しばらくの沈黙。
言葉足らずだったのか、彼女は不安そうに僕への言葉を選んでいた。チラチラとこちらをうかがう様子は、気を使わせてしまっている証拠。沈黙の間も彼女の焦りは真横で感じられる。
堪えきれなくなり、僕は沈黙を破った。
「やることが突然過ぎるんだ、あいつは」
少し大袈裟おおげさに溜息をつくと、ようやく緊張の糸が切れたのであろう彼女の笑い声が聞こえた。
「智淮もね! あの二人はバカップルだから」
「僕もそう思った」
「初めて蓮くんと意見が合ったね」
他愛のない会話。それでも彼女はとても楽しそうに笑っていた。
初対面の印象は、変わった子。今の印象は、よく笑う子。
「鈴葉さんはよく笑うね」
僕の言葉に彼女は先ほどまでの笑顔を曇らせる。
なにかまずいことを言ってしまったかと考えていると、彼女は予想外のことを口にした。
「鈴葉さん、なんて……私が蓮くんって呼んでるのに変じゃない?」
「変かな?」
「海愛でいいよ。それがダメならせめて鈴葉。対等でいたいから」
僕は、彼女にどんな返事をすればいいのか迷っていた。少し考えて、戸惑いながら答えた。
「じゃあ、鈴葉で」
「しょうがない、ぎりぎり認めよう!」
鈴葉は途端にまた花のような笑顔を見せる。表情豊かな彼女に僕は惹きつけられていた。
「それともう一つ。これからは蓮くんの分も私が笑うからね」
彼女の言葉に僕は首を傾げる。
「え?」
「アナタは全然笑わない人だから、私が蓮くんの分も笑うって言ってるの」
途端に真剣な表情になった鈴葉。彼女に返答することもできず、僕は苦し紛れの言葉を絞り出す。
「まあ、色々あってさ」
「そっか」
僕の返答に彼女はそれ以上の詮索せんさくを止めた。
それが不思議でならなかった。本来なら、他人の秘密や不審な点を根掘り葉掘り聞き出したくなるのが女の性さがだと僕は思っていた。人間ならある程度の詮索はするだろう。
けれども彼女は理由を突き止めようとはしなかった。第一印象で感じた印象は、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「聞かないのか、理由」
僕が尋ねると、すぐに返答があった。
「聞いてほしいの?」
思わず言葉に詰まる。
「いや、別に」
「話したくないんでしょう? なら、聞かないよ」
彼女の言葉に、僕は呆れさえも感じていた。
協調性が欠けている、という面では相性が良さそうだ。
「君、変わってるな」
溜息混じりの言葉に彼女はニコリと微笑んだ。
「そう? ありがと」
「いやいや、褒めてないし」
つくり笑いができないというのは案外ツラい。感情の表現方法を削られるという点で、僕のコミュニケーションに支障をきたす。
もどかしくなり、自分の焦りを隠すように髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱した。
「……蓮くん」
風が僕らの間を吹き抜ける。しばらく風を感じていると、彼女から声をかけられた。
「なに?」
「私の友達になってくれる?」
彼女は僕を気にしながら、申しわけなさそうに苦笑いを浮かべた。
僕は鈴葉のお願いに一言。
「うん」
そう返事をした。
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに笑っていた。
「そういえば、手の怪我は大丈夫?」
「ああ」
彼女は絆創膏が貼られた僕の拳を見つめ、悲しそうな顔をした。
「大丈夫だよ、そんなに痛くないから」
「本当に?」
「うん」
「そっか、よかった……」
僕の言葉に安心したのか、彼女は微笑んだ。
その瞬間、僕の胸がチクリと痛む。発作の痛みかと肝を冷やしたが、どうやら違うらしい。彼女の笑顔を見ると、胸が、呼吸が苦しくなる気がした。
