「……それで、別れを告げました。それからは会っていません」
そこまで話し終わると、やけに喉が渇いていた。
ベッドの横の椅子で話を聞いてくれていた溝口さんが、
「そうなんだ」
と、ため息とともに答えた。
自宅の二階にある部屋。
毎日、午後になるとやって来る溝口さんは、母親が依頼した訪問看護師とのこと。
白衣姿ではなく、上下白いジャージを身に着けている。年齢は三十代半ば。小さなお子さんがいるそうだ。
初対面から気さくな印象で、たまに様子を見に来る堤医師からは『敬語を使いなさい』と注意されていることもあった。
「体調はどう?」
差し出されたパウチに入ったゼリータイプのスポーツドリンクを受け取る。やけに塩味が強く感じる。
「平気です。でもなんか不思議な気分。こういう話、親にだって話したことないのに」
「ふふ。私、聞き上手だから」
寝ている僕の右腕に血圧計をセットすると、溝口さんは聴診器を耳に当てた。
毎日のように顔を見せる溝口さんとは、最初は世間話に終始していた。テレビのこと、学校のこと、部活のこと。
やがて風花との話をするようになったのも、自然な流れだったと思う。
体調は日々変わり、たまにひとことも話せない日もあったけれど、この一週間で、風花との出会いから別れまで辿ることができた。
きっと他人だからこそ話せるのだと思うし、人生最後であろう新しい登場人物である彼女に、僕たちの話を知ってほしいと願う自分がいた。
気持ちを整理するために語った物語も、話しながら思い出すこともたくさんあって、想いがまだ残っていることを思い知らされるようだった。
風花は元気でいるのだろうか。
きっと泣いたり、悲しんだりしているんだろうな……。
思い出せば心の中に嵐が吹き荒れるみたいだ。
自分から別れを告げたのに、勝手だとは思う。だけど、恋はそんな単純じゃないから。
「血圧は問題なし。飲みものだけじゃなくて、なにか少しでも食べたほうがいいんだけど」
「大丈夫です」
「そう言うと思った」
薄化粧で微笑む溝口さんが、
「それで」
と前置きを言葉にする。
「今の話だけどね……。なにか意見とか質問とかしてもいい?」
「はい、どうぞ」
主観的なこの物語に、なにか意見をもらいたかったのも事実だったし。
「私は女だから、どうしても風花さんの立場に立っちゃうんだけど、彼女にとって鈴木くんは大好きな彼氏さんだったわけよね。なのに、クリスマスコーナーでムード満点の中、別れを告げられたってことになる」
「そうなりますね」
あの夜、風花が見せた悲しい顔を、今日まで何度も思い出していた。
風にあおられた長い髪、瞬きもせずに固まる瞳、小声で訊ねる理由。
それに答える余裕もなく、その場をあとにしたこと。
自分から言い出したことなのに、頭をよぎるたびにズキンと胸が痛む。
傷つけたことに傷つくなんて、自分勝手すぎることもわかっていた。
「それ以来、会ったりしていないの?」
「会っていません」
「電話とかメールは?」
「スマホの電源を切っているのでわからないです」
「それは酷いよ」
あからさまにいやな顔をする溝口さんに、僕はうなずいた。
「わかっています。でも、ああするしかなかったんです」
「その子がこの家まで来ることはないの?」
「うちを知らないから。犬神にも教えないよう伝えてあります」
僕の言葉に目を丸くした溝口さんは、
「ちょっと失礼」
と、バッグから水筒を取り出して一気にあおった。
「ごめんね。私、ちょっと理解に苦しんでる。どうして好きなのに別れなくちゃいけないの?」
そうだろうな、と思う。
何度も自問した。けれど、今でも後悔はしていない。
「もしも、つき合ったままで僕が死んだなら、きっと風花は立ちなおれないと思うんです。だったら、先に別れたほうがいい。僕をきらいになることで、前に進めるはず」
「本当にそう思っているの?」
「はい」
奇妙な間が訪れた。
血圧計をしまった溝口さんが、記録用紙になにやらペンを走らせている。
「じゃあ、今日はこれでおしまい。明日、また来るね」
「待ってください。溝口さんは、僕のやったことは間違いだと言いたいんですか?」
ドアのところで足を止めて振り向いた溝口さんが、迷ったように口を開く。
「この仕事をしているとね、いろんな人の最期を見送るの。年齢なんて関係ない。若くても老いても、死ぬときにはみんなこれまでのことを思い出すものよ」
「……」
「人生最後の日に必要なのは、どう死ぬかということじゃない。どう生きてきたか。それが大事だと思うの」
「どう生きてきたか……?」
「そう。鈴木くんがちゃんと生きられたなら、きっと風花さんも生きていけると思うの。どうか最後の瞬間まで必死で生き抜いてほしい」
あまりにも真剣な口調で言うから驚いた。
溝口さんは、ふうと息を吐くと、口の端をあげて笑う。
「余計なこと言っちゃった。よく知りもしないのにごめんね」
「いえ、いいんです」
布団にもぐるときゅっと目を閉じた。
ドアの開閉する音が終われば部屋にひとりきり。
そして、僕はまた風花のことを考える。
◆◆◆
毎日は気だるく過ぎていった。体温調節もうまくできていないようで、暑くなったかと思えば、寒さに震えることもあった。
奪われていく体力に、やがてトイレに行くのにもずいぶん時間がかかるようになっている。
昨日久しぶりに顔を見せた堤医師は相変わらずのポーカーフェースで、〝余命〟を訊ねる僕にあいまいにうなずくだけだった。
今朝は朝から雪が降っている。
久しぶりに体調のいい朝、窓の外に大粒の雪が風にあおられて踊るのを飽きることなく眺めた。
溝口さんは僕が起きていることに驚いていたが、なにも言わずに記録をまとめている。
