【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



 久々に一人きりではなく、誰かと同じテーブルを囲んで一緒に食べた『お家ごはん』は、とても美味しかった。

 料理の腕以前に、料理は一人で食べるよりも誰かと一緒に食べた方が断然美味しいのだと言うことを、しみじみと再認識したその後。

 結局、美加ちゃんも美加ちゃんに強引に飲まされた課長も、もともと飲むつもりだった私も、三人で仲良く酔っ払い。美加ちゃん主導の『酒盛りパーティ』は宴もたけなわとなっていた。

 時計の針は、もう午前二時。

 ちなみに今日は木曜日。

 いや、日付けが変わったからもう金曜日だけど、言うまでもなく明日も仕事があるから、遅くとも七時半には家を出ないと間に合わない。

 それを考えたら、もういい加減に寝ないといけないのだけど、如何せん、主役の美加ちゃんが元気ハツラツで寝る気配がない。

 それどころか、やたらと課長に私の事を売り込む始末だ。

「先輩って、お料理上手ですよねー。もうお嫁さんに欲しいです、あたし! ねぇ、ねぇ課長もそう思いませんかぁ?」

「そうだな」

 よせばいのに、課長もニコニコ笑顔で調子を合わせるものだから、美加ちゃん節はますます絶好調で。

「ね、ね、ね。そうでしょう? 課長もそう思うでしょう? だからいっそ、先輩をお嫁さんに貰っちゃいましょうよぉ!」

 お酒が入っているからか、言っていることがストレートになってきた美加ちゃんを課長から引き離すべく、私は、ほろ酔い加減で重くなった腰を『よっこらしょ』と気合いを入れて上げた。




「美加ちゃん、もうそろそろ寝ようか? 明日も会社があるし、美加ちゃんも少しは寝ないとケガに触るよ?」

「えー、まだ眠くないですー」

「でも、寝るの!」

「ぶうぶうー」

 豚の鳴きまねをしながら口を尖らせる美加ちゃんに手を貸して立たせると、隣の寝室へと連れて行く。

 さすがに酔いが回ったのか、千鳥足の美加ちゃんをどうにかベッドに座らせ、布団をめくってトントンと叩く。

「ほら、ここね。美加ちゃんはベッドを使って。私は布団を敷いて、隣の床に寝るから」

「はぁい。わっかりましたぁ……」

 右腕を庇いながらコテンと横になった瞬間、さすがに眠気が襲ってきたのか、すぐにスースーと気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。

 お酒でほんのり上気したその顔を見つめながら、本当に無事で良かったと心底思った。

「おやすみ、美加ちゃん」

 そっと寝顔に声をかけて明かりを消し、寝室から隣のDKに足を向ける。

 さて、残るはもう一人。

 鼓動が早く感じるのは、きっと回り始めたお酒のせい。

 今日は美加ちゃんもいるし、私がドキドキするようなことは何も起こらない。

 そう自分に言い聞かせながら、課長の待つDKへと足を踏み入れた。




 DKでは、すっかりくつろぎモードの谷田部課長が一人、コタツテーブルの上に広がったおつまみ群の中から柿ピーを拾い出し、ポリポリとかじっていた。

 そういえば付き合っていた当初も、ビールのツマミと言えば柿ピーとイカの燻製が定番だった。

 飲めない私が好物のピーナッツを選り分けて、いざ『さあ食べよう』とルンルン気分で口に運ぼうとした所をすかさず横取りされ、二人でピーナッツ争奪戦を繰り広げたこともあったっけ。

 他愛無いことでケンカして、じゃれ合って。

 その一つ一つが、煌いていた、あの頃。

 ふっと、記憶の中と目の前の情景が重なり、胸の奥に甘い痛みを伴った想いの欠片が去来する。

 ――だめだめ!

