玄関を入るとパパがすでに帰宅していた。そういえば、今日は、午後からお台場の国際会議場へ食品関係の展示会を見に出かけて直帰すると聞いていた。
「ただいま」と言って、付き添ってくれた山田さんと急いで自分の部屋に入った。
「山田さんありがとうございました。家まで付き添ってくれて」
「私に任せて、無理しないでしばらく休んでいればいいから」
「しばらくは行けそうもないので休暇届をお願いします」
「分かったわ、叔父さまに言いにくかったら、私から事情を話しましょうか?」
「いいえ、落ち着いたら自分で話そうと思います」
「それならいいけど。ホテルの状況は私から連絡してあげる」
「もしかすると、これきりでやめるかもしれません」
「まあ、じっくり考えて。連絡は携帯へするから」
山田さんが帰るので見送りに部屋を出た。
「私にまかせて、無理しないでしばらく休んで、いいわね」
山田さんは、玄関に見送りに来たパパに「彼女が自分から話をするというので、よく聞いてあげてください」とだけ言って帰って行った。
自分の部屋に戻ってこれからどうしようかと考えた。でも一人で考えていても、悔し涙が出るだけで、思い切ってパパに話を聞いてもらう決心をして部屋を出た。ソファーにパパが座っている。
「よく面倒を見てくれていたチーフに、仕事中、突然キスされたの。チーフは40歳前後の独身で、フランス料理はかなりの腕前で、新入社員の私を親切に指導してくれていたの。私は彼を先輩として尊敬していたのだけど、思いもしない突然のことなので、驚いてトイレに駆け込んだの。上司として尊敬していたけど、男性としては全く意識していなかったから。でも、こんなことになって、このまま黙っていると、どんどんエスカレートしそうで心配になって。でも口に出したら、ここにいられなくなるかもしれないと、何度も悩んだけど、誰かに相談しようと、気が合って親しい先輩の事務の山田さんに相談しにいったの。そうしたら山田さんは『それはセクハラ、ちゃんとしなきゃダメ』と言って、すぐに副支配人のところへ報告に行ってくれました。それから、副支配人に呼ばれたので、山田さんの立会いの下で、事情を話したら、事実確認をするので、今日は帰るように言われました。あれこれ考えてしょんぼりしていると、山田さんが心配して家までついてきてくれました。休暇が残っているので、とりあえず、休暇届を出すのを山田さんに頼みました。しばらく、どうするか考えるけど、私は今の職場を今月一杯でやめようと思っています」
パパは黙って話を聞いてくれた。
「パパも賛成だ。いったん壊れた人間関係の修復は困難、いやできない。どうしても、しこりが残る。だから、どんな時でも、最後まで絶対言ってはいけない一言や、絶対してはいけないことがある。それを通り越したらもう引き返せない。仲直りして、忘れたようであっても、何かの拍子に思い出す。覆水盆に戻らず。パパも何回もそれで痛い目にあっている」
ホテルをやめると思うと悔し涙が出てきた。この気持ちをなんとかしなければと思っていると一発逆転の良い考えが浮かんできた。
「パパお願いがあるの。どうしても聞いて、でないと立ち直れそうにないから」
「何? 何でも聞くけど」
「キスして下さい」
「ええ! 今それで大変なことになり、悩んでいたんじゃないのか?」
ここは頑張ってどうしてもキスしてもらうときめた。パパも拒否しないだろう。賭けてみたい。
「お願い、どうしてもお願い」
「うーん、分かった。それで立ち直れるというのなら。目をつむって」
パパは唇に軽く触れるだけなので、私は目を開いて「そんなんじゃなくてもっと強く」といって唇を押し付けた。パパが慌てて引き下がる。
「もう一回、強く、しっかり、お願い!」
今度はパパも意を決したのか、両手を頬にやさしく触れて、丁寧にゆっくりと長めのキスをしてくれた。気持ちが込められていたのが分かったので、驚いてじっとしていた。
「もう一回お願い!」
今度は両手で身体をやさしく抱いて、思いを込めてキスしてくれた。それがすごく長い時間のように感じられた。身体から力が抜けてうっとりした。パパはキスがとってもうまい、なぜ? パパが身体をゆっくり離すけど、恥ずかしくて顔が見られない。
