「いつか、こうして抱き締めてやれることもできなくなる」
「……」
海愛は抵抗を止め、じっと黙って僕の言葉を聞いていた。
抱き締めた海愛の体は驚くほど小さかった。強く力を入れたら簡単に手折たおれてしまうのではないかと心配になるくらい。
心から愛する人をこの手にひしと抱き締める幸福を、僕は噛み締めていた。
「海愛、愛してるよ」
互いを確かめるように深く重なりあう唇。長いキスはこれから限られた時間以上の温
もりを必死に探しているようで、涙が出そうになった。
これから沢山の思い出を作ろう。沢山の証を刻んでいこう。僕らが精一杯に生きた証を。
「……蓮、大好き」
三度目のキスは、涙の味がした。
* * *
飛行機の飛ぶ音がする。
僕は机に向かいながらシャープペンシルをコロコロと転がしていた。
やる気が起きない。
夏休みが終わり、数か月。待っていたのは実力テストという壁だった。
僕にとって自分の学力を知ることができるいい機会だが、学年一位と言っても、全国で一番になれるか、と言えばそうでもない。教科書の内容だけの勉強では、学力のたかが知れている。
勉強はやればやるだけ自分の力になる。それは嫌というほど実感していた。勉強は、僕が生きている上で唯一時間を忘れられるものだった。
昔はたった一人で生きる覚悟をしながら生きていた。
今は僕を必要としてくれる人がいる。その喜びを知ってしまったから、もうあの頃には戻らない。
僕はパラパラと参考書を捲めくりながら冷めてしまった緑茶をのむ。
将来は、医者を目指そうと思っていた。沢山の人間の命を救いたい、というのは勿論だが、医学に携わっているうちに、自分の治療法を見つけられるような気がしていた。
早く死んでしまいたい。
そう思っていたのは過去のことだ。海愛に出会ってから、もっと生きたい、死にたくないという感情が芽生えた。干からびていた感情が水を得て、活き活きと輝き始めたのだ。
海愛は間違いなく、僕にとって生きる希望だった。
「メールでもしてみるか」
気分転換に、と僕は海愛にメールを送る。
【おはよう。今、なにしてた?】
携帯画面に【送信しました】と文字が表示されると、僕は携帯電話を閉じた。
「……さて、やるか」
パキパキと背骨を鳴らし、渋々シャープペンシルを走らせる。数分後、海愛から返信が。
僕は「待ってました」と言わんばかりに素早くメール画面を確認する。
可愛い顔文字が、画面の中で踊っていた。
【おはよー(^O^) 日光浴してたよ! どうしたの?】
僕は海愛のメールに。
【なんでもない。なんとなくメールしてみた】
と返信し、携帯電話を閉じた。そのまま椅子から立ち上がり、部屋の窓を開けた。残暑の熱気に眉を寄せながら、外気を肺に取り入れる。
そこには透き通るような青空が広がっていた。美しい青に目を奪われた。空に一筋の飛行機雲が浮かび上がる。
海愛。君もこの青空を見ているんだね。
離れていても、同じ空の下にいることには変わりない。
「もうひと頑張りするか」
お茶を淹れ直し、僕は再びシャープペンシルを走らせた。
* * *
実力テストを無事に終え、僕は海愛と会っていた。彼女の胸元では、誕生日に贈ったリングが日の光に照らされ、輝いていた。
「指輪、ネックレスにしたの?」
「うん! 大切なものだし……指輪だと、先生に没収されちゃうの」
「ふーん」
海愛は愛しそうに胸元の指輪を握り締め、微笑んだ。
「蓮のは?」
海愛は指輪のない僕の指を見て首を傾げた。
「あー……僕のは、ここ」
僕は携帯電話を取り出し、海愛に見せる。
シンプルな携帯電話に一つだけ揺れるラバーストラップ。中央に光るのが僕の指輪。
毎日携帯しているものにつけておけば、なくなることもないだろう。校則の面から学校内で指輪をつけることはできない。成績が絶対条件の僕は、生活指導に捕まるわけにはいかないのだ。
「お互い大切にしようね!」
「うん」
海愛の笑顔に僕は微笑み返した。
ピンポーン。
僕はこの日、とある一軒の家の前に立っていた。インターフォンの音に、足音が近づいてくる。広い庭を飾る手入れの行き届いた花たち。片手に手土産をぶら下げて、僕は残暑厳しい道を歩いてきた。
「はい、どちら様ですか?」
