12月9日(木)は両親の1周忌になる。その日は学校も仕事もあるので12月5日(土)に私とパパと一緒に日帰りでお墓参りに行くことになった。
新幹線を使えばこういうことが可能だ。パパは祖母にも一緒に行こうと電話をかけていた。駅からタクシーに乗って、高齢者住宅で祖母を乗せて、墓地へ向かう。
元気で現れた二人を見て、祖母はとても嬉しそうだった。パパは週末毎に電話を入れて健康状態などを聞いていた。見た目はすこぶる元気で安心した。
墓地は郊外の低い山の中腹にあり、とても眺めがよいところだ。納骨の時は周りをみるゆとりなんかなかった。祖父が生前に買っておいたところという。買ってから1年も経たずに心筋梗塞で亡くなったとパパが言っていた。
ふもとの入り口にあるお店でお花とお線香と蝋燭を買って、また、狭い道を上っていく。タクシーを待たせてお参りをする。
パパはお墓に供えられた枯れたお花を持ってきたレジ袋に片付けている。月命日には祖母がお参りをしているという。綺麗になったお墓にお花を供え、蝋燭を点して、線香に火をつける。
風が強くて蝋燭の火が消えそうだ。そういえば納骨の時は雪が降って風が強くて蝋燭に火がつかなかった。それで寂しさが募ったのを思い出した。
3人がそれぞれお数珠を取り出して手を合わせる。私のお数珠はママの形見だった。パパのものは生前に父親が買ってくれたものだと言っていた。
私は長い間手を合わせていた。3人で暮らしたことが思い出されてなかなかその場を離れられなかった。お参りに来られなくてごめんね。私は康輔叔父ちゃんと幸せに暮らしています。
「もう行こうか?」とパパが私を促した。私はあの時を思いだして泣いていた。パパは私の肩を抱いてタクシーのところまで歩いてくれた。
もう1時を過ぎていた。祖母はお腹が空いたので皆で回転寿司を食べに行こうと言って、運転手さんに行きつけの回転寿司に行くように頼んだ。
店はもう1時を過ぎていたので空いていた。ボックス席に座った3人は思い思いの皿を取って食べ始めた。私は懐かしいお店へきて嬉しかった。好きなお皿を選んで食べている。
「ここへは3人でも時々食べに来ていました。結構おいしいんです」
「思い出の店だったんだ。大丈夫?」
「過ぎたことを悔やんでもしかたないでしょ。それよりも好きなだけ食べていい? ここは久しぶりだから」
「久恵ちゃんの好きなだけ食べていいからね。ここはおばあちゃんがご馳走するから。今日はお墓参りありがとう。崇夫も潤子さんも喜んでいると思いますよ」
私はお腹が空いていたのと、久しぶりのお寿司だったので、夢中で食べている。お腹が膨れてくると悲しい思い出もどこかへ消えて行ってしまった。目の前ではパパも美味しそうに食べている。
お腹がいっぱいになったところでタクシーを呼んだ。途中で祖母を高齢者住宅の前で下ろした。別れ際、祖母がパパに私の面倒をよく見るように言っているのが聞こえた。
それから「久恵ちゃんが康輔のお嫁さんになってくれたらいいのだけどね」と独り言のようにポツリと言ったのが聞こえた。
パパは聞こえないふりをしたのか、何も答えなかった。私の方を見るので私も聞こえなかった振りをした。
そのまま駅に向かう。駅で夕食用のお弁当を2つ買って、帰りの新幹線に飛び乗った。これで7時前にはマンションに帰れる。
新幹線が動き出した。私は黙っては外を見ていた。3月に一緒に上京した時のことを思い出していた。もうあれから8か月以上も一緒に暮らして楽しい毎日が続いている。これでよかったのだ。
「さっき、おばあちゃんの言ったこと聞こえた? 気にしなくていいんだからね」
「何て言ってた?」
「それならいいんだ」
パパは私に聞こえたはずだと思っていた。確かに聞こえた。でも私は何と答えてよいのか分からなかった。私もそう思っていると言う勇気がなかった。もしそう言って「僕はそんなことは考えていないから」と言われたらどうしよう。パパなら言いかねない。取り返しがつかない。そう思ったからだ。
私の気持ちは態度で示すほかはないと思って、座席の間のひじつきを上げてパパの腕を抱えて肩にもたれかかった。
あの時は遠慮しながらおそるおそる肩に持たれてみたけど、今は気合をいれて当然といった勢いでもたれかかる。はたから見ると父親に寄り掛かっているというより恋人に寄り掛かっているように見えるだろう。これでいい。私の無言の答えだ。どうするパパ?
パパは目をつむっている。眠ってはいない。腕に寄り掛かっているのだから直感的に分かる。腕が緊張している。でも私の方が眠ってしまった。目が覚めたら大宮駅を出るところだった。もうここまで帰ってきた。もう一息だ。パパはすっかり眠っている。
「着いたよ」
パパを起こした。上京した時と同じだった。
もうクリスマスが近くなってきた。光陰矢の如し、時の経つのは早い。パパとの楽しい生活が続いているからそう感じるのかもしれない。もう少しゆっくり時間が過ぎていってほしい。この時間をもっと楽しんでおきたい。
クリスマスが終わると新年、また歳を取る。パパはそれがいやみたい。若い私と一緒に暮らして歳を取るのがいやみたい。だから、誕生日も嬉しくないと言っていた。
まあ、二人とも同じように歳を取るので歳の差が開いてゆくことはない。縮まるに越したことはないけどそれは無理だ。パパはどうも二人の歳の差を気にしているみたい。
クリスマスはどうしようかとパパから聞かれた。
「外食すると高くつくので私がクリスマスの料理を作ります。ケーキを買ってもらえればそれで十分です。それに家でした方が落ち着くし、ゆっくり二人でクリスマスを祝いたい」
そういうと少しがっかりしていた。パパは私と二人でどこかのホテルのメインダイニングでの夕食を考えていたようだった。でもここで二人っきりも悪くないと思ったみたい。気を取り直して聞いてきた。
「クリスマスプレゼントは何がいい?」
「お誕生日に高価な指輪を買ってもらったのでクリスマスプレゼントは必要ないです」
「クリスマスはクリスマス、誕生祝いとは関係ないから」
「じゃあ、冬のブーツを買ってください」
「ブーツ?」
「みぞれが降っても、雪が降っても歩けるブーツ、安いものでかまいません」
「分かった」
「一緒に買いに行く?」
「選んでいただければそれでいいです」
「サイズは確か23㎝だったね」
「そうです」
「そういえば、久恵ちゃんは赤のブーツを持っていなかった?」
去年の両親のお葬式の時、私は濃い赤のブーツを履いていた。
「あのブーツ、もう履きたくないんです」
「どうして?」
「あの赤いブーツは前の年の崇夫パパからのクリスマスプレゼントだったんです。短大生になったので、もう少しおしゃれしてほしいと言って。それまでは赤いゴムの長靴を履いていましたから」
「兄貴からのプレゼントだったのか。それで分かった。お葬式の時に履いていた訳が」
「あの事故の日、私はその赤いブーツを履いて友達と町へ出かけました。出がけにパパがそれを見て、嬉しそうに『似合っている』と言って送り出してくれました」
「そうなんだ」
「パパから今年のクリスマスプレゼントは何がいいと聞かれていましたが、あれが最後のクリスマスプレゼントになりました」
「だから、もう履く気になれないの?」
「あの時の嬉しそうな顔が忘れられません。だから大切に箱に入れてしまってあります」
崇夫パパの思い出の品だと言ったので、パパはまだ忘れられないのかと思ったみたい。黙ってしまった。
「分かった。今度は僕が久恵ちゃんに似合うブーツを選んでプレゼントしよう」
気を取りなおしたように言った。
◆◆ ◆
今年のクリスマスイブは木曜日、クリスマスは金曜日だから23日水曜日の祝日に早めのクリスマスをすることになった。
12月のはじめの1周忌のお参りから帰ってきてから、気分を変えようと、私は小さなクリスマスツリーをリビングの端の台の上に飾っていた。これだけでもクリスマスの雰囲気が出るから不思議なものだ。
朝のうちに二人でスーパーへ買い物に出かけて料理の材料を仕入れてきた。私のためにとノンアルコールのシャンパンも1本買ってきた。
それからケーキは駅の近くのケーキ屋さんで、いわゆるクリスマスケーキはやめて、ショートケーキを2個ずつ、それぞれの好みのものを選んで買った。
私はそれぞれを半分ずつ食べれば、4種類も食べられると言ってそうしてもらった。ついでにローソクを仕入れた。それぞれに1本ずつ立てることにした。
3時過ぎから私は料理に取り掛かった。献立だけど「雰囲気だけ出ればいいでしょう」とメインは鶏料理で若鳥の照り焼き、サーモンのカルパッチョ、生ハムとチーズの野菜サラダ、それにポタージュスープにした。
4時過ぎには準備がすっかり整った。お腹もすいてきているし、もう暗くなってきているので始めることになった。
食事を始めてから私がキッチンに立つ必要がないように、座卓の上に準備した料理、シャンパン、ケーキをすべて並べた。パパがジャンパンの栓を抜いてグラスに注いでくれる。そして乾杯!
