勢いよく手のひらをこすると、放たれたふたつのトンボは、羽を軽快に回しながら空高く上昇していく。
全員の目がその軌跡を追い、天を見上げる。
「あっ!」
だれかが、小さく叫んだ。
片方のトンボが失速し、濃緑の葉が茂る杉の枝の中に突き刺さる。
もう一方は軽々と頂点を越え、かさりと小さく音を立てて向こうの草むらに落ちたのがわかった。
その音がした瞬間、皆がわれ先にと駆けだし確かめに行く。
無造作に生い茂った夏草の上に、静かに横たわるひとつの竹トンボを中心にして、たくさんの瞳がそれを見下ろす。
その中から震える白い手が伸び、そっとトンボを拾った。
「……わたしのじゃ、ない」
喜一がぼそりとつぶやいた。
竹トンボを目の前に突き出され、左之助がきょとんとしたまま受け取った。たしかに、自分が作ったものである。
「やったあ!!」
ようやっと勝ちを実感して歓声をあげると、皆が左之助を取り囲んで、それぞれに祝いの言葉を浴びせかける。
もみくちゃにされ満面の笑みでそれに応えていた左之助が顔をあげると、唇をぎゅっと結んで立ち尽くしている喜一と目が合った。
喜一はしばらく左之助を見つめていたが、はっと気がつくと、腰の巾着から根付けを外す。。
ゆっくり左之助に近づき、眉を八の字にして薄く笑みを浮かべた。その表情に、左之助の胸の奥がチクチクとうずく。
「やっぱり、左之助ちゃんはすごいや。これは男同士の約束だからね」
左之助の手のひらに、つるりと光る琥珀をちょこんとのせた。
その白い喜一の手を見て、目を見開く。そこは、無数の小傷でいっぱいになっていたのだ。
きっと彼は、今日初めて小刀を使ったのだろう。松太郎に教わりながら、慣れない手つきで竹を削った際にできた傷だった。
「喜一、おまえのその手……」
左之助の指摘に、皆も気がついて眉を寄せた。
「痛くないのか?」
「あっちの手水舎で洗う?」
「オレ、手ぬぐい持ってる!」
心配する友達の声に、喜一の顔には自然と微笑みが戻ってきていた。
「ありがとう。でも全然痛くないんだよ。血ももう出ていないし」
喜一がそう言うと、全員が安心してほっと息を吐いた。
「でも……」
一本杉を見上げて、喜一の顔が再び曇っていく。喜一の竹トンボが、まだ杉に刺さったままだった。
「あそこじゃあ、無理だな」
「残念だけど、諦めろよ」
仲間たちの慰めの言葉をかけても、喜一は諦めずに上を眺め続けている。
「しかたがないよ。だってこの木は、なぁ?」
「そうそう。登るわけにいかないもんな」
子どもひとりでは抱えきれないほどの幹に巻かれたしめ縄に、視線を寄せた。
「ご神木になんか登ったら、お狐さまの祟りにあっちまうよ」
子どもたちはうんうんとうなずき額を合わせ、ぶるぶると肩を縮こめる始末。
ところが喜一は、ざらつく樹皮に両手を添えて下駄を脱いだかと思うと、なんと幹に足をかけたのだ。
「お、おい」
「喜一、止めろよ」
細い身体にしがみついて皆で止めようとするが、喜一も杉の幹にペタリとすがり付いて離れない。
「お願いだよ、離しておくれ。あれを取りに行きたいんだ」
勝負に負けても泣かなかった喜一が涙声で懇願するが、周りも必死だ。
「ダメだよ。それに、おめえには無理だって」
言われてみれば、たしかに喜一はしがみつくだけで、少しも上に登れていない。
ひ弱な喜一が、大木のてっぺん近くまで登るなどとうてい無理なことなのだ。
自分の非力さを思い知らされがっくりと肩落とすと、ぺたんと根元に座りこんでしまった。
その姿に、左之助は溜め息をひとつ吐いてから、下駄を脱ぎ捨て着物の裾をたくし上げた。杉の木の上を見据えて喜一の横に立つ。
突然むき出しの足が横に現れ、驚いた喜一が顔をあげた。
「……左之助ちゃん?」
呼びかけに左之助が視線を下げ、ぶっきらぼうに答える。
「しかたねえな、おれが取ってきてやらあ」
そう言い捨て、手足を器用に使ってするすると登り始めた。
