瞬間冷凍されたサンマみたいに固まる私を見やり、課長は愉快そうにクスリと笑う。
そのまま、歩き出した課長につられて私も足を踏み出す。
「外食が無理なら、何かテイクアウトできる料理を買って帰ればいいか。適当な店があったかな」
「……あ」
課長の言った『帰る』の言葉で、思い出した。
「どうした?」
「私、会社に車、置きっぱなし……」
「なんだ、そんなことか。別に、置きっぱなしでも構わないだろう?」
「……」
というか、戻ること前提だったんでデスクの上は資料の山だし、図面台には製図途中の加工図面が張り付けたまんまなんですが。
ちらりと薄明りの中で腕時計を確認すれば、あと少しで日付が変わろうという時間だ。
――美加ちゃん、さすがに帰ったよね?
すぐに戻るって言ってきたから、きっと心配かけちゃったな。
車も取りに行きたいし、デスクの上もあのままにしてはおけない。
どちらにしろ、一度会社に戻らなきゃ。
「あの、課長……」
「会社に戻るのは、却下」
おずおずと口を開けば、私の考えなんかお見通しというように、課長の応えはにべもない。
「でも、デスクの上も散らかしっぱなしで、図面も書きかけてそのままなんです。それに、会社まで送っていただけたら、後は自分で運転して家まで帰れますし……」
「……あのな」
はーっと長いため息を吐き、眉間に浅くシワを刻んだ課長は、淡々と言葉を続ける。
「さっき、医者の言うことを聞いてなかったのか? 『念のため、明日一日は家で安静にしていること』って、言われただろうが」
「そう、ですけど……」
――課長の口調が、今までと違う。
今までのように部下に対する一線を隔したものではなく、なんだか昔の東悟と居るような、そんな砕けた口調に鼓動が変なふうに乱れ打つ。
「車を運転してなんてのは、もってのほかだ。今日はこのまま家まで送り届けるからな」
『ん?』と、近距離で顔を覗き込まれて、思わずのけ反り足がとまる。
――か、顔が近いっ。近いってば、課長!
「わかりました、わかりましたからっ」
「んじゃ、そういうことで、レッツ・ゴー」
「はい……」
ポン、と肩を軽く叩いて促され、再び二人並んで歩き出す。
――やっぱり、そうだ。
明らかに、口調が変わった。
傷心の元カノを労わっての、期間限定?
それとも、これからずっと?
って、まさかね。
たぶん、今日だけの特別サービスだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、煌々と明かりが付けられたナース・ステーションに着き、カウンターの向こう側で何やら作業をしている看護師さんに、課長が声をかけた。
「すみません、救急でお世話になった高橋ですが――」
「はい、水町先生から伺っています。このまま帰っていただいて大丈夫ですよ、谷田部さん」
――あれ?
高橋ですって声をかけて谷田部さんって答えが返ってくるってことは、さっきの美人先生だけじゃなく、看護師さんも顔見知り?
「ありがとうございます、主任。いつもお世話になりっぱなしで、すみません。今度、美味しいスイーツでも差し入れますから」
「お気になさらずに。私たちは、仕事ですから」
ニコニコと、愛想の良い笑顔で応対してくれる看護師さんが続いて発した言葉に、私は一瞬にして凍り付いた。
「あ、そうそう。水町先生から伝言です。お母様の今後の治療方針についてご相談があるので、都合の良い日においで下さいとのことです」
『お母様の治療方針』
――お母様って、まさか。
まさか『榊』の、九年前に交通事故に遭って植物状態だという、課長の実のお母さん――のこと?
ここに、この病院に入院している……の?
