【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~




 そうしているうちにエレベーターは到着し、重い音を響かせて扉が開いた。

「ほら、乗った乗った」

「……」

 妙に明るい声で言う課長に促され、エレベーターに乗りこむ。

 自室があるのは、3階。

 ボタンを押そうと伸ばした私の指先が、課長の指先と見事にバッティング。

「あっ」

 意図せず触れた指先の少しひんやりとしした感触に、思わずビクリと手をひっこめる。

「すみませんっ」

 もちろん、嫌だったからじゃない。

 病院で手を繋いで歩いたときの感触と胸のドキドキが、一気に脳内を駆け巡ったからだ。

 課長がどんな表情をしているのかなんて、確かめている余裕なんかまったくない。

――どうしてこんな些細なことで、こうもたやすく暴走し始めるんだこの心臓は。

 チンと、静まり返った空間に、到着を知らせるベルの音が高らかに鳴り響く。

――今日は、やたらと聞いている気がするなぁ、この到着音。
 
 これってけっこう耳に付くから、帰宅が深夜になるこういう時には少し困る。

 というか、ご近所さんに迷惑かけたりしないか、すごく気が引ける。

 前回は、一か月半前。

 美加ちゃんの事件の時だった。その前は、課長の歓迎会の夜。

――たびたび深夜のご迷惑、本当にすみません……。




 思考が変な方に逃げるのは、心臓の暴走を止めるため。

 それと、すぐ隣にある課長の気配を意識しすぎないようにするため。

 今日の私は、自分でも分かるくらいに感情の振り幅が大きい。

 また頭に血が上って、挙動不審になりそうでちょっと怖い。

 胸の高鳴りとほんの少しの恐怖心。

 そして生まれる、妙な焦燥感。

 ごちゃまぜになった複雑怪奇な感情を持て余しながら、課長と二人肩を並べて無言で歩く。

 エレベーターを降りてからのほんの短い距離を、ひたすら歩き、部屋の前まで着いた私は、ハンドバックから鍵を取り出し黙々とドアを開ける。

 カチャリと、キーロックの外れる音が本日終了の合図。

 ドアを開ければ、そこは、懐かしの我が家。

――ああ、これで、終わり。

 そんな悲しみにも似た焦りが、心の中でむくむくと膨らんでいく。

「ありがとうございました……」

 私は、課長の顔を見ることができずに、部屋を背にして頭を深々と下げた。

「今夜はゆっくり眠って、明日は会社を休むこと。出てきても仕事はさせないから、ぜったい部屋で安静にしているように。これは上司命令な」

「う、あ、……はい。わかりました」

 チラリと視線を上げれば、笑いを消した真面目腐った表情の課長の顔がすぐそこに。

 視線がばっりち捕まり、外せない。

 実は内心、『会社に行って仕事をした方が気がまぎれるー』とか、『会社に行っちゃえば、まさか帰れとは言われないよねー』とか、ひそかに出社を目論んでいた私は、ズバリとピンポイントで釘を刺されて、うろたえ気味に相槌をうつ。

――す、鋭い課長。

「それと――」

 ためらうように、途切れた言葉。

 視線を外すことも動くこともできずに、私は言葉の続きを待った。

 でも、課長は沈黙したまま、すうっと目を細める。

 捉えられたままの視線が熱を帯び、ドクンと、また鼓動が変なふうに跳ねまわる。




 な、な、なんだろう?

 何を言われるのか想像できない私は、動揺しまくった。

「……」

「課長?」

 沈黙に耐え切れなくなった私がおずおずと口を開けば、課長は、ふっと視線を和らげる。

 それは、いつもの柔らかい優しい笑顔。

 なのに、そこに内包されている『何か』が、私の心の奥をかき乱す。

「……いや。なんでもない。それだけだ」

――何を、言おうとしたの?

――何を、言えなかったの?

 笑顔の下に隠されてしまった、言葉の続きが知りたい。

 私を、どんなふうに思っているのか。

 課長の、本当の気持ちが知りたい。

 私の気持ちを、伝えたい。

 そう切望する一方で、諦めてしまっている自分がいた。

――知ったところで、どうなるの?

――伝えたところで、どうなるの?

 課長には、お義父さんが決めた婚約者候補がいるのに。

 私の想いはきっと、課長の負担にしかならないのに。

 波立つ感情を戒めるように、理性の欠片がチクリチクリと鋭い棘を突き刺していく。

 でも、その痛みを簡単に押し流してしまうような激しい感情の大波が、心の中で渦を巻く。

「ゆっくり、休んでくれ」

 淋しげな笑顔が、闇に溶ける優しい声が。

「それじゃ……な」

 ゆっくりと向けられた背中が、私の理性の残滓をきれいさっぱり吹き飛ばした。

「課長!」




――待って!

