしてもやりたくて挑戦するってことがなかったの」

なるほど。それが彼女の不安の理由。

「それで幽霊を?」

彼女は「うん」とうなずいた。それから「ふふっ」と小さな笑いをもらした。

「わたしの、ほんとうの挑戦なの」

こちらに向けた瞳には、最初の日に見た強いきらめきが宿っていた。

「幽霊がほんとうにいるなら見てみたい。周りがどう言うかなんて関係ない。自分がやりたいことをやる。こんなふうに強い気持ちで決めて行動するのって初めてなの」
「そうか」
「うん。あ、でも、尾張くんに手伝ってもらっちゃってるけど」
「いや、これは手伝いじゃなくて、俺にとってもチャンスなんだ。だから全然気にすることないよ」

ふたりで顔を見合わせて微笑む。

あのとき、一緒にやると言ってよかった。彼女とこんなふうに話せて、ほんとうによかった。

胸いっぱいに広がった思いのやり場がなくて空を見上げたら、崩れ始めたひこうき雲が沈みかけた太陽の光を受けて光っている。

「空はまだ昼間なのね。あんなに明るい」

彼女のつぶやきが聞こえた。

高校生だからできることをやりたい――あの日、彼女はそう言った。大人になったらできないこと、「馬鹿なことやったよね」と笑えるようなこと、そういうことをやりたいと言っていた。手遅れにならないうちに。

「そうだね」

一緒に同じ空を見ている。感じることを共有している。これだって、今しかできないことだ。今の、この瞬間。それがとても貴重に思える。

「そう言えば」

歩き出しながらふと思い出した。

「幽霊を見つけても願い事はないって言ってたよね? 今も?」

彼女が目を瞠った……と思ったのは一瞬で、その意味を考える前に消えてしまった。

「せっかくだから考えてはいるんだけど……」

数秒後、彼女が表情を引き締めた。

「世界から憎しみの気持ちがなくなってほしい」
「え、それは……」

彼女ならそう願うのも納得できる。でも、あまりにも壮大じゃないだろうか。世界中の幽霊に願っても叶うかどうか……。

「――っていうのは大きすぎるから」

彼女がにっこりした。

「もっと小さい願い事があるような気がしてる。まだはっきりしないけど。尾張くんは?」
「俺? 俺は」

ないよ、と言おうとした舌が止まった。

俺の願い事。こうだったらいいな、と思うこと。小さな、でも、考えると胸に何かがつまったような、苦しい気持ちになること。

「――今は言わない」

答えを聞いた彼女が小さく首を傾げる。

「今はってことは、いつかは教えてくれるの?」
「そうできたらいいと思うけど……」
「……そう」

曖昧な表情でうなずく彼女。強いて尋ねないのは俺の意思を尊重してくれたのか、俺のことなどどうでもいいのか……。

「明日」

迷った末、口を開く。彼女の視線をとらえて。

「明日、話すよ。全部終わったら」
「そう」

夕日の中で彼女が微笑んだ。

「もしかしたら、幽霊を見るかも知れないもんね?」

そうだ。見るかも知れない。でも。

見なくても叶ったらいいな。