【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



――ぜったい、飲んだらだめだ。

 飲み込むまいと必死に喉の奥をしめるけれど、更に流し込まれる大量のワインにむせた拍子に食道へゴロリと流れ落ちてしまった。

「な、何をっ……」

 ゲホゲホと激しくせき込み、言葉が続かない。

「何、私が使っている、ただの睡眠導入剤だ。少しばかり、大人しくしてもらうだけだ。効き初めに多少酩酊(めいてい)状態になるが、1、2時間もすれば元に戻るから、心配することはない」

――睡眠導入剤!?

 酩酊って、酔っ払い状態ってこと?

 なんでそんなモノを、胸ポケットに常備!?

 ってか、自分の薬を他人に飲ませるな、変態っ!

「放し……て……?」

――な……に、これ?

 いくらなんでも、今飲みこんだばかりの薬がもう効いてくるなんてありえない。

 でも、手足に走るのは、まぎれもなく違和感。

 それは、しびれたような、少し感覚が鈍くなったような不快感だ。

 例えるなら、眠りに落ちる間際の倦怠感に似ている。

 刻一刻と強くなっていくその感覚とともに、心が絶望の色に染まっていく。

「この薬に使っているカプセルは、谷田部製薬で開発中の新製法でね。唾液で溶けずに胃液で瞬時に溶解する。だから、飲んですぐに薬効が現れる、優れものなんだ」

 耳元に落とされる声が、遠く近くにこだまする。

 立っていられずに、膝がガクリと下に落ちてしまう。




「……と、もう効いてきたのか。空きっ腹にワインの相乗効果か。あまり効きすぎると、つまらないんだが。仕方がないな」

 私を抱きかかえながら、蛇が、勝ち誇ったようにほくそ笑んでいる。

 押し退けようとする両腕に、力が入らない。

――ああ、ダメだ。これ以上、抗えない。

 震えるまぶたが静かに下りていく、まさに、その時だった。

――ブルル、ブルルと、低いスマートフォンの電話の着信を知らせる振動音が、どこかで聞こえた。

 否、振動を感じた。

 ベストのポケットに入れてある、スマートフォンに着信している。

――課……長?

