【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



「あれ? 今の声、谷田部課長に似てませんでした?」

 美加ちゃんも気付いたらしく、きょろきょろと周りに視線を巡らせている。

 でも、私は動けない。

 ある予感が胸を過ぎり、動けない。

 金縛り状態で前方に固定された私の視線の先を、右から左へ、小さな人影がゆっくりと駆け抜けていく。

 年の頃は、たぶん五、六歳くらい。

 パステルピンクのワンピースに赤いサイドポーチを肩から斜にかけた、とても可愛らしい女の子。

 好奇心と希望に満ちあふれた黒目がちの大きな瞳と、ほんのりと上気したプクリと丸みを帯びた頬。

 彼女が動くたびにツインテールの髪がひょこひょこと上下して、その白い頬をサラサラと撫でる様は、まるで子ウサギのようだ。

 その容姿に感じる、悲しいほどの既視感(デ・ジャブー)

 少女の面差しは『ある人』を思い起こさせ、私の鼓動はますます大きく跳ね回った。

 まさか。

 そんな偶然、あるわけがない。

「あれぇ、谷田部課長じゃないですか? 課長、谷田部課長ーっ!」

 素っ頓狂な美加ちゃんの声が、嫌な予感を現実に変えていく。

 私は美加ちゃんがブンブンと手を振るその方向へ、ぎこちない動作で視線を向けた。

 距離にしてほんの七、八メートル。

 その人は、声の主を求めるように視線を巡らせ、私達を認めて足を止めた。

 まるで吸い寄せられるように、真っ直ぐな黒い瞳と視線が交差した刹那。一瞬、その瞳に揺れたのは確かに『驚き』の色。

 それを、私は見逃さなかった。




「君たちに会うなんて、奇遇(きぐう)だな。女性陣二人で、ピクニック?」

 ゆっくりと歩み寄ってきた谷田部課長は、憎らしいくらいに驚きの成分なんて微塵(みじん)も感じさせない、いつものニコニコスマイルを浮かべて話しかけてきた。

「ホントですよね。まさか、ここで谷田部課長と会うなんて、ビックリですよ!」

 固まったままの私には気付かず、楽しげに声を上げる美加ちゃんの傍らで、私は何者かに助けを求めるように宙に視線を彷徨わせた。

「課長、あの女の子は、もしかして?」

「ああ」

 好奇心を含んだ声音で問う美加ちゃんに、谷田部課長は静かに頷く。

「真理、おいで」

 課長に手招きされ、私達の所までトコトコと戻ってきた少女が放った言葉――。

「パパの、お友達?」

『パパ』、その単語に、脳内が一瞬にして漂白される。

 私達と課長を見比べて、不思議そうに小首を傾げる少女の仕草を愛らしいと思う余裕もなく、私はただ、課長の顔に視線を這わせるしか出来ない。

 私の視線の意味に気付いているのかいないのか。

 課長はやはり表情を変えることはなく、ゆっくりとした動作で腰を屈めると、少女と自分の目線の高さを合わせて微かに口の端を上げた。

 言葉で表すならば、それは正に『父親』の慈愛に満ちた顔だ。




「ああ。会社の同僚なんだ」

「カイシャのドウリョウ?」

「そう。同じ工務課の、佐藤さんと高橋さんだ。パパがお世話になっている人たちだから、ちゃんとご挨拶をするんだよ」

 諭すように言う優しく響く低音の声もその穏やかな表情も、私の知っているどの東悟とも違う。

 私は、こんな表情をした彼を見たことがない。

 あんなに大好きで、なんでも分かっているつもりだったあの頃の私。

 だけど、今はこんなにも遠い。

 課長の説明に納得がいったのか、少女の顔にニッコリと邪気の無いエンジェル・スマイルが浮かんだ。

 キュッと下がる目じり。

 やっぱり、この子は課長に似ている。

「谷田部真理ですっ。パパが、おセワになります!」

 少女が『ペコリ』と礼儀正しくお辞儀をするのを、私は、ドキドキと跳ね回る自分の鼓動を他人事のように聞きながら、ただその情景を目に映していた。

――ああ。

 たぶんこれは、天罰だ。

 私は心の何処かで、このことを予想していた。

 だって、成人男性の名字が変わる理由なんてそう多くはない。

『親が離婚』したか、もしくは『本人が結婚』したか――。

 私にだって、それくらいのことは最初に想像がついた。

 榊東悟は谷田部家の婿になって、谷田部姓になったのかも?

