アメリカ調査隊のレーダー付きRHIBが沖に出ると、α・βチーム共に暇になってしまった。
コバルトブルーの海を眺めていると、セラミックは何だか南国へバカンスに来たみたいに錯覚してしまう。波打ち際に近寄ってみると、浅い海には見慣れないピンクのウミユリが……まるで花畑のように群生しているのが見えた。ブーツを脱いで潮干狩りのように足だけで砂浜を少し掘ると、三角形の二枚貝がゴロゴロと湧き出てくるように捕れた。
「蛤みたいに味噌汁に入れたらメッチャ美味しそう」
彼女がバケツ一杯、三角貝を掘って帰ってくると、松上はサマーベッドにサングラスをかけて寝っ転がっていた。
「セラミックさん、ちょっと泳がない?」
森岡世志乃が、なぜか大胆なビキニ姿で松上の前に姿を現したのだ。これ見よがしのマイクロビキニで、ブルーの海に映えるオフホワイトの上下であった。
「わお! 世志乃ちゃん、中生代に紐ビキニは色んな意味で無防備すぎるよ!」
エロ青年に変貌している松上は、ベッドから飛び起きると同時にサングラスを下げて、森岡世志乃が誇る丁度いい大きさの美尻を目で追った。
『フフフ、見てる見てる……』
熱視線のむず痒さを背に感じながら、森岡世志乃は黒髪をなびかせ、セラミックと吉田真美に向き合った。2人はしばし、ぽかんと口を開けたままだ。
「よし、私達もチャレンジしよう。セラミック、脱いでみな。今なら誰も見てないよ」
「ええ~!? 松上さんと松野下さんがいますよ」
「逆に全く誰からも見られていないと気分が萎えるから、いいんだよ2人には」
「マジですか……」
「マジマジ、ひょっとしたら我々が人類最初の『ジュラ紀でビキニ』のパイオニアになれるかも。SNSに投稿してみようか? もの凄い反響が今から目に浮かぶ。う~ん、こんなチャンス滅多にないよ」
「ひえ~!」
ウエットスーツだった吉田真美は、背のファスナーを下ろし今年買ったボーダー柄のセパレート水着姿となった。グラマーで腰のくびれがハッキリした真美さんは、大人びてスタイル抜群であった。
セラミックも一応水着を用意していたので、真美さんに手伝ってもらいながらバスタオルで隠しつつ、物陰にて着替えに移ったようだ。
誰かが接近してくる……目ざとく状況を察知した男性陣だ。悪戯っぽく様子を見に来た松上と松野下に向かって真美さんは顔をしかめると、素早く何かを投げつけた。
「ほら! 女子高生の脱ぎたてパンツだよ!」
「!!!」
思わず松上が眼前で摑み取った白い布製品は、先ほど松野下が履き古し、その辺に干してあった臭い靴下の片方であった。
「ぐえええ!!」
セラミックはフレアバンドゥのセパレート水着に着替えると、3人で静かな入り江に向かった。遠浅なので巨大捕食生物は入ってこれないだろうが、各々ビキニ姿に不釣り合いな自動小銃を背負って歩く。
「わあ、今までに見た、どんな南国ビーチより綺麗だわ。ハワイやグアムなんて目じゃないよ」
眩しそうに目を細める真美さんの言葉に森岡世志乃は、いてもたってもいられなくなった。
「短時間だけ泳いでみましょうよ。ね、折角なんだし」
「え~、ちょっと怖いな」
セラミックの躊躇は無理もない。海底まで広く見渡せるとはいえ未知の海へ、ほぼ裸同然で飛び込むには、かなりの勇気が必要だ。
「鯛のお化けみたいな魚も、いっぱい泳いでるし~」
「ダペディウムとかいうゴツい鎧を着たような魚ですわね!」
「セラミック、刺身にでもしたら意外とイケるんじゃないの? エナメル質の四角い鱗は包丁が通らないだろうけど」
水着も心も大胆な森岡世志乃は、意を決して古代の海へと足を浸した。サラサラの砂地が足指の間から滲み出ると同時に波に洗われる。磯臭くなく透明度の高い海水は、原初の地球の記憶を留めていた。オルドビス紀とデボン紀それにペルム紀や三畳紀末の大量絶滅を経験してきてはいるが、生きとし生ける物を育む羊水を思わせる豊かさだ。
「最高! ご機嫌な海を独占できて気持ちいい! 一緒に泳ぎましょうよ、お2人さ~ん」
3丁のライフルを浜辺で銃口を上にして三角形に組む間、ついに森岡世志乃は浅瀬で泳ぎ始めた。吉田真美とセラミックは、無防備な森岡世志乃が得体の知れない海棲生物に襲われて悲鳴を上げない事を確認してから海水に浸かる。波と潮風が2人のセパレート水着を飛沫に濡らせる頃、女性陣はいつの間にか海水浴に夢中となった。