異変を悟さとられないよう、僕は平然を装った。原因は分からないまま。
ただ一つ。確かだったのは、その日の僕らは勉強のことなどすっかり忘れていた。
僕は朝から苛立っていた。登校した直後、那音の顏を見るなり睨みつける。
「おはよ!」
抱きついてこようとする那音の腕を跳ね除け、僕は声を荒げた。
「那音。お前はやっぱり信用できない奴だよ」
僕が怒りを露あらわにしても、那音の態度が変わることはなかった。
「海愛ちゃん、本当に可愛かったな!」
「話をすり替えるな」
「まあそう怒るなって」
ふぅ、とわざとらしく溜息をつき、那音は笑った。
血圧が急上昇するのを抑えるため、大声を上げたくなる気持ちをグッと堪え、僕は穏やかな声色で那音に接する。
「で、あの後お前らはどうしたんだ? そのままデートか」
僕の言葉に那音はニヤリと口角を吊り上げた。
「野暮やぼなこと聞くなよ。それとも、興味ある?」
なんとなく察しがついた。それと同時に再び那音に対して苛立ちと呆れが沸き上がった。
「バーカ」
「なんとでも言え」
僕は那音がどうしてこんなにも明るく振る舞うことができるのか、不思議でならなかった。その考えを反かえせば、僕がおかしいだけなのかもしれない。那音の感覚が普通なのだとしたら、僕はやはり異常なのだ。
「なんかお前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
那音の言葉に僕は首を傾げる。
「いや、大丈夫だって」
そう言ったものの、那音の言うとおりかもしれないと思った。最近ずっと体調の優れない日が続いている。なにがあっても不思議ではない。
「顏、青いぜ」
「えっ」
指摘され、僕は自分の顔に手を添えた。頬は燃えるように熱かった。
どうやら体調が悪いというのは本当のようだ。
突然、ヒヤリと額に自分の手ではない感触が伝わる。驚いて顔を上げると、那音が僕の額に手を当てていた。
「蓮、これ熱あるぜ。保健室行け」
「まだ大丈夫だっ「大丈夫じゃない」
那音の真剣な声色に僕は言葉を詰まらせる。
「いいから行け」
「……」
それ以上反論できず、僕は重い体を引きずりながら保健室へ行くことになった。
「すみません先生、熱があるみたいで……」
静まり返った保健室。辺りを見渡しても、人の姿はない。
「誰もいないのか」
フラフラと重い足を引きずり、僕はそのまま簡易ベッドへ倒れ込んだ。ひんやりとしたシーツの感触が心地よい。
具合が悪いと分かってからは都合がいいもので、本当に体が重くなっていた。吐き気を抑えながら額の汗を拭う。
寝具のスプリングは僕の重みでギシリと音を立てた。
無音の保健室。次の瞬間。
「……誰かいるの?」
女の声が聞こえた。誰もいないはずの保健室から、自分以外の声が聞こえたことで、僕は反射的に身を固くする。
辺りを見渡しても、やはり誰もいない。
空耳か。
「……よほど体調が悪いんだな」
気のせいだと言い聞かせ、僕は枕に顔を埋める。
するとまた声が聞こえた。
「無視? 感じ悪いなぁ」
今度は空耳などといういいわけは通用しない。確かに聞こえた声。しかしそれがどこから聞こえているのか分からない。
僕はフラつく体で再び辺りを見渡した。そして、ようやく声の主を見つけた。
「あ」
「やっと気づいてくれた」
声の主は女の子だった。
僕が彼女の存在に気がつけなかったのには理由があった。それは僕の寝転んだベッドと隣のベッドを仕切るために取りつけられた薄いカーテン。
声の主は僕のベッドのもう一つ向こう側に横たわりながら声を発していた。彼女がのそりと体を起こしたことで、ようやく僕は彼女の存在に気づくことができた。
