「冬の夜ほど明るいものはない。そう思わぬか、嫁殿よ」
満天の星々が照らす、かつて美しい庭が広がっていたその場所で、太陽と砂漠の国からやってきた神は、歌うように私に話しかけた。
辺り一面、雪で覆われているせいか、明かりひとつないというのにぼんやりと明るい。きっと、雪が星の明かりを反射しているせいなのだろう。頼りなくも幻想的な光に包まれた場所で、私は緊張でカラカラになった喉を、唾で湿らせた。
私の後ろには、みんなが勢揃いしている。私ひとりで行くと言ったものの、心配だからと着いてきてしまったのだ。
すると、それを見た獣頭の神は、片眉を僅かに上げて笑った。
「……随分と大勢で来たものだな。それはいいとして、我は待ちくたびれたぞ。嫁殿は朧の状況を理解しておらぬのではないかと、危惧しておった」
「申し訳ありません。必要なものが瓦礫に埋もれていたので、時間がかかってしまいました」
「ほう?」
私は、不敵な笑みを浮かべている獣頭の神を軽く睨みつけると、ゆっくりと近づいていった。
獣頭の神の足もと、そこには巨大な黒いものが蹲っていた。
幾重にも重なった黄金の輪にがんじがらめに囚われ、ひゅうひゅうとか細い息を漏らしているのは、朧だ。
朧は、真っ赤な瞳をギョロギョロと動かし、何度も身を捩っては、逃げる隙を窺っているようだった。
正気を失ってしまったというのは本当だったらしい。四対の赤い瞳からは、私が好きだった温かみは失われ、辺り構わず鋭い敵意を撒き散らしている。
「――で。どうするつもりだ、嫁殿」
朧の上で胡座をかいていた獣頭の神は、にんまりと黄金色の瞳を細めた。それは、これから舞台でも見ようとしている観客のような、好奇心と期待感に溢れた眼差し。私は、それに言い知れない不快感を覚えながら、獣頭の神に言った。
「朧と話をします。どうか、ふたりきりにしてくださいませんか」
すると、獣頭の神は益々面白そうな顔になって、身を乗り出してきた。
「この状態の朧と対話をすると言うか。心を失い、己の生命が削れるのも厭わぬ、獣と成り果てた朧と?」
私は、囚われている朧に視線を向けた。口の端から涎を零し、金の輪から逃れようと、必死に身を捩らせている。普通ならば、近づくのも躊躇するだろう。
でも――。
「私、朧の奥さんですから」
「……フ。便利な言葉よな」
「でも、間違ってないでしょう?」
獣頭の神は、私の言葉に何度か目を瞬くと――「そうだな」と優しげな笑みを浮かべた。そして、ひらりと朧の上から飛び降りると、「健闘を祈る」と、雪を踏みしめながらみんなの方へと歩いて行った。
「……ふう」
獣頭の神が去って行ったのを確認すると、私はゆっくりと息を吐いた。
白く烟る吐息を視線で追って、それが空気に溶けて消えたのを確認すると、ゆっくりと一歩踏み出す。
――さくり、さくり。
踏みしめるたびに、雪は軽快な音を立てて、不規則に沈み込む。ともすれば転びそうになりながらも、徐々に朧に近づいていく。
冬の空はどこまでも透き通っていて、いつもよりも星がくっきりと見える。空気を吸い込むたびに、胸の奥がスッと冷やされて、ともすれば怖気づきそうな自分を奮い立たせてくれている。
「真宵!」
父が私を呼ぶ声がして、足を止める。見るからに、人ならざるものに近寄っていく私が心配なのだろう。焦った様子で叫んだ。
「本当に――その化け物が夫でいいんだな⁉」
「……」
私は、それには答えなかった。朧を初めて見た両親は、恐怖に身を引きつらせていた。朧の放つ存在感は、普通の人からすれば本能的な恐怖を呼び起こすものだ。不安になったって仕方がない。でも、私にとっては違う。
私は顔だけ父に向けて、ニッと敢えて気楽そうに見えるように笑った。朧が化け物じゃないと反論したい気持ちもあるけれど、今はその時間さえ惜しい。
「朧」
「グルルルルル……」
雪まみれになって、金の輪から逃れようともがいている朧の真正面に立つ。
……ああ、黒い毛のあちこちに雪が絡みついて、大変なことになっている。
巨大な金の輪が、脚に、体に、首に、更には口にまで嵌っていて、とても苦しそうだ。早く解放してあげたい。そんな衝動に駆られるけれど、朧が正気に戻らなければ難しいだろう。
軽く息を整えて、そっと朧に手を伸ばす。
「グアァァァアアアア‼」
すると、朧は威嚇するように叫んだ。そして、拘束されたままの体を、ズルズルと後退させていく。それはまるで、私を恐れているようだった。