真美さんは、イカそっくりなベレムナイトを追い散らして泳ぎまくる。すっかり身も心もリラックスモードである。
「温暖な気候だね~。世界中のどんな極上プライベートビーチも霞んでしまうわぁ!」
見上げれば翼竜のランフォリンクスが、もの珍しそうに人間を遠巻きにして飛行している。セラミックも任務を忘れて、呑気にはしゃいだ。
「よく見るとアンモナイトがいっぱいいるよ! ちょっとタコっぽい」
波間に漂うアンモナイトがセラミックの接近に驚いたのか、透明な体色を目まぐるしく変化させている。
そのうち豪胆な真美さんが、らしくなく金切り声を上げた。何事かと森岡世志乃が真美さんの元へと馳せ参じると、何と彼女のビキニの上……要するに右乳房に大きめのアンモナイトが吸盤を使ってピッタリとへばり付いていたのだ。
「うわ――――ぁ!」
今度はセラミックが大声を上げた! 彼女のビキニを付けた胸にも中型のアンモナイトが、その腕を伸ばして白い柔肌に吸い付いている。急いで力を加えても、しっかりとしがみ付いてきて、なかなか離そうとはしない。
「こんにゃろう!」
森岡世志乃がアンモナイトの殻を引っ張って、真美さんの巨乳を触手から解放した。
「いや――! 離せ!」
セラミックも螺旋状の殻を摑んで、軟体部がスッポリ抜けそうになるほどアンモナイトを引き伸ばした。
「ハア、ハア……あ~ビックリした!」
真美さんを始め、3人は陸に上がり前屈みになって息を整えたのだ。そして彼女はビキニトップの中に違和感を覚え、右のおっぱいをまさぐった。
「……何だコレは?」
取り出したのは透明に近い、白いカプセル状の物。セラミックも後ろを向いてビキニの中を調べると、全く同様のカプセルが、敏感な部分の上辺りに置かれているのを発見した。
「? ?」
悲鳴を聞きつけて飛んで来た松上晴人が、白々しく『どうした、何があった』と訊いてきた。そしてセラミックから白いカプセルを受け取ると正体を看破したのだ。
「あ~、コレはアンモナイトの精包だね。中に精子がいっぱい詰まったカプセルなんだよ。良かったね、セラミック! アンモナイトの雄からコレを渡されたって事は、彼から求婚された訳だ」
「!……真美さんと私は、アンモナイトからモテモテなんですか……あまり嬉しくないような」
そこまで聞いた白ビキニの森岡世志乃は、ふと疑問に思った。
「なんで私だけアンモナイトからカプセルを貰えなかったのですかね?」
丁度トイレタイムで遅れてやって来た松野下が、松上と目を合わせた後、少し申し訳なさそうに言った。
「あ~、アンモナイトの雄は丸くて大きな柔らかい物が大好きらしい……」
「丸く大きい柔らかい物……」
森岡世志乃は自分の胸元を覗きながら、わなわなと震えた。
「……それは、つまり私には谷間もなく、ボリュームが足りないと言いたいのですか!? もう許せん!」
「わあぁ! 俺じゃないって! 八つ当たりはよせ! 怒るならアンモナイトにだろ」
怒り心頭の森岡世志乃に恐れをなし、αチームのリーダーは砂浜に逃げ出したのだった。
「うわ――――ぁ!」
セラミックが叫び声を上げた頃、海上のRHIBに乗船しているアメリカ調査隊もシンクロするように喚声を上げていた。
それもそのはず、海面すぐ近くに15メートル以上はあろうかという巨大な漆黒の魚影が迫って来ていたからだ。
「何だ、あの恐ろしくデカい影は?! クジラなのか?」
「いや、この時代にまだクジラは存在していない。ジンベエザメを超える巨体は……もしかしてリードシクティスなのかもしれない。我々は運がいいぞ」
リードシクティスは超巨大魚だったが、のっぺりと優しい顔をしており、大口を開けて豊富なプランクトンを濾し取って食べているようだ。だが本能的に自分が乗っている船より大きな魚影は、人体丸ごと飲み込まれそうな恐怖感をじわじわと想起させ、全員手の平にかく汗が尋常でなくなった。
「我々が探す魚竜……オフタルモサウルスは一体どこにいるんだ? さっきからイカを撒いて、おびき寄せているがサッパリじゃないか」
