「酷な言いようだけど、俺も高橋さんも君の手助けはできても、その立場を変わってあげることはできないんだ。だから君自身に決めて欲しい。君が決めたことならば、俺は工務課の課長として出来る限り全面的にバックアップをする」
終始一貫。最初と変わらぬ穏やかなトーンの声が、閑散とした静かな駐車場の薄闇の中に、溶けるように吸い込まれていく。
落ちる沈黙の深さは、まるで、美加ちゃんの心の痛みの深さのように思えた。
答えを急かすことなくそのままの姿勢で待っている課長の顔を、美加ちゃんは真っ直ぐに見据えて、彼女の出した答えを告げた。
「警察には届けません。でも……許すこともできませんっ」
つうっと、一筋の涙が、美加ちゃんの滑らかな白い頬を伝って零れ落ちる。その光景を、私は言葉もなく見つめていた。
分かっている。
課長の言うことは、正論だ。
たぶん、美加ちゃんにとって、美加ちゃんの今後にとって、一番ダメージの少ない方法を提示してくれたのだろう。
でも。
頭で理解できることと、心で納得できることの間には、大きな隔たりがある――。
「君の気持ちは、良く分かった。悪いようにはしないから後の事は任せて、君はケガを治す事だけを考えなさい。いいね?」
ポロポロと再び涙腺が崩壊してしまった美加ちゃんの顔を優しい眼差しで見つめながら課長はそう言うと、足早に自分の車に乗り込み、大木鉄工へと向かって行った。
「課長、一人で、大丈夫……でしょうか?」
スン――、っと、鼻をすすりながら美加ちゃんは、課長の車が走り去った方角へ、心配そうな眼差しを向けた。
一度は、美加ちゃんに暴力を振るった人物の元へ行く。
私だって、不安が無いわけじゃない。
でも、あの人なら、きっと。
「――大丈夫よ。心配ないわ」
私は、自分に言い聞かせるように、はっきりとした口調で言った。
「はい……」
頷きながらも、尚も不安が拭えないように目を眇める美加ちゃんに、ニコリと笑みを向ける。
課長の言う通り、今は、美加ちゃんのケガを治すことが一番の優先事項だ。
他の事は、後からゆっくりと考えればいい。
課長は課長の責務を果たしに向かっているんだから、私も、自分のやるべきことをやろう。
よし!
心で自分を鼓舞し、私は、車のエンジンをスタートさせた。
「我が工務課の課長様は、鉄壁の営業スマイルと鉄の心臓を持っているから、ちょっとやそっとじゃやられたりしないわよ。さて、私たちはまず病院へGOね。じゃ美加ちゃん、シートベルトしてね」
笑いかけると、美加ちゃんは微かに口の端を上げてコクリと頷いた。
いつもの元気な笑顔からは程遠いその表情が、少しでも早く元に戻りますように。
そう願わずにはいられなかった。
改めて病院で手当てを受けた美加ちゃんの傷は、どうにか縫わずに済んでホッと一安心。
胸をなでおろして化膿止めと痛み止めの薬をもらい、美加ちゃんと二人で私のアパートに着いたのは、もう夜も更け日付が変わった深夜十二時過ぎ。
夜空からは、青白い満月が煌々とした光を投げかけていた。
「おじゃましまーす」
おずおずと、私の部屋に足を踏み入れた美加ちゃんは、サイド・ボードに飾ってある世界遺産のミニチュア模型を見つけるや、目をキラキラと輝かせて歩み寄った。
「うわぁ、これ、実は私も欲しかったんですー。でも、あたしって不器用だから絶対仕上がらないなぁって、泣く泣くあきらめたんです。さすが、先輩。うわー、この寸分の狂いもない組み立て具合。凄いなぁ」
「そんなことないわよ。私も細かい図面を書くのは得意でも、実際組み立てる方は、もう苦手。凄い不器用なのよ。それは、気の遠くなるような時間の積み重ねの賜物」
「でも、こうしてきっちり完成させちゃうんですから、やっぱり凄いです」
「そう? 素直に喜んでおくわ。ありがとう」
それはそうと。
「まずは、着替えね。うーんと……」
こういう時は、八畳と十畳の二間しかない狭い我が部屋にも、なんでもすぐ手が届く便利さがあることを再認識する。
DK内にあるクローゼットを開けて、洗濯済みのスウェットの上下を物色すると「これで良かったらどうぞ」と美加ちゃんに差し出す。
さすがに、血の飛び散ったブラウスとスカートでは、見ている方が痛々しい。
「ありがとうございます。遠慮なく、お借りします」
後は。
「お風呂は……、今日はやめた方が良いわね。それに美加ちゃん、夕飯食べてないでしょう? ありあわせのモノで悪いけど、何か作るからその間に着替えちゃって。あ、隣が寝室だから、使ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
美加ちゃんが寝室に向かうのを確認してから、キッチンの方に向かい「何を作ろうか?
