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手にしているアネモネの香りが鼻腔を擽った、ような気がした。
おしゃれで可愛くギフトラッピングされた花束を見ると、つい頬が緩む。数枚のガクがふんわりと丸みを帯びて咲き開いているアネモネ。八センチほどのアネモネは、花束の中でわたしの足取りに合わせて軽やかに揺れている。
わたしの育てたこの紫と白のアネモネを見たら、きっと彼は笑顔を見せてくれることだろう。
――『きれいだね』
――『やっぱり風花にはアネモネが似合うね』
そう言って、わたしの髪をそっと撫でてくれるはず。
ゆっくりと瞬きをして、鈴木くんの微笑みを思い浮かべる。
春になるといつも以上にわたしの脳裏に彼が蘇る。彼と過ごした日々が。そして、これから過ごす日々が愛おしくなる。
昨日まで不安定な天気が続いていたにもかかわらず、今日は真っ青な空が広がっていて、心地よい風がふわふわと舞うようにそこにあるのを感じた。
きっと、彼の仕業に違いない。
一歩、また一歩と足を踏み出すたびに彼に近づいているのだと思うと、胸が高鳴る。
いつだってわたしのことを想ってくれていた。
なのに、わたしはいつだって自分のことばかりだった。
昔は罪悪感と後悔で胸が苦しくなるほど心臓が伸縮を繰り返し、途中で立ち止まってしまうこともあった。逃げだしたくて踵を返したことも何度かある。なにも感じないフリをしたり、平気なフリをしたり。
それらの気持ちは今もたしかにわたしの中にある。なくなることはないだろう。
わたしにとって彼がどれほど大事で愛しい存在だったかという証だから。
でも、過去のわたしをすくいあげてくれたのも彼だった。彼がいてくれたから、今はすべてがわたしの中で溶けて混ざってひとつになって、感謝と愛情に変わった。
もう涙を流しながらここに向かっていたわたしはいない。自己嫌悪に浸っていただけのわたしもいない。鈴木くんに会えるのを楽しみに感じながら花の香りを味わうことができている。
道端の花壇に、アネモネが咲き誇っている。
赤やピンクに混ざって、わたしの胸の中にあるものと同じ色の真っ白なものがひときわ輝いているように見えた。太陽の光を吸収し、白い花弁がキラキラと揺れる。
――『風花、アネモネの花言葉を知ってる?』
あの日、彼はアネモネを手にしてわたしに訊いた。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
足を止めて出会ったときのことを思いだしながらアネモネを見つめていると、
「風花」
と、わたしを呼ぶ声が聞こえて顔を上げる。
待ち合わせ場所の階段の上から、手を振ってわたしの名前を呼ぶ彼の姿に、じんわりと涙が浮かぶ。
わたしは地面を蹴りあげる。
真正面からやってきた風がわたしを包みこんで、わたしの世界を花の香りで埋め尽くした。
彼はいつだって、わたしの世界を彩り溢れるものだと教えてくれる。
出会ってからずっと。
手にしていた花束を両手でしっかりと抱きしめながら叫んだ。
「ほら、今年もまたアネモネが咲いたよ」