アメリカ調査隊のハンター兼研究者達は焦り始めた。魚群探知機には確かに多数の魚影らしき物を捉えていたが、それが一体何なのか全く分からない。収斂進化によりイルカに酷似しているオフタルモサウルスは、恐らく海面に背びれを出したりジャンプしたりすると考えられている。7名のアメリカチームは一丸となり、鵜の目鷹の目で海上を捜索し続ける。
「おい! あれを見てみろ!」
唇を始め、皮膚表面から血の気が失せた研究員が示す先に皆が注視する。泳ぎ去る黒いリードシクティスの背に向かって、同じ大きさの10メートル以上はありそうな怪物が迫り来る瞬間を、それぞれが固唾を飲んで見守った。
「体当たりしたのか? ヤバい、もう人間がどうこうできる世界じゃないぞ、ここは……」
さすがにネイビー・シールズのジョンも命の危険をひしひしと感じているようだ。
「今ボートをひっくり返されでもしたら、全員……骨も残らないぜ! 陸にすぐにでも戻らないと」
操船するマックスも悪趣味なジョークを挟めないほどに緊張し、引き返すことを頑なに主張する。
リードシクティスは脇腹に衝突され、悶絶するように遊泳のスピードを大幅に落とした。巨大な顎を巧みに使うのは、ワニのように強力な咬力を持つサメ以上に獰猛な生物だった。Dr.のハンクは恐怖に打ち震えながらも写真と動画撮影などを淡々とこなしている。
「あ、あれは首が短いタイプの首長竜、リオプレウロドンじゃないか! 生きた姿を間近で見られるなんて……感激だ。無理してここまで来て本当に、本当によかったよ!」
Dr.は感動の余り興奮して、どんどん行動が大胆となってくる。リードシクティスは肉食のリオプレウロドンに長い胸びれを噛み付かれ、そのまま食い千切られたようだ。肉片が散らばり、海中が鮮血に赤く濁る。
そこからは目を覆いたくなるような饗宴が始まった。手足が強力なオール状で流線型の尻尾を持つワニの化物が複数いるようだ。リードシクティスの柔らかな腹の部分を狙って、びっしりと並んだ歯列が深々と突き刺さると同時に捻って食い破る。更に肉のおこぼれを狙って小型のサメが群がってきた。
突如、硬質ゴムボートの船底に何か重量物の衝突音が響き、乗員を恐怖に震え上がらせた。
「Oh my God!」
船首に居座るジョンが戦場にいる時の眼となり、悲鳴とも雄叫びとも付かない声を上げた。彼はマックスが制止するにも関わらず、SCAR-Hの安全装置を外し片膝で海面下に構える。波に翻弄され数メートルは上下に激しく揺さぶられながらも、ジョンは狂ったように玄武岩色の巨大な影に向かって銃の引き金を絞り続けるのだった。
水中に幾筋もの気泡ベクトルが刻まれるが、水面下のリヴァイアサンには何の影響も及ぼさなかったのは明白だ。パニックは同乗者にも伝播し、7.62mm NATO弾と水中銃のニードル弾が虚しいキャビテーション音を発し続ける。それを嘲笑うかのごとく、はるか遠方の波間でリオプレウロドンが呼吸のため潮を吹き、ガラス玉のような眼光を反射させるのをハンクは確かに見た。
「ハハハ……ここがジュラ紀の海ですか。この海域に一体どれほどの巨大肉食生物が潜んでいるのでしょうね? 人間なんて本当にちっぽけな存在である事が、今更ながら思い知らされました!」
不意にパシャパシャと海面を打つ音がセラミックの耳に入った。さっきまで泳いでいた入り江の波打ち際に、何か大きな魚のような生物が背びれを出して遊んでいる。
「ああ~っ! すごい! まるでイルカみたい」
タオルを羽織った森岡世志乃が、サングラスを下げて眼を細めながら、つぶさに観察する。
「う~ん、確かに姿形や大きさ、色までイルカそっくりですわね。でも哺乳類じゃなくてよ。爬虫類の一種で、いわゆる収斂進化と呼ばれる物ね」
ビキニの吉田真美が素っ頓狂な歓声を上げて喜んだ。
「やった! オフタルモサウルスじゃない。アメリカ調査隊の奴ら、危険を冒してまで沖に出て馬鹿だね~。ここにいっぱいいるじゃないか」
オフタルモサウルスはイルカよりも明らかに大きいが、軽くジャンプしたりしながら、入り江に豊富な魚介類を漁っているようだ。さっき見たイカそっくりなベレムナイトを追っかけているのかもしれない。セラミックは珍しい海の生物を間近に見れて、嬉しくなってきた。