「おいっ!左之助までなにやってんだよ」
「ほんとにまずいって」
焦る仲間を尻目に、左之助はどんどん上へと進んでいく。
あっという間に小さくなっていく左之助を、皆で見上げていると、つい今し方まで青かった空が、にわかに鉛色の雲に覆われはじめていた。
生ぬるい風が木々の間を抜けて届き、遠くから雷鳴が届く。
喜一を止めていた子どもたちの顔からさっと血の気が引いて、ガチガチと歯を鳴らす。
「やっぱり、お狐さまが怒ってる!?」
「お稲荷様が、雷様を呼んだんだ!!」
恐怖に叫びをあげ、木の上の左之助を置き去りにして、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが一本杉の元から逃げ去っていく。
振り返りもせずに鳥居をくぐって全力で走り帰る彼らの後ろ姿を、喜一は緊張した面持ちで見送った。
木の上に視線を戻すと、なおも登り続けている左之助に大声で懇願する。
「左之助ちゃん! もう、いいから。危ないから降りてきてよ!」
「馬鹿言うなよ。あともう少しなんだから、待ってろって!」
左之助は枝に足をかけ、木にしがみついて上を見たまま怒鳴り返すと、さらに高みを目指しはじめた。
雷の音はどんどん近付いてきている。
心配そうな喜一が眺めやると、少し離れたことろでピカピカと閃光が空を切り裂いていた。
それだけでも不安な気持ちで小さな胸がいっぱいになるのに、見上げる喜一の顔に、ぽつりと大粒の雨まで落ちてきた。
上に行くにつれ、幹も枝も細くなり足下が不安定になっていく。
あと少し。ふたりが同時に心の中で思った。
左之助は枝の先、繁る葉の中に埋もれたトンボに片手を伸ばす。
指先が触れたそのとき、鋭い閃光と雷鳴が轟いた。
幸いなことに雷はこの辺りに落ちたようではなかったが、その音と光は、左之助たちの度胆を抜くには十分すぎるほどに効果があった。
「うわっ!」
驚いて両手を木から離し足が滑る。左之助はそのまま落下していった。
全員の目がその軌跡を追い、天を見上げる。
「あっ!」
だれかが、小さく叫んだ。
片方のトンボが失速し、濃緑の葉が茂る杉の枝の中に突き刺さる。
もう一方は軽々と頂点を越え、かさりと小さく音を立てて向こうの草むらに落ちたのがわかった。
その音がした瞬間、皆がわれ先にと駆けだし確かめに行く。
無造作に生い茂った夏草の上に、静かに横たわるひとつの竹トンボを中心にして、たくさんの瞳がそれを見下ろす。
その中から震える白い手が伸び、そっとトンボを拾った。
「……わたしのじゃ、ない」
喜一がぼそりとつぶやいた。
竹トンボを目の前に突き出され、左之助がきょとんとしたまま受け取った。たしかに、自分が作ったものである。
「やったあ!!」
ようやっと勝ちを実感して歓声をあげると、皆が左之助を取り囲んで、それぞれに祝いの言葉を浴びせかける。
もみくちゃにされ満面の笑みでそれに応えていた左之助が顔をあげると、唇をぎゅっと結んで立ち尽くしている喜一と目が合った。
喜一はしばらく左之助を見つめていたが、はっと気がつくと、腰の巾着から根付けを外す。。
ゆっくり左之助に近づき、眉を八の字にして薄く笑みを浮かべた。その表情に、左之助の胸の奥がチクチクとうずく。
「やっぱり、左之助ちゃんはすごいや。これは男同士の約束だからね」
左之助の手のひらに、つるりと光る琥珀をちょこんとのせた。
その白い喜一の手を見て、目を見開く。そこは、無数の小傷でいっぱいになっていたのだ。
きっと彼は、今日初めて小刀を使ったのだろう。松太郎に教わりながら、慣れない手つきで竹を削った際にできた傷だった。
「喜一、おまえのその手……」
左之助の指摘に、皆も気がついて眉を寄せた。
「痛くないのか?」
「あっちの手水舎で洗う?」
「オレ、手ぬぐい持ってる!」
心配する友達の声に、喜一の顔には自然と微笑みが戻ってきていた。