「……朧、逃げないで」
小さな声で語りかけ、さくり、雪を踏みしめて一歩前に出る。
緊張で手が湿っている。苦しいくらい、心臓が早鐘を打っている。呼吸が乱れて、目眩がしそうだ。
「朧」
涙が滲んでくる。視界が歪んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
「朧、待って。朧……」
私は、震えそうになりながらも、何度も朧の名を呼んだ。そして、朧の目の前に辿り着くと、その場に膝をついた。
「朧、会いたかった」
一言だけ言って、私は朧の鼻先に指で触れた。朧の湿った鼻先は冷たくて、口の周りの毛は、ゴワゴワと独特の手触りがする。なんとも懐かしい触り心地に、顔が緩む。そして、温かな感情に体が満たされて、私は満足げに微笑んだ。
――この時、私の心を占めていたのは、恐怖なんかじゃない。
甘ったるくて、頭がふわふわする。切なくて、辛くない程度に苦しい。
きっとそれは、朧を想う気持ち。恋と呼ばれる感情。
朧を目の前にして、しみじみと実感する。
――ああ、私は本当に朧が好きなのだ。
「会いたかったよ、朧……」
もっと朧に触れたくて、体を寄せる。指先に、そして手のひらに朧の体温を感じて、心が喜びのあまりに震える。
お前のような嫁はいらないのだと、朧に言われたのだと勘違いしていた間は、何故か常に息苦しくて堪らなかった。それはまるで、私が生きる上で必要なものが、失われてしまったような――そんな感覚。
けれど、今はそんなものはどこかへ行ってしまった。あれは朧の言葉ではなかった。まだ、朧に私の気持ちを伝える機会がある。私は、目の前に愛おしい存在がいるという事実だけで、どうしようもないほどの満足感を覚えていた。
「グウゥゥウウウ……」
朧は、唸り声をしきりに上げて、私を四対の真紅の瞳で睨みつけている。朧から注がれる視線には、決していい感情は籠もっていなかった。このままでは、危害を加えられるかもしれない。私は、その可能性に気がついてはいたけれど、自分を抑えることができず、もっと、もっとと手を伸ばした。
その時だ。なにか硬いものにヒビが入るような音が聞こえたかと思うと、朧の鼻面に嵌っていた金の輪が弾け飛んだ。
「――ぬ。まずい。嫁殿、下がれ!」
同時に、獣頭の神の焦ったような声が聞こえて、一瞬、なにが怒ったのかわからずに硬直する。すると、口の戒めが解かれた朧は、私を丸呑みにできそうなほど巨大な口を、勢いよく開いた。
「……ッ!」
視界いっぱいに映ったのは、ずらりと並ぶ鋭い牙。糸を引く唾液。それに、ぬらぬらと濡れて、やけに色鮮やかな赤色を持つ口内――。
――噛みつかれる‼
危機感を覚えて、思わず腕を前に出して庇う。すると、ぶつんと嫌な音がして、今まで感じたことがないくらいの激痛が襲った。
「うっ、ああああっ……‼」
「ま、真宵――――‼」
「真宵ちゃん!」
堪らず悲鳴を上げて、固く目を瞑る。ボタボタと生暖かいものが流れて行き、末端から体が冷えてくる感覚がした。
誰かの焦る声、悲鳴、それに慌ただしく走り寄ってくる音がする。
私は、全身にじわじわと汗が滲むのを感じながらも、倒れそうになるのを必死に堪えて、叫んだ。
「駄目! 誰も来ないで‼」
すると、足音が止んだ。代わりに、自分の乱れた呼吸音と、朧の唸り声が聞こえてくる。私は間近に迫った朧の顔を見つめると、ぎこちなく笑みを浮かべて言った。
「なーんにも、怖くないよ。朧」
そして、無事だった方の手で朧の鼻面を撫でてやる。口の周り、喉の下にも手を伸ばして、擽るように軽く撫でてやった。
「……」
すると、朧の唸り声が収まった。ホッと胸を撫で下ろし、頭がくらくらするのを感じながら、腕に噛み付いたままの朧に言った。
「大丈夫、私は朧に怯えたり、朧を傷つけたりしない。どこにも行かない。約束するよ。だから朧……私の話を聞いてくれる?」
そう言い終わると、じっと朧を見つめた。
もう、手の感覚がない。あまりの痛みに、脳はそれを伝えるのを止めてしまったらしい。絶え間なく温かいものが私から零れ、流れていく感覚だけが残っている。
すると――朧は、ゆっくりと口を開いていった。
赤く染まった牙が抜け、私の腕から離れていく。私は、その様子を瞬きひとつせずに見つめていた。
「……なぜだ」
その瞬間、朧が声を発した。