一階を大股で歩く足音が聞こえる。
冬休み明けから、トールはまた中学をサボっているらしい。本人に言われたわけじゃないけれど、昼間も階下から足音が聞こえるときがあるから、きっとそうなのだろう。
「トール、下にいました?」
そう訊ねると、溝口さんが「トール?」と首をかしげる。
「あ、弟です」
「トールくんって名前だっけ?」
「いえ、あだ名です。昔から僕より背が高かったから、TALLってあだ名をつけてたんです」
何度もしてきた説明を繰り返す。
「ふふ、それって面白い」
クスクス笑った溝口さんが、ゴム手袋をはめた手で湿布薬の封を開けた。強い鎮痛作用のある薬なので皮膚から吸収されるのを防ぐためだそうだ。
「さ、そろそろ横になって」
言われた通り、ベッドに横になり溝口さんに背中を向けた。
この湿布を背中の真ん中に貼ってもらえば、ずいぶん体も楽になるのだ。
病気になって知ったのは、普段何気なくできていたことが、少しずつできなくなっていくということ。
今では、ベッドから起き上がることもままならなくなっている。
風花と花壇の手入れをしていたときの土のにおい。
水を撒くホースが蛇みたいにうねっていたこと。
夕焼けが夜の黒に塗りつぶされていく様子。
世界はあんなに美しかったのに、元気な時は気づかずに過ごしていた。
「弟さん、何度か見かけたことがあるわよ。今日も私の顔を見たとたん、慌てて逃げていっちゃったけれど。一階の奥にある部屋が、彼の本拠地なのね」
「あいつ、すぐに学校をサボるんですよ」
「あらあら」
笑い声のあと、背中にひんやりとした感覚があった。
湿布を丁寧に貼ってくれているあいだ、ベッドに投げ出された自分の腕を眺めた。
ずいぶん痩せてしまったな……。
まるで最期の日を、ただ待っているだけのような気分だ。
「このあいだは彼女のことで、余計なことを言ってごめんなさい」
「気にしていたんですか?」
「そりゃそうよ。あれからずっと気にしていたんだから。こう見えても繊細なの。はい、終わった」
ぺしゃんと背中を叩かれ、仰向けになる。
いったん横になると一気に自分の体力のなさを実感する。もうベッドに引っついたみたいに体が重く感じる。
ぼんやりとした視界に映る天井は、ぐにゃぐにゃと曲がっていた。
死はすべてを奪いさっていくもの。
だから前もってつないでいる手を離してあげようと思った。
僕のいない世界を彼女が生きられるように。僕が死んだことを知っても、大きな悲しみの波にさらわれてしまわないように。
だけど……溝口さんに話をしてからは、後悔ばかりが生まれている。
『最後まで必死で生きて』という言葉がずっと胸に残って、ざわついている感じがした。
「結局は自分勝手だったのかもしれません」
かすれた声でつぶやく僕に、溝口さんはなにも答えてくれなかった。
〝風花のために〟した決意は、本当は自分が傷つくのを避けただけなんだ。
後悔が毎日大きくなり、そのたびに風花の顔を思い出す。
「溝口さん」
「ん?」
「帰るときに、トールを僕の部屋に呼んでもらえませんか? 話があるんです」
その言葉を最後に意識が遠くなるのを感じた。薬が効いてきたのだろう。眠気の波に漂いながら、愛する人のことを考えても、うまく思い出せない。
きみは今、どこでなにをしているの?
僕のいない人生を、きみは歩いていけるの?
ぽっかりと空く黒い穴が足元にある。
もう、すぐそこまで終わりの日が近づいている。
「兄ちゃん寝てるの?」
声が聞こえる。
ゆっくり目を開けると、いつの間にか部屋はオレンジ色になっていた。夕暮れどきになっているようだ。
横を見ると、ふてくされた顔のトールが腕を組んで立っている。
「トール……。なんでここに……? あれ、溝口さんは?」
「もう帰ったよ。てか、顔色悪いけど大丈夫?」
「ああ……すっごく悪い」
声がうまく出せない。
おもちゃの電池が切れかかっているみたいに、ひとつずつ体の機能が弱まっているようだ。
「なんか、また背が高くなったみたいに見える」
「はは。成長期だし」
と笑うトール。
無理している、ってすぐに伝わってくる。兄弟だからわかること。
「母さんは?」
訊ねると、トールは「ああ」と肩をすくめた。
「買い物。兄ちゃんに柔らかくて美味しいもの作るって」
「そう……」
背中や腰に鈍い痛みが生まれている。痛み止めが切れかかっているのか、それとも効かなくなってきたのか……。
「なんか用事があるって聞いたけど、どうかした?」
そうか、とようやく状況が頭に入った。
僕がトールを呼んだんだっけ。
時間の感覚も、寝ているのか起きているのかもわからなくなっているみたい。
「話がしたいんだ。一度、トールとちゃんと話がしたかった」
「…………」
黙ったまま窮屈そうに椅子に腰をおろす彼に、僕も起きあがろうとするけれど、体に力が入らずにぺしゃんと横になってしまった。まるで軟体動物になった気分。
背中を支えてくれるトールに「ありがとう」と言うが、聞こえなかったのか返事はなかった。
すぐに音を立てて椅子に座ったトール。片目だけを細め、挑むように見てくる瞳の奥がかすかに揺らいでいる。
強がっているときに彼がよくしていた目。
「いいよ。話、しよう」
覚悟が決まったのかトールがそう言った。
ちゃんと、彼に伝えなくちゃと口を開く。
「あのさ、このあいだの話なんだけど……」
「このあいだ? なんか話したっけ?」
「ほら、『逃げてる』って言われたよね。あのことなんだけど」
ようやくトールも思い出したらしく、「ああ」と軽くあごを引いてまた腕を組んだ。