「ありがとう。でも全然痛くないんだよ。血ももう出ていないし」
喜一がそう言うと、全員が安心してほっと息を吐いた。
「でも……」
一本杉を見上げて、喜一の顔が再び曇っていく。喜一の竹トンボが、まだ杉に刺さったままだった。
「あそこじゃあ、無理だな」
「残念だけど、諦めろよ」
仲間たちの慰めの言葉をかけても、喜一は諦めずに上を眺め続けている。
「しかたがないよ。だってこの木は、なぁ?」
「そうそう。登るわけにいかないもんな」
子どもひとりでは抱えきれないほどの幹に巻かれたしめ縄に、視線を寄せた。
「ご神木になんか登ったら、お狐さまの祟りにあっちまうよ」
子どもたちはうんうんとうなずき額を合わせ、ぶるぶると肩を縮こめる始末。
ところが喜一は、ざらつく樹皮に両手を添えて下駄を脱いだかと思うと、なんと幹に足をかけたのだ。
「お、おい」
「喜一、止めろよ」
細い身体にしがみついて皆で止めようとするが、喜一も杉の幹にペタリとすがり付いて離れない。
「お願いだよ、離しておくれ。あれを取りに行きたいんだ」
勝負に負けても泣かなかった喜一が涙声で懇願するが、周りも必死だ。
「ダメだよ。それに、おめえには無理だって」
言われてみれば、たしかに喜一はしがみつくだけで、少しも上に登れていない。
ひ弱な喜一が、大木のてっぺん近くまで登るなどとうてい無理なことなのだ。
自分の非力さを思い知らされがっくりと肩落とすと、ぺたんと根元に座りこんでしまった。
その姿に、左之助は溜め息をひとつ吐いてから、下駄を脱ぎ捨て着物の裾をたくし上げた。杉の木の上を見据えて喜一の横に立つ。
突然むき出しの足が横に現れ、驚いた喜一が顔をあげた。
「……左之助ちゃん?」
呼びかけに左之助が視線を下げ、ぶっきらぼうに答える。
「しかたねえな、おれが取ってきてやらあ」
そう言い捨て、手足を器用に使ってするすると登り始めた。
「おいっ!左之助までなにやってんだよ」
「ほんとにまずいって」
焦る仲間を尻目に、左之助はどんどん上へと進んでいく。
あっという間に小さくなっていく左之助を、皆で見上げていると、つい今し方まで青かった空が、にわかに鉛色の雲に覆われはじめていた。
生ぬるい風が木々の間を抜けて届き、遠くから雷鳴が届く。
喜一を止めていた子どもたちの顔からさっと血の気が引いて、ガチガチと歯を鳴らす。
「やっぱり、お狐さまが怒ってる!?」
「お稲荷様が、雷様を呼んだんだ!!」
恐怖に叫びをあげ、木の上の左之助を置き去りにして、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが一本杉の元から逃げ去っていく。
振り返りもせずに鳥居をくぐって全力で走り帰る彼らの後ろ姿を、喜一は緊張した面持ちで見送った。
木の上に視線を戻すと、なおも登り続けている左之助に大声で懇願する。
「左之助ちゃん! もう、いいから。危ないから降りてきてよ!」
「馬鹿言うなよ。あともう少しなんだから、待ってろって!」
左之助は枝に足をかけ、木にしがみついて上を見たまま怒鳴り返すと、さらに高みを目指しはじめた。
雷の音はどんどん近付いてきている。
心配そうな喜一が眺めやると、少し離れたことろでピカピカと閃光が空を切り裂いていた。
それだけでも不安な気持ちで小さな胸がいっぱいになるのに、見上げる喜一の顔に、ぽつりと大粒の雨まで落ちてきた。
上に行くにつれ、幹も枝も細くなり足下が不安定になっていく。
あと少し。ふたりが同時に心の中で思った。
左之助は枝の先、繁る葉の中に埋もれたトンボに片手を伸ばす。
指先が触れたそのとき、鋭い閃光と雷鳴が轟いた。
幸いなことに雷はこの辺りに落ちたようではなかったが、その音と光は、左之助たちの度胆を抜くには十分すぎるほどに効果があった。
「うわっ!」
驚いて両手を木から離し足が滑る。左之助はそのまま落下していった。