今の時間帯なら、あまり胃に負担がかからないさっぱりしたものが良いよね?
「うーん」なんて、冷蔵庫を物色しながらメニューを組み立てていると、プルル、プルルと、スカートのポケットに入れてある、スマートフォンの着信音が上がって、ドキッと身を強張らせた。
でもすぐさま、課長からの電話だと勘が働き、急いで取り出し着信窓に視線を走らせる。
『谷田部課長』
表示されている名を確認して、すぐに着信ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし?」
何か悪いことでも起こってやしないだろうか?
まさか、課長までケガをさせられたりしてないよね?
色々な想像が脳内を暴走し、ドキドキと早まる鼓動を感じながら、恐る恐る返事を待った。
『ああ、高橋さん。谷田部です』
いつもと変わらない落ち着いた声音に、心底ホッと安堵する。
「課長、今どこにおられるんですか?」
『今は、会社に居るんだ。相手方には、今後二度と同じことが無いようにと厳しく言ってあるから、まずは、問題になることはないだろう。一応、社長にも電話で事情説明をしたから、後は、何も心配しないように佐藤さんに伝えて下さい』
厳しく言ったって、どんな風に言ったのだろうか?
興味がフツフツと湧いてきたけど、さすがに詳しく聞く勇気はない。
『それと……』
「はい?」
『君には、だいぶきつい事を言ってしまって、申し訳なかった』
「いいえ、あの時は私も頭に血が上ってしまって、すみませんでした。私の方は、ぜんぜん気にしていませんから、課長もお気遣いなく」
『そうか。なら、良いんだが……』
ふっと、優しい沈黙が落ちた。
電話と言う媒体を通しての、二人だけの空間。
このままこうして浸っていたい気もするけど、時間も時間だからそうもいかない。
「課長、今日は、色々とありがとうございました」
『いや、それはこちらのセリフだよ。君が居てくれたおかげで助かった。佐藤さんもだいぶ気が休まるだろう』
そうかな?
そうだと、良いけど。
『今日は君も疲れただろうから、ゆっくりと休んで……』
濁された言葉の続きを待っていたら、電話の向こう側で課長がクスリと笑う気配がした。
「課長?」
時々あるんだよね。こう言う瞬間。
笑われるようなことをした覚えはないのに、なぜかクスリと笑われる。
うーっ。気になって仕方がない。
はっきり言ってくれた方が、すっきりするのに。
でも、電話の向こうから答えは届かず。
『いや、何でもない。それじゃ、おやすみ』
惚れた欲目か、大いなる勘違いか。
いつもより優しいトーンの声が、心地好く耳に響いた。
やっぱり課長の声は電話越しだと耳元で聞こえるせいか、いつもより低く感じる。
安心できる、良い声だなぁ……。
――と、一人ささやかな幸せに浸りながら、「おやすみなさい」と返事をしようとしたその時。
「あ! 先輩、もしかして谷田部課長からですか?」
ガラリ、と引き戸を開ける音と共に美加ちゃんの声が背後から飛んできて、ビクリと体をすくませた。
み、み、見られた……?