「わあ、漫画みたいに大っきな目で可愛い! つぶらな瞳なんだね……目玉ちゃんと名付けよう」
真美さんはセラミックの安易な命名に呆れて破顔一笑した。
「ふふ、確かに目玉ちゃんだな。イルカのように超音波を使ってエコーロケーションしてないから、エサ取りや敵から逃れるのも、全部デカい目の視力に頼っているんだろうね」
松野下リーダーが弛緩した顔で、ボリボリ背中を掻きながら見物に割り込んできた。
「……あの巨大な目を水圧から守るために目玉の中に骨が入ってるらしいぜ。確かリング状で強膜輪って言ったかな?」
「へぇ……。ウチのリーダーほどじゃないけど、アンタも物知り博士なんだね」
「何と失敬な!」
にわかに海上から不規則な連続音が響き渡り、遠雷を思わせる振動が渚にまで届いた。
「おい、今確かに銃声が聞こえたよな?」
「ええ、沖のアメリカ隊に何かあったのかも!」
松上はベッドから飛び起きると、アメリカ調査隊から貸与されたH&K HK416を2丁抱えて駆け付けてきた。重厚な金属製品が放つ言いようもない冷徹さが、一堂に稲妻のような緊張感を走らせる。
「おい、何やってんだ! 松野下リーダー! 俺達の出番だぞ、すぐ沖に出る! 真美さん、セラミック達を頼んだぞ!」
「えっ!? ……ええ、分かったわ」
松野下はM4カービンそっくりなHK416を松上から受け取ると、急いで上着とライフジャケットを装着し、小型硬式ゴムボートを海に投入するため、テントの方に向かって出立した。残された3名の女性隊員はしばらく呆然と立ち尽くす。
「アメリカのハンター達に何かあったのかな……」
セラミックと森岡世志乃が不安に曇る表情を見せてしまった。真美さんは、それらを払拭するように強気で堂々とした態度を崩さない。
「あの2人が助けに向かったから大丈夫よ! あたしが保障する……って、どう考えてもダブル松コンビよりアメリカ調査隊の方が屈強な男達が揃っているよね。逆に足手纏いにならなきゃいいけど……」
「松上さんが怪我したりしないか、とても心配ですわ……きゃああぁ!」
森岡世志乃が突如、悲鳴を上げた。それもそのはず、先ほどまで楽園のようだった入江の静かな海が、闖入者により騒然と化していたのである。
多くのオフタルモサウルスが逃げ惑う中、1頭を狙って執拗に追いかける捕食者がいる。3メートルほどの滑らかでオール状の四肢を持つ生物が、長い尻尾と共に海中に透けて見えた。真美さんが叫ぶ。
「あれは海生ワニのメトリオリンクスじゃない!」
とうとう逃げ遅れたオフタルモサウルスの小さな個体が尾びれに噛み付かれ、海面を激しくバタつかせた後、海を紅色に染めた。
「いやあああ! 逃げて!」
頭を抱えるセラミックの悲痛な叫び声が水面を渡る中、メトリオリンクスはワニらしく強靱な顎を獲物の肉に食い込ませるや、ツルツルとした体を回転させ引き千切らんとする。
その顎が持つ力か、オフタルモサウルスの死に物狂いによるキックの力か判然としないが、海面から尾を失った魚竜が飛び出した。そしてそのまま数メートルを弾け飛び、砂浜に上下逆でドサリと落下して転がると、千切れた尻尾から鮮血を左右に飛ばしたのだ。乾いた白洲が、みるみるレッドカーペットのようになると、哀れな生命力を吸収してゆく。
「目玉ちゃん!」
思わずセラミックは丸腰の水着のまま、オフタルモサウルスに向かって走り出してしまった。
森岡世志乃が両手を口元に強張らせて青ざめる中、真美さんが絶叫する。
「馬鹿! 今、近付いちゃダメだって! セラミック、すぐに戻ってこい!」
急いで89式小銃を取りに2人は走ったが、緊迫した状況のためか砂地に足を取られて転んだり、迅速に進めない。戸惑っているうちに、取り逃がした獲物を追ってメトリオリンクスが海中からズルズルと砂浜まで這い上がってきた。
幸いな事に現生のワニと違って脚が4本ともヒレ状になっているので、海ワニは産卵時の海亀のようにしか進めない。それでも蛇のように斑でテカテカの体をくねらせながら、瀕死のオフタルモサウルスを狙い不得手な陸地まで追いすがってきた!