鍵が開き、女性が出てきた。胸元まで伸びた巻き髪。目鼻立ちが整った顔はやはり外国の血が入っているからだろう。優しそうな目元なんか、本当にそっくりだ。
僕が訪れていたのは、海愛の自宅だった。
数日前から体調が優れないと話していた海愛は案の定熱を出し、倒れてしまったらしい。
苦しむ彼女のお見舞いに、と僕は智淮さんから海愛の自宅の住所を教えてもらったのだ。
「僕、櫻井蓮と言います。海愛さんとは……」
「ああ! アナタが噂の蓮くん!」
「……え?」
女性は僕の名前を知ると、納得したように手を胸の前で合わせる。
わけが分からない僕は首を傾げた。
「ああ! アタシは海愛の姉で、雨う姫きって言います。よろしくね」
笑顔が海愛に似ている。
「はぁ、よろしくお願いします。あ、よかったらこれどうぞ」
わけが分からないまま僕は頭を下げ、持ってきた手土産を渡す。
「あら、わざわざありがとう! さ、中に入って!」
「お、お邪魔します」
雨姫さんに促されるまま、僕は海愛の自宅へと足を踏み入れる。スリッパを履いたところで、声をかけられた。
「蓮くんは、海愛の彼氏ってことでいいのよね?」
海愛の彼氏。
何度耳にしても慣れない言葉に体がピクリと反応する。平然を装いながら、僕は首を縦に振る。
「はい、一応」
僕の返答に、雨姫さんは満足そうに頷いた。
リビングまで案内してもらい、ソファに腰を下ろす。珈琲を淹れようとする雨姫さんに、僕は声をかけた。
「あの、海愛さんは……」
「あー海愛? そっか、お見舞いに来たんだよね! ごめんねー今寝ちゃってるのよ」
本人が眠っているなら、今日は帰った方がいいかもしれない。
「あ、それなら今日は帰ります……」
「待ってて! 今起こすから!」
「え、ちょ」
雨姫さんは僕の手を引き、螺旋らせん状の階段を上がっていく。
海愛、と書かれたプレートがかけられた部屋の前で立ち止まり、雨姫さんは僕の方に振り返った。
「準備はいい?」
「……はぁ」
なんの準備なのか全く分からないが、適当に相槌を打つ。
雨姫さんがゆっくり音を立てないように扉を開け、僕たちは静かに部屋の中に入る。顔を上げると、そこにはうっすらと汗をかく恋人が眠っていた。
起こしてはいけない、という妙な緊張感が僕を襲う。とてもいけないことをしている気分だった。
僕の様子とは対照的に、雨姫さんは海愛の元へとなんの戸惑いもなく歩み寄っていく。
唇の距離が耳まで近づくと、雨姫さんは妹の耳元で囁いた。
「海愛、蓮くんが来たよ」
その瞬間、ピクリと海愛の体が動く。ゆっくりとした動作で呻き声を上げながら、海愛は寝返りを打つ。跳ね返された布団がベッドの下に落下してしまった。
熱のせいで汗ばむ体。紅潮する頬。伸びたシャツの襟から覗くピンク色の……下着の肩ひも。捲り上がった服のせいで見える脇腹。
途端に言いようのない恥ずかしさに襲われ、僕はすぐさま海愛から目を逸らす。
女性経験が乏しい僕にとって、好きな人の無防備な寝姿など、目の毒以外のなにものでもない。
「んんー、蓮……?」
寝ぼけた海愛の声。
「うん。蓮くんがお見舞いに来てるよ」
笑いを堪えながら雨姫さんは海愛を優しく揺り起こす。
海愛は何度か譫うわ言ごとのように僕の名前を呼んだ後、飛び起きた。
「え、蓮!」
雨姫さんが反動で海愛と頭を衝突させてしまった。なかなかにすごい音がした。
海愛はそんなことなど気にも留めず、目の前の状況が理解できずに瞬まばたきを繰り返す。
「痛いな……もう。じゃ、ごゆっくりどうぞ」
雨姫さんは海愛と衝突してしまった箇所を涙目で痛そうに擦りながら、部屋を後にした。
静まり返った室内。海愛は蹴飛ばした布団を被り、動かない。
「海愛?」
恐る恐る海愛に声をかけると、次の瞬間、布団は勢い良く宙を舞った。
「もーお姉ちゃんの馬鹿!」
海愛は顔を真っ赤に染めながら、近くに置いてあったマスクに手を伸ばす。
「あ、蓮はあんまり私に近づいちゃダメだよ。うつったら大変だから」
「大丈夫だよ。それにしても雨姫さん、すごいな」
「……あはは」
海愛は苦笑いを浮かべながらベッドの端に腰かける。
海愛に姉がいることは初めて知ったが、よく似ている。海愛がもう少し大人になったら、雨姫さんのようになるのだろうか。
