俺がぶつかったのは、背の低い老人だった。彼の目や口の周りには細かな皺(しわ)が集まり、それが無性におそろしく見えた。男は八十代くらいに見えたが、実際はそれより二十歳近く若かったはずだ。
老人は俺を見ると、人の好さそうな顔でニコニコ笑い、俺が落とした時計を拾った。
『坊や、大丈夫かい?』
その声音のやわらかさに、少しほっとした。だが、彼の目には隠しきれない鋭さが残っており、胸が無性にざわついた。
俺は彼が何をしていたのか不思議に思い、訊ねる。
『お爺さん、誰? うちに何か用?』
『私はね、君のお爺ちゃんのお友達だよ』
祖父の友人だと聞き、俺は警戒を緩める。
『そうなんだ。爺ちゃん、今は蚤(のみ)の市に行ってるけど……たまに掘り出しものがあるんだって』
祖父はこの時、半分趣味を兼ねて骨董商のような仕事をしていた。価値のある骨董品を買い集め、必要とする人がいれば譲ったり、鑑定したりしていたようだ。
『君の家には、他にもたくさんこういうのがあるのかな?』
子供の俺は疑うことなく返事をした。
『うん、爺ちゃん、古くて綺麗なものが好きだから。昔の王様の壺とか皿とか絵とか、いっぱい集めてる……けど……』
男は何度も嬉しそうに頷く。
『そうか、ありがとう。私も今度、見せてもらいたいな。また来るから』
『爺ちゃん、多分もうすぐ帰ってくるよ。家の中で待つ?』
『いや、今日はいいや。それに私が来たことは内緒にしてほしいんだ。久しぶりに会うから、お爺さんをびっくりさせたいんだよ』
『分かった! じゃあ俺、誰にも言わないよ』
俺の返事を聞くと、老人は笑顔で手を振りながら去っていく。
俺の身体は、一瞬で負の感情でいっぱいになった。
記憶を順番に辿るなら、当然この日が来ることも分かっていた。
これまでの記憶は、両親と祖父、鈴芽と俺の揃った、ずっと幸せなものだった。
でも、避けようがない。
――あの事件が起こる。
俺は青ざめながら、榊原に問いかける。
「……榊原」
「何や」
「これ、もうどうすることもできないのか!? 今からこの過去を変えるようなことは、できないのか!?」
榊原は、まっすぐに俺の目を見て言った。
「あぁ、残念ながら。俺たちは、時計の見てきた記憶を辿っているだけや。過去に介入することは、不可能や」
俺はぎゅっと拳を握りしめる。
「ちくしょう……!」
――この数日後、父と母は、あの男に殺される。