「あれからずっと考えたんだ。トールの言うように逃げてちゃいけないって思った。だから、男友だちには話をしたよ」
「犬神さんだろ?」
トールの口からその名前が出たことに驚いてしまう。
「え、なんで犬神のこと……」
「中学校まで会いに来た。トールってあだ名しか知らないくせに、それだけで何人もの生徒に訊ね歩いたみたいでさ。会えたときはえらく喜んでた」
「……犬神が」
「そう、その犬神ってイケメン。放課後待ち合わせてさ、マックをおごってもらった」
「全然知らなかった」
まだ心臓がドキドキしている僕に、
「言ってないから知らないのも当然」
なんてトールは得意げな顔で答えた。
「犬神さん、すっげえ兄ちゃんのこと心配してたよ。あと、風花さんとのことも聞いた。なんで別れちゃうかねぇ」
「……いろいろあるんだよ」
違うな、と思った。
穏やかな関係だったのに一方的に断ち切ったんだ。
「兄ちゃんのことだから、『自分がいなくなっても生きていけますように』なんて考えで別れたんだろ。俺から言わせれば大バカヤローだけどな」
「そんな言い方酷いよ」
「風花さん、すごく落ちこんでいて見てられない、って言ってた。毎日園芸部で泣きながら花の世話してるらしい。兄ちゃんは、風花さんのための別れだって本気で思っているの?」
「…………」
重いモヤモヤがお腹に広がっていく。それを見越したようにトールは顔を近づけた。
「人はどう死ぬかじゃなくてどう生きたか、なんだろ?」
ボソッと言うトールの顔を見た。
「盗み聞きしてたの?」
「……なあ兄ちゃん。ちゃんと最後の瞬間まで生きぬいてみせろよ。じゃないと、俺もどうしていいのかわからないよ」
ああ、そっか……。
トールはずっと僕のことを心配してくれていたんだ。
学校にも行けないほど、気にかけてくれていたんだ……。
「でも……いまさらどうしていいのかわからない。もう学校にも行けないのに。なにもかも遅すぎるんだよ」
「最後の瞬間まで生きぬくってことはさ、自分の気持ちに正直になるってことだよ。下手に隠そうとするから、余計にややこしくなってんじゃね?」
トールは体を折ってなにかを手にした。
それは、茶色の植木鉢。ぼやけた視界に鮮やかな緑色の茎が映った。
「アネモネ……」
誰からトールが託されたのかすぐにわかるよ。風花は、いつだってアネモネを愛していたから。
添えられたカードには、丸文字でひとことだけ記してある。
『今年も、アネモネが咲いたよ』
指先で触れると、彼女の好きな白色の花が揺れた。
まるで彼女が僕に笑いかけているみたい。
わたしはここにいるよ、と言っているみたい。
ああ、だめだ。
涙が一気に溢れた。
もう迷わないと決めたはずなのに、まるで風花がそばにいてくれるみたいな気になる。
「風花さんが友梨さんに託して、それが犬神さんに渡って、最後は俺に回ってきた。そんなにたくさんの人を介してでも渡したかったんだってさ」
風花が好き。
この気持ちは彼女にはじめて会った日から、別れた今でもずっと心にある。
風花……。
指先で手紙の文字ひとつひとつに触れていく。
僕は、彼女の気持ちを知っていて……それなのに逃げ出したんだ。
風花はどんなに悲しかったのだろう。
どれだけつらい思いをしているのだろう。
自分なりに最後まで正直に生き抜くには……。
洟をすすってから植木鉢をサイドテーブルに置いてもらう。
――会いたい。
それが丸裸になった僕の気持ち。
すべて失う直前になって、やっと見つけた答えなんだ。
「悪いけど、僕のスマホを取ってくれる?」
「そうこなくっちゃ」
バッと立ちあがったトールからスマホを受け取る。電源を入れると、何十件もの着信履歴とメールを知らせる通知が表示された。
視界の周りが黒く濁っていて、うまく文字が見えない。
アドレスから風花の名前を選び電話をかけるとすぐに呼び出し音が聞こえた。
上半身を支えられず、布団に突っ伏すようにしてその電子音に集中する。遠く、そして近く響く音はやがて、留守番電話の非情なアナウンスに変わった。
「どう?」
心配そうな顔を隠さなくなったトールに、顔をうつむけたままで首を横に振った。
体が重く、全身に強い痛みが広がっている。溝口さんを呼んだほうがいいのかもしれない。
そう思った瞬間、トールが「あ」と大きな声を出したかと思うと、僕に向かってなにか言っている。
なんだろう……。
左右に揺れる世界の中で、手元にあるスマホを指さされていることに気づいた。
一気に着信音が耳に届く。
「早く出ろよ、風花さんから!」
慌てた様子のトールの声に、スマホの通話ボタンを押して耳に当てる。
風花から……?
『鈴木くん!』
間違いない。風花の声が耳に届いた。
「ああ……風花」
『鈴木くん、鈴木くん!』
涙声で僕の名前を何度も呼んでいる。僕がきみを泣かせたんだね。
「風花、ごめん――」
あとの言葉が続かない。
嗚咽を漏らす僕に、風花は『うん』と何度も応える。
『鈴木くん、体調はどう? ずっと学校にも来ないからわたし……』
自分のことよりも僕を心配してくれる風花。
それなのに、僕は……。
意識が遠のきそうになるのを必死でこらえる。
ちゃんと伝えなくちゃ。
残された時間を正直に生きることを決めたのだから。
「風花、聞いてほしいんだ。どうしても言わなくちゃいけないことがあるんだ」
彼女の息遣いが耳に届く。
「僕は……全然やさしくなかった。風花のことを思っていたはずなのに、ひとりよがりだったんだ」
『そんなことない。そんなこと、ないよ……』
「僕は、自分の気持ちを整理するために、きみを傷つけたんだ」
――神様、僕に残された時間はどれくらいあるのですか?