「メリークリスマス」
すぐに料理の味を確かめる。
「これ食べてみて、どう?」
パパは黙って食べている。
「美味しい?」
「返事できないくらいに美味しい」
ようやく答えてくれたので、自分も食べてみる。まあまのできだ。
「ポタージュスープも美味しいね」
「色々混ぜたから味に深みがあると思うけど」
「これまた作ってくれる」
「気に入ってもらえたのならいつでも作ります」
料理を食べ終わったころ、外はすっかり暗くなっていた。ケーキに蝋燭を立てて火を点す。部屋の明かりを落とす。
私は蝋燭をじっと見つめている。パパと二人だけのクリスマス、あれから1年たったけどようやく落ち着いてきた。今は幸せな気持ちでいられる。パパのお陰だ。ありがとう。パパの顔を見た。
「吹き消して」
「しばらくこうして見ていたい」
私はそのまま蝋燭の火を見ていた。
「蝋燭もいつかは燃え尽きてしまうのね」
1/3ほど燃えたところで1本1本ゆっくり吹き消していった。
真っ暗になった。私は泣いてしまった。パパがすぐに部屋の明かりを点けた。私の泣いているのに気が付いた。
「どうしたの」
「こんな幸せ、いつまでも続かないのね」
「続くさ」
「明日のことなんて分からない。でも今は確かにあるから今を大切にしたい」
「そうだね」
私の気持ちが沈んでいると思ったのか、パパは話題をすぐに変えた。
「プレゼントを受け取ってほしい。気に入るか分からないけど、リクエストにはお答えしたつもりだけど」
そう言うと部屋に行ってプレゼントの箱を持ってきた。私も部屋に行ってプレゼントを持ってきた。パパが嬉しそうに私のプレゼントを見ている。プレゼントを交換する。
私はパパにシルクのスカーフをプレゼントした。
「そのスカーフ、リバーシブルで両方のデザインが好きだけど、私と歩くときはその青と水色の柄にしてほしいの、若く見えるから。会社へ行くときは反対側のシックなデザインにして」
「分かった。そうする。ありがとう。こんなスカーフが欲しかった。ウールのマフラーは外ではいいけど、暖房が効いている電車の中だと暑苦しいから」
「気に入ってもらえてよかった。お小遣いを貯めたかいがありました」
「僕の選んだブーツも見てくれる?」
「ええ、本当に買ってくれたの、ありがとう」
すぐに開けてみる。
「すごくいい色。派手過ぎず、地味過ぎず、センスいい。履いてみていい?」
ソファーに腰かけて、足を入れる。立って2、3歩歩いてみる。
「いつでも履いてくれるね」
「二人で出かける時しか履きません。一人で履いて出かけて、パパに何かあるといけないから。二人なら一緒に事故にあっても思い残すことはないから」
パパは何も言わずに黙ってしまった。でもせっかくのブーツだから大切にしたい。それと一緒にどこへでも出かけたい。
次の日、パパはプレゼントのマフラーを言われたとおりにシックなデザインを表にして会社へ出かけてくれた。喜んでもらえてよかった。
今年の年末年始はパパと二人だけで過ごすことになる。パパは28日(月)が仕事納めで29日(火)から年末休暇に入り、仕事始めは1月4日(月)からなので6日間の長期休暇になる。私はもう学校が休みになっていて家事に精を出している。
私は綺麗好きなので、汚れているところが少しでもあると気に入らない。丁度良い機会だとキッチン、リビング、ベランダ、浴室、トイレ、玄関などあらゆるところの大掃除を毎日している。パパが休みになると、パパの部屋の大掃除をしてもらった。
パパはここを購入して以来、大掃除なんかしたことがないと言っていた。パパもどちらかというと綺麗好きだから、目に見えるところに汚れなどあるとその都度すぐに綺麗にしていたみたい。トイレももちろん毎週掃除していたそうだ。
でもよく見ると汚れているところがたくさんあった。
「だから、中年の独身男は不潔と言われるのよ」
そう言って隅々まで掃除をして回っていた。よしよし、綺麗になった。
パパは私がここへ来てからアルバイトをさせてくれなかった。学校へ通って、家事をして、その上アルバイトなんて休日に限っても到底できないというのがその理由だった。
それに「身体でも壊したらそれこそ大変だし、兄貴に申し開きができない。それよりも休日は二人でゆっくり過ごしたい」と言っていた。
そのかわり家事のお手当として毎月2万円を渡してくれた。そう提案され時には、両親が亡くなった時の保険金などがあるので必要ないと断ったけど「衣服や化粧品を買ってお洒落して僕のために可愛く綺麗でいてほしい」と言われて、それならと受け取ることにした。ありがたい話だと感謝している。
お手当は言われたとおりに使っている。衣服も高くないもので可愛いものを選んで着るようにしている。パパの好みがはっきりとは分からないけれども、時々、じっと嬉しそうに見ている服は気に入っているみたいだ。それでだんだん好みが分かってきた。
どちらかというと、大人びたものよりも、可愛いのがいいみたい。どちらかというとロリコン趣味? あまり極端にならないように気を付けているけど、まあ、そんな感じ。
「お正月用におせち料理を作る」と言って30日に買い出しに付き合ってもらった。ママがいつも作っていて、私に作り方を教えてくれていたので、作ってみたいと思ったからだ。ここでは私が主婦だから絶対にうまく作って見せる。
◆◆ ◆
「そろそろこちらへきて一緒にテレビをみないか?」
「これですべて出来上がりです。年越しそばを作りました。それに作ったお節を食べてみてください」
座卓に天ぷらそばと小分けしたお節料理を並べる。パパは買ってきてあった日本酒を冷蔵庫から出してきて、小さなグラスも2個用意している。
「せっかくだから、お酒も飲んでいい。こんなに美味しそうなつまみもあるから」
「ゆっくり飲んでください。お酒に合えばいいいけど」
「久恵ちゃんもどう?」
「酔っぱらってしまいそうだから、止めておきます」
私はお酒にとても弱いことが分かっているから、今日は飲まないときっぱり断った。パパは「日本酒は後で回るから注意しないといけない」と言いながら結構飲んでいた。
テレビを見ているとあっという間に12時になっていた。テレビからは除夜の鐘の音が聞こえる。私は立ち上がってベランダに出た。
「除夜の鐘が聞こえないかな?」
「どう聞こえる?」
「聞こえない」
「前のお家では聞こえたのに」
「この近くにお寺はないと思う。テレビの音で我慢して」
「それなら初詣に行こう」
「今から?」
「テレビでは皆、初詣をしているから、私もしたい。一昨年は3人で近くの神社へお参りに行ったから」
「ここなら洗足池まで行けば神社があってお参りできるけど、どうしても行く? 明日の朝じゃだめ?」
「すぐに初詣に行きましょう。二人で」
私がせがんだらパパは抵抗しないことはもう分かっている。すぐに出かける用意をしてくれる。紺のダウンジャケットに私がプレゼントしたマフラーを私に言われないうちに若向きの派手な柄を表にしてくれている。
私もパパに合わせて赤のダウンジャケットにシルクのオレンジ色のマフラー、それにパパがプレゼントしてくれた紺のブーツを履いた。
歩いて行くことにした。外へ出ると冷気を顔に感じる。私はすぐに腕を組んでパパに身体を寄せる。パパは悪い気はしないはず。いい感じだ。
神社の前まで来るとこの時間なのにすごい人出だ。もうすでに長い行列ができている。並んでいると前へ進むので10分ほどでお参りができた。2礼2拍手1礼でお参りを終えた。
「おみくじを引きたい」というと、私が代表して引いてほしいと言われた。「末吉」だった。
「末吉って、後々良いというけど」