 眠りに引きずりこまれる寸前の思考の片隅で、その相手が課長だと確信する。

――でなきゃ。

 でて、助けを求めなきゃ……。

 最後の気力を振りしぼってそう思うけど、悲しいかな、しびれた腕がうまく上がらない。

 代わりに伸びてきた武骨な手が、ベストの中のスマートフォンを取り出した。

「……ふん。あいつか」

 プチリと、受信ボタンを押して、最後の頼みの綱を取り上げた敵は、上機嫌で会話を始めた。

「何の用だ? あいにく、彼女は取り込み中で出られないから、私が用件を聞こうか?」

「う……」

 ダメだ。

 声を上げようとするけど、音声にならない。





「人聞きの悪いことを言うな。別に、無理やり連れ込んだわけでは無いさ」

 尚も続く楽しげな会話を聞きながら、もう溜息しか出てこない。

「迎えに来る? ああ、かまわんよ」

――課長……。

 電話の向こう側には、課長がいるのに。

 私には、もう、声すら上げられない。

「そこからは、どんなに急いでも30分はかかるだろう? せいぜい事故を起こさないように、気を付けて来るんだな。父親の二の舞はしたくないだろう。じゃあな」

――プチリ。

 無情にも、最後の希望の灯は、受信終了を告げる音とともに消えてしまった。

「白馬の王子様は、今日は、眠り姫になった母親の見舞いの日でね。大事なシンデレラの窮状に気付くのが、少しばかり遅かったようだな」

 喉の奥であざけるように笑いながら、男は、私を抱き上げたままゆっくりと部屋の奥へと足を進める。課長の部屋と同じ作りなら、おそらく、そこにあるのはベット・ルーム。

 万事、休す――

 万策、尽きてしまった。

 身体が思うように動かないのでは、逃げようがない。

 ああ、嫌だなぁ。

 こんな、勘違い野郎の蛇親父に好き勝手されてしまうなんて。

 いくら身から出たサビとは言え、我ながら哀しすぎる。

 それにたぶん、きっと、課長にいっぱい迷惑をかけてしまう。

 谷田部課長、ううん、東悟。

……ごめん。

 おバカな元カノで、ほんっとうに、ごめん……ね。

『高橋さんっ!』

――それは、願望が生んだ空耳だったのか。

 意識が闇に落ちる寸前、私を呼んだのは、聞き覚えのある声。

 ここに、いるはずのない人の声だった――。




『高橋さん、大丈夫ですか!?』

 再び耳朶を叩いた救いの声に、私の意識は闇の淵から現実へと強引に引き上げられる。

――この、声は……。

 聞くものを安心させるような、温かみを持った、この声音は――。

 名前を呼ばれただけなら、願望が生んだ空耳かもしれないと思っただろう。

 でも、空耳ではありえない。

 その証拠に、私を抱えベット・ルームへと向かっていた男の足の動きが、ぴたりと止まった。

「――貴様、誰だ?」

 明らかに動揺の色が隠せない様子の男の低い声が、広い空間に虚ろに響く。

 この部屋に私たち以外の人間がいないことは、この男自身が一番よく知っているはず。

 いないはずの第三者の声が室内で上がったのだから、厚顔無恥な蛇親父も、さすがに動揺しているのだろう。

 男は私をその場で床に降ろすと、声の主の姿を求めて周囲をぐるりと見渡し始めた。

 飲まされた薬の効果でまだ身体に力が入らない私は、冷たい大理石調のオフ・ホワイトの床に横たわったまま、その様子を見ていることしかできない。

『谷田部凌。あなたの罪状は明らかです。それ以上、罪の上塗りは止めなさい』

 動きながら声を発しているように、幾分語尾が乱れてノイズが混じる。

 肉声と言うよりは、何か機械を介して流れる、そう、まるでラジオの音源のようだ。

「ここか!?」


 

 声の出所を辿っていた男が手に取ったのは、床に転がっていた、私のハンドバック。

 乱暴に金具を外して、中身を床にぶちまける。

 すかさず定期券サイズの黒い箱を手に取り指先でクルクルと回して、茫然としたようすで呟きを落とした。

「盗聴器……か?」

――盗聴器……?

 どうして、そんなものが私のハンドバックに?

 盗聴器なんて物騒なモノを持ち歩く危ない趣味は持ち合わせていない。

 考えられるのは、私の知らないうちに、『誰か』がハンドバックに入れた可能性。

 いったい、誰が?

 何か、見落としている気がする。

 でも、ノロノロと亀並にしか回らない思考では、答えにたどりつかない。

『ご名答。最新式の送受信機能付き高性能盗聴器ですよ』

 出来の悪い生徒を褒めたたえる教師のように、喜色満面な声が男の手にする黒い箱から流れ出す。

『ちなみに、あなた方の会話はすべて録音済みですので、あしからず』

 悪びれない、ひょうひょうとした言い回しが癇に障ったのか、男は『チッ』と低い舌打ちを鳴らして唸るように声を絞り出す。

「……貴様、何者だ?」

『そんなの、決まっているでしょう――』

 ガチャリと、ドアを開けて部屋に入って来たその人は、どこかチェシャ猫めいた笑みを浮かべて、愉快気に言い放った。

「正義の味方ですよ」




 床に横たわったままの私にチラリと、『大丈夫だよ』と言うみたいに優しげな視線を投げて、その人は男には目もくれずに、まっすぐ私の元へ歩み寄る。

「何を、ふざけたことを――」

 阻もうと身を乗り出した男をひらりとかわしざま、右手で男の右手首を掴んで進行方向に引き倒し、すかさず両足を払いのける。

 一連の動きに無駄はなく、流れるように滑らかで美しささえ感じてしまう。

 相手の動きや力を利用して相手を制する、合気道――と言われる類の武術かもしれない。

「うっ……」

 一瞬にして、その身を床に沈められてしまった男は動くこともできずに、うつぶせのまま苦悶のうめき声を上げている。

「警察が来るまで、そのまま少し大人しくしていてくださいよ」

 自称正義の味方さんは、うつぶせで唸っている男の手を腰の後ろでクロスさせ、どこからともなく取り出した細身の縄で器用に縛りあげた。

 痛みの余波に顔をしかめながらも膝立ちになった男の目は、憤怒のあまり血走っている。

「警察だと? 何の容疑だ? 言っておくが、この女は自分からここにきたのであって、私が強要したのではないからな」

「まあ、その辺は、録音したものを分析してもらえば、はっきりするでしょう」

 向けられる、射抜くような鋭い視線にも動じる様子はみじんもなく、正義の味方さんは、苦笑を浮かべて肩をすくめた。

 そのまま男には目もくれずに、床に横たわる私の元へ足早に歩み寄ってくる。

 