まるで真冬に外に放り出されたように寒い。
すぐそばにいるはずのトールも見えないほど視界がどんどん暗くなっていく。
「きみが好きだよ。誰よりも好きなんだ」
言えた。
そう思ったとたん、体から力が抜けるのを感じた。
そのままベッドに仰向けに横たわる。スマホを持つ手の感覚が秒ごとに遠ざかるようだ。
『わたしもだよ、同じなの! 好きだよ。好きだよう……』
嗚咽に紛れる声を心から愛しく思う。
最後に話ができてよかった。
気持ちをたしかめ合えてよかった。
体がふわふわとベッドから浮いているみたい。
『会いたい。鈴木くん会いたいの』
すがる風花に、
「会いたいね」
僕は言った。
もう一度きみを抱きしめられたら、ちゃんと顔を見て好きだと言えたなら……。
だけど、もう叶わないんだね。
「ねぇ、風花。アネモネ、ありがとう。すごくきれい」
『うん。うん……』
涙声の風花に、そっと目を閉じてから僕は訊ねる。
「アネモネの花言葉を知っている?」
僕たちのはじめての会話。
きみは青空の下で美しい横顔だったよね。
『知ってるよ。「はかない恋」、でしょう?』
「そうだね……。でも――」
そこまで口にしたときだった。
激しい痛みが体を襲った。あまりにも強い衝撃にスマホが手から逃げるのがわかった。
体をのけぞらせ、うめく僕の体を誰かが掴んだ。
「兄ちゃん!」
声は聞こえても、もうなにも見えない。
必死で痛みに耐える僕に、トールがなにか言っている。
違う、電話口の風花になにかを言っているようだった。
早く痛みが引くことを願うけれど、痛みはどんどん増していく。
気がつかないうちに覚醒と失神を繰り返していたらしい。
何度目かに目を開けたとき、ようやく色の薄い世界が確認できた。溝口さんが湿布を貼ってくれたところだった。
「すぐに効いてくるからね」
やさしい口調の溝口さんにうなずいてから、横を見ると両手のこぶしを握りしめたまま立っているトールが見えた。
なにか怒っているように、顔をしかめたトールの目から涙がボロボロとこぼれている。
「兄ちゃん、しっかりしろよ。母さんも父さんもすぐに来るって。風花さんも今向かっているから」
「トール……。家、教えたの?」
「当たり前だろ。そんなの当たり前じゃん……」
痩せてしまった両手を伸ばすと、トールは僕の手を握ってくれた。
こんな大きな手をしていたんだな、全然知らなかったよ。
「……トール。お願いを聞いてほしいんだ」
「そんなこと言ってるときじゃないだろ。いいから今は休んでろよ」
握り返す手に力をこめると、トールははっとしたように目を開いた。
「風花のこと、見守ってもらえないかな?」
「最期みたいなこと言うなよ。聞きたくないよ」
子どものように泣くトール。でも、もう時間がないんだ。
「風花はやさしいけれど傷つきやすいんだ。いつも笑っていて、だけど僕がいなくなったら……きっと悲しむと思う」
「…………」
「だから、見守ってやってほしい。彼女の行く道が明るくなるよう、見守ってほしいんだ」
「……わかったよ。だから死ぬなよ。死なないでくれよ!」
窓辺に飾られた白いアネモネを見る。
僕と彼女をつないでくれたアネモネ。
「風花にいつか伝えてあげてほしい。白いアネモネの花言葉を」
「花言葉?」
声がうまく出せない。
耳を寄せるトールになんとか言葉にすると、彼は大きくうなずいた。
――伝えられた。
そう思った瞬間、目の前がうっすらと明るくなった気がする。
この感情をなんと言えばいいのだろう。酷く満ち足りた気持ちになったのははじめてのことだった。
体を蝕んでいた痛みももう、ない。
風花、最期にきみに会いたかったけれど、もう無理みたいだ。
どうか神様、僕のいない世界を生きていく力を、彼女に与えてください。
きみを自由にしてあげるよ。
たんぽぽの綿毛のように、僕のもとからふわりと飛んで、いつかまた美しい花を咲かせてほしい。
真っ暗になっていく視界。冷えていく体。
恐怖はなかった。これまでの記憶が一気に頭の中で流れている。
どの思い出にも感謝の気持ちが溢れていて、僕は今、幸せだった。
体から抜けていく力を感じていると、遠くでなにか聞こえた。
これは……玄関のチャイムの音だ。
トールが部屋を駆けて出て行くのがわかった。
遠くから聞こえるいくつかの足音。その中のひとつ、僕に幸せをくれた彼女の足音がしている。
僕の名前を叫ぶ声が聞こえる。
風花、ああ風花。
もう少し、もう少しだけこの世にいさせてほしい。
愛しい人の顔を見てから、僕は旅に出たい。
誰かが僕を呼ぶ声。僕の体に抱きつく甘い香り。
きみなんだね?