「そのとおり、今は悪くてもこの後良くなるということ」
「今も結構いいから、この後はもっといいことがあるということね。安心した」
「今も結構良いって思っている?」
「当り前でしょう。こんないい生活をさせてもらって、それにとっても楽しいし」
「そう思ってくれているのなら言うことはない。じゃあ帰ろう」
帰りも腕を組んで帰ってきた。まるで恋人同士みたいだった。マンションに着くとさすがに私は疲れていた。今日は午後からお節を作っていた。それで、お風呂には入らずにすぐに寝たかった。パパも疲れたので、そのまま寝るといっていた。
お酒を飲んで歩いたのでやっぱり疲れたのだろう。付き合ってくれてありがとう。おやすみ。
◆◆ ◆
元日は9時に目が覚めた。ぐっすり眠れた。すぐに起きて食事の支度をしなければならない。
昨夜は初詣にでかけて帰ってきてすぐに寝てしまったので、キッチンの片付けがされていない。新年早々これはまずかった。すぐに片づけを始める。
片付けが終わって一休みしているとパパが起きてきた。
「おはよう、いや、明けましておめでとう」
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ。何時に起きた?」
「9時、今起きたばかりです。昨日の後片付けが終わったばかりで、これから準備します」
「ゆっくりして、朝昼兼用でいいから」
「そのつもりです。お雑煮とお節でお願いします。お餅はいくつですか?」
「3つでお願いします」
パパが身なりを整えてここへ来る前には、すっかり準備ができていた。お節とお雑煮だから時間はかからなかった。
パパと一緒に新年初の食事だ。ゆっくり味わって食べる。
「パパ、初詣に行きたい」
「昨夜、行っただろう」
「明治神宮へ行ってみたい。いつもニュースで見ていたので一度行ってみたいと思っていたから」
「結構混んでいるけど、いいの?」
「お願い」
「分かった。何事も経験だから」
午後から出かけることになった。パパは行くことを承諾した。私がどうしてもと言うとパパは決してダメとは言わない。それが分かってきた。でも甘えてはいけないことも分かっている。
パパが理由を言って行くのを渋るけど、それは大体当たっている。私のためを思って言ってくれているのは分かっている。花火の時もそうだった。
でもどうしてもと言って甘えてみたい。私のことをどれくらい思ってくれているのかいつも試してみたい。パパも私と一緒に出掛けることを嫌がっている訳ではないことは分かっている。決していやいやではない。むしろ楽しんでいる。だからなおさら強引に行こうと言ってみたい。
原宿駅を降りるともうすごい人出だった。
「こんなに人が多いとは思わなかった」
「言ったとおりだろう」
「テレビに映るのは拝殿前だけだから、こんなに人が多いと今分かった」
私の想像を絶する人出だった。でも来た以上は参拝して帰る。私は人ごみで迷子にならないようにパパの腕にしがみついて歩いている。パパは私がしがみついているのを楽しんでいるように時々私を見て微笑んでいる。
人ごみの中を二人は少しずつ前へ進んでいく。拝殿まで長い時間がかかったけど、参拝はあっという間に終わった。後ろが続いているのでゆっくりお参りしていられない。
「せっかく来たのだから、ここでもおみくじを引きたい」
「また、引くの?」
「もっと、良いくじが出るかもしれないから」
「昨日は末吉で満足していたのに、凶が出るかもしれないよ」
「縁起の悪いこと言わないで」
それを気にしながらせっかくだから引いてみた。
「やっぱり、末吉だった」
「そうなると思った。僕は昔おみくじを引いて凶が出たことがあった。それで縁起が悪いからもう一度引いたらやっぱり凶だった。もう、ぞっとした。それからおみくじは2度と引かないことにしている」
「それで私に引かせていたの?」
「そういう訳でもないけど」
「それでその1年は悪いことはあったの?」
「まあ、それもあって気を付けていたので何事もなく1年が過ぎた」
「当たっていなかった?」
「引かなければ注意しなかったから何かあったかもしれないけど、注意していたからか無事何もなかった。それで凶が出るとよいと言う人もいる。それに凶は最悪なので次に引くときは良くなるから」
「でも、その次も凶はありえるね」
「だから、それからは引かないことにしている」
「結構、信心深いんだ」
「毎日、毎日、気を付けて、一生懸命に生きればいいことだし、神様だけが知っていればいいことを僕が知る必要はないと思うようになったからね」
「私もおみくじはもう止める。せっかく末吉が出たのだから」
◆◆ ◆
帰りはスムースだった。
「せっかく、原宿まででてきたから、どこかで初売りの福袋でも買おうか?」
「私は福袋を買わないことにしています」
せっかく言ってくれたのに、そっけない返事をしてしまった。
「どうして?」
「福袋はお得かもしれないけど何が入っているか分からないし、必要ないものも入っているかもしれない。欲しいものを欲しい時に買えばいいから、無駄な出費はしたくありません」
「確かにそうだ。そういう考え方もあるね」
パパは感心していた。気分を害さなくてよかった。
そのまま、マンションに帰ってきた。トイレを我慢していた。私はブーツを脱ぐとトイレに駆け込んだ。今度は完全に間に合った。
人ごみの中を歩いてきたせいか、マンションに戻るとどっと疲れが出た。私は「夕食はお節を食べて下さい」とパパにお願いした。お節も飽きてきたので、明日は何か作ろう。
パパも私もお風呂から上がるともう眠くてしょうがない。やっぱり明治神宮の初詣は人が多くて疲れた。来年は近場で十分だ。「おやすみ」といって部屋に入ってすぐに眠りに落ちた。
◆◆ ◆
次の朝、二人が目覚めたのは9時を過ぎていた。
「おはよう。初夢どうだった?」
「初夢?」
「見なかったの?」
「ぐっすり眠れて目が覚めたら朝だった」
「実をいうと僕もみなかった」
「昨日は初詣に行って疲れ過ぎました。来年は遠くへ初詣に出かけるのはやめましょう」
パパはいわないことじゃないと笑っていた。でもパパも楽しかったでしょ。
「でも年が明けて初めて見る夢が初夢だから、今夜を楽しみにしよう」
「そうね、今夜も早めに寝ましょう」
これじゃあ、あっという間に三が日が過ぎていく。
調理師専門学校は1年間なので、3月に卒業の予定だけど、そろそろ就職先を決めたいと思っている。
「専攻はフランス料理だけど、実際のレストラン、特に高級なレストランに行ったことがないので、どこかに連れて行ってもらえませんか、お金はかけなくていいですから」
「そういえば、久恵ちゃんとレストランで食事したのは、上京した時の案内で銀座のレストランで食事してからずっと行ってないね。ごめんね、気が付かなかった。もっと外食する機会をつくるべきだった。いいよ、適当なところを探しておくから。久恵ちゃんと二人でレストランで食事か、楽しみだ」
そういって、パパは嬉しそうに引き受けてくれた。
そういえば、パパはあまり外食が好きでないみたい。一人で生活している時も外食はほとんどせず、自分で作るか、スーパーかコンビニで総菜を買てくるか、弁当を買ってきて食べるという生活をしていたという。
理由を聞くと、食事の時に必ず晩酌をするので、酔いが回って気持ちよくなってきたところで、家に帰らなければならないのが面倒だとか。私と同居するようになってからも、缶ビールか缶チューハイを1本かウイスキーの水割りを飲んでいる。ただし、休日は飲まない。
1杯飲みながら食べた後、少し酔いの回ったところで、ゴロっと横になって、テレビを見たり、うたた寝をするのが好きだと言っていた。そういえば、食事の後はいつもごろごろしていることが多い。