四対の赤い瞳に、徐々に暖かい色が戻ってくる。私はそれを見るなり、ホッとしてしまって、思わずその場にへたりこんだ。噛みつかれた腕を見ると、着物の袖が真っ赤に染まっている。随分と出血が多いようだ。
けれど、今は手当てどころじゃなかった。朧がまた、私と言葉を交わしてくれた。そのことが嬉しくて、私は舞い上がってしまった。
「よかった……朧が戻ってきた」
ポロポロと涙を零し、安堵の息を漏らす。
すると、朧は酷く険しい顔になって言った。
「お前は、俺を見限ったのではなかったのか」
その言葉に、私は一瞬きょとんとすると、次の瞬間には破顔一笑した。
「よく考えてみてください。私が朧を見限る理由がありません」
「しかし……」
「あなたの友人が、いらぬ気をきかせただけのようですよ。私も随分と悩みました。後で、かの神を叱ってくださると私の気も晴れます」
「そういうことか。……アレの言葉を真に受けた俺が愚かだった」
朧は深く嘆息すると、私を改めて見て、盛大に顔を顰めた。
「俺はなんということを」
そして、怪我をした腕に鼻面を近づけると、ぺろりと舐めた。
「あっ……」
流石に痛みを感じて、腕を引っ込める。すると、朧は途端に動揺し始めた。
「ま、真宵。すまなかった。――ああ、これはいかん。真宵が、真宵が……! さ、櫻子、凛太郎‼ なにをしている。早く手当てを……!」
「朧、そんなに慌てないで」
「けが人が言うことか‼ ええい、黙っていろ。誰か真宵をどこか温かい場所に」
――ああ、なんだか懐かしいな。
くすりと笑みを浮かべる。
誰よりも優しく、私を想ってくれる朧が戻ってきたのだと実感しながら、朧の大きな体に寄りかかった。どうにも、頭がぼんやりして仕方ない。けれども、すぐ傍に朧がいるという安心感が私を包み込んでいて、欠片も不安はなかった。
朧は、慌ただしく指示を飛ばしている。そんな彼に、私はポツポツと話しかけた。
「朧……私ね、ごはんを作ったんですよ。朧が大変だってきいて、みんなで作ったんです。とっても美味しいですよ。お腹の底から温かくなるごはんです。朧に食べて欲しくて作ったんですよ」
「真宵、頼むから喋らないでくれ。出血を止めなければ」
ムッとして唇を尖らせる。私は首を横に振ると、朧の体毛に頬を擦りつけた。
「嫌です。ずっと話せなかったんですよ? 朧に伝えたいこと、話したいこと。いっぱいあるんですよ、ちゃんと私の、話、を……」
「真宵?」
どうにも瞼が重くて仕方がない。
けれど、まだ私の想いを伝えられていないのだ。ここで眠るわけにはいかない。私は、懸命に瞼をこじ開けると、話を進めた。
「朧、私はどこにも行きませんから。朧も、どこにも行かないでくださいね……」
「真宵? 真宵、しっかりしろ‼」
「ずっと一緒にいてください。ごはんも一緒に食べましょう。家族は、同じ食卓を囲まなくちゃ。今日のごはん、きっと美味しくでき……た……」
やがて、私はとうとう瞼の重みに耐えられなくなって、目を閉じてしまった。
徐々に沈んでいく意識の中、私は朧の声を聞いていた。
ふわふわの黒い毛に包まれ、朧の声を聞いているのは本当に心地が良かった。
それはまるで、私のために用意された天国みたいだ。
――ちょっとだけ、眠ろうかなあ。起きたら、朧とたくさん話さなくちゃ。
私は、体を弛緩させると、ゆっくりと意識を手放した。
――いい匂いがした。
それは、魚の出汁と味噌が混じった匂いだ。
野菜の甘さも混じっているかも知れない。
お腹が空いた時に嗅いだら、一発でノックアウトされてしまうやつだ。
「……お腹空いたぁ……」
しみじみ呟いて、ゆっくりと目を開ける。するとそこには、人形へと変身した朧の顔があった。
「へっ⁉」
驚きのあまり、ジタバタと手足を動かして、まるで挙動不審の変な人みたいに辺りを見回す。見ると、そこには全員が顔を揃えていた。屋敷の瓦礫の横に焚き火を起こして、それぞれが適当な瓦礫に腰掛けている。焚き火の温かな光に照らされたみんなの顔は、どれもこれもが安堵の色を浮かべていた。
どうも、私は朧の膝の上で眠っていたらしい。体が大きい朧の膝に乗ると、小柄な自分はまるで子どもみたいだ。それが、なんとも恥ずかしくて逃げ出そうとしたけれど、朧にがっちりと押さえられて、どうにも動けなかった。
恨めしげな視線を朧に向ける。すると、朧はクスリと小さく笑った。
「朧~……」
「怪我をしていたんだから、安静にしろ」
「え? あ、そうだった‼ 私、朧に噛みつかれて……あ、あれ?」