「これで3回してもらった。チーフより2回多い」
「ええ、回数の問題か?」
「回数は大事。だってパパの方が私の唇の感触をより多く知っているでしょ!」
「これで立ち直れるのならいいけど」
「もう大丈夫、ありがとうございました。ご心配をおかけしました」
私は急いで自分の部屋に戻った。パパに抱かれてキスされた感触が唇やら身体に残っている。うっとりして、しばらく何もできなかった。抱かれてキスされている時の安心感というか幸福感は初めての経験だった。
私はパパが本当に好きなんだ。あの抱き方、あのキスの仕方、パパも私のこと好きで、私がほしいのかもしれない。チーフのことなんかすっかり忘れて元気が出てきた。キスしてもらうことにしたのは確かに名案だった。
◆◆ ◆
後日、ホテルから家族の方に来てほしいとの連絡が入り、約束の日にパパは出かけて行った。パパの話では、約束の時間に訪ねると支配人以下、総務部長など幹部数人が部屋に集まっており、今回のセクハラ事件の謝罪があったという。
現在、処分を検討中で、後日結果を知らせるとのことだった。そして、パパは私に一切の落ち度がなかったことを確認して謝罪を受け入れたと言っていた。
また、今月末で退職することを伝えて、今後の私の再就職活動中に中傷や妨害があったら、断固とした処置をとることを明言して帰ってきたそうだ。父親代わり、ありがとうございました。
◆◆ ◆
それから、私は1か月就職活動をした。幸い調理師免許を持っていると、給料は底々ではあるが、就職口はいくらもあった。私は社員食堂の運営会社に就職を決めた。
その理由は、昼食を作るがメインの仕事で、朝は定時に出勤すればよく、4時過ぎには帰れる。夜遅くなるのは、食堂でパーティーがある時だけで回数は少ない。年末年始、土日祝日は休み、つまり生活パターンがパパと同じになるということだ。
あと、フランス料理の料理人になるセンスがないと自覚したからでもある。それは、自由が丘のレストランを1週間位、見習いで手伝っていたけど、良い待遇が受けられないことが分かったからだ。その理由はシェフにセンスを見抜かれたからに違いないと思っている。
自分がフランス料理のコックに向いているか分からないといって、パパに相談したことがあった。
「久恵ちゃんの料理は美味しいし、味付けもなかなか良い。パパは大好きだ。ただ、料理人としてみた場合、上手なだけでキラッと光るものは感じられない」
「キラッと光るものって?」
「センスと言ってもよいのかもしれない。これは生まれながらにして備わっているもので、必ずしも努力で補えるものではないと思う。直感的にできてしまう何かだ。パパも研究や仕事でそういう人、何人かに会っている。この人にはどうしてもかなわないなと思う人に」
「確かに、調理師学校でも同期にそういう人がいたわ。ほんの一人か二人。私とは全然違う。格が違うというか」
「それが分かるということは、久恵ちゃんもある程度はセンスが良いのかもしれないね」
「分かった、ありがとう。参考になりました」
「それから、人には何か、他の人よりすごく優れている点が必ずある。それが何か分からないだけだ。また、何でも上手くできる人はいない。天は二物を与えず。お勉強が凄くできても、運動はからっきしダメとか。神様は人間を平等に作られている。久恵ちゃんもそれを探したら良い」
再就職後、二人の生活パターンが同じになったことにより、会話の時間が増えて、生活にも落ち着きが出てきた。休日は朝寝したり、二人でショッピングや食事に出かけたりと、まるで、共働きの夫婦のような生活で毎日が楽しい。
ただ、あのキスの後、私のパパへの思いがすごく変わった。以前よりまして男性としてみるようになった。だから、一緒に生活していてドキドキすることが多くなった。また、いろいろ気になることが出て来て聞いてみたいことも出てきた。
「なぜ、パパは結婚しなかったの?」
「自分にとって大切に思える人がいなかったから」
「一人で寂しくなかったの」
「人は生まれた時も死ぬ時も一人。その寂しさが分かったので、人を大切にできるようになった」
「私も一人になったので、分かる」