ゆっくり起き上った声の主は、窓際から差し込む朝日を背景に、僕の前へと姿を現した。
「アナタ、櫻井蓮でしょ」
声の主は僕の名前を知っていた。
見知らぬ人間に名前を憶えられることをした記憶がない。しいて言うなら、成績と、日頃の生活態度が原因だろうか。
「君は?」
「へー……アナタが櫻井蓮ねぇ」
声の主はまじまじと僕の顏を覗き込む。
その所作で、はだけた制服の胸元から谷間が見える。僕は咄嗟に視線を逸らした。
「質問に答えろよ」
声の主は僕が視線を逸らしていることに気づくと口角を吊り上げた。
彼女は僕のベッドに腰かけながら大きく開いたシャツの胸元を正ただした。
「わたし、二年の中津なかつ莎奈匯さなえ。珍しい漢字でしょう?」
彼女は自らの手の平にどこから取り出したのか、黒いマジックペンで自分の名前を書いてみせた。
「確かに。え、二年?」
同級生だと思っていた目の前の女の子が年下だということを知り、僕は驚く。
彼女はフンッと鼻を鳴らして言った。
「年下のくせに生意気だって?」
「いや、そうじゃなくて……同級生かと思って」
「わたしが?」
「うん」
莎奈匯は僕の言葉に「ふーん」と納得する。そして僕との距離を詰めて言った。
「ねえ櫻井先輩!」
「蓮でいいよ」
「じゃあ蓮! わたしのことも莎奈匯って呼んでね」
「分かった」
「で、知り合った記念にお願い」
莎奈匯は満面の笑みでさらに詰め寄り、言った。
「わたしの彼氏になって?」
その発言に、僕は目を丸くした。
莎奈匯に動揺を悟られないよう平然を装う。
「どうして」
「廊下ですれ違った時に、一目惚れ?」
歪いびつな笑顔。不自然なほど明るい声色。人間観察は得意な方だ。
僕は勘づいた。
「嘘だろ」
「えー? そんなことないよ」
「目が笑ってない」
僕の指摘に莎奈匯は「あっ」と声を発する。
「ばれた」
図星を突かれた莎奈匯は途端に僕から距離を置き、舌を出して笑った。
ギシリと二人分の重さでベッドのスプリングが悲鳴を上げる。
「サボりか?」
僕の質問に、莎奈匯の声色は急に弱々しくなった。
「わたし、生まれつき体が弱くてね。いつも保健室登校なの」
悲しそうに微笑む莎奈匯に、僕は目を奪われる。
彼女が嘘を言っているようには見えなかった。似たような境遇の人間だからこそ、少なからず理解できる部分があった。
「僕は体調不良」
フラリと視界が歪む。僕は頭を抱えて、布団に潜り込んだ。
ベッドの端はしに座っていた莎奈匯の溜息が聞こえる。
「寝るの?」
莎奈匯に同情しているつもりも、仲間意識を持ったわけでもない。彼女と自分は違う。
僕は莎奈匯に返事をすることなく、そのまま揺れる視界の中で眠りに落ちていった。
僕が寝息をたて始めた頃、莎奈匯は自分のベッドに戻り、激しく咳込せきこんでいた。
「ゴホッ……ゴホッ」
ズキズキと脈と同調して襲ってくる規則的な痛み。呼吸がままならず、生理的な涙があふれ出す。莎奈匯は一人で苦痛に堪えた。
後に聞いた話。莎奈匯は心臓病を患っていた。彼女は僕が話を聞いてくれたこと、受け入れてくれたことがきっかけで友達になってほしいと頼んできた。
数少ない、悩みを共有できるかもしれない相手。次第に心を許していった僕が彼女を莎奈匯と呼ぶようになった頃、僕も彼女を友達と認めるようになった。
莎奈匯は僕と同じく病気のことを除けば、普通の女の子だった。思ったことを口に出すところは彼女の人柄をよく表し、陰口も言った。しかしそれは人間なら普通のことであり、おかしいとは思わなかった。
僕には鈴葉の方がよほど不思議だった。彼女はいつも笑顔を絶やさず、素直だ。不思議なほどに純粋な女の子だった。彼女のことを考えると、いつも胸が苦しくなる。
僕はその感情の名前をまだ知らない。