セラミックは、ひっくり返ったオフタルモサウルスを何とか元に戻すため、体重を乗せながら力の限り肩で押してみた。だが500㎏以上もある巨大な魚竜は、当然のごとく彼女の押す力程度ではビクともせず、虚しく砂浜にくるぶしを埋めるだけであった。
「私はハンター見習いだけど……命を奪う人間で、何だか矛盾してるけど……目玉ちゃんを助けたい!」
汗と砂まみれになったセラミックは、左右にバタつかせるオフタルモサウルスの尻尾の力で弾き飛ばされそうになるも半回転し、今度は背中の方で押し続ける。
ようやく斜めになった魚竜が自身の力で仰向けから復帰した時、セラミックの目の前に太い丸太のようなメトリオリンクスが気味の悪い動きで大口を開けて迫ってきた。
普段なら一目散に逃げおおせるのだが、力を使い果たしてしまったのか、はたまた腰が抜けてしまったのだろうか、セラミックは砂地に両足を埋もれさせたまま固まってしまった。妙に冷静となり海ワニの顎から突き出ている歯の数々が白い勾玉のように見える。
……あの口で咬まれると痛いだろうな、お父さん、お母さん、ごめんなさい……。
「危ない! セラミック!」
誰かの叫ぶ声が渚を駆け抜け、セラミックの体を押し倒したかと思うと、信じられない力で覆い被さってきた。
「きゃっ!」
思わず大きく見開かれた目と目が合わさった。度付きサングラスを荒い呼吸のリズムにプラプラさせている。……数十センチ先から見下ろす松上晴人の真剣な眼差しに、下になったセラミックは思わず息を飲んだ。
「松上さん!」
「いいから、早く逃げろ!」
陸でも敏捷な動きを見せるメトリオリンクスはもう目と鼻の先だ。貪欲な海ワニは複数になった獲物の、どの肉に食い付こうかと躍起になっているのか、猫に似た低い唸り声を発した。
「2人とも伏せてー!」
吉田真美が89式小銃を3点バーストでメトリオリンクスに向けて連射した。射撃が得意な彼女は、片膝立ちで巧みに反動を抑制しつつ正確に海ワニに命中弾を与えたのだ。
致命傷には至らぬも短い悲鳴を上げた捕食者は、追いかけて来る時より更にスピードを増しUターンすると、己の棲む海へと舞い戻って行った。
素肌に近い状態で、しばし抱き合ったまま呆然と見つめ合う松上とセラミックを目の当たりにし、森岡世志乃は距離を縮める絶好のチャンスを逃してしまった事に今更ながら気付いたのだ。
「はいはいセラミックさん、怪我はないでしょ! いつまで松上さんと、くっ付いたままなのですか。離れなさい、迷惑でしょう!」
セラミックはフラフラと立ち上がるも、世志乃の声は届いていない様子だった。水着のずれを直しつつ、隣に横たわる巨大なオフタルモサウルスの折れた背びれ辺りに抱きついた。
「ありがとう、松上さん……助けてもらって。それに真美さん、世志乃さんも。ごめんなさい心配かけて……」
オフタルモサウルスは、あまり歯の生えていない長い口をリズミカルに開閉させている。自身の体重に肺を潰されるのか、苦しげに喘いでいる姿を晒していた。噛み千切られた尾びれからの出血も痛々しい。
松上晴人はアメリカ調査隊の元へ向かう寸前、セラミック達のいる海辺を見返して最後の安全確認を行った。その時、異変にいち早く気付いた彼はボートに松野下を残し、銃も持たずに全速力で引き返して来たのだ。
松上晴人は森岡世志乃から89式小銃を借りると、セラミックの傍へと向かい一緒に佇んだ。いつものおちゃらけた態度は、ジュラ紀末の空に潮騒と淡い飛沫のごとく昇華させた。
「セラミック、たとえ今すぐ海に戻しても、尾を失ったオフタルモサウルスは長く生きてはゆけない。それは分かるだろう? じわじわと苦しんで死ぬより、今すぐ楽にしてやった方がいい……」
89式小銃がセラミックの両腕に手渡された。いつもよりズッシリと冷たい重みが伝わってくるように彼女は錯覚した。
「俺は、ほったらかしにしたままの松野下の所に戻る。いいな、セラミック……命懸けでコイツを守ろうとした君自身が手を下してやれ。最後まで面倒をみてやるんだ」
セラミックは、涙が後から後から溢れてきて、何だか止まらなくなってしまった。中型の魚竜は大きな眼球表面が若干乾燥を始めたようだが、まだまだ元気で苦しげに長い前びれを鳥のようにはためかせている。
真美さんが艶を失った唇から、たまらず言葉を口にした。
「ほら、セラミック……魚竜の心臓の位置は肉厚で、正確には分からない。即死させるには頭を撃った方がいいよ。ちょうどデカい目の上辺りを狙えば確実かな」
「……目玉ちゃん!」
さすがに森岡世志乃も涙なくして見ることはできなかった。