 私をそっと抱き起した彼は、申し訳なさそうに口を開く。

「すみません。部屋のキーロックを外すのに、少々時間がかかってしまいました。だいぶ、怖い思いをさせてしまいましたね」

「風間……さん……」

 私は、つい一カ月半前に、この部屋のお向いさん、谷田部課長宅で知り合ったばかりの、課長の幼なじみの探偵・風間太郎さんの名前を掠れる声で呟いた。

 声が震えてしまったのは、抜けきらない睡眠なんたら薬の影響と、危機を脱したことへの安堵感から。

――ああ、助かった……。

 最悪の事態も覚悟した。

 自分の浅はかさが招いた結果だと、もう谷田部課長に顔向けできないと、そう、あきらめかけた。

 でも、助かった。

「あり……がと、ござ……ます」

「礼は、僕に君のボディーガードを依頼してきた、東悟くんに、言ってあげて下さい」

「課長……が……私の?」

「ええ」

――そうか、以前、谷田部課長が風間さんに依頼していた『新規でガード』というのは、私のボディーガードのことだったんだ……。

 感謝の気持ちと申し訳ない気持ち、そして、すっかり行動を読まれている気恥ずかしさが入り交じる。

 一言でいえば、かなり、心の中は複雑だ。

「盗聴したものに何の証拠能力もない。証拠もないのに逮捕などできるものか。反対に、住居不法侵入と暴行罪で訴えてやろうか?」

 すぐ近くで、膝立ちになったままの蛇親父が語り出した。

 縛り上げられているというのに、ニヤリと浮かべた皮肉交じりの笑みに、余裕が戻ってきたのが垣間見える。

 海千山千。

 これくらいのことで、ダメージを受ける蛇親父ではなさそうだ。

 でも、風間さんの方も負けてはいない。




「おや。いろいろと、法律には詳しいようですね」

「それくらい、常識だろう」

「非常識な人が語る常識というのも、なかなか笑えるものがありますね」 

「興信所だか何だかしらないが、警察が来て逮捕されるのは、むしろ貴様の方だろう」

「それは心配しなくても、もうすぐ、わかりますよ」

 高圧的な男の脅しとも取れる言葉にも臆する様子はなく、鼻先で笑ってさらりとかわし、
「あ、一応、ご忠告。ちなみに今も録音継続中ですので、少し口を慎んだ方が身のためですよ」と、倍の反撃でその口を封じてしまった。

 風間さんは私をソファーに横たえると、真剣な面持ちで手首の脈を取って、にこりと人好きのする柔和そうな笑顔を向けてくれる。

「すぐに東悟くんも来ますから。そうしたら病院で診てもらいましょうね」

「……」

 まだうまく声が出ない私は、答えの代わりに小さくうなずき返す。

――なんだろう、この絶対的な安心感。

 上背はあるけれど、けっして筋骨隆々とか言うわけではなく、どちらかというと痩せぎすでヒョロリとした体形をしていて、特徴と言えるのは、ひょうきんな丸メガネの奥のつぶらな瞳くらいで。

 漂うのは、のほほんとした優しい大型の草食獣、例えばキリンのような、そんなイメージ。

 その風貌も、どこにでもいるごく普通のサラリーマンという感じなのに。

 この人にまかせておけば大丈夫。

 そう思わせる、何かがある。

 もしかしたらこの人は、私が思っているよりも凄い人なのかもしれない。




――ああ、なんだか疲れたなぁ……。

 身体の内側にわだかまっていた恐怖の残滓とともに、ふうっと、大きく息を吐きだす。

――谷田部課長、来てくれるんだ。

 きっと、怒るだろうなぁ……。

……ちょっと、怖いかも。

 あ、美加ちゃん、もしかしたら、会社で待っててくれているかも。

 ああ、もうだめ。

 眠い……。

 取り留めもない思考が、ゆるゆると浮かんでは消える。安心したせいか、意識がすうっと眠りの底に引き込まれていく。

 恐怖心はない。

 だだ、心地よい眠りに落ちる寸前のような倦怠感に包まれながら、夢と現実の狭間を、うつらうつらしていたのだと思う。

 私は風間さんと蛇親父の会話の様子を、ぼんやりとした意識の下でみつめていた。

「どうせ、東悟あたりに雇われたのだろうが、とんだ勇み足だったようだな」

 本気でそう思っているのだろう、蛇親父の声には余裕の響きが聞いて取れる。

 風間さんは、脈をとっていた私の手首をそっと放して立ち上がった。

 ヒョロリとした痩躯は、その存在感に反してやや頼りなげだ。

 彼は、少し困ったような笑みを浮かべると、ポリポリと右手の人差し指でこめかみを掻きながら静かに口を開いた。