◆◆◆



 病院から抜け出すのは簡単だった。
 日曜日の今日は朝から面会者も多く、廊下や雑談室には家族と思われる人もたくさんいたし、診察がないせいで看護師の数も少なかった。

 昼食の時間までやり過ごしてから行動に移す。病衣から私服に着替え、一階まで降りる僕に気づいた人もいなかったと思う。
 ベッドの上には【友だちと散歩に行ってきます】と書いたメモ用紙を置いてきた。

 久しぶりに歩く町は新鮮で、今のところ不快感もない。熱も下がった様子だ。

 家電量販店や一〇〇円ショップに寄ってから学校へ向かう。
 部室の前には約束通り、犬神が立っていた。

「元気そうじゃん」

 そう言った犬神に「まあね」と答え部室に入る。
 懐かしい香りに、少し気弱になりそうな気持ちを奮いおこすと、犬神に緑色のエプロンを手渡した。

「で、なにをやるわけ?」
「前にお願いしたこと。本当ならクリスマスに間に合わせたかったけど、できなかったから」
「やっぱりな。でも、もう二十七日だぜ? 時期的に遅いだろ」
「わかってるよ。でも、最近はほとんど学校に来られなかったから」

 そう言う僕に、犬神は「まあ」と肩をすくめた。

「一応、ポインセチアは移動しておいたけど」

 さすがは友だちだ。

 犬神にお願いしたのは、『シクラメンの花が咲いている花壇を、クリスマスコーナーにしたい』というものだった。
 花壇まで行くと、たしかにシクラメンの花の周りにポインセチアの鉢がいくつか置いてあった。
 作業に取りかかろうとする僕の肩を、犬神は乱暴に掴んだ。

「おれがやるから座ってろよ」
「いや、いいよ」
「よくねぇよ。泥だらけで病院に戻ったらあとが大変だろ。おれまでとばっちり受けるのは困るし」

 肩に置かれたごつい手を掴むと、そっと下へおろした。
 言うなら今しかない。

「時間がないんだ」
「……まだ昼だろ?」
「違う。人生の時間がないんだよ」

 (ほう)けた顔になる犬神に、気づけば視線を足元に落としていた。

 ……ちゃんと伝えないと。

 もう一度顔をあげると、真っ直ぐに犬神を見た。

「前に犬神に言われたこと、しっかりと考えたんだ。だからこそ、今日ここに来てもらったんだよ」
「え……」
「重い病気なんだ。治る見こみもないし、毎日どんどん悪くなってる。自分でもまだ実感がないけど、もうすぐ僕は死ぬんだって」

 すう、と音を立てて鼻から息を吸いこんだ犬神が、
「……マジで?」
 かすれた声で尋ねた。
 ひとつうなずく僕に、その目を伏せた。

「そんな……予感がしてた。でもまさか、当たるなんて、な」

 言葉を区切って気弱に言う犬神を見ていたら、お腹の辺りが熱くなってきた。
 自分の死を口にしたことで、タイムリミットが急にリアルに思えてきた。
 そんな感じだった。

「……風花ちゃんには――」
「言ってない。言わなくちゃと思うけれど、まだ勇気が出ないんだ」
「なんだよそれ……。じゃあ、なんでおれに言うんだよ」

 犬神はもう泣いていた。大きな体で涙をぽろぽろとこぼしている。

 なにか熱いものが喉元にせりあがってきて、それはあっという間に涙になってこぼれおちた。

 ――ああ、僕は本当に死ぬんだ。

 ゆがんだ視界の中で、やっと現実を見ることができた気分だった。

 それから僕は自分の病気について話をしながら作業を進めた。
 途中で何度もくじけそうになり、最後は通りかかった下瓦さんまで手伝ってくれた。
 きっと彼なりに察しているのだろう、

「ほら、これでも着ろ」

 なんて分厚いコートを貸してくれたりした。
 大きすぎるコートに身を包むと心まで温まる気がした。

 下瓦さんが()れてくれたコーヒーの香り、味、空に広がる赤い夕焼け。
 そして、汗をかいて作業を続ける犬神。
 どの光景も愛おしくて、僕は何度も泣きそうになった。
 
 クリスマスコーナーは夕暮れ過ぎになり完成した。


 風花の足音が耳に届いたとき、僕は犬神が置いていってくれた椅子に座って空を眺めていた。
 夜の紺色(こんいろ)が空に広がっているのに、まだ白い雲がはっきりと見える。そんな不思議な空だった。

 さっき背中に貼った痛み止めの湿布(しっぷ)のおかげか、ずいぶん体もラクになっている。

 部室に向かおうとする風花に、
「こっちだよ」
 明るい声で言えた。

 風花は僕の姿を見つけると、一目散に駆けてくる。

「鈴木くん!」

 立ちあがった僕の胸に飛びこむ風花を抱きしめた。
 大丈夫、もう涙は出ない。

「どうしたの? もう退院できたの? 具合は大丈夫なの?」

 矢継ぎ早に質問をする風花に、僕は笑みを作った。

「大丈夫だよ」
「でも……痩せたみたい」

 頬に風花の指が触れたのもつかの間、彼女は首に巻いていた白いマフラーを僕の首に巻いた。

「大げさだよ」

 意識して笑っていないと涙が出てきそう。
 マフラーを返そうとするけれど、断固拒否する風花。じゃあ、とマフラーの半分を風花の首に巻いてあげた。
 恥ずかしそうに、だけどうれしそうに微笑む。その姿を瞼に焼きつけたかった。