今度の金曜日の午後6時に第1回レストラン見学会開催ということで、銀座の有名ホテルのメインダイニングに予約を入れてくれた。
◆◆ ◆
当日、ホテルのロビーで待ち合わせることにした。パパは会社の帰りにそのまま直行するという。私は一度家に帰って着替えをしてホテルへ向かうことにした。着ていく服がなかなか決まらないので、家を出るのが遅れてしまって、6時過ぎに走ってロビーにたどり着いた。
「ごめんね、服を合わせるのに時間がかかってしまって」
「とっても素敵だ。見違えた。久しぶりだね、レストランで食事なんて」
「ごめんなさい。無理を言って」
「いやいや、こんな楽しい無理なら大歓迎だ、気にしないで、いざ見学に」
「嬉しい」
パパは上機嫌だ。私をエスコートしてメインダイニングへ向かう。パパが受付で予約を告げると年配のウェーターが席に案内してくれるが、少し緊張している二人をどう見ているのか興味深々だ。
席に着くと椅子を引いてくれる。さすがに一流レストラン。着席して渡されたメニューを見る。フランス料理だからフランス語も書かれている。日本語とフランス語を照らし合わせて読んでいる。
事前に打ち合わせたとおり、パパが今日はアラカルトでと告げると、ウェーターは少し残念そうに、お飲み物はと聞く。パパはビール、私はジンジャエールにした。
それぞれサラダとスープをチョイスし、メインはフィレステーキとした。デザートはセットメニューを注文した。パパはメインの時に、赤のグラスワインを二人にと注文した。
「シャーベットは、本当はソルベットというのを知っている? 英語で発音するとソルベット」
「知っている。フランス語ではソルベ、習ったから」
「ハンバーガーは注文するときにはサンドイッチ、ハンバーガーだけほしいときはジャスト・サンドイッチ」
「知らない。へー、パパ英語できるの」
「2年間ニューヨーク勤務をしたことがある」
「知らなかった。それで食事はどうしていたの?」
「赴任した始めのころは、毎日夕食はその辺のレストランで食べていたけど、注文は、いつもビール、シーザースサラダ、ステーキ、ソルベット、コーヒーだった」
「いくらくらいかかるの?」
「チップも含めて20ドルから40ドルくらいだったかな」
「結構かかるね」
「毎日、ステーキを食べていたなんてパパらしいわ」
「僕は気に入った食べ物があるとすぐに何回も繰り返して食べてしまう癖がある。だから、せっかく美味しいものでも、すぐに飽きてしまう。今は美味しいものがあっても、できるだけ食べないようにしている」
「私もそうかもしれない。気に入ったものがあるとすぐにやみつきになってしまって、マイブームと言っているけど、ブームが去るのもあっという間」
「ハンバーグの代わりにチキンを挟んであるサンドイッチが好きになって、週に3~4回買っていたら、店の女の子にソースの好みを覚えられて、こちらが言う前に『ハニーマスタード?』と確認されるようになった」
「日本人だから覚えられたのね」
「そのとき『ジャスト・サンドイッチ』を覚えた」
「確かに実用英語ね」
「それから、事務所の人にデリカテッセンで総菜を買うことを教わった。まあ、総菜屋さんのことで肉料理からシチュウ―、スープ、サラダ、フルーツなどを売っている。パックに好きなものを好きなだけ詰め込んでレジに行く。丁度、ビュッフェスタイルの食事でお皿に料理を盛りつける感じかな。レジでは重さをはかって料金が計算される」
「料理ごとに料金が決まってはいないの?」
「計算がめんどうなのか、どこでもそうだった。それに肉料理は少量でも重いけど野菜サラダはかさが多くても軽いからシンプルで合理的だと思った」
「それはそうね」
「でも毎日これが続くと、さすがに日本食が食べたくなって」
「分かる。その気持ち」
「日本食の食材屋でお米と冷凍のウナギのかば焼きとたれ、それにパック入りの豆腐、即席みそ汁、醤油を買って、自分で鰻重定食をつくって食べた。もう最高にうまかった。日本人に生まれてよかったと、つくづく思った。それからは自炊することにした」
「食材って高いの?」
「日本食の食材屋は日本から取り寄せているので、値段は高め。お米は米国産で安かったし、味もよかった。スーパーでは肉類はすごく安い。普通のステーキなら1ドルから2ドルくらい、すこし良い肉でも5ドルも出せば十分。野菜や果物も安い。自炊すると食費はとても安く上がった」
パパがうれしそうに話してくれる。そういえば、パパはあまり自分のことを話さない。聞くと話してくれるから、もっと聞かなくちゃ。
「聞き上手だね」
「パパの話、面白いし、聞くのは好きよ」
そこへ料理が運ばれてきた。私は海外での生活や、今の会社の仕事など、いろいろなことを聞いたので、話がはずんだ。パパは私とこんなに話をしたのは初めてでとても楽しいと喜んでいた。
話に夢中になって、私はメインの時に頼んだグラスワインを空けてしまった。
「お酒強いの? 大丈夫?」
「弱いけど、飲みやすいから知らないうちに飲んじゃった。大丈夫かな?」
「まあ、僕がいるから安心していいよ」
「ママもお酒はだめで、飲んでいるのを見たことなかったけど、私もダメみたい。成人式の後にビールをコップ半分飲んだけど、ひどく酔いが回ったのを覚えているから」
「ワインは度数が高く口当たりが良いからパパも注意している。以前、送別会で飲み過ぎてひどい二日酔いで死ぬ思いをしたことがある。その時はボトル2本位飲んだと思う。どんどんワインを追加した幹事が悪い」
「飲んだ本人が一番悪いと思うけど」
「レストランではハウスワインをグラスで頼むのが一番、1本では多すぎる。レストランが厳選しているので値段の割に美味しい。ただし、ワインは日本酒と同じで後から回るから飲み過ぎは禁物だ」
デザートの後、コーヒーを飲み終えて退席した。これで第1回レストラン見学会は終了した。パパがレジでカードを出して支払いを済ませる。
「ありがとう。ご馳走様でした。ゴールドカード、かっこいい」
「就職したらカードを作ったらいい」
「私は、いつもニコニコ現金払い、無駄使いするからカードなんか作るつもりはありません」
「堅実なんだ!」
それから、有楽町駅までゆっくり歩いた。昼間暖かかったので薄めコートにしたらすこし寒いので、腕を組んで身体を寄せて歩く。パパも悪い気はしないみたいで黙って歩いている。週末で、周りは腕を組んだカップルが多いので目立たない。
五反田駅でエスカレーターを昇って、池上線に乗り換え。1本電車を待って二人座って帰った。
ただ、座席に座ってからは断片的な記憶しかない。急に酔いが回ったみたい。雪谷大塚駅で揺り起こされて駅を出たのは憶えている。パパに抱えられて気持ちよく帰った記憶がある。身を任せている安心感と快い酔い心地だった。
部屋で介抱されて寝かせられた。この時とばかり酔った勢いで「大好き」と言ってパパに抱きついた。パパは一瞬緊張したみたい。そっと腕をほどいて、私に布団をかけたのは憶えている。それから朝まで爆睡した。
◆ ◆ ◆
朝、目が覚めて、パジャマに着替えていないのに気が付いて、飛び起きた。断片的な記憶をたどると、帰りに酔いが回って、すぐに寝込んだことが分かった。
パパはもう起きているみたい。部屋のドアをノックする。
「パパ、ありがとう、昨夜はごめんなさい。酔っ払ってしまって」
「調子はどう?」
「パパと一緒だからよかった。ほかの人とだったらどうなっていたことかと考えるとゾッとする。もう、絶対にお酒は飲まないから」
「二日酔いはどう?」
「ぐっすり眠れて気分爽快、あとで一緒に散歩に行きましょう」