もっといろいろ聞いてみたいけど思いつかないし、きっかけがない。
「ただいま」と言って、付き添ってくれた山田さんと急いで自分の部屋に入った。
「山田さんありがとうございました。家まで付き添ってくれて」
「私に任せて、無理しないでしばらく休んでいればいいから」
「しばらくは行けそうもないので休暇届をお願いします」
「分かったわ、叔父さまに言いにくかったら、私から事情を話しましょうか?」
「いいえ、落ち着いたら自分で話そうと思います」
「それならいいけど。ホテルの状況は私から連絡してあげる」
「もしかすると、これきりでやめるかもしれません」
「まあ、じっくり考えて。連絡は携帯へするから」
山田さんが帰るので見送りに部屋を出た。
「私にまかせて、無理しないでしばらく休んで、いいわね」
山田さんは、玄関に見送りに来たパパに「彼女が自分から話をするというので、よく聞いてあげてください」とだけ言って帰って行った。
自分の部屋に戻ってこれからどうしようかと考えた。でも一人で考えていても、悔し涙が出るだけで、思い切ってパパに話を聞いてもらう決心をして部屋を出た。ソファーにパパが座っている。
「よく面倒を見てくれていたチーフに、仕事中、突然キスされたの。チーフは40歳前後の独身で、フランス料理はかなりの腕前で、新入社員の私を親切に指導してくれていたの。私は彼を先輩として尊敬していたのだけど、思いもしない突然のことなので、驚いてトイレに駆け込んだの。上司として尊敬していたけど、男性としては全く意識していなかったから。でも、こんなことになって、このまま黙っていると、どんどんエスカレートしそうで心配になって。でも口に出したら、ここにいられなくなるかもしれないと、何度も悩んだけど、誰かに相談しようと、気が合って親しい先輩の事務の山田さんに相談しにいったの。そうしたら山田さんは『それはセクハラ、ちゃんとしなきゃダメ』と言って、すぐに副支配人のところへ報告に行ってくれました。それから、副支配人に呼ばれたので、山田さんの立会いの下で、事情を話したら、事実確認をするので、今日は帰るように言われました。あれこれ考えてしょんぼりしていると、山田さんが心配して家までついてきてくれました。休暇が残っているので、とりあえず、休暇届を出すのを山田さんに頼みました。しばらく、どうするか考えるけど、私は今の職場を今月一杯でやめようと思っています」
パパは黙って話を聞いてくれた。
「パパも賛成だ。いったん壊れた人間関係の修復は困難、いやできない。どうしても、しこりが残る。だから、どんな時でも、最後まで絶対言ってはいけない一言や、絶対してはいけないことがある。それを通り越したらもう引き返せない。仲直りして、忘れたようであっても、何かの拍子に思い出す。覆水盆に戻らず。パパも何回もそれで痛い目にあっている」
ホテルをやめると思うと悔し涙が出てきた。この気持ちをなんとかしなければと思っていると一発逆転の良い考えが浮かんできた。
「パパお願いがあるの。どうしても聞いて、でないと立ち直れそうにないから」
「何? 何でも聞くけど」
「キスして下さい」
「ええ! 今それで大変なことになり、悩んでいたんじゃないのか?」
ここは頑張ってどうしてもキスしてもらうときめた。パパも拒否しないだろう。賭けてみたい。
「お願い、どうしてもお願い」
「うーん、分かった。それで立ち直れるというのなら。目をつむって」
パパは唇に軽く触れるだけなので、私は目を開いて「そんなんじゃなくてもっと強く」といって唇を押し付けた。パパが慌てて引き下がる。
「もう一回、強く、しっかり、お願い!」
今度はパパも意を決したのか、両手を頬にやさしく触れて、丁寧にゆっくりと長めのキスをしてくれた。気持ちが込められていたのが分かったので、驚いてじっとしていた。
「もう一回お願い!」
今度は両手で身体をやさしく抱いて、思いを込めてキスしてくれた。それがすごく長い時間のように感じられた。身体から力が抜けてうっとりした。パパはキスがとってもうまい、なぜ? パパが身体をゆっくり離すけど、恥ずかしくて顔が見られない。
「これで3回してもらった。チーフより2回多い」