腕を確認する。すると、まったく痛みがないことに驚いた。着物の袖は血で汚れているから、確かに怪我をしたらしいのだが、腕そのものにはなんの異常もない。不思議に思ってまじまじと見つめていると、そんな私に獣頭の神が言った。
「我の秘薬を使ってやったのよ。傷ひとつないだろう。ありがたく思うがいい。なかなか貴重な薬なのだぞ」
すると、朧がたちまち眦を釣り上げた。
「獣頭の。お前が余計なことをしなければ、こんなことにはならなかったと思うが」
「ほう、言うようになったな、朧」
僅かに眉を顰めた獣頭の神は、やれやれといった風に肩を竦めた。
「流石の我も、たかがあれくらいのことで、主が自暴自棄になるとは思わなんだ。いやしかし、神として見立てが甘かったことは認める。赦せよ」
「……それが、謝る側の態度か」
「ワハハハハハ! 確かに!」
――仲良いなあ。
朧が離してくれないので、仕方なしに体を預けて、ぼんやりとふたりの話を聞く。
そう言えば、どうして朧は正気を失ってしまったのだろう。確か、私がいなくなった理由を聞いた瞬間、暴れ出したそうだが……。
どうにも気になって、訊いてみようと口を開く。
「朧、あのね……」
けれども、それは叶わなかった。なぜなら、目の前にお椀が差し出されたからだ。
その瞬間、白い湯気と共に、食欲を誘ういい匂いが鼻を擽った。
くぅ、とお腹が悲鳴を上げて、思わず視線をお椀に落とす。すると、そこには鱈のアラ汁が入っていた。
そう、これこそが、私が朧のためにと作った料理。
旬真っ盛りの真鱈を、丸ごと根菜と一緒に煮込んだアラ汁は、魚の旨みと味噌の香ばしさ、根菜の出汁が渾然一体となった、寒い時期にこそ嬉しい一品。
台所が壊れて使えず、どうにか焚き火で調理できるものをと考えた結果、選んだのが鱈のアラ汁だった。
「真宵、食え。傷は治ったが、血は戻っていないらしい。食って力をつけろ」
お椀を差し出したのは父だった。 目を真っ赤に腫らした父は、どう見ても疲れ切っていて、先ほどよりもやつれているように見える。
「……お父さん。ありがとう」
お礼を言うと、父は顔をくしゃくしゃにして笑った。そして、みるみるうちに仏頂面になった父は、朧にもお椀を差し出した。
「真宵がお前のために作ったもんだ。食え。食わないとは言わさねえぞ」
「……ああ」
お椀を受け取った朧は、父に視線を向けた。父はキュッと眉間に皺を寄せると、私にふたり分の箸を押し付けて、ドスドスと乱暴な足取りで戻っていった。
朧と顔を見合わせて、お椀に視線を戻す。
真鱈は、料理をすることを決めた後、凛太郎がわざわざ買い出しに行ってくれた。下拵えの方法や、調理のコツなんかは両親や櫻子が色々と教えてくれた。
わが家では毎年冬になると、知り合いの魚屋さんから、大きな真鱈を一匹丸ごと買ってきて、それを鍋にするのが恒例行事だった。
私はこれをとても楽しみにしていて、両親も毎年張り切って作ってくれていた。まさに、冬を代表するわが家の味。それが、このアラ汁なのだ。
……ぐう。
その瞬間、誰かのお腹が鳴る音が聴こえて、何度か目を瞬く。顔を上げて、朧を見つめる。すると、朧はどこか遠くを見て固まっていた。
「ふ、ふふふ……」
私が笑うと、朧は小さく咳払いをした。そして、私を見下ろして言った。
「食べよう」
「はい!」
私は、箸を朧に渡すと、いそいそとお椀を口元に近づけた。正直、私もお腹が減って仕方がなかったのだ。先程は聞かれずにすんだようだが、朧にお腹の音を笑われる前に、なにか口にしたい。
ふう、と息を吹きかけて、おそるおそるお椀に口をつける。思いのほか熱々なことにたじろぎながら、アラ汁を口に含んだ。
「はあ……」
その瞬間、真鱈の旨みが口いっぱいに広がって、うっとりと目を細めた。
真鱈は、冬が旬の魚の中でも取り分け上等な出汁が出る。切り身だけを入れた鱈ちりも美味しいけれど、やはり魚を丸ごと入れたアラ汁の方が、その旨みを味わうのにふさわしい。
出汁が染みて茶色くなった大根も、コラーゲンたっぷりの皮の部分も、噛みしめるごとに旨みが脳天を突き抜けて、的確に食欲を満たしてくれる。淡白な身のプリプリ加減を楽しみながら汁を啜れば、お腹の底からポカポカと温かくなった。
――うん。美味しくできたと思う。
会心の出来と言っても過言ではない。
これなら、朧にも満足して貰えるかも知れない――。
そう思って、黙々と食べている朧の様子を窺った。
「……!」
その瞬間、私は軽く目を見張った。