呆然とすぐ隣にいる課長の横顔を仰ぎ見れば、私の視線に気付いた課長は、いたずらを見つかってしまった子供のような表情で力なく口の端を上げた。
ここが、課長のお母さんが入院している病院――。
そうだった。
今日は、課長が定時退社する率が高い木曜日。
美加ちゃんが、『婚約者候補嬢と毎週デートの日疑惑』をかけていたけど実際は違った。
つい数時間前に、私を人生最大のピンチに追い込んだアイツ、憎っくき蛇親父、谷田部凌が喉の奥であざけるように笑いながら言っていた。
「白馬の王子様は、今日は、眠り姫になった母親の見舞いの日でね。大事なシンデレラの窮状に気付くのが、少しばかり遅かったようだな」と。
課長は、お母さんのお見舞い中に私の窮状を知り、助けに来てくれた。
そして、意識を失った私を、知り合いの女医さんが居るこの病院へ連れてきてくれたんだ。
植物状態のお母さんと課長との、水入らずの時間。
それが、課長にとってどれほど大切な時間なのか、私にだって、田舎に母親が居るから少しくらいは想像がつく。
その掛け替えのない時間を邪魔してしまった自分が、情けない。
「今後の治療方針、ですか……」
浮かない様子の課長は、看護師さんの言葉を口の中で反芻した後、表情を切り替える。
浮かべた微笑みは、よく見慣れた鉄壁の営業スマイルだ。
「分かりました。相談日は、明日にでも改めて電話で予約を入れます」
「そうしていただいたほうが、間違いないですね」
「はい、そうします。それと……」
にこやかなでも事務的な会話の後に、課長は、遠慮がちに声のトーンを少し落とした。
「実は、母の病室に荷物を置いたままなので取りに寄りたいんですが、かまいませんか?」
――え?
お母さんの病室に、寄る?
「ああ。かまいませんよ。顔を出してあげたら、お母様もきっと喜ばれるでしょう」
訳知り顔の看護師さんは、ニコニコと満面の笑顔を私に向ける。
――美人な女医さんと言い看護師さんと言い、なんだか変な誤解を受けている気がするんですけど、気のせいですか?
『おだいじにね』と、看護師さんの笑顔に見送られナース・ステーションを後にした私は、課長の半歩後を複雑な気持ちで歩いていた。
『少し、寄り道な』、そういって課長が向かう先は、二つ上のフロアにあるというお母さんの病室だ。
こんな事件が起こらなければ、語られることはなかったはずの別れの理由。
課長は、課長自身の言葉でお母さんのことも含めて、過去のことを全部話してくれた。
私が想像さえできなかった、壮絶な過去を語る。
たぶんそれは、塞ぎきらない傷口をえぐるような痛みを伴った行為だったに違いない。
それに、過去は過去のままでは終わっていない。
こうして現在も、その苦しみは続いているのに。
――私が付いて行って、いいのかな?
開いてしまった傷口に、塩をぬりこむようなことにならない?
そんな疑問が、むくむくと不安を伴って膨らんでいく。
エレベーターに乗り込み上昇を始めても、私はまだためらっていた。
このまま、課長と一緒に病室に向かうことを。
私は、怖いのかもしれない。
言葉の上だけではなく、変えようがない現実を見せつけられることが、怖いのかも。
九年前の交通事故以来植物状態で眠り続けているという、課長のお母さん。
その人と対面した瞬間、いったい私は、どんなことを思うのだろう?
うまく、想像ができない。
チン、とエレベーターの到着を知らせるベルの音に、考えに沈んでいた私はハッと現実に引き戻される。
言葉もなく、ただ、半歩先を歩く課長の揺れる背中を見つめながら付いていく。
ほどなく、個室のドアの前で課長は足を止めた。
パステルブルーのスライドドアの白いネームプレートには、『榊陽子様』の文字が書かれている。
さかき ようこ。
それが、課長のお母さんの名前。
カラリとスライドアを開けた課長は、私を振り返り静かに口を開いた。
「……よかったら、会ってやってくれないか?」
口元に浮かんだのは、穏やかな、微笑。
でもその瞳はどこか寂しげで、とても不安げに見えた。
いつも自信満々で大人で、隙の無い課長のこんな気弱そうな表情は今まで見たことがない。
そんな表情を目の当りにしていたら、胸の奥にズキンと言いようのない痛みが走った。
――私は、バカだ。
何を、怖がっていたんだろう。
自分の最大のウィークポイントをさらけ出そうとしているのは、課長だ。