 ううん、きっと違う、他の理由があるんだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、私は心の何処かで確信していた。

 なのに敢えて聞かなかった。

『そうだ』と聞いてしまえば、私のこの思いは絶対叶わないものに変わってしまう。

 それが怖かった。

 だから、これは天罰。

 確かめることもせずに現実を見ようとしなかった、優柔不断で、ずるい私への天罰だ――。






 時というのは、無情だ。

 その場所へ、どんなに帰りたいと願っても、決して叶えてはくれない。

 帰りたい。

 出来ることなら、あなたの恋人でいられた、あの頃に。

 ただ、あなたの目に自分がどんな風に映るのか、それだけを気にしていれば良かった、あの頃に――。







 ザワザワと学生達の賑やかなお喋りをBGMに、大学の学食のテーブルの角っこで一人。

 まだ親しい友人が出来ない私はいつものごとく、文庫本片手に味気ない昼食を取っていた。

 本日のメニューは和風Bランチ。

 メインのおかずは鯖の味噌煮で、東北育ちの私には少し薄味で物足りない。

 お母さんの、鯖の味噌煮が食べたいなぁ……。

 あの、脳みそまで染みこみそうな甘じょっぱい味噌味。炊きたてのホカホカご飯で、食べたい。

 なんてホームシックに浸っていたら、ツカツカツカ――と近づいてくる軽快な足音が背後から響いてきて、私は反射的にギュッと身を強ばらせた。

 き、来たっ!

 この一直線に私に向かってくる自信満々の足音の主は、一人しかいない。

「ほら、また、眉間に縦じわが寄ってる! 知ってるか? そのシワは年と共に深くなるけど、絶対浅くはならないんだ」

「痛っ……」

 不意打ちでおでこに走った鋭い痛みに思わずうめき声を上げ、いきなりデコピン攻撃を仕掛けてきた犯人様を、じろりと冷たい視線を作って見上げた。

「知りません、そんなものっ」

 まだひりひりするおでこをナデナデしながら、左隣の席にどっかりと腰を下ろした良く見知った人物にふくれっ面を向ける。

 彼は、二学年上の(さかき) 東悟(とうご)

 数週間前、水たまりですっころんで往生していた私に、唯一救いの手を差し延べてくれた優しい先輩……で、終わるはずの人。

 なのに、何故かこうやって私を見つけては、『ちょっかい』をだしにくる不可解な人でもある。




 ちらりと上げた視線の先で、少し鋭どさを感じさせる強い瞳が、愉快そうに細められている。

「だからって、いきなりデコピンするのはやめて下さい。よけいにシワが深くなります。それに、眉間に縦じわが寄るのは遺伝です。文句があるならご先祖様に言って下さい」

 ドキドキと早まる鼓動と上気する頬。

 それを悟られまいと渋面を作って、落ちかかった鼻の上のメガネフレームを人差し指でずりあげつつ私は手にしていた文庫本に視線を戻し、どうにか平静を装った。

「へぇ……」

「何ですか、榊先輩」

「いや、メガネちゃんも言うようになったと思ってね。出会った頃は、俺の言うことは素直に『はいはいっ!』って聞いてたのに、今じゃ見る影もナシ。女ってのは……」

『出会った頃は』なんて言ったって、ほんの数週間前の事じゃない。

 だって、何だかんだと理由を付けては、四六時中ちょっかい出してくるのは、あなたでしょうが。

 こうも毎回毎回からかいモード全開で来られたら、いくら私でも、対処法を学びます。

 そりゃあ、内心は、心臓バクバクものだけど……。

 教えてやりたい本音と絶対知られたくない本音。結局どちらも言葉にはできずに、私は有る意味一番切実な『お願い』を、口にした。

「メガネちゃんって呼ぶの、やめてください。私には高橋梓ってちゃんとした名前があるんですから」

「う~ん。梓ちゃん……ってかんじじゃないな。あずっち、あずりん……」

 指折り数えて私の呼び方を物色し始めた先輩の放った言葉に、思わずギョッとする。

 誰が『あずりん』だ!