それから、パパは、2回、渋谷と新宿のホテルでレストランの見学会を週末に催してくれた。もちろん、私はお酒なしだった。
私は、広尾の通りから少し入ったところにある中堅のホテルにコックとして就職することになった。
私は無事に調理師専門学校を卒業して調理師免許を取得することができた。いや、指の怪我があった。
卒業式のあった次の週末にパパへの感謝のために、卒業記念謝恩夕食会を開くことにした。主賓はもちろんパパ一人でフランス料理風?のフルコースを作ることにした。「風」とつけたのは全部手作りできないのと材料費を安くするので味付けで勝負するためだ。
それから出来上がったものを二人で一緒に食べることにしている。せっかくだから二人で味わって食べたい。でも一人二役は大変そうだけど、頑張ってやってみることにした。
土曜日の午前中に私はひとりで自由が丘まで食材の買い出し出かけた。パパは駅の近くのスーパーでお祝いだからと赤と白の少し高価なフランスワインを買ってきた。私がようやく卒業して一人前になったので、今日は二人でゆっくり飲んで少し酔ってみたい気持ちはよく分かる。
私は昼過ぎから料理の下ごしらえを始めている。パパには何もしないでただ席に座って出てくる料理を一緒に味わって食べてほしいと言ってある。忙しそうにしていても手伝わないでほしいと言ってあるので、私の準備の様子をソファーから見守ってくれている。
パパには昨日のうちにフルコースのメニューを渡してある。オードブル(前菜)、パン、スープ(コンソメ)、ポワソン(魚料理)、ソルベ(お口直し)、ヴィヤンド(肉料理)/レギューム(肉料理と供されるサラダ)、フロマージュ(ブルーチーズ)、デセール(ケーキ)、コーヒーを予定している。
5時にはすべて準備ができたので、始めることにした。まず、冷蔵庫で冷やしておいたオードブルを運んでいく。パンはここでは焼けないので美味しいお店から買ってきたものをバスケットにいれて出した。
オードブルは3品作った。一品一品はほんの少ない量だけど、一品ごとに手をかけて作ったので、詳しく説明する。
パパは熱心に聞いてくれている。いや、聞いているふりをしている?「どうぞ召し上がって下さい」と言うと、すぐに食べる。まるで、犬がご馳走を前にお預けをさせられていたのと同じだ。
パパは白ワインを飲みながら食べている。すぐに食べ終わった。本当に味わって食べてくれたのだろうか? 私は白ワインを飲まない。飲むと後々大変なことになるのが分かっている。パパはそれが分かると私の白ワインも飲んでいる。
「もう少し味わってゆっくり食べて下さい!」
「ごめん、お腹が空いていた」
「どうだった?」
「美味しかった」
「それだけ?」
「いろんな味がして味付けに深みがある」
せっかく一生懸命に作っているのに、本当によく味わって食べてくれているのか分からない。これ以上感想を聞いてもしかたがないとあきらめて、スープの準備に取り掛かる。
もうできているので、温めるだけでいい。スープ皿に丁寧に注ぐ。結構手間をかけたので説明する。今度こそ味わって飲んでもらいたい。パパは早く飲みたいのか、頷きが多い。
「そうぞ、召し上がって下さい」というと、スプーンでそっとすくって口に入れている。美味しいとみえて、味わって飲んでいる。
「どう?」
「美味しい。本格的なコンソメスープだ。コンソメの素でつくるのとは全く違う」
「当たり前でしょ。ほかに言い方はないのかしら」
もう、あきれて返す言葉がない。見ているうちにスープ皿は空になった。私は出来を確かめるようにゆっくり飲んでいた。まず、まずの出来だ。
パパはと見ると、もう次の料理が出てくるのを待っている。ポワソン(魚料理)は鯛をつかった料理にした。オーブンレンジで温めてから出した。お腹が空いているみたいだからあえて説明は簡単にした。どうぞというとすぐに食べ始める。
「味はどうですか?」
「鯛の皮のパリパリ間がすごくいい。鯛の本当のうまみが引き出されていて美味しい」
パパが今度は自信がありそうに答えた。待っている間に考えていた? 私も食べてみる。
「そうね。まあまあね」
これもパパはすぐに食べてしまった。食べるのが早いこと。私は作って配膳してから食べるので時間がかかっている。それに出来をチェックして食べているから時間がかかる。
口直しのソルベを運ぶ。これは買ってきたものでモモとブルーベリーの2種類だ。やはり口直しにはアイスクリームよりもソルベがすっきりしていい。
「美味しいソルベだね。もう少しないの?」
「残りは後でお風呂上がりに私がゆっくり食べるから」
「そうなの」
ここまで食べたので、パパもお腹が落ちついてきたみたい。パンも結構食べていた。次はメインのヴィヤンドとレギュームだ。パパが赤ワインを二人のグラスに注いでいる。もうこれで料理も終わりだから私も飲むと思ったのだろう。
葉物を中心としたレギュームを運ぶ。ドレッシングを作り忘れていた。考えてはいたのだけど、お肉のソースを作るのに時間がかかったので忘れてしまった。これから作るのもなんだからいつもの市販のドレッシングにした。容器だけ洒落た入れ物にした。
パパはドレッシングをかけて食べている。私は肉を焼いている。最高級の肉を買った。一度買ってみたかったお肉だ。でもあまりにも高くて少量しか買えなかった。焼きあがったのでソースをかけて運ぶ。
パパは小さいお肉を見て、なんだそれだけというような顔をしている。
「最高級の肉を買ってきたから小さめですが、食べてみてください」
パパは小さいお肉を今度は少しずつ味わって食べている。
「とても美味しいお肉だね。高いだけあるね。でもこの倍くらいは食べたいね」
「安いお肉ならね。これは高くてとても無理。でも一度食べてみたくて買ってみたけど、もう少し安いのにすればよかった」
「ソースがよくできているからそれでもよかったかもしれないね」
ソースを褒めてくれた。確かにもう少し安い肉でもよかった。次からはそうしよう。
「このドレッシングもなかなかよくできているね」
「ごめんなさい。それ、いつも買ってきているドレッシングなの。ソースをつくのに夢中になってドレッシングを作るのを忘れていました」
パパがそれを先に言ってよと言わんばかりの顔をした。料理がおいしいとドレッシングも美味しく思えるのかしら。よしよし。
もう、料理はこれでおしまい。私も赤ワインのグラスを口に運んで一口飲んだ。美味しいワインだった。この料理にぴったりだ。もう一口飲んだ。
フロマージュはブルーチーズを買ってきておいた。パパが好きな銘柄で時々テレビを見ながら水割りを飲むときに食べているものだ。私も気に入っていて、時々そばに行ってつまんで食べていた。赤ワインにも実によく合う。
私はグラスの赤ワインを空けた。ここは自宅だから、酔っぱらっても帰りの心配はない。パパが介抱してくれるし全く問題はない。むしろその方が好都合だ。それを狙っている。
デセールは買ってきたチーズケーキとモンブランを出した。一人で2個は多いので、半分ずつ食べることにしてある。コーヒーはコーヒーメーカーで作って入れた。これで全ておしまい。
ホッとした。私はパパの隣に座った。そして寄り掛かる。少し酔いが回ってきたみたい。パパも少し酔ってきているみたいで、お互いに寄り掛かってバランスを取っている。このひと時がなんとも言えない。
「ありがとう。僕のために作ってくれて、本当に美味しかった」
「手抜きもあったけど、学校へ行かせてもらった成果をみてもらいたかったので、美味しいと言ってもらえて本当によかった」
「後片付けは僕がしてあげよう。もう少ししたら始めるから休んでいて」