 半ば反射的に、ただ離れて行ってほしくなくて、私は歩き去る課長の左腕を右手で必死で掴んだ。

 そのまま、ギュッと両手で握りしめる。

「高橋……さん?」

 突然、後ろから腕を掴まれて強引に足を止められた課長は、驚いたように目を丸めている。

「待って……くだ……さい」

 荒れ狂う感情の波は震える言葉になって口からこぼれだし、それを聞き拾った課長は、身体を私に向けると優しく問いかける。

「どうした?」

「……待って、下さい」

 語尾の震えは止められない。それでも。

「帰らないでください」

 さっきよりも明瞭な声で、私は、自分の今の気持ちを素直に吐露(とろ)した。

 明かりのない薄暗い部屋の中。そう広くはない玄関先で、カチリ――と、鍵を閉める音が響き渡る。

 ドアノブを掴んだまま動けない私は、背中から課長の両腕にフワリと抱き寄せられた。

「梓……」

 与えられる温もりと、耳元に落とされる甘く響く優しい声。

 ドキドキと限界点で拍動する心臓をなだめるように、背後から回された課長の腕を、両手でギュっと抱きしめる。

 でもそれは、更に心の奥に冷めようがない熱を溜めていく。

「私、ずっと言いたくて、でも、言えなくて……」

「うん」

 震える声で、どうにかそれだけを口にすれば課長は急かすでもなく、この期に及んでまだ迷っている私を励ますように、両腕に少しだけ力を込め言葉の続きを待っていてくれる。

 今言わなければ、たぶんこの先二度と口にはできないだろう、この想い。

「……私」

 なけなしの勇気を振りしぼり、私は、覚悟を決めて言葉を紡ぐ。

「私、課長のことが、好き……です」

 語尾がかすれる。

 溢れ出る想いと一緒にポロリと涙がひとしずく、頬を零れ落ちた。





――ああ、やっと、言えた。

 一番最初にやってきたのは、そんな安堵感。

 でも、落ちた長すぎる沈黙が、つかのまの安堵感をたちまち不安へと変えていく。

 課長は、私を背中から抱きしめたまま何も語らない。

――やっぱり、私のこの想いは、課長には迷惑でしかないのかな?

 そう……、だよね。

 お義父さんが勧める婚約者候補がいるのに、告白されたって――

「もう一度」

 ネガティブ思考に落ち込みかけたとき、ボソリと背後から呟きが落ちてきて、私は、はっと顔を上げた。

「……え?」

――何が、もう一度?

 言葉の意味が分からず目を瞬かせていると、両腕の戒めが解かれ、ゆっくりと正面を向かせられた。

 不安にかられて見上げれば、怖いくらいの真剣な眼差しが、まっすぐ向けられている。

 それも、かなりの至近距離で。

 両肩に乗せられた、大きな手の感触。

 ほんのり伝わる、体温。

 頬が、熱い。

 ただでさえ早い鼓動は、暴走を始める。

 ほとんど密着状態で、どこが接しているのかいないのか、よくわからない。

 息遣いすら届く距離で、課長は低い呟きを落とした。

「よく聞こえなかった」

――え?

 よく、聞こえ……な?

「だから、もう一度、言ってくれないか」

 それはまるで懇願するような、そんなささやき声。

「え、は……」

――はいっ!?

 もう一度言えって、もう一度言えって。

 あの、一世一代の勇気を振り絞った大告白を、もう一度しろって?

 う、う、うそっ!?




――声が、小さすぎた?

 やっぱり、後ろ向きっていうのが、まずかった?

「ほら、もう一度言って」

 そんなこと言われても、あれには、かなりの精神エネルギーが必要で。

 そう簡単に口にできる言葉じゃなくって。

「……ううぅっ」

 思わずうなっていたら課長は私の両肩に置いていた手を放し、あろうことか、今度はその手を両頬に添えた。

「ほら」

 あ、熱い――

 上気した頬が、更に熱を帯びる。

「言わないと、いつまでもこのままだぞ?」

 落とされる声が、更に近くなる。

 羞恥心の限界点に達した私は、どうにか言葉を絞り出す。

「……すっ――」

「す?」

「好……き、で――」

 再びの、愛の告白の言葉を遮ったのは、柔らかな唇の感触。

 それはすぐに離れて、優しい囁きが落とされる。

「――ん? 何?」

……何って。

 最後まで言わせてくれなかったのは、課長の方なのに。

 チロりとその表情を伺い見れば、なんとなく目が笑っている、

……ような気がする。




 これはもしかして、いつもの『からかいモード発動中』、なんだろうか?