 しっかりしなよ、梓。

 気持ちまで純粋だったあの頃にシンクロしそうになり、自分を戒めるようにぎゅっと目を瞑った。

 それにしても。

 いつもなら自分一人しかいない空間に、他人が居ると言うのは、とても不思議な気分だ。

 それも、心密かに思い続けている相手が自分の生活エリアに当たり前のように存在しているその光景は、不思議と言うか、実にこそばゆい。





「美加ちゃん、やっと寝ましたよ」

 アルコールのせいばかりではなく、自然と緩んでしまう頬の筋肉を引き締めつつ、ポリポリとおつまみを口に運ぶ課長に声をかける。

「そうか……。少しでも、気が晴れたなら、いいんだが」

 どこか心配げな柔らかな笑みが、その顔に浮かぶ。

 常識人の課長らしからぬ深夜の部下宅来訪は、もう一人の傷心の部下を心配しての事だったらしい。

「美加ちゃんなら、大丈夫ですよ、きっと。彼女は、ああ見えても芯の強いしっかりした女性ですから。私も、出来る限りフォローしますから」

 小型の愛玩犬を思わせる愛らしい華奢な外見からは想像できないほど、彼女は仕事をバリバリこなすキャリアウーマンなのだ。

 今回は、その熱心さが裏目に出てしまったけれど、これに懲りて仕事をおろそかにするような無責任なことを、彼女はしないだろう。

 でもだからこそ、頑張り過ぎてしまわないように、気を配るのは先輩である私の役目だと思う。

「ああ。よろしく頼むよ。男の俺では、踏み込めないこともあるだろうから」

「はい。任せて下さい」

 美加ちゃんは、後輩である前に大切な友人だ。

 格好つけて言うなら、『親友』。

 課長に頼まれるまでもなく、元の元気な美加ちゃんに戻ってくれるなら、彼女のためになるなら、出来る限りのことをしよう。

 心の内で、私は、改めて強くそう誓った。




「もう、こんな時間ですね」

 壁掛け時計の針は二時半を回っている。いくらなんでも、寝ないと明日に差し障ってしまう。

 美加ちゃんは休ませるにしても、課長と私は、そうはいかない。

『二人仲良く寝不足顔で遅刻』なんてことになったら、噂好きな女子社員の間で、どんな尾ひれが付いて話が広まるか、分かったものじゃない。

 可愛いメダカ並の尾ひれが、瞬く間にシーラカンス並に進化する様が、ありありと目に浮かぶ。その渦中に立たされる課長と自分の姿を、チラリと想像しただけでも……。

――笑えない。

 かなり高確率で当たるはずの予想なだけに、笑えない。

 そんな困ったことにならないためにも、ここは、さっさと寝るに限る。

「テーブルの脇に布団を敷きますから、課長は、そこで寝てもらえますか?」

「――ああ。手間をかけるな」

 もしかしたら、代行で帰ると言い出すかと心配したけど、さすがに課長もお疲れモードなのだろう。

 素直に頷いてくれたので、ほっとする。

 DKで寝かせるのは気が引けるけど、他に布団を敷ける場所がないからこの際我慢していただこう。

 客用の布団は母が来た時のためにと一組しか用意していないから、とにかく課長にはそれを使って貰って、私は適当にタオルケットでも掛けて、美香ちゃんの隣の床でごろ寝でもしよう。

 そう算段を付けて布団を敷き終わった所で、「もう少し、飲まないか?」と、課長が誘いをかけてきた。




 私もさすがに疲れていたし、なにより美加ちゃんが抜けたこのシチュエーションで二人きりで酒盛りするのは、ちょっと気まずい。

 と言うか、別の意味でもまずい気がする。

 シーラカンスの尾ひれが、虚像ではなく実体化しそうでますます笑えない。

 こ、ここは、きっぱりお断りしよう。

 と、思いつつも、口から出たのは、まったくきっぱりしていない言葉で、

「でも、課長、明日も早いので……」

 と、語尾を濁していたら、 

「少しだけ。ほら、もうこれでビールも打ち止めだから」

 なんて、テーブルに残されている最後の未開封缶ビールを掲げながらニッコリと微笑まれて、根性なしにも思わず向かい側の自分の席に、ちょこんと座ってしまった。

 私は、この笑顔攻撃には絶対勝てない気がする。

 もっとも、笑顔なしで言われても、勝てないだろうけど。

 思えば、初めて出会ったときから、そうだったなぁ。

 あの日。

 大学で水溜りに足を取られてすっ転んで、半べそをかいていた私に声を掛けてきた、奇特な先輩。

 少し怖いと感じていた、その鋭い雰囲気が一転し、浮かんだこの上なく優しい笑顔。

 たぶん、私はあの瞬間から、この人に囚われている。

「はい、どうぞ」

「あ、はい、いただきます」

 コップに満たされた金色の液体を、コクリと一口口に含むと、独特のほろ苦い味わいが舌先から喉に流れ込み、身体全体が清涼感に満たされる。

 うん。美味しいや。

 やっぱり、夏の夜は、キンと冷えたビールにかぎるね。

 ちょっと、オヤジくさい感慨にふけっていたら、課長が愉快そうにクスクスと笑い出した。




「なんですか、その笑いは?」

 少しムッとした表情を作り、ボソリと低い呟きを落とす。

 本当に怒っているわけじゃないけど、お酒が入っているせいか妙に絡みたい気分だ。

「いや、別に」

 そう言って更に深まる課長の笑顔に内心ドキドキしつつも、ムッとした表情を作ってみせる。

 顔が赤いのはお酒のせいにできるけど、そうでもしていないとこのドキドキを悟られそうで怖い。

「課長」

「うん?」

「前から、言おう言おうと思っていたんですけど」

「うん」

「私を見て、意味もなくニヤケるの、やめてください」

 わざとぶっきらぼうに語尾を強めて言うと、課長は『うん?』と若干考えを巡らせるように小首を傾げた。

「……ニヤケてるか、俺?」

「すっごく、ニヤケてます」

「ふうん」

 ふうん、って、あなた。

 まさに今、あなたが浮かべている、『その笑顔』のことを指して言っているんですけど?