味の感想を訊くまでもない。普段は表情に乏しい朧の顔が、ありありと語っていたのだ。僅かに細めた瞳が、緩んだ頰が、優しい眼差しが、軽く持ち上がった口角が。
その一杯が――朧にとって満足のいくものであると。
「……朧」
胸がいっぱいになって、涙がこみ上げてきた。朧の大きな胸板に体を預けて、泣くまいと必死に堪える。泣いてしまったら、感情に流されてきちんと言いたいことを言えないかも知れない。なるべく、冷静なままで自分の想いを伝えたかった。
――でも。そんな私の努力は、なにもかも無駄だった。
だって、突然、朧が私を見つめたのだ。赤と黒の色違いの瞳に、優しさをたっぷり湛えて、私に向かってこう言ったのだ。
「……美味い。真宵の作るものは、本当に美味いな。いつもありがとう」
――もう駄目だ。
心が震え、なにかが振り切った感覚がした。
「朧。朧。朧……ッ‼︎」
私は、激情のままに朧に抱きついた。手にしていたお椀が落ちて、雪の中に沈んでいく。朧の胸に顔を押し付け、みんなが近くにいることなんてすっかり忘れて、体の中に満ちている甘い衝動に身を任せた。
「ま、真宵……?」
朧は、そんな私に酷く驚いているようだった。私の肩に手を添えて、心配そうに覗き込んでくる。私は、そんな朧を涙ぐみながら見上げると言った。
「これでも、私を一年で手放しますか」
「……真宵」
「私、これからも美味しいごはんを作ります。家庭菜園のお世話も頑張ります。お仕事の手伝いだってします。だから、一年で良いと言ったあの言葉を、どうか取り消してくれませんか」
そして、朧の胸に顔を埋めると、掠れた声で言った。
「……私は、なんの取り柄もないただの人間です。それでも、朧の――神さまの傍に妻としていることを、許してください」
ギュッと手が痛くなるくらいに握りしめて、震えながら声を絞り出す。
「朧が、あなたが、好きなんです……」
心臓が早鐘を打ち、どくどくと大きな音を立てている。目眩がしそうなほど不安に駆られ、どうしようもなく逃げ出したくなる。こんなにも外は寒いというのに、全身が熱くて、どうにも居た堪れない。まるで、時が止まったのかと錯覚するほどに、ゆっくりと時間が流れていく。パチパチと焚き木が爆ぜる音が聞こえる。けれども、それ以外の音はなにも聞こえず、星の瞬く音すら聞こえてきそうだった。
「――……」
たっぷりと沈黙した後、朧は長く息を吐いた。
呆れられたかと、不安に思って顔を上げる。
けれども、そこにあった色違いの瞳に、熱のようなものを感じて鼓動が跳ねた。
朧は、お椀を地面に置くと、私に手を伸ばした。想いを受け入れて貰えないのではという恐怖が沸き起こってきて、体を縮こませる。すると朧は、私の頬を酷く優しい手付きで撫でながら言った。
「知っているか。お前がどれほど俺の心を救ったか。どれほど俺を癒してくれたか。残されたすべてをかけてもいいと思えるほどに、俺の心を占めていることを」
「え……?」
思わず声を上げると、朧は私の体を強くかき抱き、耳もとに顔を寄せて言った。
「……お前が、俺に愛想を尽かしたと聞いた時、もうなにもかもがどうでも良くなった。何故、自分の命はまだ尽きていないのかと恨めしくも思った。神として生まれ、けれど役目を全うできなかった自分にとって、お前が幸せになるのを手伝うことだけが、できることだと思っていたのに。それすらもままならない自分に絶望した」
やや早口で言うと、朧は私を抱く力を益々強めてきた。
「お前を、この家に招き入れた時。本当は、欲しくて欲しくて堪らなかった。ずっとずっと求めていたものが、手の中に転がり込んできたのだ。自分だけのものにして、誰にも見せないように閉じ込めておきたかった。だが――」
朧の吐息がかかると、そこから熱が広がっていくようだった。けれども、同時に当時のことを思い出して、心が冷えていくような感覚があった。
初めて朧と対面した時、私は恐怖を浮かべた。怯えて、いつ逃げ出そうかとそればかりを考えていた。それが――朧にあの行動を取らせたのだ。
「もしかして、私の心の声を聞いたのですか」
「……ああ。あの時、お前は……早くここから去りたい、あの家に戻りたいとばかり望んでいた。それを聞いて、頭が真っ白になった」
……それは、朧の能力。相手の望むものを、知ってしまうという能力だ。
そのせいで、朧は私に一年間という条件を提示したのだ。すべては、私自身が招いたことだった!