 先刻、私も課長をからかって密かな喜びに浸るっていう、新たな発見をしたけど。

 確かに、課長がいつもと違う表情を見せてくれてすごく楽しくて、しあわせ―な気持ちになったけど。

 でも、でも、でもっ。

「ほら、もう一度」

「うううう……」

「ほーーら」

 もしかして、さっきの仕返しっ?

「ん?」

 って、目の焦点がぶれる寸前の近距離で視線をからめとられて、私は羞恥心で何も言えなくなる。

 身を引こうにも背中は壁だし、身体はほとんど密着状態だし、両頬は両手てばっちり包まれているし、動くに動けない。

 課長の、いじわる。いじめっ子!

 人の一世一代の勇気の結晶で、遊ばなくたっていいじゃないのっ。

 ぷうっと、子供みたいに思わず頬を膨らませたら、すかさず両手でふにふにっと引き伸ばされる。

 子供みたいなのは、私だけじゃない。

「なにほ、ふるんでふかっ」

 抗議の声を上げれば、私の両頬の肉を引き伸ばして遊んでいたいじめっ子は、こらえきれないように、クスクスと笑いだした。

「ほーら、もう一度」

――ええい、もう、知らないっ!

 こうなりゃ、ヤケだ!

 そんなに聞きたきゃ、言ってやるぅっ!

 大きく息を吸い込み、息を止めて。

「すっ……!?」

 勢いよく口から飛び出しかけた告白の言葉は、またも、寸前で封じ込められてしまった。




 それは、一度目の軽く触れるような柔らかいキスじゃない。

 少し深さを増した唇の感触に、与えられる熱に、思考がゆっくりと漂白される。

 熱い――

 どこもかしこも熱くて、何も考えられない。

 ドキドキしすぎて、心臓が口から飛び出しそう。

 かくんと、膝が笑ってしまって、力が入らない。

 自分のものとは思えない甘いトーンの声が、鼻から抜けて薄闇に溶けていく。

 それが抗議の声なのか、熱に浮かされただけの甘い服従のサインなのか、自分でも分からない。

 とうとう立っていられなくなってしまった私は、すがりつくように課長の背に手を回し、ワイシャツの生地をギュっと握りしめた。

 それを合図のように、頬を包み込んでいた課長の右手が頬の稜線を辿るように滑り落ち首筋にたどり着く。

 反射的に引きそうになる顎を親指で持ち上げられ、残りの四指がうなじの髪に絡みついた。
 
 更に下に落ちた左手が、ふわふわと足元のおぼつかない体を支えるように、しっかりと腰に回されて。

 もう、逃げられない――。




 熱く長い沈黙を破ったのは、やっと私の唇を解放してくれた、課長。

 情熱の余波を瞳に宿したまま、それでいて真摯な眼差しを課長は私に向ける。

 そこに、ふっと、柔らかな笑みが付加された。

「俺も、好きだよ」

 落とされたのは、この上もなく甘い響きをもったシンプルな愛の言葉。

『俺も、好きだよ』

 細胞にしみ込むように、その言葉をゆっくりとかみしめる。

――なんだか嬉しくて、嬉しすぎて、涙がでそう。

「……ち……ど」

「うん?」

「もう一度……、言って、下さい」

「よく聞こえなかった?」

「はい」

 こくりと頷けば、課長は愉快そうに眼を細める。

 そして私の耳元に唇を寄せ、再び、聞き間違えようのない甘い囁きを落とす。

「俺も、好きだよ。大好きだ」

 かみしめるように瞳を閉じれば、溢れ出た雫が熱い頬を滑り落ちた。

――私は、今日という日を忘れない。

 たとえこの先、何があったとしても。

 勇気を奮い起こして、想いを伝えたこと。

 その想いに最高の答えがもらえたこと。

 二人の気持ちが通じ合ったこの幸福な瞬間を、けっして、忘れない――。

「泣き虫だな、そんなに泣くと目が溶けちゃうぞ」

 課長は、幼子をあやすような穏やかな口調でそう言うと、私の頭を胸に抱きよせた。

 私は引き寄せられるままに、猫みたいに頬をその広い胸にすりよせる。

 落ちる涙は、温かい特大ハンカチに吸い込まれていく。

 フワリと鼻腔をくすぐる、ほのかな煙草の匂いがとても甘く感じた。