「あ、お見舞い、雨姫さんに渡しておいたから」
「え?」
「ゼリーなら食べられるだろ? お前、桃好きだったよな?」
僕の言葉に海愛は頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
僕も満足そうに微笑み、思い出したように海愛の方へと歩き出す。
『うつったら大変だから』
僕には海愛の言葉の意味がよく分かっていた。この体は健康な人たちとは違う。普通なら時間と共に治る風邪でも、僕の体にとっては致命傷になるかもしれない。
それを承知の上でこうして恋人のお見舞いに来ているのだから、馬鹿だと言われたら正直に頷くしかない。
心が逃げていた。
もしかしたら、普通の人と同じような生活ができるのかもしれない。短命というのは嘘で、愛する人と共に長命を全まっとうできるかもしれない。
幸せに触れ続けると、どうにも浮かれた考えばかりが浮かぶようになってくる。
海愛の見舞いに来たのは僕が自分の矛盾した考えと決別するための賭けだった。
「熱は?」
海愛の額に触れる。
「……やっ」
突然の接触に驚いたのか、海愛は身を固くした。
「あ、ごめん」
「ううん、びっくりしただけ……」
急に触れたのはやはりまずかったのだろう。
驚いたせいか、海愛は顔を赤く染めながら苦笑いを浮かべた。
「ほら、あんまり近寄ると本当にうつっちゃうから!」
海愛は近距離にいる僕を両手で押し退ける。
僕は渋々海愛と距離を置いた。
「僕、さ」
「ん?」
帰ろうか?
我ながら可愛くないことを考えてしまう。
僕は喉元まで出かかった言葉をのみ込んだ。
「いや、なんでもないよ」
「ふーん? ……変な蓮」
情けなくて、思わず笑ってしまう。
そんな僕を不思議そうに見つめながら海愛は首を傾げた。
海愛の気持ちは十分に理解している。海愛が僕と距離を置いたのは、僕の体を心配しての行動だ。頭では分かっているつもりだ。それでも深層にある一般との越えられない壁を感じ、僕は言いようのない寂しさに襲われていた。
普通の幸せが欲しい。
それは、決して叶うことのない願い。愚かな夢。
「海愛、布団に入れ。まだ熱があるんだから」
「うん……せっかくお見舞いに来てくれたのに、ごめんね?」
海愛は申しわけなさそうに頭を下げる。叱られた後の子犬のように。
「なに言ってんだよ、心配して来たんだから、余計に具合悪くなられたら困る」
布団をかけてやり、僕はしばらく海愛の側に寄り添っていた。
日が傾き始めた頃、僕は帰る支度を始めた。
驚かせないように海愛の額に触れる。先ほどより少しだけ、また熱が上がったように感じた。
「じゃあ僕、帰るよ」
「……もう?」
立ち上がろうとすると、服の裾すそを掴まれる。海愛はトロンと熱のある瞳で寂しそうに僕を見つめていた。僕は優しく海愛の頭を撫でる。
「熱もまだ上がってるみたいだし、僕がいたら海愛が休めないだろ?」
「平気だもん」
口では強気な言葉を発してはいるが、頬が赤い。荒い呼吸を繰り返す海愛に思わず苦笑した。
「いいから寝ろ。命令」
「えー」
「治ったら、お前の好きなケーキ奢ってやるから」
「本当? うん、約束!」
途端に瞳を輝かせる海愛。元気そうな姿に僕はホッと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、お大事に」
ゆっくり戸を閉め部屋の外に出る。
我慢していたのだろう。途端に部屋の中から咳き込む海愛の声が聞こえた。
階段を下りると、雨姫さんが台所に立っていた。雨姫さんは僕に気づき、声を上げた。
「あれ、もう帰るの? 今からご飯作るんだけど、一緒にどう? お粥だけど」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そう? 気をつけてね!またおいでよ」
「はい、お邪魔しました」
愛想笑いを振り撒き、僕は海愛の家を後にした。
帰り道、自分の体の異変に気がつく。カタカタと小刻みに痙攣けいれんする左手。そこで僕は薬をのみ忘れたことを思い出し、溜息をついた。
終わりの時は確実に迫っている。その事実をねじ曲げることなど誰にもできない。
海愛、ごめんな。こんなに弱い体で、ごめん。僕は今日も、君に謝ることしかできない。