「セラミックさん、ぐずぐずしていると私が代わりに撃ちますわよ! あなた、一流の恐竜ハンターを目指しているんでしょう? 何を手間取っているんですか!」
震える銃口は、流線型で洗練された哀れなボディをなぞり、やがては強い意志によりピタリと頭部へと固定されたのだった。
海上に進出した松上と松野下は、乾いた一発の銃声が海面を伝って響き渡り、それがボートのエンジン音に混じって掻き消されてゆくのを確かに捉えたのだ。
☆☆☆
やがてアメリカ調査隊の硬式ゴムボートが、松上らの水先案内によりテチス海から帰還した。船上の7名は全身ずぶ濡れとなり、指が固まって銃のグリップから外れず硬直したようになっていた。ジョンとマックスも視点が左右・遠近と定まらず、クールとは正反対の顔付き。もはや誰もが放心状態であった。……ただ1人を除いては。
「いやいや、古代の海はエキサイティングで、大いに研究心が掻き立てられたよ。1秒たりとも無駄にはできなかったね。残念ながらサンプルの捕獲は無理だったけど。……だが装備を見直して、またいつかここに来る事を約束しよう」
少年と見紛うDr.のハンクは興奮気味に語り、松上と松野下の背中をバンバン叩きまくった。アメリカのダイナソー研究センター長であることを今更ながらに明かしたのだ。
ジョンは砂浜に乗り上げたボートから最後に降りた後、誰も怪我しなかった事に胸を撫で下ろした。SCAR小銃の機関部の水濡れを拭きながら、落ち着きを取り戻したマックスは、向こうの渚に横たわる魚竜の姿を見定めるなり仰天した。
「嘘だろ! あれは我々が探し求めていた魚竜じゃないか!」
アメリカ調査隊は小走りで集合すると、動かない尾なしオフタルモサウルスを取り巻きにした。
ジョンとマックスは、まじまじと魚竜の大きさと頭部の弾痕を見つめる。そして造形のディティールを手で確認した後、捲し立てるように問いかけてきた。心なしか震えているのが見て取れる。
「一体どうやってコイツを仕留めたんだ? 本当に信じられない。お前達がやったのか?」
松上は悲しげなセラミックとは裏腹に、堂々と胸を張ってネイビー・シールズに答えた。
「ここにいるビキニの瀬良美久さんがやってくれました。……我々は海に囲まれた島国育ちなんでね! 漁に関する経験とノウハウの歴史が違うのだよ。よく分かったかね、カウボーイ諸君!」
「Oh~!」
ジョンとマックスは首を左右に振る仕草で眉を下げ、大袈裟に肩を竦めると顔を見合わせた。だが研究員達はセラミックに対し、惜しみない賞賛の声と拍手を捧げたのだ。特にDr.のハンクは、満面の笑みで両手の固い握手を求めてくる。
「いい腕だ、日本のキュートなハンターさん。これからもずっとサポートしてくれる事を願うよ!」
「う~ん、困ったな……」
いつもの厨房で、恐竜狩猟調理師見習いのセラミックは割烹着のまま考え込んだ。目の前には、かなり大きな肉の塊が柵取りになっていた。先日ゲットした貴重なオフタルモサウルスである。
今回は自分で料理を一から考えなくてもよく、リクエストがあったのだ。『是非、魚竜を使った和食をお願いします』と。
「目玉ちゃん……私がうまく調理してあげるからね。命を美味しくいただきますよ」
この度のジュラアナ長野へのダイブは、アメリカ調査隊への護衛、輸送任務として高額報酬がすでに支払われていた。別れ際、Dr.のハンクは何を思ったのか、貴重なサンプルであるはずのオフタルモサウルスの尾の身の一部をセラミックに託したのだ。
「これは瀬良さんへの特別報酬……と言いたいところですが、どうか貴女に魚竜を料理して貰いたいのです」
帰国前日にDr.のハンクは、日本でしか味わえない恐竜料理を是非ともお願いします、とのメッセージを送ってきたのである。
「よし、決めた!」
手の平を拳でポンと叩き、セラミックは早速行動を起こした。和食と言えばすし……恐竜ずし、もとい魚竜ずしを作ってみようと。
早速、近所にある父親行きつけのすし屋に訳を話して弟子入りさせて貰ったのだ!
一般にすしは『飯炊き3年、握り8年』と言われるほどの職人技であり、セラミックを始めとする短期バイトのような小娘を寄せ付けない世界でもある。
回転ずしレベルでも問題はなかった。
……何せ相手は本格的なすしなどロクに食べた事もないアメリカ人なのだから。だが、セラミックの恐竜狩猟調理師を目指すプライドと松上に美味いと言わせたい欲求、何より可哀想な目玉ちゃんを美味しく食べてあげたいという諸々の思惑が折り重なり、彼女の背中をドルフィンキックのような見えざる力が押したのだ。
