ある日、ふらりと家を出て、信吉は桜が満開の川沿いの土手にきていた。
 花見客で賑わう中を歩きながら、今後の身の振り方に悩む。
 突然目の前の道がなくなってしまい、ただただ途方に暮れた。自分の意志では、前にも後ろにも、右にも左にも、一歩たりとも踏み出せない。
 ただ、いくら考えても、もう一度医学の道に挑戦することだけは、信吉の頭にこれっぽっちもなかった。

「そんな僕が、人の生死に関わる医者になんかなってはいけないって、神様も分かっていたのかもね」
「……あの御仁らは、おぬしの将来を慮ってくれるほどお人よ……お神好しではないぞ」
「なんだって?」

 語りを止めた信吉に、あかねはひらひらと手のひらを振る。

「ああ、かまわずに続けろ」
「そうかい?」

 腑に落ちない様子ながらも、信吉は一度あげた視線を再び下駄に落とした。

「医者にはなれない。けれど僕は、この先も生きていかなければいけないわけで……」

 親が用意してくれた道は途切れてしまった。これからは、道の先を自分で探さなければならない。
 いままですべて他人任せだった自分に、なにができるのだろうか。 

 舞い落ちる桜の花びらが緩やかな川の流れにのって下っていくのを、土手に腰を下ろして眺めていると、いつの間にか日は傾いていた。
 ぐぅと腹が鳴る。思い出せば朝からなにも食べていなかった。いったん意識してしまうと、信吉は急に腹が減りだした。
 すると目の前に、大きなぼた餅が差し出されたのだ。

「松乃屋のお嬢さんたちが露店を出していてね。もう帰るところだからと、ひとつくれたんだ。よっぽど酷い顔をしていたんだろうね」

 信吉は顔をくしゃりと歪ませた。

「それが、いままで食べたどのぼた餅よりもうまくってさ。やさしい甘みが胸にしみて、とっても幸せな気持ちになったんだよ」

 医者は病気や怪我を治して人を助けるけれど、こんなありふれた菓子ひとつが人の心を救うこともあるんだと、信吉は初めて知った。
『だれかの心をほっと温かくさせるような幸せを、自分の手で創りたい』そう思ったのだ。

「家を飛び出して、親方に弟子入りを頼んだけど、全く相手にしてくれなくってさ」
「源造は町内でも筋金入りの頑固者だからの」

 あかねがしみじみとうなずいた。

『たった一度失敗したからって、今度はこっちなどという甘い考えの奴は要らない。菓子職人をなめるな』

 散々にいわれたが、信吉は今度こそ諦めなかった。
 ひと月あまりの間毎日欠かさず松乃屋に通い、朝から晩まで店先に居座った。しまいには、ふたりの娘や店の者たち、お節介なご近所に説得され、とうとう源造が折れたのだ。
 ただし、条件付きで。