 そんな呼び方をされた日には、私はきっと恥ずかしさで(もだ)え死ぬっ。




「やっぱり、シンプルに『梓』かな? よし、梓にしよう。うん、これからは、梓って呼ぶよ」

 すっと耳元に落ちてくる心地よいテノール。どこか優しい響きを持った声音で名を呼ばれて、ただでさえ早い鼓動に拍車がかかる。

 内心、動揺しまくりの私に向けられる先輩の瞳はどこまでも愉快そうで、なんだか、私の心の内なんか全部見通されているような気がする。

 それにしても。

 いきなり呼び捨ては心臓に悪いです。

「で、この間の答えは?」

「な、なんの答えですか?」

「俺と、デートする話し」

 頬杖を付きながら至近距離でニッコリ満面の笑顔で見上げられて、思わず思考停止しそうになる脳細胞に発破をかける。

 こ、ここで怯んじゃだめだっ、私!

「じょ、冗談じゃなかったんですか?」

 なんとか、掠れた声を絞り出す。

「俺は、冗談で女の子をデートには誘わない」

 そのニコニコ笑顔が、充分冗談っぽいんですが、先輩。

「私、知ってますよ。先輩と同じゼミの佐原さん、彼女と付き合ってるって聞きました。あんな美人の彼女さんがいるのに、どうして私なんか誘いますか? 言いつけますよ!」

「それはちょっと違うな。付き合っているんじゃなくて付き合っていた、つまり過去形。ということで、今は綺麗さっぱりフリー。だからデートしようや」

 今は、彼女いないんだ……。

 って、喜ぶな、私っ。



 成績はいつもトップクラスで、ルックスも抜群。

 わがM大工学部期待の星、榊東悟。

 いくらフリーだからって、この人が本気で私をデートに誘うなんて、考えられない。

 うん? と、ちょっと悪戯っぽい瞳で覗き込まれて、更に顔が上気する。

 たぶん、今の私の顔はトマトと良い勝負のはず。

「で、でも……、どうして私なんですか?」

 先輩に群がる女の子はいくらでもいるでしょうに。それこそ、選り取り見取りに。

「気になるから。高橋梓という女の子を、もっと知りたいと思うから、榊東悟という男をもっと知って貰いたいから、デートに誘っている。それじゃ理由にならないかな?」

 ずるい。

 いきなりそんな真面目な顔で言われたら、あしらう言葉が出てこないじゃない。

 ダメだ、その気になったりしちゃダメ。

 私は、こう言うのに慣れていない。

 深入りしたら、きっと後戻り出来なくなってしまう。

 そう、心の隅で本能が警鐘を鳴らしている。

 だけど――、

「返事は? イエス、ノー?」

「……」

「イエス、オア、ノー?」

 向けられる視線が、熱を帯びる。

 ジリジリと夏の太陽に照らされ色づき始めたトマトは、どんどん赤みを増して完熟状態。

 そうなれば、後は重力に引かれて地面に落ちるしかない。

「イ、イエス……」

 それに。

 私もこの人を、榊東悟と言う人を、もっと知りたい。

 口から零れだした答えは、そんな隠しようがない本心の発露(はつろ)だった。




 次の土曜日。

 榊先輩とデートの約束をしていた、その日の朝。

 私は、予定よりも三時間も早く目が覚めてしまった。

 というより、うつらうつらした程度でほとんど眠れなかったのだ。

 何を『着ていこうか』に始まり、『手とか繋いじゃうんだろうか』とか、『まさか、最初のデートでキスとかないよね?』とか、果ては『何処かで休んで行こうとか言われたらどうしよう』とか。

 色々と暴走する妄想のせいであまりに興奮しすぎて、目をつぶってもぜんぜん眠気がやって来なかった。

 枕元の目覚まし時計に視線を這わせると、午前三時。

 少しは眠らないと、肝心のデート最中にうつらうつらしかねない。

 そうは思うけど、目をつぶれば浮かぶのは妄想の波状攻撃。

「はあっ……」

 一つ、長ーいため息を吐きだす。

 眠るのを諦めた私はもぞもぞとベッドを抜け出して、早すぎる朝食の準備を始めた。

 我が城は、学生用に建てられた八畳一間のワンルーム。

 四階建てのアパートの外観は大分年季が入っているけど、中身はみんな今風に綺麗にリフォームされている。

 明るい木目調のフローリングに白いクロス張りの壁。

 小さいながらもオシャレな出窓が付いていて、ミニ観葉植物の寄せ植えなんかを飾っている。

 ソファーベッドの足下には食卓兼勉強机兼憩いの場所でもある、小さな白いコタツテーブル。

 そのテーブルでトーストとカフェオレで軽い朝食を済ませた私は、早速イソイソと『お出かけ』の準備に取りかかった。