「ええ、回数の問題か?」
「回数は大事。だってパパの方が私の唇の感触をより多く知っているでしょ!」
「これで立ち直れるのならいいけど」
「もう大丈夫、ありがとうございました。ご心配をおかけしました」
私は急いで自分の部屋に戻った。パパに抱かれてキスされた感触が唇やら身体に残っている。うっとりして、しばらく何もできなかった。抱かれてキスされている時の安心感というか幸福感は初めての経験だった。
私はパパが本当に好きなんだ。あの抱き方、あのキスの仕方、パパも私のこと好きで、私がほしいのかもしれない。チーフのことなんかすっかり忘れて元気が出てきた。キスしてもらうことにしたのは確かに名案だった。
◆◆ ◆
後日、ホテルから家族の方に来てほしいとの連絡が入り、約束の日にパパは出かけて行った。パパの話では、約束の時間に訪ねると支配人以下、総務部長など幹部数人が部屋に集まっており、今回のセクハラ事件の謝罪があったという。
現在、処分を検討中で、後日結果を知らせるとのことだった。そして、パパは私に一切の落ち度がなかったことを確認して謝罪を受け入れたと言っていた。
また、今月末で退職することを伝えて、今後の私の再就職活動中に中傷や妨害があったら、断固とした処置をとることを明言して帰ってきたそうだ。父親代わり、ありがとうございました。
◆◆ ◆
それから、私は1か月就職活動をした。幸い調理師免許を持っていると、給料は底々ではあるが、就職口はいくらもあった。私は社員食堂の運営会社に就職を決めた。
その理由は、昼食を作るがメインの仕事で、朝は定時に出勤すればよく、4時過ぎには帰れる。夜遅くなるのは、食堂でパーティーがある時だけで回数は少ない。年末年始、土日祝日は休み、つまり生活パターンがパパと同じになるということだ。
あと、フランス料理の料理人になるセンスがないと自覚したからでもある。それは、自由が丘のレストランを1週間位、見習いで手伝っていたけど、良い待遇が受けられないことが分かったからだ。その理由はシェフにセンスを見抜かれたからに違いないと思っている。
自分がフランス料理のコックに向いているか分からないといって、パパに相談したことがあった。
「久恵ちゃんの料理は美味しいし、味付けもなかなか良い。パパは大好きだ。ただ、料理人としてみた場合、上手なだけでキラッと光るものは感じられない」
「キラッと光るものって?」
「センスと言ってもよいのかもしれない。これは生まれながらにして備わっているもので、必ずしも努力で補えるものではないと思う。直感的にできてしまう何かだ。パパも研究や仕事でそういう人、何人かに会っている。この人にはどうしてもかなわないなと思う人に」
「確かに、調理師学校でも同期にそういう人がいたわ。ほんの一人か二人。私とは全然違う。格が違うというか」
「それが分かるということは、久恵ちゃんもある程度はセンスが良いのかもしれないね」
「分かった、ありがとう。参考になりました」
「それから、人には何か、他の人よりすごく優れている点が必ずある。それが何か分からないだけだ。また、何でも上手くできる人はいない。天は二物を与えず。お勉強が凄くできても、運動はからっきしダメとか。神様は人間を平等に作られている。久恵ちゃんもそれを探したら良い」
再就職後、二人の生活パターンが同じになったことにより、会話の時間が増えて、生活にも落ち着きが出てきた。休日は朝寝したり、二人でショッピングや食事に出かけたりと、まるで、共働きの夫婦のような生活で毎日が楽しい。
ただ、あのキスの後、私のパパへの思いがすごく変わった。以前よりまして男性としてみるようになった。だから、一緒に生活していてドキドキすることが多くなった。また、いろいろ気になることが出て来て聞いてみたいことも出てきた。
「なぜ、パパは結婚しなかったの?」
「自分にとって大切に思える人がいなかったから」
「一人で寂しくなかったの」
「人は生まれた時も死ぬ時も一人。その寂しさが分かったので、人を大切にできるようになった」
「私も一人になったので、分かる」
もっといろいろ聞いてみたいけど思いつかないし、きっかけがない。