「ちょっと見せたいものがあって病院を抜けてきたんだ」
「え……」

 体を離した風花が戸惑った表情を浮かべた。

「ほら、見て」

 指をさすほうに、手作りのクリスマスコーナーがある。サンタやトナカイのイラストが描かれたビニール製の風船の下に、シクラメンの花壇。その周りには鉢を赤や緑のリボンで飾られた、ポインセチアが配置されている。

「すごい! これ、わたしが描いたイラストと同じだ」

 駆け寄る風花からマフラーがするりと抜けた。

「わー、アネモネも持ってきてくれたの?」

 室内で育てているアネモネの鉢にまだ花は咲いていないけれど、風花のクリスマスコーナーならあるべきだと思ったから。

「気に入ってくれたならうれしいな」

 そう言ってから電飾のスイッチを入れた。
 夜の闇に赤やオレンジのライトが僅かに灯る。

「本当なら華やかな電飾にしたかったけれど、クリスマスも終わっちゃったから、電池式のはこれしかなかったんだ」
「すごい……」

 横顔の風花がほんのりとライトに浮かび上がっている。クリスマスコーナーの花は、夜の中で美しく咲いていた。

「これ、鈴木くんが作ってくれたの? すごいよこれ!」

 風花は両手で口を押さえて喜びの声をあげている。
 見たこともないくらいうれしそうに笑っているのを見て、ようやく安堵(あんど)の息がつけた。

「僕だけじゃなくて、犬神や下瓦さんも手伝ってくれたんだ。遅くなったけど、クリスマスのプレゼントだよ」
「うれしい。すごくうれしい。ありがとう」

 彼女の口からは白い息が生まれ、それがとても美しく瞳に映った。

 しっかりとその顔を記憶に刻む。

 風花の両手を僕は握った。

 昨夜、トールに言われたことをしっかりと考えて出した答えは、作業中も揺らぐことはなかった。

 病気のことを話せば、きっと風花は悲しむだろう。かといって、このまま内緒にしておくのは難しい。
 僕がいない世界をこれから風花は生きていかなくちゃならない。

 だとしたら、僕にできることは……。

 何度考えてもこの結論しかないと思えた。
 最後のきみへのプレゼントは、きみとの恋を終わらせること。

「あのさ――」

 弱気な声を戒め、「話があるんだ」と言う僕に、風花の唇はまだうれしそうにあがっている。

「遠距離恋愛ってどう思う?」
「え、どうしたの? 急にびっくりした」

 僕がきみの毎日から退場することで、きっと前を向いて歩いていけるはず。
 冗談だと思っているのだろう。
 僅かに揺れる瞳が潤んで見えるのは、はかない照明のせいだろうか。

「僕は遠距離恋愛は無理だと思う。こうやってそばにいられないとくじけてしまう性格だから」
「……なんで、そんなことを言うの?」

 髪が、頬が、瞳が、照明にキラキラと光っている。

 傷つけたくない。だけど、ちゃんと終わらせると決めたんだから……。

「実は、引っ越しをすることになったんだ」

 風花が口を開く前に「だから」と僕は言葉に力を入れて続ける。

「もうそばにいてあげられないんだ」

 僕の言葉を反芻するようになにかつぶやく風花が、
「本当に?」
 かすれた声で訊ねる。

「……ごめん」

 やがて静かに首を横に振ってから風花は僕の服の袖を握った。

「どこに行くの?」
「わからない。まだ聞いてないんだ」

 不器用なウソなのに、風花はじっと考えるようにうつむき、そして顔を上げた。

「それでも変わらない。わたしたちは変わらないよ」

 こんなときなのに、力強く微笑む風花に、自分の鼓動が鳴る音が聞こえた気がした。
 抱きしめたい気持ちが溢れ、あっけなく崩れそうな決意。だけど、ここで受けいれてしまったなら、この先、風花はずっと苦しくなる。

「僕は……無理だと思う」
「そんなことないよ! だって、だってこんなに好きなのに。ねぇ、きっと大丈夫だよ」

 あんなにきれいに輝いていたイルミネーションが悲しい色に思える。
 そこまで僕を思ってくれている風花のこと、僕も大好きだよ。

「わたし、がんばる。がんばるから、だから――」

 涙に声をゆがませる。
 僕が彼女を苦しませているんだ……。

 それでも僕は言わなくちゃいけない。

「ごめん」

 袖を掴む手を振り払うように動かしたとき、胸はたしかに痛かった。

「きっと風花なら僕がいなくても大丈夫だよ」
「いや! 一緒じゃなきゃだめなの。だめなのっ……」

 嗚咽(おえつ)を漏らす風花の肩に伸ばした指先をそっとおろす。

 そしてこぶしを握りしめる。
 きみとのラストシーン。
 すう、と大きく息を吸って僕は言う。

「風花、僕と別れてほしいんだ」
 と。