大粒の涙をポロポロとこぼしている。
ああ、やっと会えた。風花、やっと会えたね。
大きな化け物が今、その口を開けて僕を呑みこんでいく。
だけどもう、僕は怖くはないよ。きみがそばにいてくれるから。
ありがとう、風花。
さようなら、僕の愛した人。
そこまで話し終わると、やけに喉が渇いていた。
ベッドの横の椅子で話を聞いてくれていた溝口さんが、
「そうなんだ」
と、ため息とともに答えた。
自宅の二階にある部屋。
毎日、午後になるとやって来る溝口さんは、母親が依頼した訪問看護師とのこと。
白衣姿ではなく、上下白いジャージを身に着けている。年齢は三十代半ば。小さなお子さんがいるそうだ。
初対面から気さくな印象で、たまに様子を見に来る堤医師からは『敬語を使いなさい』と注意されていることもあった。
「体調はどう?」
差し出されたパウチに入ったゼリータイプのスポーツドリンクを受け取る。やけに塩味が強く感じる。
「平気です。でもなんか不思議な気分。こういう話、親にだって話したことないのに」
「ふふ。私、聞き上手だから」
寝ている僕の右腕に血圧計をセットすると、溝口さんは聴診器を耳に当てた。
毎日のように顔を見せる溝口さんとは、最初は世間話に終始していた。テレビのこと、学校のこと、部活のこと。
やがて風花との話をするようになったのも、自然な流れだったと思う。
体調は日々変わり、たまにひとことも話せない日もあったけれど、この一週間で、風花との出会いから別れまで辿ることができた。
きっと他人だからこそ話せるのだと思うし、人生最後であろう新しい登場人物である彼女に、僕たちの話を知ってほしいと願う自分がいた。
気持ちを整理するために語った物語も、話しながら思い出すこともたくさんあって、想いがまだ残っていることを思い知らされるようだった。
風花は元気でいるのだろうか。
きっと泣いたり、悲しんだりしているんだろうな……。
思い出せば心の中に嵐が吹き荒れるみたいだ。
自分から別れを告げたのに、勝手だとは思う。だけど、恋はそんな単純じゃないから。
「血圧は問題なし。飲みものだけじゃなくて、なにか少しでも食べたほうがいいんだけど」
「大丈夫です」
「そう言うと思った」
薄化粧で微笑む溝口さんが、
「それで」
と前置きを言葉にする。
「今の話だけどね……。なにか意見とか質問とかしてもいい?」
「はい、どうぞ」
主観的なこの物語に、なにか意見をもらいたかったのも事実だったし。
「私は女だから、どうしても風花さんの立場に立っちゃうんだけど、彼女にとって鈴木くんは大好きな彼氏さんだったわけよね。なのに、クリスマスコーナーでムード満点の中、別れを告げられたってことになる」
「そうなりますね」
あの夜、風花が見せた悲しい顔を、今日まで何度も思い出していた。
風にあおられた長い髪、瞬きもせずに固まる瞳、小声で訊ねる理由。
それに答える余裕もなく、その場をあとにしたこと。
自分から言い出したことなのに、頭をよぎるたびにズキンと胸が痛む。
傷つけたことに傷つくなんて、自分勝手すぎることもわかっていた。
「それ以来、会ったりしていないの?」
「会っていません」
「電話とかメールは?」
「スマホの電源を切っているのでわからないです」
「それは酷いよ」
あからさまにいやな顔をする溝口さんに、僕はうなずいた。
「わかっています。でも、ああするしかなかったんです」
「その子がこの家まで来ることはないの?」
「うちを知らないから。犬神にも教えないよう伝えてあります」
僕の言葉に目を丸くした溝口さんは、
「ちょっと失礼」
と、バッグから水筒を取り出して一気にあおった。
「ごめんね。私、ちょっと理解に苦しんでる。どうして好きなのに別れなくちゃいけないの?」
そうだろうな、と思う。
何度も自問した。けれど、今でも後悔はしていない。
「もしも、つき合ったままで僕が死んだなら、きっと風花は立ちなおれないと思うんです。だったら、先に別れたほうがいい。僕をきらいになることで、前に進めるはず」
「本当にそう思っているの?」
「はい」
奇妙な間が訪れた。
血圧計をしまった溝口さんが、記録用紙になにやらペンを走らせている。
「じゃあ、今日はこれでおしまい。明日、また来るね」
「待ってください。溝口さんは、僕のやったことは間違いだと言いたいんですか?」
ドアのところで足を止めて振り向いた溝口さんが、迷ったように口を開く。
「この仕事をしているとね、いろんな人の最期を見送るの。年齢なんて関係ない。若くても老いても、死ぬときにはみんなこれまでのことを思い出すものよ」
「……」
「人生最後の日に必要なのは、どう死ぬかということじゃない。どう生きてきたか。それが大事だと思うの」
「どう生きてきたか……?」
「そう。鈴木くんがちゃんと生きられたなら、きっと風花さんも生きていけると思うの。どうか最後の瞬間まで必死で生き抜いてほしい」
あまりにも真剣な口調で言うから驚いた。
溝口さんは、ふうと息を吐くと、口の端をあげて笑う。
「余計なこと言っちゃった。よく知りもしないのにごめんね」
「いえ、いいんです」
布団にもぐるときゅっと目を閉じた。
ドアの開閉する音が終われば部屋にひとりきり。
そして、僕はまた風花のことを考える。
◆◆◆
毎日は気だるく過ぎていった。体温調節もうまくできていないようで、暑くなったかと思えば、寒さに震えることもあった。
奪われていく体力に、やがてトイレに行くのにもずいぶん時間がかかるようになっている。
昨日久しぶりに顔を見せた堤医師は相変わらずのポーカーフェースで、〝余命〟を訊ねる僕にあいまいにうなずくだけだった。
今朝は朝から雪が降っている。