「いえ、私がしますから。しばらく休めば大丈夫ですから」
もたれ合って坐っていたらすこし眠ったみたいだった。パパも白ワインをグラス3杯、赤ワインもグラス2杯は飲んでいた。
パパが後片付けをしようと立ち上がったので、寄り掛かっていた私も気が付いた。
「後片付けは私がします」
立ち上がろうとするけどよろけた。これ幸いとパパに抱きついた。パパは私を受け止めてソファーに座らせてくれた。
「ごめんなさい」
「いいから、いいから、休んでいて」
パパはキッチンに行って後片付けを始めた。洗い物には慣れているみたいで、食器を洗って洗い籠に入れている音が聞こえる。その音を聞きながら眠ってしまった。
「久恵ちゃん、部屋で寝た方がいいよ」
「ええ」
パパが抱え起こして部屋まで連れていってくれた。部屋には布団を引いておいた。私がパパの買ってきたワインを飲んで酔っ払うことを想定しての準備だった。この前の時と同じシチュエーションになることは容易に想像できたし、そうなるように赤ワインのグラスを空けた。
パパはお布団を敷いてあったことを何とも思わなかったのだろうか? 私の覚悟を察しなかったのだろうか? 布団をまくって「このままでいいか?」と言って、私をそこへ横たえようとした。今日はゆったりしたワンピースの部屋着を着ていた。
この前の時と同じだ。私は力一杯「パパ大好き」と言ってしがみついた。私は恥ずかしかったので目をしっかりつむっていた。
それが悪かったのかもしれない。ホテルのレストランで会食した時も帰って来てからこうだったから、パパは飲んだらいつもこうなると思ったみたい。
そっと首に回した手をほどいて、私を寝かしつける。私は力を抜いてそれにあえて抵抗はしなかった。掛布団をかけて、頭を撫でて「今日は本当にありがとう。おやすみ」と言って部屋を出ていった。
どうして、あの時、目を開けてしっかり、もう一度「パパ大好き」と言って抱きつかなかったのだろう。後悔してもしきれない。
そうしたらパパはどうしていただろう。私を抱き締めてパパのものにしただろうか? 分からない。
でも、その勇気が私にはなかった。
そうはしても、パパのことだから、私を抱き締めて「僕も大好きだよ」と言って、私を寝かしつけていたに違いない。
その時、私はきっと大声で泣いただろう。そうなったら、引き返せない。もうとてもパパと一緒にいられないし、いたくない。
それが怖かった。
私は悲しくなって布団の中で泣いた。泣きつかれて眠ってしまった。
次の日の朝、パパと顔を合わせた時、私は笑みを作って「おはよう。酔っぱらって寝ちゃってごめんなさい」と言った。
やはり、昨晩はあれ以上のことをしなくてよかったと思った。チャンスはまたきっとある。
4月から私はホテルのコックとして勤め始めた。勤めるに当たってパパは社会人の先輩として父親として心構えを話してくれた。
「職場には自分と相性の良い上司と悪い上司がいるのが分かるようになると思うけど、どちらも必要なんだ。僕も会社で両方の上司に付き合ってきたけど、大体、良い上司と悪い上司には交互に仕えるようになっているみたいだ。良い上司はスキルを身につけさせてくれる。一方、悪い上司は忍耐を身につけさせてくれる。両方にうまく仕えていかないと、職場では生き抜いていけないよ」
「パパ、ためになる話ありがとう」
「久恵ちゃんなら、きっとうまくやっていける」
ホテル勤務は早番の日と遅番の日がある。ただ、早番の日の出勤は朝早く、遅番の日の出勤は昼からでいい。勤務時間は変わらない。
遅番の日は午後11時ごろに帰ってくるが、パパは私の顔を見るまでは寝ないで待っていてくれる。ここのところ遅くなる日は誰かにつけられているような気がしている。
パパにそう言うと、この辺りでストーカーとか不審者のうわさはないけど、帰りは必ず大通り沿いの歩道を歩くようにと言われた。
今日は11時に駅に着いた。歩道を歩いて行くと、誰かが距離を置いて後ろを歩いてくる。大通りを渡ると、後ろも大通りを渡った。やはり一定の距離を保って後ろを歩いて来る。なんだか気味が悪い。
すぐにパパに連絡する。パパはやはり起きて待っていてくれた。
「パパ、やっぱり誰かにつけられている。歩くのを早めると早くするし、遅くすると遅くして一定の距離を保っている。怖い。すぐ迎えに来て」
「分かった。今どこ?」
「大通りを渡って、こちら側を歩いて、半分くらいのところ」
「すぐ行くから、落ち着いて」
パパが来てくれる。安心した。早く来てくれないかな。歩みを速めると後ろの人も歩みを速めているみたい。駅から遠ざかるにつれて人が少なくなって、今は私と後ろの人だけになっている。
パパの姿が遠目に見えた。ホッとした。足を速める。もう少しだ。パパに抱きついた。パパはしっかりと抱き締めてくれた。いい感じ。でもパパはすぐに後ろの男に身構えた。
「あれ、山本さんじゃないですか」
「今晩は、川田さん」
「どうしたんですか、そちらはお嬢さんですか?」
「まあ、そういったものです」
「誰?」
「丁度上の階に住んでいる山本さんだよ」
「ストーカーじゃないの?」
「まず、大丈夫だと思う。奥さんもおられるし」
「なんで知っているの?」
「一昨年、マンションの自治会の役員を一緒にしていたから」
「そうなの」
「山本さん、この娘がストーカーにつけられているというので、迎えに出てきました。どうも山本さんをストーカーと間違えたみたいです」
「そうですか。それは申し訳なかったです。この時間ですから、僕もストーカーか何かに間違えられないように、帰りが同じになるとお嬢さんとはいつも一定の距離を取ってあまり近づかないように歩いていました。帰るところが同じだから誤解されたみたいですね」
「速足で歩くと、速足でついてくるので怖かったです」
「僕も早く家へ帰りたかったので、一定の距離が空いていればいいと思って、速度を合わせました。誓ってストーカーなんかじゃないから」
「それなら安心しました。これからは声をかけて一緒に帰って下さい。安心ですから」
「そうします」
勘違いだった。でも万が一のことがあるかもしないから用心に越したことはない。私はマンションの住人とはほとんど顔を合わす機会がないからこういうことが起こるのかもしれない。
故郷の生活では考えられないことだ。お隣さん、町内の人はほとんどが顔見知りだ。マンションの二人だけの生活は誰からも干渉されることなく送れるのはいいことだけど、二人のほかの住人を誰も知らないというのはどうなんだろう。
部屋の戻るとパパにちょっと絡みたくなった。
「さっき、山本さんからお嬢さんですか? と聞かれたときに、『まあ、そういったものです』とか言っていたけどそれはないでしょう。ちゃんと言ってください。誤解されます」
「なんて言えばよかった?」
「管理人さんに言ったように妻ですと。ここでは妻ということになっているのですから、辻褄が合わなくなります」
「でもそうは言えないだろう」
「だったら、正確に義理の姪というべきだったのでは、誤解されます」
「ごめん、今度から気を付ける」
パパは少し反省してくれていたみたいだった。でも、妻とか娘とか言ってもらうのは確かに無理がある。でもほかに言い方があったと思う。
就職してからもう2週間たった。お給料をもらうのは大変なのが良く分かった。学生のうちは本当に楽だった。
幸い職場では皆親切にしてくれる。仕事も教えてくれる。女の子だからかもしれないが、甘えてはいけないことも分かっている。
ホテルのコックさんの仕事は始めに思っていたよりもはるかに大変だった。シフト制で早番、遅番があるし、急に宴会が入って遅くなることも少なくなかった。
