水曜日の幽霊探しも何事もないまま終了した。
外に出ると、空に散ったもこもこした雲の片側が濃いピンクに染まっていた。俺の視線を追った彼女が「きれい」と微笑んだ。けれど、その微笑みは長く続かず、少しすると「今日も何にもなかったね」と肩を落とした。
「知らん顔するのが上手くなったかな」
自転車を押しながら、俺は答えた。
「誰かとすれ違ったり、行き先を観察しているときに振り向かれたりしても、当たり前の顔をしていられるようになったよ」
「……それ、どこかで役に立つ?」
「もしかしたら、将来、刑事になるかも知れないよ? でなきゃ、探偵事務所に就職するとか」
ふふ、と彼女が笑った。空気がふわりと軽くなる。
「そんなに特殊な仕事じゃなくても、ポーカーフェイスは役に立つね、きっと」
「例えば?」
「んー……」
きらめく大きな瞳は、彼女が楽しい気分でいることを教えてくれる。
「スパイ?」
「思いっきり特殊な仕事じゃん!」
「ほらほら、感情が出てるよ。ポーカーフェイスでしょ」
「今は必要ないよね?」
自分が女の子とぽんぽん言葉を交わしているなんて信じられない。今までは、何か言われても戸惑うばかりだったのに。
「あ、ねえねえ、尾張くん。尾張くんが今までで一番恥ずかしかったことって、何?」
前言撤回。急な質問に戸惑っています。
「恥ずかしかったことって……」
ジーンズのファスナーが開いていたことを思い出した。でも言いにくい。ついでに今、確かめたくなってきて困る。
「この前、電車に乗ったときなんだけど」
彼女が話し出してくれてほっとした。もしかしたら、この話をしたくて質問したのかも。
「長い椅子に座ってたらね、隣のひとが降りるために立ち上がったの。そのときに床にタオルが落ちたから、急いで拾って追いかけたの」
彼女なら、それは納得できる行動だ。
「で、『落ちましたよ』って差し出したら『違います』って言われて、後ろから『それ、わたしのです』って声がしたの。それがね、降りるひとの向こう側に座ってたひとのだったの!」
なんと!
「落としたひとに『拾おうと思ったのに持ってっちゃうから』って睨まれちゃって……、元の席に戻りにくくて、わたしもその駅で降りちゃった。そそっかしいのに勢いで何かしたら危ないって、つくづく反省したよ」
彼女がため息をついた。他人から睨まれたら、俺だっていつまでも嫌な気持ちが消えないと思う。
「いいことをしたはずだったのにね」
「そう思っていたのに、そうじゃないどころか、迷惑をかけてたってところがね……、落ち込むよね」
「うん。でも、そこで反省したっていうのが偉いなあ」
俺の言葉に彼女が不思議そうな顔をした。
「俺なんか睨まれたことばっかり考えちゃいそうだよ。その相手を恨んだり、もう親切はやめようって思ったり」
「そう?」
「うん。たぶん」
マイナス思考の俺だから、そこで進むのをやめてしまうだろう。でも、彼女は反省した。反省することは、きっと、同じ失敗を繰り返さないようにすることで、進むのをやめてしまうことではない。
「そそっかしいなんて、意外だな」
俺の言葉に彼女は「そう?」と首を傾げた。
「家ではいつも言われてるよ。勘違いも多いし、面倒くさがって無理なことをしようとするし、しょっちゅう失敗してるから」
「落ち着いて見えるのに」
「学校ではだいたいそう言われる。でも、家ではいろいろやってるよ。そうそう、もう一つあるんだ、恥ずかしかったこと!」
そう言うと、彼女はちょっと笑った。今度は面白い話らしい。
「もうずいぶん前なんだけど、前から歩いてきたひとがね、『ちょっとすみません』って言ったの。周りに誰もいなかったから、『はい、何ですか?』って答えたの。そしたらね」
そこでまたくすくす笑って。
「そのひと、わたしの方を見ないで、何かしゃべりながらすれ違って行っちゃったの」
「え? どういうこと?」
「イヤフォンか何かで電話をかけてたの!」
「ああ! 手ぶらで」
俺も見たことがある。
「そう。まっすぐこっち向いてはっきり聞き取れたから、絶対にわたしに話しかけたと思って、けっこう大きな声で返事しちゃったんだよね。そのひと以外には誰もいなかったけど、すごく恥ずかしかったよ~」
「いやあ、それはたぶん、俺でも返事しちゃったと思うよ」
街中で電話をしている本人は気付いていないようだけど、手ぶらじゃなくてもけっこう大きな声がでているのだ。俺は駅で電車を待っているときに、近くにいた女のひとの友達が二股をかけられたという話を詳しく聞いたこともある。「○○ちゃん」という名前までしっかりと。そういうとき、聞こえてしまっている自分の方が居心地が悪い。
「っていうか、そのひとは、ひとりでしゃべってることが恥ずかしくないのかな?」
「分かんない。でも、平気なんじゃない?」
まあ、平気だから使っているのだろうけれど。
と、前方を黒いものがひらひらと通り過ぎた。薄い闇がかかりはじめた住宅街。ちょうど街灯くらいの高さをカラスアゲハのような影が数個、音もなく舞っている。
「コウモリだ」
「え?」
よく分からないらしい彼女のために、止まって指を差す。
「ほら、ひらひらしてるの、見える?」
「え……、ああ、うん、いるね。あれ、コウモリなの?」
「うん。夕方になると、虫を食べに出てくるみたいだよ」
「へえ。この道、いつも通ってるのに気付かなかった。あんなに激しく動いてるのに音がしないなんて不思議」
くるくると複雑な動きで飛び回るコウモリたち。あれを見るといつも、あんなに動いたら、いくら食べてもエネルギーが足りないのではないかと思ってしまう。
「こんな住宅街にもいるんだね、コウモリ」
「そうだね。俺も最初に気が付いたときはびっくりしたよ」
でも、一度気付くと簡単に見つけられる。そして、なんとなく可愛く思えてくる。
「行こうか」
「うん」
コウモリの下を通るとき、彼女は「ぶつかってこないかな」と警戒していた。大丈夫だと答えながら、ふと、彼女がコウモリを怖がるひとじゃなくてよかった、と思った。コウモリという生きものが好きじゃないひとだっているはずだから。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。気を付けて」
「ありがとう」
後ろ姿を見送っていたら、彼女と俺のことを冷やかす加賀の声が頭の中に聞こえてきた。思わず苦笑してしまう。
――あるわけないのにな。
そう。あるわけない。だけど……考えそうになる。