「辛い時に無理をするのは、心にも体にも良くないことなんです」
ひょっとしてこの人は、心配してくれているのだろうか。こんなにも真剣な顔をして。本当は恥ずかしがりやで人と目をあわせるのが苦手なのに、決して視線を逸らさずに。
きっとこの人は、優しい人なんだろう。初めて会った、名前も知らない誰かを本気で心配できるくらい、優しい人。
その優しさに触れられただけで、落ち込んでいた気持ちがほんの少し浮上する。
それだけでもう充分で、本当に何でもないのだと笑ってみせるも、マスターの眉間には皺が寄ったまま。
「初めて会った全く知らない人だからこそ、話せることもあると思います」
マスターが放ったその言葉が、今度はすとと胸の中に落ちてきて、じんわりと広がっていく。
温かくて、嬉しくて、くすぐったくて、ほんの少し……泣きそうになる。
ああ、やっぱりこの人は、このマスターは、とても優しい人だ。
「お力になれるかどうかはわかりません。でも、辛い気持ちを和らげることくらいはできると思うんです」
いつの間にかその眉間から皺は消えていた。
真っ直ぐに見つめ返しても決して目を逸らさずに、マスターは柔らかく微笑んでいる。
「話してみてください。あなたの抱えているものを。僕は、あっじゃなくて……この店は、あなたのような方達の為にあるんです。疲れた心に平和を。だから“La Pace(ラ・パーチェ)”、“平和”なんですよ」
その聞きなれない言葉は、ひょっとしてあの看板に書いてあった文字だろうか。
意味は、平和—―—―。
「りゅうさんが言っていました。オリジナルを頼まれる方は、皆さんどこかお疲れになっているように見えるんだそうです。でも飲み終わって帰る頃になれば、表情が穏やかになっていると。だからこれは“特別な一杯”で、それを頼む方もまた“特別”なんです」
なるほど、りゅうさんが“特別”だと言っていたのには、そう言う意味があったのか。
「体の疲れは癒すことができます。けれど、心の疲れはそう簡単にはいかない。僕にできることは、お客様が望む一杯を提供することだけです。それでも、このオリジナルを選んだお客様が、少しでも楽な気持ちでお帰りになれたらいいなと思って、毎日心を込めてブレンドさせてもらっているんです」
マスターはカウンターに置きっぱなしになっていたティーポットを軽くゆすり、カップにゆっくりと注いでいく。
りゅうさんの流れるような手つきとは違って少しぎこちないが、丁寧さはよく伝わってくる。
先ほどと同じ香りが鼻をかすめて、目の前に置かれたカップの中では、柔らかいオレンジ色が揺れている。
「“マスターオリジナル(気まぐれブレンド)”は、いつでも渾身の一杯をご用意しております。是非、ご賞味ください」
妙にかしこまったようなその言い方に、思わずくすりと笑みが溢れる。
華奢なカップをそっと持ち上げて中身を口に含むと、飲み込んでからほう……っと小さく息をついた。
それから、顔を上げてマスターに向き直る。
聞いてもらおう、この人に。この、恥ずかしがりやで優しいマスターに。
それでわたしの心に店名通りに平和が訪れたなら、明日からまた笑って頑張ろう。
ああ、でもその前に――――
「鈴宮 香って言います。聞いてくれますか?すっごく情けない話なんですけど」
「僕でよければ、喜んで」
いかがでしたか?
お口にあいましたらなによりです。
“マスターオリジナル(気まぐれブレンド)”は、いつでも最高の一杯をご用意しております。
残念ながら本日はマスターが不在でして、ご挨拶はこの私、星見 竜二《ほしみ りゅうじ》から。
お客様の心に、平和が訪れますように――。
では、またのお越しをお待ちしております。