「朧、朧。ごめんなさい。私がそんなことを思わなければ」
自分の愚かさを呪い、謝罪の言葉を口にする。けれど、朧は小さく首を横に振ると、私をじっと見つめて言った。
「自分の存在が、如何に人を恐れさせるのか、理解しているつもりだ。だから、お前が気に病むことはない。俺が、臆病だっただけなのだ」
――それに、お前は俺への恐怖を克服してくれただろう?
私の耳元で囁くように言った朧は、少し恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。
「あの時……お前を帰さなかったのは、俺の欲のためだ。神のくせに愚かしいとは思うが、どうしてもお前をここに留めて置きたかった。神の矜持もなにもかも忘れて、お前と只々一緒にいたかった」
朧は、私に頰を擦り付けた。
まるで、動物が相手にマーキングするみたいな行動に、擽ったくて体を攀じる。すると、僅かに体を離した朧は、私をじっと見つめて言った。
「真宵、もう一度聞かせてくれ。本当に……本当に、俺のことが好きなのか」
朧の言葉に、一瞬、キョトンとする。
「……!」
そして、言葉の意味を理解すると、すぐに顔が熱くなった。さっきは勢いで告白したから良かったものの、改めて口にするとなると、どうにも気恥ずかしい。あまりの羞恥心に、誤魔化したい衝動に駆られる。でも、ここでそんなことをしたら、なにもかもが台無しだ。
覚悟を決めた私は、朧を真っすぐに見つめると、心のままに言った。
「……嘘なんてつきません。私は、本当に朧が好きです。朧を、心から愛しています」
その瞬間、朧が泣きそうな顔をした。整った顔をくしゃりと歪めて、まるで泣くのを堪えている子どもみたいに口をへの字にした。
私は、体勢を変えて手を伸ばすと、朧の首に抱きついた。
そしてもう一度、言葉を重ねた。
「私は、朧が好き。ねえ、心の声を聞いて。心は嘘をつかないでしょう?」
朧の頭を自分の胸に当てる。
そこからはきっと、私の心音以外のものが聞こえるはずだ。
するとその瞬間、朧がふるりと身を震わせた。
私の心の声を……私が真に望むものを、聞いたのかも知れない。
朧の瞳がみるみるうちに潤んで行き、なんとも情けない顔になった。
――ああ、私の心が、気持ちが伝わった。
それを確信して微笑む。すると、目の奥から涙が滲んできて驚いた。
ちっとも悲しくないのに、次から次へと溢れてくる雫に戸惑う。けれどもそれは、まるで朧に寄り添った時みたいに、温かな温度を持っていたから――私は、その涙を受け入れることにした。
そして――朧の頰に手を伸ばすと、朧の頰を濡らしている涙に触れた。そして、それも私と同じ温度を持っていることに心底安心すると……。
心からの願いを口にしたのだった。
「……私を、本当のお嫁さんにしてください」
それは、あの春の日に半ば自棄になって凛太郎に言った言葉と、とてもよく似ていた。けれども、その言葉が持つ熱は比べ物にならないほどで、私は大きく頷いてくれた朧に満面の笑みを浮かべると、彼の耳に口を寄せた。
そして、小さく呟くように言ったのだった。
「……ありがとう。私の旦那様」
温かな太陽の光が地上を照らし、賑やかな小鳥が空に遊ぶ。肌を撫でる風はどこまでも優しく、宙に舞う桃色の欠片は目に楽しい。
「ふわ……」
マヨイガに訪れた、どこまでも居心地のいい季節。綺麗に整えられた中庭にある、ひときわ大きな桜の木の下。そこで私は、うとうとと微睡んでいた。