『スマートフォンを耳に当ててうっとりしている自分の図』を思い浮かべて、たらーりたらーりと嫌な汗が背中を伝い落ちる。
「あ、うん。谷田部課長だけど、美加ちゃんも出てみる?」
あはははと、内心の動揺を引きつり笑いでごまかして問うと、美加ちゃんは「はい。かわって下さい」と微笑んだ。
「あ、課長。今、美加ちゃんとかわりますね」
電話の向こうの谷田部課長に断りを入れてスマートフォンを差し出すと、美加ちゃんは更にニッコリと笑みを深めて受け取った。
「あ、谷田部課長。今日は、本当にありがとうございました」
ああ、ちょっとは元気になったみたいで、良かった……。
ホッと胸を撫で下ろす。
「はい。もう平気です。はい、そうですか」
美加ちゃんと課長の会話を聞くともなしに聞きつつ、遅すぎる夕飯の支度をしようとエプロンを付けながらキッチンに足を向ける。
やっぱりメニューは、手早く簡単に作れて美味しい雑炊みたいなのが良いかな?
確か、冷凍したごはんと鶏肉があったから、シメジとシイタケ、後は冷凍食品のゴボウ&人参ミックスを入れて。
あ、元気が出るように、根ショウガをすって入れてみよう。仕上げは卵を落として半熟に。
うんイケそう。問題は――。
「美加ちゃん、鶏肉とキノコの雑炊にしようと思うんだけど――」
食べられる?
と、振り向きながら何気なく聞こうとして電話中だったことに気づき、ハッと口を押えた。
美加ちゃんは電話口を手で押さえて、
「はい、鶏肉もキノコ類も大好きですー。メニューは鶏肉とキノコの雑炊ですね?」と、聞き返してきた。
「あり合わせだから正式なメニュー名は無いけど、まあそんな所ね」
美加ちゃんはニッコリと頷き、再びスマートフォンを耳に当てて口を開いた。
「と言うことで、課長も、梓先輩特製の鶏肉とキノコの雑炊を食べに来てくださいね!」
――はい?
今、何を言ったんだ、この娘。
『と言うことで』、課長が、なんですって?
妙なセリフを聞いた気がして動きを止めたまま、楽しげな表情で電話を続けている美加ちゃんの顔を、まじまじと注視する。
「はい。三十分ですね」
――何が、三十分?
胸騒ぎを覚えつつノロノロと、言葉の意味に考えを巡らせた。
「あ、ついでに、せっかくだから三人で酒盛りしましょうよ。ビールとおつまみの買い出し、お願いしますね」
さ、酒盛りっ!?
どこで、誰が、酒盛りっ!?
脳内漂白モードで、酸欠の金魚よろしく、口をパクパクと開け閉めする私のことなどお構いなしに、事は着々と進んでいく。
「はい、お待ちしてまーす」
プチリ。
美加ちゃんは通話ボタンを切ると、にこやかな笑顔で「はい」とスマートフォンを私に差し出した。
「と言うことで、課長の分も雑炊、お願いしますね先輩!」
「……」
私は無言でそれを受け取り、くるりと踵を返してキッチンに向かうと鍋に水を張り火にかけ、材料を切り分けにかかる。
ええ、もちろん三人分。
夕飯は会社でオムライスを食べているけど、色々あって、さすがに私もお腹が空いたから一緒に食べちゃおう……。
どうやら、課長も『私の部屋』で一緒に夕飯を取るらしい。
ついでに、おつまみとお酒持参で酒盛りもしちゃうらしい。
あまりと言えばあまりの事の成り行きに脳細胞が付いて行かず、包丁を持った腕だけが律儀に『食材を切り刻む』と言う慣れ親しんだ動作を繰り返す。
そうだった。
美加ちゃんは、この手の事には俄然張り切る『しきりたガール』だった。
「あーずさ先輩っ」
黙々と料理を進めていく私の左隣に、美加ちゃんは、ニコニコ笑顔で顔を覗かせる。
「……何?」
「そんな怖い顔で、怒らないで下さいよぉ」
「怒ってないよ」
「だって、眉間に縦ジワよってますよ?」
ギク、ギクッ。
「……」
うう。だから、飯島さんにも「考えていることがモロに顔に出る」なんて言われるんだわ……。
課長の鉄面皮、少し分けて欲しい。
「いいじゃないですか、今日くらい。傷心の後輩のために、楽しく酒盛りしましょうよ!」
ええ、ええ。分かっていますとも。
ここまで段取り組まれちゃ、今更課長を追い返す事なんかできないし。
この知能犯めっ!
チラリと軽く睨みを聞かしたら、美加ちゃんは悪びれもせずに『エヘヘ』と肩をすくませた。