久しぶりに体調のいい朝、窓の外に大粒の雪が風にあおられて踊るのを飽きることなく眺めた。
溝口さんは僕が起きていることに驚いていたが、なにも言わずに記録をまとめている。
一階を大股で歩く足音が聞こえる。
冬休み明けから、トールはまた中学をサボっているらしい。本人に言われたわけじゃないけれど、昼間も階下から足音が聞こえるときがあるから、きっとそうなのだろう。
「トール、下にいました?」
そう訊ねると、溝口さんが「トール?」と首をかしげる。
「あ、弟です」
「トールくんって名前だっけ?」
「いえ、あだ名です。昔から僕より背が高かったから、TALLってあだ名をつけてたんです」
何度もしてきた説明を繰り返す。
「ふふ、それって面白い」
クスクス笑った溝口さんが、ゴム手袋をはめた手で湿布薬の封を開けた。強い鎮痛作用のある薬なので皮膚から吸収されるのを防ぐためだそうだ。
「さ、そろそろ横になって」
言われた通り、ベッドに横になり溝口さんに背中を向けた。
この湿布を背中の真ん中に貼ってもらえば、ずいぶん体も楽になるのだ。
病気になって知ったのは、普段何気なくできていたことが、少しずつできなくなっていくということ。
今では、ベッドから起き上がることもままならなくなっている。
風花と花壇の手入れをしていたときの土のにおい。
水を撒くホースが蛇みたいにうねっていたこと。
夕焼けが夜の黒に塗りつぶされていく様子。
世界はあんなに美しかったのに、元気な時は気づかずに過ごしていた。
「弟さん、何度か見かけたことがあるわよ。今日も私の顔を見たとたん、慌てて逃げていっちゃったけれど。一階の奥にある部屋が、彼の本拠地なのね」
「あいつ、すぐに学校をサボるんですよ」
「あらあら」
笑い声のあと、背中にひんやりとした感覚があった。
湿布を丁寧に貼ってくれているあいだ、ベッドに投げ出された自分の腕を眺めた。
ずいぶん痩せてしまったな……。
まるで最期の日を、ただ待っているだけのような気分だ。
「このあいだは彼女のことで、余計なことを言ってごめんなさい」
「気にしていたんですか?」
「そりゃそうよ。あれからずっと気にしていたんだから。こう見えても繊細なの。はい、終わった」
ぺしゃんと背中を叩かれ、仰向けになる。
いったん横になると一気に自分の体力のなさを実感する。もうベッドに引っついたみたいに体が重く感じる。
ぼんやりとした視界に映る天井は、ぐにゃぐにゃと曲がっていた。
死はすべてを奪いさっていくもの。
だから前もってつないでいる手を離してあげようと思った。
僕のいない世界を彼女が生きられるように。僕が死んだことを知っても、大きな悲しみの波にさらわれてしまわないように。
だけど……溝口さんに話をしてからは、後悔ばかりが生まれている。
『最後まで必死で生きて』という言葉がずっと胸に残って、ざわついている感じがした。
「結局は自分勝手だったのかもしれません」
かすれた声でつぶやく僕に、溝口さんはなにも答えてくれなかった。
〝風花のために〟した決意は、本当は自分が傷つくのを避けただけなんだ。
後悔が毎日大きくなり、そのたびに風花の顔を思い出す。
「溝口さん」
「ん?」
「帰るときに、トールを僕の部屋に呼んでもらえませんか? 話があるんです」
その言葉を最後に意識が遠くなるのを感じた。薬が効いてきたのだろう。眠気の波に漂いながら、愛する人のことを考えても、うまく思い出せない。
きみは今、どこでなにをしているの?
僕のいない人生を、きみは歩いていけるの?
ぽっかりと空く黒い穴が足元にある。
もう、すぐそこまで終わりの日が近づいている。
「兄ちゃん寝てるの?」
声が聞こえる。
ゆっくり目を開けると、いつの間にか部屋はオレンジ色になっていた。夕暮れどきになっているようだ。
横を見ると、ふてくされた顔のトールが腕を組んで立っている。
「トール……。なんでここに……? あれ、溝口さんは?」
「もう帰ったよ。てか、顔色悪いけど大丈夫?」
「ああ……すっごく悪い」
声がうまく出せない。
おもちゃの電池が切れかかっているみたいに、ひとつずつ体の機能が弱まっているようだ。
「なんか、また背が高くなったみたいに見える」
「はは。成長期だし」
と笑うトール。
無理している、ってすぐに伝わってくる。兄弟だからわかること。
「母さんは?」
訊ねると、トールは「ああ」と肩をすくめた。
「買い物。兄ちゃんに柔らかくて美味しいもの作るって」
「そう……」
背中や腰に鈍い痛みが生まれている。痛み止めが切れかかっているのか、それとも効かなくなってきたのか……。
「なんか用事があるって聞いたけど、どうかした?」
そうか、とようやく状況が頭に入った。
僕がトールを呼んだんだっけ。
時間の感覚も、寝ているのか起きているのかもわからなくなっているみたい。
「話がしたいんだ。一度、トールとちゃんと話がしたかった」
「…………」
黙ったまま窮屈そうに椅子に腰をおろす彼に、僕も起きあがろうとするけれど、体に力が入らずにぺしゃんと横になってしまった。まるで軟体動物になった気分。
背中を支えてくれるトールに「ありがとう」と言うが、聞こえなかったのか返事はなかった。
すぐに音を立てて椅子に座ったトール。片目だけを細め、挑むように見てくる瞳の奥がかすかに揺らいでいる。
強がっているときに彼がよくしていた目。
「いいよ。話、しよう」
覚悟が決まったのかトールがそう言った。
ちゃんと、彼に伝えなくちゃと口を開く。
「あのさ、このあいだの話なんだけど……」
「このあいだ? なんか話したっけ?」
「ほら、『逃げてる』って言われたよね。あのことなんだけど」