もちろん、地面に直に横たわっているわけではない。全身を包むふわふわの毛を、気まぐれに手で梳いて、安心しきって体を預ける。温かく、そして柔らかいここの寝心地は最高だ。楽しげに踊る蝶を眺め、眠ったり起きたりしながら、夢と現実の境を気まぐれに行き来していると――。
「奥方様~! どちらにいらっしゃるのですか‼」
凛太郎の声が聞こえて、慌てて近くにあった尻尾を掴み、その毛を頭から被った。じっと息を潜めて、ブツブツ文句を言っている声に耳を澄ます。
「まったく。今日は新しい苗を植えると言ったのに」
しばらくその声は聞こえていたけれど、やがて徐々に遠くなっていった。
「……行ってしまったようだが、いいのか?」
ホッとして尻尾から顔を出すと――どこか、心配そうな声が聞こえた。
私は、せっせとその大きな体をよじ登ると、顔が見えるところまで移動した。まだまだ冬毛が残っているからか、かなりの毛量の中を、泳ぐようにして進む。
そして、四対の真っ赤な瞳を見つけると、その鼻面に思い切り抱きついた。すると――朧は、私をぐいと持ち上げて、自分のお腹の上へと移動させた。私は、丸くなった朧の中心にすっぽりと収まると、近くにあった毛に触れながら言った。
「いいんです。明日でもいいのはわかってるんですから。私が朧とべったりなのが、気に食わないんですよ。凛太郎は」
「そうなのか?」
「そうなんです」
そして、私はふわ、と大きくあくびをすると、目端に浮かんだ涙を拭って言った。
「毎晩、毎晩、朧が寝かせてくれないから。ちょっとくらいお昼寝しないと、体が持ちません」
「…………そ、それはすまぬ」
恥ずかしかったのか、朧は、大きな尻尾をひゅん、と揺らした。クスクス笑いながら、目の前に広がる景色を眺める。春の日差しに照らされた霧に烟るお屋敷は、今日もとても立派だ。
「朧、体の調子は如何ですか」
「ああ。問題ない」
「そうですか。それは良かった」
――あの後、私は朧の本当の妻となった。
それは一年間限定じゃない、心も体も通わせた関係。そのお陰なのか、朧は力を取り戻し、みるみるうちに瓦礫の山と化していた屋敷を再建した。依代に戻っていた面布衆たちも帰ってきて、あっという間に活気を取り戻したマヨイガは、いつもの光景を取り戻して今に到っている。
「……気をつけてくださいね。朧になにかあったら困ります」
「ああ。お前の両親にも約束したからな」
この世に未練を残し、成仏できないでいた両親は、あの後無事に天国へと旅立って行った。私が、朧と心を通じ合わせたことによって安心したらしい。最後の最後まで私を心配していたけれど、朧が私を生涯守ると約束すると、納得したように天に昇っていった。
「真宵は俺が生涯守り続けます……かあ」
「なにか言ったか?」
「いいえ、なーんにも」
その時のことを思い出してニヤニヤする。
誰かから「守る」なんて言葉を貰ったのは、朧が初めてだ。それはなんて心地のいい言葉だろう。でも――。
「ねえ、朧。私も、朧を守りますからね! 機会を見て、朧を信仰してくれるような人を探します。朧のすごい力を知れば、きっと誰かは信じてくれるはず!」
ああ、なんだかウキウキしてきた。
守られてばかりいるのはつまらない。夫婦だもの、どちらかが上も下もない。対等な関係でいたい。私も朧のためになにかをしてあげたい!
