色あせた朱塗りの鳥居をくぐる姿があった。まとめた髪に白いものが目立つ女は、短い参道で青年とすれ違う。
互いに目が合うと軽く会釈を交わし、それぞれの方向へと歩いていく。
お参りを済ませた女は小さな社務所から道具をもってくると、慣れた様子で掃除を始めた。
まずは石畳の参道を掃き清める。
竹箒のたてる乾いた音が、昼下がりの静謐な境内に響く。
拝殿の階段を濡れ雑巾で拭く彼女に、労いの声がかけられた。
「いつもご苦労だな、お千代」
勾欄に座り、白い足袋の足をぶらつかせた少女に、千代は目尻のしわを深くして相好をほころばせる。
「いえいえ、たいした手間ではございません。家におっても、孫の世話で疲れるだけですから」
その孫とたいしてかわらない年頃にみえる少女が、大きな吊り目を細める。
「ほう。あの坊は、いくつになった」
「おかげさまで、直七つになります」
「そうか。宮参りにきたのは、ついこの間のことのようだがの」
コロコロと笑う声に、帯飾りの鈴の音が重なる。
「秋には、もうひとり孫が増えるのです。お婆は当分、ゆっくりさせてはもらえそうにありません」
やれやれと腰を叩きながらも、その眼差しは、新しく増える家族への喜びに満ち満ちていた。
「それは重畳」
少女はとん、と軽やかに飛び降り、年季の入った賽銭箱の横へ小さな手を伸ばす。
そこには、懐紙の上に新雪を丸めた雪兎のような薯蕷饅頭が、ひとつだけのっかっていた。
「賽銭代わりのようじゃ。近頃、よく置いてゆく」
「ああ、それはきっと、松乃屋さんのとこの信吉さんですね。さっき、そこでお見かけしました」
「松乃屋とな?」
この辺りでは名の知れた、老舗の菓子屋だ。
「はい。そこの見習いの職人さんなんですよ。ひょろりと背のある細面の」
ふっくらした頬を、千代は両手で挟んでみせる。
少女は、拝殿の前で長いこと手を合わせていた青年を思い出した。
「あの優男か」
「近頃は、ああいった粋な雰囲気の顔が流行りなんだそうですよ。あたしが、あともう少し若かったら放っておかないんですけどねえ」
年甲斐もなく、ふふふと頬を染める。
「お千代は十分に若いぞ。まだ古希も迎えておらんのじゃろう」
「あらまあ。嬉しいことをおっしゃる。そりゃあ、あかねさまに比べたら、酒屋のご隠居だってひよっこですわ」
千代は、去年卒寿を迎えた老爺を引き合いに出した。
「左之助も最近はとんと顔を見せぬが、息災そうでなによりじゃ」
うんうんと頷いて、あかねは嬉しそうに饅頭に食らいつく。
しっとりと白い皮の中ほどに歯を立てると、割れ目から茶褐色のこし餡が顔を出した。
口に入った分をもぐもぐゴクンと飲み込んでから、不思議そうに小首を傾げる。
「松乃屋は店主が替わったのか? 身体でも悪くしておるのだろうか?」
「いいえぇ。源さんは元気ですよ。若い衆を怒鳴り散らして、いつも娘さんに叱られています。源造さんがどうかしました?」
「いや。それならよいのだ」
あかねは残りの半分も、小さな疑問と一緒に飲み下した。
掃除道具を片付けた千代が、小さな包みを差し出す。
「いつも同じもので申し訳ありませんが」
「おぉ。度々、すまぬな。ありがたいぞ」
あかねは両手で受け取って、懐に入れる。
「せがれもようやく、うまく揚げられるようになってきました」
「そうか。それは良かったのぅ」
跡継ぎの成長を誇らしげ報告して、それではまた、と千代は帰っていった。
懐の包みを取り出してそっと開ける。
中身は、お馴染みの油揚げが二枚。
それをみて、あかねは複雑な笑みを浮かべる。
「お千代よ。じつは妾、お揚げよりがんものほうが好きなのじゃ」
独りごちて、ぱくりと油揚げを丸呑みした。
その日も、あかねは鳥居の笠木に腰掛け、町の風景を眺めていた。
侍の時代が終わりを告げてから、この国は急速に様変わりしている。
行き交う人々の服装が変わり、煙を吐く大きな函が、馬も牛いないのに勝手に走る。
夜になっても、いつまでも明るい場所ができ、妖たちは居場所が減ったと嘆いていた。
周りに家は増えたけど、この社を訪う者は減る一方だ。
それでも、千代のように気にかけてくれる者もまだいるから、あかねはここを離れない。
まあ、離れるといっても、ほかに行くとろなどないのだけれど。
あかねがここに棲みついたのは、四百年あまり昔のこと。
主の居なくなった社は荒れ果てて、人間に忘れ去られていた。