課長の方が、きっと私の何倍も怖いはずなのに。
私は、さっきまで病室に入るのをためらっていた自分を恥じた。
そして、せいいっぱいの笑顔を浮かべ、「失礼します」と病室の入り口でペコリと頭を下げ、一歩、足を踏み入れた。
明かりの落とされた薄暗い室内に、低い機械音が間断なく響いている。
十二畳ほどの部屋のの中央、白いカーテンが引かれた大きな窓を背にして、ベットが一台設置されていた。
枕元の左側には、生命維持装置らしき医療機器が物々しく並べられている。
慣れた様子で枕元の右側、ソファーセットの置かれた方へ足を進めた課長は、枕元のヘッド・ライトのスイッチを入れた。
ぼんやりとした明かりが、ベットに横たわる人物の姿を薄闇にくっきりと浮かび上がらせる。
薄明りのせいだけではないだろう、青いほどの白皙の肌には、生気というものがまったく感じられない。
骨格が浮き出た、細すぎる顔の輪郭。
硬く閉じられた、落ちくぼんだ目蓋。
人工呼吸器を取り付けられた、その人は、まるで野に咲く花のように、ひっそりと眠っていた。
あまりの儚さに、その痛々しさに、なんと言っていいのか分からない。
九年間。
けっして短くはないその時間を、課長は、どんな気持ちで見守り続けてきたんだろう。
目を覚まさない母を。
たぶん、刻々と、痩せ衰えていくその姿を。
――痛い。
胸の奥が、鷲づかみにされたように、痛い。
目頭が一気に熱くなり、こみ上げてくるものを必死で押しとどめる。
――私が、泣いてどうするんだ。
その資格があるのは、課長だけだ。
ギュッと両手を握りこみ、静かに眠るその人に、心を込めて頭を下げる。
「はじめまして、高橋梓です」
震えそうになる声をどうにか安定させて、言葉を紡ぐ。
「課長には、――東悟さんには、会社で、とてもお世話になっていま……すっ」
感情のたかぶりと同時に、ポロリと一筋、熱いものが頬を滑り落ちてしまい、慌てて指先で拭った。
――この、この、涙腺っ。
今日は、仕事、サボりまくりじゃないかっ。
しっかりしろぉーーーっ!
心の中で叫んでみても、崩壊した涙腺に機能回復の兆しはなく。
これ以上こぼすまいと思えば思うほど、涙はぽろぽろと止めどなくあふれ出す。
涙が出ればおのずと鼻水も出てくるわけで、ずずっ、ずずずずっと、人工呼吸器の単調な音に混じる、鼻をすすりあげるひょうきんな音がとても間抜けに思えて、哀しいやら情けないやら。
「っ……」
今更ながらハンカチを取り出そうと、涙ダダ漏れ状態でハンドバックの中をゴソゴソとまさぐっていたら、「はいよ」と、課長が、テーブルの上に置いてあったボックス・ティッシュを手渡してくれた。
「ありがと……ざいま……」
ありがたく受け取り、涙と鼻水を拭った。
さすがに、この状況で、鼻をチーンとかむだけの傍若無人さを、持ち合わせてはいない。
「……なんか、すみません。今日は私の涙腺、故障しちゃってるみたいで、気にしないでください……」
あはははと、笑顔を浮かべようとするけど、なかなかうまくいかない。
「俺の方こそ、ごめん……」
囁くようにいって、課長はまだ濡れている私の頬を両手で包み込み、顔を上向かせる。
まっすぐ注がれる眼差しはとても優しくて、胸の奥がざわざわと波立っていく。
「たぶん、泣かせてしまうだろうって、分かってた」
親指の腹で涙の伝った後をそっとなぞりながら、課長は優しい囁きを落とす。
「でも、どうしても会わせたかった……」
――大切な人に会わせたかった、と。
そんなふうに思ってもらえるなら、こんなに嬉しいことはない。
素直に、そう思う。
「私で良かったら、いつでも会いに来ますから。あ、でも、あまり騒がしいのも、ダメですよね?」
頬が、熱い。
大きな手のひらで、すっぽり包み込まれている両頬に帯びる熱に耐え切れずに、思わず身を引こうとするけど、どうにも動きが取れない。
そんな私の内心を知ってか知らずか、課長の囁きは微妙に近くなる。
「頻繁に話しかけたりして刺激を与えるのは、意識回復に有効な方法らしい。本の音読とか好きだった歌を聞かせるとか、色々試してはいるんだ」
「そう……なんですか」
意識回復に有効な方法はよく理解したけど、分からないのはこの状況だ。
両頬を両手で掴まれて上向かされて、至近距離で視線が外せない。
更に顔が近づき、ピキリと全身の動きが止まる。