「シャリ玉とオニギリとの大きな違いは含まれた空気の量。飯粒の間に空気を適度に含ませながら握るのがすし職人の技なんだよ。美久さん、手で持った時に崩れない固さでありながら、口の中ですぐシャリが解けていくのが理想的なんだが……簡単に習得できる技だと思ったら大間違いだぜ」
「はい! 大将」
頑固一徹の人相ではないが、恵比寿のような笑顔の下に熟年職人の厳しさを光らせる、すし屋の大将が言った。
「ほら、握るのが遅すぎてダメだ。一瞬の内に握り終えないとね。ぐずぐずしてるとタネが乾いちまうぜ!」
「はい! 手酢をして、右手でシャリを丸め、ネタにワサビを塗って、シャリを乗せたら左親指で空気穴を開け、右指2本でシャリを押さえて、ひっくり返して横も握る、最後に全体を軽く握って完成……ですね」
「完成じゃねえよ。長年、修行をしても完成しないもんだ」
「ひええ~」
「次! すしダネの仕込み!」
「はい! 大将、タネとネタとの違いは?」
「何言ってんだ、同じこっちゃ! いいから早く早く!」
「はい、大将!」
こうして約束の日は、あっと言う間に訪れた。滋賀県守山市にあるカジュアルなカレー屋セラは臨時休業にしてカウンター席もゲストを迎えるために若干のレイアウト変更が成されたのだ。本来繊細な味と香りが命の和食に香辛料の臭いは御法度なのだが仕方あるまい。使い慣れた自宅厨房がベストと判断したためだ。
のどかな昼下がり、手作りの暖簾をくぐって最初に現れたのはDr.のハンク。ジャケット姿に重たそうなスーツケースを従えている。その後ろに見覚えのある面々が連なる。ドアに頭をぶつけそうになったのはマックス。兵舎にいる時と変わらないラフな服装でいつも通しているようだ。すぐ後ろにジョンがいたが、ぴっちりとした上質のスーツを着こなしていた。
Dr.はカウンター中央に陣取って言う。
「ハイ! お久しぶり、美久さん。空港からはちょっと遠いね。でも恐竜料理を食べるためにスケジュールを調整して来ましたよ」
ハンクの横には挨拶もそこそこに、いつの間にか姿を現わした松上晴人が座った。彼もスーツ姿で、いつもの評論家風情だ。
少し緊張した面持ちで割烹着のセラミックは、すしに挑戦してみた事を発表する。すると座高もあるマックスが、上半身を仰け反らせて手を叩いた。
「何だすしか、この臭いからカリー&ライスかと思ったぜ。俺はそっちでもいいがな」
ジョンは小さなセラミックにも敬意を表しているのか、隣のマックスを肘で小突いて言った。
「美久さん。今日はこの場でしか食べられないであろう、素晴らしい和食を期待しています」
セラミックはニッコリ微笑むと、まずはアテの2品をカウンターに提供した。アンモナイトの一夜干しを炭火で炙ったものと、鹿の子切りに包丁を入れたベレムナイトを藁で軽くスモークした肴である。
タコとイカに似ているが、潮の香りが一味も二味も違う。双方とも密かにテチス海でゲットしておいた先見の明が生み出した2皿である。
「ほう、これは珍しいジュラシック・シーフードですね。盛り付けといい、前菜としてワクワクさせてくれます!」
ハンクは褒めてくれたが、味はともかく体格のいいジョンとマックスには腹の足しにもなっていないのは明白だ。見極めた後、いよいよセラミックはオフタルモサウルスのすしを手早く握った。4人分となると結構な仕事量だ。
「へい、お待ち! まずは魚竜の酢〆からです。つまりビネガーフレーバーですかね?」
熟成をかけた魚竜の肉は、ほんのりと桜色で繊維も細かく適度に脂の照りもあり、艶々と輝いて見える。意外とすしダネに向いた食材なのかもしれない。
箸の使い方が稚拙なアメリカ勢は、ハンクを筆頭に松上の真似をして手ですしを摑むと、各の舌の上に放り込んだ。
「Oh! これが魚竜の味ですか! 目が覚めるようです。……感動しました!」
薄き赤酢の酸味に負けじと昆布の風味が、歯切れのよい濃厚な赤身の舞台で共演していた。それは舌の上に乗せただけでハラリと溶け崩れてゆくシャリと一体となりたくて、爽やかな印象を口中に残した後は、真夏の夜の夢を思わせるかのごとく消え去った。
「次、皮付き魚竜のタタキです。う~ん、ステーキで言うとミディアムレアかな?」
セラミックは皮目を炙ったオフタルモサウルスのすしダネに、煮キリを刷毛でサッと塗って出した。マックスはペンキでも塗ったのかと揶揄したが……。
奥歯にすしが中程まで食い込んだ瞬間! 溢れ出すジューシーな肉汁! それにも関わらず、本来有り得ないはずの香ばしくクリスピーな皮目のインパクト!