苦労するかも知れない。
人間と神様の夫婦なんて、きっと色々大変な思いをするだろう。
でもきっと、この神様と一緒なら。
たとえ泣きたいことがあったって、いつだって寄り添ってくれるだろうから。
「それで、いつかふたりの子どもができたら、一緒にその子を守りましょう。きっと、可愛いですよ。だって朧の子どもですもん。いっぱい甘やかして、いっぱい叱って、いっぱい楽しみましょう!」
すると、朧が笑い出した。朧の体に寄りかかっていたから、まるで地震みたいに体が揺れて、思わず体制を崩す。転びそうになった私を、長い尻尾でひらりと受け止めた朧は、さも可笑しそうに言った。
「まったく。これだから真宵は」
その、面白がっているような口ぶりに、唇を尖らせて応える。
「駄目です?」
「いいや?」
すると、朧は四対の瞳をうっすらと細めると、いやに艶のある声で言った。
「……うちの奥さんは、最高だと思っただけだ。可愛いし、気が利くし。俺は幸せものだな」
「う? ううう……」
その、耳の奥にじんわりと染みるような声。
更にはノロケ全開の言葉に、思わず顔が真っ赤になる。
……そうなのだ。本当の夫婦になって気がついたのだが、この神様、結構な頻度で甘い言葉を囁く。しかも、タガが外れたみたいに、前以上に私を甘やかそうとしてくるのだ。それこそ、愛情でトロトロに溶かそうとしているみたいに。
――ああ。なんだかムズムズする。
私は、恥ずかしさを紛らわせるようにそっぽを向くと、自棄気味に言った。
「……だったら、あんまり人形にはならないでくださいね。獣頭の神に聞きましたよ! アレは結構無茶なことなんだって」
それに、今の甘々な朧が人形になったら。
あの、恐ろしいくらいに美麗な顔で同じ甘やかしをされたら、脳みそが沸騰して変になってしまいそうだ。だから、私は予防線を張るためにも、朧に人形への変化禁止令を言い渡した。すると――。
「フム、それは困る」
言った傍から人形に変化した朧は、大きな腕で私をぎゅうと抱きしめると、耳もとに口を寄せて言った。
「奥さんに乗られたり、撫でられるのもいいのだがな。こうやって同じ目線で、直に肌に触れるのも捨てがたいのだ。見逃してくれ」
「~~~~‼」
……気が遠くなってきた。
私は、朧の腕から逃れようともがいた。
そして、はたとある疑問を思い出して、朧に尋ねた。
「あの、そういえばひとつ不可解なことがあるんですが」
「なんだ?」
「私の両親のことです。両親は、どうして朧とのお見合いを進めていたんでしょう? あれから色々考えてはみたのですが、どうにも腑に落ちなくて。あの両親が、大切な一人娘を、身売りみたいなことをするでしょうか?」
娘を幸せにできなかったと、成仏できないくらいの両親だ。そんなことをするとは思えない。すると、朧はどこか気まずそうに視線を反らすと、ボソボソと言った。
「……あ~。あれはだな。神の御技的なアレで……」
その、如何にも気まずそうな様子に、不安を覚えた私は、朧に詰め寄った。
「まさか……神様の力で、私の両親を操ったんですか⁉」
「ほんの少しだけだ。見合い相手が、信頼の置ける誰かと錯覚する程度の」
「それって、ズルじゃありません⁉」
すると、朧はしょんぼりと肩を落とすと、これまた消え去りそうな声で言った。
「…………どうしても、お前を嫁にしたかったのだ。許してくれ」
そして、私の首筋に顔を埋めると、甘えるようにスリスリと顔を動かした。
「……うっ」
擽ったいやら、ちょっぴり子どもっぽいところが可愛いやら。
私は遠い場所を見やると、深く嘆息した。
「あの、私の感情を操作したりはしてませんよね?」
「そんなこと、するはずがない‼」
朧は、私の言葉に即答すると、「そんなことをして心を手に入れても、虚しいだけではないか」と、至極真面目な顔で語った。
「お前が俺を想う気持ちも、俺がお前を想う気持ちも、なんの力の介入もない。紛れもない本物だ。信じて欲しい」
再び首もとに顔を擦り付け始めた朧に、私は苦笑を漏らすと言った。
「……わかりました」
すると、朧はパッとあからさまに表情を明るくして、今度は私の頬や耳もとに唇を落とし始めた。そこから伝わる甘やかな感覚に、咄嗟に拒むこともできない。
しかし、こんな明るい時間から、これは勘弁して欲しい。
私はどうしたものかと思案した挙げ句、最終的には酷く原始的な方法を取った。
「……あ‼」
私は、素っ頓狂な声を上げると、朧を見つめた。
「お、朧。もうそろそろ昼食の時間ですよ。ごはん、作ってきますね」
すると、朧はパッと私から体を離すと、どこか子どもっぽい笑みを浮かべた。
「そうか。そういえば、そんな時間だな。腹が減った。楽しみにしている」
――食欲刺激作戦、成功!
私は、はあと安堵の息を漏らすと、気を取り直して言った。
「美味しいごはん、作ってきますからね」
「ああ」
「行ってきます!」
私は大きく頷くと、台所に向かって歩き出した。
さくさくと芝生を踏みしめ、屋敷に軽やかな足取りで向かう。
すると、作業をしていた面布衆が笑顔で頭を下げてきた。
私に気がついた櫻子は、ぴょんと飛び跳ねて嬉しそうに手を振った。その隣にいる凛太郎は、どうみても不機嫌そうだ。もしかしたら、また小言が始まるかも知れない。
でも、まあいいか、なんて思う。さっきまで朧とくっついていたから、今の私はパワー満タンだ。
――さあ、作ろう。とっても美味しいごはんを。
朧の心も体も満たす、最高の「愛妻ごはん」を!
私は笑みを浮かべると、着物の袖を威勢よく捲くったのだった。