ようやくトールも思い出したらしく、「ああ」と軽くあごを引いてまた腕を組んだ。
「あれからずっと考えたんだ。トールの言うように逃げてちゃいけないって思った。だから、男友だちには話をしたよ」
「犬神さんだろ?」
トールの口からその名前が出たことに驚いてしまう。
「え、なんで犬神のこと……」
「中学校まで会いに来た。トールってあだ名しか知らないくせに、それだけで何人もの生徒に訊ね歩いたみたいでさ。会えたときはえらく喜んでた」
「……犬神が」
「そう、その犬神ってイケメン。放課後待ち合わせてさ、マックをおごってもらった」
「全然知らなかった」
まだ心臓がドキドキしている僕に、
「言ってないから知らないのも当然」
なんてトールは得意げな顔で答えた。
「犬神さん、すっげえ兄ちゃんのこと心配してたよ。あと、風花さんとのことも聞いた。なんで別れちゃうかねぇ」
「……いろいろあるんだよ」
違うな、と思った。
穏やかな関係だったのに一方的に断ち切ったんだ。
「兄ちゃんのことだから、『自分がいなくなっても生きていけますように』なんて考えで別れたんだろ。俺から言わせれば大バカヤローだけどな」
「そんな言い方酷いよ」
「風花さん、すごく落ちこんでいて見てられない、って言ってた。毎日園芸部で泣きながら花の世話してるらしい。兄ちゃんは、風花さんのための別れだって本気で思っているの?」
「…………」
重いモヤモヤがお腹に広がっていく。それを見越したようにトールは顔を近づけた。
「人はどう死ぬかじゃなくてどう生きたか、なんだろ?」
ボソッと言うトールの顔を見た。
「盗み聞きしてたの?」
「……なあ兄ちゃん。ちゃんと最後の瞬間まで生きぬいてみせろよ。じゃないと、俺もどうしていいのかわからないよ」
ああ、そっか……。
トールはずっと僕のことを心配してくれていたんだ。
学校にも行けないほど、気にかけてくれていたんだ……。
「でも……いまさらどうしていいのかわからない。もう学校にも行けないのに。なにもかも遅すぎるんだよ」
「最後の瞬間まで生きぬくってことはさ、自分の気持ちに正直になるってことだよ。下手に隠そうとするから、余計にややこしくなってんじゃね?」
トールは体を折ってなにかを手にした。
それは、茶色の植木鉢。ぼやけた視界に鮮やかな緑色の茎が映った。
「アネモネ……」
誰からトールが託されたのかすぐにわかるよ。風花は、いつだってアネモネを愛していたから。
添えられたカードには、丸文字でひとことだけ記してある。
『今年も、アネモネが咲いたよ』
指先で触れると、彼女の好きな白色の花が揺れた。
まるで彼女が僕に笑いかけているみたい。
わたしはここにいるよ、と言っているみたい。
ああ、だめだ。
涙が一気に溢れた。
もう迷わないと決めたはずなのに、まるで風花がそばにいてくれるみたいな気になる。
「風花さんが友梨さんに託して、それが犬神さんに渡って、最後は俺に回ってきた。そんなにたくさんの人を介してでも渡したかったんだってさ」
風花が好き。
この気持ちは彼女にはじめて会った日から、別れた今でもずっと心にある。
風花……。
指先で手紙の文字ひとつひとつに触れていく。
僕は、彼女の気持ちを知っていて……それなのに逃げ出したんだ。
風花はどんなに悲しかったのだろう。
どれだけつらい思いをしているのだろう。
自分なりに最後まで正直に生き抜くには……。
洟をすすってから植木鉢をサイドテーブルに置いてもらう。
――会いたい。
それが丸裸になった僕の気持ち。
すべて失う直前になって、やっと見つけた答えなんだ。
「悪いけど、僕のスマホを取ってくれる?」
「そうこなくっちゃ」
バッと立ちあがったトールからスマホを受け取る。電源を入れると、何十件もの着信履歴とメールを知らせる通知が表示された。
視界の周りが黒く濁っていて、うまく文字が見えない。
アドレスから風花の名前を選び電話をかけるとすぐに呼び出し音が聞こえた。
上半身を支えられず、布団に突っ伏すようにしてその電子音に集中する。遠く、そして近く響く音はやがて、留守番電話の非情なアナウンスに変わった。
「どう?」
心配そうな顔を隠さなくなったトールに、顔をうつむけたままで首を横に振った。
体が重く、全身に強い痛みが広がっている。溝口さんを呼んだほうがいいのかもしれない。
そう思った瞬間、トールが「あ」と大きな声を出したかと思うと、僕に向かってなにか言っている。
なんだろう……。
左右に揺れる世界の中で、手元にあるスマホを指さされていることに気づいた。
一気に着信音が耳に届く。
「早く出ろよ、風花さんから!」
慌てた様子のトールの声に、スマホの通話ボタンを押して耳に当てる。
風花から……?
『鈴木くん!』
間違いない。風花の声が耳に届いた。
「ああ……風花」
『鈴木くん、鈴木くん!』
涙声で僕の名前を何度も呼んでいる。僕がきみを泣かせたんだね。
「風花、ごめん――」
あとの言葉が続かない。
嗚咽を漏らす僕に、風花は『うん』と何度も応える。
『鈴木くん、体調はどう? ずっと学校にも来ないからわたし……』
自分のことよりも僕を心配してくれる風花。
それなのに、僕は……。
意識が遠のきそうになるのを必死でこらえる。
ちゃんと伝えなくちゃ。
残された時間を正直に生きることを決めたのだから。
「風花、聞いてほしいんだ。どうしても言わなくちゃいけないことがあるんだ」
彼女の息遣いが耳に届く。
「僕は……全然やさしくなかった。風花のことを思っていたはずなのに、ひとりよがりだったんだ」
『そんなことない。そんなこと、ないよ……』
「僕は、自分の気持ちを整理するために、きみを傷つけたんだ」
――神様、僕に残された時間はどれくらいあるのですか?