雑木林の中にあった崩れかけの建物を、人間に追われて母狐とはぐれたあかねは、雨露をしのぐための宿にした。
雨がやんで冷たい霙に変わり、やがて辺り一面が雪に覆われても、いっこうに母親は迎えは来なかったが、人が訪れることもないこの場所は、思いのほか居心地が良くてついつい長居をした。
そうしていつしか気づいたら、ふさふさの尻尾が増え、赤銅色の毛皮は綿雪みたいに真っ白になっていたのだ。
そう。ちょうどあの、薯蕷饅頭みたいに。
やがて林は切り開かれ、社の周りにどんどん人が集まり、家が建っていった。
おんぼろだった建物も、人間たちが直してくれた。
とくになにをしたというつもりはないのに、賽銭や供物を勝手に置いていく。
礼に、ときどき白い姿を見せて話を聞いてやると、それだけで人間は喜んだ。
「ありがとう」と言って、笑ってくれた。
だから、あかねはずっとここに居たのだ。
そしてたぶん、これからもここに居る。
近頃は、お尻の辺りがムズムズするから、もしかしたらもう一本、尻尾が生えてくるのかもしれない。
初夏を思わせる日差しに、あかねは目の上に小さな丸い手でひさしをつくる。
鳥居の上から望める川の土手に並ぶ桜は、ついこのまえ満開になり人間の心を沸き立たせていたのに、いまはもう、緑濃い葉っぱが薫風に揺れていた。
学校帰りの女学生が賑やかにおしゃべりをしながら、鳥居の前を過ぎていく。話の内容は半分もわからなかったが、明るく弾む声は聞いているだけで楽しくなる。
浮つく気持ちに自慢の尻尾たちが、ふさりふさりと拍子を刻んだ。
その動きに合わせるように、カランカランと下駄の音が近づき鳥居をくぐっていった。
「おや、あれは」
覚えのある顔を見留め、あかねはくるんと一回転をしながら飛び降りる。音もなく着地したときにはもう、白狐から少女へと姿を変えていた。
信吉は拝殿の前に立つと、頭に巻いていた豆絞りの手ぬぐいを取った。長めの前髪が、はらりと顔にかかって邪魔そうだ。
いつものように、賽銭箱の傍らへもってきた草餅を置くと、じゃらんと鈴を鳴らす。音に驚いた鳩たちが、いっせいに飛び立っていった。
長い指の大きな手が、パンパンと小気味よい音をさせて柏手を打つ。
そのまま頭を下げると、またも長いこと願掛けを始める。
あかねはしばらく待ってみたが、いっこうに顔をあげるようすがない。しびれを切らし、つい「コン」と咳払いをしてしまった。
ほかにだれかがいるとは思わなかった信吉は、拝むのを止めてキョロキョロとあたりを見回している。
「信吉とやらよ。願いを頼むときは、己が名と住まいを告げねばならんのだぞ」
「うわっ!」
すぐ後ろに立つあかねにようやく気づくと、飛び上がらんばかりに驚いた。
突然現れたあかねに、信吉は首を傾げる。
「お嬢ちゃん、ここの子かい?」
「あかねじゃ」
齢四百に届こうかというあかねは、ぷぅと不満顔になる。
そんなことは、もちろん信吉は知らない。
この年頃特有の『おませ』さんなのかと思ったようだ。
「あかねちゃん?」
まだあかねのご機嫌は戻らない。
うーんと眉根を寄せて考え、信吉が言い直した。
「あかねさん」
「……まあ、よい」
渋々、あかねは了承した。
お許しを得た信吉が、さっきの助言の意味を尋ねる。
「名前と住所を言わないとダメって、本当かい?」
うむ、とあかねが肯いた。
「おぬし、ここの氏子ではないであろう。なれば、きちんと名乗りを上げなくては、どこのだれかわからんではないか」
「へぇ、そういうもんなんだ。小さいのによく知っているね」
奇妙な口調の少女を不審がるが、それよりも願い事のほうを優先したらしく、信吉はもう一度拝殿に向かい合う。
「この町の菓子屋、松乃屋で見習いをしております信吉というものでございます。お稲荷さまにお願い申し上げます――」
ちょいちょいと、あかねが信吉の藍染めの作務衣の裾を引っ張る。
「なんだい? これからお願いをするんだから、邪魔をしないでおくれよ」
「信吉や、声には出さんで大丈夫じゃ」
「あれ、そうかい」
信吉は、三度拝みはじめた。
その横から、あかねは草餅に手を伸ばす。
この季節限定の餅は、鼻に抜ける蓬の薫りが爽やかだ。翡翠色の鮮やかなもちっとした皮に、ほっこりつぶ餡が包まれている。
ふたつ目にあーんと口を開けたところでアッと声がした。
「なんじゃ、邪魔をするでない」
半分ほどをくわえたまま、口を動かし文句を言う。