男は思わず2~3秒絶句した。咀嚼しながらブルーの瞳を振り子のように左右に泳がせる。慣れ親しんだビーフと比べても、明らかに異なる歯応えと油膜の織りなすスプラッシュは、彼にとって味覚の革命をもたらせたはずである。
「更に、魚竜のヅケです。マリネといえば分かりやすいかも」
松上は、ハンクに『醤油主体の調味液にネタを漬けておく事からヅケというのです』といった説明をしたと思う。ここでも魚竜の持つ野性味と旨味とが、まるで割烹着の魔術師によって魔法をかけられたかのように渾然一体となって表現されている。
小さなすしでも何貫も揃えれば、結構ボリュームがあるなとマックスは思った。
「最後に煮魚竜です。全てのすしに江戸前流の技法を施しています」
そう言いながら魚竜の煮汁を甘辛く煮詰めたツメを仕上げにコーティングした。火を通すと脂の乗った魚竜肉は魅惑の甘みとコクが増し、ホロホロのシャリと絡んで掟破りなまでの喉越しを生み出したのだ。
ジョンは感心したのか、ついにカウンター越しのセラミックに向かって声を発したのだ。
「素晴らしい! 古代のオフタルモサウルスを何だか理解できたような気がする。それにしても素材の持ち味を活かした、なんて繊細で洗練された料理なんだ! 和食なんて合わないと思っていたんだが」
「フフフ、ありがとう。おまかせコースの締めに、この椀物もどうぞ」
セラミックはジョンに綺麗な塗りの椀を渡す。すし屋の大将から応援で頂いた逸品だ。ふたを開けた彼は、その香りに自宅近くのフィッシャーマンズワーフを思い出した。
「トリゴニアのお吸い物です。身も心も温まりますよ」
牡蠣のようで蛤より濃厚な身質のトリゴニアは、出汁の海からその故郷の豊かさを余すことなく表現したかのようである。胃腸の襞に染み渡るような、滋養に満ち溢れる優しさとでも言えるのだろうか。
Dr.のハンクは、まだ若いセラミックのセンスと美学に脱帽し、自分のチョイスが的確であった事を松上に対して自慢げに話し始めたのだ。
ジョンとマックスも、アマチュアとは思えないセラミックの工夫と手間暇掛けた和食のプレゼンに賞賛を送った。
「ごちそうさま、瀬良美久さん。貴女は将来、きっと有名な恐竜ハンター、いや恐竜シェフとなるでしょう。その時は、また私と一緒に仕事しましょう」
「そうさ、困った時は知らせてくれ! 俺達は世界中のどこからでも、すぐ助けに来てやるぜ」
ガタイのいい男達は余韻に浸る事もなく、頼り甲斐のある言葉を残して去って行った。Dr.も日本に馴染む前に帰国しなければならない事を、最後まで嘆いていたようだ。
今回、不気味なほど無口な松上に、セラミックはイヤなツッコミをひしひしと予感して厨房から思わず逃げ出したくなる衝動に駆られた。
2人っきりになると、ジュラ紀へのダイブ時に起こった思わず恥ずかしくなってしまうような事件の数々がフラッシュバックしてきた。着替えを覗かれそうになった事、メトリオリンクスに襲われかけた時にギリギリで助けられ、抱き合って見つめ合った事……等々。
「セラミックさん」
「はい!」
「和食として魚竜をすしにする事は正解だったかもしれない」
「ありがとうございます。目玉ちゃんは美味しかったですか? 松上さん」
「その呼び方はちょっとよせ。……それより一言だけ言わせてくれ」
「うっ、何でしょうか?」
「恐竜、いや古代の魚竜を生で食べる事は、どれほど危険なマネか分かっているんだろうな?」
セラミックは言葉に詰まった。それでも全てのすしに何らかの仕事を施し、完全な生食をさせた訳ではなかったと思う。
「いくらお金を取って客商売していないからといって、安全性に問題のある物を平気で出すのはどうかと思うんだ」
「ごめんなさい。すし屋の大将からもアドバイスを貰ったんですが」
「ジュラ紀のオフタルモサウルスには未知の寄生虫が存在しているかもしれない。酢〆やズケ程度では現代のアニサキス幼虫も生き残ると聞いている。周りを焼いたタタキでも中心温度が低けりゃ然りだ。何より……」
「何より?」
「もう俺も食っちまったが、寄生虫以外の感染症が心配だな。古代の細菌やウイルスなんて研究が始まったばかりで、誰も詳しくは知らないのだ」
「ひええ! 試食で生魚竜を大量に食べてしまいました」
「とにかく、安全性が確立するまで生は避けておけ。恐竜狩猟調理師の国家試験では魚竜は生でも大丈夫となってはいるがな」
「何だか急にお腹が痛くなってきたような」
「多分ジョンとマックスは平気だろう。何せ、あいつらは不死身の特殊部隊員だからな。体力とサバイバル能力は常人レベルを遙かに超えている。ハンク先生もエネルギッシュで、あの調子じゃあ簡単には死なないだろう」
「本当に大丈夫なんですかね?」
「さあね。病気になったら一緒に入院しようぜ、セラミック!」
松上晴人はいつもの仏頂面ではなく朗らかであった。明らかに2人の距離が縮まり、信頼関係のような物が芽生えてきたのだろうか。セラミックは松上の満足げな笑顔に、目玉ちゃんの魂が浮かばれたような気がしたのだ。言葉にはしなかったが、絶対美味しかったに違いない。そう思えるほどの純粋な笑顔だった。
ふと胸がキュンとし、信頼関係とは似て異なる、もっと感情的な何かがスパークリングワインの泡のように立ち昇ってきた。
……もし松上さんと結婚するような事態になれば……親友の佳音が親戚になっちゃうのか……馬鹿! 目の前にいるのに何考えてんだ、私!
「どうしたセラミック? 救急車でも必要か? 言っとくけど、重篤患者様のために軽はずみで呼んじゃダメなんだぞ」
「違いますよぅ……!」
目を閉じれば刹那に、魚竜が悠々と泳いでいた、かのジュラ紀末の荒々しくも清涼な海が思い起こされる。現在の海とは繋がっているようで、隔たりもある不思議な世界。ちょうど夢と現の関係みたい……。
セラミックは何だか切ないような、漠然とした心持ちを彼に気取られないように微笑み返したが、確かな胸の内でそう感じたのだ。