木曜日。残りはあと2日。ここにきて、俺の中に、予想していなかった不安が生まれている。

幽霊が出ないことではない。それは覚悟していた。むしろ、出た方がびっくりする。不安の中身はそれではなく――。

樫村さんとの関係だ。

飾らない人柄の彼女は一緒にいて楽しい。しっかりと自分を持っているところはうらやましいし、尊敬もする。そんな彼女に友達と認められたことは誇らしい。

その関係を壊したくない。

彼女と話していると、ときどき、自分に許された範囲が分からなくなる。使ってもいい言葉、取り上げてもいい話題、それらが思っていたよりも広いのかも知れないと思う瞬間がある。

けれど、そこで思い切って踏み出すことができない。踏み出してはならないと考えてしまう。

俺には何の取り柄もない。面白い話もできないし、勉強やスポーツで飛び抜けた才能があるわけでもない。リーダーシップもないし、人見知りのせいで交友関係も狭い。そんな俺としっかり者の彼女が特別に親しくなるなんてありえない。彼女の期待に応えられず、きっと失望させてしまう。

だから、注意しなくてはならない。うっかり近付き過ぎないように。失望されることなく、信頼される友達でいるために。

残り2回の幽霊探し、そして、そのあとも関係が続くように。だけど……。

もっと遠慮なく話せたらきっと楽しい。そんな確信めいた思いが胸にわだかまって苦しいときがある。





――あそこだ。

探索開始から20分。渡り廊下の窓から、南校舎の廊下を歩いている彼女が見えた。俺は2階、彼女は3階。さっき、そこへ向かうと連絡がきていた。

俺が見ていることには気付かないようだ。のんびり歩きながら窓に手を触れる。立ち止まって、両手を組んで伸びをした。そろそろ飽きてきているのかも知れない。

と、こちらを向いた。外を眺め――俺に気付いた。笑顔。手を振った。俺も振り返す。気分が浮き立ってくることは予想していたような……想定外だったような。

彼女に背を向け、歩き出す。背筋を伸ばして歩いてみるけれど……見ていない可能性の方が大きいかな。まあ、いいや。

さっき、彼女は笑顔だった。俺を見て笑顔になった。そのことが胸の中でほっこりと熱を放つ。そのやさしい熱がとても大事なものに思えて、あわてて自分を戒める。笑顔の意味など、深く考えないほうがいい。

北校舎に着き、1階に下りてから渡り廊下を南へと戻る。彼女は南校舎の3階をしばらくぶらぶらする予定だ。俺は東西にある階段を見回ろう。

『南校舎の階段に行く』
『OK!』

途中でまた会うことを期待しているわけじゃない。そんなこと認めない。いざというときに駆けつけられる距離を考えての選択、それだけだ。

渡り廊下の1階には中庭に向いた玄関があり、薄暗い空間に簀の子と下駄箱が並んでいる。ジャージ姿の男子がふたり、何か言い合いながら駆け込んできた。はね飛ばすように靴を脱ぎ、靴下のまま南校舎へと走って行く。急な用事なのだろうか。二人連れということは幽霊ではないだろう。

南校舎の西階段に着くと、上から音が響いてくる。さっきの二人組の声と足音。そしていつもの楽器の音。

この階段を5階まで上り、1つ下りて4階の廊下を東へ歩き、東側の階段を下ろう。さっきの二人組が戻って来ても知らん顔をしてすれ違えばいい。3階でちょっとだけ廊下をのぞいてみてもいいかな。

ゆっくり上り始めるとすぐ、急ぎ足で戻って来た二人組とすれ違った。最後の数段を飛び降りるのを見届け、次の段に足をかけた、そのとき。

――え?!

鋭い悲鳴。遠くない。上からだ。もしかして――。

自然と足が動いた。一段抜かしで階段を駆け上がる。

彼女がいるのは3階だ。たったひとりで。何か危険が? 幽霊? それとも誰かに?