「ダメじゃないか。それは、お稲荷さまへのお供え物なんだよ」
信吉が注意するも、当然のごとくあかねは気にしない。残りの餅も、きれいに食べてしまった。
「あーあ。酷いなぁ」
信吉が、怒っているような呆れたような声を出す。
「のう、信吉や。お千代は元気だと言っていたが、源造はどこか悪いのかえ?」
「え、うちの親方のことかい? とくに具合が悪いとは聞いていないけれども。どうしてそんなことを聞くんだい?」
「うむ。餡がな、違うのじゃ」
「餡子がなんだって?」
信吉の顔が、みるみる間に曇っていく。
背中を丸めた信吉は、拝殿横にある一本杉の根元にドスンと腰を下ろして、はぁーっと溜め息をついた。
「どうしたのじゃ?」
あかねは、正面にしゃがみこんで顔を覗く。長い前髪のすき間から、切れ長の目がみえたが、瞳はどんよりと暗い色を湛えていた。
「こんな子どもにまでわかっちゃうなんて、やっぱりダメなんだなぁ」
「――妾は子どもではないぞ」
小さな口をつんと尖らすと、信吉はハハハと力なく笑う。
「そっか。ごめん、ごめん」
あかねはおかっぱ頭を、大きな手でぐりぐりとなで回されてビックリした。
「な、なにをするんじゃ!」
ぼさぼさに乱れた頭を両手で押さえて、顔を真っ赤にさせる。
必死に黒髪を手櫛で直している姿を、信吉がにこやかにみていた。
「ちびっこくても、女の子なんだなぁ」
「おぬし、いちいち無礼であるぞ」
あかねの瞳が細くなって、だんだん剣呑な目つきになっていく。
急に信吉はぞくっと背筋に寒気を覚えた。ぶるりと震えて首を傾げる。
「あれ、どうしたんだろう。こんなに良いお天気なのに」
作務衣の衿を詰め腕をさする仕草に、あかねは呆れた。守狐が発する霊気に気づかぬとは、なんとまぁ鈍い奴じゃ。
「コン。それよりも、餡じゃ。早く教えろ」
「ああ、餡子のことだったね。たいしておもしろい話でないけど、聞いてくれるのかい?」
「だから、早う申せと言っておる」
急かすあかねに、信吉は気まずそうに白状した。
「その餡子は、僕がこしらえたものなんだよ」
「なんじゃ、そうだったのか。ゆえに、けったいな味がしたのじゃな」
身も蓋もなく批評すると、信吉はがっくりと肩を落とした。
「そんなにまずかったのかい?」
情けなく蚊の鳴くような声で尋ねられ、あかねはくちびるを舌でぺろりと舐める。今し方食べたばかりの草餅の味を思い出してみた。
「まずいとは言っておらぬ。なんと申したらよいのじゃろう?」
両手で頬づえをついて言葉を探す。
松乃家の者は、ときどき信吉のように菓子を供物に持ってくる。あかねの密かな楽しみのひとつだ。
松乃屋は源造で三代目。あかねは、先代も先々代も、そのずっと前から知っている。その味は代々確実に受け継がれていた。
決して信吉の餡が、食べられないほどまずいわけではない。だが、慣れ親しんだ味とはなにかが違う気がするのだ。
あかねは眉間にシワを寄せて、その「なにか」を探る。
真剣な顔で考えこむあかねを、信吉も固唾を呑んで見守っていた。
しばらくして、ついとあかねが顔を上げた。
「ぼんやり、なのじゃ」
「ぼんやり?」
「そう。ぼんやり、なのじゃな。おぬしの餡は」
松乃屋の餡は、やさしい甘さが特徴だ。ほっくり炊かれた小豆の餡は、口の中でほろりと解ける。
いろいろな餅や皮に包まれても、ほどよく調和し、出しゃばりすぎない。甘さはしっかり感じるのに、そこにしつこさはない。
甘い物が苦手な千代の亭主も、松乃屋の酒饅頭は好物だ。
しかし信吉の餡は、小豆の存在がぼんやりしていて、ただ甘いだけで深みがない。口の中にちょっと嫌な感じが残るときもある。
一言一句を考えながら伝えると、信吉は腕を組みうな垂れた。
「やっぱりそうか。なにかが足りないとは思っているんだけども」
信吉は目を閉じ、毎日行う餡の製造工程を、はじめっから頭の中で繰り返す。
小豆の選別から始まるそれは、細やかな作業だ。
松乃屋では、粒とこしでも使う小豆を替えているし、菓子の種類に応じて加えるちょっとしたひと手間が、全体の味を大きく左右する。
信吉が作る菓子の餡のどれもが、同じようにひと味足りたいとなると、共通する過程の中に、答えが隠れているのかもしれない。
「味がはっきりしないとなると、もしかしたら、塩が関係しているのかな」
「塩とな? 甘い餡に、しょっぱい塩を入れるのか?」
あかねは餡子作りの方法など、見たことも聞いたことのないから不思議に思った。