休みも週に2日ほどあるけど、不規則でウィークデイが多い。土日に休みのこともあるが、疲れて、昼ごろまで寝ていることが多くなった。
早番の時は、始発の電車に乗って出勤している。遅番では帰るのが終電に近いことも度々だった。新入社員だからそれなりに気を使って早番の時は早めに出勤して、遅番の時は最後まで残っている。
勤め始めると家事は毎日できなくなった。それでも休日にまとめてするようにしているが、疲れて昼頃まで寝ていることが多く、思うようにできていない。
パパはできるだけ家事に協力してくれて、私に過度の負担がかからないように気を使ってくれている。パパが気を使っていてくれるのが嬉しい反面、何もしてあげられない自分にいら立つこともある。
それにすれ違いが多くなり、一緒にいる時間が学校に通っているときよりもずっと少なくなったので、会話ができなくて、寂しくてものたりない感じがする。
私は徐々にピリピリ、イライラしてきているのが分かっているが、なんともならない。それがまたイライラの原因になる。
◆◆ ◆
勤めはじめて2週目の土曜日、遅番の日だった。前日も遅番だった。だから朝は起きられなくてゆっくり起きてきた。
「おはよう。お昼まで寝ていていいんだよ。午後から出勤だろう」
「そんな訳にはいかないわ。お昼ご飯の準備をします」
「いいから、休んでいて」
私はすぐに昼食にチャーハンを二人分作った。パパは一口食べると「このチャーハンは実にうまい。どこかの中華料理店よりもはるかにうまい」と言ってくれた。作ったかいがある。
「後片付けは僕がするから」
「私がしますから」
パパにさせないように食べ終わるとすぐに二人の食器を持ってキッチンへ向かう。洗い終わるとすぐに自分の部屋に入った。
パパに褒められて、機嫌を良くした私はすぐに出勤の準備を始める。もう少しゆっくり出勤しても良いと思うけど、新人だから早めに行くことにしている。
出がけに、明日は非番だから久しぶりに二人でゆっくりできると言うとパパは嬉しそうだった。私も嬉しい。
◆◆ ◆
私が遅番の時にはパパは必ず起きて私の帰ってくるのを待っていてくれる。駅まで迎えに行ってもいいと言ってくれるけど、パパも疲れているのにそこまでしてもらうのは申し訳ないので、それは必要ないと言っている。
気が付いたら五反田駅に戻っていた。これで2回目だ。もう終電がなくなっていた。慌ててパパに電話する。まだ起きていてくれると思う。すぐに出てくれた。
「久恵です。今、五反田です。終電に乗り遅れました」
「ずいぶん遅いので心配した。それならタクシーで帰ってきたらいい」
「そうしようと思います」
「タクシーで帰ってきたことは?」
「ありません。タクシーなんてもったいなくて」
「行き先だけど、どう言うか分かっている?」
「東急の雪が谷大塚駅かな?」
「それじゃあ、行き過ぎだ。また、歩いて戻らなくちゃいけない。いいか、中原街道を行って、外を見ていて洗足池駅を過ぎたら注意していればいい。何回か歩いたことがあるからどこを走っているか分かると思う。坂を上ったところ、僕が肩を脱臼してタクシーで降りた辺りで降りたらいい。迎えに出ているから」
「分かった」
大通りのタクシーで降りる場所あたりでパパが待っていてくれた。タクシーを降りて駆けて行って抱きついた。パパはしっかりと抱き締めてくれた。それからゆっくりマンションへ戻った。
「ご心配をかけしました」
「夜遅くまで仕事大変だったね」
「すぐに休みます」
私はお風呂に入る元気が残っていなかった。すぐに休みたかった。お布団に横になると安心してすぐに眠った。そのまま朝までぐっすり眠った。
◆◆ ◆
翌日の日曜日、私は物音で目が覚めた。12時になっていた。すぐに部屋を出ていく。
「ごめんなさい。昨晩は遅くなって」
「もう元気になった?」
「ぐっすり眠れたので疲れがとれました」
「食事の用意ができているから食べよう」
「すみません」
食事をしながら、昨夜のことをパパに話した。
五反田に着いたのは11時半過ぎで、まだ電車が何本もある時間だった。ところが電車に乗って目覚めたら蒲田だった。乗り過ごしたのでそのまま待って電車に乗っていたところ、目が覚めたら五反田だった。
今度こそ降りようと思っていたけど、目が覚めたら蒲田だった。本当に今度こそと思っていたけど、目が覚めたら五反田でもう電車がなかった。それで驚いて電話したのだった。
まさか、眠って2往復もしようとは思ってもみなかった。やはり、よっぽど疲れていたのだと思う。
「終電が近い時は絶対に席に座ったらだめだ。眠ってしまい、こういうことになる。僕も飲み過ぎた時に何回かこういうことがあった。この路線は短くていいけど、会社の人で目が覚めたら雪国で雪が降っていたという話もある」
「疲れていたので五反田でも蒲田でも席が空いているので座ってしまいました。それが悪かったと思います。これからは気を付けます」
「疲れているんだね」
「そうかもしれません」
「今日は一日ゆっくりして、食事は僕が作ってあげよう」
「そうさせてください」
いつもなら「私がします」というところだけど、私は食事を終えるとすぐに部屋に引き上げた。昨日の乗り過ごしのショックからまだ立ち直れていなかった。
今日は遅番だけど比較的早く帰れた。まだ、11時前だ。いつもだと、パパは私の作り置きの料理を食べて食器の後片付けも済ませてくれている。そしてお風呂も済ませている。
「ただいま」
「おかえり」
「パパ、夕食は食べた?」
「ごちそうさま、美味しかった。ビールのつまみもありがとう」
「後片付けしてくれてありがとう」
「久恵ちゃん、夕食は?」
「賄いで済ませました。すぐにお風呂に入ります」
「疲れているみたいだから、少し休んでからにしたら?」
「大丈夫、早く寝たいから」
パパはお風呂が好きだ。ここのお風呂は私も大好き、バスタブが広くて、足が伸ばせて、ゆったりできる。
パパは熱いのが好きで、私は温めが好きなので、後から入るといつも丁度いい湯加減になっている。それで結構な長風呂になる。あまり長いとパパが必ず「大丈夫」と声をかけてくれる。
いつものようにゆっくり入る。お風呂は気持ちいい。ましてこんなお風呂に入れるなんて最高、疲れがとれる。髪と身体を洗って、また、バスタブにつかる。もうすでにかなりの長風呂になっている。
パパがいつものように「大丈夫」と聞いてくる。「大丈夫」と応える。気持ちいい、最高、今日はいろいろあって疲れた。でも早く帰れてよかった。
◆◆ ◆
夢を見ているみたい。誰かが私を抱きかかえている?「大丈夫?」の声が聞こえる。冷たいものが首の下に入れられる。額に冷たいものが載せられる。
目を開けるとパパが心配そうにのぞき込んでいる。
「気が付いてよかった」といって、水を飲ませてくれる。バスタオルにくるまっているけど、裸のままだ。状況が分かってきた。
「私、お風呂で眠っていた?」
「返事がないから覗いてみたら、眠ったまま浮かんでいた。早く気づいたから溺れなくてよかった。あのままだと体温が上がって死んでいたかもしれない」
「ありがとう、疲れていたので眠ったみたい」
「気が付いてよかった。ゆっくり休んだら」
「うん、着替えるから」
「ちょっと待って」
パパはキッチンへ行って冷蔵庫からポカリのボトルを持ってきて枕元に置いてくれた。そして部屋から出ていった。
持ってきてくれたポカリを飲んだ。冷たくて美味しい。ようやく、意識がはっきりしてきた。
私、お風呂で眠ってしまったんだ。裸で浮かんでいた? ここまで運んだのはパパ? 裸のままの私を運んだ? ええええ・・・!
