仕事も終わり、下野から飲みに誘われたが断った。俺には卵を育てる義務があるのだ。

 マグカップから卵を取り出し、それを靴下で包み込みカバンに入れる。今日は車通勤だったので、駐車場へ向かった。

 そこには花巻がいた。ちょうど車に乗ろうとしていたところだったが、俺と目が合うと珍しく彼女から声をかけてきた。

「卵、大切にしてくださって嬉しいです」
「町内の平和を守るためだから!」

 笑いながらガッツポーズをしてそう言うと、花巻はくるりと背中を向けた。真面目な彼女のことだから、何言ってんだって、呆れたのかもしれない。

「……引き続きよろしくお願いします」

 こころなしか、いつもより花巻の声が高くなっていた気がした。

 家に着いて夕飯を作り、卵をコップに入れて食卓に置いた。

「ごはんの時間でちゅよぉ〜」

 そう言ったところで気がつく。奇しくも親子丼を作ってしまった。

 慌てて花巻にメールを送る。

『鶏肉を切り、卵を割り、火を通す姿を卵に見せてしまった。卵に嫌われちゃったかな?』
『大丈夫です』

 その返信にほっとして、卵にティッシュを被せて目隠しをし、大慌てで親子丼を平らげた。

 洗い物中も、そばに卵を置いた。

 それからテレビを見せたり、クラシックを聴かせたり。家の中でできる限りのことをした。まるで妊娠した妻の腹に呼びかける夫のように、愛情を持って接した。

 就寝前に歯磨きをしていると、携帯電話が鳴った。ボロボロの画面には、『着信:下野』と表示されている。面倒くさい、と一瞬思うが、急用ならいけない。口をゆすいで電話に出た。

「香山です」
「こんばんは~! この間の合コンのマキちゃん、今どんな感じなの?」
「なにかと思えば……マキちゃんね。ああマキちゃん。うーんマキちゃん」

 合コンのマキちゃん……。彼女の顔を思い出そうと必死で記憶をたどるが、卵のようにつるんとした輪郭が頭に浮かぶだけだった。

「……誰だっけ?」
「……はあ。そういうところ相変わらずだよねー。そろそろ身を固めたほうがいーよ。同期で独り身なの私とあんたくらいよ?」
「別にいいだろ。俺に彼女いないのは下野に関係ない」

 電話を切ろうと耳から離しかけたとき、下野独特の粘っこい声が引き戻した。

「よくない! あんた花巻に好かれてるでしょ? あいつヤバいよ、勤務中に香山のことずっと見てんの。すっごい熱烈にさ。あんたふらふらしてて妙に流されやすいから、告白でもされたら付き合いそうだし。花巻を振ったら振ったでストーカー化しそうじゃん? 今のうちに彼女のひとりでも作って、予防線張っておいた方がいいよ。マキちゃんあんたのこと気に入ってるらしいし、付き合ってみれば?」

 何を言うかと思えばそんなこと。

 下野は以前から花巻を嫌っていた。大ざっぱな性格だから、それをよく注意してくる細やかな花巻を疎んでいるのだ。

「余計なお世話だし、花巻に失礼だ」
「私あいつ嫌いだからさ、香山と仲良くしてほしくないの。目障りなんだよね、何考えてるのかわからなくてコワいし」
「お前中学生かよ。要件がそれだけなら切るから」

 電話を終え、ため息をつく。

 早口で中身のない下野の話は疲れるだけだ。口直しに煙草でも、と灰皿に手を伸ばすが、視界の隅に卵が映ったのでやめておく。副流煙は健康を害する。