まるで真冬に外に放り出されたように寒い。
すぐそばにいるはずのトールも見えないほど視界がどんどん暗くなっていく。
「きみが好きだよ。誰よりも好きなんだ」
言えた。
そう思ったとたん、体から力が抜けるのを感じた。
そのままベッドに仰向けに横たわる。スマホを持つ手の感覚が秒ごとに遠ざかるようだ。
『わたしもだよ、同じなの! 好きだよ。好きだよう……』
嗚咽に紛れる声を心から愛しく思う。
最後に話ができてよかった。
気持ちをたしかめ合えてよかった。
体がふわふわとベッドから浮いているみたい。
『会いたい。鈴木くん会いたいの』
すがる風花に、
「会いたいね」
僕は言った。
もう一度きみを抱きしめられたら、ちゃんと顔を見て好きだと言えたなら……。
だけど、もう叶わないんだね。
「ねぇ、風花。アネモネ、ありがとう。すごくきれい」
『うん。うん……』
涙声の風花に、そっと目を閉じてから僕は訊ねる。
「アネモネの花言葉を知っている?」
僕たちのはじめての会話。
きみは青空の下で美しい横顔だったよね。
『知ってるよ。「はかない恋」、でしょう?』
「そうだね……。でも――」
そこまで口にしたときだった。
激しい痛みが体を襲った。あまりにも強い衝撃にスマホが手から逃げるのがわかった。
体をのけぞらせ、うめく僕の体を誰かが掴んだ。
「兄ちゃん!」
声は聞こえても、もうなにも見えない。
必死で痛みに耐える僕に、トールがなにか言っている。
違う、電話口の風花になにかを言っているようだった。
早く痛みが引くことを願うけれど、痛みはどんどん増していく。
気がつかないうちに覚醒と失神を繰り返していたらしい。
何度目かに目を開けたとき、ようやく色の薄い世界が確認できた。溝口さんが湿布を貼ってくれたところだった。
「すぐに効いてくるからね」
やさしい口調の溝口さんにうなずいてから、横を見ると両手のこぶしを握りしめたまま立っているトールが見えた。
なにか怒っているように、顔をしかめたトールの目から涙がボロボロとこぼれている。
「兄ちゃん、しっかりしろよ。母さんも父さんもすぐに来るって。風花さんも今向かっているから」
「トール……。家、教えたの?」
「当たり前だろ。そんなの当たり前じゃん……」
痩せてしまった両手を伸ばすと、トールは僕の手を握ってくれた。
こんな大きな手をしていたんだな、全然知らなかったよ。
「……トール。お願いを聞いてほしいんだ」
「そんなこと言ってるときじゃないだろ。いいから今は休んでろよ」
握り返す手に力をこめると、トールははっとしたように目を開いた。
「風花のこと、見守ってもらえないかな?」
「最期みたいなこと言うなよ。聞きたくないよ」
子どものように泣くトール。でも、もう時間がないんだ。
「風花はやさしいけれど傷つきやすいんだ。いつも笑っていて、だけど僕がいなくなったら……きっと悲しむと思う」
「…………」
「だから、見守ってやってほしい。彼女の行く道が明るくなるよう、見守ってほしいんだ」
「……わかったよ。だから死ぬなよ。死なないでくれよ!」
窓辺に飾られた白いアネモネを見る。
僕と彼女をつないでくれたアネモネ。
「風花にいつか伝えてあげてほしい。白いアネモネの花言葉を」
「花言葉?」
声がうまく出せない。
耳を寄せるトールになんとか言葉にすると、彼は大きくうなずいた。
――伝えられた。
そう思った瞬間、目の前がうっすらと明るくなった気がする。
この感情をなんと言えばいいのだろう。酷く満ち足りた気持ちになったのははじめてのことだった。
体を蝕んでいた痛みももう、ない。
風花、最期にきみに会いたかったけれど、もう無理みたいだ。
どうか神様、僕のいない世界を生きていく力を、彼女に与えてください。
きみを自由にしてあげるよ。
たんぽぽの綿毛のように、僕のもとからふわりと飛んで、いつかまた美しい花を咲かせてほしい。
真っ暗になっていく視界。冷えていく体。
恐怖はなかった。これまでの記憶が一気に頭の中で流れている。
どの思い出にも感謝の気持ちが溢れていて、僕は今、幸せだった。
体から抜けていく力を感じていると、遠くでなにか聞こえた。
これは……玄関のチャイムの音だ。
トールが部屋を駆けて出て行くのがわかった。
遠くから聞こえるいくつかの足音。その中のひとつ、僕に幸せをくれた彼女の足音がしている。
僕の名前を叫ぶ声が聞こえる。
風花、ああ風花。
もう少し、もう少しだけこの世にいさせてほしい。
愛しい人の顔を見てから、僕は旅に出たい。
誰かが僕を呼ぶ声。僕の体に抱きつく甘い香り。
きみなんだね?
大粒の涙をポロポロとこぼしている。
ああ、やっと会えた。風花、やっと会えたね。
大きな化け物が今、その口を開けて僕を呑みこんでいく。
だけどもう、僕は怖くはないよ。きみがそばにいてくれるから。
ありがとう、風花。
さようなら、僕の愛した人。