気を取り直して着替える。パパに裸を見られた? 恥ずかしい。
パパがまたドアをノックして、ドア越しに声をかけてくれる。
「大丈夫? もう寝るけど?」
「もう大丈夫です。寝てください。本当にありがとう」
「びっくりしたよ、でもよかった、大丈夫そうで」
「パパ、私の裸見たでしょ」
「慌てていて、そんなゆとりは全くなかった」
「どうだった、私の裸?」
「本当に、驚いてそんな見ているゆとりなんかなかったんだ。感想を聞かれるのならもっとよく見ておくんだった」
「やっぱり見ていたんだ。でもしかたないわ、助けてくれたお礼ということで」
「明日の朝、身体の調子を見て、仕事に行くか決めたらいい。おやすみ」
パパは慌てて戻っていった。絶対にしっかり見ていたはず。まあ、いいかパパには見られても。本当に疲れた。おやすみなさい。
翌朝、目覚めたときに、身体がとてもだるいので、ホテルに体調がすぐれないので1日休ませてもらうと電話を入れた。初めて体調不良で休んだ。パパは心配そうに出勤した。
昼過ぎまで寝ていたらようやく回復した。やっぱり、疲れが出たんだなあ。
◆◆ ◆
私の最初のお給料日にパパは家事とお手当についての相談をしたいと言った。私が就職して扶養家族ではなくなったので、これからは家事のお手当を廃止すること、共働きの家庭と同じように、私に過度の負担がかからないように自分も家事を分担することなどを提案してくれた。もちろん一緒に住むことも。そして私も食費と光熱水費の一部を負担することになった。
夕食は先に帰った方が準備する。
朝食はそれぞれが作って食べて出勤する。
洗濯は随時、それぞれが行う。
洗濯物の取入れは、先に帰った方が行う。
浴室の乾燥室は乾きが悪いので、衣料乾燥機を購入する。
自分の部屋は自分で掃除し、共通スペースはそれぞれが空いた時間に行う。
食材などの買い出しはメールでお互い連絡する。
メールでの連絡を密にする。
問題があればお互いその都度遠慮なく相談する。などなど。
「今日初めてお給料をいただきました。自立できるようにしてもらって本当にありがとうございます」
「兄貴との約束を果たしたまでで、恩にきるようなことではないから、気にしないで」
「本来ならば、アパートを借りてここを出ていかなければいけないけど、今の給料では不十分なので、このまま住まわせて下さい。とてもありがたい提案をしてもらってとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いします」
「久恵ちゃんがいてくれた方が楽しいから、遠慮しないでずっとここにいてほしい」
「でもできるだけ家事はやります。だってここでは妻ということになっていることを忘れていないから」
「気にしないで無理をしないこと。体を壊したらもっと大変だ。できないときはできないと遠慮なく言ってくれればいい。久恵ちゃんが来る前は全部自分でやっていたので、全く平気だからね」
「ありがとう」
「もっと仕事を楽しんでほしい。今は仕事も家事も苦痛じゃないの。就職してから久恵ちゃんは少しピリピリ・イライラしているから分かる」
「家事が十分できていないのが申し訳なくて」
「働いているとできないのが当たり前だから」
「分かりました。もっと手抜きして提案に甘えることにします。でも家事をしたいんです」
「ありがとう、その気持ちだけで十分だから」
「甘えついでに一つお願いがあるんですけど聞いてもらえますか?」
「いいよ、何でも聞くよ」
「初めてのお給料でベッドを買いたいんです。友達の家へ遊びに行ったら、ベッドがあってそういう生活にあこがれていたので、ほしいんだけど、いいですか?」
「自分の部屋だから、何をおいても自由だから、買ったらいい」
「うれしい。ありがとう」
次の休みの日に友達とベッドを買いにいった。ほしかったのは、ソファーがついていて、配置も変えられる大型の組み立て式のものだった。そこそこの値段がしたけれど、思い切って買うことにして配達を依頼した。
それから、パパにネクタイを買った。朝、手渡して締めてあげると、パパははにかんでいたけど、とても喜んでくれた。よかった。
◆◆ ◆
まもなくベッドが届いた。でもいざ梱包を開けてみると、やはり一人では組み立てられないことが分かった。パパに頼んだら喜んで組み立てを手伝ってくれた。組み立てに結構時間がかかったけど楽しかった。
配置してみると、広めの部屋の1/3を占有するほど大きい。「一緒に寝てみて」と言ったら「いいよ、いいよ」とあわてて部屋を出ていった。二人で寝てみたかったのに!
この後、パパの提案した家事の分担ができて、私には少しずつ生活パターンができてきた。生活パターンができてくると、イライラもなくなってきた。パパと一緒にいる時間もできるだけ作った。
話をすることでまた、距離が近くなった気がする。パパも私と話をしているととても楽しそうだ。私のことを好きになってくれていると思うとなぜか心が安らかになる。ただ、姪や娘としてじゃなくて、好きになってほしい。
就職してから3か月がたって生活にリズムができてきた。私は落ち着きを取り戻し、働きながら生活していくことに自信もついてきた。パパに仕事の話を聞いてもらうようになり、仕事を楽しむ余裕もでてきた。
「明日は早番で早く終わるので、同僚に頼まれた合コンに参加したいけど、どう思う?」
「若い人は若い人との付き合いが大事だから、遠慮しないで行っておいで」
「後学のために一回は行ってみたいと思っていたのでそうさせてもらいます」
「帰り時間をメールで知らせてくれる?」
「はい、心配しないように連絡を入れます」
すんなりと合コンに行くことを承諾してくれた。パパとしては行くなとはいえないだろう。でも少しは心配してほしかった。
◆◆ ◆
1次会の合コンで盛り上がったので、2次会に行くことになった。みんなで新宿のディスコのような踊れるところへ行くというので、どんなところかと興味があってついて行った。
午後8時過ぎに、2次会に行くとのメールをパパに入れると、すぐに[了解、気を付けて]と返信があった。
終電の時間が近づいてきたので、荷物を取り出そうとしたが、ロッカーの中は空っぽだった。ロッカーの場所を間違えていないかと探したが、間違いなく盗難にあったことが分かった。血の気が引いた。店の人に言っても、らちが明かないので、警察へ行った。
バッグの中味は財布、金額は1万円くらい、運転免許証、健康保険証、マンションの鍵、スマホ、化粧品セットなど。警察で盗難届と運転免許証の再発行の手続きをした。
友人から交通費を借りて始発電車に乗ってマンションにたどり着いた。
マンションの入り口で部屋番号を押して、呼び出す。パパは起きてるかな? すぐにインターホンから声がした。
「久恵ちゃん?」
「久恵です。開けてください」
入口のドアーが開いたので、エレベーターで部屋にたどり着く。玄関のロックは外されていた。
「ただいま」
「おかえり、どうした、何かあった」
「心配かけてごめんなさい」
急いで、自分の部屋に駆け込んだ。部屋に戻ってほっとした。しばらく茫然としていたが、パパが待っていると思ったので、部屋着に着替えた。
それから、ソファーにいたパパの隣に座って、これまでの顛末を話した。
「起きていてくれて、ありがとう。パパの声を聴いて安心して力が抜けてしまって、疲れがどっとでてきたの」
私は泣きだしていた。パパは私を抱き締めてくれた。私は泣き続けた。
「盗難だけで済んで良かった。免許証や保険証は再発行してもらえばいい、携帯電話はまた買えばいい、久恵ちゃんの身に万一のことがあったらと心配でならなかった。無事で本当によかった」
パパに抱き締められている。大きな胸の中で、両腕で身動きできないくらいに強く抱き締められている。この守られているという安心感、このパパの匂い大好き。このまま腕の中で眠りたい。
パパが腕を緩めて、私をそっとソファーにもたれさせてから、キッチンに立った。そして、トーストとコーヒーを用意してくれた。
「これを食べて、少し休んだら? 今日は休みなんだろう」
「ありがとう、少し休みます」
それから、私は部屋に戻って、眠りについた。
気が付いたらもうお昼を過ぎていた。パパは私のことを心配して一人にしておけないと、会社を休んでくれていた。
パパはまだ寝ているみたい。部屋は静かだ。よっぽど心労で疲れていたんだと思う。申し訳ないのと、ありがたいのと、嬉しいのとで複雑な気持ちだ。私は音がしないように自分の部屋の片づけをした。
パパは3時過ぎに起きてきた。私が気を取り直して、元気になっているのを見て安心していた。
「もうあんなところ、絶対に行かない。ろくな男いないし。パパみたいな良い男は、早く家へ帰って、ちゃんと食事をして、お風呂にはいって体を休めて、好きなテレビを見たり、本を読んだり、お酒をのんだり、音楽を聴いたり、部屋を片付けたり、明日のための準備をしているのね」
パパは笑って聞いていた。気合を入れて夕食を作る。でもあんなにきつく抱き締めてくれたのは、父親として? 私が好きだから?