 普段はぜったい崩さない、鉄壁の営業スマイル。

 本心が見えない作り物の笑顔とは違う、ふわりとした柔らかい笑顔。

 不意に、自分に向けられているその笑顔に気付くたびに、心の奥に想いの欠片が降り積もっていく。

 その重みに耐え切れずに、いつか心の底が抜けたらどうしてくれるのよ、この上司さま。 

「何かあるんなら、ちゃんと言ってくださいね。ものすっごく、そう言うの気になりますから!」

「了解、了解」

 これっぽっちも了承も理解もしていないよう笑顔で返されて、本気で肩の力が抜け落ちる。

 笑い上戸だったっけ、この人?

 のろりのろりと細い記憶の糸を辿ってみても、倦怠感と疲労感のダブル攻撃に、更にアルコールの援護射撃が加わって思考回路も切断寸前。

 上手く考えが纏まらないところに猛烈な睡魔が襲ってきた。
 
 さすがの恋心も、睡眠欲と言う本能の前には眠りに落ちるらしい。




 このままここで撃沈しないうちに、自分の陣地に撤退した方が無難かも。

 なけなしの理性の働きでそう結論に達した私は、二センチばかりコップの底に残っていたビールを、ごくごくと飲み干した。

 これで、打ち止め。

 タイムオーバー。

「じゃあ、もうそろそろ……」

『寝ましょうか』と重い腰を座布団から引き剥がし、立ち上がろうとした次の瞬間だった。身体が左側に、谷田部課長が座っている方に大きく傾いだ。

「ふひゃっ!?」

 意味不明の情けない小さな悲鳴が口から飛び出すけど、何の助けにもならない。

 傾いだ世界はグルリと、半回転。

 重力に引かれた身体は、焦る気持ちを嘲笑うかのように前のめりに垂直落下していく。

 このまま行けば、めでたく床に顔面殴打は免れない。

 メガネを掛けたまま物にぶつかるとかなり痛い。それですめば良いけど、悪くすればフレーム湾曲・レンズ粉砕。

 更に悪くすれば流血モノ――の、はずなのに。

 腹這いに倒れた身体に襲ってきたのはフローリングの床にぶつかる硬質の衝撃や痛みではなく、ほど良いクッション緒の効いた妙に懐かしい感触――。

 フワリ、と鼻腔に届くのは、柑橘系のコロンと微かなタバコの匂い。

 見開いた目の前いっぱいに広がるのは、白いワイシャツの生地。 

 背中にぎゅっと回された、力強い腕。

 酔いが回って、ふらついたんじゃない。

 強い力で、左手を引っ張られて、倒れこんだ。

 誰が、引っ張った?

 何処に、倒れこんだ?

 って、二人しか居ない空間で、答えなんか明白だ。




「かっ……!」

 課長!

 私の左手を引っ張り自分の方に引き倒し、身体ごとがっちりその懐に抱え込み寝転んでいる犯人様の名を呼ぼうとしたとたん。

 その口は、体を更に引き寄せられたせいで、『パフン』とワイシャツ生地に塞がれてしまった。

 再び嗅覚を直撃する、コロンとタバコの匂い。

 そして、薄布越しに伝わるやけに熱く感じる体温。

 まるで全身が心臓化したみたいに、鼓動が加速して大きくなっていく。

 な、な、な、なにっ!?

 何が、どうしたのっ!?

 身体は硬直状態で、一気に眠気の吹っ飛んだ脳細胞はパニック寸前。

 疑問符が、徒党を組んで怒涛のように駆け抜けていく。

「課長っ、どう――」

「すまない……」

 再び口に出しかけた言葉は、今度は柔らかい布地ではなく低音の声によって遮られた。

「もう少しだけ。もう少しだけでいいから、こうしていてくれないか?」

 微かに震えを帯びたその声音に、見え隠れするのは、大きな感情のうねり。

 ただの酒の勢いで走った行動ではない気がして、暴走していた鼓動が、熱が引くみたいに『すうっ』と静まっていく。

 もしかして、プライベートで、何かあったのだろうか?

 普段の課長からは考えられない、こんな行動に走らせてしまうほどの、私の知らない何かが。

 知りたい、と、切実に思った。

 好奇心からではなく、たとえばそれが辛いことなら、分かち合いたい。

 力にはなれなくても、話を聞くだけしかできなくても、それでも少しでもこの人の役に立ちたいと、そう思った。

 でも、その願いを口にする勇気はなく、私は何も言葉を発せずに、ただそのままじっとしていることしかできない。