思ったよりも体が重い。部活を引退してから運動不足だから。でも、そんなことよりも彼女は無事か? 3階の廊下が見えた。

――あ。

駆けてくる足音。直後に俺も3階の廊下に到着。

「お、尾張くん!」

ぶち当たる勢いで彼女がしがみついてきた。「出たの出たの出たの」とつぶやきながら、俺の後ろにまわりこむ。彼女が駆けてきた方向には――誰もいない。

――まさか。

ざわっと首筋の毛が逆立った。

「下に行こう。急いで。早く」

彼女がぐいぐいと袖を引っ張る。何もいない廊下から今にも何かが迫ってくるような気がする。

ひとりのときにしか出ないと聞いた。すぐに消えてしまうと聞いた。いい幽霊だと聞いた。でも、それが本当じゃないとしたら? いや、もしかして別の幽霊とか?

階段を下りるあいだに不思議なことに俺の中の怖さが急速に去り、頭が冷めていく。まずは彼女を安心させなくちゃ。怖い思いをしたのは俺じゃなく、彼女なのだから。

1階に着いても、彼女は引っ張る力を緩めない。階段を振り返って警戒しているということは、追いかけてくる可能性があるのだろうか。

「びっくりさせてごめん」

渡り廊下の前でようやく俺の袖から手を離し、彼女が言った。階段への警戒と……少しだけ申し訳なさの混じった顔をして。

「あのね……、幽霊じゃないの」

思わず耳を疑った。でも、間違いなくそう聞こえた。

「……え?」

幽霊じゃない? 幽霊じゃない怖いもの? もしかして、誰かに襲われたとか……?

彼女はまだちらちらと階段の方を確認しながら教えてくれた。

「虫なの。虫、虫、虫! 足がいっぱいあるやつ。こんなに大きいの」

言いながら両手で示した大きさは20センチ以上あるだろうか。

「それが天井からぽとって落ちてきたの。で、こっちにぞわぞわぞわって歩いて来てね、ものすごく怖かったの」

彼女は自分の腕を抱き、ぶるぶるっと肩をふるわせた。

「そ、それは……気持ち悪いね」

その気持ちは分かる。俺だって、その場にいたら思わず叫んだだろう。だけど……、だけど、力が抜ける。

「そうなの! 落ちてきただけじゃなくて、こっちに向かってくるなんておかしいでしょ! しかも足の動き方が滑らかで、余計に気持ち悪いんだよ!」

興奮がなかなか冷めないようだ。しかも、ずいぶんじっくり観察してしまったらしい。でなければ、怖さのあまり、目に焼き付いてしまったのかも。

「ねえ、どうしよう?」
「え? ああ、今日は終わりにしても――」
「やだやだやだ、それじゃダメ」

あわてて首を横に振る彼女。見上げる表情は懇願のような、期待のような……。

「見てきてもらえない?」
「……虫を?」
「うん。だって、うちのクラスの前だったんだもん」

虫か……。

確かに、この怖がりようだと、明日の授業中も気になって仕方がないだろう。まあ、俺も足の多い虫は気持ち悪いけれど、分かっていれば対処できる気がする。何より樫村さんがこんなに怖がっているのだから、どうにかしてあげないと。

「分かった。行ってくるよ」

見つけたら、箒とちりとりでどうにかしよう。できれば潰さないで済ませたいけれど、どうだろう?

「あ、待って。やっぱりわたしも行く」

歩き始めた俺に、口許に決意をみなぎらせた彼女が追いかけてきて並んだ。

「無理しなくてもいいよ」
「いいの。どうなったか見届けたいし、手伝いたいから」

と、ふわりと微笑みを浮かべて俺を見上げた。

「尾張くんと一緒なら大丈夫」

世界が一瞬止まり、また動き出す。彼女が信頼してくれた。ただの虫のことなのに、胸に湧き上がる感動。

「あ」

彼女が立ち止まる。

「心配して来てくれたんだね。ありがとう」
「い、いや。それほどのことじゃ……」

返事もそこそこに向き直り、階段を上る。顔をうつむけて。

――そんな顔でそんなことを言われたら、俺は。

この階段が永久に続けばいいのに、と思ってしまいそうだ。